先輩たちと呑みに行く。
アパートに帰ると、「カードキャプターさくら」を採り逃したことを知る。これは痛い。。。
仕方ない。「十兵衛ちゃん」を見るか。(って何回見てるんだ>僕)
なんか書きたい気分なので、何かを。
僕は、何かを説明しようと発言しようとした時は、必ずと言っていい程中身が砕け散ります。
目上の人に話す時は勿論、同僚や友人に話す場合においてもその事態が起こります。
はて、な。。とか。ふむ的。
さて、これが子供の時の左利きを右利きに改めたものに拠るのかはさっぱり分かりませんが、それ故に音・声の差ってものがあやふやな感じもします。
頭ん中にはそういう発音する元が詰まっていて、それが音になるのか声になるのか、僕自身にとってはあまり変わりません。でも、今の会社社会ってのは言語で出来ておりませう。
いや、目の前で見るだけの直感ですが。これほど制限された窮屈なモンは無いと思うのですよ。まぁ、学校とか付き合いとかそういう場じゃ当たり前な筈なんですがね。
良く分かりませんね。それじゃ。
次回書きたいネタ。「交響楽団とアニソン。」と探してみたら、all about EVANGELION SYMPHONY エヴァンゲリオン交響楽 出演レポート。この初日から2日前、新日本フィルは定期演奏会をしていた。
会社では、半日かかって書けなかったコードが、先輩の助けを借りて3行程度で終わってしまったという、なんともプログラマーらしい事を体験した。
しかし、田舎では見られなかった風景を大量に見ることができた。
大通りに面した風俗、小屋のような所でテレビを5〜6台置き、
男達がバクチに熱中している風景など・・・
「こいつが都市ってヤツか。。。」
ここの密度は大したもんです。
僕には創作力があるのかなぁ。とかつくづく思う。
やってる人々は、傍からみて「なんかなぁ」でもやってるし。その点で僕の(或る)位置を決定しているのかな。
僕は何かやりたいなと思ってひょこひょこ首を突っ込んだりしてみるけど、
そこには社会的位置が存在する。
他人に僕の絶対的位置を決められるのを躊躇っているかの如く僕の行動は停止する。
傍目に考えれば、創作ってものは考えたものを実体にする過程だから、そんなものにこだわる必要性は無い筈なんだが。
でも、社会的に見せつけない限り、その創作は社会的に効果を示さない。
そういう堂々巡りが有る訳?
昼から部屋でごそごそ。布団をかたずけたり。
最近、先輩の勧めもあって、ウィトゲンシュタイン「論理哲学論」を読んでます。今のところ、解説部分。中央公論社版は解説が非常に多くて。ありがたい。ゆっくり読もう。
この前、横須賀線上りに横浜線の電車が走ってました。「回送」ですが。
どうやって入ったんだろう?横浜駅だと、ホームの端と端に分かれてしまうんだけど。