『上へ参ります』
「つうかさ。…なんであんなに怒ってるわけよ。アイツは」
結局ニーナは夕飯のあとも、口をきいてくれなかった。リュウにべったりひっついて離れず、ボッシュにはそっぽを向いて。
こんなに拗ねられる理由が分からない、とボッシュも困惑し、自分が謝らなければならない理由もいまいち見つからず。
「俺、悪くねえのに」
結果、こんな子どもじみたセリフも飛び出す始末だ。
リュウはその言葉に、少しだけ眉を寄せた。
そうかなあ、ボッシュ悪くないかなあ。
そう言いたげな顔つきに、ボッシュが顔をしかめた。
「何。そのカオ」
「…別に」
リュウは軽く肩をすくめて、奥の部屋で眠り込んでしまったニーナに毛布を持っていく。
「どうしようか。ニーナ、眠っちゃったね」
「…ま、後で目を覚ましたらつれて帰るさ。多少遅くなってもいいだろ。明日は土曜で休みだし」
ニーナの髪を優しく梳いてやってからまた戻ってきたリュウに、ボッシュは話題を戻すように質問をぶつける。
「で、別にって何だよ」
「…。…いや、別に、は別に、でしょ?」
リュウは困ったように曖昧に笑い「でも、ニーナが怒るのもちょっと分かるけど」などと言い添える。
「ハ? …あの女と話してたのが、そんなに不満だったってことかよ。そんな大した話はしてねえぞ」
ボッシュは憮然と胡坐をかき、リュウはそんな彼にため息をつきながらコーヒーを渡した。
「大した話はしてなかったのかもしれないけどさ」
そうしてから、彼は少し躊躇いがちに。小さく息を吐き出してから、こう続ける。
「キスしてただろう? ボッシュ」
「………」
ボッシュがその言葉に、ぱか、と口を開けた。
リュウはその間抜け面に眉を寄せて、自身もコーヒーを口に運んだ。
静かな夜だ。
ニーナが起きるといけないので、テレビは消したし。時刻ももう十時を回るとあってか、辺りは静まり返っている。虫がうたう季節も、とうに過ぎてしまった。
あの虫たちはもう眠ってしまったのかな、それとも季節の終わりとともに死んでしまったのかな、なんてことを考えながら、リュウはなにやら呆然としているボッシュの返答を待つ。
「誰が。…誰と?」
ややあって、返ってきた返答は、いささか的の外れたものだった。
リュウは訝しげに眉を寄せて「ボッシュが、あの女の人と」と返す。
「お付き合いするのも、何するのも勝手だけどさ。…何も、ニーナを迎えに行く途中で、いちゃつく必要はないんじゃないかな?」
特にニーナは、ショックだったみたいだし。子どもの心は敏感だよ。
そう続けてから、ついでにおれもショックだったよ、と言いそうになってリュウは口をつぐむ。
(…おれが怒る理由っていうのが、一番わけわかんないんだよね。本当は)
友達のやきもち? それともニーナの気持に引きずられて?
ボッシュに家族ができてしまったら、ニーナに母親がわりのひとができてしまったら、もうここで夕飯を食べることも、こうして時間を過ごすことも少なくなるだろう。そのことを思って、それにつながる事柄に焦りを覚えたのだろうか?
「…してねえよ」
複雑な心中に戸惑うリュウの前で、ボッシュはもっと複雑そうな顔をしていた。
いや、むしろ大変に苛立ち、困惑しているというか。
「…え?」
「……。だから! キスなんざしてねえっていうんだよ! つうか何だキスって! 何で俺があんな女とキスしなくちゃいけないんだよ !」
「……」
リュウはボッシュの剣幕に戸惑いながら「あんな女って言い方はないんじゃないかな」と眉を寄せる。
「美人だったよ」
「…確かに美人だったかもしんねえけど」
ボッシュもそれは認めた。
認めてから。
「いや、今はそういう話じゃないだろ!」
また怒った。
「あー、くそ。何だよ。おまえらそういう理由で怒ってたのかよ。濡れ衣もいいとこじゃねえか」
「……え。じゃ、ボッシュキスしてなかったの? なんか、すごい顔近づけてたのに」
袖つかまれて、顔引き寄せられて。
リュウは胡乱げな顔で、問題のシーンを思い起こしながら。
「…滅茶苦茶据え膳態勢だったじゃないか。おれ、てっきりボッシュがあのまま車に乗っちゃうかと思った」
「ハア? 乗るかよ。乗ったら、ニーナもおまえも迎えに行けないだろうが」
「………」
リュウはその言葉に、きょとと目を瞬かせる。
「……。…おれも?」
「……。…なんだよ。どうせ、ニーナを迎えに行ったら、おまえも帰りになるんだろ? 今日だって一緒に帰ってきたくせに」
「………。…うん。そうかも」
ああくそ、何だよソレとまだぶつくさ言っているボッシュをよそに、リュウは困ったように微笑む。
実際、彼は深く困っていた。
ニーナも、おまえも。
そう、同列に並べられたことが、何故だかひどく嬉しかったのだ。
「何ニヤニヤしてんの。おまえ」
「…え。ニヤニヤしてた?」
「してた。……なんだよ、そんなに怒ってんのかよ」
「…え、いや。…別に、怒ってるってわけじゃ」
慌てて首を振るリュウに、ボッシュは「嘘つけ」とため息をついた。
「さっきまで、ずっと笑いながら怒ってたじゃねえかよ。ニコニコしてるのに、目が全然笑ってねえし」
「…そ、そうだった?」
コーヒーを支える手とは反対側の手で、むにと頬をつねる。自分では分からない表情筋の様子を、それで確かめようとするかのように。
「なんだよ。疑うわけか?」
「う、ううん、疑ってるとかじゃ、そんな」
「よく言うぜ。さっきまでは、ずっと疑ってたんだろうが」
「え、いや、それは疑ってたっていうか…」
リュウはボッシュにしては珍しく、絡むように延々と続く追及に目を泳がせた。
ボッシュはしまいには深々とため息をついて、半眼でリュウを見やる。
「おまえの表情だったら、すぐわかるんだよ」
だから、無駄な抵抗はするな。全部分かるんだから。
見やりながら、彼はあっさりとそんなことを言う。
「怒ってても辛くても楽しくても、絶対ニコニコしてやがんだからな。おまえ、そういうとこ面倒」
呆気にとられるリュウを見ながら、ハアと肩をすくめて。
「……」
リュウはそんなボッシュに、ぼんやりと困ったような。…相変わらず、中途半端に浮かんだ笑みを向けたまま。
「…すごいな。何でわかっちゃうんだろ」
ようよう我を取り戻したようにそう言って、緩くかぶりを振った。
その力ない響きと、僅かに頼りない表情。
それを見た途端、ボッシュの胸奥で何かが軋むような、奇妙な気配を感じた。
痛いような、苦しいような、そんなひどく奇妙な気配。
きっと、リュウの知り合いであるような他の連中は、こんな表情を見たことがないのではないか。
そう思うと、胸奥の奇妙は質量を増す。
手を伸ばすと、案外簡単に手が届いた。そのまま、肩をつかんで抱き寄せる。
リュウが驚いたように硬直するのに胸中で苦笑して、背中に掌をおいた。
そうしたまま黙っていると、リュウが少しくぐもった声で呟いた。
「…ありがと」
その小さな呟きに、また胸奥が痛む。
何に対して礼を言われたのかよく分からないまま、ボッシュは少し骨ばった肩甲骨の辺りを撫でた。
「別に」
ボッシュはどこか心地よい痛みに酔うように、こと、と顎をリュウの頭に埋めた。
すうすうと眠るニーナの寝息。緩やかな空気。抱きしめた体。そんなものが、またぬるま湯のようにボッシュを包む。
ああ、こういうのも悪くないかもと思わせたのは、錯覚だろうか。
「……。何だかヘンな感じだね」
くすり、と不意にリュウが笑った。「なにが」とボッシュが問えば、「この態勢だよ」とリュウは更にくすくす笑う。
「だって、まるで恋人同士みたいじゃないか?」
本当に可笑しいことのように、そう言って彼は更に笑った。
リュウが笑うたびに彼の身体が震え、その振動がボッシュの身体にじわじわと伝わる。その感触を不可思議な心境で受け止めながら(ちょっと笑いすぎじゃないか?)なんて、ボッシュは胸中で呟く。
確かにこの態勢は、友人同士のものとしては相応しくないものなのだろう。確かにそれはわかる。よくわかるのだが。
「こういう風にするのは、お互い女の人がいいよねえ」
そんなことを言って、また暢気にへらりと笑う。この男を(そう、間違いなく男でしかない彼を)抱き寄せていていることで、何かむずがゆいような気持ちを感じているのは、もしかしたら自分だけなのだろうか?
「あのひと。あのお見合い相手のひととかはどうなの? ボッシュ、幼稚園がなかったら、あのままあのひととこういう態勢になってたんじゃないか?」
そんなボッシュの気持ちなど知る由もなく、リュウはそんなことを言ってにこやかにしている。ボッシュはひどく嫌そうな顔をして「なるかよ」と呻いた。
「ならないの?」
ひどく間近から、リュウの青い眼差しが見上げてくる。ああ確かにこれは馬鹿げた態勢かもしれない。
こんな近くで、こいつの瞳を見ているのは、少しばかり心臓に悪いと思ってしまう辺りが、特に。
だから、ボッシュも冗談のつもりでこう言ったのだ。
そう、最初から冗談のつもりで。でも少しばかり、本気の部分も含めた。少々性質の悪いジョーク。
「あんな女より、おまえの方がいい」
ものの弾みに出てきた。そんな軽い言葉。
ぎょっとするだろうと思った。これでも、声に僅かな真実味をこめたつもりだったから(どうしてそんな小細工までしようと思ったのか、自分でもわからないのだけれど)きっと純朴そうなリュウは驚いて「何言ってるんだ」と身体を離すと思ったのだ。
しかし、聞いた瞬間は確かにきょとんとしたリュウだったが、彼はすぐにまたにこりと笑ってみせた。
「その冗談は、相手のひとに失礼だよ」
けらけらとボッシュの腕の中で楽しげに笑う彼を、ボッシュはじろりと睨む。
確かに冗談だ。冗談だった。しかし、こういう具合に笑われるのは、何故だかひどく心外に思えたのだ。
(なんか、すげー理不尽)
自覚はあるけれども、これでは何やら悪戯が不発に終わったようで面白くない。
リュウがボッシュの言葉を頭から信じないでいるということもまた、気に食わないのだ。
「俺、マジで言ってんだけど」
「ええ。嘘」
リュウは更にくすくす笑う。その笑い声が奇妙にくすぐったくて、ボッシュは更に渋面を作った。
どうすれば、このくすくす笑いはやむだろうか? やめさせたいのではない気もするけれど、このまま聞いているのはどうもくすぐったい気がした。
「おい」
そう呼び掛けてみても、リュウはまだ笑っている。ボッシュは小さく舌打ちして、リュウの細い頤を持ち上げた。
濃い群青の眼差しが、きょとんと揺れる。
ボッシュは間近にその瞳を見つめながら、ことさらゆっくりと口づけた。
* * * * *
―――柔らかい感触。少しかさかさと荒れた、ぬくい唇。
リュウは、呆然としたように目を見開いている。それがひどく楽しくて、ボッシュは調子に乗って口付けを深くした。
柔らかな舌をとらえて引き寄せるようにすれば、リュウが苦しげに喉の奥で呻く。その声が、ボッシュの唇の中にこぼれた。
案外普通だ、というのがボッシュの感想だった。
さずかに冗談でもやりすぎただろうかと思ったのだが、少し硬い骨ばった辺りを抱き寄せ、唾液で濡れて滑らかになってきたリュウの唇を吸い上げることは、思ったよりも心地よい。青い瞳が呆然と見開かれ、こちらを見つめる。その眼差しの中に、自分だけが映る。
それも悪くない。そう、ボッシュは満足げに思った。
「…んっ」
口づけた瞬間よりも、離れていくそのときの方が、やけに生々しい気がする。
ぷはと漏れたリュウの呼気は、先ほどまでボッシュの口内で吐き出されていたもの。そう思うと、またいっそう生々しい気がした。
「…な」
リュウが困惑してう呻く。それをボッシュはにやりと笑って眺め。
「本気だって言ったろ」
そう言ってやった。
してやったり。まさにそういう気分だった。
ひどく高揚した気分は押さえられず、僅かに覗くリュウの首筋にすら奇妙に興奮した。だから、そのまま伸ばした指先を払いのけられた感触に違和感さえ感じた。
「……」
「……な、なに考えてるんだよ…」
リュウは今度こそ、ボッシュが期待したとおり呆然と、愕然と呻いた。そのまま唇を押さえ、紅潮する頬をもう片方の指先でなぞる。
「本気だなんて…、そんな、タチが悪い冗談ばかり言って…!」
しかし、これは少しやりすぎたかもしれない。
真っ赤な顔は、酸欠に陥った金魚を連想させた。
ボッシュは仕方なく、目前の金魚を混乱の陸地から救出すべく、悪かったよと言おうとした。
だが、何故だろう。悪かったという謝罪の言葉が、喉に引っかかったように出てこない。
(ああ)
ボッシュはその理由にすぐ思い当たり、思い当たってから僅かに困惑した。
(悪くねえし。俺。悪いなんて思ってねえし)
だから、言葉が出てこないのだ。
そうしている内に、リュウはとうとう立ち上がってしまった。
興奮と困惑と動揺を絵に描いたような状態のまま、リュウはよろよろと立ち上がって「頭、冷やしてくるから…」と呻くように声を搾り出す。彼はそのまま、全てが解決するはずだった魔法の言葉を出し損ねたボッシュを置いて、自分の家から出て行ってしまった。
「……おい」
バタン、と扉が閉まってから、ボッシュもようやく我に返る。
「頭冷やすって。どこ行くんだよこんな夜中に…」
眉を寄せたまま、ボッシュは慌ててドアに駆け寄り、玄関を開けた。
綺麗に並べられた靴が二足。小さいのと、大きいの。そしてリュウの靴は、片方だけ置き去りにされている。
まるで出来の悪いシンデレラのような光景に見向きもせず、ボッシュはそのまま靴下でドアを開け、廊下に出た。途端、冷たい空気が身体を通り抜け、ボッシュは思わず身震いをする。
(……。…何してんだ。俺)
その冷たさに、我に返ったような気がした。
今、顔を真っ赤にして出て行ったリュウは、あれは女ではないのだ。そして、自分はキスした後に逃げ出すような女を追いかけるなんて、したことがない。
では、何故キスをした後で逃げ出す男を、追いかける必要があるだろう?
ボッシュはがりがりと頭をかいてから、ばたんとドアを閉めて冷たい廊下の空気に耳を澄ませた。
上へ参ります、と遠くから電子音で合成された女声が聞こえて、ああアイツ上に行ったんだなとぼんやり考えた。
頭を冷やしてくるのだろう。冬の冷たい空気は、この廊下にまで忍び込んできている。
ついでに自分の脳みそも冷ややかに、何事もなかったかのようにしてくれないだろうか?
ざわつく胸と、質量を増した奇妙。唇に残る唾液だとか、彼の目を間近で見つめた青い眼差しだとか。
「ばっかじゃねえの」
彼はぼそりと呟いて、ずるずると壁にもたれた。
「…冗談に決まってんだろ。あの馬鹿」
ごつんと当たったドアのでっぱりが、痛かった。
呟きとして口に出したはずの自分の言葉も、何故だかひどく痛かった。
急速ホモ展開。
ここまでこの話をノーマルだと信じていた皆さんに、全力懺悔。
ここから転がる石のようにホモホモワールドへもってきたいところなのですが…いかがなものか。
久々なために、展開が頭から吹っ飛んでしまいました。
馬鹿は私です。ハイ。