【 なつのおはなし 】



《チハヤとヒフミのはなし》









 多分、もうすぐ夏がくるのではないかと思う。
 だって、風の匂いが変わった。どこかしら湿っぽい、夏の風になった。
 きっと、色だって違っているのだろうと思う。目には見えないけれど、きっとそうだ。
 違いない。
 
 夏がくるということは、胸が躍るようでいて、それでいて憂鬱なことだった。
 だって、夏はじめじめして湿っぽいし、シャツは汗ばんで肌に張り付く。
 クーラーの効いた部屋に閉じこもっているうちはいい。
 そうではない、教室でノートをとっているときや、自分の汗で湿った机に触れる瞬間などが、どうしようもないくらい、自分を惨めにさせるのだ。
 チハヤはそんなことを考えながら、ゆっくりと坂道を下る。走ることはしない。背中に背負ったランドセルが重いからだ。
 クラスメートたちがロッカーや、机の引出しにするように、彼は教科書やノートを学校に置き去りにすることができないでいる。
 チィくんは神経質だ、と笑ったのはヒフミだっただろうか。小柄な体に元気を詰め込んだような彼は、チハヤとは驚くほど真逆の性質をしているくせに、小学校五年の今までずっと同じクラスで、ずっと友達でいる。
 チィくんのはさあ、マジメじゃなくて神経質なんだよ、こうしてクラスに置いてって、誰かが自分のものに触るかもしんないことがガマンできないのさ。
 分かったような顔をしてそんなことを述べるヒフミにムッとして、そんなことはないよと反論したチハヤだったが、反論するだけの材料が思いつかなくて結局、またヒフミに言い負けた。
 ヒフミは成績が悪いくせに、頭の回転がとびきり速い。
 チハヤが一言言えば、三言も四言も言葉を返してくるし、それがまたいちいち的を射ている。それがまた、チハヤの気分を削ぎ、プライドをこそげ落としていく。
 チィくんなんて親しげに呼んでいるが、ヒフミはきっと、ああして自分のことを馬鹿にするのが好きなのだ。そして、自分のことが嫌いなのだ。
 そう思って不貞腐れてしまったことも二度や三度ではないが、そんな下らない口論をした日の放課後、ヒフミは決まって神妙な顔で校門の前で立っており、近づいてきたチハヤに向かって、一緒に帰らないかと声をかけるのだ。そうして、チハヤと一緒に歩きながら、滑稽な話や、難しかった宿題の話などをして、懸命にチハヤの笑いを引き出そうとする。
 チハヤがくすりとでも笑ってしまったら、このゲームはおしまいだ。
 チハヤの機嫌をとれた! とヒフミはそれだけでご機嫌になり、またいつものように無神経で明るい、無邪気な彼に戻る。
 チィくん今日の宿題やったかい? 実はぼく、まだやってないんだ、ねえ写させてよ、もう仕上がってるんだろう? …そういった具合にだ。
 そういうとき、チハヤはいつも少しだけ悔しい思いをする。また、まんまとヒフミにはめられた! と思うのだ。けれど、ヒフミがあまりにも楽しそうにしているものだから、まあいいやとも思ってしまう。それがまた悔しい。ヒフミとまた友達に戻れるのだから、まあいいやとも思ってしまう。それがまた悔しい。
 よいしょ、とチハヤはランドセルを背負いなおした。坂道を下る。どんどん下る。
 うちまではもう少しかかるけど、走ったりはしない。チハヤのランドセルには、墨汁だって入っている。なるべく刺激は与えたくない。
 しかし、その決意は後ろから近づいてきた子どもによって打ち破られた。
「チィくん! なんだよ、先に帰っちゃうなんてずるいじゃないか!」
 どーんと飛びついてきたそれは、案の定ヒフミだ。
 小麦色に焼けた手足は細く長く、にょきっと半ズボンから飛び出している。
 からからと軽そうなランドセルを背負って、彼はチハヤの背中にべったりとしがみつく。
「…悪かったよヒフミ。だから、重いから、それに暑いからはなれて」
「やあだね。チィくんはぼくと友達だっていうジカクがないみたいだから、こうしてしばらくしがみついていようと思う!」
「なんだよそれ。…うっとうしいよ」
 チハヤが正直なところを口にすると、ヒフミはますます憤りをあらわにした。
 そうして背中にしがみついた彼いわく、少しだけ教室を離れていただけなのに勝手に帰ってしまうのはおかしいだとか、チハヤには一緒に帰るという約束に対するセキニンカンが足りないだとか…、とにかく、チハヤにとってはいいかげん聞き流してもよさそうなレベルの話を延々と述べ立てる。
「ヒフミ。とりあえず、重いからはなれて。墨汁が割れちゃうだろ」
「えー、なんだよチィくん。信じられない! まさか墨汁まで持ち帰ってるの?」
 そりゃあ重いよとわめいて、ヒフミはようやく離れてくれた。
 チハヤはそれに安堵の息をつく。実際のところ、斜面でこうして延々と体重をかけられているのは、いかに小柄なヒフミであろうとしんどい。
「じゃあ、帰ろうかチィくん」
 ヒフミはそう言って、にこにこ笑った。
 さっきまでぐだぐだと文句を言っていた子どもだとは思えないほど、綺麗に気持ちが切り換わっている。この切り換えの早さが子どもだよねなんて思うチハヤも、もちろんヒフミと同い年の子どもなのだが。
 まあ、こんなごたごたはあったが、これでようやく帰る足取りを再開できる。
 チハヤは、えへへえとご機嫌そうなヒフミに肩をすぼめて、よいしょ、とランドセルを背負いなおした。重ね重ね言うようだが、本当に重い。
「ねえ、チィくん。今日の宿題やった? 授業中に出たやつ。終わってない人は、残りは家でねってやつ」
「算数だったら、もう済ませてあるよ」
「わあ、さっすが! ねえ、見せてよ写させて!」
「残念。済ませてあるから、もうムトウ先生に提出済みさ」
「げえー。何で出しちゃうんだよー」
「そんなの、ヒフミがズルしないようにに決まってるじゃないか」
「なんだよそれえ! チィくんは意地悪だ! ホントに意地悪だ!」
 最初からひとのをあてにするのがいけないんだよ、とチハヤが笑った。
 その様子にヒフミはますますむくれたが、突然ぱっと視線を前方に飛ばして「あっ」と叫ぶ。
「…なに?」
「ネコだ! ネコがいるよ、チィくん!」
 じわりとランドセル越しに背中へと伝わる、陽射し。そんなものをものともせず、ヒフミはだっと駆け出す。…チハヤの手首をぎゅうっと握り締めて。
「ちょ、ちょっと、ヒフミ! いたいよはなせ! 走るんだったら一人で行けよ!」
「だめだよ! ネコなんて、ぼく最近全然見てないんだ! 知ってるだろ、チィくん、マンションはネコ飼っちゃいけないって!」
 こんなチャンスは貴重なんだよ、とヒフミは一気に坂道を駆け下りる。チハヤは墨汁がランドセルの中揺れるのを感じながら、こぼれてたら絶対ヒフミのせいだからな! と苦しい息の下、考えた。
 ものすごい勢いで突進してくる子ども二人に、黒ネコは大変驚いたようだった。
 頭も、身体も、尻尾も真っ黒。ただし、後ろ肢だけは白いそのネコは、声も漏らさず、ざっと近くの茂みに飛び込んでしまう。
「あっ、待てぇ!」
 ヒフミは迷わなかった。
「オイ、待つのはおまえだよ、ヒ…」
 チハヤが叫ぶのも構わず、彼はそのまま茂みに飛び込んだのだ。
 がさがさっと音を立てて子ども二人を飲み込んだ茂みは、そのまま、何事もなかったように元の静けさを取り戻す。
 その前を、ちりりり、と自転車が通り過ぎていった。