『白鳥ノ歌』
放課後。
HRも滞りなく終わり、他の生徒たちはそれぞれ部活、帰宅へと姿を消していた。
窓の外は目が痛いほどの朱色に染め上げられ、昼と言う時間の終局を訴えかけてくるようだった。
そんな胸苦しくなるほどの夕焼けを、光子郎はただ一人見つめていた。特に目的があるわけでもない様子で、意味も無く鞄を開けたり、閉めたりと、どこか落ち着きの無い動作を繰り返している。
……そのとき、携帯電話が机の上でかたりかたりと数回震えた。
その音に光子郎は目を細めて、ぱかん、と折り畳み式の携帯電話を開く。
<今日、ヤマトんちに寄ってってもいい?>
メールの差出人は、彼にとって『兄』という立場に属する少年だった。
携帯電話の液晶画面には、強請るような口調でたった一言記されたメールが届いている。
それに光子郎はただため息をついて、口元を歪ませた。
(駄目だって言ったら、貴方はヤマトさんの家に行かないでくれるんですか)
心の中で呟く声は、決して太一の元まで届かない。
……子供の頃からずっとそうだったのだから、今更ソレが届く筈も無い。
―――何故自分に確認のメールを送ってよこすのだろう、と毎回のように思う。
寄りたければ勝手に寄ればいい。
遊びたければ勝手に遊べばいい。
それは太一に与えられた当然の自由なのだ。
ましてや、両親に確認するのならばまだしも、何故立場的には『弟』にあたる自分に確認の便りをよこすのか。
(負い目でも感じているというのだろうか)
光子郎は「分かりました」とだけ返信を返しながら、ぼんやりと考えた。
……かつて、その身を売って金銭を稼いでいたという太一。
初めてその話を聞いたのは、彼が泉家に来てすぐのこと。
『気持ち悪くないか?』
太一は困ったように眉を寄せて、微笑んだ。
今日から彼もうちの家族になるんだよと紹介されて、部屋を共有することとなったその日。
無用なショックを与え、子供たちの間に壁を作る必要も無いという配慮から太一の過去を教えずにいた両親だったが、太一はあっさりとソレを光子郎にバラして、まるで露悪的な喜びを示すように口元を歪めたのだ。
まだ年端もいかぬ、自分とさして変わらぬ年頃の少年の浮かべた笑みに、光子郎はただただ呆然とした覚えがある。
彼は何を思ってそれを問うたのだろうか。
――光子郎自身も、善悪の区別が未だつかぬ年頃で。
そこへ唐突に提示された、『気持ち悪いかそうでないか』という選択に、彼は戸惑うしかなかった。
太一自身も、善悪の……情操面における善悪の区別が、きちんとついていない年頃だった。
しかし、彼は警察によって一時的に身柄を拘束され、ただ一人の妹とも引き離されることによって。
……否応なしに、この国の悪の定義を教えられた。
悪いことを行う前に胸に浮かぶ罪悪感を、他人にに植えつけられる感覚。
自分は良くないコトをしていたのだという今更のような自覚が、彼にあのような問いを発しさせ、あのような笑みを浮かべさせたのだろうか。
善悪の基準と、間違いなく自分と同じ少年である筈の太一が他人にその身を差し出していたという事柄が、幼い脳みその中をぐるぐる回った。
ちらりと見やった太一の細い手首や、きゅっとつりあがった子猫のようなつり目が光子郎の視界に入ってくる。
『……気持ち悪いだろ』
太一はやがて、ゆっくりと断定するようにそう呟いた。
その声音は、驚くほどに力なく、切なげだった。
『気持ち悪くないです』
気がついたら、光子郎はきっぱりとそう告げていた。
『全然、気持ち悪くないです。…ホントです』
傷ついたような目をしている一つ年上の太一に向けて懸命に告げ……ぎゅっとその細い手首を握る。
『ホントか』
『ホントです』
まっすぐに太一の目を見つめて、光子郎は再三約束の言葉を紡ぐ。
彼は本当にそう思っていた。
少し華奢で、くるくるとよく動く茶色の目をした太一。
その唇はふっくらしていて、決して少女めいているわけではないのに、妙に可愛らしく感じた。
彼は男の人とキスをしていて、そしてそれ以上のコトをしていて。
……そう考えても、光子郎の中に違和感らしきものは生まれなかった。
ただ、太一を金で買った大人たちに、漠然とした不快感を覚えただけだ。
『光子郎』
しばらくしっかりと目線を交わし合った後、太一はぽつりと彼の名前を呼んだ。
『ありがと、光子郎。…そんな風に言ってくれて嬉しい』
僅かに目を伏せて、ぎゅっと拳を握り締めて。
『でも、もし気持ち悪くなったりしたら、すぐに言ってくれ』
そして、きっぱりとこう続けた。
『……そしたら俺、出てくから』
誰にも内緒だよ。お前にだけ、言っておくよと、太一は耳元で囁く。
『おとうさんも、おかあさんも……光子郎も、優しいからスキだ。…でも、だから、俺、嫌われたり、気持ち悪がられたりしたら、そばにいられない』
困ったように眉を寄せて、それでもどこか幸福そうに微笑みながら、太一は光子郎の手の甲に恐る恐る触れた。
『…すぐに言ってくれよ、な?』
ソレが貴方たちの望みなら、すぐに叶えてみせるからと。
……まるでそう誓うように告げる言葉。
光子郎はその言葉をふっと耳元で蘇らせて……。
(だからだろうか?)
心の中で、一人呟く。
とっかえひっかえという言葉がぴったり当てはまるように、太一は次々と恋人を作っていた。
それは学校の担任だったこともあるし、部活の先輩だったこともある。
まるで、太一の中にじわりと滞っている不可思議な魅力に引き寄せられるように、男たちは太一の手のひらをとった。
『いいかな、光子郎』
……そして、まるで幼子のように、太一はそのたび光子郎に確認を求めた。
勘がよく、人の痛みには鈍感なくせに、太一の変化に光子郎はいち早く気づいた。そんな光子郎だからこそ、太一は自分から全てを晒して許しを求めていたのかもしれない。
今の恋人であるヤマトと付き合うときも、彼の家に遊びに行ったり、泊まりに行くときさえも、彼は光子郎に確認を求めてきた。
両親には決して教えられない、太一の陰の部分。
…それを告げられ、許しを求めてもらえる立場にいることは、光子郎の中の密かな喜びで……しかし一方では、ひどく歯がゆい、痛みでもあった。
太一の手のひらをとる男たち。
それをいちいち報告してもらい、あの人と付き合うんだけどいいですかと確認をしてもらえる自分。
(……本当は、全部事後確認のクセに)
光子郎は自嘲混じりに呟き、ころりとシャーペンを転がした。
痛みの原因の一つがソレ。
そう。きっと太一は、自分が行かないでと言っても足を止めてはくれないだろう。
いや、足を止めたとしても、きっとまた別の人を見つけて、光子郎に確認を求めてくることだろう。
いいかな、光子郎と。
……困ったように首を傾げて、強請るように。
(形ばかりに僕の意思を確認して…僕が折れるのを知っていて)
憎らしいくらいに無邪気な素振りで、太一は光子郎にその意思を預ける。
…そのくせ、何一つ光子郎には渡してはくれない。
心も、身体も、……信頼すらも。
それが辛くて、歯がゆいのかもしれない。
『父さんと、母さんと、光子郎が一番スキだよ』
優しい笑顔で、太一はそう言葉を紡ぐ。
それは確かに事実なのかもしれない。
……だが、だからこそ、彼は、光子郎たちに距離を置こうとする。
いつかの露悪的な笑顔。
<気持ち悪いだろ>
ぽつりと呟かれた、太一の本音。
もしかしたら、最も自分の行動に不快感を感じているのは、他ならぬ太一なのかもしれない。
だからこそ、大切な人たちを汚したくなくて、距離を置こうとしているのかもしれない。
「……」
光子郎はまた携帯電話を開けた。
窓の外は、ゆっくりと茜色に染まりつつある。
……一人きり、残った教室。
「行かないでって言ったら、僕らのところに残ってくれるんですか」
暗い眼差しで呟かれた言葉は、ひどく重く光子郎の胸にのしかかった。
もしかしたら、まだこの校舎の中にいるかもしれない太一。
たった一言でいい。
この手のひらの中の道具を使って、太一に一言『今日はヤマトさんのところに行かないでください』と訴えたら、太一は足を止めてくれるだろうか。
そんな切ない疑問が胸を焦がし……光子郎はきつくきつく眉を寄せる。
「……気持ち悪くなんてないんですよ」
ぽつりと呟かれた言葉は、誰に届くこともなく空気に溶けて消えた。
「あの日から、ずっと。……ずっとずっとずっと……」
ことん、と光子郎は机に頬を押しつける。
頼りなく細められた眼差しに、今朝家庭の中で見せた明るさはなく、また授業中や友人の前で見せる隙のない強さもない。
とても近くで。……でも、そのくせとても遠くで。
ゆらゆらと漂う、まるで蜃気楼のような大切なひと。
「ぼくだって、あなたがすきなんですよ」
……囁くように、唇だけを動かして呟いた言葉は、空気に触れた瞬間ぱちんと弾けた。
決して光子郎の前では足を止めてはくれない人。
そのくせ、光子郎の傍にいたいのだと優しくて残酷な言葉を投げかける人。
光子郎は、きつくきつく携帯電話を握りしめた。
この、握りしめた電話の向こう――無線を越え、電波を飛ばしたその彼方では、きっと太一がいるのだろう。
……きっと、あの金髪の少年に今日も容易く身体を明け渡している、淫らな太一がいるのだろう。
――…頬を押し当てた机は、少し生暖かった。
* * * * *
……時間は、およそ十分ほど前に遡る。
太一は、ヤマトの家の前でメールを送った。
燃えるような、炎の色をした夕焼け空の下。
その激しい色と、けれど決してここまでは届くことのない遠い熱をぼんやり感じながら、太一は慣れた仕草でメールを打つ。
「誰にメールだ?」
ドアの鍵を開けながら、何気ない様子でヤマトが問う。
「ん。…光子郎に」
太一はそれにあっさり答え、かちりと送信ボタンを押した。
「…何だって、メールを送ってやったんだ?」
「うん」
声音の微妙な変化に気づかないまま、太一はいっそ無邪気と呼べるほどの残酷さで答えた。
「今日、ヤマトんちに寄ってってもいいかって」
「………」
ヤマトは大きく目を見はり。……そして、ぴたりと口を閉ざした。
「……それで?」
「ん?」
太一はヤマトが鍵を開けたにも関わらず、マンションの手すりにもたれてぼんやりしている。
不思議そうに自分を見るその眼差しに、ヤマトは少し苛々して言葉を続けた。
「それで――もしも光子郎が駄目だって言ったら、どうすんだよ。…俺んちに寄らないで、まっすぐ帰って来いって言ったらさ」
……これはいつものこと。
ヤマトと遊びに行くにしても、泊まりにくるにしても、まず太一は光子郎の許可を求めた。
お前は一体いくつのガキだよと呆れながらも、ヤマトは太一のしたいようにさせていた。
太一は、とてもとても家族を大切にしていて。
……その気持ちは、離婚という形で家族をなくしてしまったヤマトにとっては、少しばかり切ないようなものだったからだ。
しかし、何故かこの日は納得がいかなくて。
――ヤマトは、つい聞いてしまった。
ずっと、聞いてみたくて。
……でも、聞けなかったこの疑問を。
「光子郎が駄目だっつったら、…お前は帰るのか太一。……たとえ俺が、頼むからここにいてくれって言ったとしても」
吐き出すように押し出された言葉に、太一はひどくきょとんとしている。
…そして彼は、少しばかり困った様子で、優しく苦笑した。
「……帰るよ、そんときは。だから俺、今メールの返信待ってるの」
―――やがて、無邪気な唇はあっさりと言葉を紡いだ。
ひどく残酷な、……ヤマトを否定する言葉を。
「……」
ヤマトはその言葉に、黙りこくった。
……それから、唐突に。
「えっ…ちょっ、オイ! 離せよ!」
ぐいっと太一の手首をきつく引いて、自宅のドアを開け、そこに押し込んでしまった。
「馬っ鹿! 離せよッ!」
太一は力任せに引きずり込まれて抗議の声をあげたが、ヤマトはそれを無視した。
「やめっ……やめ…、アッ…!」
玄関に背中を押し付けられて、かちりと背中で鍵が閉められる。
シャツの中に差し入れられた手が、内側から太一の肌を蹂躙していく。
「やだッ……いやだ! まだ、メールッ……確認してないんだぞッ……!」
太一は拒否の言葉を吐きながら、ヤマトの荒々しい手のひらに抵抗した。
「……ふざけるな…何がメールだよッ……!」
その言葉に、ヤマトはひどく低い声で応じた。
強い怒りと嫉妬。
まるで今更のようなソレに焦がされて、ヤマトは拒否の言葉ばかりを紡ぐ太一の唇をきつく塞いだ。
「んっ……ん、ンッ…!」
……きつくきつく身体を抱きすくめられ、強いキスで唇を塞がれる。太一はそれから逃れようとするかのように身を捩り、背中を玄関のドアに押し付けた。
「ば、かッ…! やめ……なに、がっついてんだよッ…!」
はあはあと漏れる荒い息と口付けの合間に、太一はやや非難するような声音で呻く。
ヤマトはそれに答えず、ただぎらぎらと欲望と怒りに翳った目で太一を見つめるだけだった。
……そのとき、太一の手のひらの中で携帯電話がぶるりと震えた。
「ア…」
太一はその振動の元に、とても愛しそうに目を細め……、無理やりヤマトの腕を振り払って抜け出す。
「あ、おい…太一!」
ヤマトは激しい嫉妬を含んだ声で太一の名を呼んだが、太一は答えずぱかりと携帯電話を開けた。
<分かりました。>
ただ一言返ってきた、いつもと同じ端的な光子郎のメール。
……それにひどく安心して……太一はふうと吐息した。
ヤマトはその様子にひどく苛々して、太一の手のひらから携帯をもぎとる。
「ちょっ…ヤマト! 何するんだよ!!」
「それはこっちのセリフだ」
太一の抗議の声に、ヤマトは怒りのソレを隠そうとしないままに携帯電話を自室の中に放った。
そして、携帯を取り戻そうとする太一を玄関に押し倒し、まだお互い靴も脱がないまま太一にのしかかる。
「事後報告だ。……あとでもう一通メール送っておけ」
冷ややかな口調。
その冷たい声に眉をひそめ、太一は押し倒された体勢のままヤマトを睨む。
「何をだよ」
「…わかんねえのか?」
ヤマトは、口の端を少しだけ歪めて太一の首筋に顔を埋めた。
「や…ッ…!」
熱い舌が首筋をなぞり、太一は思わず声を上げる。
その悲鳴じみた甘い声に深い満足感をおぼえ、ヤマトはゆっくりと耳元で囁いてやった。
「今日は泊まっていけ。……あとで光子郎に、そう連絡するんだよ」
そのまま、上唇と下唇で耳たぶを挟み込む。その感触にひくりと身体を震わせながら、太一はヤマトを睨んだ。
「どうせこのままじゃ帰れないだろ」
ヤマトはそんな眼差しに屈した様子もなく、いささか乱暴な手つきで太一のワイシャツのボタンを外す。
それによってあらわになった小麦色の肌に手のひらを這わせて、ヤマトは太一の言葉をただ待った。
……手のひらはそのまま下腹部に向かい……ヤマトは、確かに太一が反応しかけているのを確認する。
「…ヤマトのそーいうトコ、嫌いだな」
太一はやがて、どこか冷めた目でぽつりと呟いた。
「俺だって、…」
売り言葉に買い言葉とでも言おうか。
……ヤマトは「俺もお前の、そういう態度が嫌いだ」と言おうとして、けれど結局弾みにでも「嫌いだ」とは言えなくて口を噤む。
好きなのだ。
やるせなくなるくらいに好きなのだ。
…たとえ太一に、本当は全く相手にされていないのだとしても。
彼の中の順位で、決して一番ではないのだとしても。
―――それでも好きなのだ。
「……」
太一は、言いかけて言葉を飲み込んだヤマトを、静かに見上げた。
…悪戯っぽく閃く眼差しに、よく笑い、よく喋る唇。
それらがすっかりなりをひそめた静かな顔で、太一はただヤマトを見上げている。
まるで何かに驚いたような、そんな反射的なものを感じさせる無表情に、ヤマトは戸惑って太一を見つめ続けた。
………やがて。
「…靴脱いでもいい?」
太一の唇は、ゆっくりと笑みの形へ姿を変えた。
「セックスするんなら、せめてベッドでしようぜ」
優しく細められた眼差しと、微笑んだ形の唇に、ヤマトは……ただ頷く。
……先ほどまでの激情が、まるで嘘のようにひいていくのを感じた。
太一の表情一つで、…微笑み一つでこんなにも穏やかになれる自分に、ヤマトは呆れ果てる。
「……いいのか」
今更のような言葉が滑り落ちた。
……太一はその言葉にくすりと笑って、しなやかな腕をヤマトの首に巻きつける。
「いいよ、もう」
優しい声音は、すぐに甘い声に変わった。
…かたん、たん、と音を立てて太一のスニーカーが玄関先に転がされる。
その音をBGMに、ヤマトは瞼を閉じた太一と深い口付けを交わした。
――――好きなのだ。
―――たとえ、本当には相手にされていないのだとしても。
―――たとえ、いつでも代わりがきく関係なのだとしても。
「んっ…ぅ…ウ…ッ」
「……太一…」
口付けの合間に囁く声は、甘い甘い恋人同士の睦言。
「ん、ふぅっ…」
太一の唇から漏れる吐息を追いかけるように、ヤマトはまた唇を塞いだ。
(……光子郎が、駄目って言ったらどうしようかな…)
―――そして太一はぼんやりとそう思いながら、降ってくる唇にただ身を任せていた。
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