【 なつのおはなし 】




《なつのおはなし》







 多分、もうすぐ夏がくるのではないかと思う。
 だって、風の匂いが変わった。どこかしら湿っぽい、夏の風になった。
 きっと、色だって違っているのだろうと思う。目には見えないけれど、きっとそうだ。
 ……違いない。

 夏がくるということは、胸が躍るようでいて、それでいて憂鬱なことだった。
 だって、夏はじめじめして湿っぽいし、シャツは汗ばんで肌に張り付く。 
 チハヤの中学は、クーラーなんて気の利いたものは勿論なかったので、机は相変わらず汗でジメッとするし、教科書も湿気でたわむようだ。
 ぶん、と手にした鞄を大きく振ると、中で筆記用具やら教科書やらががちゃがちゃと音を立てた。
 チハヤはそうして、ゆっくりと坂道を下る。走ることはしない。手にした鞄が重いせいもあるし、たぶん、そろそろ誰かさんが走ってくるような気がしたからだ。
 たん、たん、と一歩一歩確かめるようにして坂道を下るうちに、チハヤはばたばたばたと背後から聞こえてくる足音に気づいて、ふう、と息をついた。
「チィくん! なんだよ、先に帰っちゃうなんてずるいじゃないか!」
 どーん、とぶつかってこようとするその身体を、チハヤはひょいっとかわす。
 勢いあまってたたらを踏むヒフミを見て、チハヤは「悪かったよ」と笑った。
「うー…。チィくん、最近学習してきたよねえ…」
「おまえがあんまりワンパターンだからだよ、ヒフミ」
 中学生になっても相変わらず身軽なヒフミは、ちぇっと悔しそうにしてから、チハヤの横に並んだ。
「いつも思うんだけど、何でチィくん先に帰っちゃうのさ」
「ヒフミがいつまでもクラスで騒いでるからだよ。それに付き合ってるほど、こっちも暇じゃないんだ」
「暇じゃん。部活とか、まだ決めてすらないくせに」
「決めてるよ、もう」
「えっ、うそ! 初耳! ずるい!」
「……ヒフミこそ、いいかげん仮入部ばかりじゃなくて、本命を決めなよ。こんないいかげんなヤツに一喜一憂させられてる先輩たちが、見てて気の毒になってくる」
「いいんだよ。ぼくはチィくんと同じとこに入るんだ!」
 チハヤが料理部とか、筝曲部とか、そういうところに入るつもりだとしたら、どうするつもりなのだろう。
 彼の言い分に、彼女は小さく笑ってしまった。
 ふわり、吹いてきた風が、チハヤの足にひだスカートを纏わりつかせる。
「そういえば、チィくん。あの子、どうしたの? ほら、今日チィくんが話してた、おさげの子」
「ん? ああ…、同じ委員会になった子だよ。友達になったんだ。今度、一緒に遊ぶんだよ」
「…ええ。……ず、ずるい」
「なにが」
「なにがって……そりゃあさー」
 チィくん、友達できたんだー…ふーん、とか拗ねたように呟くヒフミに、チハヤは、ヘンな言い分だな、と首を傾げた。
「ヒフミだって、たくさん友達がいるだろ? だからわたしだって、ヒフミ以外に友達がいていいじゃないか」
「うーん。いいんだけどさあ。……いいんだけどー」
 なんかさびしい。
 彼はもごもごとそう呟いて、チハヤと並んだ目線で彼女を見つめ、はああとため息をつく。
「ヘンなヤツ」
 チハヤは笑って、別に友達が増えても、ヒフミに対する気持ちが変わるわけじゃないだろ、と言ってやった。
「……そ、そうかな」
「そうだろ」
「うーん。…まあ、ならいいや!」
 許してあげる、と言って、ヒフミはえへんとチハヤに手を伸ばした。
 そして、チハヤの手を握ろうとして……慌てて、手をつないでもいい? と許可を求めてくる。
 こうして、彼が彼女の手を握ることに許可を求めるようになったのは、ここ最近のことだった。
 以前は当たり前のようにつないでいたのに、とチハヤはそんなことにくすぐったいような、じれったいような、複雑な気持ちになる。
「いいよ」
 チハヤが答えると、ぱっと手をとられた。
 そして、にいーっと、ヒフミがいたずらっ子の顔で笑う。
 その顔に、あっ、と思った瞬間、チハヤはぐいぐい手を引かれて走り出していた。
 ……正確に言えば、走り出したヒフミに引きずられているような状態だ。
「な、なんで、いきなり、走るんだよっ!」
「いいじゃん! ぼく、この坂は、いつでも走り抜けたいんだ!」
「い、いい迷惑っ……!」
 スカートが足に絡みつく。鞄を持った手が、勢いに負けて、後ろへ伸びた。
 そうして走っているうちに、視界の隅、何か黒いものが見えた気がした。
 黒い黒い。……身体も黒い、顔も黒い、尻尾も黒い。だけど、足だけ白い、小さないきもの。
 ネコだ、と思った瞬間に、そのいきものは見えなくなってしまった。
 黄金色の眼差しが、ふっと木々の間に消える。
 チハヤはその眼差しが、少しだけ苦笑しているような。
 ……あるいは呆れたように、相変わらずだねきみたち、と、淡々とした調子で呟かれているような気がして、走りながら笑ってしまった。
「どしたの、チィくんっ」
「……なんでも、ないっ!」
 だって、約束だから。
 口を噤んでいなくちゃいけないのだから。
 チハヤは手を引くヒフミを、逆に追い越すようにスピードを上げた。
 背中に受ける風も、空を走る雲も、夏を告げるようにひかり輝いている。
 手をつないだ感触、頬を掠める空気、腕にかかる鞄の重み。
 そんなものを感じながら、胸躍るようでいて憂鬱な夏に向かって、チハヤはヒフミと手をつないで走っていくのだ。


おしまい。