『そうだと思った』




「…ちょっといいかしら?」
 彼女はそう言って、優雅に微笑む。
 さわり心地の良さそうなファーで首元を覆うコート。
 あ、高そうと反射的に思ってから、リュウは瞬きした。
「はい? なんでしょう」
 今日も空気は冷たい。春まで、あと数ヶ月。けれど、その数ヶ月が果てしなく長く感じられるのは、こういった冬の冷たさを覚えるときだ。
 問い返す彼に、彼女は「こちらの」と言って、ちらりとメモの切れ端を見せた。
「このひとは、ここの何号室にお住まいか、ご存知かしら?」
 爪は赤い。
 綺麗に刷かれたそれは、途中でうっすらと色を変えていて。
「……ええと」
 リュウは反射行動のように、ぱっと笑顔を浮かべた。
 おれは別にホテルマンでもないのだから、こんな風に笑う必要なんてないのだけど。
 この、やっぱり美人で、綺麗な格好をした女性に向かって、何故か負けてしまったような心境でいることなんてないのだけど。
「………。……604号室ですよ」 
 彼は結局そう答えるしかなくて、そのまま半端に浮かんだ笑顔を維持した。
「そう。ありがとう」
 悠然と笑う彼女のため、エレベーターを呼ぶリュウに、彼女は礼に続けて言葉を述べた。
「やっぱり、あなた親切なのね。……だから」
 チン、と音を立ててエレベーターが到着する。
 扉が開く音に紛れ、彼女が続きを口にした。
 リュウはその言葉に少しだけ複雑そうな顔をして、まだ浮かべていた笑顔のままで、下唇を噛んだ。
 やっぱりそうかなと呟いた言葉は、自分の耳にだけぼんやり届いた。


*     *     *     *      *

 ピンポォン、と響く。
 ドアチャイムか、と思った瞬間に、ボッシュはがばりと顔を上げた。
 その膝にもたれるようにしてテレビをぼんやり眺めていたニーナも、ハッと顔を上げる。
 時刻は夕方、5時を回ったところ。
 ニーナが好む幼児番組を、いつものように、二人きりで呆けたように見ていた矢先だった。
「…新聞なら間に合ってるけどな」
 ボッシュが反射的に顔を上げてしまった自分を恥じるように、そう小さく呟く。
 言い訳めいたそれを打ち消すように、ニーナはその横ですっくと立ち上がった。
「りゅー!」
 そして、ぱたぱたと軽い足音を立てて玄関に向かう。
「オイ待て、ちび! まだ開けるなよ、アイツだって決まったわけじゃ…」
 ボッシュはその身軽な身体を追いかけるように、慌てて立ち上がり、玄関に向かう。
 もしかしたらリュウかもしれない。何か用事があって、いや、用事がなくてもいい、来たのかもしれない。
 そんなことを考える自分が少し滑稽で、ボッシュは思わず小さく苦笑してしまった。
 そうして玄関先まで出てから、一生懸命にニーナが開けた扉の向こう。
 立っていた女性の姿に、彼は更に苦笑した。
「……あ」
 ニーナが、驚いたように。そしてがっかりしたように小さく声を上げて、女性とボッシュとを見比べた。
「こんにちは、ボッシュ。…ニーナちゃん」
 微笑む彼女は、先日車からボッシュを呼び止めた彼女だ。
「……どうもこんにちは? けど、おかしいな。俺は、アンタのことをここに招待した覚えはないんだが」
「ええ、そうね。私も招待状を受け取った覚えはないわ」
 ボッシュが皮肉たっぷり言う言葉に、しかし彼女は当たり前のようにそう応じる。  
 彼の足元までぱたぱたと戻ってきたニーナが、ぎゅっとボッシュの足にしがみついて彼女を見上げた。
「ここ、いいところね。マンションの内装も綺麗だし」
「そいつはどうも」
 ボッシュはチッと小さく舌打ちして、足元を見なくても不機嫌と分かる姪をどうしようか、そして目の前で微笑む簡単には帰りそうにない女をどうしようかと暫し考えた。
「あっ」
 しかし、その考えを中断させるように、ニーナが急にぱたぱたっとボッシュの足から離れ、玄関に飛び出した。
「おい、ニーナ!」
 慌てて名を呼ぶボッシュに、ニーナは思いっきり「いー!」と舌を出してから「おそと!」と叫んで飛び出していく。
「あ、」
 ボッシュは一瞬固まってから「あんま遠くに行くなよ…!」と閉まる扉に向かって怒鳴り、バタンと閉じられた扉に大きく舌打ちした。
 横でくすくすと笑う声に眉を寄せれば、ボッシュに押しのけられるようにして玄関の隅に寄った女が、いかにも楽しそうに笑っている。
「……」
 ボッシュは「くそ」と小さく呻いてから、半ばヤケクソのように女に声をかけた。
「上がれば? そのために来たんだろ」
 彼女は悠然と微笑み「ええ」と言った。
 ヒールの高い靴が、揃えられ、玄関に並んだ。
「……」
 少し前は、小さな小さなニーナの靴と、ボッシュの靴と、それからリュウの靴が並んで。
 ほらまたこんなに脱ぎ散らかしてダメじゃないかボッシュ、ニーナはちゃんとやってるよ、大人なのにみっともない。
(そう。小言を言うときばかり、あいつの口は良く回るんだ)
 …そんなことを考えて、ボッシュはそっと眉を寄せた。 
「あのひととは、もうキスくらいしたの?」
「…。は?」
 梅昆布茶でも出してやろうかとボッシュは考える。
 それとも、茶漬けでも出せばいいか。あるいは、箒を逆さに置くとか。
 嫌な客をとっとと帰すための魔よけだか生活習慣だかをつらつら頭に浮かべていたところに、言われたセリフだった。
 誰が、誰と。…なんだって?
 ボッシュは眉を寄せて、コートを脱ごうとして、けれどやめた見合い相手を見つめながら、眼差しで説明を求める。
 しかし、本当に意味が分からなくて聞き返したボッシュを、彼女ははぐらかしたことを咎めるような目つきで見た。
「あの保父さんよ。そう、さっきここの部屋番号案内してもらったわ」
 親切ね、彼。
 そう呟く彼女に、ボッシュは僅かに動揺を見せて再度聞き返した。
 まず何を聞き返せば、と考えながら、けれどその割には何も考えていないような返答を。 
「…何で、キスなんだ」
「あら。何でって」
 女は、首を傾げて微笑む。その拍子に、細い頤がファーの中に埋もれた。
 白い肌、ほっそりとした首。
 だけれど、そう、確かあいつの方が首が細かった気がする。
 ボッシュは一度だけ触れたリュウの首筋を思い返して、そんなことを思った。
 そんなことを思いながら、目の前の女の答を待つ。
「あのひと、あなたのことを好きでしょう」
 ……ボッシュは、その言葉に感じた動揺を、先程よりは上手に隠せたと思った。
 そう、呼吸を一瞬忘れた程度だ。きっとそれほど目立つまい。
 ボッシュはそんなことを、どこか呆然としながら考えていた。
「…。リュウが俺を?」
 馬鹿げた冗談だと笑い飛ばせばいいのに、何故かそうできなかった。
 そうならば、いいのに。
 女の言葉に、一瞬だがそう思った自分がいることに、また動揺する。
「知らなかったの」
 女は、呆れたように言った。
「好きだなんて気持ちは、一番シンプルでわかりやすいものなのに。あなた、結構鈍いのね」
 呆れたというよりも、諦めたと言った方がいいだろうか。
 女の声は、どこか優しく、乾いていた。彼女は、哲学を語るように、あるいは早熟な少女が少年に向かって誇るように、続ける。
 好意は、相手に気付いてほしくていつもうずうずしてるのよ。
 女は言った。
「あのひとも、そういう目をしてたわ。気付いて気付いて気付いてって」
 呆然とするしかないボッシュに、彼女は微笑みかけた。
 声と同じような表情で。
 優しい、乾いてしまったような笑顔で。
「……そう、私もずっとそう言ってるのよ?」
 それなのに、あなた一度もそんな顔しなかったわね。
 呟く彼女の顔が、近付く。
 ボッシュはその顔を、体を、半ば反射的に受け止め、押し当てられた唇に困惑した。
 がたんと、遠くから物音が聞こえる。
 何の音だろうと考えるよりも先に、ボッシュは柔らかい女の体を抱き寄せ、押し当てられた唇を吸い上げ、かつてリュウにそうしたように舌を絡めた。
 しかし、彼はすぐにその体を突き放す。
「…悪い」
 彼女は、ただ笑った。
 今度こそその笑顔から、優しさが消えた。
 最後の潤いが消えた笑いは、多少引きつっている。ボッシュはそれに気付かないフリをした。
 自分が、もし同じ立場なら気づいてほしくないと思ったからだ。
 そのとき、ボッシュは初めて気づいた。
(ああ、アンタ俺に似てるんだよ)
 そう思うと、何故かひどく馬鹿馬鹿しいような気がした。彼女もそうだ。そして、自分もそうだ。
「知ってたわ」
 女はそんなボッシュの心中を知らないまま、困ったように目尻を下げて、嘆息する。
「だって、あなたも同じ目をしてたから」
 あの保父さんに向かって。
 気付いて気付いて気付いてって。
 聞こえたのよ、と女は言って、彼女はもう一度ため息をつく。
 聞こえたの、と呟いて。


*     *     *     *      *

「…ところで、追いかけなくていいの?」 
 うなだれていた彼女が、不意にそう呟いたのはため息二回の何分後だっただろうか。
 ボッシュはその言葉に「あ?」と眉を寄せる。
 意味が分からない言葉に困惑したのもあるし、女が最後に言った言葉をはっきり否定できない自分に苛立っていたのもあった。
 女はそれを楽しむように、くすりと片頬をあげた。そして、くいっとファー越しに玄関を示して、はっきりと笑ってみせる。
「保父さん、そこにいたのよ?」
「………。なんだって?」
 何の冗談だと顔をしかめるボッシュに、女は呆れて肩をすぼめる。
「あら嫌だ。気づいてなかったの? さっき、がたんっていったの。…あれ、保父さんの立てた物音でしょ?」
「……。……」
「一度、中を覗いたか何かしたんじゃないの。違うのかしら。どうでもいいけど」
「………」
 ボッシュは、ぐるぐると不明瞭に回る思考の中、とにかく立ち上がって、つかつかと玄関を目指す。
「…。……やっぱり追いかけるのね」
「……」
 その言葉に、彼はどう答えていいのか自分でも良く分からないまま「当たり前だ」と呟いた。
 そう、当たり前だ。
「……キスシーン、見られたものね」
 そしてその言葉とともに、がたたっと音が響いたのは、ボッシュが玄関で足を踏み外しかけたからだ。
 彼女はそれにくくくと喉奥で笑って、彼を堂々と押しのけるため玄関まで颯爽と足を踏み出した。
「ばかね」
 呟かれた唇の動きに、ボッシュは(ああ、こいついい女だな)と今更のように思う。
 しかし、それでも彼は。
「そういえば、名前も呼ばれなかったわ。私」
「ああ」
 ボッシュは狭い玄関の中、ヒールの高い靴を履いてすっくと立つ女に、正直に答えた。
 そう、それでも彼は、リュウを追いかけるのだから。
「忘れちまったんだよ。あんたの名前」
 明瞭に紡がれた、その言葉。
 女はその言葉に、すうっと目を細め。
 それから、鮮やかなほどにっこりと笑った。
「そうだと思った」
 続いてぱあんと響いた音も痛みも、その笑顔と同様、実に鮮やかだった。


                    













ボッシュの情けなさ最高潮で、ボッシュファンの方には土下座してもし足りません。
こうですか。(土下座)
こうがいいですか。(三つ指もつきますよ)
そうそう、最後まで見合い相手の名前を明かさなかったのは、こういう話の展開があったからなんですよ!
とごまかしてみたり。(やっぱりごまかしかよー)
憧れはこういうおねーさんです。
恋を愛し、身軽に生きて、親戚連中にも微妙にウケがいい要領のよさ。でも男運はあんまりよくないんですよこのひと。
ボッシュに対して本気だったのかは不明ですが、似たもの同士でうまくやれたのかどうかは本気で神のみぞ知るってヤツです。


ドラマチックな展開(甚だしく疑問)もにおわせて、次回はわりと急展開です。
ええと、目指すはあと二話か三話で完結。