川野政次


広島から新しい平和の祈りを世界へ



広島在住の元会社社長、川野政次さんは、原爆投下五十周年(1995年)を境に自らの被爆体験を講演や即興の演劇と音楽活動を通して若い世代に語り始めた。

1996年、イギリスのエジンバラ音楽祭で『ラブ・ザ・アース・ウィズ・ヒロシマ』と題した演劇で主役を演じた。

川野さんはこれまでに世界中の聖地を訪れている。

その聖地で「広島から来たというだけで握手を求めてくる人が大勢いた。どうしてなのかいつも考えていた。日本とか東京とかよりもヒロシマはとても有名なんです」 と今の活動のきっかけの片鱗を話す。

決め手になったのが、メキシコのユカタン半島の聖地でのヒーリングツアーに参加した時のことである。

広島から来られましたという紹介を受けて、川野さんはその場で感じたことを心に浮かぶまま、メロディーをつけて即興で歌った。

すると数人の女性が泣き始め、一人の若いアメリカ人が、「私の父は今でも日本人は敵だと思っている。私もその影響を受けていた。けれどもヒロシマから来た貴方の元気な姿と魂を揺さぶるような歌声を聞いてとても感動した。私の心を変えてくれたことに感謝します」そう言って抱きついてきたのだという。

戦争に勝った側の人たちが五十年の歳月が流れていても、まだ日本を恨みに思っているのにも驚いたが、原爆の話をいっさいせずに、ただ歌っただけなのに…と思ったときにハッと分かったのだという。

それは、広島や長崎の平和運動が被害者意識を表に出して訴えていたという事実である。

「それだと相手は拒否反応を示すだけで、あなたたちにも非はあるのだという反発があります。原爆を落としたのは貴方たちだと言わなくても、加害者意識をみんなが持っている。今まではそれで良かったかもしれないが、そういうことをいっさい言わなくてもヒロシマという言葉・芸術・歌・踊り、何でも感動して発信すれば、それで感激されて癒されていくということが初めて分かった」

人間の良心や罪悪感を揺り動かすのが、これからの平和運動だというのである。

川野さんの家は爆心地のすぐそば百メートルのところにあった。中学二年のとき二キロ先にある工場で学徒動員で働いていて、パステルカラーの閃光と共に爆風で吹き飛ばされ、体中に百ヶ所以上のガラス片が突き刺さった。

立ったまま死んでいる馬や、ただれた皮膚をぶら下げて歩いている人、水をくださいと叫ぶ声のする中、家族を求めて爆心地を上半身裸、素足でさまよい歩いたという。

「私が広島に生まれ被爆し家族をすべて失ったということは宿命だったと思っています。被爆し血を吐いたにもかかわらずその後、何の症状も出ず、風邪一つひかず健康な身体で元気に生きている人間がいるのだということだけで、人々の心を癒せるということが分かりました。これからはそのことを平和の祈りと共に音楽にのせて、世界に向けて発信していけたら嬉しいと思っています」

とにこやかに語った。

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