磐座みぃ〜つけた新聞
山添村のなべくら渓と岩屋・桝型岩
2003年11月22〜24日/奈良県山辺郡山添村

山添村の長寿磐


山添村の丸石は雑誌ムーで見て想像していたよりもすごく立派ででかかった!

平成七年、奈良県山添村において、ふるさとホール造成中に、地中から巨大な丸石が6〜7個出てきた。大きさは直径7メートル。重さは約600トン。

その当時の村や役場の人たちは誰も古代の祭祀跡であるイワクラに関心がなく、建設の邪魔になるということで写真の一つを残してすべての丸石をダイナマイトで木っ端微塵に爆破した。

では、どうして一つだけ残したのか。というと、この石はあまりに大きすぎたので爆破用のダイナマイトの費用が700万円位かかるため、村の予算をはるかに超えてしまうと言う理由で残されたとのこと。それが、イワクラ研究者の目に止まり大騒ぎになった。

世の中何が幸いするかほんとにわからない。雑誌やテレビに取り上げられると日本全国に知れわたった。邪魔者だった巨大な磐の塊が、「ふるさとホール」の正面に鎮座して村のシンボルとなった。

丸石を観察してみると、表面に真っ白い線が十文字に入っていた。ひょっとしたらこの丸石は人工的に整形された聖なる石でご神体として縄文人たちが祀っていたのではないかということになり、地元の研究者たちや村役場の観光課なども巻き込んで、山添村のイワクラや石神をくまなく捜索してイワクラ研究が始まった。

そのおかげで、2003年11月、「ふるさとホール」でイワクラサミットが開催されることとなった。「ふるさとホール」には400人近い日本中のイワクラファンが押しかけた。ふるさとホールがこんなに超満員になったのは、村始まって以来だと役場の人もびっくりしていた。

日本中に丸石信仰は見られるが、こんな大きな丸石が地中から掘り出されたのはたぶん初めてではないだろうか? もし爆破しないで全部の石が残っていたら、南米のオルメカ文明とも通じる規模だったかも? と関係者たちはとても残念がっていた。そしたらこの小さな村はたちまち有名になって世界中から見学者が押しかけて来たかもしれないのに…。

イワクラサミット in 山添


山添村は空気と水とお茶の美味しい山里。

ところで山添村は今、町村合併問題にゆれているらしい。今回のイワクラサミットを契機にして村おこしができれば合併せずに自立できるかもしれない、と村長さんの力の入った挨拶でサミットは始まった。

その力の入れようはというと、例えば、村役場が遠くからのサミット参加者のために、近鉄奈良駅から無料の送迎バスを二台も用意するほどの熱の入れ方だ。車のないぼくたちにとって、山添村はとても不便な山奥なのだ。

その、近鉄奈良駅前から村が用意してくれた送迎バスに、ぼくたちは乗った。バスは街をを離れるとすぐに山道をぐねぐねと走っていく。窓からは見事な紅葉の景色が流れていく。。絶景! 絶景! その上、真っ青な青空。「奈良はやっぱりまほろば大和の大地」などとわけのわからないことを言いつつはしゃいでいると、イワクラサミットの会場に到着。所要時間約50分。

イワクラサミットの開会式では、壇上に奈良県知事(代理)や地元の議員さん、村長さんがずらっと並んでいた。これをみても行政の熱の入れ方が判るというものだ。

場内は満席で、その上、立ち見の人までいた。日本全国にこんなにイワクラファンというか、イワクラお宅がいるなんてちょっとした驚きだった。遠くは、宮崎県や岩手県、四国からの参加者があったらしい。

挨拶の後は、水野正好氏(奈良大学教授)による「イワクラと神々の考察」という基調講演があり、柳原輝明氏(都市研究家)による神野山天球説。(天空の世界を神野山に再現し、山添村の奇景、鍋倉渓を天の川に見立てて地上に写した)。写真下。

後藤晶男氏(日本暦学会副会長)の巨石と暦。

渡辺豊和氏(京都造形芸術大学教授)の、巨石は中間世霊の宿か?、などの講演があった。

コーディネーターは歴史作家の鈴木旭氏で、今回のサミットを契機に「日本イワクラ学会」を設立しようという提言があった。興味のある方はイワクラ学会事務局・柳原輝明氏(06−6351−0075)に問い合わせてください。

奇勝、なべくら渓


見るだけで圧倒される岩の河

山添村の神奈備山・神野山(標高612メートル)の山頂から黒々とした大きな岩が川のように流れ落ちている鍋倉渓の奇勝には、正直言ってびっくりした。それは溶岩の流れのようにも見えたし、大蛇のようにも見えた。

地元の研究者や柳原氏はこの岩は人工的にカットされているのではないか? と言っていた。そして、この岩の川を天上の天の川に見立てて、冬の大三角形、アルタイル、デネブ、ベガの位置に星座の配置と同じように八畳岩、天狗岩、王塚があると主張している。

星空を、この山添村に写し取ったという壮大なマロンだ。いや、ロマンだ。ほんとにすごく不思議な光景なので、とにかく死ぬまでに、一度は見に行って下さい。

しかし、地元の人の話では山添村には昔から信仰の対象になっている岩があちらこちらにごろごろしているので、星の数ほどある巨石を適当に選べば、どの星座の図形でも描くことができるよ。と、わりと冷ややかな目で今回のサミットを見ているようだった。

それはそれとして、ゆるやかなスロープをえがいた円錐形の山、神野山の山頂からの360度の眺望はすばらしかった。山々が幾重にも連なって、押し寄せてくる波のように見えるのだ。この日は雲ひとつない晴天に恵まれ、おまけに山々の紅葉が見事だった。

その山頂には、直径10メートルほどの王塚と呼ばれる墳丘もある。古墳なのか古代祭祀跡なのか、はたまた経塚なのかわからない。山頂に古墳があるというのはとても珍しいとのことだが、王塚の主は誰なのかは解っていない。

山添村の歴史は、発掘調査によれば12000年前までさかのぼることができるということなので、縄文の頃にはすでにこの地に人びとが暮らしていた。古代の人たちがイワクラに神を祀って食べ物を分け合って助け合いながらのどかな生活をしていたのかと想像するだけでもぼくは楽しくなってきた。

岩屋桝形の岩座(イワクラ)写真


イワクラのひとつの謎が氷解したような気がした

翌日(23日)は朝から山添村ふるさとホールで、日本各地のイワクラ研究グループによる発表があった。

その中でも、特に印象に残ったのは、岐阜県益田郡金山町の「岩屋岩陰遺跡巨石群と太陽観測」という研究発表をした徳田紫穂さんという若い女性の研究内容だった。

山添村には宿泊施設がないということもあって、前日にほとんどの人が帰ってしまい、このすばらしい研究発表を聞いたのは70人もいなかったのが残念。

この金山巨石群と太陽観測のすごい研究内容はとてもここでは書けないので、詳しくは彼女らのホームページhttp://www.town.kanayama.gifu.jp/kyosekiを観てください。または「金山巨石群と太陽観測」で検索すればその全貌が解って腰を抜かすことでしょう。

彼女らの研究内容によれば、古代人は岩を組んで、そこに夏至や冬至、秋分、春分などの光が差し込む状況を観測して正確な暦を作っていた。ということになる。古代人の叡智には脱帽だ!。

ひとつの磐座で太陽観測ができる年数は、2500年間。どうしてかというと、地球のサイ差運動のために太陽の高度がずれるからだそうだ。2500年に一度、修正もしくは別の磐座を探さないといけないらしい。そこまで縄文人が知っていたなんてほんとにすごい。

ぼくは長年のイワクラのひとつの謎が氷解したような気がして心から感動した。きっと、三輪山山頂の太陽の道線上のイワクラ群も春分・秋分の太陽を観測していたに違いない。

ところで、上の二枚の写真の巨石は、山添村の村人が昔から信仰していたイワクラのひとつ「牛ヶ峰の岩屋桝型」岩。高さは12メートルほど。

本来この岩は一つだったものが二つに割れたとのこと。割れて転がり落ちたのが右の写真で、ちょうど洞窟のようになっていた。意図して割ったのか、それとも自然に割れたのかはわからない。が意図したかのようにうまい具合に出入り口が出来てしまっている。

中世には岩屋寺として祀られていて、弘法大師が大日如来を刻み、そのノミとツチを上の石の桝形の中に収めたと伝わっている。

下に転がり落ちた岩石の中は岩窟になっていて護摩壇が作られ善龍寺の僧が修行した跡が残っていた。

ぼくたちイワクラみぃ〜つけ探検隊としては、今回のイワクラサミットに出席して山添村はイワクラの宝庫だということがよく解った。他にも、岩の上部が三角錐方にくぼんだ「すずり石」という伝説の岩にも案内してもらった。くぼみには水がたまっていて減ることも枯れることもないとされている。この水はなめると塩辛いところからこの土地に大塩と言う名前がついたらしい。

地元の人の話では山添村周辺にはまだまだもっとすごいイワクラがたくさんあるとのことだ。時間を見つけてまた探検にこなくては!

それと、イワクラに魅せられた人々の多いことにも気がついて同好の志と知り合えて楽しいサミットでした。ということで報告を終わります。





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