『帰りてえ』
ハンバーグにカレーにシチュー。その合間に鯖の味噌煮。具だくさんの煮物。そしてまたスパゲッティ、グラタン、ハンバーグ。
「…決まってるわけ? なんつうか」
「ん? なに?」
ボッシュはかいがいしくニーナの世話を焼くリュウを眺めながら、何となく眉を寄せて尋ねる。
「和食の日とか、洋食の日とか」
口元をおとなしく拭われてから、ニーナはちょこんと下に降りて、手を洗いに行く。歯ブラシもしっかり握り締めている辺り、リュウの教育が実ってきたといえるだろう。
――コンビニ弁当購入を挫折した日から、もう一週間が過ぎていた。
リュウの作るシチューは美味しかった。次の日もついずるずると招かれてしまうくらいには。
そして、翌日用意されたハンバーグもまた美味しかった。リュウはいつも、少し多めに作ってしまうのだと言う。
「次の日の弁当に使ったり、また次の日の夜に食べたりするんだ。経済的なのかどうかわかんないけど」
照れたように笑って、おかわりする? と手を差し伸べる。
蛍光灯に照らされて白く反射した、その肌色に、ボッシュはフォークを口に運んだまま、ついこくりと頷いていた。少食なニーナも、どこか嬉しそうに食事をしている。
(つうか、こいつはいつもリュウがいると嬉しそうだよな)
閉ざされた言葉が、もう少しで出てきそうな。
彼女はリュウと並んで歩いていると、時折、そんな嬉しそうな顔をする。
リュウはそれを無理やり促すでもなく、にこやかに手をひいて「おいで」と笑うのだ。
(……。ホントにこいつが引き取ってくんねえかな。ニーナ)
そんなことをたまに大真面目に考えてしまうのだが、未だに口に出したことはない。きっと、出せばリュウはとても怒るだろう。
そしてまた、真摯なお説教が降ってくるだろう。それは考えただけでも鬱陶しい。
「…ボッシュ」
「……ん?」
そんなボッシュの口元に、リュウがひょいと手を伸ばした。どうやらケチャップがついていたらしい。
くいと指先で拭われてから、ふきんを差し出される。
「ボッシュも子どもみたいだね」
「………うるせえな」
くすりと笑うその仕草を、頭上の蛍光灯が照らす。その隣で、ニーナが足をぶらぶらさせながら一緒に小さく笑った。
その笑い声すら蛍光灯が照らし、きらきらと追っていくようで、ボッシュは内心で舌打ちして考える。少々蛍光灯が眩しすぎやしないかと。
その翌日も、用意されたカレーは美味しかった。
何年一人暮らしをしているのかは知らないが、リュウは実にまめな生活をしているらしい。
部屋は生活しやすく整えられており、たまった洗濯物もなく、すっきりと片付けられている。毎日の自炊もこなしているようで、実際どれもそうまずい腕前ではなかった。
そのせいなのかどうか。
気がつけば、当たり前のようにボッシュとニーナはリュウの部屋で夕飯を食べ、ついでに歯を磨き、ついでに風呂も入っていくようになっていた。
「さ、じゃあそろそろお風呂入ろうか! ボッシュも支度してー! 下着どこかわかるよね?」
「んー!」
「……」
しかしどうして三人で入る必要が、とボッシュは常々疑問に思っていたのだったが。
「ちゃんと百数えてからだよ。はい。いーち、にーい、さーん…。…ニーナ、指使ってもいいけど、大変だよ…?」
「なあオイ。こういうときは、いち、じゅう、ひゃくってやるとあっという間だぞ」
「う。…うう? いい? いう? や…く…」
「ボッシュヘンなこと教えないの! 違うよニーナ、それじゃ三と同じだよ!」
「……うう? んん…?」
…狭い浴槽で、くっつきあうようにして入る風呂は、意外なほど暖かくはあった。(非常に狭くもあったのだけども)
その狭い風呂の中で、三人、順番に数を数えながらゆっくりと湯に浸かる。ニーナが懸命に数を数えようとして、奇妙な発音を繰り返し、その音が幾つも反響して返ってくる。
その響きに、リュウが嬉しそうににこにこ笑う。頑張ろうね、と嬉しそうに笑う。
そしてボッシュは、奇妙な発音を聞くたび、あるいはリュウが嬉しそうに笑うたびに、何やら胸奥で奇妙なものがざわつくのを感じて眉を寄せるのだ。
仲良しっぽくていいじゃないですか、といつか寒い朝にリュウが言っていた言葉を思い出す。
……一緒に夕飯を食べて、歯磨きをして、風呂に入って。
それはもう既に、仲良しどころではないのじゃないかと、たまにボッシュは思うのだ。
そう、それはもう既に。…仲良し、とかではなくて。
――ざば。
しかし、その言葉を思い出した瞬間に、ボッシュは立ち上がっていた。
ざばりと浴槽から湯が零れ、ニーナがぱちぱちと瞬きする。
「先、あがるわ。ちょっとのぼせた」
そう呟いて、すたすたと出て行くボッシュを、リュウも不思議そうに見つめていた。
…風呂から上がって、ボッシュは一人ゆっくりと息を吐き出す。
思いついた単語に、ひどく顔が熱かった。
(馬鹿馬鹿しい)
胸中で呟くようにして、まだ濡れた身体にシャツを纏い、部屋着に着替えて適当なチャンネルに回した。
そのままブラウン管から聞こえてくる笑い声に耳を傾け、ボッシュは背中のソファにずるりと背をもたれさせる。
ふと視界の端に引っかかったのは、僅かに開かれた奥の間から覗く、小さな仏壇だった。中では、恐らくリュウの両親なのだろう、若々しい顔つきの夫婦が微笑んでいる。
(…かぞく)
彼はもう一度、先ほど思いついた言葉を心中で繰り返し、ちょっと笑った。
馬鹿馬鹿しいと思いながらも、その笑みは少しだけあったかかった。
* * * * *
「じゃあニーナ、また明日ね。ボッシュも、また明日」
「うーうう」
「じゃな」
ぱたぱた手を振るニーナと、短く答えるボッシュ。その両方に笑いかけて、リュウは扉を閉めた。
ばたんと閉まる扉。音。
蛍光灯が照らす、白い部屋。
それを見渡すようにして、リュウはほうと吐息する。
「明日も朝早いんだから。…ちゃんと支度しなくちゃ、ね」
唇の端にそっと指をあて、リュウはまたにこりと笑った。誰もいないけれど、一人笑顔。
ニーナは少しずつ、しゃべるようになっている。……とてもいいことだ。
ボッシュも少しずつ、ニーナに慣れてきて優しくできるようになっている。……とてもいいことだ。
―――そして、自分は?
「………」
リュウはぐるりと、誰もいない部屋を見回す。
しんと静まり返った、誰もいない部屋。残るのは、先ほどまでここでくつろいでいたひとたちの残像。けれども、もう誰もいない。リュウしかいない、冷たい部屋。
参ったなと思う。
浮かべた笑顔も、すぐに引っ込んでしまった。
「いいことだよね。……二人とも、随分仲良しになったみたいだし」
そんなことをどうにか呟きながら、リュウは炊飯器のボタンをぴ、と押した。
さあ。明日もできたてほかほかご飯を食べよう。いつも通り、一人きりで。
二人はきっとまた明日も夕飯を食べに来る。さて、一体何を用意しようか。リュウはまた無理に浮かべた笑顔と共に、冷蔵庫をばかとあけた。
ひんやりとした空気が、リュウの頬を撫でる。リュウは何だか急に虚しくなって、眉を寄せた。
「…何してんだろ。おれ」
意味もなく呟いた言葉が、静かな部屋の中でやけに響いた。
* * * * *
「…え。今日はよそで夕飯食べてくるの?」
「ああ」
よそでっていう言い方も何だかなあと思いながら、ボッシュはニーナの背中をとんと押すようにして嘆息する。
「うぜえ親戚のばばあがさ。久しぶりにニーナの様子をみたいとかどうこう言いやがるんだよ」
飯代はあっちもちだっていうし。
ボッシュはさりげなくさもしいことを言いつつ、少し目尻を下げて「悪いな」と呟いた。
いつものように開かれたリュウの家の扉からは、暖かい空気と美味しそうな匂いが零れてくる。その匂いに、ボッシュの胃袋が切なく刺激され、傍らのニーナの顔も切なそうな顔つきになっている。
「…あー」
ぎゅぎゅ、とボッシュの袖を引くニーナの真意も明らかだ。
(うるせえな。…俺だってあのばばあに会うよりも、リュウのほうが断然いいに決まってるだろ)
ボッシュはそれに苛々と眉を寄せ「そか、じゃあしょうがないよね」とにこり笑うリュウに「…じゃ」とだけ言って、扉を閉める。
にこり笑うリュウの笑顔。
いつも通りの笑顔と、いつも通りの物分りのいい態度。
「……帰りに、寄ってくか。リュウんち」
待ち合わせの場所まで徒歩で向かいながら、ボッシュがついそんなことを呟いてしまったのも、そのせいだと思う。
リュウが何も言わないから。
何も言わないでにっこり笑うから。
…また、笑顔の距離なんていう言葉を思い出してしまったから。
(つまり、全部リュウのせいだよな)
ニーナが嬉しげに「うぅん」と頷いた。最近だんだんと明瞭になってきた彼女の発音。
寒いからと手を伸ばせば、きゅと握り返す小さな掌の暖かな感触。
ぬるま湯みたいなそんな心地よさを、二人に無理やりのように教えたのはリュウなのだから。
(…責任とれって、話だよな)
小さな掌の向こう側。もう片方の手をとる人物がいないことに、僅かな寂しさを覚えつつ、ボッシュは待ち合わせ場所に急いだ。
面倒な用件はとっとと終わらせて、早くリュウのところへ帰ろう。そして、風呂はまた三人でぎゅうぎゅうになりながら入ろう。
そう思いながら見上げた空は、ひどく重苦しい雲ばかり。
吐き出した息は、依然として白かった。
―――待ち合わせ場所は、そこそこに上品なレストラン。
何でこんなとこで子どもづれかな、と着いたそのとき、初めて疑問に思った。
そして、中に入って約束のテーブルに案内されてから、自分があまりにも疑問を抱くのが遅すぎたことを悟る。
「あら、ニーナ久しぶりねえ。ほら、ボッシュも早く座って? 先方様がお待ちよ」
「……先方って、何のことだよ」
満面の笑顔で迎える親戚に、苦虫を噛み潰したような顔で返しながら、ボッシュは思わずそう吐き捨てる。
テーブルの向かいには、上品な装いをして微笑む女性。その隣には、どうやらその女性の付き添いらしい人物が一人。
やけに電話口で「一人でニーナを育てるのは大変でしょう」と繰り返しているかと思ったら。…こういうことだった、らしい。
ニーナが戸惑ったように「うう…?」と呟くのを聞いて、女性がにこりと笑顔を浮かべる。
「はじめまして。…えっと、ニーナちゃんって言ったかしら?」
彼女はおっとりと笑って、優しく言うのだ。
「これから、よろしくね」
どこかの保父が言ったセリフと、似たような。それでもどうしても違和感を感じずにはいられない、そのセリフ。
(これからも何も)
ボッシュは仕方なく子ども用の椅子にニーナを座らせ、うんざりした表情を隠しもせずに水を口に運んだ。
(こんな見合いの席を用意するくらいなら、養育費をもう少し送ってよこせってんだよ)
ふと隣を見れば、ニーナもボッシュの不機嫌に引きずられたのか、少し前までにはよく見せていた無表情に戻っている。
その更に隣に座った親戚ばかりが、ひどく機嫌よく色々話しているようだが。
(……帰りてえ)
ぱちりと目が合った女性に優しく微笑まれ、それを殆どシカトするように目をそらしつつ。
彼は脳裏にぼんやりと浮かぶ、暢気な保父の笑顔のことを何となく思い出していたのだった。
展開の都合上、急速に仲良くなりすぎ。…だとかは、どうかつっこまないでやってくださいませ。
そんなことないです。そんなことないんです。嘘です。親戚の名前はいまだ不明なんですが、実際誰なんですかね。(知るか)