3) 縁起(四諦、十二縁起)
心を完全に統一し精神を集中させることを得た釈尊は、憂悲苦悩(苦諦)とその原因(集諦)と苦しみのない
境地(滅諦)ならびに、それに至る方法(道諦)の真理について思惟されました。これを仏教では四諦と言い
ます。釈尊は、一切は無常(変易)なるものであり、生じては滅する法(ことわり)なりと正しく観察されます。
生じては滅するとは、突如として何もないところに生じるということではなく、存在するものが突如として滅し
て無くなるということではありません。一切の現象が変化するところの現れとして、生滅があるということです。
しかしてこの現象は、神の意志によるものでもなく、最初から予め決まった運命であるのでもなく、単なる偶
然によるものでもないと、これらの思想を退けられます。神意に依るならば、宿命に依るならば、偶然に依る
ならば、人は何のために生まれ、何を為そうとしているのか、生存そのものが意味を見出せない迷いとなり、
当然のことながら苦しみから逃れる方法など意味のないものとなりましょう。一切は原因(因)と条件(縁)に
よって生じては滅している、無常に変化しているという真理を悟ることによって、一切を自らの意志によって
改善することが可能となるのです。
「これ」あれば「彼」あり、「これ」生じる故に「彼」生ず、「これ」なければ「彼」なし、「これ」滅するが故に「彼」
滅す。生あるが故に老死あり、生に縁るが故に老死あり。では、人生の根本苦である「生死」は如何に依っ
て起こるのであろうか。釈尊は、この縁起を順逆に漸次に観ていかれます。「有」に縁るが故に「生」あり
(有とは業による心的存在)、「取」に縁るが故に「有」あり(取とは執着)、「愛」に縁るが故に「取」あり(愛と
は渇愛で限りない欲求)、「受」に縁るが故に「愛」あり(受とは感受作用)、「触」に縁るが故に「愛」あり(触
とは感覚器官と対象の接触)、「六入」に縁るが故に「触」あり(六入とは眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚・知覚
器官)、「名色」に縁るが故に「六入」あり(名色とは、心と身体)、「識」に縁るが故に「名色」あり(識とは遺伝
される潜在意識)、「行」に縁るが故に「識」あり(行とは身口意の行為・業)、「無明」に縁るが故に「行」あり
(無明とは、人生や事物の真相に無知)と、果より因を観ていきます。
また、「無明」が滅すれば「行」滅し、「行」滅すれば「識」滅し、「識」滅すれば「名色」滅し、「名色」滅すれば
「六入」滅し、「六入」滅すれば「触」滅し、「触」滅すれば「受」滅し、「受」滅すれば「愛」滅し、「愛」滅すれば
「取」滅し、「取」滅すれば「有」滅し、「有」滅すれば「生」滅し、「生」滅すれば「死」滅すと、因より果を観てい
かれます。即ち、根本の「無明」を滅するならば「生死」を滅するなりと。生死を滅するとは、生まれない・滅し
ない即ち「この世に存在しない」と言うことではありません。生死という概念を超越した境地のことです。永遠
に滅することのない常住不変の本質的な生命感を、この我が身に我が心に覚ると言うことです。生死を超越
した境地を得るためには、無明を滅す即ち諸法の実相を悟ることであり、智慧を必要とします。菩薩とは、菩
提(悟り)を求める者、智慧を得んと努め励む者のことなのです。
「諸行無常 是生滅法」とは、宇宙・万象のことわりを以て、生存を無意味のままに逃避的に或いは運命とし
て受動的に生きるニヒリズムを説いたものではありません。私たちが一般に知っているこの語句は半偈であ
り、「生滅滅已 寂滅為楽」と続くのものです。これは、生滅のことわりを超越した境地に至り、この現実の世
界に於いて究極の安らぎ(涅槃)を得ることを説かれているのです。
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