初代諸戸清六

初代諸戸清六
六華苑展示パネルより

 諸戸家は戦国時代、一向宗門徒として織田信長と戦った丹羽定直に発すると言われています。定直は織田軍との戦闘の際、城中の戸板を集めて敵の矢を防ぎながら縦横無尽の働きをしたため、証意上人より「諸戸」の姓と違鷹羽の定紋を賜りました。これが諸戸家の始まりとされています。

 諸戸家はその後、現在の桑名郡木曽岬町で代々庄屋を営んでいましたが、初代清六(1846〜1906)の父の代に商売に失敗し、江戸末期に土地家屋も手放して桑名へ移住しました。

 初代清六は、母が船場町で船宿と米の兼売をして生計を立てていたのを手伝い、米の商いと廻船業で商才を発揮し、またたく間に父の借金を返済してしまいました。明治維新後は西南の役や米相場で利潤を上げ、県令や新政府高官の知遇を得て大蔵省御用の米買付方にもなりました。

 また一方で田畑、山林を購入、経営し、日本一の山林王と呼ばれました。晩年には桑名の上水道の設置に尽力し、明治37年(1904)に私財をなげうって東海地方で初の上水道を完成させ、市民にも開放しました。

 清六には四男六女の子供がいましたが、長男と三男がともに早世したため、清六が没した後は次男精太が初代の屋敷を継承し、四男精吾が清六の名を襲名しました。通称、屋敷の位置から初代清六邸を西諸戸、二代清六邸を東諸戸(現六華苑)と称しています。