『ちゃんとここに』



 ――――リュウが帰ってきたのは、深夜のことだった。
 家主がいないために帰るに帰れず、うとうととテーブルの上で舟をこいでいたボッシュに、困惑したような気配が伝わってくる。
(帰ってきたのか)
 その気配に僅かに安堵して、けれどもそのまま素直に起きるのも癪で寝たフリをしたまま、自分の腕に顔を埋めた。
「…泊まってくの?」
 困ったように、リュウが呟いた。
 そのとおり。
 ボッシュは胸中でそう応える。隣の部屋ですっかり熟睡しているのだろうニーナをつれて自室まで行く手間も、この心地よいまどろみから引き剥がされるのも御免だったのだ。
「………。…仕方ないなあ」
 リュウはぽつりとそう呟くと、冷えた指先でボッシュの肩に触れた。
 そのまま、彼は暫く指先を押し当てていた。…一体何がしたいのだとボッシュは訝ったが、問う言葉は見つからず。
 やがて、すんなり指先は離れていった。そのあっさり離れていく指先を惜しむような気持ちを不審がりながらも、ボッシュは狸寝入りを続ける。
 朝になったら、この部屋を出て行かなくては。
 ニーナをつれて、隣の部屋に戻らなくては。
 翌日の予定を考えながら狸寝入りを続けるなんて、全く自分らしくないと思う。
 離れていったリュウの指先のかわりに、やがて何か暖かいものがボッシュの肩にかかった。毛布かと瞬時に悟るボッシュの肩に、背中に、リュウの掌が柔らかく押し当てられる。
「…おやすみ」
 彼は静かにそう呟いて、奥の部屋へと足音を殺して移動していった。その背中を、ボッシュは薄く目を開けて見やる。
 リュウは振り向くことなく、迷いない足取りで彼の両親が微笑む写真の前に座った。
 そして、ボッシュがまた目を閉じるまでずっと、そうして写真に向き合っていた。


*     *     *     *      *


 ゆさゆさと何度も揺さぶられる感触。
「……ぼしゅ、ぼしゅ、ね、りゅ、は?」
 舌足らずな声が、何かを懸命に訴えている。
 まだ眠りの中にいたいボッシュはそれを面倒そうに払いのけるが、小さな掌は怯むことなく揺さぶり続ける。
「……あー。…なんだよ…一体…」
 暫くそんな攻防を繰り返した後、ボッシュはようやく目を開けた。
 目を開けたそこでは、ニーナがひどく不安そうな顔をして、目を潤ませている。
 その水分を含んだ眼差しに、ボッシュは急速に脳内が覚醒するのを感じた。何故か。
(ニーナが泣いてる?)
 初めて見知らぬ叔父に連れられてマンションに来た日も。
 親戚の女性に手を引かれて、硬い表情で溶けるアイスを見つめていたときも。
 気味が悪いくらいに聞き分けがよく、我侭も滅多に言わない。そんなニーナが、目を潤ませている?
 ボッシュはそれを異常事態と認識する一方で、しかし、僅か五歳にしかならない子どもがろくに涙も流さない方が異常なのではと今更のように思った。そして、それをすぐに振り払って、ボッシュは身体を起こす。
 テーブルに突っ伏して寝ていたせいか、腰が痛かった。
「なんだ。…どうした、チビ」
「りゅ! りゅ、いにゃいの」
「りゅ?」
 言われてボッシュは、ぐるりと室内に視線をめぐらせる。朝の陽射しが差し込む室内。
 時計を見れば、まだ七時にもなっていなかった。
 そして、ニーナが懸命に訴える通り。…家の中に、リュウがいる気配はない。
「……なんだよあいつ。帰ってきたんじゃなかったのか?」
 ボッシュは小さく舌打ちしてから、りゅがいないと泣きそうになるニーナの髪の毛をぶっきらぼうにかき混ぜた。
「ぼ、ぼしゅ、りゅ、いない、いにゃい…」
 その感触に、安心したのか、あるいは更に不安を煽られたのか。ニーナはとうとう、小さい肩を震わせて泣き出した。
「げ。…あ、あー。…泣くなよ。どうしたんだよ…」
 ボッシュはひくひくとしゃくりあげて、顔を自分の足に押し付けてくる姪に何と声をかけてよいものか、選択に迷う。
「まーとぱと…おにゃじー…。い、いなくな…いなくにゃる……、やー…。やらぁ…」
「あ? まーとぱ?」
 ボッシュは困惑の極地に追い詰められつつも、仕方なく小さな姪を抱き上げてぽんぽんと背中を叩いた。
 そうしながら、蘇るのは昨晩のリュウの仕草だ。

『おやすみ』

 静かにそう呟いて、背中を撫でたあの感触。
 確かに、彼はそう言って奥の部屋へ向かっていった。それははっきり記憶している。
 ボッシュは縋り付く小さな掌をもてあましながら、時計を睨んだ。
(まさか、また更に頭を冷やしに行ったとかじゃねーだろうな…)
 そんなことを考えながら、尚もしゃくりあげるニーナを彼なりに一生懸命あやしているところに。
 がちゃり、と扉が開く音が聞こえた。
「……あれ。…起きてたの? 二人とも…」
 扉を開けて、そんな暢気な言葉をかけてきたのは、勿論家主であるリュウだ。
「りゅ! りゅー!」
「え、…に、ニーナ! どうして泣いてるんだっ? ぼ、ボッシュ!?」
「ハ? …ち、違う! コレが泣いてるのは俺のせいとかじゃなく、むしろおまえのせいで」
「りゅー!」
 どうやら近くのコンビニまでパンを買いに行っていたらしい。リュウはぼとぼとと袋を玄関に落とすと、慌ててこちらまで駆け寄ってきた。
 そして、ボッシュに抱えられたままのニーナと目線を合わせ、自分こそが泣きそうな顔で「ニーナ? どうしたの?」と尋ねる。
「ふえ……ぇえ…。りゅー…」
「……そっか、ごめんね…おれが遠くに行ったと思ったんだね?」
 リュウは自分に小さな手を伸ばしてくるニーナに微笑んで、大丈夫だよ、と呟く。
「ちゃんとここにいるよ。…今はちょっと買い物に行っただけなんだよ。大丈夫だよ…」
 きゅっと小さな掌を握って呟く言葉。
 その言葉に、ボッシュは何故かひどく安心した。

『ちゃんとここにいるよ』

 その一言に、救われたような奇妙な心地になったのだ。
 リュウはここにいる。
 ニーナと自分のそばにいる。
 それを確認したことに、強く安堵したのだ。
 まだ小さくしゃくりあげているニーナを軽くゆすり、彼にしてはひどく優しい声でリュウに話しかける。
「…何買ってきたの。メシにしようぜ」
「あ、…うん。ニーナ、朝ごはん。…ね?」
 リュウはボッシュの声に、少しまごついたように瞬いた。
 彼はそのまま視線を合わさず、ニーナだけを見て「食べようか」と呟く。
 その態度に、一瞬ボッシュの眉が寄せられたのだが。
(…。…まあ、昨日の今日だしな)
 笑えない悪ふざけをしかけたのは自分だ。
 ボッシュは、そう考えて譲歩することにした。
 ようやく涙の止まりかけてきたニーナをリュウの腕に預け、彼はリュウの買ってきたパンを受け取り、テーブルに広げる。
 ここにいるよ。
 その背に、再びリュウの言葉が届いた。
 ニーナにかけた声だろ、とボッシュは、心の中で念押しする。
 俺がこうして、いちいち反応することはない、と。
 甘いパンはニーナ用だろう。残りの調理パン二種類を適当に置いて、食パンはテーブル隅にある籠に放り込む。
「……ほら、ニーナ。ごはん、食べようか」
 しゃくりあげる声は、もうそろそろやむだろう。
 だってリュウは約束した。こいつはここにいる。
 ここに。ボッシュとニーナのそばにいるのだ。
 彼は確かに、わけもなく、そう確信していた。
 そして、それは真実だったのだけれど。

 それはどうやら、そういう意味での「ここ」ではなかったらしいと。
 ボッシュがそう気づいたのは、翌日になってからだった。


*     *     *     *      *

「……?」

 いつもと変わりない朝だった。
 目覚めて、朝食を食べて、支度をして。
 玄関で靴を履き、ニーナの靴紐がほどけたのでボッシュがかがんでそれを直してやって。
 さあ、出かけようとドアを開けて閉めて、鍵をかけて。
「……」
 ガチャリと鍵を閉めてから、いつものように隣を見やって。
「―――…?」
 ニーナがまず首を傾げ、ボッシュを見上げた。
 見上げられたボッシュも眉を寄せ、いつもそこでにこにこ笑っている筈の男を探す。
 しかし、狭苦しいマンションの廊下で探すと言っても、扉を見て、天井を見て、エレベーター付近を見れば、あっという間に捜索は終了してしまう。
「……りゅ」
 ニーナが小さくそう呟いて、途方に暮れたようにボッシュの指先を手繰った。
 ボッシュはどうにかその手を握り返して、更に眉を寄せるしかない。
「まだ寝てんじゃないのかアイツ」
 ようやく呟いた言葉は、我ながら信憑性がなかった。
 仏頂面のまま、それでもニーナの手は離さないままで、ガチャリと隣の隣のドアノブを回す。
 しかし、ドアノブは上手く回らない。
「……」
 がちゃ、がちゃと何度か回してから、ああ鍵がかかってるのかと気づいた。
「……。…今日は、先に幼稚園行ったみたいだな」
「……しゃきい?」
 ニーナが眉を寄せて、小さくそう呟く。
「ああ。…先に行っちまったんだな。…俺たちも行くぞ」
 遅刻する、と小さな掌を引っ張って、二人はエレベーターの前まで歩いていった。
(何だよ。…まだ怒ってんのかよ)
 今までこんなことはなかったと思う一方で、けれど夕方にはきっといつも通りになるとボッシュは考える。
 柔らかいニーナの掌をしっかり掴んで歩きながら、ボッシュは吐き出した白い息を忌々しく見送った。
 いつも通りになると確信している一方で、しかし、捉えどころのない不安があるのも事実で。

 ……二人はその日、コンビニに寄るのを忘れた。


                    










書き忘れてましたが、二人のおべんとはずっとリュウが作ってくれてたのです。
こんな展開で、まだ続く。
も少し。も少しです。