『白鳥ノ歌』

 ――――悪いことだなんて。

 ――――……ソレが悪いことだなんて、これっぽっちも思わなかったんだ。

*     *     *     *      *

 昔から、優しいお母さんとお父さんはテレビの中にしかいなくて。
 …だから、小さな妹と自分を守れるのは、当然自分しかいなかった。

『いってらっしゃい、おにいちゃん』

 少し舌足らずな声で、小さな妹が手を振る。

『行ってきます』

 だから、彼もにこにこ笑って手を振ってみせる。
 そう。それは大切な、彼らだけの『ままごと遊び』だった。
 時たま見せてもらえる(もしくは盗み見る)ブラウン管の中で、お父さん≠ヘ、出かけるときに必ずそんな風にお母さん≠ノ声をかけるんだって、彼と妹は知っていたから。

(まるでお父さんとお母さんみたいだね)
(そうだ、たしかかぞく≠チていうんだよ。こういうの)

 彼は小さな妹にそう教えて聞かせて、今日もままごと遊びのように手を振ってみせる。

『行ってきます、ヒカリ』

『いってらっしゃい、おにいちゃん』

 そう、だからね。
 ――――悪いことだなんて。
 ――――……ソレが悪いことだなんて、これっぽっちも思わなかったんだ。

 だって、そうやってお仕事をしなくちゃ、自分と妹は生きていけない。
 夕方のスーパーで、一番安い惣菜を買うコトだって出来やしない。

 テレビの中のお父さんとお母さんは、何も教えてくれなかったもの。
 自分を買う、たくさんのお客さんも、何も教えてくれなかったもの。

(アレは悪いこと? でも、俺はアレをやらないと生きていけないのに?)
(俺がお仕事をしなきゃ、二人で生きていくためのお金ももらえないのに…?)

『いってらっしゃい』

 今宵も、夢の中で小さな少女がゆっくりと手を振る。
 ……都会の片隅。ゴミ捨て場みたいな、繁華街の端っこで。

『いってらっしゃい、おにいちゃん』

 ああ。
 少年はその声に頷いて、手を振り返す。

(今日もちゃんとお仕事をしてくるよ。平気だよ。何も辛いことなんてないからさ)
(時間があったら、今日は甘いケーキを買って帰ってくるよ。そうしたら、こっそり二人で食べような)

 それは、本当にままごと遊びみたいな、幼い、幸せな生活。
 辛くて苦しいことは幾つもあったけれど、それを補って余りあるほどに、彼は妹との生活を愛していた。


 ――――ソレが、いけないことだって。
 これっぽっちも、知らなかったから。

*     *     *     *      *

「おはようございます、太一さん」

 横たわったベッドの間近から、挨拶が降りてくる。
 …太一は、いつも通りに礼儀正しい光子郎の挨拶に、「ううん」という唸り声を返す。
「ほら、もう朝ですよ? 学校だってあるんですから、もう起きてくださいよ」
 光子郎はそんな太一に呆れたように、ココンとベッドサイドを叩いた。
「……んー…」
 再度かけられた光子郎の声に、太一はごろんと寝返りを打つ。光子郎はその様子に、はあ、と大きく溜め息をついた。
「あら、おはよう光子郎」
 そこへ、コンコンというノックの音を立ててから、扉が開けられる。ドアの向こうから顔を覗かせたのは、優しい面差しをした二人の母親だ。
「相変わらず貴方は早起きね。目覚ましなんて必要ないみたい。でも昨日はちゃんと早く寝たの?」
「あ、ええ…まあ」
「あんまり夜更かしするものじゃないわよ。若いうちから目の下に隈なんて作らないでね?」
 彼女は少し冗談めかしてそう笑ってから「あら」と二段ベッドの上に転がっている太一を眺め、腰に手を当てる。
「全く太一ったら。……少し光子郎の早起きを分けてもらいなさい! ほら! もう朝よ! 今日も朝ごはん食べないで遅刻ぎりぎりに走っていくつもり?」
「んー…母さんー…もう……あと五分……」
「また布団に潜り込むんじゃありません! そうやって貴方、毎日毎日ぎりぎりまで寝てるんだから! ほら、起きて! お布団も干せないでしょ!?」
 そして始まった毎朝の恒例行事。
 光子郎は「お母さん、頑張ってください」と苦笑しながら部屋を出て行った。
「なんだ。また太一は寝こけてるのか」
 呆れたように笑いながら、丁度玄関から新聞をとってきたらしい父親が光子郎に話しかける。光子郎も苦笑交じりに「太一さん、懲りない人ですから」と答えた。
「全く、しょうがないな太一も。…まあ、寝る子は育つっていうけどな」
 どこか的外れなコメントをしながら、父親はふわわと欠伸をした。光子郎はその様子に、微苦笑をもらす。
 ……少しだけぼんやりしたこの父親が、職場では敏腕・凄腕の仕事の鬼で通っているなんてとても信じられないと、今更のように思ったからだ。
「ふ、わわぁー……」
 やがて、光子郎と父親が食卓について食事を摂り終える頃、大きな欠伸をしながら、太一がやっと部屋から出てきた。
「…んー…おはよう……父さん…、光子郎……」
 もぞもぞと目を擦りながらの挨拶に、光子郎は呆れて「僕はさっき挨拶したじゃないですか」とコメントし、父親は「今日は随分早くに砦が陥落したな。母さんも日に日に腕を上げてってるな」とやはり的外れなコメントを返す。
「んんー…だって母さん、しまいには俺ごと布団を干そうとするんだもんー。そりゃあさすがに追い出されるってー…」
 太一は相変わらず欠伸交じりの口調で呻き、食卓について半分とろけたような目で食事を摂り始める。
「そりゃあ母さんの作戦勝ちだな」
 父親は妻の勝利に満足気な笑みをもらし、「笑い事じゃないのよー!」と布団を引っ張り出してきた母親に気づいて、慌てて顔を新聞で隠した。
 太一も慌てて目を開けてパンを口に押し込み始め、光子郎も密かに笑いを噛み殺す。
「ほら、二人とも! ご飯終わったなら早く支度して学校に行ってきなさい! 遅刻しちゃうわよー」
「……はーひはひ」
「全く…太一さんに付き合って、僕までこんな時間になっちゃったじゃないですか」
「むー! ほへのへいはあ!?」
「何て言ってるか分かりませんよ。飲み込んでから喋ってください」
「むー! んっぐ……んぐ…っくん…! ……んー!!」
「って、今度はむせてどうするんですか! ほら、牛乳飲んで!」
 ……泉家の朝は、いつも慌しい。
 母親は優しくて穏やかだけれど、とても明るくて。
 父親は少し的外れなところもあるけれど、いざというときには頼りになって。
 光子郎は歳の割には冷静で、人見知りはするけれど、ちゃんと友達もいて。
 太一はとにかく明るくて、誰にでも好かれ、慕われる。そんな稀有な性質を持っていた。
 ―――…まるで冗談みたいに理想的な、そんな家庭。
 その家庭に、…そう、唯一影を指すものがあるとしたならば。
「それじゃ、いってきます」
「いってきまーす…って、光子郎ちょっとタンマタンマ! 俺ちょっと忘れ物ー!」
「またですか…? 早く取ってきてくださいよ」
 太一はばたばたと足音を響かせて玄関までとってかえし……今更のように、ふと表札に目を留めた。
 『泉』とくっきり記された名字の下に。
 ……父親の名前、母親の名前……それに光子郎の名前が記されている。
 ―――太一は口の中で、小さく笑った。
「かあさーん! アレアレ! 物理のノート、俺どこに置いといたっけー!?」
 ガチャリと勢いよくドアを開けて、優しい母親に声をかけている間には、もう、忘れてしまっているような些細な違和感。
 泉家の一同の名前が記された下に……ぽつんと、『八神太一』と記されている。…ソレに対する、小さな違和感。
「太一さん、遅いですよ! 何探してたんですか!?」
「あー、悪い悪い! いやあ、今日提出の宿題! せっかくやったのに、また忘れちまうところだったぜー」
「……本当に…、貴方って人は……」
 太一よりも一つ年下の光子郎。
 …普通、世間の家庭の中では、……そういった年齢関係の家族を『兄弟』と呼んで。
 兄さんとか、お兄ちゃんとか、……呼んだりするものだと思うけれど。
 太一は、浮かんだ違和感を静かに胸の奥深く鎮めて、ほのかに笑う。
 ……誰にも気づかれないよう、ひっそり笑う。
 太一さん、と呼ぶ光子郎。
 ……一人だけ違う、名字の自分。
 ―――それらは全て、自分自身で望んだことのはずなのに。
 ……こんな風に、いつもとても賑やかな朝。
 そんな朝にふと気づいてしまった違和感は、…まるで水の上に一粒ぱたりと落ちた油の雫のように、醜い弧を描いて――…なかなか消えてくれない。

 自分と光子郎は、養子で。
 ……でも、自分と光子郎は『同じ』ではないのだということ。
 そんなことを、いやに自覚してしまう。……こんな朝が、嫌いだった。



「よう、太一」
「…うっす」
 何とか朝礼前に教室に駆け込めた太一を、金髪の少年が苦笑交じりに見下ろす。
「今日はどうにか間に合ったみたいだな」
「…まあなー……」
 金髪碧眼の彼は、少し冷たくも見える整った顔に親しげな笑みを浮かべ「ほらよ」と鞄からCDケースを取り出して放った。
「ん? …なにこれ」
 太一はそれを反射的に受け止め、キョトンとした。少年はそんな太一の様子に呆れ顔になる。
「お前が聞きたいって言ってたCD。約束通り持ってきてやったんだけど?」
「……あ、…あー! それかあ!」
 少年の台詞に、太一はようやく得心がいったように手のひらへ拳をぽんと置いた。
「そっかそっかー! そうだったよなー! やーもー、さんきゅーヤマトー♪」
「…ちっ、…全く。現金な奴だぜ」
 金髪碧眼の彼……もといヤマトは、途端に破顔してご機嫌になった太一に眉を寄せる。
「まま、そー言うなって! そこが俺のチャームポイントなんだから」
「……自分で言ってりゃ世話ねえな」
 ヤマトの口調はどこか素っ気無かったが、無邪気にはしゃぐ太一を見る目は何処か優しい。
「なあ、太一。どうせならそのCD、うちで焼いてやろうか? 空のCD−R…確かあったと思うし」
「んー…んにゃ、いいや。光子郎に焼いてもらうから」
「…そうか」
 ヤマトはあっさりと返ってきた答えに苦笑し、「そうだよな、お前んちには光子郎がいるもんな」と肩をすくめる。
 その、少しばかり寂しさと、寂しさに似た感情を含んだ台詞に、……太一は一瞬、何とも表現しがたい不可思議な目をした。
「……」
 消えたと思っていた炎が、僅かにゆらめいたような。
 そんな、不可思議な感情のゆらめきが…、太一の目の奥で。……ほんの一瞬、踊る。
 ……まるで、『光子郎』という名前に対して、何かの化学反応が起こったみたいに。
「…なんだよ、ヤマト」
 瞬き一つ、二つ。
 まるで炎をかき消すように、その色はすぐに消えたけれど。
 ……男にしては、意外と長いような睫毛を揺らして、太一はヤマトの顔を覗き込む。
「……な、なんだよって……」
「んー。…なあ、それってさぁ…?」
 ヤマトは僅かに声音を波立たせ――自分の顔を覗き込んできた太一に眉を寄せた。
 …その様子にくつりと喉の奥で笑い声をあげて、太一の唇から、ゆっくりと続く台詞が押し出される。
「――…もしかしなくても。…嫉妬?」
 それは、とろりとよく溶けた甘い飲み物をかき回すような。
 ……奇妙に、甘い声音。
「………」
 ヤマトはその声の響きと内容に気を取られ、僅かに息を呑んだ。
 太一はその様子を瞬き一つせずに見つめ……不意ににやっと目を細める。
(猫みたいだ)
 ぞくぞくと、何か甘いような予感に背筋を戦かせながら、ヤマトはそんなことを思った。
 さっき走ってきたせいだろうか。
 太一が、少し乾いた唇の表面をちろりと舐めた。
 …薄い唇の上を、赤い舌が踊るその光景。
 その光景にヤマトは。
(……ヤバイ)
 ごくりと、知らず生唾を呑み。
 まるで、…魅入られたように、ただただじっと太一を見つめ続ける。
 滅茶苦茶にしてやりたいとか。手首を握り締めて、今すぐ自分の家に連れ込みたいとか。
 そんな衝動が、脳裏でぐるぐるとイタチごっこを始める。
 ―――そこへ、始業のチャイムがゆっくりと鳴り響いた。
「…やべ、先生が来る」
 太一はぽつりと思い出したように呟き、がたがたと鞄を机の脇にかけて、筆箱やら教科書やらを鞄から引っ張り出した。
 解けた呪縛に、ヤマトは軽く息を呑み……平然と、何事もなかったような顔でシャーペンをいじる親友を見やる。
「……な、ヤマト」
 くつくつ、と、太一はまた喉の奥で小さく笑った。
「……なんだよ」
 気を抜くと声が上ずってしまいそうだ。
 ヤマトは何とか声を平常のものに戻し、自身もノートを机の上に用意した。
「今日…お前んち遊びに行っても、イイ?」
「――…ああ」
 こくり、と小さく喉が鳴った。
 即座に卑猥な想像をする自分に呆れる一方で、ヤマトはどこか自虐的な悦びを覚えて手の甲に軽く爪を立てる。
「……じゃ、そこで続き、しよ?」
 太一は口元に、どこかしら艶めいた笑みをたたえて囁いた。
「――そんとき、CD焼いてよ」
 ……思い出したように続けられたその台詞。
 それがヤマトへの譲歩だったのか、それともヤマトの家に行くための小さな口実のつもりだったのか。
(……それは定かではない、な……)
 ほのかに自嘲気味に、ヤマトはそう胸中で呟いたのだった。

*     *     *     *      *

 …彼らの母親は。
 太一と光子郎が、血の繋がらぬながらも母≠ニ慕う彼女は、先天的に子供が産めない身体であったらしい。
 だから光子郎と太一を引き取った……というわけでもないだろうが、とにかく彼らの父と母は、ごく寛容に二人を受け入れてくれた。
 ―――元々遠縁の親戚であった光子郎の両親が、赤ん坊である光子郎を残して逝ってしまったときも。
 ―――…ちっぽけな繁華街の薄汚れた下町で、売春をして金銭を稼いでいた太一が、警察に引き取られて居場所をなくしかけていたときも。


『――――……ソレが悪いことだなんて、これっぽっちも思わなかったんだ』

 ……かつて、そう話して、キョトンとしてみせた幼い自分。
(馬鹿だよなあ)
 無知で、愚かで、どこまでも幼かった自分。
 太一は国語の授業中、ぼんやりと窓の外を見やりながらそんな頃を思い出していた。
 八神という名字と、…とってつけたような、単純な名前。
 それが七歳の太一と、四歳のヒカリが持っている全財産だった頃。
 ―――両親の顔もろくに覚えていない太一が最初に学んだことは、生きるためにはとにかく金がいるということだった。
 邪魔だと言われて追い出されて、うるさいと言われて蹴飛ばされて。
 だからとにかく、自分がお金を稼いで、妹にご飯を食べさせてやらなければいけないんだと。
 小さいなりに太一はそう解釈したらしく、彼は早速ある大人の元を訪れた。
 子供でも、稼ぐ方法はある。あのヒトに教えてもらいなさい。
 そう、化粧の上手だった、近所の女のヒトが教えてくれた。
『最近の世の中にはねえ、小さくて可愛ければ男の子でもいいんだってお客も多いんだよ』
 精一杯身なりを小奇麗にした太一をじろじろ見て、その大人は「いくらほしいんだい?」と肩をすくめた。
『…ごはん、たべられるぶん』
 太一は一生懸命考えて、そう答えた。彼らは、とにかく年中腹をすかせていたからだ。
 その大人は『なるほどね』と頷いて、太一に小さな携帯電話をくれた。
『この辺をちょろちょろして、適当なお客をひっかけな。そしたら、アタシに電話するんだ。…アタシが八で、アンタは二。それなりに稼げれば、一日の食事代にはなるだろうよ』
(……)
 かつて交わした、当時の自分にしては難しすぎる大人のやりとりを思い出し、太一はぼんやりと嘆息する。
(滅茶苦茶足元見られたよなあ。…ま、相手は七歳のガキンチョだし。まともに相手してくれたってだけでもありがたいけどさ)
 ……それから毎日、太一は一生懸命に働いた。
 べたべた身体を触られる気持ち悪さにもすぐ慣れたし、痛いのも我慢できた。(気持ちいいコトだって少なくはなかったし)
 ただ、少しばかり閉口したのは、太一のことをかわいそうだと言って無闇に同情する大人たちだった。
 自分を買っていやらしいことをしようとしている身でかわいそうはないだろと、さすがに子供の太一もうんざりした覚えがある。
 だが、そういう大人は、ことによると美味しいごはんや、甘いお菓子を買ってくれた。
 だから太一は一生懸命我慢して、そういう大人が聞きたがるような辛い経験談をたどたどしく語ったり、小さな妹がいることを切なく訴えてみたりもした。
 ……その仕事がどうにか一年弱続き、その間ヒカリに食べるものを与え続けることができたのだから、確かにその努力は実っていたと言えるだろう。
 しかし。……どうやら日本の法律では、いわゆる売春≠ニいうお仕事は認められていなかったらしく。(それ以前に、児童であるはずの太一が基礎的な教育・暮らしを受けていない時点で問題があるが)
 太一を雇って働かせてくれていた大人は捕まって、太一とヒカリも芋づる式に見つかり、警察まで連れて行かれた。
『わるいことだってしらなかったんだ』
 太一はただひたすらキョトンとして、事情を聞こうとした警察官にそう話したらしい。
(だから、ねえ。それって大人の責任じゃないの?)
 小さな太一は無邪気にそう訴えて、兄にしがみついて離れようとしないヒカリからも話を聞こうとする大人をきつく睨んだ。
『だって、おかねがないと、おれたちははらへってしんじゃうんだよ』
 ヒカリをいじめるなと、太一は担当の警察官にくってかかった。
『はたらかなきゃ、おかねがもらえないんだ。おかねがないと、なにもかえない。ぬすんだりはしてないよ。ちゃんと、おれ、かせいだんだ』
 …ソレは、太一の中のギリギリの矜持だったらしい。…いや、彼が知っていた、唯一の倫理であったというべきか。
 自分はちゃんと働いて、お金をもらった。決して人のものを盗んだりしていたわけではない。
 だから、彼はそう主張したのだったが。
 ―――それでも、それはいけないことなんだよ。
 そう諭す大人の声は、太一の中に消えないしこりを残す。…何故なら、その倫理は、幼い太一には納得できなかったから。
 ――――そして、太一が八歳になってから初めての春が巡って。
 彼らの両親は、二人を育成する能力がないと判断され、太一とヒカリはそれぞれ別々の家に引き取られることとなった。
 何故別々でなければならなかったのか。
 ……理由は、ヒカリを引き取ろうと言い出した家族が、仮にも自身の身体を売っていたような子供は一緒に引き取れないと言い出したこと。また、太一よりも更に幼いヒカリが辛い暮らしを忘れ、まっとうな暮らしに馴染めるように、かつての生活から完全に切り離すべきだと考えられたせいだった。
 今も、妹は何処で暮らしているのか、太一は知らない。
 何一つ、知らない。
 ……少なくとも、今は親に殴られることも、部屋の隅っこの方で怯えたように身を縮めていることもないのだろうとは思う。
(幸せならいいんだけどな)
 もう一度、淡く吐き出された溜め息。
 それを敏感に感じ取ったのか、隣席のヤマトが気遣うような眼差しを投げてくる。
 太一はその視線に「へいき」と唇だけを動かして答え、ちょっと笑う。
 ヤマトはその仕草に軽く眉を寄せて、また視線を前に投げた。
 ……健康的な、まっすぐなヤマト。
 少し斜に構えたようなところはあるが、彼の性質はごくごく健全で前向きだ。
 そのヤマトが、……先ほど、顔を朱色に染めて淫靡な秘め事に心を巡らせていたことを思い返し……、太一は静かに同情する。
(……悪いことだなんて、知らなくて。か)
 それは果たして、無罪であるととられるのか否か。
 少なくとも、……幼い太一は無罪放免で、現在もまっとうな中学校で、こうしてまっとうに授業を受けているのだが。
 ――ごく無邪気に。
 穢れを穢れとして認識しないまま、成長してしまった子供。
 太一は時々、こう思う。
(いっそ少年院にでもぶちこんでくれれば良かったのに)と。
 ……勿論、今もそう考えている。だから彼は、ヤマトに見えないように覆った手のひらの下、自嘲の笑みを浮かべる。
 まるで親兄弟か何かのように自分を心配する、かわいそうなヤマト。太一のことを好きなのだと照れたように俯き、こわごわと震える手のひらを自分に伸ばした少年。
『お前が、好きなんだ』
 そう告げられて、恐る恐る伸ばされた手のひら。
 ……太一はキョトンとして、でもすぐに笑って、その手をとった。
『俺、淫乱だけど。…いーの?』
 いつもと同じ表情で。
 ……教室でふざけて笑い合うときと同じ表情で、にっこり笑ってそう応じると。
 ヤマトはきつくきつく眉を寄せて、ぎゅうっと拳を握り締めて。
『それでも、好きなんだ』
 吐き出すように、そう訴えてきた。……縋るように、きつく抱きしめてきた。
(かわいそうなヤマト)
 太一はぼんやりと考え、口の端をそっと上げる。もはや授業なんて、とうに頭の外だ。後で復習をしておかねばと冷静に考えるもう一人の自分が、少しだけ煩わしい。
 ―――小学校で、中学校で。
 ……部活で、高校で。
 ―――太一は、疼く身体を抑えきれずに、幾度も男と身体を重ねた。
 あの一年で学んだ、気持ちのイイコト。
 もう働かなくていいんだよ。もう、普通の暮らしに戻っていいんだよと言われても、本当に今更で。…もう、遅かったらしくて。
 それだけが全てではないと知っているけれど、でも、それがないと生きていけないような気もする。
(セックス依存症ってヤツ? やだねえ。若いのに)
 心の中でだけ呟く独り言のクセは、昔から。…それと同じく、本音を押し殺すクセも、昔からのもの。
 友達だと思っていた少年と。先生だと思っていた男と。…全然知らないような、行きずりの男と。
 金銭を得るためではない。生きるためでもない。――勿論、妹のためでもない。
 彼は、彼の身体のためだけに欲望の中で生き、その願いを叶えていく。
 そこには、甘い恋愛感情も何一つなく、ただただ醜く爛れた欲望が顔を覗かせるのみ―――。
(なんてあさましいんだろう)
 太一は、胸中で淡々と呟く。
(おれは、なんてあさましいんだろう)
 ……水面に、醜くぷかりと浮かび上がる油の塊。
(美しい泉の面に浮かぶソレが、きっと俺なんだろう)
 ―――ソンナコトを思って、また自嘲してみたり。


 ――――チャイムが鳴って、授業が終わりを告げる。

 太一は開きっぱなしだった教科書のページをぱらぱらとめくり、ふと見つけたある短歌の文字を、そっと指でなぞった。
《白鳥は かなしからずや 空の青 海のあをにも 染まずただよふ》
(そりゃ確かに哀しいな)
 そして、思わず口元だけで自嘲するようにそう笑って、太一はぱたりと教科書を閉じる。
 ……幸せな家。
 血の繋がらない、優しい家族。
 ……自分を気遣い、大事にしてくれる優しい親友兼(現時点での)恋人。
 そこにぷかぷかと、…本質の上ではどこまでも馴染めず、ぼんやりと漂っていく自分。

『――貴方は、何が不満なんですか』

 かつて。
 哀しそうに自分を見て、そう尋ねた少年がいたことが思い起こされて、太一はゆっくりと椅子を後ろに押しやった。

 ……たらいまわしにされた挙句、ようやく決まった引き取り先。
 うわべばかりでなく、本当に太一を歓迎してくれた……新しいお父さん≠ニお母さん=B
 そして、…一つだけ年下の小さな少年。
 彼らは精一杯に太一を受け入れようと努力し……その優しさに、太一は必死で応えたいと切に思った。
 …勿論、今でもそう思っている。
 けれど。……同性に劣情を覚える醜い自分を、今更のように強く思い知るのも、あの家族と一緒にいるときなのだ。
 ……そう。特に。
(……。……特に……)
 ―――太一は、机の下できつく拳を握り締めた。
 彼らにだけは、知られたくない。
 ……そう。知られてはいけないのだ。

 カタンと音を立てて席を立ったヤマトが、本当に心配そうに自分を覗き込む。
「…太一?」
 呟くように名前を呼ぶ、その声に。
 ……太一は小さく笑って、机に置かれたヤマトの手のひらに、そっと手を添えた。
「へいきだよ」
 ―――そこににこりと浮かべられた笑みは、どこか子供じみていた。
「……そうか」
 ヤマトは、その笑みにどこかしら危ういものを感じながらも頷く。
 ……多くを語らない、太一。
 それでもいいと彼の手を握り、抱き寄せたのは自分なのだ。
(後悔はしてないさ)
 ヤマトは太一の手のひらをぎゅっと握り締めて、思う。
「……ヤマト…」
 太一はそのまま、ことんと、ヤマトの手のひらに頭を押し付けて目を閉じた。
「……何か、滅茶苦茶ダルい…」
「…そうか」
「――早く放課後になりゃあいいのになあ…」
「……そうか」
 その太一のセリフが、まるで早く一日が過ぎればいいのにと言っているように聞こえて、ヤマトは落ち着かない気分になる。
 ―――…まるで、楽しいことなど何一つないかのように。
 早く時間が過ぎればいいなと子供のように呟く太一が、…時にひどく、切なく思えるときがある。
(考えすぎなんだよな)
 ヤマトはそんな自分をひそかに笑った。
 伏せられた眼差し。
 無造作に、無防備に、預けられる額。
 その身体をかき抱き、自分のものとして振舞える時間が確かにあるというこの事実。
 ――早く、その事実に、何の悩みもなく酔えるときが来ればいいのにとヤマトも思った。

 ――――まるで君は、空の青にも海の青にも混じれずに、孤独に彷徨っていく哀れなシラトリ。

 …そんな、埒もない言葉が。
 淡々と、胸に浮かんで消えた。


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