【 なつのおはなし 】




《ケンカのはなし》




 するすると、まるで木々が道を開けていくようだった。
 ……炯が、この森を自分の庭だと言ったのは、誇張でもなんでもないらしい。
 彼の足取りはどこまでも淀みなく、ひどくしなやかだ。
 足音もろくに聞こえず、チハヤやヒフミのように、小枝をばきばき踏むこともなかった。
「……炯さんは」
 そうして歩いていく間、あまりにも会話のないことに困ったチハヤが、話しかける。
 炯は、振り向きもしないままに言う。
「炯、でいい。呼び捨てなよ、チハヤ」
「え、…ええと…、うん。……あの、炯は、ここで暮らしてるのか?」
 まだつないだままの手の向こうでは、依然として不貞腐れているヒフミが、そんなことどうでもいいよと呟いている。
「そうだよ」
「じゃあ、近くに家があるの?」
「…まあ、そんなとこかな」
 チハヤの問いかけに、答える言葉は端的で曖昧だ。
 不思議なひとだ、とチハヤもいささか不審に思うのだが、しかしこの状態で頼る人物は目前の炯しかいない。
 ……ヒフミと二人だけでは、確実に二人して遭難してしまうだろう。
 チハヤは、この森に激しい危機感をおぼえていた。
 きっと出られるよなんてヒフミは楽天的に構えていたが、チハヤはどうしてもそんな風に思えず、いつまでも景色の変わらない森に戸惑いを隠せないでいたのだ。
 ここは、普通の森じゃないのだと思う。
 普通の森じゃないとしたらどんな森なのだろうか。そんなことはチハヤには分からなかったが、普通じゃない、チハヤたちに分からないものでも、それに慣れているものは必ずいる。
 この森に関しては、それが炯なのだ。
 不可思議な森と同じくらい炯も不思議だったが、会話をしたら応じてくれるし、話も通じるのだから、この森よりも随分マシだ! …とチハヤは思っていた。
 ヒフミの意見は、どうやら違うようだったが。
「こんな森で暮らしてるなんて、動物みたいだ」
 不貞腐れた様子で、ヒフミはそう呟く。
 いつものヒフミらしからぬ不貞腐れ方に、チハヤも大概苛立って「そういうこと言うなよ。失礼だよ」と咎めたが、ヒフミは聞く耳持たない。
「おまえだって動物だよ。うるさい子」
「……だから! ヒフミだって言ってるじゃんか! ぼくがうるさい子だっていうんなら、アンタだってへんなやつだ! へんなやつへんなやつ!」
「…ほんとうにうるさい」
 人間の子どもって、こうだから嫌いだ。
 炯は小さく呟いて、ため息をついた。
 その仕草に、チハヤは(もしも炯がヒフミに腹を立てて、このまま置いていかれてしまったらどうしよう!)と慌てる。
「ヒフミ! あまり、分からないことばかり言うなよ…! 今は炯に助けてもらってるんだから、そういう失礼なことばかり言っちゃ駄目だろっ?」
「……」
 だからチハヤは、ヒフミを諭すために声をかけた……筈だったのだが、どうしても苛々が先にたってしまったようだ。
 チハヤの中の苛立ちが、そのまま口に出てしまったような刺々しい声。
 その声に、びくっとチハヤが握っていた掌が震えた。
 あっ、と思って、チハヤが慌ててヒフミを見ると。
「……」
 ヒフミはぐっと唇を引き結んで、眉をきつく寄せていた。
 それは、不貞腐れた顔でも、拗ねた顔でもない。
 まずい、とチハヤは思った。
(これは、怒った顔だぞ…!)
 それも今までに何度も見たことがないような、物凄く怒っている顔だ。
 あっと思って、それからどうしよう、と思って、チハヤが一瞬まごついた隙に、ヒフミがばっとつないだ手を振り払った。
「なんだよ! チィくんは、どうせぼくよりそいつの方が頼りになると思ってるんだろ…! ばか! チィくんのばか!」
 彼はそのまま癇癪を起こしたようにまくしたて、そんなこと言ってる場合じゃないだろ! とかちんときたチハヤが言い返す言葉も聞かず、そのままくるっと身を翻した。
「チィくんのばーか! もうしらないんだからな!」
 そして、彼はばたばたばたばたと全力で逆方向へ向かって駆け出す。
「あっ、ヒフミ!」
 チハヤは焦ってそう叫ぶが、すぐに追いかけようとするチハヤの肩を、炯が掴んで留める。
「ほっときなよ。…知らないって言ってるんだ。追いかけたって、調子に乗るだけだよ」
「で、でも!」
 炯の言葉は、ここがこんな不可思議な森の中でない限りは頷けるものだった。
 しかし、今チハヤやヒフミがいるのは、小学校の校庭でも、教室でもない。
 炯がいなければ、いつ迷ってしまうともしれない奇妙の森なのだ。
「ヒフミが迷子になっちゃうよ! 追いかけなくちゃ…!」
「…だから、ほっときなって。迷子になるのも、困るのも、苦しいのも、全部あの子が自分で招くことだよ。チハヤには関係ない」
「そんな…。関係あるに決まってるだろ! ヒフミは友達だ!」
 チハヤの言葉に、しかし炯は怪訝そうに目を見張った。
「何言ってるのさ。チハヤは、彼が嫌いだろう? さっきから、あのうるさい子の話なんて、全然聞いてなかったじゃないか」
 本当に意外そうな彼の言葉に、チハヤはうっと俯く。
 確かにそうだ。
 ヒフミが何を言っても、チハヤは聞く耳を持たなかった。しかし、それは何を言うのも全部炯への批判だとか、ぶつくさと続けられる文句ばかりだったからだ。
 それを無視し続けたチハヤに、罪はない。…と、チハヤは思う。
「彼はやきもちをやいていたよ。チハヤ。…それも、知らなかった?」
「……? やきもち?」
 どうしてそんなものをやくんだ、と、今度はチハヤが怪訝そうな顔になる。
 炯は、そんなチハヤに小さく苦笑した。
 初めて浮かべたその笑いは、中学生か高校生のような見た目よりも、もう少しだけ大人びているように見えた。
「友達をとられて悔しいのさ。…きっと、あのうるさい子は、ぼくが今、立ってるところにいたかったんだ」
「……? 何を言ってるんだ?」
 全然わからない、とチハヤは呟き、そんなことよりも、と、決然とした面持ちで炯を見上げた。
「早く追いかけよう、炯! ヒフミが迷子になってしまうのも、ひとりで出口までつれてってもらうのもいやなんだ…! 二人じゃなきゃやだよ!」
 炯は首を傾げて、ケンカをしてても二人がいいのかい、と尋ねる。
 いつまでも会話ばかり続けて、歩き出そうとしない炯。
 それに焦れて今すぐ駆け出してしまいそうになりながらも、チハヤはきっぱりと答える。
「そうだよ! だって、ケンカしてたって、子どもっぽくったって、我侭だって」
 自分よりもずっと大人の炯を見上げ、チハヤは一歩もひかずに言うのだ。
「ヒフミは、友達なんだよ!」
 たいせつなんだよ、と、言うのだ。
 …炯は、そんなチハヤを、少しだけ戸惑ったように見下ろしてから。
「……そうなんだ?」
 軽く、肩をすくめてから、じゃあ行こうか、とチハヤの先に立って――…、先ほどヒフミが向かった方向へと、歩き出した。
「ヒフミがいるところ、わかるの?」
「わかるよ。……あの子、うるさいから。声が響いて、すぐわかる」
 チハヤは小走りにその後に続いて、炯が案内してくれるのについていきながら、やっと思いついた一言を口にした。
「あの。……ありがとう、炯」
「…どーいたしまして」
 その言葉に、ぼくも大概おひとよしだよ、なんて、炯は困ったように一人ごちるのだ。


 がさがさがさ。
「チィくんのばか!」
 ばきっと派手に小枝を踏み抜いて、ヒフミはわめく。
「チィくんのいじわる!」
 がさがさした葉っぱが、ヒフミの腕に当たって切り傷を作った。しかし、それでも彼は勢いを緩めない。
「チィくんなんか、だいきらいだーっ!」
 そして、最後に彼はそうわめいて、手ごろな木の上にざかざかと登りはじめた。ランドセルは木の根元に、ぽいと放り投げてしまった。
 俊敏かつ無駄のない動きは、さながら子ザルのようだ。
 だいぶ高いところまで登ってから(たぶん、ヒフミが三人いても、まだ背丈が足りないくらいじゃないだろうか)彼は鼻息荒く、フンと鳴らした。
 ふわあっと森の中を吹き抜けていく風が、涼しくて気持ちがいい。
 柔らかい風にシャツをなぶられ、ヒフミはちょっとだけ目を細めた。
「……なんだよ。…チィくんのばか」
 気持ちいい風に吹かれているうちに、今度はだんだん怒るよりも悲しくなってきたヒフミだ。
 ずいぶん高いところまで登った木がするのだけど、相変わらず空が見えない奇妙な森。
 その中におさまったままのヒフミは、自分よりも炯なんていう不審な少年を頼りにするチハヤに、大きなため息をつく。
「ぼくが出口までつれてってあげるよって、言ってるのになあ……」
 彼はそのまま、本当にサルか何かのように枝にしがみついた。
 彼が座っている枝は、ひどく太くて、よほどのことではびくともしない様子だ。ヒフミはその枝にぺったりと伏すようにしがみつき、あーあーと重い息を吐き出した。
「……クラスでは、なんだかんだ言って、チィくんは一番にぼくのこと、頼ってくれてるのに……」
 すらりと背が高くて、淡々と喋る炯。彼の方が、ヒフミより頼りがいがあるなんて、チハヤは本当に思っているのだろうか。
 ヒフミはなんといっても、とにかく足が速い。(体育の時間では、いつも一番か二番だ)
 少し背丈はないけれど、掌が大きいからきっと今よりずっと伸びるはずだ。(成長期というやつが、早くくれば良いのに)
 だから、チハヤはもっとヒフミを頼っていい。
 うん、絶対そうだ、と頷いて、ヒフミはずりずりと、枝に逆さづりのような状態でぶらさがった。
 南の方に生息するという、ナマケモノのポーズとよく似たものだ。
 彼は器用にその体勢を維持したまま、思いを巡らせる。
 ――実のところ、チハヤには、ヒフミ以外の友達がいない。
 チハヤには少しばかり風変わりなところがあって、なかなか友達ができないのだ。
 クラスでもチハヤはいつもぽつんと浮いているし、つまらなさそうな顔をして休み時間はぼんやり外を眺めている。あるいは、図書館から借りた本を読んでいるかしか、していない。
 一方のヒフミには、たくさん友達がいる。
 サッカーをする友達も、ドッヂボールをする友達も、缶蹴りをする友達もいる。
 彼はいつもクラスの中心にいたし、みんなの人気者だった。
 けれど、チハヤはそんなヒフミのこともどうでもよさそうに、いつも窓から空を見たり、本を読んだりしている。
 勿論、ヒフミも負けないくらいチハヤのことはどうでもよかった。ある日、いつものようにひとりぼっち、誰とも話さずにいるチハヤを見るときまでは。
 誰にも話しかけられず、誰にも話しかけず。チハヤは、けれどその中で、毅然と構えていた。つつけば崩れそうな、張り詰めた感じ。それを保ったまま、毅然としている。
 ヒフミはそれを見た瞬間、急速に、チハヤへの興味を刺激された。何故だかはわからない。その姿がひどく孤独に見えたからかもしれないし、あるいはヒフミの中の誰かが、そんなチハヤに歓声をあげたからかもしれない。
 負けず嫌いで、意地っ張り。だけれど、あの子かっこいいじゃんか? …そう、誰かが叫んだのかもしれない。
 しかし。実際近づいてみようとすると、チハヤときたら、相当つっけんどんで、けんもほろろだった。
 友達になろうと、ヒフミが誘う言葉にも興味を示した様子もなく、ただ本を読んでいるだけ。
 だけれど彼は決してめげず、毎日のようにチハヤにまとわりつき、何かあるごとに話しかけ、鬱陶しそうなチハヤにくっついて半ば無理やり一緒に帰った。
 そうしているうちに、いつの間にかチハヤはヒフミに笑うようになったし、ヒフミの言葉に応じるようになった。
 いつの間にか、チハヤはヒフミの友達になっていた。
 いや、けれど今までのように「大勢の友達」のひとりではない。
 ヒフミは毎日チハヤと一緒にいても飽きなかったし、サッカーも、ドッヂも、缶蹴りも、チハヤがいなければつまらなくなってしまったからだ。
 ヒフミにとってのチハヤは、たったひとりのチハヤだった。
 …だから、今日だって。
 迷ってしまったことは、とても大変で、困ったことだったけれど、それでもヒフミはどこかでこのアクシデントを楽しんでいたのだ。
 だって、ヒフミはチハヤと一緒にいたから。
 チハヤは、文句を言いながらも、それでもちゃんとヒフミの隣にいてくれたから。
(だから、すごく楽しかったし、嬉しかったのに…!)
 ヒフミは心の中でそう呟いて、しかめっつらをする。頭にじわじわと血がのぼってきた。……たぶん、これは位置と態勢のせいだろう。
 楽しかったのに、嬉しかったのに。
 ……チハヤは、いきなり現れた炯とかいう少年にばかり気を遣って、頼ってばかりいるのだ。
 ヒフミだって、道が分かると言っているのに。
…たぶん、わかるはずだと、言っているのに。
 それなのに、チハヤは炯のことばかり信用して、頼っている。
 それは、ヒフミにとって、大変にショックで、納得のいかないことだった。
 ……本当は、分かっているのだけど。
 炯は間違いなく道を知っているのだし、ヒフミは勘でしか道を予想できないのだし。
 しかも、ヒフミはずっと不貞腐れて文句ばかり言っていたのだから、そのせいでチハヤが怒るのだって分かっているのだ。
 けれど、頭で分かっているのと、心で分かるのは話が別だ。
 ヒフミは納得がいかないまま、頭にじわじわと上っていく血液にくらくらし始めていた。
 ……がさり。
 そんなくらくらしているヒフミの耳に、草の擦れる音が響く。
 ヒフミはハッとして、眼下を見下ろした。
 ――案の定、茂みから顔を出したのは、チハヤと炯だった。
 チハヤは気遣わしげな表情で、ヒフミはどこに行ったんだろうと呟いている。
(チィくん、心配してくれてる!)
 ヒフミはその事実に、思わずにこにこしてしまった。
 だがしかし、こうすぐに顔を出してはまずいような気がする。…もう少しだけ、心配そうな顔をしているチハヤを見ていたい。
 その横で、炯は真っ直ぐにヒフミを見上げた。
 迷いのない視線は、あっさりとヒフミを見つけ、彼は呆れたように首を振る。
 なんだよそれ! とヒフミはその仕草に激しく憤慨したが、我慢して声を押し殺していた。
 そうしているうちにも、血はどんどん頭に上っていく。
 ヒフミー、と名前を呼ぶチハヤを眼下に、ヒフミはくらくらする頭を片手で支えようとして……ぐらり、バランスを崩した。
「わっ、わ、わわーっ!」
「! ひ、ヒフミ! なんてとこにいるんだよ…!」
 頭上を見たら、今にも落ちそうな友達がいる。
 それに、驚かないひとはいないだろう。チハヤも予想にたがわず激しく驚き、今にも落ちてしまいそうなヒフミを狼狽して見上げた。
「ち、チィくん……。……へへ。…やっほう…?」
「やっほうじゃないよ、ばか! 何してるんだよばか! お、落ちるなよ…! いま、助けに行くから!」
「え、えへー。…あーでも大丈夫大丈夫。ほらまだ、落ちてない…」
 頭はすごくくらくらするけど、大丈夫、もとの姿勢に戻れるよーとヒフミは足に力を込めて枝の上に戻ろうとした……のだが。
「あ、あれー?」
「…戻れないじゃないか!」
 頭がくらくらしてしまって、それどころではないらしい。
 ヒフミは全く言うことを聞かない身体に閉口して、こまったねーと呟いた。
 全然困ってなさそうなその調子に、チハヤが怒鳴る。
「ばか! ヒフミのばか! だからちょっと待ってろ、いま助けに……!」
「…いいよ」
 しかし、その声を炯が遮った。
 呆れたような声だ。
「どうみても、自業自得だろ? 落ちても、たぶん死なないよ。ほっときな」
「いや、頭から落ちたらしんじゃうよ、たぶん…!」
「でも、勝手に自分で登って、いま、自分で自滅しそうになってるんだろ?」
 それを何で助ける必要があるんだ。
 淡々と呟く炯の声に、そんな、とチハヤが絶句する。
 そして、ヒフミは。
「……ぐ、…う、うるさいよ……! へんなやつの、…く、くせに…!」
 ぐぐぐぐぐ、と足に一生懸命、力を込め始めた。
 その力の根源は、悔しさと、腹立ちと、負けん気だ。
「ひ、ヒフミ…!」
 チハヤがびっくりして見守る中、彼は自力で枝の上に這い登った。
 炯は「当たり前だろ」という目でそれを見ている。それがまた悔しくて、ヒフミはめちゃくちゃに奮起した。
「ど、どうだ! …まいったか!」
 ヒフミはまだくらくらする頭を押さえ、ひいはあと枝にしがみついたままだったが、炯に向かってそうわめいた。
 炯はそんなヒフミに、ハア、と小さくため息をついてから、少しだけ笑った。
「まあ。…及第点なんじゃないの?」
 そう呟いた言葉は、きっと、ほんの少しだけど。
 たぶん、褒め言葉なのだろう。
 ―――そして、このあと大騒ぎをして下りてきたヒフミは、勿論、チハヤにめちゃくちゃに怒られたのであった。