『あけたらだめだよ』




「やっぱり、あなた親切なのね。……だから」

 エレベーターが閉じる寸前、彼女はそう言って笑った。
 リュウは、その赤い赤い唇の動きを目で追って、傷ついたように立ち尽くす。
 だから、彼の面倒もみてくれるのね。
 そう言うみたいに動いた、唇の動き。
 ありがとう、と言うみたいに悠然と微笑んだ彼女。
 咄嗟に浮かんだ感情は、ずるい、というそれ。
 何がずるいって言うんだろう、とリュウはかぶりを振った。
(何がずるいって?)
 脳裏に、自分が以前言った言葉が蘇る。

『…もしかしたら、このうちに家族が増えるかもしれないんだよ?』

 ああ、それがずるいんだ、と思ってから、リュウは苦笑した。
(…それの、何がずるいっていうんだろう)
 何故か彼女が乗ったエレベーターには乗りたくなった。
 非常階段に響く靴音は、何重にもなってリュウの元へ帰ってくる。自分を取り囲む靴音が、まるで目に見えるようだと思ってリュウはぞっとした。
 靴音の一つは、ニーナと同じ年頃の自分が。
 あるいは、別の一つは、高校生くらいの自分が。
 幼稚園に勤めるようになってすぐの、子どもたちにしか心を開けない自分などが間近で歩いていて。
 疲れてるな、と彼はかぶりを振る。
 下らない妄想を振り払って扉を開ければ、そこは丁度目指していた6階で。
 彼はようやく安堵して、自分の家の前へと向かう。こんな日は早くシャワーでも浴びて、休むのがいい。
 ここのところお腹がすかない。今日もそうだったので、また夕飯は食べずに寝てしまおう。
 不健康だなあとリュウは一人で力なく笑って、ドアの前に立って。
「………」
 唖然として、その前にうずくまっているニーナを見下ろした。
「…ニーナ?」
 何してるんだろうと、慌てて荷物を持ったまま子どもを抱き起こす。
 どうやらすうすうと寝息を立てているらしい少女は、リュウの家に入ろうとしていたようだが。
「……」
 リュウはため息をついて、柔らかく暖かい子どもの身体を腕に抱えた。
「…困った叔父さんだね。君を放り出して、ボッシュは何をしてるんだろう?」
 独り言めいた囁きは、ひどく優しくて、憮然としていた。
 さらりと指をくすぐる金髪は、ボッシュにとても似ていると今更のように気づく。
 一人で家を出てきたんだろうか、とリュウは嘆息して、今のところ起きる様子のないニーナを見下ろして、またため息をついた。
 この短い間に、自分はどれだけため息をついているのだろう。
 ため息をつくと幸せが逃げると聞くが、もし本当だとしたらどれだけリュウの幸せは逃げて行ってしまったのだろう。
 よいしょとニーナを抱え直し、リュウは覚悟を決めて隣の隣へ向かった。


 …そして、その腕の中、リュウに気づかれないよう、ニーナがぱちっと目を開ける。
 ゆらゆら揺れるリュウの腕の中は、とても暖かくて居心地がいい。
 ここで待っていたらリュウが帰ってくるだろうと思っていたが、それは意外と早かったようだ。彼女はそれを嬉しく思い、同時にリュウの足が、最近やっとそう認識できるようになった彼女の「家」に向かっていることに気づいて、少し憂鬱になる。
 だって、きっとまだ中には「あのひと」がいるのだ。
 ニーナのキライな、「あのひと」が。
 ボッシュのことが好きで、ボッシュのことをつれていこうとするあのひと。
 ニーナは、あんな女の人はいらない、と思う。
 あの家には、ボッシュとリュウとニーナがいれば、それで十分なのだ。
 彼女がかつて暮らしていた家に、ニーナと、彼女の母と、彼女の父がいれば十分だったように。
 ニーナは、まだ言葉は少しおぼつかなかったけれど、その「十分」の理由も、名前もちゃんと知っていた。
 ボッシュもリュウも何故か口にしないけれど、ニーナはちゃんと知っていたのだ。
(かぞくって、いうのよ)
 きゅうと頭をリュウの肩に擦り付けて、ニーナは小さく息をもらした。
 リュウがすき。
 ボッシュがすき。
 だから一緒にいたいって思うのに、どうしてリュウはそうしてくれないのかしら。
 ボッシュだってリュウのことがすきなのに、とニーナはこっそりリュウを見上げて、それからまたぱちりと目を閉じた。
 扉を開ける音。
 まだあのひといるのかしらと思うニーナの知らないうちに、リュウは中を見て、絶句して、呆然として。



 また扉を閉めてしまった。


*     *     *     *      *

 ―――自分がどうやって鍵を開けたのか、覚えていない。

 リュウは呆然と玄関先にへたり込み、ぎゅううと力をこめてしまっていた両腕からどうにか力を抜いて、ふらふらとニーナをソファに寝かせる。
 そうしてから土足で家の中に入っていることに気づいて、慌てて靴を脱ごうと玄関に向かった。
 ああでも靴を脱いでから玄関に下りたほうがいいかななんて思って靴を脱ごうとして、そこでやめる。
 すごく馬鹿馬鹿しいことで悩んでいる自分が可笑しくて笑おうと思ったのだが、どうも笑顔が作れない。
 鏡はどこだろう。確認しないと、と思ってすぐに、いや、何を確認するんだっけ? と自問してしまう。
 何だか、ひどく混乱していた。  
 原因ははっきりしているけど、だからといって引き起こされた事態をどうにかできるわけではない。
「……おちつけ…」
 リュウはそう、低く呟いて、とりあえず靴を片方脱いだ。玄関先に転がす。
 おちつけ、おちつけと何度も呟いた。呟くたびに落ち着けない自分に気づいて、リュウは何遍も頭を振る。
 先ほど目にした光景が、今も網膜に焼き付いているようだ、と思う。

 ―――何かを話しているらしい二人。
 一緒にいる女のひとに、ああ、やっぱりいたかと思って、声をかけようとして、けれど続くシーンに声なんて出なくなって。
 唇が近づくって思ったら、くっついていた。
 ボッシュが慣れた仕草で彼女を抱き寄せ、深く口付ける。
 ああ、と声もでない、何も考えられない頭の中に、その二つの文字だけが浮かんで。
 そのとき、キスをしている女の人とばちっと目が合ってしまって。
 …彼女は、確かに目で何か言っていたと思った。
 どうしたのと言っているようにも見えたし、邪魔しないでと言っているようも見えた。
 労わっているようにも、哀れんでいるようにも、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。
 けれど、そこにはどうしようもない立ち入りがたい世界があって。
 リュウはただ立ち尽くすことも出来ず、ドアノブから手を離して逃げ出すしかなかった。

 そうだ、逃げ出したのだ。
 リュウはそのことに、ようやく少しだけ笑った。
 逃げることは得意だ。
 いつも、そうして、辛いこと、哀しいこと、楽しいことからすら逃げてきたのだから。
 楽しいことの次には辛いことがあるという。だったら、楽しい内に逃げてしまえばいいのだと思うのだ。
 ボッシュの唇が柔らかいことをあのひとは知っているんだろうかとか、それ以上のことも知ってるんだろうかとか、そんな余計なことは考えないほうがいい。
 冷たくなる指先に噛み付いて、リュウは何度も瞬きする。
 落ち着きのない動作を、笑う余裕もない。
 
 ずるいと思った。

 先ほどよりもいっそう強く、ひどく痛切に、思った。

 あのひとはずるい。
 とてもずるい、と思う。
 女の人であるという理由だけで、ボッシュとキスをして。
(…ちがうよ、そうじゃないだろ…。もっとちゃんとした理由があるよ…)
 それでもずるいと思う。
 あんなおんなよりおまえがいいと言って、自分にキスをしたボッシュも、とてもずるいと思う。
 そんなのは、やっぱりどうしようもないくらいに嘘だったのだ、と思う。
 ずるいずるいと呟いて、リュウは玄関よりちょっと入ったところで、ぐずぐずとうずくまった。
 泣きたかったけど、それはあんまりだと思ったから、やめる。あんまりって何だろうと考えて、考えることもやめる。
 逃げ出してしまえと、リュウの中で何かが叫んだ。
 今すぐに駆け出して、逃げ出してしまえ、と何かが必死で言うのだ。
 片方だけ脱いだ靴。
 もう片方は、まだリュウの片足にある。
 あの日、この家から逃げ出したときも、そういえば靴は片方しか履いてなかったなと思い出した。
 それがおかしくて、けれど可笑しくはなくて、リュウは、もうどうしようもなくて呻き声をもらす。
(早く逃げないと間に合わない…)
 そう、思うのに、靴は重くて、片足は寒くて、どうしようもないのだ。
 歩けない、走れない。だから座っているしかない。
 呆然としているリュウの耳に、ドアチャイムが届いた。
(あけちゃだめだ)
 そう思うのだけど、ぴんぽんぴんぽんと急くように押されるチャイムが、まるでへたりこむリュウの手を引くようだったから。
 更に焦れたのか、どんどんとドアノックされる音も、リュウの背中を叩くようだったから。 
 リュウはふらふらと立ち上がって、ドアノブに手をかける。
 よく考えなくても、鍵はあいているのに。
 だけれどリュウは、そのドアが勝手に開くのを待たず、ドアノブに手をかけて扉を開けた。
(あけたらだめだよ)
 そう思うのに、そうしてしまったのだ。


 だからきっと。

 あけたらダメだなんて、本当には思ってなかったんだと、リュウは後になってから気づいたのだ。



                    











クライマックス。かもです。
リュウは多分、三人でご飯食べなくなってから、ちゃんとご飯食べなくなった、という設定で。
一人で食べるご飯は、確かに味気ないです。
今回は一気に更新なので、次に続きます。
ここまできたらラストまでもうちょっと…。