『おまえだよ』
「…わあ」
リュウは、ボッシュが持参した花束に歓声とも戸惑いともつかない声をあげた。
ふわりと広がる甘い香りは、黄色と白のアヤメにも似た花で。
「すごいね。これ…。っていうかいきなりどうしたの? あっ、もしかしてニーナの誕生日とか…?」
「じゃあ何で当人と一緒に買いに行ってんの。なあ、ちび」
ボッシュの足元で一生懸命靴を脱いでいたニーナは、意地悪く自分を見下ろす叔父に「ちびじゃないもん!」と抗議する。
照れ隠しだろうか。ボッシュは未だに、ニーナのことを時々しか「ニーナ」と呼ばない。
彼女を呼ぶときには、ちび、とか、おまえ、が殆どだ。
靴を脱ぎ終わった彼女は、えへへえと可愛い笑顔でリュウを見上げた。
「ふりーじあ! っていうのよ!」
両手も全開、笑顔も全開で突進してくるニーナに、リュウも嬉しそうに笑顔を返す。
「へえ、そうなんだ! ニーナ、お店の人に名前をきいたの?」
「ううん」
ニーナはリュウの言葉に、そんなことないもんとふるふる首を振った。
「しってたの。あのね」
「おい。コート、これにかけるぞ」
そうして姪が小声で呟く言葉を遮るように、ボッシュがハンガーを手に取る。うん、とリュウが返す声を、ニーナは辛抱強く待ってから。
「…あのね。…ふりーじあ、は、ね、ままがすきだった、はななのよ」
小さく笑って、そう言った。
その笑い顔は。…ひどくためらいのない、可愛い笑顔だった。
リュウはその笑顔に、胸を突かれるような。疼きにも似た、痛みを覚える。
「……。そうなんだ。じゃあ、この家の中で一番気持ちいいところに、飾ってあげないとね」
「うん!」
ありがとうリュウ、とニーナは言って、嬉しそうにリュウの手にじゃれた。
屈託ない彼女の笑顔からは、もう、彼女の父母の死を引きずり、悲しむ様子はない。
いや、悲しみはあるのだろう。悲しみは消えない。永遠に、ひとの中に残る。
それは癒えない傷にも似て。
たとえ新しい肉が、皮膚が肌を覆ったとしても、痕は残る。そういうことなのだ。
ただ、その傷を、痛みを過去のものとできるのかどうか。血を止め、古い傷とすることができるのか。
そうすることが出来れば、ひとはまた、笑えるのだ。
あるいは、また、泣くことが出来るのだ。
(ニーナは、強いね)
だからこそ、リュウの手を引く少女の表情に、リュウは憧憬すら覚えて目を眇める。
母が好きだったのだと、花を手にして笑える彼女。
そっと視線をソファに座るボッシュに向ければ、彼はリュウともニーナとも視線を合わせないで、黙ってテーブルに置いた花を見ていた。
彼もまた、亡くなったニーナの母、彼の姉のことを考えているのだろうか?
「……」
「ぼっしゅー! ふりーじあ、ちゃんといえたよニーナ! きいてた? ねえ、きいてた?」
「あー、聞いてた聞いてた。すげえすげえ」
「こころがこもってないー!」
「スバラシイスバラシイ」
「ぼっしゅきらいー!」
「そりゃどーも」
むくれるニーナにリュウは、やっと笑った。
「ホントありがと。花を飾るなんて、この家に越してきて初めてかも」
「あっそ。随分酸素の足りない日々を送ってんな」
「う、うん、そうかも」
相変わらず意地悪なことを言うボッシュに怯みつつ、ニーナ、何か飲む? とリュウは苦笑して少女を見下ろすと、ニーナは「うん!」と頷いた。
「あっ、ニーナ、じぶんでつげるのよ」
「え、そう? 冷蔵庫、届く?」
「とどくもん!」
何でも一人でやりたいお年頃、ということだろうか。
ニーナはリュウの手をぱっと離し、小走りにキッチンまで向かう。だが、何故か向かう直前、ボッシュの方を振り返って、ぐっと拳を作った。
小さな掌を握りこんだそれは、何だか勇ましいポーズで。
「……?」
どうしたんだろうと首を傾げるリュウの横で、ソファに座ったままのボッシュが苦虫を5、6匹噛んでしまったような顔をした。
「今のポーズって、なに…?」
「……。さあ。俺が知るかよ」
そう言いながら、ボッシュはチッなんて舌打ちして、リュウのことをじっと横目で見ている。
* * * * *
キッチンの奥まで入ってしまうと、ニーナの小さな身体はすっかり見えなくなってしまった。
あー、大丈夫かな、ヘンなトコ開けたらだめだよ、包丁もあるけどそこはまさか開けないよねえとリュウがはらはらそれを窺う。
「……。あのさ」
そんなリュウに、ボッシュは彼らしくもなく、言いよどむみたいな口調で話しかけた。
「え? あっ、そ、そうだ、お花活けなくちゃだよね…。ええと」
「いや。それはまだいい」
「…? でもそうしないと、お花…」
「いいから。…いいから、とりあえず、まあ」
座れよ、と言って、ボッシュは自分の横をぽすっと叩く。
がちゃりと少し遠くから聞こえてきた音は、きっとニーナが冷蔵庫を開けた音だろう。
その音に、また何が入ってたかなあ、ジュース買っといたっけ、と気を散らすリュウ。
「…だから。話。聞けって」
そんなリュウの頭を、ボッシュががしんと掴んで自分の方へと向けさせた。
「い、いたたっ!」
いたいよーなにするんだよーとぶつぶつぼやくリュウに、ボッシュはそのまま掠めるようなキスをした。
「………」
それだけで、たちまちリュウの顔に熱が集まる。
「……。…おまえってさあ。反応がいちいち初々しいっていうか、ウブっていうか」
「だ、だだ、だって!」
「キスだけでこんななってたら。…本番どうすんの」
「ほ、本番!?」
若さに任せた捕り物劇のような告白をしてから、そろそろ一週間が経過しようとしている。
仲直りとしては成功なのだろう。
確かに成功なのだろうが、ボッシュはしかし何とも言えない不満を隠せずにいた。
(…結局キスしかしてねえし)
それが何より不満の原因だ。
あれから一週間経った今でも、ボッシュとリュウの間には、何も進展はないのである。
しかし、リュウのことが好きだと気づいたことにより、勿論そこにはいわゆるリュウを対象とした性的欲求が生まれたわけで。
(ムラムラしても行き場がねえわけだよ、つまり…!)
ボッシュは苛々した気持ちで、目前で顔を真っ赤にしてしまっているリュウを見つめる。
薄い胸も、全体的に骨ばった印象のある痩せた身体も、ボッシュはとっくに見たことがある。(風呂で)
むしろ、今だって毎日見ている。(風呂で)
あんな身体に興奮できんのかなーつか、ムラムラくんのかな俺、と正直色々心配だったボッシュだが、どうやらそれは無用の心配だったらしいことが、件の告白の翌日。
久しぶりにお風呂、一緒に入ろうか、と微笑んで言われたことにより、そうして以前のように三人で風呂に入ったことにより、判明した。
(全然無用の心配でしたよ姉さん…。くっそう、俺は今、改めてあんたの残したニーナが。いや、そりゃまあ引き取って育てることに問題はないんだけど。…なんていうか。時々無性に憎いです…。つか、邪魔。マジ邪魔…)
だって、ニーナがいるときは、ボッシュはリュウに不埒な行為を働けないのだ。
ニーナが寝入った後は、じゃあおれ明日も忙しいからと、多忙な幼稚園の先生であるリュウは色画用紙やらはさみを取り出して、チョッキンチョッキン始めたりするのだ。
「…。念のため聞いとくけど、おまえまさか経験豊富とか。何ていうか、準備万端とか、そういうことないよな」
「…ええと」
リュウはようやく赤みのひいた頬を片手で押さえて、不思議そうに瞬いた。
「経験って、何の?」
おれ、ピアノなら大体4、5年くらい弾いてるよ、と笑う彼に、ボッシュはそれ以上何も言えず「いや、いい。もういい。全然いいよばか」と呻いた。
ばかってなんだよ、と、リュウは少しだけむっとした顔をして、そこでふと彼は「ニーナ、遅いね…?」と立ち上がる。
ボッシュは「ジュースに迷ってんだろ」といいかげんなことを言った。立ち上がろうとするリュウの手首を引っ張って、また座らせることも忘れない。
――勿論、姪は気を利かせてくれているのである。
ぶっちゃけ邪魔、とか思わないでもないが、彼女は確かに今、リュウとボッシュの仲を応援してくれているようだ。
まだ、二人が男同士だとか、恋愛がどうこうなんていう難しいことが分かってないからかもしれないが。
「……」
「………」
さあどうやって切り出すべきか。
ボッシュはすぐにでも出したいカードを手の内にしたまま、会話の糸口を探している。
リュウはその横で、ボッシュに掴まれたままの手首を気にして、また頬を赤らめていた。
居心地が悪そうなその様子に、ボッシュはまたキスしたくなった。
困ったり、戸惑ったり、少し泣きそうにしてるくらいの顔つきが、リュウは一番可愛いとボッシュは思う。
にこにこしてたり、本当に嬉しそうににこおと笑うのも勿論いいとは思うのだが、分かりやすく言えばボッシュの下半身に一番クリーンヒットするのが「困り顔」というヤツなのだ。
今もまた、しみじみと、あーかわいいと思う。
かわいいと思うけど、それを口に出すのは何だかあんまりなので、黙っていることにする。(それでも手首は離さない)
「…あ、あのさ」
リュウが不意に、話を再開した。
ボッシュと目を合わせないまま、彼は「おれ、暫くここを留守にしようかと思うんだ…」と呟く。
「……。…ハ?」
「…いっ! たたっ…」
反射的に、手首を握る掌に力がこもった。
小さく悲鳴をあげるリュウに構わず、ボッシュは「なんだよそれ」とぎりぎり手首を握ってリュウを睨む。
逃がすものかと言いたげなその顔に、リュウは少しだけ笑った。
視線を合わせた。
「ちがう。…ちがうよ、ボッシュ。逃げるんじゃないんだ…。…ちょっだけ」
リュウは笑ったまま、手首を握るボッシュの手に、自分の掌を重ねた。
「ちょっとだけ、実家に帰ってみようかと」
おもって、と小さく呟く声は、決意を滲ませたようなそれだった。
「……。ちょっとって、いつまで?」
「うーん。…二日、三日くらいかな…? あんまり幼稚園も休めないし」
「何しに行くの」
「…う、ん」
リュウはボッシュに手を取られたまま、ぽつ、ぽつと言葉を手繰る。
両親が死んでしまってから、よくしてくれた、育ててくれた叔父叔母に対して、ずっと心を開けなかったということ。
けれど、今こうしてボッシュやニーナと共にいることが、リュウの中の強張りを溶かしたような気がするということ。
「……今度は、ちゃんと笑えそうな気がするんだ。いってらっしゃいって言ってくれたひとたちに、やっと、その」
彼はボッシュの手を縋るように握って、どうにか笑った。
泣き笑いにも似たそれは、けれど確かにリュウの笑顔だった。
「………ただいまって。……そう言えるかもしれないって、思うんだ…」
だから、行ってきたいんだとリュウは言う。
泣き笑いみたいな顔でボッシュを見上げて、そう呟くのだ。
「――…」
ボッシュはそんなリュウに「じゃあさ」と答えて。
少しだけ、手首を握った手から、力を抜いた。
それから、あいている方の掌でテーブル上を探って、片手に花束を握る。
「それまでに、引越し終わらせとかないとな」
「……え?」
引越しって、と首を傾げるリュウに、ボッシュは「何言ってんのオマエ」みたいな顔で、鮮やかなほどニヤリと笑った。
「実は我が家のテーブルには、あと一つ空きがあってさ。まあ、なんつうの。…その椅子を、我らが保父殿に提供してやってもいいんだけど?」
そう言って、ニヤニヤしながらリュウを見ている。
顔が赤いのを、そのニヤニヤでごまかしきれているのかどうか、実のところボッシュにも少し自信がない。
え、ええ、とリュウは困惑したように目をさまよわせて、おろおろと口を開けたり閉めたりして。
「お、おれ…」
いいの、と呟く声に、いいよばか、とボッシュがすぐさま答えた。
「そうすれば、おまえこっちに帰ってきても『ただいま』って言えるだろ?」
つうか、ちゃんと言えよ。おまえ、どんくさいから、家間違えそうで怖いな。
そんなことを言いつつ、手にした花束を押し付けるみたいにしてリュウに差し出せば、彼ははにかんだように口元を緩め、それをちゃんと受け取る。
「…もしかして。だから、お花買ってきたの?」
「プロポーズには、花束が必須なんだと。どこでんなこと覚えてきたのか知らないけど、どこかのちびがそんなこと言っててさ」
その、どこかのちびは今、抱えたジュースを床に置いてから、コップを探してキッチンの影でうろうろしている。
「…どうしよ。…なんか、すごいことだね…」
受け取ったフリージアを大切そうに抱えて、リュウは目元を真っ赤にして呟く。
今にも呼吸困難になりそうなその顔。
「すごいことだよ…。どうしよう、おれ、どうしていいかわかんないよ…。…うう、いや、あの…あの…嬉しいんだけど」
すごくうれしいんだけど、とうろたえるリュウの顔。
「馬鹿だね」
ボッシュは笑って、その身体を花ごと引き寄せた。
フリージアの甘い香りが、二人の身体の間でふわりと漂う。
「こういうのって、当たり前のことなんだろ? リュウ先生」
手をつなげば暖かいよと教えたのはおまえだよ。
心を開いてくれますよなんて言って、発破をかけたのもおまえだよ。
そう。好きだから一緒にいたいって、教えたのも。
「おまえだよ。リュウ」
囁いて、キスをして。
ぱたぱたと何度も瞬きして、泣きそうな顔をしているリュウに、ボッシュは言ってやる。
「俺も、おまえも、ニーナも。一緒にいたいから一緒にいるんだろ」
だから、と、彼は続ける。
ふるふる震える唇に自分の唇を近づけながら、彼は言うのだ。
「だから、ずっと一緒に暮らすんだろ」
ここに、俺の傍に、ずっと。
いろよ、と囁いて口付ける寸前、確かにリュウは「うん」と答えた。
ちゅと触れ合った唇は、けれどすぐに離れていく。ニーナがやっとコップを発見したらしく、よいしょよいしょとジュースを運んでくるからだ。
舌打ちしそうな表情でそれを待ち構えるボッシュに、リュウはぎゅうっとしがみついた。
珍しく自分からそんなスキンシップをしかけてきたリュウに面食らうボッシュを、リュウはとても嬉しそうに見上げて、囁く。
「おれ、ボッシュのこと、すごく好きかも…」
蕩けそうな目で、声で、そんなことを言ってから、彼は慌てて恥じたように俯いた。
ボッシュはそれをつかまえて今すぐ寝室にリュウを投げ込みたい衝動に駆られつつ、憮然と「かも、かよ」と呟く。
何も知らず、キッチンから無事帰還したニーナが「ぷろぽーず、できた?」と無邪気に見上げるから「まあ、ぼちぼちにな」なんて、彼女のジュースを取り上げてやった。
すごく幸せだなと思う一方で、俺の下半身は半比例するみたいに不遇だとか何とか、そんなことを考えつつ。
ボッシュの下半身事情は深刻です。
やっぱりニーナが寝静まった後でしょうか。
ニーナは一人部屋でも、ボッシュとリュウは不自然に二人部屋なんでしょうか。
ボッシュの脳内では、きっともうここが俺とリュウの部屋とか、決まってると思われ。
何だか今まで随分淡々としてた分、ボッシュの中のムラムラさ加減が気の毒なほどです。
ヘタレっていうか、なんかもう、素直に気の毒…。元気出せ、エリート。
ちなみにフリージアの花言葉は、黄色が「無邪気」、白が「あどけなさ」だそうで。
まだこの世界は2月くらいの設定です。
春までもうちょっとっていうか。実のところ、時間設定とか全然考えてなかったとか、そんなのは嘘ですよ、ええホント…。
た、多分あと一話? か二話で終わると思います…!
まとめに入るとか嘘ついてごめんなさい。