ぴんと張り詰めた空気が満ちた、射場の隣に設えられている十畳程の小さな板張りの空間。ソコは普段は部員達が最後の身支度を整えたり、または訪れた見学者や賓客を休ませたり、寒い時期には暖を取らせたりする為に使われている部屋。その部屋に今いるのは自分と、そしてもうヒトリの影。どちらかと言えば細身なのだろう身体と、ソレに良く似合った淡い印象を与える栗色の長い髪と、やや甘めの色合いを含んだクセのナイ細面。すらりとした長い手足、薄い肩、長い首。でもだからと言って決して弱々しい、頼りナイと言う訳ではなく寧ろ言うなればソレは、同じ様に細くドコか儚気なイメージを持ちながらも実は全身からしっかりとした脈動と体温とを滲ませる競走馬。そんな雰囲気を常に持つ、若木の様にしなやかな姿。しかし今、その身体が発しているのはいつもの強い躍動感や瑞々しさではナイ、ヒドく不安そうな匂いのする空気。所在なく視線を彷徨わせている顔に浮かんでいるのは、どうみても『後悔』と言う風にしか見えない、曇った色合い。その様子に、内心でふっとヒトイキ。そして。

「・・・どうした、やりたいと言って俺の元へと来たのはお前の方だぞ、成瀬」

なのに此処まで来て今更、そんな顔で後ずさりか?全く、甚だ情けない。言いながら、大袈裟な息と共に解いた組んだ両腕。ついっと踏み出す、素足の一歩。すると返る、気まずそうな音色でのヒトコト二言。そ、そうは言いますけどね、俺にとっては本当に完全に初体験なんですよっ。そりゃあ確かに、言い出したのは俺の方ですけど。でもあ啓太や俊介がアレだけ『痛い』とか『キツい』とかって騒いでるのを見てると、幾ら俺でもやっぱり、ちょっと。そしてまるで、拗ねたコドモの様に唇を尖らせ、横を向く仕草。その様子に、込み上げて来た笑いを堪えつつ畳掛け。兎に角、能書きは後にして始めるぞ。どうしても出来る様になりたいのだろう?だったら練習あるのみ、良いな。はあ、い。

「では、先ずは床に膝を付け」

ソレから手を前に付いて一度、四つん這いの体勢に。言いながら取る、だらりと所在無さげに垂れていた制服の腕。次いで指先に込めたチカラと視線とで促す、立膝を付く姿勢。その言葉と仕草とに、えっと上がる抗議の声。そんなあ、ソレじゃあまるで犬みたいじゃナイですか、カッコ悪いなあ。でもソレは敢えて無視で、冷たく言い切る。仕方ナイだろう、お前には経験が全く無いと言うのだから。だからイチバン楽な方法、体勢をとなると必然的にこうなるんだ。言いながら、ぐいっと押す背中。ほら、早くしないとまた中嶋から逃げて来た丹羽と、ソレを追わされている伊藤辺りがココに来るぞ。そうしたら一体、ナニを言われてからかわれるか。ソレでも良いのか?成瀬。するとようやく観念したのか、その長い脚を折って膝を付いた後、渋々と手を前に出しようやく床に掌を付く姿勢を取った身体。コレで、良いですか。その脇にすっと屈み、声を掛けつつ次を促す。ああ良いぞ、ソレから付いた手を放しながらゆっくり身体を起こして、ソレから体重を後ろに掛けて腰を降ろして行け。は、はい。膝頭は少し開いておいた方が良いぞ、お前は体重があるからな、脚を閉じているとキツいかも知れない。言いながら、しっかりと腕を回す広い背中。後ろは支えててやる、だから安心しろ、成瀬。言葉に、素直に真剣に従う面持ち。こくりと動いた喉元、幾度か繰り返された細かい瞬き。そして綺麗な栗色の髪を零しながらゆっくり、ゆっくりと起き上がって来る長身。その様子に、内心でほっとヒトイキ。大丈夫、この調子ならばきっと出来る。元々、成瀬は身体は柔らかいのだ。だから出来る、大丈夫。しかし。

「あっ、痛いっ!!」

痛いですって篠宮さんっ、もう無理、無理ムリっ。しかしそんな俺の淡い期待は、上がった何時にナイ大きさの、正に『絶叫』と言って言い程の声と恐らく脚全体に走ったのだろうびりっと来る鋭い痛みに対する大袈裟なまでの拒絶反応で呆気無く玉砕。その様子に、思わず荒くなる語気。ぐいっと押え込む、暴れる身体。ナニを言う、子供じゃあるまいに、まだ最初の最初だろうがっ。でも無理です、絶対無理っ。成瀬、あと少し、少し我慢しろっ。ダメですってっ、こんなの拷問、拷問ですよっ。拷問とは、成瀬っ。そして。

「・・・ホント、良くこんなコトを何回も何時間も出来ますね、凄いですよ篠宮さん」
「そうか?だがソレを言うならば、お前の方がよっぽど凄いと俺は思うぞ」

この歳にして、いや日本人にして全く正座が出来ないだなんて。幾ら海外生活が長かったと言っても、まさかココまでとは。言いながら見つめる、結局は俺の手を振り払った後で板の間にごろりと横になり、苦悶の表情で両脚を擦り続けている大きな身体。はあっと洩らす、大きなため息。その姿に向かい、ちくりと零す言葉。そう言えば以前お前は、門限破りの罰にと寮の廊下に正座をさせようとした俺に向かい、

『正座?無理です、したくありません』
『・・・ありませんとは、どういう意味だ』

意味もナニも、だって第一に正座は膝に良くありませんし、ソレに脚のカタチも悪くなる。大体、俺は海外育ちなんです。だからしたくありません、あしからず。確かそう言い切ったな、成瀬。そんな言葉と共に、ちらりと滑らせる視線。いま思えばアレは『したくない』ではなく『出来ません』だった。そう言う訳だな、つまり。問い掛けには、何の言葉も返らなかった。しかしその沈黙こそが、何よりの肯定。なのでそのまま続ける、ヒトコト二言。しかし一体、どういう風の吹き回しだ。ココに来て突然、正座を習いたいだなんて言い出して。ナニか良からぬ腹、企みでもあるのか。言いながら、改めてすっと膝を折って座る寝転がった身体の脇。そして道着の袂を押さえつつ、そっと撫でてやる未だ険しく眉根を寄せて脚を擦っている端正な横顔。その仕草に言葉に返る、はにかみを含んだみたいな色をした小さな声。別に、良からぬ腹も企みもありませんよ。ただちょっと習ってみたくなっただけ、ソレだけです。でもまさか、ココまでキツいとは思わなかった。そしてようやく脚から手を放し、俺の手を取りつつ苦笑と共に起き上がって来た制服の身体。その顔が、困った様にくさくさと髪をいらいながらぼそりと零す。だけどもせめて15分、いや5分は出来ないと困るんだよなあ。そしてまた擦る、今度は床に投げ出した脚の膝の辺り。そんなヒトコトに、くすりと返す言葉。そうだな、せめてソレくらいは出来る様にならないと、畏まった場所には出られないな。お前も来年は最上級生、そういう機会も増えるだろうし。は、い。

「そう言えば篠宮さん、今年はいつ向こう(実家)に?」
「今年は引き継ぎやナニやらでゴタついて、結局年明けだ」

お前は?今年はどうするんだ。あ、はい、実は俺もナンだかんだで飛行機、取り損なっちゃって。そう言い、ははっと笑う横顔。なので居残りです、戻るのは篠宮さんと同じ、年明け。その屈託のナイ笑みに釣られ、こちらもくすり。そうか、では年越しはお前とふたりと言うコトか。そうですね、そうなりますか。その時、

「悪い篠宮っ、ちょっとで良いから匿ってくれっ」

ったく中嶋も伊藤のヤツ、マジでめっちゃしつこくてよっ。そんな声と共に聞こえて来た、射場の廊下を駆け抜けて来るばたばたと言う荒い足音にふたりして顔を見合わせ、ぷっと吹き出す。ほら来たぞ、間抜けな逃亡者が。全く、毎日ホントに懲りませんね王様も。ああ、本当に懲りない、丹羽も中嶋も。そして。

「篠宮さん成瀬さんっ、今ココに王様が来ませんでしたかっ!!」

そして丁度、丹羽がその大きな図体を情けなく屈め、部屋の隅に置いてあった衝立ての影へと身を隠し終わった頃に、息を切らせて部屋へと飛び込んで来た小さな追跡者の姿に、また苦笑。




NEXT→