『お見合いしたんだって?』
―――断ったつもりだった。
というよりも、まさかあれだけ極悪な態度をとった相手に、まだ食い下がってくるとは思わなかった。
ボッシュは朝から鳴り響く電話のベルに辟易した顔で舌打ちする。
その音に、ニーナがびくりと肩を震わせた。ぼしゅ? と舌足らずな声で怯えたように見上げる姪に、「別におまえに怒ったんじゃねえよ」と言い訳するように呟くが、それでも電話は鳴り止まない。
「…はい、もしもし」
根負けして受話器をとれば、朝から元気な親戚の声が聞こえてくる。
「は? 今週の日曜? 無理。だから無理って言ってんですよ。明後日じゃないすか。俺にだって予定ってモンが。…ハア? いや、だからって何で俺の携帯番号を、あの女に教えなくちゃいけないんだよ。つうか嫌ですから」
これだけ分かりやすい意思表示をしているのに、親戚にはどうやらその十分の一も伝わっていないらしい。貴方は昔っから照れ屋で天邪鬼だから、と分かったようなことを電話口でほざいている。
「いや、これは包み隠さない俺の正直な気持ちですよ。いいかげん迷惑…ちょっとアンタ、聞いてるのか?」
ニーナはだんだんとエキサイトしていくボッシュの電話にため息をついて、ことんと茶碗をテーブルの上に置くと、困ったようにきょろきょろ周囲を見回す。
幼稚園バックは、既に玄関先に用意されていた。後はもう、出発するばかりだったのだ。彼女はちょっと困ったようにしてから、ちょこちょこと玄関まで向かい、それを肩からさげると。
「…あー。…い、いますー」
まだ電話口に向かって怒鳴っている叔父に「さきにいってます」と言ったつもりで、玄関のドアをあけた。
マンションの中とはいえ、廊下を吹く風は少し冷たい。へくち、と小さくくしゃみをこぼして、ニーナは小さな掌をこしこし擦り合わせる。
「あ。おはよう、ニーナ。…どうしたの? 今日は少しゆっくりだね」
そこへ、相変わらず少し慌てた様子で隣の隣のドアから飛び出てきた人影が、吃驚したように声をかけてきた。
「う、りゅー!」
ニーナはその人影…リュウに、ぱたぱたと駆け寄る。
そんな彼女へリュウはいつものように笑顔を向けた。そして、ふと気づいたように首を傾げる。
「あれ、ボッシュは?」
「…うー、うーん、うう」
ニーナは困ったように、小さな拳を作ってほっぺにぐいぐい押し当てた。そしてそれに向かって「あー」と喋っているようなジェスチャーをする。
「ええと。…電話中ってことかな?」
「うー!」
こくこく。
頷くニーナに微笑み、こんな朝から電話なんて大変だね、と的外れな感心をする。
「あー」
ニーナは口をパクパクさせて、またたどたどしいながらも単語を紡ごうとした。最近彼女はこうやって、拙いながらも言葉を喋ろうとする。それは大変いい傾向なのだと、別に専門家ではないリュウにもわかった。だからこのときも、彼女の言葉を黙って待った。
「あー。…い、まい」
「…? いまい?」
「ううーん。…ん、み。み、あい」
小さな眉をぎゅっと寄せて、ニーナは懸命に単語を紡ぎだした。
「…み。みあい?」
リュウもつられてか眉を寄せ、ニーナのたどたどしい言葉を復唱する。
「……お見合いってことかな?」
「…うー!」
やがてようやく合点がいったリュウの言葉に、ニーナがこくこくと頷いた。
「そうか…。じゃあ、今の電話も、その見合いに関する電話なんだね?」
「んー!」
それはますます大変だなあなんて、リュウは他人事そのものの口調で呟く。きっとこんな呟きをボッシュに聞かれたら、すぐさま殴られるななんて内心で思いつつ、リュウは少し不安げなニーナと目線を合わせるようにして笑った。
「平気だよ、ニーナ。大丈夫! お見合いは怖いことなんかじゃないから。…もしかしたら、このうちに家族が増えるかもしれないんだよ?」
ボッシュの奥さんとして、女の人が一人。
それはこうして口に出して言うよりずっと難しいことなのかもしれなかったが、とにかくリュウはいかにもそれを易しいことのように話す。
「そしたら、きっと二人とも毎朝おいしいご飯が食べられて、幸せな食生活が送れるよ?」
それはとても、いいことだよ、とリュウはにこにこしながら説明した。
説明しながら「ああ、でもそうするとおれはまた一人ぼっちの夕飯になるんだな」と思ったが、それは巧妙に見ないフリをすることにした。
仕方ない。だって、リュウは彼らの家族にはなれないのだから。
しかしニーナは、リュウが説明するごとにどこか不満げな顔になっていく。
ぶーとふくれたその顔に困って「どうしたの」とリュウがほっぺをつつくが、ニーナはますます不満げになるばかりだ。
「うー。りゅ! りゅー!」
「ん? なーに?」
ニーナはそのままリュウの袖を懸命に引っ張った。
「…? どうしたの?」
首を傾げるリュウにじれったそうな顔で地団駄を踏み「りゅー!」とまた名前を呼ぶ。
「りゅーあ、いい。いあない。みあ、いあないー!」
「…? おれがいい?」
リュウはたどたどしい言葉の意味が分からず、また首をひねった。
そこへ、ようやく玄関のドアが開いて、朝から疲れきった顔つきのボッシュが顔を出した。
「あ、おはようボッシュ」
「うー」
「…よう。つうかニーナ、勝手に出てくなよ。心配するだろうが」
「あー。ニーナ、いたー」
「いた? …ああ。いった、か。いや、言ってねえだろ。もっとはっきり喋れるようになれよな」
「うー!」
ボッシュの言葉に、ニーナがまたふくれる。それを面白そうに「フグみてえ」と笑い、ボッシュは一緒にかがんているリュウの頭にべしと手を置いた。
「待たせて悪かったな。…つか、朝からしゃがんで。何してんの」
「…ええーと。しゃがんでっていうか」
ぶーっとふくれたニーナは、そのままぱたぱたとエレベーターまで走っていく。それを「あーあ」と見送ってから、リュウはようやく立ち上がった。
なんだあいつへそまげやがって、と呟くボッシュに苦笑しながら、リュウはそのままさりげなさを装って呟く。
「お見合い、したんだって?」
「………。…あ?」
その言葉にたちまち機嫌が急降下したらしいボッシュを笑いながら、リュウはすたすたと先にたって歩き出した。
(ボッシュとニーナに、家族が増えるかも)
そう考えながら踏み出した一歩は、先ほど明るく話した内容とは裏腹に、奇妙に重くて。
(…やだなあ。ひとの幸せを素直に喜べないって。…根暗みたいだ)
にこりと浮かべた笑顔を強化しながら、思うのだ。
(いいことなんだから。にこにこしてなくちゃ、ね)
にこにこにこにこ。レッツスマイル?
リュウは明るい足取りでエレベーターまでたどり着き、ぺしりとボタンを押した。そして。
「あ」
「…バーカ。上、押してどうすんだよ」
「うえー」
「……。え、えっと」
リュウは、ぽわんとともった『↑』のボタンに身をすくめながら、小さな声で「ごめん…」と呟いたのだった。
* * * * *
今にも雪が降ってきてもおかしくないくらい、空は真っ黒で。空気はとても冷たかった。
しんしんと歩く音さえ冷ややかに響くような、今にも凍りつきそうな大気。
ボッシュはがちがちと歯を噛み合わせながら、はあっと白い息を空中に吐き出した。冷たい空気に浮かぶ水蒸気は、たちまち白い塊にななって消えていく。
夕焼けが、あっという間に終わる季節だ。
どこまでも続く赤と、背中に当たるオレンジの空気。それがとても短くなる季節。
それでも、今年は人間湯たんぽがいるからどうにかなってるのかもしれないなと、ボッシュは手持ち無沙汰な掌のことを考えながら眉を寄せる。
思い返してみれば、自分も昔はあれくらい体温が高かったのだろうか。ボッシュは、小さな姪の掌を思い返してまた一歩踏み出す。
子どもの体温は、高い。知識としては知っているそのことを、最近やっと事実として知覚したような気がする。
そして、自分以外の人間と触れ合うことは、そうまずいことでもないのかもしれない。
それも最近、何となく自覚したこと。
勿論、暢気そうに笑う幼稚園の住人が、その背景にいることは間違いない。
今日もきっと、ヤツは手をつなぎませんかなんて笑うのだろう。リュウは大抵、迎えが遅いボッシュをニーナと一緒に待っていて、最近では夜も一緒に帰るようになっている。
寒くなってきた最近だと、それは実にちょうどいい。
ニーナにとってもいい人間湯たんぽだと考えてから、ボッシュは思わず渋面になって舌打ちした。
(…ニーナにとっても?)
……今更のようだが。
自分は、相当あの幼稚園の先生に、毒されすぎているようだ。
子は鎹とはよく言うものだが、自分たちにとっては、まさしくリュウが鎹だったのではないだろうか。
彼がいなければ、きっと今頃ニーナとボッシュはろくに会話もせず、手もつながず、毎日コンビニ弁当だった。もう既に身体の出来上がっているボッシュはともかく、ニーナにとってこの食生活は具合のよろしくないことだったに違いない。
もう一つ角を曲がれば、幼稚園にたどり着く。ボッシュは人間湯たんぽたちのことを考えながら、ポケットに突っ込んでいた掌を引き出した。
きき。
そんな彼のすぐ真横。唐突に、そんなブレーキ音を立てて車が停まった。
不意をつかれて一瞬足を止めるボッシュの横で、ゆっくりとウィンドウが開いていく。
「ハイ。こんばんは、つれないボッシュ」
「………あんたは」
中から顔を出したのは、洒落たサングラスをつけた女。……先日、強引に親戚と引き合わされた女だった。
「そんな露骨に嫌そうな顔、しないで。大丈夫。別に尾けてきたってわけじゃあないのよ。ただ、ちょっと近道をしようと思ったらあなたがいたの。それだけ」
くすりと笑ってそう言う彼女に、ボッシュはうんざりと舌打ちする。
これ見よがしに腕時計を確認して「悪いけど、迎えがあるから」とすぐそこの幼稚園を指した。女はアハと笑って。
「はいはい、わかってるわよ。あなたってホントにつれないわ。はっきりしてるし」
存外あっさりした態度でそう言って「5分でいいの」とサングラスを外し、下がりきったウィンドウに手をかけてボッシュを見上げた。
「ニーナちゃんのお迎え? 大変ね」
「……5分で済ませる用件ってのは、くだらねえ世間話? それも大変だな」
「そういう風に言わないでよ。大切な用件じゃない。あなたは会ってくれようともしないし」
番号も教えてくれない、と彼女は赤い舌を覗かせて苦笑する。当たり前だと、ボッシュはその舌先が白い息をまとわりつかせることに違和感を感じつつ、ポケット奥に眠る携帯電話のことを考える。
そんな誰彼構わず、自分のプライベートを教えるつもりはない。職場の人間にはやむなく伝えているが、本来自分のスペースには誰も立ち入らせたくない人種なのだ。自分は。
「でも。…あなたのご近所さん。ここの幼稚園の先生なのかしら? 彼とは、随分仲良しみたいね」
そんなボッシュの考えを読み取ったのか。女は会話の流れとしては少々不適切な助詞を使って、僅かに目を細めたボッシュを見やる。
「そう怖い顔しないで。一緒に歩いてるのを見ただけよ」
女は、そこでまた苦笑した。
「手をつないで、ね」
「……」
ボッシュはまた腕時計に視線を下ろす。かちかちと動くそれは、もう既にこうして会話してから3分が過ぎていることを示していた。
「あと2分かしら。いけない。早く用件を言ってしまわないと」
女はその時計を覗き込んで「あら」と呟いてから、ニコリと意外なほどに邪気のない顔で。
「私はね、あなたと家族になる気はないのよ」
そう、続けた。
ボッシュは黙ってそれを見やり、どうでもよさそうに瞬きする。
「でも、恋愛だったらしてみたいの。ね。あなたならわかるでしょ? この違い」
女はしかし気にも留めた様子もなく、更に続けて。そして、うんざりした様子で立ったままのボッシュの腕を掴み、ぐいっと引っ張ると。
「番号は教えなくてもいいから、持ってて」
かさり、とメモを握らせた。
そして、少しだけ近づいたボッシュの顔に、くすりと微笑む。
「あなたはいい男よ。だから、家族になるより恋愛したいの」
「……そりゃ、どうも」
間近に見た女の顔は、そう悪くなかった。確かに美人ではあるし、魅力的でもある。
しかしボッシュは相変わらず眉一つ動かさず平然と答え「つれない」と女が袖に爪を立てるのを振り払った。
「5分経ったぜ」
女はふう、と小さく吐息してから「そうね」とウィンドウを閉める。ゆったりと車を発進させ、もう既に歩き出しているボッシュの横を通りながら「またね」と赤い唇が動いた。
ボッシュはどうでもよさそうに、握らされたメモをその辺りに放ろうとする。
そう、確かに美人ではあるし、魅力的でもあるのだが。
(…あるのだが?)
その先を否定する言葉。それが、確実に彼の中にあることに気づいて、ボッシュは僅かに眉を寄せた。
女は嫌いじゃない。勿論、セックスだって。
しかし、今はこのぬるま湯のような家族ごっこの方が楽しくて。…そう。だから、それどころではないのだ。
彼は結論を見つけ出したことに満足して、角を曲がった。
美人で、魅力的な女。彼女を否定する理由を思い浮かべた瞬間、真っ先に幼稚園の住人の。
「ボッシュ?」
そう、リュウの顔が浮かんだことなんて。
(浮かんだことなんて。……?)
ボッシュはぎょっとして、慌てて足を止めた。
角を曲がった目の前。困ったような顔をして佇んでいるのは、確かに先ほどまで顔を思い浮かべていたリュウそのままだった。
困ったような笑顔で。……手の先には、頬を膨らませたニーナをつれて。
「…な、なんでおまえらがここにいるんだよ。園にいるんじゃ」
「え。だって、ボッシュが随分遅かったから。…ねえ?」
「うー」
リュウはにっこり笑ってそう答え、傍らではニーナがこくこくと頷く。その目がちらりと怒りを覗かせているように見えるのは、気のせいだろうか。
「…先に歩いてきちゃった。途中で会えるかなって。ね、ニーナ」
「うー!」
「そりゃ。…悪かったな」
ボッシュは指先でくしゃくしゃにしたメモを、何となくポケットに突っ込んで。
「…おい」
じとりと睨むように自分を見上げる姪に、掌を差し出した。
「ニーナ、ボッシュが手をつなごうって」
「…。…やー!」
「……。何で」
「やーらから!」
「……。……そんなこと言わないで、ね?」
「やーら!」
ニーナはそう一言言って、くるりと身を翻し、リュウの横に隠れた。そして、いつもつないでいる掌とは逆の方で、手をつなぐ。
「……」
「……。なんなんだよ…おまえ」
ボッシュはうんざりと嘆息し、リュウは「仕方ないね」と肩をすくめた。
「じゃ、ボッシュ。おれと手をつなごうか?」
「……」
仕方ないね、の言い方に、少しとげがあったように感じたのは。…それは果たして、ボッシュの気のせいだっただろうか?
ボッシュは静電気を躊躇うように手を伸ばし、自分のものよりも少しだけ柔らかいリュウの掌を掴んだ。
ニーナは相変わらずふてくされたまま、リュウも少しばかり冷たい態度で。
(…こいつら、絶対覗き見してやがったな)
ボッシュは今更のようにそのことに思い当たって、ちょっとうんざりした。
(つか何で怒るわけ)
そんな疑問も浮かんだが、聞いたら、もしかしたら人間湯たんぽが手を離してしまうかもしれないと思う。
(寒いし)
だから、そういう余計なことを言うよりも、ボッシュは二人が夕飯までに機嫌を直せばいいのにと考えることにした。
幼稚園の先生は、いつも六時くらいに帰宅? みたいです。よくわかんないんですが。いいかげん設定。
ボッシュは残業嫌いなので、いつも意地で定時に上がってきます。
いきなりニーナがぺらぺらしゃべっていて戸惑われた方も多かろうと存じます。
ていうかあっさり喋っててごめんなさい。
本当はもっと劇的なきっかけをもって、喋ることにするはずだったんですか。
なんか。
なんか、ええと。
劇的って、何? みたいな。
まだもう少し続きます。