『溶けたアイス』
「あなたが、この子にとって一番近しい家族なのよ」
彼女は、わざとらしく「家族」という言い方でその事実を示した。
ボッシュはその言葉にあからさまに顔をしかめてやったが、相手には通じなかったようだ。
(厚塗り化粧のせいだな)と、叩いたらひびが入りそうな相手の顔を眺め、ボッシュはあからさまに嘆息する。
ざわつく喫茶店の中、目の前に置かれたアイスをぼんやりと見つめる小さな少女。
確か、まだ幼稚園に通う年頃だったはずだ。ニーナと名づけられた彼女は、用意されたアイスに一口も口をつけず、ただ溶けるに任せている。
「ニーナにとっても、それが一番いいはずだわ」
「……」
――今、話題の中心とされているはずの彼女。
けれどもニーナは一度たりとも口をはさまず、ぼんやりとアイスを見つめている。
まるで、食べるためではなく、溶けていくのを見守るためだけに注文したかのように。
「だから、この子を引き取ってちょうだい。養育費に関しては、まあ相談に乗らないでもないから」
「……」
手前勝手な言葉に、返事をする気にもなれず、ボッシュは彼の姪にあたる少女を見つめた。
「戸籍の手続きは、わかるわよね? じゃあ、後でニーナの荷物をあなたのマンションに送るから」
「………」
目の前に置かれたアイスココア。それを一気に啜ってから、ボッシュはそこで初めて口を開いた。
「…お前は。それでいいわけ?」
問いかけは、向かいに座る親戚の女性にではなく、斜め前に座る少女に向けて。
これから引き取って、育てなくてはならない対象に対して。
(鬱陶しいことこの上ねえけど…)
それでも、これ以上話が長引くのも面倒だ。
ボッシュは、いっそ適当な言い訳をつけて後で突っ返してやろうかとも思いつつ、少女の答を待った。
ニーナは何も答えず、ただ、そのガラス玉のような目をボッシュに向けた。…そして、また俯く。
(………)
否定の言葉は、ない。
「無理言わないでちょうだい。…この子はね、ずっと口をきいてないのよ。さっき話したでしょう?」
「……」
それでも、否定か肯定かくらい、出来ないものか?
ボッシュは苛々とまたため息を吐き出し。
「無理そうだったら、速攻突っ返すんで。連絡先、置いてってください」
「………」
これ以上ないというくらい人でなしなセリフを吐いて、ニーナの前のアイスを取り上げた。
「食わないんだったら、もらうぞ」
「……」
その言葉に、彼女は初めて、こくりと僅かに頷いたのだった。
* * * * *
ボッシュとは、五つ離れた姉。
彼女が、連れ合いと共に交通事故で亡くなったのはつい一ヶ月前のことだ。
普段忙しい義兄が、珍しく家族サービスにと出かけた際の事故だったらしい。トラックの玉突き事故に巻き込まれて、姉と義兄は即死。
しかし、後部座席の一人娘は、奇跡的にほぼ無傷で助かった。
(幸か不幸かは、ともかくとしてな)
ボッシュは先ほどから一言も口をきかない。…否、口をきけない娘に「しっかりシートベルト締めとけよ」とぶっきらぼうに声をかけて、ドアを閉めた。向かう先は、彼のマンションだ。
両親を目の前で喪ったことと、事故のショックのせいだろうか。
今、ボッシュの横でガラス玉のように無感動な眼差しを前に向ける娘は、一月前の事故からこっち、一言も口をきけなくなった。
辛うじて発することが出来るのは、うめき声にも似た意味を持たない声ばかり。
どちらかというと元々おとなしい娘だったそうだが、事故以降はそれ以上におとなしくなってしまった。
伝える言葉がないというよりも、伝えたい言葉そのものをなくしてしまっているのかもしれないと担当した医師は話したという。
確か年は四歳だったように記憶している。
『ニーナというのよ。ほら、とても可愛い子でしょう?』
億劫そうに様子を見に来た弟へ向かって、姉は腕に抱いた我が子を嬉しそうに差し出した。
抱いてみてと言われたが、いかにも面倒そうなので断った。
そのときの、かわいいでしょうと慈しむように響いた言葉が。…今でも耳の奥に残っているようで。
(知るかよ)
ボッシュは小さく舌打ちする。
あのとき可愛いでしょうと自慢された赤ん坊は、少しだけ大きくなって、今ボッシュの隣に座っている。
何も映していないような瞳を前に向けて、ただぼんやりと座っている。
(……。…そんなに可愛い可愛いって騒ぐんだったら、置いてくんじゃねえよ)
姉も義兄も、もうこの世にはいない。そして更に面倒なことに、姉とボッシュの父母もとっくにこの世にいない。
あの厚化粧の親戚が言う通り、確かにこの娘にとって最も近しい親族はボッシュだけなのだ。
「着いたぞ。降りろ」
キキイと停まった車体。その感触に、ニーナは少しだけ嫌そうな顔になる。
(……ああ)
ボッシュは改めて、この姪が自動車事故にあったばかりだということを思い出した。
「とっとと慣れろ。幼稚園に行くのだって、バスだぜ」
気遣いで言葉を選ぶのも馬鹿馬鹿しい。
ボッシュは容赦なく車のドアを開けて出るように促すと、そのまま手もひかずに「ついてきな」と歩き始めた。
暫し迷うような気配の後、ぱたぱたと軽い足音がボッシュの後をついてくる。
その足音を聞くでもなく聞きながら、ボッシュは親戚が手配した幼稚園は、何処だろうかとぼんやり考える。
彼にだって仕事がある。一体いつまで姪を預かっていなくてはいけないのか不明だが、そう四六時中家にいるわけにいかない。勿論、幼稚園でも保育園にでも…彼女を預けなくてはいけないのだ。その点、親戚の手配は恐ろしく迅速だった。やはり最初からボッシュに押し付けるつもりだったのだろう。
ぱたぱたという軽い足音が、ボッシュのすぐ後ろで止まった。ボッシュは振り向きもしないまま、エレベーターを待つ。
ニーナは、ボッシュにそれほど近づくわけでもなく、しかし離れるわけでもない半端な位置で同じくエレベーターを待っているようだ。
たとえ幼い思考でも、ボッシュがこれから彼女を保護する相手だということは分かっているのだろう。そして、彼が今まで自分を守ってくれた両親のように、優しく包み込むように接してくれるタイプではないことも分かったはずだ。
チン、と音を立ててエレベーターが到着した。中に乗っているのは一人。青みがかった黒髪を頭の上で一括りにした若者だ。
彼は愛想よく「こんにちは」とボッシュに声をかけ、彼が連れていると思しきニーナにもにこりと笑顔を向けた。
しかし、ボッシュは、入れ違いに出て行く彼を無視する形でエレベーターに乗り込み、それを追いかけるようにエレベーターに乗ったニーナも特に無反応だ。青年はちょっと困ったように視線をさまよわせたが、特に何も言わずにそのままマンションを出て行った。
(明日は月曜か)
エレベーターはまもなく指定された六階へ到着し、ボッシュは扉を開けて姪を中に入るよう促した。
「とりあえず、この部屋が空きだから。寝るのはここな。夕飯は七時過ぎ。時間になったら…って時間の見方がまだわかんねえか?」
パチンと電気をつける。ソファベッドと机があるだけの、そっけない部屋。
コトリと小さな電子時計を置きながらニーナを見ると、彼女は少し困ったように顔をしかめ「う」と置かれた時計を指でなぞった。
「……じゃあ腹減ったら聞きに来い。平日は基本的に、俺が帰ったら飯な。先食えってときは、最初に用意して言っとくから」
ボッシュは嘆息して、その他部屋に置かれたものの簡単な説明をする。姪は相変わらず、分かったような分からないような顔をしてぼんやりしている。
「…。じゃ、ここで少し休んでろ」
これ以上話すこともなく、ボッシュは結局肩をすくめてそう言うしかなかった。
ばたりと扉を閉める寸前すら、ニーナはぼんやりと宙を見つめているだけだった。
(……。…いっそ一緒につれてっちまえば良かったのに)
たとえ非人道的だと罵られようが、その方が良かったのではないかとあの娘を見ているとつくづくそう思う。
何しろ、よりによって自分に預けられたのだから。
しゅると緩めたネクタイをリビングのテーブルに放り投げ、窮屈な上着を脱ぎ捨ててボッシュはまた嘆息した。
「…あー。マジめんどくせえ…」
留守電がちかちかと点滅してメッセージのあることを知らせていたが、それを確認する気にもなれずにボッシュは眉間を指先で押さえる。多分、同僚の女だろう。最近うるさく言い寄ってくる彼女に、ボッシュは正直辟易していた。
(……ああ。そういう意味ではいい防波堤になるかもな)
――突然ですが、娘が出来てしまったので暫く女遊びはできません。
ボッシュは思わず口元に皮肉げな笑みを浮かべ、似合わねえ、と低く呻く。
『ニーナというのよ。ほら、とても可愛い子でしょう?』
…それでもとっとと施設に預けてしまえばいいと言い出さなかったのは。
脳裏でちらちらと、まるでニーナを守るためにすりこみをしているような。
そんな誰かの意図すら感じるような姉の笑顔が、何度もちらつくからだ。
可愛い子でしょう、と嬉しそうに言う姉の笑顔。抱っこしてみて、とやわらかそうな赤子の指を差し伸べて微笑む彼女。
(…ここで放り出したら、祟られそうだよな)
疲れた頭でそんなことを考えながら、ぐったりと目を閉じる。
まだ陽は大分高いが、ここで今昼寝をしてはいけないという理由はない。
ボッシュは身体の欲求が望むままに目を閉じて、そのまま寝息を立て始めた。
そして奥の部屋では、彼の姪が一人、ただぼんやりと窓を見ていた。
いっぱいいっぱいで一話更新。残り頑張ります…!! ていうか長すぎる予感だこれ。