『どうしよう』




 焦れるようにして叩いた扉。
 俺は何をこんなに焦っているのかと、ボッシュは自分で自分をおかしく思った。可笑しくはない。笑えないのだけど。
 後ろを素通りしている女の気配。
 それにも気づかず、ボッシュはまたチャイムを押した。
 女もどうでもいいかのように、そのまま通り過ぎていく。
 開けろ、と思うのだ。
 開けてくれではない。
 自分は、自分からこの扉を開けることなど思いつかないから、お前が開けろと思うのだ。
 もうどれくらいこの扉を叩いて、チャイムを鳴らし続けているのだろう。
 ボッシュはそれすらよくわからないまま、また扉を叩いた。
 きっと鍵は開いているのだと思う。
 それでも、この扉はリュウに開けてほしかった。
 また前のようにここを開けて、困ったように笑いかけてほしかったのだ。
 なんて間抜けだ、とボッシュは自分を笑いたくなる。(相変わらず笑みの欠片も浮かばないのだけど)
 彼は自分のことが好きだろうか。
 そんなひとことがポンと頭に浮かんで、彼は何度目かのドアチャイムを鳴らそうとした指を一瞬止めた。
 けれど鳴らした。
 思い切り押した。

 出ろ!!
 開けろ!!

 そう思って押した。
 だから、扉がそっと中から開けられて、片方だけ靴を履いている、いつかの夜のようなリュウが出てきたとき、ボッシュはひどく安堵したのだ。
 絶対、一生、リュウにもニーナにも言わないだろう。
 この安堵も、安堵したという事実も、墓まで持っていく。そのまま一緒に燃やさせる、とボッシュは思った。
 そんな下らないことを思って佇むボッシュに、リュウがひゅっと息をのんで、瞠目する。
 逃げる。
 そう思った瞬間に、手首を掴んでいた。
 きつく、きつく掴んで、離さない。
「……。…。逃げるな」
 散々迷った挙句、出てきたのはその言葉だけだった。
 リュウはひどく狼狽したような目つきで、じっとボッシュを見ている。
 小動物が虚空を凝視するようにボッシュを見つめるものだから、見られるほうは、身体に穴があきそうだと少しだけ思った。
 掴んだ手首は、骨ばっていた。
 男の手首だと思ったけれど、それがどうした、とも思う。
 そうして逃げるリュウをとらえたまま、ボッシュは言葉を失った。
 言いたいことがたくさんあったはずなのに、見つからない。
 好きにすればいい。あいつがフェアじゃないからいけない。
 俺は謝らない。
 謝りたくない。
 そんな風に固まっていた彼の中のさまざまなプライドが、わだかまっていたはずの何かが、リュウの眼差しひとつ、惑ったように、唇を震わせる彼を見ているだけで崩れていく。
「……」
 今、自分が何かひとつ言うだけで、彼は永遠に失われてしまうのかもしれない。
 またこいつは逃げ出して、そして自分は二度と、あの数日前の安らいだ日々を取り戻すことが出来ないのだ。
 最近になって見せるようになった嘘つきの笑顔すら、見ることが出来なくなるのだ。きっと。
 そう思うと、足がすくんだ。
「……。…行くなよ」
 弱々しい声が漏れたことを、彼は笑うだろうか?
 奥のソファに、ニーナがいることにそのとき初めて気づいた。
 小さなニーナがソファのはじを握り締めて、こちらをじっと見ているのだ。
 ここにいてと懇願するように、じっとリュウを見て、それからボッシュを見て。
 その眼差しに、ボッシュは何ひとつ応えることができないまま、リュウの手首を握った力も緩められず、けれどリュウを抱き締めることもできないでずっとそうしていた。
「……ぼ」
 ボッシュ、と言おうとしたのか。
 それから、はなして、とでも言おうとしているのか。
 ボッシュはそれにかっとなって、遮るように手を力を込めた。
 そうしてから、やっと言葉を思い出す。
「…いくなよ」
 絞り出した言葉は、情けないほど掠れて。
 リュウの顔を見る。
 おまえは今、何を考えてる?
 その表情なら、わかるはずなんだ。苦しい顔、楽しい顔、悩む顔、怒る顔。
 探るように見つめて、気付けよと、表情でわめき散らす。
 気付けよ。気付けよ気付けよ!!
「なあ」
 声が、かすれて。
 情けないと思う。馬鹿みたいだと思う。それでも。

「おまえ、俺のこと、好きか」

 問いかけた言葉は、かすれてるくせにはっきり響いて。
「…え」
 リュウが、目を見張る。
 ボッシュは、しかしリュウの言葉を待たず、続けた。


「俺は。好きだ」


 きっと、今までこんな馬鹿みたいに直球で告白したのは初めてだ。
 好きだというのは、相手にも同じように応えてもらいたいからだということも、ボッシュは多分、今初めて知った。
 これは彼が今まで生きてきた中で、初めての告白なのだ。
 初めての、すきなのだ。

(だからいろよ。ここにいろよ)
(ここに。俺のとなりに)

(ずっとそばに)

 だからこそ、たとえ傲慢だとしても。
 それでも、応えてほしいと。こたえろよ、と思うのだ。
(ああ。でもマジで傲慢だな。これ)
 けれどそれでも苦笑すら浮かばないボッシュの前で、リュウが、目を見開く。
 黙り込む。 
 カチ、と秒針が動く音が聞こえた。
 1秒、2秒、3秒……。10秒までの時間すら、気が遠くなるくらい長い。
 言葉はない。
 リュウはけれど、確かに、手首を振りほどいて。
 ボッシュが怒ったような目つきで、それでも本当はひどく必死の顔を見上げて、その手を握りなおすのだ。
 背丈は少ししか違わないから、背伸びはいらないだろう。
 それでも少しだけ、リュウは伸びをするようにしてボッシュの唇まで顔を近づけた。
 しがみつく場所を探すみたいにするもう片方の掌。
 それをしっかりと握り締めて、ボッシュはリュウの唇が自分のそれまで到達するのを待ってから。
 どうしよう、と呟くリュウの声を聞きながら、その声も、唇も、全部飲み込んでしまうみたいに、口付けた。
 背中もきつく。
 ぎゅううと力をこめて抱きしめる腕に、けれどリュウも同じくらい力を込めて。
 唇を離すときは、何だかお互い物凄くおっかなびっくりで。
 ソファのとこで、ニーナが目を丸くしているのと目が合って、ああそういえばあのちびいたよと、ボッシュは内心ちょっと慌てた。
「どうしよう」
 リュウがもう一度呟く。
 ニーナから目をそらして、なにが、とようやく聞き返せば、彼は頬を染めてボッシュを見て。
 潤んだ目で、途方に暮れたようにして、言う。
「おれ。…もうどうしていいかわかんなくなっちゃったよ」
 へへ、と小さく泣き笑いみたいな顔で笑いながら、言うのだ。
 その顔がすごく可愛いなんて思ってから、ボッシュはそのとき初めてリュウのことを可愛いと意識した自分に気づく。
 俯き加減で、困ったような顔をして、そうして頬を染めて泣きそうな顔をしている彼が、とても可愛いと気づいたのだ。
 そして勿論。
 可愛いと思ったから、とてもキスをしたくなった。
 ハイかイイエか、はっきり返事はしてないから、後でしっかり問い詰めておこうと決意しつつ、ボッシュは黙ってリュウの唇に噛み付くみたいなキスをした。
 可愛くて仕方なくて、ああこいつ食っちゃってもいいかもと思ったのだ。
 目を丸くしていたニーナが、そんな叔父の表情に呆れたみたいな顔をした。
 
 うるせえばか、とその顔に、目線で返事を返す。


 うるせえばか、と思いながら、もういっかい? と照れたようにしているリュウに、またキスをするのだ。


                    













あーあーあー。
ここまでがとても、とても長かったです。
長かった分、とてもこう、なんていうか。エリート様が。あの。
アンタ誰、最高潮な感じになってます。
本当に、このひと誰でしょう…。

ていうか子どもの前で何やってるのですかあなたたち。

次回はまとめに入ります。
それでだらだらと長びいてしまったこのお話も一区切りです。
最後までお付き合いいただければ幸いだなあ、と思います。ぺこり、です。