ヒューストンでの住居



吉之助が1979年9月に先発隊としてテキサス州ヒューストンに赴任、家族は1980年2月にヒューストン入りとなりました。その間家族が住める所を物色していましたが、多少とも日本人が少なく、安全に問題の無い所としてWest Belt通りでI-10 Katy Freeway沿いのGeorgetownと言うタウンハウスへの入居を決めました。此処に1983年9月帰国するまで住むことになりました。





左は79年入居前、右は98年に再訪した時の写真です。閑静な雰囲気は変わりません。














樹木が20年を経て大きく茂っています。














周一と賢治は、月曜日から金曜日迄は現地のRummel Creek小学校へ通いました。













国語と算数は日本での小学校の進み具合と合わせる様に、土曜日はTallowood教会にある日本補修学校へ通いました。













ヒューストンには運河がありますが、その運河の近くにSan Jacinto古戦場があります。1836年Santa Ana将軍率いるメキシコ軍を破ることでテキサス共和国となった記念の地となっており、Washington D.C.のワシントン記念塔より少し高い記念塔があります。

又、戦艦テキサスが退役後、運河に繋留されており、その中には日本国の太平洋戦争の降伏文書の写しが展示されていました。















運河沿いの南方にはNASAのジョンソン・スペース・センターがあります。日本からの宇宙飛行士も此処で全ての訓練を受ける必要がありました。宇宙ロケットも多数展示してあり、日本からの出張者があると此処に案内することが通例でした。その近くにはKemaと言う漁港があって新鮮な魚を買うことが出来ました。そこにはベトナムからの避難民が漁民として多数働いていました。ただ、あまり働きすぎるので現地漁民との軋轢もあったようです。
















サンアントニオはヒューストンから200マイル西方にあります。毎年1回は遊びに来ていました。有名なのはアラモの砦、テキサスをメキシコから独立させる前の局地的戦闘でデビークロケット以下のアメリカ人が全滅しました。砦内には遺品も陳列してありますが、入園料が不要だったと思います。また砦内の塀の近くには日本人の志賀重昂の碑がありました。サンアントニオではメキシコ人の人口比率が60%を越えて、メキシコ雰囲気が濃厚ですが、元々メキシコ領なので当然のことかも知れません。








テキサス州の州都はAustinですが、290号線を西北に150マイル行くと到着します。此処の州議会議事堂は地味であまり大きいものではありません。近郊には渓谷が多く存在し、シリコンハイランドと呼ばれる様になりました。
又、この線沿いはテキサスの州花であるブルーボンネットの名所が多く、春4月になると毎年見物に出掛けました。











南に50マイル行くと、ガルベストン島に着きます。スペイン人のメキシコ湾上陸はここから行われ、未だにスペイン風の建物が多く残っています。遠浅の海で、絶好の釣り場となっていて釣り桟橋も海岸沿いに数多くありました。この写真は1980年のサンクスギビング(感謝祭)の日に始めて行った時のものです。











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