――『心の臓器・中』――

 

 ――――きっかけは呆れるほど単純な話……だったはずなのだ。



 ガシャン!!
「…あ」
 ……光子郎は眉を寄せ、鬱々と嘆息すると割れてしまったカップの破片を拾い集めた。
 幸い、カップを割ってしまったここは光子郎の自室で、また、現在彼の母親は買い物で留守にしている。
(こんなところ見られたら、一体何を言われるか)
 彼はもう一つ嘆息した。
 彼の母親はカップを割ってしまったことに対してはさほど文句を言いはしないだろうが、きっとまた心配することだろう。
 ここ数日……かつての――人見知りの激しかった小学生の頃のように、暗い目をするようになった息子を心配して、母親も、父親も、彼の為に心を砕いている。
 光子郎はそんな両親の愛情に感謝し、詫びる気持ちの一方で、それでもひどく虚ろな自分を感じていた。

『―――光子郎っ!』

 正門の前で。

 時折光子郎よりも早く到着して光子郎を出迎える事に成功すると、それだけでひどく得意げな表情を見せて。

 楽しそうに笑ってくれる、愛しくて、可愛い人。

『……何でも、ない!』

 一昨日。

 とても掠れた声で、ひどく泣きそうな声で、最後にそう叫んで電話を切ってしまった、誰よりも好きな人。

 光子郎は、無表情に破片を拾っていた手を止めて、ふと…その、破片をつまんだ指に……力をこめる。
「……いち…さん」
 ぐぐ、と力をこめると、それだけでたやすく指から血が滴り落ちた。
「……たいち、さん…」
 ぽたり、と雫が床に落ちる。しかしそれすら光子郎の視界には入っておらず。
「……太一さん―――…」
 何故、こんなことになってしまったのか。
 光子郎は半ば呆然と、一昨日の出来事を思い出した。

 一昨日は、珍しく太一と一緒に帰れなかった。
 パソコン部の部活が、これもまた珍しくサッカー部の練習が終わる時刻よりも後の方までかかりそうだったからだ。
 自分が待つのは平気だが、太一を待たせたいとは微塵も思わない光子郎はすぐさま太一にメールを送った。
 まだ練習中だろうと思いながらも、後で伝言として見てくれればわかってくれるだろうと考えて。
 ―――しかし、意外なことに太一からの返信はその数分後に返ってきた。
 一体どうしたのだろうと気にしつつも、太一から返ってきた簡潔なメールでは、彼の精神状況や状態までは読み取れず、結局太一をそのまま一人で帰してしまった。
(あれがいけなかったのか)
 光子郎はぼんやりと思い出し、今更指の傷に気づいてぱたりと破片を床に落とす。
 そして、血の滴る指を軽く舐め、破片を包む為に数日前の広告を手に取った。
 ……帰ってから。――いや、帰るまで……パソコン室にいる間も。
 太一がどうして今日帰りが早いのか、もしかしたら怪我でもしたのか。
 そう思うといてもたってもいられず、半ば走るようにして自宅まで走っていった。携帯電話があるのだから帰りながら電話をしてもよかったのに、と後で気づいて苦笑もした。……だが、電話をしてからは。
 ―――苦笑すら、できなくなった。

『……いや。ちょっと足ひねっちゃって』

 少し、くぐもった声。

 布団にでももぐりこんでるのかな、と一瞬微笑ましくすら思った。

『へーき』

 その声に、どこか張り詰めたような強張った色があることに気づいたのは、その辺りからだった。
 ―――…ピン、と張り詰めた、冷たい何か。
 それに不安を覚えて、どうかしたのかと尋ねた。しかし、太一から返ってきたのは光子郎にとって全く予想もしていなかった言葉だった。

『お前、日直だったんだよな?』

 少しだけ、上ずった声。…何かをこらえているような、そんな声。
 何故そんなことを気にするのだろうと訝しく思い、また、それがどうかしたのか尋ね返そうと思った。
 けれど、太一はそんな声を遮るように、次の言葉を絞り出したのだ。


『――――あの子、だれ』


 それは本当に……掠れた声で。
 内容よりも、ずっとその声音の方が気になった。

 どうしたんですか太一さんその声は。

 辛いんですか? 辛いんですね? ああ、どうかお願い、僕に言って。何でもいい、僕に言って。一人で悩まないで。
 僕が助けるから。今度こそ、あの頃には出来なかったけれど、今度こそ僕が、僕が助けるから。
 ただそれだけを言いたくて。
 何度も、何度も、電話をかけた。
 何度も、何度も、何度も。
 最後は携帯は諦めて自宅にかけて。
 ……でも、太一は一度も出なかった。

『おにいちゃんは寝てます』

 どこか硬い声で、電話をとったヒカリがそう言った。

『だから、起こさないで、ゆっくり寝かせてあげてください』

 どこかひややかな。

 怒りを抑えた声。

 ……その声に。


 ――――何か自分はとてつもない失敗を犯したのだろうかと。


 光子郎は理由も見つからず、ただ悔やんだ。

 ……そして、理由も見つからない自分に、また悔やんだ。

◆      ◆      ◆      ◆


「おはようー!」
「おはよー」
「おはようございまーす」
 ……明るい挨拶の響く教室内。
 光子郎は鬱々とした表情で、ただ外を見つめていた。
 ―――いつだったか。
 太一とひどい喧嘩をしたことがあった。
 ……あれは確か付き合い始めてしばらく経った頃。
 部活部活でなかなか二人の時間をさけない太一に苛立って、不覚にも光子郎は声を荒らげてつい言ってしまったのだ。
 僕よりもサッカーの方が大事なんですかと。
 太一は勿論その言葉に怒って、また悲しそうな顔もして。
 何で比べなきゃいけねーんだよと。
 押し殺した、低い声で呟いて。
 ……その後、きっかり一週間口もきかなかった。
 ――――どちらがより好きというわけでもない。比べられる対象でもない。
(アレは僕の…わがままだった)
 光子郎は苦々しく思い出して…また溜め息をついた。
 …そして、きっかり一週間後。
 これ以上口をきかないことに耐えかねた光子郎が太一の家の前まで走っていくと、困ったような目をした太一が道の途中で立ちすくんでいて。
 光子郎がごめんなさいと謝る前に、太一は、わからなかったんだ、とただ首を振った。

『一週間考えたんだ。俺、サッカーと光子郎、どっちが大事なのかって』

 彼は手を伸ばそうとする光子郎を遮って、途方に暮れたような声音で呟いた。

『でも、わからないんだ。サッカーも光子郎も、それぞれ違う場所にいて、両方とも違う意味で好きなんだ』

 だからわからなかった。ごめんな。

 太一はそう告げて、僕こそごめんなさいと詫びる光子郎の手をとってにっこり笑った。

 ――――あの時。
 太一の言葉を聞いて、光子郎はまた太一をいとおしくも思った。
 真剣に、あんな風にただ駄々をこねただけのような自分の言葉を真剣に受け止め、考えてくれたのかと。

 しかし、一方でこうも考えてしまった。

 つまり太一は。

 つまり太一が道の途中で光子郎を待っていたのは。

 一週間経ってから、光子郎のもとにやってきたのは、光子郎と同じ――相手に会いたかったからという理由ではなく。
 これ以上考えても理由が見つからないだろうという、極めて理性的な判断からなのだろうかと。
(この人は、まだ考えながら@愛をしている)
 光子郎はそのとき、若干の寂しさをもってそう思った。
 ――――光子郎が一週間の別離に耐えかねて太一の家まで走っていったのは、理屈ではなかった。
 ――――太一が一週間経ってから光子郎の元を訪れようとしたのは、それなりに筋道立った理由が存在したからだ。

(太一さんはまだ理屈と理由の下で、恋愛をしている)

 それも確かに恋愛なのだろう。
 …だが。
 ……光子郎はまた、若干の寂しさをもってそれを思い出した。


(貴方の好き≠ヘまだ、僕の好き≠ノ追いついてはいない)


 太一と手をつないで仲直りしながら、確かそんなことを考えた。




 ――――キーン……コーン、カーンコーン……。

 ……そこで、始業のチャイムがなって。
 ――――光子郎はそんなことを思い出しながら、機械的な動作で鞄から教科書を取り出した。
(放課後)
 …そう放課後にでも。
(会いに行こう。…話しに行こう)
 ……ちゃんと話して、誤解があるのならばきちんと解いて、そうしたら、きっと分かってもらえる。
 また、明るい笑顔で話してもらえる。
 光子郎は祈るように胸中で呟きながら、ぎゅっと拳を握り締めた。


「太一? 今日はアイツ帰ったよ。足怪我してるからな」
 しかし、その日の放課後。
 光子郎は早速幸先悪く、太一と入れ違いになってしまった。
 太一のことだ。たとえ怪我をしてもサッカー部に顔を出し、なにくれとなく後輩などにアドバイスをしているのではないかと思った光子郎はまずグラウンドを覗きに行った。だが。
「なんだ、聞いてなかったのか泉」
「……はい」
 小学生のころから太一と友人をやっている少年は、太一と仲の良い顔見知りの後輩の硬い声音に戸惑ったように瞬きし。
「いや…さっきちょっとだけ顔出したけどさ、やっぱ怪我の治療にしばらく集中してから部活に顔出すってよ」
「……そうですか、ありがとうございます」
 困ったような少年の言葉に、光子郎は仕方なく頭を下げて踵を返した。
(……だったら、太一さんの自宅に直接行くまでだ)
 そう決意して身を翻した光子郎だが、その背中に今まで黙って話をきいていたマネージャーの少年が突然声をかけた。
「お前ってさ、八神とすごく『仲がいい』んだってな」
 その明らかに何か含んだような言い方に、光子郎は僅かに鼻白み「はい」と肩越しに振り返って年上の少年に応じる。
 マネージャーの少年は光子郎の険しい視線に怯んだ様子もなく、その視線を真っ向から受け止め、ふん、と小さく鼻を鳴らすと。
「じゃあ、なるべく大事にしてやってくれ」
 言葉少なに、ただそう告げた。
 ……光子郎は真意をはかれず少年をただ見つめたが、彼はそれ以降一切言葉を発せず、黙々と手元のファイルに何かを書き込んでいるだけである。
 仕方なく光子郎は「はい」とまた短く答えると、鞄を背負いなおして校門に向かって歩いていった。
 その背中をぼんやり眺めながら、最初光子郎と話していた太一の友人が戸惑ったようにマネージャーを見る。
「…何で、あんなこと言ったんだ?」

 ……その言葉に、少年は「ふん」としかめっつらで光子郎の背中を睨むと。
「八神は図太いようで結構神経質だからな。マネージャーとしちゃあ一言言わずにいられなかっただけだよ」
 吐き捨てるようにそう呟き、またがしがしと勢いよくファイルに何かを書き始める。…そして何となくそれを眺めてしまった友人に向けて、マネージャーは眉を吊り上げた。
「……いつまでも何見てんだよ。んな暇あったら、とっととあいつらに練習始めさせろ!」
「わ、わかったよ!」
 そのまま啖呵をきるかのごとき勢いで威勢良く怒鳴られ、少年はほうほうのていでグラウンドの中心まで走っていく。

「……ふん」
 マネージャーの少年はそれを鼻息荒く見やり……意味もなく線をかきつけてぐちゃぐちゃにしてしまった用紙を破って丸めると、ジャージのポケットにつっこんだ。
「分かりやすすぎるんだよ、あいつら」
 呟く声は呆れたような、もしくは諦めたような、そんな調子で。
 ……彼はファイルとボールペンを再度構え直すと、今度こそ必要な事柄を書き込んでいく。
「ま、なんにしても」
 二年生のリストの末尾に「八神太一」と記しながら彼は嘆息した。
「俺の選手に変な影響は出させないでほしいもんだ」
 ――――口が悪くややヒステリー傾向の強い……だが一方でひどく心配性なマネージャーの何気ない呟きを。
 ……聞きとがめた者は、皆無であった。

◆      ◆      ◆      ◆

「ごめんね、光子郎くん。太一、ついさっき出かけちゃったのよ」

 ……今度こそ、という光子郎の意気込みも虚しく、ドアチャイムに反応して出てきた太一の母はすまなそうにそう告げた。
「はあ…あの、どこに行くとか……言ってましたか?」
 光子郎は少なからず落胆しながらも、太一の母に向かって再度尋ねる。しかし「それがね、あの子どこに行くとも言わずにフラッといなくなっちゃったのよ」と太一の母もやはり心配そうな口調でそう答えるのみだった。
「病院に行ったのかしら、とも思ったんだけど診察券置きっぱなしだし…」
「……そうですか」
 光子郎は溜め息をつきたくなるのをどうにかこらえて「ごめんなさいね」と詫びる太一の母に頭を下げると、マンションのエレベーターまで歩いていく。
 歩きながら、ポケットから携帯電話を取り出して……一昨日から何度も繰り返した動作をまた繰り返した。――発信履歴をたどって太一の番号を呼び出し、かけてみるのである。
 ……つ・つ・つ・つ。
 しかし、携帯電話から戻ってくるのは無機質な女性の「おかけになった番号は、現在電波の届かないところにいるか、電源が入っていないため…」というすっかり聞きなれてしまった声だけだった。
 光子郎は今度こそ嘆息して、到着したエレベーターに乗り込み、下まで降りる。
 ―――……外はもう、すっかり燃えるような夕日に染め上げられていて、眩しいほどであった。光子郎はその眩しさに目を細め、太一の住んでいる棟を離れて自宅のある棟へと歩いていく。
(どこにいるんだろう…太一さん)
 虚ろな心中で呟くのは、ただ太一のことのみで。
 光子郎はそんな自分に呆れ、ふ、と自嘲の笑みをもらした。
 彼はそのままのろのろと別棟まで歩いていき――――。
 ……不意に、ぴた、と足を止めた。

「………。……よう」

 真っ赤に染め上げられた景色の中。
 どこか戸惑ったような、そんな顔で棟の塀によりかかっていた太一が光子郎をみとめてぎこちなく笑う。
 ………そして、一瞬目の前に広がった既視感。

『ごめんな』

 呟いて、俯く姿。

 ―――まるでそのまま逃げ出してしまいそうなくらい、どこかぼんやりしたその姿。

「……ッ」
「―――…太一さんッ!!」
 光子郎はそのまま…自分でも驚くような勢いで太一の腕をきつく掴み、その視線をとらえた。
「…こうしろ…」
「一体……一体どうしたんですかッ!? 僕が…いや、一体何が起こったんですか!? 僕は…ずっと、ずっと心配してて……いや、貴方の力になりたくて……!」
「……」
 光子郎は太一が困惑したように視線を惑わせるのに強い焦燥をおぼえ、なおいっそう太一の手首を握った掌に力をこめる。太一はそれにぎゅっと眉をよせ。
「……いてぇよ」
 低く、そう呟いた。
 …しかし光子郎はその言葉に一切怯んだ様子を見せず、手首をとらえたまま太一を引きずるようにして棟の中に連れて行く。
「おい…ちょっと……待てよ、光子郎!」
 太一が抗議するようにわめくのを半ば無視し、彼はエレベーターの呼び出しボタンを押した。
「お母さんは、今日町内会の集まりがあって遅くなるんです」
 そして太一が無理やり光子郎を振り払おうとしたそのタイミングで、そのことを唐突なくらいに口にする。
「……だからって、なんなんだよ…」
 太一は光子郎のまっすぐな眼差しに……目線をさまよわせた。が、明らかに抗う気は失せたようだ。
 光子郎はそんな太一ににこりともしないまま強く眼差しをぶつけ、降りてきたエレベーターを示して告げる。
「一体一昨日の貴方に何があったのか、どうして僕を避けたのか……聞きたいことがたくさんあります」
 彼は太一の手をひいたままエレベーターに乗り込み『閉』のボタンを押した。
「―――ゆっくり、話しましょう。……どうやら今の僕たちにはそれが必要なようです」
 ……光子郎はそう告げて……そこで初めて。

 太一の掌が、僅かに震えていることに気づいたのだった。

―――…『心の臓器・後』へ。



…まさか前・中・後編になるとは思ってませんでした!!(爆)
いや…だって滅茶苦茶長くなっちゃったし……!(汗)
前編は5000字くらいだったのに、軽く後編が10000字いっちゃったし!!!(爆)
……こりゃー分けるしかねーだろと仕方なく前・中・後です。
あうううう…。
何か違う……絶対皆さんはこんな昏い話を望んだのではないはず……(滝汗)
……でも続くんです。(泣)