【 なつのおはなし 】




《サヨナラのはなし》








 黒い背中は、すいすいと森の中を抜けていく。
 …ヒフミが合流してから間もなく、三人は明るい陽のひかりが覗く辺りにまでたどり着いた。
「この先、出口だよ」
 炯の淡々としたことばに、二人は「やったあ!」とはしゃいだ声を上げる。
 チハヤは、本当にありがとう! と炯に頭を下げ、ヒフミはそんなチハヤにまたちょっとだけ憮然とした顔をしている。
 森の外。出口と言われたその先には、アスファルトの灰色が見えた。
 ああ、本当に出口なんだ、と思うと、チハヤは心の底から安堵して、もう一度炯に「ありがとう」とお礼を言う。
「……」
 ヒフミはそんな炯を不満そうに見上げていたが、しかし、彼の中で何がしかの納得があったのか。
「…ありがと。まあ…うん。助かった」
 と、小さな呟きながらも、もごもごと礼の言葉を口にした。
 炯はその言葉に首を傾げつつ、そう、とだけ言う。
「じゃあ、サヨナラだ。……もうこの森にきたらいけないよ。ダメだから」
 彼は最後まで淡々とそう言って、チハヤの頭をぽんぽんとなでた。
 ヒフミがその仕草を見て、今にも炯の掌に噛み付きそうな、そんな剣呑な目つきになる。
「ダメだからって…、どうして?」
「……」
 チハヤが問い返すのに、炯は困ったように笑んだ。
「さあ。どうしてだろうね。……でもそういうことになってるんだよ、チハヤ」
「そういうことって…」
 チハヤは釈然とせずに、炯の顔を見上げる。
 細面で、少しつり目の炯。
 出口間近なのに、相変わらず奇妙に暗い森の中。
 炯の眼差しは、うっすら黄金色に輝いている。
「…あんたは、……炯は、どこに住んでるの?」
 どうしてもって言うんだったら、チィくんと遊びに行ってもいいよ、とヒフミが炯を見上げた。
 ヒフミの譲歩に、炯は少しだけ目を細める。
「あちこちだよ。住所、わかんないんだ」
「……なんだよそれー」
 フロウシャ? と呟くヒフミに、こらっとチハヤが慌てて袖をひく。
「そんなもん」
 炯は肩をすくめた。
 そして、不意に明るく笑った。
 苦笑でも小さな笑いでもない、からりと澄んだ笑い声。
 それを響かせてから、彼は「約束したっけね」とチハヤに向き直る。
 唐突な炯の笑顔に呆気にとられていたチハヤだが、その言葉に、うん、と小さく頷いた。
「ぼくは、たぶんもうきみたちとは会わないだろう。…けれど、もしも出会ってしまったとしても。……ぼくが、わかってしまったとしても、チハヤ、きみは口を噤んでいなくちゃいけない」
「……え?」
 いささか分かりづらいその言葉に、チハヤはひどく困ったような顔をした。
 言っている意味が、分からなかったのだ。
「それってどういうことなんだ…? 炯?」
「ちゃんと説明しろよ! わけわかんないよ」
 不安そうに見上げる子どもたちに、炯は「サヨナラってことさ」と淡々とした調子に戻って答えた。
「ずっとサヨナラってことだよ。……そして、たとえこの森の外でぼくに出会っても、きみたちは知らん顔をしていなくちゃいけないということだ」
 あまりにも不可解なその言葉に、二人は戸惑いを隠せないでいた。
 どうして、とチハヤが言う。
「…それが、炯のことを助けることになるのか? …よくわからない、けど」
 ヒフミは「わけわかんない!」とだけ言って、渋面のまま炯を見上げている。
「そうだよ。…さあ、もう行ってくれる? ぼくはその約束を信用したから、ここまで案内したんだ」
 ありがとうって言うんなら、ちゃんとサヨナラって言って。
 炯はうっすらと微笑んで、そう言うのだ。
 だからチハヤは、仕方なく頷いた。
 ヒフミも、ちぇ、とか舌打ちして、やっぱり頷くしかない。
「じゃあ、サヨナラ。……ずっとサヨナラだ」
 決定的なお別れの言葉に、チハヤは寂しくなった。
 けれど、そっけない言葉には、これ以上すがるところがみつからない。
 ヒフミはチハヤの手を引いて、出口に向かって歩き出す。チハヤもその手に従って、重いランドセルを揺らしながら森を出る。
「……チハヤ、ヒフミ」
 最後に、背中に声がかかった。
 その声は、淡々とした中にも優しげな響きを滲ませて、二人の背中に届く。
「楽しかったよ。……はじめ、追いかけられたときには閉口したけど。…でも、きみたちと一緒にいるのは、悪くなかった」
 その言葉に、二人は手をつないだまま、えっ、と振り返る。
 しかし、振り返ったそこには、もう既に出口はなかった。
 たった今出てきたはずのそこは、太い幹の木々で覆われていて。
 ずっとサヨナラだ、と、告げた炯の言葉。
 そればかりが、二人の耳の中、ぼんやり響き続けていた。
 ――…二人は暫く、呆然と立ち尽くしていたけれど。
 …けれど、二人は、ゆっくりと顔を見合わせて、また歩き出した。
 アスファルトの上、ぺたりと踏み出した一歩はとても頼りなく、照りつける太陽は相変わらず眩しくて。
 まるで夢でも見たみたいだと二人は思ったけれど、口には出さなかった。
 そうしてしまうと、本当に、夢になってしまうような気がしたのだ。