『銀河鉄道の夜』




 …牛乳をとりに行かなければならない。冷たい牛乳を、ニーナは大層喜んで飲むのだから。

 なのにどうしておれは今、こんな客車に座っているのだろう?
 ああ、早くあの牧場まで、牛乳をとりに行かなければ。

 行かなけりゃ、ならないのに。


*****

 今夜はケンタウルの祭りだ。
 皆は退屈な授業など早く抜け出して、町へと駆けていきたそうに、先ほどからひどくそわそわしている。
 リュウも祭りは楽しみだったが、一緒に連れ立つ相手がいないのではしょうがない。
 だから、彼はここのところずっとそうしているように、ただ机の木目を眺めてぼんやりしていた。
 過ぎる時間は緩慢で、まるで水の中のようだと思う。
「…では、皆さん。皆さんは、この川だと言われたり、乳の流れたあとだとも言われてたりしていたこのぼんやりとした白いものが、実は何なのだかご存じですか?」
 水中を漂うリュウをよそに、授業は進む。先生の問いかけに、気もそぞろな生徒たちの手が挙がった。
 リュウは一瞬目を上げ、咄嗟に手を上げた。けれど、すぐにまた手を下げた。たしかあれはみんな星なのだ。そう、昔話したのだけれど。
 ここのところ、頭が痛くて、何もかもぼんやりしてしまっている。リュウはその答えが本当なのか、よくわからなくなってしまった。
「リュウさん」
 しかし先生は、そんなリュウに目ざとく気づいて、優しく声をかけた。
 リュウは慌てて顔をあげる。
「リュウさんは、ご存じですか? あのしろいものは、全体なんなのでしょう」
「……あ」
 リュウは先生の問いかけに答えようとするが、うまくまとまらない。結局リュウはまごついたまま、消えそうな声でわかりません、と呟いた。
 先生は困ったように、あるいは気遣わしげに眉を寄せ、では、と先ほど手を挙げていた他の生徒を指名する。
「ボッシュさん。あなたはご存じですか?」
 指名されたのは、リュウもよく知っている少年だった。しかし彼は一瞬沈黙してから、端的にひとことだけ答える。
「わかりません」
 彼はそう言ったきり、どうでもよさそうに頬杖をついた。その答えに、周囲がざわつく。
 リュウはその答えを意外に思いながら、そっと後ろを窺った。
 ボッシュが知らないはずはないのだ。本当は、リュウだって知っている。あれは星の集まりだった。
 確か、以前。ボッシュの家で、彼と二人。星座盤を見て話をしたのだから。



「ケンタウル、霧を降らせ!」
 終業の鐘が鳴ると共に、生徒たちは放たれた矢のように駆け出していった。
 ボッシュも、仲のよい級友らに誘われて教室を出ていく。
 リュウはそれを横目に眺め、ボッシュと遊ばなくなったのはいつからだろうかと考えた。
「リュウさん。…まだお父様は戻られないのですか?」
 一人教室に取り残されたリュウに、先生がそう声をかけた。
「はい。まだ戻りません」
「そうですか。それは心配ですね。でもきっと、じきお戻りになるでしょう」
 だから、それまでに体を壊さないようにしなければなりませんよ。
 先生はうつむいたきりのリュウにそう声をかけ、さああなたも祭りを楽しんでいらっしゃいと続けた。
 ――リュウの父は、漁師だ。毎回遠い海に漁に出る彼は、今の航海に出る前、リュウにこう言い置いた。
 お前に、ラッコの毛皮をとってきてあげるから、それで上着をこしらえてもらおう、と。
 同級生たちは、それきり帰ってこないリュウの父と、リュウをからかって「ラッコの上着がくるよ!」と彼を囃し立てる。
 そんなとき、決まってボッシュはどうでもよさそうにリュウも、同級生も見ないで、景色を眺めている。
 …リュウはそんなことを考えながら、いつものように活字拾いの仕事をするため、学校帰りに活版所に寄った。
 やあ、来たな虫眼鏡君。
 活版所で働く青年たちは、リュウが懸命に指先をインクだらけにして活字を拾うのを眺めて、そう笑う。
 おれは笑われてばかりだなあと考えながら、リュウは黙って仕事をする。
 父が留守の間、働き手は姉と、リュウしかいない。
 リュウの稼ぎでは大した賃金はもらえなかったが、幼く病弱な妹に少しでも滋養のあるものを食べさせるためには、こんな小さな足しも重要なのだ。
 銀貨を一枚握り締め、小さな活版所を出たリュウのは、パンと角砂糖を買って駆け足で帰る。
 幼い妹が、彼の帰りを待っているからだ。今日の様子は、どうなのだろう。姉のリンは、もう仕事に行く頃合だろうか。
 裏町の小さな家に着いたリュウは、いったん呼吸を整えてからドアを開けた。
「…りゅー?」
 中からは、小さな妹の声がする。
 おかえり、と言って小さく笑う彼女。小さな小さな、リュウのニーナ。
「今帰ったよ、ニーナ。…今日は具合悪くなかったの? へいき?」
「うん。今日は、だいぶいいの。すずしかったから」
「それはよかった」
「あのね、リュウ。さっき、リンが仕事に行くまえにトマトで何かこしらえてったの。リュウもたべて?」
 ニーナはぴょこり、寝台から降りると、リュウの前に立って「おしごと、たいへんだったのでしょ?」と首をかしげた。
「へいきだよ、ニーナ。…さ、足が冷えるよ。ベッドにお戻り。おれがかかえてってあげよう」
「ありがとう」
 羽のように軽いニーナを抱え、リュウは寝台の上まで彼女をつれていった。
 彼女はぺたりと寝台に座り、日覆いの降りた窓を眺める。
「…今夜はおまつり?」
「そうだよ、ニーナ」
 リュウはニーナの寝巻きを整えてやりながら、さっと辺りを見回し「牛乳はまだきてないの?」と呟く。
「ご飯を食べたら、おれ、とりにいってこよう。ニーナ、牛乳好きだろう?」
「…うん! あ、でも、いいのよリュウ? おまつり、いってきたらいいよ。お友達と、たのしんできて?」
 うん。
 リュウはニーナに頷いて、テーブルの上で布をかけてあった食事に手をつけた。
「…じゃあ、少しだけお祭りに行って、それから牛乳をもらってこよう。ニーナには、何かお人形を買ってきてあげる。かわいいのを」
「わあ、ありがとうリュウ! とてもうれしい」
 はしゃぐニーナに、リュウも嬉しそうな顔をした。
「ねえニーナ。きっと、父さんはもうじき帰ってくるよ」
「ほんと? ねえ、それほんと? そうだと、すごくうれしいなあ」
「本当さ。だって、今朝の新聞に北の漁はたいへんよかったと書いてあったもの。きっと父さんも、その漁に出ているよ」
 ニーナはリュウの言葉に、とても嬉しそうに微笑んだ。ほんとう、ほんとう? と。
 心無いものには、彼らの父親がこれほど帰ってこないのは監獄にいれられているからだ、というものもいる。
 もちろんリュウは、そんな嫌なうわさはニーナに聞かせないようにしていた。時々、姉のリンには「そんなのは嘘に決まってるさ」と漏らしていたけれど。
「今度帰ってくるときには、リュウにはラッコの上着を、リンには古い化石を、わたしにきれいな氷の砂をもちかえるって、いってたね」
「うん、そうだね。…そのせいで、みんながよくおれのことを冷やかすよ。ラッコの上着、ってね」
「……みんな、ひどくからかうの?」
「ん? いや、ちがうよ。みんなじゃないよ。…ボッシュだけは、何も言わないんだ」
 気遣わしげにリュウを見るニーナに、リュウはそう言って笑いかける。
「まえは、ボッシュとよくあそんでたのに。…でも、ボッシュはすこしだけいじわるだから、わたしきらいよ。……少しだけだけど」
「…ふふ。そうだね。でも…、…。…ううん、なんでもない」
 リュウはかちゃりと食器を片付けると、じゃあ一時間半くらいで戻るからね、とニーナに声をかけた。


 …ケンタウル、ケンタウル、霧を降らせ!
 裏通りをでてすぐ、リュウは走っていく級友たちを見かけた。
 リュウはとっさに彼等を呼びとめる。みんな川に行くの? そして、烏瓜のあかりを流すのかい?
 少年たちはそうだよと答えたが、しかしリュウが、おれも行っていい?と尋ねると、ひときわ背の高い少年がにやっと笑った。
「…リュウ、ラッコの上着がくるよ!」
 その言葉に、他の少年らも口々に呼応し、リュウをからかう。
 リュウはいたたまれなくなって、駆け出した。笑い声が追いかけてくる。ラッコの上着、ラッコの上着がくるよ!
 駆け出したときにちらりと視界に入った出店に、可愛らしい人形がふたつゆれていた。
 ああ、あとでニーナとリンの分を買って帰ろう。
 そう頭の隅っこで考えながら、リュウは自分を追いかけてくる笑い声の中に、ボッシュの笑い声がないことを小さな救いに思った。
 はあはあ息を切らせて、リュウは坂道を駆け上がる。
 町のはずれ。牛乳屋の黒い門をくぐり、リュウは少しうすくらい中の様子を窺った。
 すうはあと小さく深呼吸し、すみません、と声を上げる。
「すみません、すみません、どなたかいらっしゃいませんか」
 すると、奥から年老いた女性がひとり出てきた。
 彼女はなんでしょう、と答える。
「あのう、すみません。今日、おれのところに牛乳が届かなかったのです。だから貰いにあがったんですが」
「…今誰もいないので、わかりません。明日にしてもらえませんか?」
「妹が具合が悪いんです。今夜いただきたいんです」
 リュウが重ねて頼み込むと、女性は目の下をしきりに擦りながら、わかりましたもう少し経ってから来てくださいと答えた。


 …子どもたちは、皆烏瓜でこしらえたあかりをもって、走っていく。
 きっと川に流すのだろう。だけれどリュウは、その集団の中にさっきの背の高い少年を見かけ、気詰まりだったので一人、丘の上に上った。
 真っ黒い地面をてくてくと歩き、冷ややかな芝生にごろり寝転ぶ。
 そうしてリュウは、じっと空を見上げた。
 真っ暗な空に、すうっと白いものが流れるような具合で川が流れている。
 ああ、あの川の流れのひとつひとつが星だというぞ。
 だけれど、とてもそんな風には見えない。
 川の流れを作っている星の一つ一つは、実のところ、互いがとても遠い場所にいるのだという。
 ここから見ると、くっついて見えるあの星たちは、本当はみんなばらばらなのだとも。
 …だけれど、とてもそんな風にも見えない。
 リュウには、そこにきらきら光る林や、牧場などがある野原のように考えられてしょうがなかった。
 しかも、それは次第に近づいていくような気すらした。また、丘のすぐ下の町すら、やっぱりぼんやりしたたくさんの星の集まりか、大きなけむりかのように見えていた。



*****

 そしてリュウは、青い、薄い鋼の板のような空の野原に、まっすぐ立っていた。
 藍色の視界が、じわりと広がるように薄暗い。
 すると不意に、銀河ステーション、銀河ステーション、と不思議な声がした。とたん、周囲がぱっと明るくなって、リュウは気がつくとどこかの鉄道の停車場に立っているようだった。
 きょろきょろとリュウが辺りを見渡すと、すらりとした少年の影が視界に入り込む。
 上着が黒く濡れているような彼は、金髪から幾筋か雫を垂らし、列車の出入り口にぼんやり立っていた。
「ボッシュ!」
 その周りに、彼の級友らがいないのに気づいて、リュウは思わずそう叫んで駆け寄っていた。ボッシュの碧眼が、ちらりとリュウをとらえる。
「…ボッシュ、……あの、祭りはどうしたんだい? みんなは…」
「…。皆、走ったけど追いつきゃしなかったのさ。ここにいるのは俺と、お前だけだよ」
「そう、なんだ…」
 間近に立つと、ボッシュはひどく寒そうに見えた。
 黒い上着はいっそう黒くなり、襟元もぐっしょり濡れてしまっている。リュウはハンケチを探したが、見つからなかった。それに、受け取ってもらえなかったら悲しい。
「……。どうしたのお前。なに、お前もこの列車に乗るって?」
「…え」
 リュウは困惑して、ボッシュが薄く笑っているのを見つめながらうつむく。
「あの、おれは……。…おれは……」
「じき発車ベルが鳴る。……離れた方がいい。間に合わなくなる」
「……」
 ボッシュの変わらない端的な調子に、リュウは尻込みして列車から離れかけた。…しかし、不意にボッシュの手のひらが、ぎゅっとリュウの手首をつかまえた。
「…ボッシュ?」
「………」
 彼は、何も言わない。
 離れた方がいい、と言う割りに、その指の力はひどく強い。
 ボッシュの手は、指先までひどく冷えていた。
 さむいの、とリュウが呟く。ボッシュはしかし、首を振った。
 その手が、リュウの手から体温を奪おうとするかのように、じわじわとリュウの袖口に忍び入る。
「……、……乗るの」
 彼は、そう呟いた。
 乗れよと、言っているようにも聞こえた。
「一緒に、いってくれんの」
 呟くように、続けられた言葉に、彼らしくもない僅かな震えが感じられる。
 リュウはもう、その言葉に頷くしかない。
 いくよ、とかすれた声で答えた。
 冷たいその指が、少しでもあたたまるよう両手で包んでやりながら。


 ああ、どこまでも一緒に行くよ。
 きみが、そう望むのなら。

 
 ――発車ベル。それから、蒸気が発車ホームに満ちる。

 列車が、ゆっくりと動き出した。



後編へ続く
















コス企画の三本目はこれだ! …と一年前から決めてた話です。書くの遅ッ! はじめるの遅ッ!
夏休みの宿題は、夏休みが終わってからやってました。基本です。

「銀河鉄道の夜」は、とても描写が美しく、切ないおはなしです。
私ごときでは、あの世界観を表現できるはずなどないのですが、あの世界観で感じたシンパシーみたいなものを、ボリュで描けたらいいなあと。
前、後編で終わります。タイトルからお察しの方も多いでしょうが、あまり後味のいいラストにはならないと思います。ご容赦ください。


もし、まだ「銀河鉄道の夜」をお読みでない方がいらしたら、よければこの機会に読んでみてください。
賢治先生の話は、とてもいいです。