『いつも笑ってる』




 ―――そいつは何が楽しいのか、いつもにこにこ笑っている。
 園児と話すときも、姪と話すときも、ボッシュと話すときも。
 それは幸せそうににこにこ笑っているもんだから、時たま頭が足りないんじゃないかともボッシュは思う。
 少なくとも、彼とは大分異なった倫理感を持っているのは間違いないようだ。

「おはようございますー!」
 今日もまた、二人は足を止めてマンションを振り返る。中から息を切らせてぱたぱた走ってくるのは、相変わらず笑顔全開のリュウだ。はあはあと苦しそうに息をついて、真っ赤になった顔をくしゃっとほころばせて「追いつきました!」と嬉しげに言う。
「何でそんな、朝から全力なんだよ…」
「…ぅー」
 ボッシュは呆れて果てて嘆息し、ニーナは心配そうにぽふぽふとリュウの腕に触れる。
「うん…平気だよ。大丈夫。ありがとね、ニーナちゃん」
 リュウはまたそこで、にこと笑う。
 ボッシュは「どっかのネジ外れてんじゃねえの。コイツ」とぼんやりそれを見下ろしていた。そんなボッシュを、リュウは息を切らせながら見上げ、また笑顔を見せる。
「…それからね。全力なのは、おれがボッシュとニーナちゃんに追いつきたかったからだよ」
 どうせなら、一緒に行きたいじゃないですか。
 そう言って、またにこにこするリュウに、ニーナもちょっと笑う。
 …リュウがこんな風に関わるようになってから、姪も少しずつ笑うようになってきた。まあ、それなりにいいことなのではないかとボッシュは思う。
 ボッシュとリュウ。恐らくお互い似たような年齢だろうとは思っていたのだろうが、年を聞いてみると本気で同い年だった。
 じゃあ、どこかで同じ時期、同じ電車に乗って学校に行ってたかもしれないんだねと嬉しそうに言ったリュウのセリフからして、既にタメ口になっていた。
 ボッシュもリュウに対しては、既に敬語を使って態度を取り繕うことは諦めていたので、二人は必然的に敬語ナシの付き合いになる。
 一見ひどく仲が良さそうな二人を眺めて、園長がまた嬉しげな顔になった。
(…つうか…。別にお友達ってわけじゃねえんだけど)
 確かに、今日も三人で手をつないで幼稚園まで行くその光景は、仲のいい親子にも似た光景である。少々、その関係がどういったものなのか、戸惑うところではあるだろうが。
 二人と一人の分岐点は、いつも途中のコンビニ。ボッシュはそこで昼ご飯を買っていくのだ。
 それじゃあいったんばいばい、とリュウは手を振って、幼稚園まで歩いていく。その背中を見送るニーナをつれて、弁当を選んで購入する。最初はこんなコンビニのものなど、と思っていたボッシュだったが、とてもじゃないが朝は弁当を作る余裕などなく、帰宅した後も自炊する気力がない。結局夕飯はいつも出来合いの惣菜か、またコンビニに頼ることになる。
(こういう食生活って、ガキにはよくないんだろうけど)
 どうにも仕方ないだろうと、ボッシュは今日もコンビニ弁当を買う。少なくともニーナの昼だけは幼稚園で給食として配膳されるので、彼女だけは辛うじて全食コンビニ生活を免れているのだが。


「じゃ、今日も頼むわ」
「うー」
「はーい。じゃ、ニーナちゃん、ボッシュにいってらっしゃーいって手を振ろうか。ほら」
「…ぅーう」
「……」
「…ボッシュ。いってきますって」
「……。…いってきます」
「いってらっしゃーい」
「うーぅー」
 ボッシュは何となく疲れた表情で、二人に見送られるようにして幼稚園を出た。
「あら、ボッシュさん。おはようございます」
 そこをちょうど園長とすれ違い、ボッシュは「おはようございます」と軽く頭を下げる。
「…最近、本当にリュウ先生と仲がいいみたいですね。今朝もご一緒にこられたとか?」
「あー。ハア。同じマンションなんで」
 仲がいいというか、何というか。ボッシュは何とも言いがたい気持で眉を寄せたが、園長は気にした様子もなく微笑んで、嬉しそうに「本当にいいことだわ」と呟く。
 そしてふと、園内で走る子どもを見ているのか、眼差しをひどく遠くにやりながら「仲良くして、あげてくださいね」と続けた。
「……はあ」
 これでは、それこそ子どもの母親のようではないか。
 ボッシュはそう怪訝に思いつつ、とりあえず園長の言葉に頷いておいた。出社時刻が迫っている。いつまでもここにいるわけにはいかない。
「リュウ先生には、親しいお友達があまりいないみたいで」
 けれど、園長はおっとりと話を続ける。そんなこと俺が知るかよと言いかけて、ボッシュは更に怪訝そうな顔になった。
「…友達がいない?」
 あの、常に愛想が良くて、鬱陶しいくらいに面倒見のいいリュウが?
「……」
 園長は少し困ったように笑って「あの子は、笑顔で距離を測るんです」と言った。
 ―――誰にでも優しくて、誰にでも笑顔で。そう。いつも笑っているけれど。
 どこまで近づいたらいいだろうかとか、どこまで親しくなっても平気だろうかと。そう、彼は常に線引きを行いながらひとと付き合っているのだと彼女は言う。
(……んな馬鹿な)
 そんな器用なことができる人種ではない、とボッシュは内心できっぱりと断じた。
「そんなに器用なヤツには、見えませんけど」
 つい口にも出してしまった。
 その言葉に、園長がくすくす笑う。
「そう。そうですね。…だから嬉しいんです。いつも何をしても笑って受け流すだけだったあの子が、ボッシュさんとニーナちゃんには、一生懸命自分から近づこうとしているのだから」
 仲良くしてあげてくださいね。
 再度彼女はそう言うと、お引き止めしてごめんなさいねと園内に入っていった。
 それを何となく見送ってから、ボッシュは緩く頭を振って。…笑顔の距離、と胸中で呟きながら、幼稚園を離れた。


*     *     *     *      *

 滞りなく会社から退社し、滞りなく幼稚園まで迎えに行き、滞りなくリュウの笑顔を眺め、やはり滞りなくニーナを連れて帰って。
 ―――そして、夕飯を買い忘れているという重大な滞りに気づいたのは、その日の夜になってから。二人帰宅して、いつもの通り特に会話もなくぼんやりしていたときだった。
「……しまった」
 ボッシュは思わずそう呟いてがさごそと冷蔵庫を漁るが、中には魚肉ソーセージが二本と、缶ビールが一本。オレンジジュースが一パック入っているだけで。
「……」
「……」
 まさか夕飯が魚肉ソーセージというわけにもいくまい。
 ボッシュは後ろから不思議そうに覗き込むニーナに背を向けて嘆息し「飯、買いに行くか」と告げた。
「それともおまえ、留守番してるか」
「……んー」
 ニーナはその言葉にちょっと首を傾げてから、すぐにぱたぱたと自分のマフラーを手にとって帰ってくる。
 その顔に相変わらず笑顔らしきものはないものの、少しは慣れてくれたのだろうか、とボッシュは、何故かリュウの暢気な笑顔を思い出した。
「じゃ、行くか」
 ボッシュは自分もマフラーを手にとってから、鍵を手にして家を出る。…そして、エレベーター前で、はたと足を止めた。
「……」
 そこには、どこかぼんやりした表情で佇むリュウ。瞬きもしないで、じっとエレベーターのスイッチを見つめている。
 階下へ下りるのか、それとも上るのか。それはいまいち不明だったが、とにかく彼はそこでじっと佇んでいた。ニーナがまた嬉しそうにぱたぱたと駆け寄り「うーうう!」と呼びかけるまでは。
「……あ。…あれ? ニーナちゃん?」
 小さな手でぽふりと足に触れられ、リュウは我に返ったようにぱちりと瞬いた。
「……何してんの」
「え。…あ、ボッシュも…」
 リュウは二人を振り返り。…気の抜けたような顔でふにゃりと笑うと。
「…ちょっと。ぼーっとしちゃってたみたい、かな…」
 そう呟いて「あ、降りるの?」とエレベーターの呼び出しボタンをいそいそ押す。
「どこか行くの?」
 それきりその話題を打ち切るように、リュウはまたいつもの笑顔を浮かべて尋ねた。
(笑顔の距離)
 ボッシュはその表情に、昼間聞いた園長の話を思い出しながら「メシ買いに行くんだよ」と肩をすくめる。
「…今日は買い忘れたんだ。だから、これから買いに行く」
「え、じゃあこれからご飯? 外食に行くの?」
 いいねニーナちゃん、二人でお食事? とにこにこするリュウに、しかしボッシュは「いや、コンビニ」とあっさり答える。
「…え。コンビニに? …これから?」
 リュウはその言葉にきょとんとして……、ひどく胡乱な顔になる。
「……。…ええと。ボッシュって、確か朝もコンビニに、毎日行くよね…?」
「あ? ああ。昼飯買いに行くからな」
「……まさか、朝ご飯もコンビニとかの…?」
「まあ、大概パンだな」
「……。…夕飯も、まさかいつも…」
「コンビニ」
 ボッシュのその言葉に同意するよう、ニーナが「うーう」と頷いた。
 リュウの顔が、あからさまに強張る。
「じゃあ、毎日コンビニ…?」
「……。そうだけど」
 男の一人暮らしなんて、そんなもんだ。
 ボッシュは眉を寄せて、リュウに返答した。リュウは何か頭痛をこらえるようにこめかみを押さえ……、タイミングよく到着したエレベーターに乗り込もうとする二人を慌てて呼び止めた。
「ね、ねえ! よかったら、うちでご飯食べていかない?」
「…ハ?」
「……う?」
 首を傾げる金髪二人に、リュウは必死になって呼びかける。
「あ、あのね、おれって結構作りだめするタイプでさ…! 今日もたくさんシチュー作っちゃったんだ! 二人の分も十分あるし、ご飯も結構炊いたから、さ…! よ、よければ!」
「………」
 ボッシュは、手でエレベーターのドアを押さえているリュウをじっと見つめ……おもむろに尋ねた。
「……。……タダか?」
 ニーナは既に嬉しげにリュウの足元にまとわりついていて、リュウはそれをにこにこと…しかしいつもよりややひきつった笑顔で見下ろしながら「勿論」と答える。
「…じゃ、せっかくだし。邪魔するか、ニーナ」
「うー」
「あ、じゃあおれんちこの階のこっちだから…」
 リュウはホッとしたように吐息し、二人をそそくさと案内する。まるで、少しでも目を離したら、またコンビニに行ってしまうのではと危惧するように。
「言っとくけど。不味かったら食わねえぞ」
「…ええと。うん。そんな不味くはないと思うよ」
 ボッシュの念押しに困ったような顔をしながらも、リュウは二人を自らの部屋へと案内する。
(笑顔の距離)
 背中を向けて、それでもいつのまにかまたニーナと手をつないでいるリュウ。
 それを何となく眺めながら、ボッシュはまたその言葉を思い出した。
(別に俺には関係ないけどな)
 そして緩くかぶりを振りながら、リュウ手製のシチューは美味いか不味いかに関して思いを馳せるのだった。

                    











今更なんですけど、このボッシュって吃驚するくらいエリートじゃないですね。こんなさもしいエリートって、あっていいのか。
お話はまだ終わりません。なんていうか、あの。気長に待っていただけると、本当に幸いなんです。