『幼稚園に行くから遅刻します』
「…ああ。すみません、今日ちょっと遅れてきます。…ハ? ああ。いや。ちょっと急に幼稚園に行かなくちゃいけなくなったんで。11時には出社します。…じゃ」
何で幼稚園に、とわめく電話の向こう側に構わず、ボッシュはプチと電話を切った。
目の前では、もそもそとトーストを齧る姪がいる。
「こぼしてんぞ」
「……」
掃除が面倒になる、と片眉をあげれば、姪は困ったように眉を寄せた。
そう言うボッシュも、さほど丁寧な食べ方では決してない。目前の姪と同じく、ぽろぽろとパンくずを落としながら食べる姿は他人を指摘できるものではないだろう。
「今日から幼稚園に通ってもらうからな。夕方には迎えに行くから。おとなしくしてろよ」
食事が終わったら、次は着替えだ。
昨晩、幼い彼女の入浴に付き合った彼だったが、その際まさか着替えも手伝わなくてはいけないのか、とボッシュは暗澹たる気持になった。だが、どうやら姉の躾が良かったらしく、ニーナは彼が手伝うこともなく一人で着替えができた。
今朝も彼女は黙々と着替えを始める。こういうところは手がかからなくていい、とボッシュは安堵した。
それにひそかに胸をなでおろしつつ、リュウはニーナをつれて駐車場に向かった。つれて、と言っても相変わらず手をつなぐでも、後ろを振り返って様子を確かめるでもない。
スタスタといつも通りに歩き、ニーナが懸命に後をついてくる。そんな構図だ。
ちち、とどこかで小鳥が鳴いた。その鳴き声にちょっと顔を上げるニーナに「早く乗れよ」と声をかけながら、ボッシュはドアを開ける。…ボッシュにとっては幸いなことに、幼稚園は彼の勤め先に向かう道の途中にあった。
もぞもぞと乗り込むニーナの小さな掌が、よいしょとドアを閉める。そのままたどたどしい手つきでシートベルトを装着した。
少しだけ顔はこわばっていたが、それでも泣き出したりはしない。ボッシュはそれに安堵しながら(朝から車内で泣き出されてはたまらない)自動車を発進させた。
小さな姪の私物は、今日の夜には宅急便で届くということだ。手持ち無沙汰にしている指先は、この年頃の幼子らしくぬいぐるみでも探しているのだろうか。
彼女を不幸だと殊更に思うわけではなかったが、それでも哀れではあると思う。
唐突に両親を奪われ、冷たい親戚にたらいまわしにされ、一番血縁が近くはあるものの一番情の薄そうな叔父に引き取られる。
(やっぱ不幸か)
ボッシュは先ほど思ったことを即座に否定し、緩くハンドルを切った。
赤信号になったとき、ちらりとニーナの顔を見てみたが、彼女は相変わらずガラス玉みたいな目つきでフロントガラスを見つめていた。
* * * * *
「ああ、はい、ニーナちゃんですね。お話は伺ってます」
出迎えた園長は、物分りの良さそうな顔で二人を出迎えた。
ニーナちゃんにはもも組に入ってもらいますね、と彼女は二人をクラスに案内する。
姪は黙ったまま、叔父も形ばかりの愛想を示すことなく、園長の後に続いて歩く。
教室のある棟に近づくにつれて、子どもたちの声が大きくなっていくのが分かった。元来子どもが得意ではないボッシュは、それだけで少し嫌な顔になる。
しかし園長はそれに気づいた様子はなく「もも組の先生は、お父さまと同じくらいの先生なのだけども、とても優しい先生で子どもたちに好かれてるんですよ」と二人に微笑みかけた。
(……オトウサマ)
ボッシュはその単語を胸中で苦く反芻する。
(…話を聞いてたんじゃなかったのか?)
そう思って少しうんざりしたが、伝わっていなかったものは仕方がない。
同じ金髪のニーナとボッシュが並んで幼稚園まで行けば、それは確かに「オトウサマ」と「ムスメサン」の組み合わせだと思わざるを得ないだろう。
「はーい、みんなー。紙芝居が始まるよ〜」
そんな埒もないことをつらつらと考えているうちにも、騒がしくも甲高い子どもたちの声はどんどん近づいてくるし、その中でよく響いている「優しい先生」とやらの声もはっきり聞こえてくるようになる。
どうやらこれから紙芝居が始まるらしいが、しかし相変わらず園児たちはひどくざわついた様子で、静かになる気配がない。先生とやらは少し困ったように黙ってから、やがて「はじまるよ、はじまるよ」とパンパン手拍子をとりながら歌いだした。
「いーちといちで、にはにんじゃ、ピュー♪」
ボッシュからすると全くもって意味の分からない歌と、指の動きで園児の注意をひきつけているらしい。開いた扉から、歌っているらしい先生の指がちらりと見える。
ニーナが少し興味をひかれたように、ぱちりと瞬きした。柔らかな声が紡ぐ歌は、奇妙に優しい。
「さーんとさんで、ねこのひげ、ニャーン」
見ている方が恥ずかしくなるような先生の歌は、どうやらまだ続くらしい。園長は「まあどうしようかしら」といった顔で、先生に声をかけるかどうか迷っている様子だ。
いいからとっとと声かけて、俺を仕事に行かせてくれよとひそかに渋面になりつつも、彼はそっと中の様子を伺ってみる。中ではなにやら面白いことを始めた先生に興味をひかれた園児たちが、手を止めて中心の若者を見つめていた。
(催眠術みたいだな)
これもまた、一種の話術なのだろう。そんなことを思いつつ、ボッシュは「よんとよんで、うさぎさん、ぴょんっ」と両手をそれぞれ四本ずつ揃えて、頭に「うさぎさん」の耳をこしらえた姿を確認する。
そして(あ)と思わず胸中で声をあげた。
「ごーとごーで、手はおひざ。……さあ、みんな。今日はぐりとぐらの紙芝居を見るよ。知ってる人はいるかな?」
ことんと置かれた紙芝居のセット。それを指し示しながら、にこにこと笑って園児の相手をしている「ボッシュと同じ年頃の、優しい先生」は。
(昨日すれ違ったヤツじゃんか)
同じマンションのエレベーターですれ違った、青みがかった黒髪の男だったのだ。
「…すみません、紙芝居が終わるまで待ってもらってしまって」
結局、二人が彼と話せたのは、紙芝居が終わった後だった。
確かにまだ若いが、一クラスを任されるだけあって経験はそれなりに豊富らしい。昨日久しぶりに会った言葉をなくした姪ですら夢中になって眺めるような、そんな紙芝居の進め方だったのだから。
「はじめまして、ニーナちゃん。おれ、リュウっていうんだ。よろしくね」
彼はボッシュとニーナを見やって、やはり「あ」という顔になった。しかし、まずは挨拶優先というようにボッシュに頭を下げ、ニーナの目線と自分の目線を合わせるようにして屈み、にこりと笑う。
ニーナは困ったように唇を開けたり閉じたりして、結局俯いてしまった。しかしリュウと名乗った保父は、それを特に責めることはなく「…ゆっくりいこうね」と囁いて、ぽんぽんとニーナの金髪を撫でる。
「じゃあ、ニーナちゃんはお預かりしますので。6時に迎えにきてください」
「…ああ。よろしく」
リュウはそのまま、人見知りの姪の掌をすんなり握った。姪も特に抵抗するでなく、保父の手を握っている。
うまいもんだなと思いつつ(どうせならアンタ、そのままニーナを引き取ってくれないかい)ボッシュはそのまま教室を出て行く。
今朝会社に指定した11時まで、もう間がない。急がないとなと時計に目を落としたところで、ふと視界の端に教室へ残ったはずの保父が映った。
「…あ、あの。…差し出がましいことを言うようなんですが。…ニーナちゃんに、何も言ってあげないんですか?」
彼は教室をしきりと気にしながらも、全くもって差し出がましいことを口にする。
「……ハア。言うって何を?」
ボッシュは肩をすくめて聞き返した。時間が勿体無いと考えながらも、真っ直ぐな目で、お綺麗な主張をしようとする同年代の人物に対し、苛立ちを隠せなかった。
「何をって…。いってくるよ、とか。いい子で待ってるんだよ、とか…。何でもいいんです。何か、話しかけたりするだけで、変わってくるものがあると思うんです。…なのに、あんなそっけなく…」
昨日もそうじゃありませんでしたか、とリュウは少しだけ躊躇ってから続けた。
幼い子どもの手も引かず、口もきかず、エレベーターに乗り込んだ男。その姿は、幼稚園に勤務する彼にとって、いかほどの衝撃を与えたものか。
「そんなこと言われてもね。俺も、昨日預かったばっかなんで。わかんないんですよ」
ボッシュは口元に皮肉な笑みを浮かべながら、小馬鹿にするように肩をすくめる。
…アンタに何が分かるよ。関係ないヤツが、口突っ込むな。
そんな言葉を、ありありと浮かべた表情で。
「……。…そう…、ですか…」
リュウは困ったように俯いてから「お呼びとめして、すみません」と更に低く頭を下げる。
そしてぱっと顔を上げて、先ほど歌っていたときの明るく暢気な表情に戻ると。意外なほど優しく、にこりとボッシュに笑いかける。
「じゃあ、きっとこれからたくさん仲良しになりますよ! 大丈夫です。そんな不安にならなくても、ニーナちゃんはきっと、ボッシュさんに心を開いてくれますよ!」
「…………。……ハア?」
言われたボッシュは、正直言っている意味が分からずに素っ頓狂な声をあげる。しかしリュウは「じゃあ、お仕事頑張ってきてくださいねー!」とぶんがぶんが大きく手を振り、ぱたぱた中へと戻って行ってしまった。何分も教室を離れていたから、中が不安になったのだろう。
残されたボッシュは走り去っていった「リュウ先生」に戸惑いを隠せずにいた。
「………。なんだ、あれ」
…あの人種は、違う。
絶対、自分とは違う人種だ。
彼は呆然と首を振りながら、駐車場に向かい、車のエンジンをかける。
「あー…」
それから、がこんとハンドルに額を押し当てた。
「……6時にまたあいつに会うの。…すっげえイヤなんだけど」
そう呟いた瞬間も、腕時計は確かに時を刻んでいる。
ボッシュはまたため息を一つ落として、アクセルを踏んだのだった。
短い短い。ていうかニャーンはなかったですねニャーンは。
でも本当にこういう歌があるんですよ…。いまいちうまく再現できない我が筆の拙さに涙。