『おまえがかすがい』




 窓際には緑があるといい。

 ニーナとリュウの共通意見がそれだったので、今まで何も置かれていなかった窓際にひとつ、小さなサボテンが置かれた。
 話しかけると植物は早く育つんだよなんてリュウが言うと、ニーナが、じゃあなまえをつけたらいいのねと答えた。
 そして、何だかよくわからない内にそのサボテンは「ボッシュ」と名づけられていた。
 ボッシュの知らないうちに名づけられたその植物は、リュウやニーナが水をあげるたび話しかけたり、笑いかけたりするときに名前を呼ばれている。
 もともとの名前の持ち主としてはそれが大変に不満で、その不満を述べてみたりもしたのだが、所詮民主主義とは数の暴力だ。
 だって名前を呼ぶといいんだよとリュウは笑って、ニーナはぴったりよなどと言ってすましている。
 それ以上食い下がるのも面倒で、結局ボッシュはしたいようにさせている。
 ただ、とりあえずニーナがボッシュにからかわれるたびに「ぼっしゅはひどいのよ、いじわるなの、だからあなたもあんな風になっちゃだめよ」などと、いちいちサボテンに報告しにいくのは、少し納得がいかないと思っている。
 

 一人暮らしが、二人暮しになって。
 そうして、二人暮しは三人暮らしになった。
 他人だった三人は、そうやって家族になった。
 彼らの間にある小さな不満といえば、今のところそんな程度のものだ。


「元気そうだったよ。ふたりとも。…うん。よかった」
 実家から帰って来たリュウは、そう言って笑っていた。
 彼の実家は、飛行機でも行けるし、新幹線でも行けるところだそうだ。
 だから今回は飛行機で行って来たよなんて、わりとどうでもよさそうなことでリュウは笑っていた。
 ニーナはそんなリュウを見上げて、ひこうきってとぶの、とりよりもたかくとぶの、と自分こそがまるで小鳥のようにぴいちくさえずっていた。
 ボッシュがそれをからかうと、ニーナはそのたびにむきになって怒る。小さな拳でぽかぽか足を叩かれて、ボッシュは痛くないしと笑った。
 笑って、リュウに、おかえりとだけそっけなく言った。
 けれど、そっけなくても、リュウには十分嬉しかったらしい。
 彼は見る見るうちに頬を赤らめて、にこお、とすごく嬉しそうな顔で笑った。
 その顔に、ああ、この顔は悪くないなと、ボッシュが思って、キスしようかなと身体を近づけたら、リュウはだめ、と言って顔をそらす。
 そう言う顔すら真っ赤で、あーちくしょうこいつ可愛いと思う。
 なのでつい、ニーナ早く寝ろよなんて、本当に悔しそうに言ってしまったら、今度はリュウが顔を真っ赤にして怒った。
 ニーナは当然リュウの味方なので、こういうとき、ボッシュは本当に孤立無援だ。
 なんだよくそと思って憮然としてたら、リュウがそんなボッシュに笑って(顔は少し赤いままだったけれど)小さな小さな声で「ただいま」と言う。
 その囁きも、顔も、ついでに言い方も結構可愛かったから、ボッシュは仕方なく譲歩してやった。
「なあニーナ。おまえ、今夜すげー早く寝ろよ。つうか、空気読めよ」
「んー? くうきよめ? くうきはごほんじゃないのよ、ぼっしゅ」
「何でもいいから早く寝ろとっとと寝ろ潔く寝ろ。そして朝まで起きてくるな」
「ぼ、ボッシュー! ど、どうしてそういうことばっかり言うんだよ! い、いいんだよニーナ、あーでも早めには寝ようね?」
「んー! りゅうが、ごほんよんでくれたらー」
「うん。今夜は何がいいかなあ」
「……」
 そういえば、折角プロポーズして、折角同居して、折角恋人同士の甘い時間というやつを満喫したかったボッシュなのだが、相変わらず状況はこのような具合だ。
 奥手のリュウが仕事が忙しいからと逃げたり、ニーナがトイレにいきたいと起き出してきたりするので、ボッシュが手を出す暇もない。
 今夜辺り、焦れに焦らされたボッシュがぶちんと切れて、暴動を起こすかもしれない。
 ボッシュの目が不穏にぎらぎらしてるのを、リュウは気づいているのかいないのか。
 時刻は、まだ8時を少し過ぎたくらいだ。もう少ししたらニーナは寝るだろうし、リュウはまた翌日の幼稚園の支度に取り掛かるだろう。
 普段はそれを尊重してやっているボッシュだったが、今夜はもう無理かもしれない。
「にーな、ごほんえらんでくるー!」
「あっ、ニーナ、歯磨きはちゃんとした? ごほんよりも、それが先だよ」
「うん、じゃあはみがきするー」
「ちゃんと上の歯、下の歯磨くんだよ。あとでおれが仕上げしてあげるから」
「んー!」
 ニーナがぱたぱたぱたっと席を外した一瞬の隙に、ボッシュは横でエプロンを付け直すリュウにキスをした。
 隙を突かれたのか、リュウは今度はしっかりキスされて、また顔をまっかっかにする。
「ばーか。おまえって、ホントガキみたいだな。そういうとこ」
「が、がきなのはどっちだよ…! ボッシュのばか」
 やっと自分のペースを取り戻したボッシュが満足げに笑えば、リュウはまた顔を赤くして、それから横目でニーナの様子を窺う。こっちは見てない。大丈夫。
「……ホント、こどもだよねえ」
「…なんだよ。しょうがないじゃん。おまえ、俺が何日、どんだけ我慢してやってると」
 思ってるんだよは、リュウの唇の中に消えた。
 顔を真っ赤にしたリュウが、軽く背伸びして唇を押し付けたのだ。
 ボッシュはそれに面食らってから、けれど面食らってもしっかり掌を背中に回して、唇を押し付けるばかりのリュウの口内に舌を滑りこませた。
「ん、んぅっ…」
 リュウが顔を赤らめて身をよじるが、ボッシュは気にしない。
 やがて、ニーナがたどたどしい歯磨きを終えて、リュウの元へ「しあげはりゅー!」とやってきた頃には、リュウは何だかすごく落ち込んだみたいにテーブルに手を置いていて、ボッシュは非常にご機嫌麗しくニヤニヤしていた。
「りゅー、にーな、うえのは、したのは、ちゃんとしたの」
「う、うん…。えらいね、ニーナ。今、おれが仕上げするよ…」
 慌てて笑いかけるリュウの背後で、ボッシュがニヤニヤしながら「おまえも、ちゃんと上の歯、下の歯、綺麗にしたよな。今」なんて言うから、リュウの体温はますます上昇する。
 ニーナの疑問符も、ますます増加する。
「なーに? りゅーもいまはみがきしたの?」
「え、ええっ、い、いやしてないんだけど、してないけど、ううん、これからするけどねっ?」
「いや。俺が歯磨きしてやったの。…まあ、歯ブラシとか使ってないけど」
「えー? どうやってやるの、ぼっしゅー」
「ば、ばかっ! そういうこと教えないでよ、ああ、ニーナ関係ないから! こういう磨き方はだめなんだよっ」
 子どもの前でいかがわしい話はやめましょう。
 不思議そうな顔をしているニーナを、大人のいやらしいお話から遠ざけるため、リュウは今日も必死だ。


 まあ、こんな具合の不満はぼちぼちあるが、そういうことは結構解決策がその辺りに落ちているわけで。
 ボッシュとニーナとリュウは、多分、結構うまくやっている。
 勿論、これからもたくさん出てくるであろう不満とか、大変なこととか、小さな事件とか、きっとそういうものは絶えないのだろうと、きっと二人も、一人も知っている。
 それでもリュウは、隣の隣だったボッシュの家にやってきて、今彼らと同じテーブルに座っている。
 窓際にはサボテン。テーブルの上には、フリージアが置いてある。
 もうじき、チューリップが飾られるだろう。春めいた陽気は、じわじわと窓を透かして室内まで訪れ始めている。


「子はかすがいって、さ」
 ニーナはリュウの膝で、いつの間にかすやすやと寝息を立てていた。
 金の髪をさらりすくって、リュウは幸せそうに呟く。
 ベッドまで行かずに寝やがってとボッシュがニーナを抱きかかえるのをそっと支えて、リュウは「かすがいがどうかしたわけ」と囁くボッシュに笑いかけた。
 ニーナの前で浮かべる幸せそうな笑顔とはまた違う、ボッシュにだけ見せる、どこか蕩けてしまいそうな笑みだ。
 多分、俺もこんなツラしてるんだろうなと、ボッシュはその顔を見てまた思った。
 そう、なんていうか。
 幸せで幸せでしょうがない、あなたのことがすきでしかたないという顔つき。
「ううん。どうかしたっていうか…。…かすがいって感じだなって。思って」
 きい、と小さな音を立てて扉を開ける。
 ボッシュは眠るニーナを室内へ連れて行き、寝台の上に寝かせた。すかさずリュウがその身体の上に、そっと掛け布団を乗せてやる。
 元々ボッシュのベッドだったニーナ用の寝台は、少しばかり彼女には大きい。
 子ども用のベッドを買おうかという相談もしているが、どうやらニーナはこのベッドがお気に入りのようなので、ベッドはこのままここに置かれることになりそうだ。
 照明を薄暗くして部屋を出てから、リュウは続きを口にした。
「ニーナがいなかったら、おれはきっと、ずっと隣の隣の部屋で、あのままこそこそしてたんじゃないかなって。思って。…もしかしたら、そのままどこかに引っ越して、逃げだそうとしてたかもしれない。…そう思うと、ニーナはホントに、おれにとってかすがいだなあって…」
「……つうかさあ」
 ぱたんと扉を閉めるリュウに、ボッシュは呆れたように髪をかきあげた。
「おまえにとって、じゃないんじゃない。それ。…俺たちにとって、じゃないの?」
 目を丸くするリュウに、言葉は正しく使えよなんて、ボッシュは馬鹿にしたように肩をすくめた。
「う、うん…。そうかも…」
 あーもう、照れるなあ、などとぶつぶつ呟きながら、リュウはボッシュの肩にぎゅうっと自分の顔を押し付けた。
「…どうしよ。…もうすごい好きだよ。照れる…。照れるよー」
「勝手に照れてろ。こんなことでいちいち恥ずかしがってるようじゃ、先が思いやられるね」
 そう言ってリュウの頭を撫でるボッシュの耳も、実のところ結構赤い。リュウには見えないだけだ。
 ついでにボッシュは、お前のほうがかすがいなんじゃないのと言いかけた言葉も飲み込んで隠してしまった。
 ニーナと自分の間に入り込んで、手をつなごうよと両側に向かって手を伸ばしたリュウ。
 暢気そうに笑って、だって仲良しっぽいじゃないですかなんてことを言って、笑いかけたリュウ。
 だから、おまえの方がよっぽどかすがいだと思ったけれど、それを口に出すのは強烈に恥ずかしかったので、自制することにした。
 リュウが肩口に押し付けた顔を、ぐりぐり動かしている。まだ照れているらしい。
 髪の毛がそのたびにさらさら首筋を擦っていて、少しくすぐったかった。
 ボッシュは気まぐれにリュウの頭に手を伸ばして、動いている青みがかった黒髪のてっぺん。無造作に結ばれている結び目を、くっと爪をかけてほどいた。
 その拍子に、ぱらりと広がり肩口に落ちたリュウの髪の毛。
 あ、と呟いて、リュウがボッシュを見上げる。
 肩口に顔を押し付けていたせいか、その目尻が少しだけ赤い。
 ついでに、目が、少しだけ潤んでいて。
 …ボッシュが少しだけ屈んだ。
 リュウは、少しだけ背伸びした。
 そうして二人はそこそこ長いこと口付けてから、ゆるゆると唇を離して、それぞれ複雑そうな顔でぎゅっと手を握った。
「あ、あのさ」
 どこかしら、足の指先からもぞもぞするような雰囲気。
 そんなものに襲われて、リュウもボッシュも困ったような顔をしていたのだけど。
「おれ、思うんだ。…かすがいって、大事だなって。嬉しいことだなって。ああ…何だか、ごめん、あの、うまく言えないんだけど」
「…しょうがないよな。おまえ、すげー馬鹿だから。まあいいよ、続けろ。聞いてやるから」
「……うん。あのね。おれ、ニーナがかすがいだったみたいに、きっとボッシュも、おれにとってのかすがいだったんだと思う。…おれと、叔父と、叔母の。さ」
 困ったような顔をしたまま、笑うリュウ。
 ボッシュはその顔を見つめたまま、足指をちょっとだけ動かした。ちらりと足元を見ると、リュウも少しだけもぞもぞしていた。
 何だか色々なことが、すごくもぞもぞする感じ。きっと、リュウも同じくらいもぞもぞしているのだろう、と何となく思う。
「ずっとおれ、きっかけがないままうじうじしてたんだ。誰かを好きになるなんて、疲れるし。大変だし。…そうして、その誰かがいなくなるたびに、死にそうになるなんて、やだなあって。父さんと母さんが死んじゃったときのまま、ずっと前にも後ろにも行けないでいたんだと思う。だけど、ボッシュが。…あの、その」
 すきだって、言ってくれたから。
 その言葉を出すまでに、リュウの親指が三回くらいもぞもぞした。
 だから、照れすぎと思ったのだけど、自分の指も同じくらいそわそわしていたので、ボッシュは何も言わなかった。
「……。だからおれ、帰れたんだ。ここにも、こうやって戻ってこられた。ただいまって、言えた。…こんな風に、おれもさ、誰かのかすがいになれたらいいなって思う。そうなったら、いいと思うんだ」
 言われてすぐに、もう、なってるだろ馬鹿と思った。
 けれどそれを言うのは死にそうに恥ずかしいことだったので、ボッシュはとりあえず「馬鹿」だけ口に出した。
 もっとも、リュウがしゅんとしょげたみたいになってしまったので、仕方なく「…もう、なってるんじゃないの」とだけ言ったのだけど。
「……そうかな?」
「そうだろ」
「……。…そうかなあ」
「そうだって言ってんだろ」
 ちょろちょろさまよっていたリュウの視線が、そこでやっと定まった。
 彼は、とても幸せそうに言う。
「…うん。そうだといいな。…こうやって、ずっと三人で暮らしていく中で、また誰かが誰かのかすがいになれたらいいね」
 だから。なってるって言ってるだろ、ばか。
 そう言いたいのを我慢して、ボッシュは黙ってリュウの痩せた身体を抱きしめた。
 そうして、たくさんキスをする。
 額。頬。瞼。唇。
 リュウがくすぐったいよと笑う声こそ、きっと何よりくすぐったい。
 瞼の裏に、蛍光灯の明かりが焼きつくようだと思った。


 ニーナは、確かにかすがいだった。
 そして、ボッシュもきっとかすがいのひとつだったのだろう。
 けれど、ボッシュは、おまえが最初のかすがいだと、リュウに対して思った。
 思ったことを、口付けしながら口の中で言った。
 だからきっと、よく伝わらなかったかもしれない。
 おまえだよと言っただけだから、きっと上手に聞き取れなかっただろう。


 顎に触れて、持ち上げて、濡れたような音をするキスをした。
 すきだとか、かわいいとか、ずっとそばにいろよとか、もしかしたらそんな恥ずかしいことをたくさん言ってしまったかもしれない。
 リュウも、すきとか、だいすきとか、ずっといっしょにいてとか、そういうことを言っていた気がするから、きっとそうなのだろう。
 だから、そこに紛れておまえがかすがいなんだと言っても、きっと分からなかったと思う。
 そうだろう。そういうことにしておこう。
 折角二つ敷いた布団は一つしか使わなくって、翌日よく晴れた空のもと、ベランダにシーツがはためくこととなった。
 ボッシュの不満はひとつ解消されて、リュウのクラスの紙芝居は、白黒のまま幼稚園に持参することになる。


 一人暮らしが、二人暮しになって。
 そうして、二人暮しは三人暮らしになった。
 他人だった三人は、そうやって家族になった。


 三人はきっと、明日も手をつないで帰宅して、一緒にお風呂に入って、それから二人は時々一緒に寝たりするのだろう。






















お疲れ様でした…!!!!!

ええと、多分、軽く半年弱…? くらい連載してしまった、この「きみはかすがい」。
これでようやく完結です。
こんないっぱいいっぱい、つぎはぎだらけのお話を好きだと言ってくれたひとに。
更新を待っていてくれたひとに。
もう、心からありがとうって叫びたいです。
ありがとうございます。

ボッシュとニーナとリュウのお話は、とりあえずこれでおしまいです。
コス企画は残り一本ですが、そちらもいっぱい頑張って書かせていただきたいと思っております。

ちなみに最後になりましたが、「鎹(かすがい)」とは。
@材木と材木をつなぎとめるために打ち込む、両端の曲がった釘。A人と人とをつなぎとめるもの。
といった意味合いです。主に後者の意味で使ってます。