『嫌じゃなかったんだ』
「夕方にはお迎えに来てくださいね」
言われた言葉は、やけに他人行儀だった。
ボッシュはちょっと呆然として、それからムッとして「おい」と声をかけたが、リュウは曖昧に笑うばかりで。
「…仕事、遅れるんじゃない?」
ニーナの手を引いて、そう言うのだ。
手を引かれた姪も、どこか不安げにリュウを見上げている。
彼が、唐突に昨日までの彼でなくなってしまったことを、幼いなりに、いや幼いからこそ鋭敏に嗅ぎ取ったのだ。
ボッシュは暫し、何か言ってやることを探していたが。
…何か、自分は言わなくてはいけないと思っていたのだが。
「……。いい子にしてろよ」
結局、そう、ニーナに言うことしか出来なかった。
彼はそのまま踵を返して、出勤の為に園から出て行く。
リュウはそれをぼんやりと見送って、自分のことをひたむきに見上げるニーナに、そっと笑うのだ。
「…中に入ろうか? 寒いよ、ここ」
「……、…」
ニーナは若干躊躇ってから、ようようその言葉に頷くと。
昨日とは変わってしまったリュウに手を引かれ、室内に戻っていった。
* * * * *
一体何がいけなかったのか。
(……あのキスだろうな。そりゃ)
ボッシュは自問自答して、嘆息した。
絶対にあのキスがまずかったのだ。
その場のノリと勢いで、何となくキスをしてしまった。
それくらいでこんなに頑なにならないでほしいとも思うのだが、事実、今ボッシュとリュウの間には深い溝が出来ている。
…いや、とばっちりを受けたニーナも含めれば、二人と一人の間だろうか。
先週の日曜から、今週の日曜まで。
あっという間に一週間は過ぎ、リュウとボッシュの間の溝は埋まるどころかどんどん広がっていっているような具合だ。
ニーナはリュウが余所余所しいと、自宅でも元気がない。
昼寝をするときも、彼女が不安げに枕を抱えているので、仕方なくボッシュが添い寝をしてやる。
「……おうた、うたって」
ニーナの発音は、日に日に明瞭になっていく。
ついこの間までは、うた、を、うちゃとか発音していた筈なのに。
ボッシュはそんなことに小さな驚きを感じながら、その驚きを先日まで共有していた相手がいないことへの不満も感じる。
「そういうのはリュウが担当だろ。…幼稚園ででも、あいつに歌ってもらえ」
「…。どぉして、ここには、こないの?」
「…知るか。絵本読んでやるから、とっとと寝ろ」
ボッシュはその言葉に罪悪感や後悔が疼くのを感じながら、少し乱暴にニーナの金髪をかきまぜた。
(どうしたら、またきてくれるの)
姪の言葉は、それも同時に尋ねているような気がした。
全くのところ、ボッシュもそれを聞きたくて仕方ないのだ。
「……。…謝ればいいのか?」
ニーナが寝ついた頃、ようやく思い付いたのがそれだった。
けれど、何だかそれも違うような気がする。
(つか。…あいつそんなに怒ってるのか?)
怒ってるとか、喧嘩しているとか。
そういうのとは、また違う気がする、とボッシュはすやすや眠るニーナの寝顔を見て考える。
昨日まで仲のよかったひとが、急に余所余所しくなる。これは一体どういう事態なのだろうか。
そして、相変わらず彼は。
「……。…不機嫌なときも、笑ってるんだよな。あいつ」
朝も、夕方も。
一緒に帰ろうと珍しく声をかけたにも関わらず「ごめん、まだ仕事があるんだ」と断られたときも。
夕飯一緒に食べようと誘いに行ったにも関わらず「ごめんね、今夜はもう食べちゃったんだ」と断られたときも。
ずっと、変わらぬ笑顔で。
―――笑顔の距離。
ボッシュは唐突にその言葉を思い出して、小さく舌打ちした。
かすがいみたいに真ん中に入って、さんざんお節介を焼いて。それなのに、こうしていきなり放り出すのか?
自分が原因であるということも忘れ、ボッシュはだんだんと苛々してきた。
謝ればいいのだろうか。
ボッシュは考えながら、眉を寄せる。
キスしたことを謝れば、なかったことにすれば、そのまま数日前の自分達に戻れるのだろうか。
しかし。
ボッシュはそこで、訝しんで目を眇めた。目の先にはベランダ。洗濯物が揺れている。
謝ってなかったことにする。
それが嫌なのだと、不意に思う。
そうしたかったから、そうしたのだ。リュウはそれに関して不満があるというのなら、自分に対して文句なり何なりを言えばいい。
今の状態のように、黙ってよそよそしくなるのはフェアではない。
「嫌ならそう言えよ」
ボッシュは小さく呻いた。返事はない。何故ならば、この部屋はボッシュとニーナの家でしかないからだ。
* * * * *
「…嫌じゃなかったんだ」
リュウは誰もいない部屋の中、自分しかいない部屋の中で呟いた。
ごろんと畳に転がって、目の数を数えてみる。
かさりと、乾いた唇をなぞった。
(だから逃げ出したんだ)
続きは胸中で呟いて、小さく笑う。
好意から逃げたのだ。
自分へのそれにも、相手へのそれからも。
そう。彼はいつもそうして逃げてきたのだ。
長く、深く関わりすぎないよう、細心の注意を払って。
なのにあの二人には随分油断してしまったようだ。
…ニーナが自分と同じように、両親を交通事故で亡くしたからだろうか。
ボッシュが、あまりと言えばあまりの食生活を送っていたからだろうか。
とにかく、リュウは今、小さな安堵を手にしていた。
―――大切なものを失う辛さを味わうくらいなら、最初から手にしない方がいいのだ。
両親を事故で亡くしたあの日、リュウはとても、とても悲しかった。
幼い彼は、どうして自分がそのまま死んでしまわなかったのか、死んでしまわないのかを不思議に思った。
こんなに悲しいのに、どうして自分はなくなってしまわないのだろう?
(…あれからだ)
リュウは小さく溜め息をついて、自嘲するように笑う。
(あれから、おれはひとと関わるのが怖くなったんだ)
こんなに悲しいのなら、もう親しい人をつくらなければいい。
両親が残してくれた財産と、奨学金を頼りに高校に入ってすぐアルバイトを始めた。
そうして働いた金で専門学校に通い、幼稚園教諭の資格をとった。
引き取ってくれた親戚には、義務教育と高校の入学資金でも随分世話になってしまったから、これ以上迷惑をかけられないと思ったからだ。
『いいんだよ、リュウ』
優しい叔母は、そう言ってくれたのだったけど。
『お前はそんなこと、気にしなくていいんだよ。勉強したいのならそう言いなさい。お前を育てるって決めたときから、私たちは覚悟を決たんだからね』
優しい親戚。
子どもに恵まれなかった彼らにとって、リュウは初めて与えられた子どもだったのかもしれない。
事故後、ニーナのように心を閉ざしかけていたリュウを見守り、育ててくれたひとたちだった。
(…それでも。……ごめんなさい)
それでもリュウは、彼らが彼を愛するように、心を返すことが出来なかった。
恐ろしかった。
彼の心を大きく占めていた両親が、この世から失われた瞬間の、あの孤独。いたみ。絶望。
それを再び味わうことは、どうしても耐えがたかった。
『私はお前の母さんにはなれなかったけど。…ねえリュウ、お前は私たちの家族なんだよ。それだけは忘れないでいてね』
家を出て暮らします、と言ったリュウに、ただ微笑んで、いってらっしゃいと言った叔母。
身体に気をつけなさいと言って、少しだけ沈黙した叔父。
(……)
リュウはその姿を瞼の裏に思い起こすように、そっと目を閉じた。
けれど、何故か脳裏に閃いたのは、手をつなぐ仕草だった。
隣の隣の部屋に住む叔父と姪は、自分がいなくても、ちゃんと手をつないでいるのだろうか?
もう自分が心配することではないけれど、と思いながら、リュウはごろりと寝返りを打って、右頬を撫でる。
畳の跡がくっきりと残ってしまっているのだろう。指先に触れる感触は、少しざらりとして。
(……おれは、あのひとたちを愛していたんだろうか)
中途半端に笑いながら自問しても、答は出ない。
リュウは口の端に浮かんでいるのであろういつもの笑みに辟易して、喉元を押さえた。
誰にでも浮かべてみせる笑顔。
誰にでも同じに見える笑顔。
――よくないと思いながらも、けれど、リュウはいつの間にかそういう風にしか笑えなくなってしまっていたのだ。
だから、あのボッシュの言葉は本当に不意打ちで。
……だから、本当はとても嬉しかったのだけど。
「…だめだ」
リュウは不意に、がばと起き上がった。
これじゃだめだ、と思ったのだ。
「………だめだ」
脳裏に閃いた、手をつないでいるひとたちは、ニーナと、ボッシュと。
「……だめなんだよ」
それから、リュウだ。
リュウはそのことが、とても重大な罪であるかのように俯いて、喉元を押さえた。
(…ボッシュは少しだけ、皮肉気に笑うんだ。そのくせ、本当に嬉しいときは妙に晴れやかに、子どもみたいな顔をする。……本人は、きっと自覚ひとつしてないんだろうけど)
(ニーナは、とても可愛らしく笑うようになった。幸せそうに笑ったり、ボッシュの言葉にいちいちむくれたりする。きっと今、ううんこれから、毎日可愛らしくなっていくんだ)
思い起こす二人の面差し、表情、仕草、そんなものがひどくいとおしくて、リュウは小さく笑った。
しかし、その笑みはすぐに凍り付いて。
―――耳の奥にへばりつく自動車のスリップ音。
悲鳴。
線香の匂い。
読経の声。
まだ若いのに、と呟いたのは親戚の誰か。
リュウは縋る場所を探して、虚しく母親の箪笥を探って、洋服を取り出した。
葬儀の場所にはいたくなかった。
幼い彼はなくしてしまったひとびとを手繰るように、着る者のいない衣服の端を握り締め、父親の手にしていた煙草の匂いを探すのだ。
もういないのだ。
もう、いないのだ。
それでも、彼はそうして縋るしかなくて。
縋っても、それらは頼りない感触を返すばかりで。
「………グッ…」
リュウは口元を押さえて、そのままトイレに駆け込んだ。
こみ上げてきた吐き気と共に全てを出してしまいたくて、便器に顔を近づける。けれど、何も出てこない。
何も吐き出せない。
「ぁ…はぁッ…あ…」
喉をかきむしるように、ぎゅっと爪を立てて。けれど、本当にかきむしる勇気もなくて。
リュウは壁にもたれて、だめだ、と力なく呟く。
「だめなんだよ…。……おれは、だめなんだ」
『おまえの表情だったら、すぐわかるんだよ』
一週間前のボッシュが、そう言って呆れたように肩をすぼめている。
ばかじゃないのおまえ。
ごまかしたって、俺にはちゃんとわかるんだよ、リュウ。
「………」
リュウはそのまま、身体を丸めるようにしてうずくまった。
やめてくれ、と小さく呟く。
(おれはもう、誰かを愛して、失うことはしたくないのだから)
昨日のニーナが、もううちにはこないの、と小さな声で、囁くように訴える。
「……だめなんだよ…」
―――こわいんだ。
リュウはそう小さく呟いて、誰も聞く者がいない家の中でうずくまるしか出来ないでいた。
話がどんどん重くなってきて申し訳ないです。(むしろこれは「痛い」というのでしょうか…)
リュウが愛情に臆病な理由、というやつです。
これはいわゆるトラウマだとか、PTSD(間違ってたらすみません)に入るのかもしれないです。
が、すみません、全然細かいことは調べておりません。
こういったことは大変デリケートな部分なので、本当はきちんと調べてお届けできればと思うのですが。
ですが、私の心情と、私にとってのリュウ、そしてこの世界の中のイメージは、ある程度お見せ出来たのではと思います。
実のところ、リュウは、この話の中では一番子どもなのです。
だからこそ、愛に憧れ、縋り、ギリギリのところまできて恐ろしくなって、手放してしまったのです。
ボッシュとニーナがどう出るかは、展開次第ですが…。
全部が全部救われて、あとくされなく全部オッケイ、ハッピイエンドというのは、そうそう簡単ではないのないのだろうなと思います。
ですが、出来うる限り彼らが幸せになるよう、彼らが後悔のない選択をするよう、私も描いていきたいと思っております。
ですので、今しばらくお付き合いいただければ幸いです。
……多分、このままいくと話は軽く十話を越えます。
目標はせめて、……いや、言わんでおきましょう。(俯いて)