――『心の臓器・前』――
 
――――きっかけは呆れるほど単純な話ではあった。

「残りダッシュ20本――!」
 ピーッという軽やかな笛の音と共に、部員たちが一斉に駆け出す。
 太一はほんの僅かに眉をしかめて、それらの光景を見つめた。
「大丈夫か? 八神…」
「…ん」
 グラウンドの端にある木造の平均台に腰かけ、太一は心配そうに声をかけてきたマネージャーに「大丈夫だ」と笑んだ。
 なんてことはない失敗。
 力の加減を間違えた後輩が太一に不注意でぶつかってしまい、不覚にもそのせいで軽く足をひねってしまっただけ。
「……すんません…八神先輩――」
 その会話を少し離れたところで見ている件の後輩が、それこそ泣きそうな顔で詫びる。太一はそんな後輩にも軽く笑って、
「馬鹿。気にすんなよ。この時期なら特に練習試合もあるわけじゃない。部活をサボるいい口実ができたくらいだぜ」
 などと冗談交じりに答えた。太一のそのセリフに、隣のマネージャーが「あのなあ」と太一の頭を軽く小突く。
「……すんません」
 後輩はほんの少しだけ笑って、ぺこりと頭を下げ「練習に戻っていいぞ」というマネージャーの声に頷いた。
 たたたたと小走りに駆けていく後輩の姿をぼんやり見ながら、太一は「あいつ、気にしなきゃいいんだけどな」と呟く。
「……精神的に弱いトコ、あるしなあ。あいつも」
 マネージャーの少年は太一の意外と細い足首に湿布と包帯を巻きながら「人の心配してる場合かよ」と返した。
「捻挫とか、脱臼は癖になるぞ。今ちょっと保健室行ってきたらセンセー出張みたいだったから、俺が応急手当してるけど…」
 マネージャーは手際よく包帯を巻き終えると「よし」と軽く太一の膝を叩く。
「お前今日はもう上がっていいよ。とっとと帰って、医者行ってこい」
「えー? ちょっと大袈裟すぎないか?」
「馬鹿野郎! 今は試合が近くないからこそ、こーいう小さな怪我はとっとと治して精進すんだよ! 一日練習しなきゃそんだけで身体はなまる。まさかお前が知らないわけないだろ!?」
 マネージャーの少年は威勢良くぽんぽん怒鳴り、ぽりぽりとこめかみをかいている太一の頭を軽くはたくと。
「いーから帰って医者行け! お前は大事な戦力なんだからな! 小さな怪我はすぐ治して……」
 そこで彼は口を切ると、練習をしているメンバーの方に軽く顎をしゃくってみせた。
「あいつらを指導する負担、半分にしてくれ」
 ―――太一はとりあえず苦笑して。
「……鋭意努力シマス…」
 そのまま、肩をすくめた。

 ―――帰れ帰れとそこまで促されちゃあ、期待に応えぬわけにもいかない。
 太一は小さく欠伸をしながら、ひょこんひょこんと軽く足を引きずってグラウンドから教室までの近道を図った。
 校舎の横手の細い小道を通って校舎の正面に出れば、水飲み場もあるし、すぐに教室に上がれる。
 太一はもう一つ欠伸をして、ふと腕にはめなおした腕時計を眺めた。
「4時35分…か」
 ……まだ光子郎は教室だろうか?
 終わるまでいつも正門の前で待っていてくれる恋人の顔を思い起こし、太一は「ん、」と軽くのびをする。
 ひょこんひょこん。
 さほど足が痛いわけでもないが、太一はそのまま一本足でぴょこぴょこ跳ねて、そろそろ近くなってきた教室の一つに近づいた。
(この辺が光子郎の教室だっけ?)
 そんなことをぼんやり考えながら、ぴょこんっ、と土足のまま渡り廊下に上がり、多分ここだろうと目測をつけた教室を覗き込む。
 ――――そろそろ西陽がさしこんで、目も痛い時間の頃合で。
 教室の中は外から見てもぼんやり朱色に染まっていた。
 ……その朱色の中。
 広げていたらしいノートパソコンを終了させて、帰り支度を始めている光子郎の姿が太一の目に映る。
「光子郎」
 太一はホッとして呟き「なあ」と声をかけようとひょこんっ…と更に小さな階段を上がって、窓を軽く叩こうと思った……ちょうどそのとき。
 ――…がらり、と教室の扉が開いて。
 あれ、と太一は思わず声を飲み込んだ。
 廊下側から入ってきたのは、恐らく光子郎のクラスメートと思しき少女。
 特にどうということもないが何となく声をかけそこねて、太一は教室の外側で立ち尽くす。
 ――――会話は、聞こえなかった。
 ただ。
 ――少女が何がしか話しかけたようで。
 ――光子郎がそれに応えたようで。

(……てっきり)

 ―――…てっきり、あの、デジタルワールドに行く以前……いや、前後のように。

(にこりともしないカオで、無表情で)

 ―――でもホントウはにこりとも「できない」カオで。無表情にしか「ならない」カオで。

(そうですかなんて、つまらなそうにしているのかと思ったのに)

 太一は覚えず息をのみ、そしてひどく胸の奥が軋んだ音を立てたことに戸惑って、目をさまよわせる。

 ――――光子郎は少女の言葉に笑顔で応じ、笑いながら話していた。
◆      ◆      ◆      ◆
 多分、今日は日直だったんだろうななんて。

 ―――帰り道。
 正門の横で柱にもたれるようにして下を向きながら太一は今更考えついた。
 腕時計をちらっと見ると、時刻は4時54分。
 なんだそんなに時間たってるわけじゃねーんだ、と太一は軽く苦笑した。
(日直か)
 なんてことはない。
 光子郎は「泉光子郎」だから、きっと「伊藤さん」とか「池田さん」とか、そんな名字の女の子なんだろう。
(伊川さん、伊勢さん、飯田さん……)
 太一はまだ待ち合わせ場所にやってこない光子郎をぼんやり待ちながら、地面を見つめて「い」から始まる名字をあげていく。
(井村さん、幾原さん……あー、あといるかな)
 そこで太一はふと笑った。
(ああ、もしかして)
 なんだか少し可笑しいような、乾いたような、苦笑めいた笑み。
 そして最後に思いついた「い」から始まる名字を口にしてみる。
「……泉さん、とか…?」
 何故か。
 そう、ぽつん、と囁くと。
 ……また、ひどく胸の奥から何かが軋んだような音がした。

 ――――…きっと。
 お待たせしました太一さんと、光子郎がいつも通りに走ってきてくれれば。
 手をつないでもいいですかと、光子郎がいつも通りに照れたように笑ってくれれば。
 ―――なんてことなく吹き飛んだはずの、胸の奥が軋む音。

 だけど、何故だかずきずきずきと胸の奥がひどく痛むこんなときに限って、ポケットで携帯がかたかたと震える。
 メールだと思って確認すれば。

<すいません。今日は少し部活の方で遅くなりそうです。どうか先に帰っていてください。 光子郎>

 いつもの通り、簡潔でわかりやすい内容のメールが到着していた。
 ……太一はふうんとそれを眺めて。

<わかった。先帰ってる。あんま無理すんなよ。 太一>

 そう打ち返すと。
 ぱくん、と携帯を閉じて、目元を手で覆った。
 また―――胸の奥がずきんと軋んで。
 一歩歩き出したと同時に、今度は足首もズキリと痛んだ。
 ……ああ、病院行かなきゃな。
 太一は今更のようにそんなことを思って。
 ――――ふう、と嘆息した。
◆      ◆      ◆      ◆

<今日はすみません、太一さん。でも、随分帰りが早かったみたいですけど、部活はお休みだったんですか? 光子郎>

 その日の夜。
 ――――滞りなく自宅に帰り、そのまままっすぐ医者に行って軽く治療してもらってきて。
 ――――滞りなく自宅に帰り、そのまますんなり夕飯を食べていつものようにヒカリとくつろいでいたとき。
 かたかたかたと3度震えた携帯に気づき、何の気なしにメール内容を確認した。
 そして、ちょっと嘆息して、ぱくん、と閉じる。
「……おにいちゃん? 誰かからメール?」
「…ん」
 ヒカリは少し気遣わしげに尋ね、兄の手元の携帯を覗き込んだ。
 太一はそれに「大したことない」とだけ笑って、身を寄せてきた妹の頬をつつく。
 ……ヒカリはそんな兄を、そっと、窺うように見上げた。
 ―――…足、ひねっちまったと苦笑しながら帰ってきた兄は、何故だか少し朝よりも元気がなかった。
 疲れてるのかな、で片付けられるようなそんな元気のなさだったから、ヒカリも、両親も気にしていなかったのだけど。
「どうした、ヒカリ?」
「……ううん」
 ……そっと、肩に頭を預けると、兄は優しく頭を撫でてくれた。
 ―――疲れてるのかな。
 ヒカリはまた思った。
 ……そう思ってみて、それが既に3回目の胸中での呟きだったということに気づく。
「…おにいちゃん…」
 ――ねえ、どうしたのなにかあったの?
 ヒカリはその事実にハッとして、問いかけようと兄を見上げる――――が。
 かた、かたかた。
 ……机の上で、また兄の携帯が震えた。
 ――それにまたハッとして兄を見上げると。
 兄は――ヒカリを見ずに、ただ机の上を見つめ……ゆっくりと嘆息してから。
 ……ほんの少しだけ、目を伏せて。
「ごめんな、ヒカリ。ちょっと待っててくれ」
 優しく、優しくそう告げると、ヒカリが見たこともないような、そんなひどく切ないような、虚ろなような表情で、そっと携帯の表面をなぞった。

<……それで今日はどうかしたんですか? 太一さん。…まさか、怪我をしたのでは? 光子郎>
<…今、時間大丈夫ですか?>

 立て続けにきた2通のメールに、兄は少しだけ……また、ひどく苦しそうに笑った。

<話が、したいんですが。……電話をしても、平気ですか?>

 ――――やはりメールは「彼」からのようだ。

 ……ヒカリはそれに気づいて、少しだけ、きつく唇を噛んだ。

(お願いだから、おにいちゃんにあんな辛そうなカオさせないで)

 ヒカリはまるで祈るように胸中で呟いてから「私、自分の部屋に帰るね」と自分から兄に声をかける。
「…ごめんな」
 察しのいい妹に、兄は目を伏せた。…彼はそのままゆっくりと携帯を手にとり、それなりに慣れた手つきで携帯を操作した。

<いいぜ。今は時間平気だ。 太一>

 そして、ヒカリがドアを閉じた向こう側で。
 ……また携帯が震えるのを待っているようだった。

◆      ◆      ◆      ◆

 ――――きっかけはなんてことないような、些細な話。
『こんばんは。……太一さん、今日は一体どうしたんですか?』
 優しく耳元に届く声。
 なんだかその声を今は聞きたくなくて、太一は軽く唇を噛んだ。
「……いや。ちょっと足ひねっちゃって」
 部活、早めに上がってきたんだ。
 太一はそう答えて、どすん、とベッドに倒れこむ。
(――――あの子にも)
 ……あの名前も知らないような、少女にも。

(―――お前はそんな優しい声で話していたのか…?)

 ……そう思うと、ひどくぞっとして。
 ぞっとするほどあの少女が憎らしく思えて。
 ――――そんな自分に戸惑って。
 ――――そんな自分にまたぞっとして。

 ――――そんな自分が、ひどくおぞましいイキモノになったようで。

 ……太一はきつく、携帯を握る手に力をこめて、顔半分を枕に埋める。
『……足をひねった? ……ちゃんと病院には行きましたか? 大丈夫なんですか?』
 光子郎の気遣わしげな声が、何故だか胸に痛い。
「へーき」
 太一は簡潔に答えて、きつくきつく唇を噛む。
『……太一さん?』
 明らかに言葉少なな太一を気にしてか、光子郎の声が少しだけ低くなった。
 それに少し慌てて、違うんだって言おうと思った。
 ……でも。
 何故だか、自分の言葉一つでこれだけ顕著に反応する光子郎が、何故かひどく嬉しかった。
 けれど、そんな自分に、ひどい吐き気も感じた。
 そのせいで、反射的にまた唇を強く噛んでしまった。……下唇がほんの少し、切れる。
 ――――太一の口の中に、鉄の味が広がる。
「今日、さ……」

 そう。―――…なんてことない話。
 ……だからこそなんてことなく、当たり前みたいに話を切り出して……終わらせようとして。

「お前、日直だったんだよな?」

 ぞろり、と心中を何かが這うような感覚。
 ―――喉の奥が乾いて、声が少し掠れた。
 何で、と思う間もなく、太一の唇は次の言葉を紡ぐ。

「――――あの子、だれ」

 掠れた声。

 ……その、あまりにも低く、掠れた声に自分でもぞっとして。

『――…え? ……太一さん……?』

 訝しげに問い返す、光子郎の声にまともな返事すら返せなかった。
「……何でも、ない!」
 だから思わずそう叫ぶように激情を叩きつけて、気持ちの赴くまま、携帯の終話ボタンを押す。
『ちょ…太一さ』
 ――ぷつ。
 ……携帯電話はそのままあっさりと切れた。
 太一はそれを呆然と見下ろしながら……また震え出した電話を怯えたように放り投げ、そのまま枕に顔を埋める。

(いまのなんだよ今のなんだよ、今の何て声だよ俺!!?)
(なさけねえ、みっともねえ、俺、今すげえかっこわるい!!!)
(やだ! すっげえやだ!! 俺今嫉妬した! 光子郎と話してたあの子に嫉妬した!! 何でもないのに! 何でもないのに!)
(勝手に勘違いして……いや……違う――ちがう!! もっと嫌な理由で嫉妬した!!!)

 かたかたかた。かたかたかた。かたかたかた。

 机の上で何度も携帯が震える。
 幾度も、幾度も。
 幾度も途切れ、そのたびにまた震え始める。
 太一はそれを見もせず、ぎゅううっと枕に顔を押し付けた。
 ……そのうち、がたり、と音がして。
 ――――机の上から、携帯が落ちた。


 それでも携帯電話は震えていた。

 それでも光子郎の電話と、太一の電話はつながっていた。


 ……太一は電話に出る気がないというのに、それでも―――つながっていた。

(……やだ)

 ――――太一は何故だかそれがひどく怖かった。
 ――――初めてそれが怖いと思った。
 
―――…『心の臓器・中』へ。



……昏い……。
こんなに暗かったのは、当王国ですと「君にあの星空を」以来…??
嫉妬する太一さんは怖いと思うんですが、自分が嫉妬していると気づいた太一さん自身も怖いはず。
鷹揚なお兄さんが(02とかだと)メンバーの中の太一さんの位置付け。
しかしそれが一対一の恋愛関係になると……???

でも……。
まず根本的な疑問提示を一つ。

―――太一さん、なーも勘違いしてないじゃん風成さん!!!!(大失態)