『また明日』




 …夕飯は、コンビニで買ってきた弁当を一つと、おかずとご飯。
 ニーナはもくもくとそれを口に運び、時々口をもごもごさせながら懸命に飲み込む。
 ボッシュはそれを眺めるでもなく、自分の弁当をがさがさと開いた。
(…)
 言われた通り6時に迎えに行くと、当たり前だが。…リュウ先生が、笑顔で出迎えてくれた。
 またね、と手を振るリュウに少し困ったような顔をして、それでも僅かに手を振り返す姪。その姿に少しばかり驚きながら、彼女を連れてマンションに帰る。
 どうも、とだけ声をかけて、すたすたと歩き去るボッシュに、リュウはまた何か言いたげな顔になった。しかし、彼は結局何も口にせず「また明日」とだけボッシュに笑いかけた。
「……」
 随分とおせっかいで、面倒な人種がいたものだとボッシュはぼんやり眉をしかめる。
『何か、話しかけたりするだけで、変わってくるものがあると思うんです』
 なにやらひどく必死になって、そう言っていたリュウ。
 彼は、どの園児にもいちいちあんな風に入れ込んでいるのだろうか? あるいは、よっぽどこの叔父と姪の組み合わせに危惧を覚えたのか。
(いや、もしかしたら。…アレか。…もしかして、あいつもお父様と、娘さんだと思ってるのかもな。…うわ何かうぜえ…)
 ボッシュはますますうんざりとため息をつく。その音が気にかかったのか、正面で小さな茶碗を抱えていたニーナが、きょとんと顔を上げた。
 その口の端にご飯粒が幾つもついているのを見て、ボッシュは「口元」と呟く。
「ご飯粒、すげーついてる」
「……ぅ」
 ニーナはその声に、ぺたと小さな掌で右頬を触る。
「…違う。逆。そう、そっち。…ああ、とれたつうか。…つぶした」
 ぺちゃ、と頬に触れた左手。とれたというか、潰れたというか。
(……ガキって何で、こう…)
 どんくさいというか、何というか。ボッシュはうんざりしながら席を立ち、ふきんを軽く湿らせて「動くなよ」と声をかけると、おとなしくしているニーナの口元をぐいぐいと拭った。
「…ぅうー」
「…いや。手は、自分で洗ってこい」
 ついでとばかりに手を差し出した彼女に、ボッシュは嘆息した。ニーナはこく、と頷くと、よじよじと彼女にとっては高過ぎる椅子から降りると、ぱたぱた洗面所まで走っていった。
「……。子ども用の椅子とかって、いくらするんだっけな…」
 その背中を何となく見送って、デザインが気に入って購入した少し高めの椅子を眺める。
 ボッシュの腰までもないニーナの背丈からすると、この椅子では凄まじく高いだろう。
 彼は今度こそ苛々と舌打ちし、疲れた吐息をつく。洗面所には既に踏み台を用意しておいた。
 当たり前の話だが、このマンションはどれもボッシュの背丈に合わせてカスタマイズされている。そして、まだ4歳の子どもがそこで滞りなく暮らすには、大変面倒な努力が必要なのだ。
(……。…突っ返したい)
 ボッシュは今すぐニーナを梱包し(注:ナマモノ在中)どこか遠くの幸せな家庭に送りつけたい衝動に駆られた。
 それでもまだ救いなのは、ニーナが4歳ながらも物分りのいい(口数はどうしようもなく少なかろうとも)子どもだったということだろうか。
 やがて、ニーナがてくてくと戻ってくる。そして、感情の読みづらい瞳を瞬かせ、また椅子によじ登り始めた。
 ボッシュはそれを手伝うでもなく何となく眺め、彼女が奮闘してどうにか席に戻ったのを確認する。
「……。…飯、食い終わったら、テーブル叩け。椅子から下ろしてやるから」
 そこで彼はようやくそう提案すると、つられて中断してしまっていた食事を再開した。
 正面でニーナが目をぱちくりさせているのに、どんな表情を浮かべればいいのか、一瞬困惑する。

『そんな不安にならなくても、ニーナちゃんはきっと、ボッシュさんに心を開いてくれますよ!』

 その脳裏に、またも蘇ったリュウの明るい声。
(心を開く。…つーか)
 彼は軽く眉をしかめて、その声に耳を傾けながら。
(開いてもらって、どうするわけよ。俺は)
 どうしようもないような、根本的な疑問を胸中で呟いていたのだった。


*     *     *     *      *

「あっ、ボッシュさんニーナちゃんー! おはようございまーす」
「…」
「……ぁー」
 翌日。
 ボッシュは何とも嫌そうな顔で、ニーナは少し嬉しそうな顔で、朝から元気な挨拶に振り返る。
 ぱたぱたとわざわざ小走りになって出てくる彼は、この後ニーナを連れて行く先のもも組の先生だ。
「…どーも」
「あー。…うー」
「えへへ、よかった。…追いつきましたー」
 渋々足を止めるボッシュに追いつき、リュウは幸せそうににこっと笑った。
 何がそんなに嬉しいのか。この男は、一昨日から随分と笑顔を大安売りをしている。ボッシュは顔をしかめて、ニーナはぱたぱたと近寄ってきたリュウを見上げている。
「どうしたんですか? 今日は、大分二人ともお早いですねー」
「……自動車が使えなくなったんで。ついでにコンビニに寄ってから行くんです」
「自動車が?」
 ニーナを真ん中に、右はリュウ、左はボッシュ。
 冷たい空気に、ニーナは何度も白い息を吐き出した。小さな掌が、少し赤くなっている。リュウはそれを気遣わしげに見つめながら、ボッシュの答を待った。
「昨日。帰る途中で、ニーナが吐いたんです。やっぱ、車がどうにも駄目みたいで」
「えっ…」
 車酔いか、と首を傾げたリュウに、ボッシュは肩をすくめる。
「事故ったばかりなんですよ。コイツ。挙句、それで両親とも死んじまったもんだから」
 その言葉に、リュウは顔をこわばらせ、またニーナを心配そうに見下ろした。
 彼女は叔父が言っている言葉など理解できていないように、てくてくと無表情に歩いている。その唇から、また白い息が漏れた。
「…ボッシュさん、…そんな。……この子の前で、わざわざ説明…しなくても…」
 眉を寄せて、哀しげに呟くリュウに、ボッシュは今度こそ皮肉げに笑ってやった。そのまま苛立ちと共に吐き出したセリフは、勢い乱雑なものになる。
「…ハ? そもそもアンタが聞いたんだろ。それに、何処で言ったって事実は変わらないし」
「それにしたって…!」
 リュウはボッシュの口調よりもニーナの様子が何より気にかかるらしく、困惑した表情でボッシュを見つめた。
 ニーナは、相変わらず何も気づかない様子でてくてく歩いている。掌がひどく冷たいようで、こしこしと両手を擦り合わせている。
「……」
 やがてリュウは、ぺた、と頭の上の一括りにした髪の毛と一緒に俯いてしまった。
「…すみません。おれが口挟むような、ことじゃないのに」
 その素直な反応に、ボッシュはちょっと目を見張った。昨日と同様に、長々と追及してくるかと思ったのだが。
 何となく、そのまま会話が途絶えそうになる。今更だな、と思って、それをそのまま口に出しそうになってから、止める。
 それ以上言ったら、今にも泣き出しそうに見えたのだ。ボッシュとそう年の変わらない、いい大人が。…今にも、泣きそうに。
 髪の毛と同様、僅かに青を含んだ黒目が僅かに揺れる。一昨日から暢気な笑顔ばかり見ていたせいか、そんな表情をするとリュウはひどく端整な顔立ちの若者に見えた。
(つうか…。何で俺、こいつが泣きそうだからって遠慮するわけ)
 今更のようにそんな思いが浮かび上がってきたが、いったん飲み込んだものを吐き出すのも面倒くさい。
 ボッシュは気まずく目をそらして、朝から微妙な空気になってしまった雰囲気にうんざりする。
(大体、ひとんちの事情聞いていちいち泣きそうになるかよ…。思春期の小娘じゃあるまいし)
 早くコンビニに着かないだろうかと考えながら、彼は再度リュウの様子をうかがってみた。
 ニーナを挟んで右隣にいる先生は、気がつけばまたニーナの掌を見つめている。その表情は、既に普通に戻っていた。
 それに少し安堵しながら、どうしてこんなにこの男に振り回されなくてはいけないのか、とボッシュは憮然とした。苛々と吐き出したため息は、ひどく白い。鞄を持つためにポケットから出されている右掌も、ひどく冷たかった。
「手、つなごうか」
 ……そこへ唐突に落とされた言葉は、ひどく意外で、けれどもどこかで予想された言葉だった。
 突然話しかけられたニーナはきょとんとリュウを見上げ、差し出された掌を眺めている。
「…うん。手が随分冷たそうだったから、ね。そういうときは、誰かと手をつないで歩くといいんだよ。あったかいから」
 姪の小さな掌を、リュウの掌がすんなりと握る。きゅ、と握ったその感触に、ニーナは戸惑った顔でリュウを見上げた。
 リュウはそれに、笑いかける。にこりと、安堵させるように。
「こうしてるとあったかいよ」
 彼は姪の右隣でそう言ったかと思うと、それをどうでもよさそうに眺めていたボッシュに向かっても「ね」などと言うのだ。
「何で俺まで…」
 真ん中に入った状態の姪も、困惑した様子で叔父を眺める。たとえ手が冷たかろうとも、寒かろうとも、手を繋ぐことなど、お互い考えもしなかったのだ。
 しかしリュウは「仲良しな感じでいいじゃないですか」と、ニーナの掌とボッシュの掌をひょいとつかまえて、二人つながせる。生暖かな感触が、何とも奇妙でならない。
 恐々握る姪の掌を、それ以上拒むのも大人げないようで、ボッシュはそのまま手をつないだままでいることにした。何が楽しいのか、リュウは右の方で嬉しそうに笑っている。
「ね。暖かいでしょう?」
 その言葉で、ボッシュはやっと寒さを思い出した。吐き出す息は相変わらず白い。
 けれども、繋がれた掌は依然として生暖かくて。
「…寒くないことは、確かだな」
 仕方なくそう答えると、リュウはなおいっそう破顔した。
(さっきまで、泣きそうな顔してたくせに)
 馬鹿じゃないのかこいつ、とボッシュはぼんやり考え、その馬鹿に振り回されている自分もいい面の皮ではないかと溜め息をついた。
 コンビニまでは、もう十数メートル。
 そして、幼稚園までは、もう数百メートル。
 …不思議そうに大人二人を見上げる姪の眼差しが、今更のように姉のものと同じ色だと思って。
 その横で、楽しげににこにこしているリュウの目が、ひどく深い海と似た色をしていると思った。

                    









ボッシュの子育て奮闘記。…ていうか依然として話が終わらなくて、ごめんなさい…。
全部で六話くらいの予定です。ハイ、まだ「くらい」って感じです。(殴ろう)