
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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高級路線を打ち出すことで同業他社との差別化を図り現在業界第2位のハンバーガーショップで契約農家の品田さんがつくった玉葱のオニオンリングを、一口かじると真向かいに座っている小さな女の子と目が合った。彼女はCの字になったオニオンリングを見て隣のおばあちゃんに「まあるいの食べてるよぉ」と鼻にかかった高い幼児声を出して、笑った。やさしそうな老婆は目を細めて孫にうなずいてみせた。俺もこういうときは笑ってみせるものだと思い笑ってみたが片頬が引き攣れただけだった。
もしも近い将来この幼女が少女になり春をひさぐことになっても、もう少し遠い将来不本意ながらおっさんに迎合の愛想笑いを浮かべなくてはいけない職業に就いたとしても、オニオンリングをかじる俺を見て笑ったことを忘れないで欲しい――と思わなかった。彼女の記憶映像に保存された俺をたまに呼び出してふと微笑んで欲しい――と思わなかった。春を売らなかった俺は魂を売ることで日銭を稼ぎはじめ、あらゆる記憶も感情も忘却してしまい、笑えなくなってしまった――わけではなかった。
黒目がちの瞳をきょろきょろさせながら世界を観察する彼女。
つまらない文章を脳内執筆する俺。
魂のこもらない言葉だけが、網状世界をさまよう。
…4月はもっとがんばろう。
※タイトルは、ZAZEN BOYS『自問自答』の歌詞をアレンジしたものです。
家電量販店に行く。入ってすぐに、おっさんが目の前を通り過ぎて行った。汗と生乾きの洗濯物の臭いがする。紺の作業着で、首にタオルを巻いていた。早足で奥に行く。そこにはマッサージチェアが数台並んでいた。一つを除き、すべて埋まっている。主婦、老人、若者とさまざま。おっさんは残り一つのチェアへとわき目もふらず進み、荒っぽく座った。至福の笑顔、である。満席のマッサージチェアとその面々を見て、神経質そうな若者が歪んだ笑みを浮かべた。「負け組」の展示会――若者はそう思ったそうだ。若者は自分を「勝ち組予備軍」だと思っていた。そして、僕は、若者が展示されたマッサージチェアを目指す日が来ないことを、祈るばかりだった。
よく言われるように、自分の人生の『主役』は自分である。
その人の人生の『主役』はその人、ということだ。自分の人生で、わざわざ『脇役』を演じようとする人はいない(と、思う)。どんなに地味な人生を生きている人だろうと、派手できらびやかな人生を生きている人だろうと、地味な人生、派手な人生という物語で、それぞれに自分が主役であり主人公なのだ。なるほど、逆に言えば、自分は、ある人の人生においての『脇役』ということになる。まあ、それは、致し方ない。お互い様、だ。
高校中退、地方出身、趣味で自主映画を作っている自費出版小説家志望――と、僕自身の「変わっている」と思われる特徴を並べてみる。なるほど、ある人から見れば僕は「変わり者」であり「おもしろいやつ」なのかもしれない(僕以上に「変わり者」で「おもしろいやつ」を僕はたくさん知っているが)。「話題に事欠かない」やつなのかもしれない。
僕自身の人生においての主役は僕自身=松田龍樹である。そして、もちろん、ある人の人生においては、僕は脇役となる。そう、その主役=主人公の人生に登場するちょっと変わった、適度にその人の人生物語に刺激をもたらす「変わり者」の「名脇役」となる。
僕は必死である。
自分の限られた、もう天井が見えてしまった微小な才能をフルに活用し、常に打算・計算しながら生きている。自分の虚栄心と物欲を満たすため、虚勢と虚構で武装し、自分なりに必死に生きている。「変わり者」かもしれないが、自分では至極真っ当な人間だと思いつつ、自分の人生劇場の主役を必死で演じている。
だが、ときに痛烈に実感するときがある。
「俺は脇役なのだ」と。
自分の人生を必死に生きれば生きるほど、誰かの人生で名演技を見せる「名脇役なのだ」と。
「俺の知り合いに、小説家志望のやつがいてさあ〜」
「へー」
「なんか変なホームページ作って、自分の自費出版した小説を売ろうとしてるの」
「へー、たいへんだねえ」
ああ、今日もどこかで、脇役の僕を肴に、「主役」たちが酒を酌み交わす。彼ら主役たちのバラエティに富んだ名脇役たちの一人として、僕は活躍しているようだ。僕が必死になればなるほど、足掻けば足掻くほど、彼らの人生に程よいエピソードを与えることになっているようだ。
私の人生は、誰かの人生を彩るためのショー、ではない。
私は、誰かの人生に適度な刺激と話題を振りまくために「変わり者」という「名脇役」を演じているわけではない。
私は断固、「高みの見物」をしている「主役」の人生劇場の名脇役を演じることを、拒否する。
まあ、と言っても、結局その人の人生劇場において僕が主役になることは、ない。やっぱり脇役なのだろう。けど、僕は知っている。「主人公はいまいち」の「脇役だけが光っている」物語が、案外この世には多いことを。
キムタクのドラマに出ている竹中直人や堤真一を見ながら、そんなことを考えた。
偶像惹立舞台出身俳優名脇役ってか? おまえは何様だ? 王子様?
へっくしょんっ(今夜は冷える)、俺は王子様を楽しませる旅芸人ってところか。
「主役」たちの幸運とご活躍を祈ろうではないか!
火事を見た。
もう24時間以上起きている。いい加減眠たかったが、腹が減っていたので出前を取った。
「火事すごいっすね」
出前の兄ちゃんが言った。
「…?」
「こっから、火見えますよ」
そういえばさっきからやたらとサイレンが聞えるなとは思っていた。ほんとはすぐにでも見に行きたかったのだが、出前の兄ちゃんが行ってしまうまで待った。この時点で自分の野次馬根性に少し羞恥を覚えていた。しかし、もう心は好奇心でいっぱいだった。ビデオカメラを持っていこうかとも一瞬思ったが、さすがにそれは抑えた。死人が出ていたら、いや出ていなくても、目覚めが悪い。
アパートの廊下から見ると、畑の向こうの空がオレンジ色に照らされていた。それ以上にもうもうと白い煙が上がっている。コートも着ずに、寝巻きのままそのオレンジ色の空の方へ歩いた。
「野次馬」は僕だけではなかった。まずおばさんたちが寄り添って立っている。その横を自転車に乗った小学生が駆けていく。
僕は初めて「野次馬」を見たと思った。そして、自分も野次馬の一人だった。
開けた場所に出ると、家が見えた。「きれい」と思った。心底思った。幻想的でさえあった。
家は普通の、ごく普通の一軒家だった。外壁の方はまだ燃えておらず、家の中がてらてらとオレンジ色に揺れていた。
消防車も何台も着ていた。生垣を踏み越えて消防士が家に近づく。なんだかミニチュアの家と人形のように見えた。
子供から年寄りまで、老若男女とはこのことで、ここら辺りの住民をバランスよくサンプリングしたみたいに、野次馬で溢れていた。
家を飛び出した瞬間から、何度となく笑みが漏れそうになっていた。それを押し殺すために神妙な顔をつくる。そんな僕を諌めるように「こういうのは楽しんじゃいけないんだよ」という声がする。3人の子供を引き連れたお父さんだった。長女らしき女の子が「そうじゃないよ、初めてだから…」ごにょごにょと何か言い訳している。お父さんは、携帯で「もう帰るよ、もう帰る」と誰かに言っている。お父さんも、子供も、そして僕も、同じ心持ちだったのではないだろうか。浮き立つ心を、抑えようとしている。
部屋の中だけで燃えていた炎が、屋根の隙間からぷあっと火の粉を舞い上がらせた。周りからは「ああ」とうとう外にまわっちまったよ、みたいなため息が漏れる。屋根と壁のつなぎ目からぷあっぷああっと火の粉が舞う。何かの祭みたいだ。外に出はじめた炎を水鉄砲が狙い打ちしようとするが、なかなか命中しない。何やってんだ! だがその水圧が半端じゃないのだろう。自分の立っている方に一台、反対側には数台の消防車がいるようだ。こっちの消防車は小さな公園の中にある給水口から水を引いていた。こういうときの水は汚いと知っているせいか、辺りがどぶくさい気がした。
住人は無事なのだろうか。そればっかりが気になっていた。住人が無事なら、ビデオを取りに帰ってもいいのだが。僕はここまできて、まだその妖艶な炎をカメラに収めたいという欲求にとらわれていた。
パリン、ガタンと音がする。
どうやら火は外までには行かないようだ。外壁の白さがくっきりと夜景に浮かんでいた。
振り返り振り返り、僕は炎から遠ざかった。もう帰ろう。腹も減った。
「××さんが、気の毒だよ!」
振り返るとちゃんちゃんこを着たおっさんが一人で叫んでいた。
どこか、みんな、火を楽しんでいた。他人事だった。もちろん、僕も。
痛烈に「他人事」という言葉の意味を悟った。
「××さんが、気の毒だよ!」
僕は「××さん」の部分が聞き取れた。妙なリアリティが僕の中に生まれた。あれは「××さんという家族が住んでいた家」なんだ、と思った。見るからに安普請の家だ。だが、いろいろ生活してきた思い出もあっただろうに。もし体が無事だったとしても、どれほどのショックだろうか。
「気の毒」
他人が言える精一杯の同情の言葉だと思った。おっさんの言葉は、リアリティがあった。
「××さんち」は、「見世物」として最期を飾った。
つまらない「野次馬」たちの、ちょっと早い春の余興として、鮮明に記憶に残ったことだろう。
※かなり不謹慎な部分があることは、わかっています。ただこれが僕の実感でした。なんだか痛ましかったのは、自分も含めた見物人が見事に全員「他人事」という空気を発していたことです。たぶんそれが人間というものなんでしょう。帰り際に聞いた、おっさんの「××さんが、気の毒だよ!」というおっさんの言葉に、僕が救われた気分でした。 (でも、さっさとうどん食ってるおれ。嬉々としてこれを書いてるおれ。俗物根性丸出し、見事に下劣な人間です。ま、でも、下劣な人間の書いた文章って多いですよね、世の中に。)
と、いうわけで、ミステリ。それも、メフィスト賞系のものを読んでみようという今日このごろ。
『コズミック 流』次々と起こる単調な密室と殺人と人間ドラマ(を描写する文章)に食傷気味になってしまう。でも、それでいいんだろうな、と思う。だってこの世は虚構と現実の殺SATSU-ZIN人に溢れて、僕らは食傷気味なのだから! 飛ばす!
『ジョーカー 清&涼』僕は確か高校生のころ坂口安吾の『不連続殺人事件』を読んで、ノートに人物相関図まで作ったが、結局いまとなっては忘却の彼方…である。でも、読み通せたんだよな。なんか面白かったんだろうな。
うーん、「四大ミステリ」というのが読みたくなった。
『コズミック 水』右脳速読者並のページさばき。
と、いうわけで、東浩紀『メタリアル・フィクションの誕生』を読んで以来、読みたかった『九十九十九』を買いに雨の中。
流水大説かあ…俺も高校のころに出会っていたら、ハマってたかもなあ。あのころは、僕も自信と大法螺をたくさん持ち合わせていたのに。いつの間にか、摩滅してしまった。清涼院流水氏は、その「子供のような冒険心」を「子供のような自信(万能感)」でもって満たしてくれている感じがした。うらやましい。
「しょせん紙の上」と思う俺は、つまらん「大人」なのかなあ。
神の上で言霊たちが、踊っている。
私は、つまらん大人になってしまった子供として、何か小さな説でも書いていこう。
『カーニバル』?? よ、読みてえ。けど、長げえ。
とりあえず、舞城王太郎『九十九十九』を読み始める。
現代の若者=精神的フリーターたちは、個々人がすべて、それぞれに思想家でなければならないという過酷な運命を背負っている――そんなことを思う。
一切すべては無意味であり、生や世界には意味はない。意味を見出すのは、つまらない人間の脳みそだけだ。結局のところ終わらない舞台演劇を自作自演で演じているようなもの。「降りる」ことはいつでもできる。だが、演技という嘘と嘘の間にだけ存在する「ほんとう」もあるのだろう。だが、それでも言う。「ほんとう」とは何だ? 「ほんとう」に意味はあるのか?
一切は無意味。
あるとき、妙な夢を見た。
夢の中で僕は猛烈に感動している。そしてある言葉を心の中で繰り返しつぶやいている。
「今日の在るの何たるや」
今日があるとは何とすばらしいことだろう――今日という日を、いま感じながら存在しているという事実――それは何たる奇跡だろう――そんな意味だと思う。
一切は無意味。
芝居は嘘である。彼は王様でもなければ、彼女は貧乏な町の娘でもない。だが、彼、彼女はそこに存在し、演じている。それが「ほんとう」である。
あなたは「学生」を演じているかもしれない。「サラリーマン」を演じているかもしれない。「フリーター」、「浪人生」、「役者」……数多ある。
それすらもあなたは「ほんとう」ではないと感じ、「仮」の役柄であると思っているかもしれない。だが、「演じている」というのは「ほんとう」だ。あなたが自覚的だろうと、無自覚だろうと。
一所懸命に演じよう。命がけで演じよう。
「これは芝居だ」「これは演技だ」「これは嘘だ」と自ら暴露しながら、それを観客に伝えながら、「嘘」を「演じ」よう。
一切は無意味である。
何の帰結も結論ももたらさず。延々と終わりなき自作自演の芝居を演じ続けよう。
僕には見える。ほんの少しだけ、いや、ほとんどあなたと重なっているもう一人のあなたが。あなたとほとんど、寸分の狂いもなく、あなたと同じ動きをしているもう一人のあなたが。
あなたが一所懸命に演技し続ける限り、もう一人のあなたもあなたと重なり、あなたは一個の人間に見える。
でも、ときおり、何か神々しい瞬間に、あなたはダブって見える。あなたとあなたにズレ、誤差が生じる。あなたの動き=演技は「嘘」であり、「ほんとう」ではない。その強靭な「嘘」の誤差=ズレ、それこそが「ほんとう」と呼べる唯一の可能性――だと僕は思う。
一切は無意味。
現代日本の若者はすべからく思想家でなくてはならない。「一切無意味」という真実から、思想を創造しなければならない。虚妄の思想だ。虚妄の思想を貫徹しよう。虚妄の思想を演じ続けよう。永遠に演じ続けよう。
ああ、めまいがする。遠近が退いていく。
僕はあなたがズレる瞬間が、観たい。
追記04.03.22
一読して、意味不明。支離滅裂。
たぶん、現代日本では<寄らば大樹>的な、広く万人に受け入れられる「思想」とか「価値観」(学歴主義、拝金主義、無政府主義、国粋主義…)のようなものが限りなく陳腐化してしまい、これから、特に若い人たちは、それぞれに一から「自分の思想(価値観)」を創り上げていかねばならず、それは(自分も含めて)たいへんなことだなあ…と言いたいんだと思います。
<何に重きを置くか>=<何を大切だと思い、何を大切ではないと思うか>=それが思想とか価値観というものの基本なんだと思います。<何を大切にするか>、そして<何を大切ではない>とするか、生きるとは、常にこの取捨選択の繰り返しのような気がします。
追記04.03.22 part2
で、ですね、上の文章が意図したのは、「それがどんな思想か価値観か(=即ち、生き方)、それそのものはそれほど大事ではない。その思想をどれだけ(たとえそれが、フリであったり、芝居であったりしたとしても)信じて全うしてみせているかが大事なのでは?」ということだと思います。……ま、どうでもいいや。とりあえず不完全な仮説のメモ程度だということで、逃げとこ。
言葉で言い表せない。
言葉で言い表せない「何か」。
言葉で言い表せない「何か」があるから、言葉で言い表せる「すべて」を言い尽くそうとしているんじゃないかな。
もう決定的である。
もう決定的だ。
良くも悪くも私はもう決定的だ。
わたしは天才ではない。
わたしは天才になりたかった普通人だ。
わたしは天才になりたかった普通人という意味で、普通人ではないのかもしれない。
普通人ではないのかもしれないが、天才ではない。
もう、どっちでもいい。
もう決定済みだから。わたしは天才になれなかった普通人ということで決定済みなのだから。
せめて、天才になりたかった普通人として、それを全うしたい。
百年後に死のうが、明日死のうが、おれはおれだ。
もう決定済みなのだから。おれはおれとして、決定済みなのだから。
結局、おまえは自己愛を捨てられない。
結局、おまえはおまえだ。
結局、いつ死のうが、おまえはおまえなんだよ!
ああ、吐きそうだ。
天才だと思ってる馬鹿どもの時代がやってきたぞおおおおおおおおおおおおおおおおお!!
現在、ほとんどの人間が小説を書く必要がないことに、まだ気づいていないのか?
一生、小説なんて読まなくても、充分楽しく生きられるのだぞ!
小説を読んで救われる人生なんて、高が知れてるってことに気づいていないのか?
ああ鬱陶しい自己満足を垂れ流す野郎ども。おまえが就職できないのは完全無欠でおまえの責任だ。
10パーセントの魂を、薄利多売。
10パーセントの魂を、売る乞食。
薄利多売とは、100万人から100円づつ恵んでもらう方法である。
100円ちょうだい乞食。それおれ。
マクドナルドのビッグマックはうまい。
吉野家の牛丼はうまい。
ビールはうまい。
たばこはうまい。
あの小説は、おもしろい!
ああ、おもしろい小説が書ける人間になりたい。
ああ、おまえの言葉はどこまでも空寒いなあ。
今日も、自問自答の雨が降る。
僕は傘も差さずに、濡れるがままだ。
おまえは強いな
おまえは強いな
言葉でおれを攻撃するおまえは強いな
言葉でおれを攻撃するおまえにおれは負けそうだ
でもな
沈黙の反撃
沈黙の反撃
沈黙の反撃は、あとから効いてくる
沈黙の反撃は、食らうと、致命傷だぞ
嘘でも笑え。
嘘でも笑え。
忘れちまった笑い方。
忘れちまったんだよ、笑い方は。
だから、嘘でも笑う。
感動を口にすると陳腐。
追記04.03.11
ねむらずに朝が来て(by 向井秀徳)、こんな鬱陶しい文章を書いてしまいました。載せるつもりもなかったんですが、『雑感雑文』は<何でもあり>というコンセプトなので、こういうのもいいかなと思いました。まあ、ほとんど自分の責任を棚上げした、世の中へのルサンチマン&呪詛といったところでしょうかね。挑発的な部分もありますが、そんなことをネットに書いて溜飲を下げてる輩(=僕)です。実際はきっとへなちょこです。最後の「感動を口にすると陳腐」はちょいと気に入ってます。本当に感動したとき、黙ってそれを噛みしめられたら、それが最高なんですけどね(ついつい誰かに「感動した」ことを伝えたくなる。伝えた途端に色褪せる…みたいなね)。
と、いうわけで、エンタテイメントな話題を。
恵比寿の東京都写真美術館でやっていた「文化庁メディア芸術祭」に行ってきた。
時間がなくゆっくり鑑賞できなかったのが残念だったが、非常におもしろく刺激的だった。
どれも印象に残ったのだが、特に橋本典久『パノラマボールとゼログラフ 映像メディアの別の進化論』という作品は優秀作に選ばれただけあって、かなり新鮮で刺激的な作品だった。
「パノラマボール」とは、ある一点から、上下左右360度の静止画を撮影し、それをプラスチックのような軽いボールに貼り付けたものだ(たぶん。間違ってるかも。興味のある方は、ネットとかで探して、見てみてください)。パンフレットによると作者は「フレームを越えた映像表現」として、これを作ったそうだ。
現在、僕たちに馴染み深い身近なメディアといえば、テレビ、パソコン(インターネット)、携帯電話ではないだろうか(他に、ビデオカメラ、デジタルカメラ、映画、DVD=テレビで見る映画、なんかもある)。その三つに共通するのは、「フレーム」で区切られた平面(2次元)ということだ。つまり、僕たちは、フレームで区切られた平面の中に映し出される映像や文字から情報を得ることに慣れてしまっている、ということだ。
実際、当たり前のことだが、僕たち生身の人間の視界に「フレーム」はない。見える範囲に限界はあるけど、それがどこからどこまでなのかは、かなり曖昧だ。眼球の動き、首の動き、身体の動きを加えると、もうほとんどその視界のフレームを限定することは不可能だ。大げさに考えると、視界の境界が曖昧だから、僕たちは漠然と世界と自分とがつながっているように感じることができるのかもしれない。逆に、フレームで区切られた世界は明快だが、他所事だ。どんなにそのフレームの内部で起こってること、表現されてることが過激だったり曖昧だったり抽象的だったり異常だったりしても、とりあえずは、その世界(=フレーム内)として区別することができる。
ビデオカメラなどでの撮影経験のある方ならわかるかもしれないが、それまで生身の人間同士対峙していたのが、そこにカメラなどの媒体を挟むことで、目の前の人間がフレームに収められ、極端に言えばモノとして見れてしまう。つまり、生身の人間同士が対峙しているときは、そこになんらかのコミュニケーションが発生してしまうが、フレームに収められてしまった人はすでにモノであり、一方的に僕たちが「見る」だけである。別に人でなくても、風景でも文字でもCGでもなんでもいいんだが、フレームに収まってしまえば、その瞬間にすべて「フレームに収まったモノ」という意味で同じになってしまう。
もしかすると、現代日本ではこの「フレームに収まったモノ」を見ている時間の方が、生身の視界でものを見ている時間より長い人の方が多いのではないだろうか(もちろん、「フレームに収まったモノ」を見ているのは生身の眼だが)。少なくとも、「フレームに収まったモノ」を見ている時間は一昔前より確実に長くなっているはずだ。
ということは、自分と世界が曖昧に連続しているという「世界観」よりも、フレームで区切られた「世界」=「世界観」の方が、いまやしっくりとくるのではないだろうか。いま、あなた自身が見ているように、パソコン上の情報もすべて「Window」によって区切られてはいないだろうか。
フレームで区切られた世界を見ることに慣れてしまった僕たちに、この「パノラマボール」は新しい世界を見せようとしているのだ――僕はそう感じたわけだ。
※んーかなりこういった美術について語るのは、神経使いますね。なんか、ぜんぜん的外れなこと言ってたらどうしようか、とか。ま、でも、結局感想なんて主観的なもので、自由ですからね。だからこそ、その人の内面やその深さがぽろっとその言葉に出てしまうのでしょうけど。
僕は美術には疎いです。素人です。でも憧れはあるんです。だから、こういうのを見ておこうと思ったのです。いろんなことを見て聞いて感じて、自分の中に蓄積したいですね。
追記04.03.11
それと、マンガ部門で安達哲『バカ姉弟』が優秀賞に選ばれていた。何を隠そう、僕は安達哲の『キラキラ!』というマンガが大好きなのだ(ベスト1と言ってもいい)。中二のとき家の前のゴミ捨て場に一巻が捨てられていたのを、うちの親が拾ってきたのだが(なんちゅー出会いだ)、読み始めてからあっという間に引き込まれてしまいました。その後、古本屋でなんとか全巻探し当て(当時は絶版だったのかな。いまは復刻版がでている)読んだのです。これはほんと面白くて、中学・高校時代ともクラスに持ってったら、みんなハマってました。って、その高校時代に誰かが借りていったまま、数冊がまだ戻ってきていないのです! 特に最終巻。復刻版には載っていない作者の言葉が書いてあり、貴重なんです。返してくれとは言わないが、大事に持っていてくださよ。まあ、とにかくこの『キラキラ!』は僕の十代後半の指針になってしまい、それによって惨憺たる青春を送るはめになってしまったんです。
もちろん、かの名作『さくらの唄』も、ものすごいです。こっちを読んでたら、もっとひどい青春になっていたかも…。でもって『バカ姉弟』はまた別の意味ですばらしいです。なんか、あらゆる煩悩が昇華されたあとの作品って感じで。幼児性と老成の混在とでも言うべき世界です(またいつかちゃんと書きます)。
なんか、ここまでの『雑感雑文』を読んでると、「小説に対する青臭い悩み」ばっかりが書かれてる気がする。ちょいと鬱陶しいっすね。反省。もっと、いろいろな話題について書こうと思う。だいたい「悩み」なんて無駄でしかない。「考える」ことは大事だが「悩む」ことは自分にとっても他人にとって鬱陶しいだけだ! (…でしょ?)。
次回からはエンタテイメントな話題が盛りだくさん!
現在、大学の春休みを利用して、自主映画を一本撮ろうと計画している。もう2月の頭には脚本の第一稿を書いていて、その後ロケハンも何度かしている。いままでの経験を生かして、良いものができそうな予感がある。しかし、今現在、制作が滞っている。役者がいないのだ。見つからないのだ。まあ、それは初めっからわかっていたのだが。いつもこの役者探しで苦労させられる。
ある小説家が、友人の映画監督を見てこう思ったそうだ。
「映画監督は一にも二にも、行動力」
まったくその通りだと思う。しかもそれは映画監督にとっての最低条件のようなもので、映画監督を志す者にはあって当然の資質である。僕も周りの自主映画監督を見ていて、つくづくそう思う。まあ、だからこそ、僕は映画監督を志したりはしないのだが。あくまで趣味として自主映画を撮っているのだが。
その小説家がこうも言っていた。その友人の映画監督が行動力に溢れているのに対して、自分は行動力に乏しく、物事について「考えてばかりいた」と。そして、今にして思えば「考えるという行動」を自分はしていたのだ、と。もちろん、小説は「書く」という行動なしには、ありえません。しかし、映画監督にとって「行動力」が最低限の資質であるように、小説家にとっては「考える」というのが最低限の資質なんだと、僕は思いました。
なるほど。やはり自分には「考える」という行動しかできないようだ。女優の一人も見つけられないようなやつは映画監督になるなんて夢のまた夢、ということだ。
だけど、ねえ…。
別に映画監督になりたいなんて思っていない。ただ僕は自主映画を作りたいだけだ。仮に作らなかったとしても、別に困りはしない。
いや、それでも、ねえ…。
卑しくも表現者足らんとすれば、自分が一度始めたことぐらい、自分でケツを持ちたいものだ。たとえそれが「趣味」であっても。
まあ、桜が咲くまでにはもう少し猶予がある。いつもギリギリでなんとかしてきたではないか。
ギリギリで「行動力」を発揮してきたではないか(自分で自分を励ましてれば世話はない、か)。
創作とは、または創作を開始する瞬間というのは、走り幅跳びの跳ぶ瞬間に似ている。跳ばなきゃ記録は出ない。だが、跳んだら記録が<出てしまう>。
いつまで助走をするか、その辺の見極めが大事。
小利口者には跳べない。
跳べるのは馬鹿だけだ。
跳んだ馬鹿になりたい。
「あらゆる作家とおなじように、他の作家たちの価値をその実作によって評価しながら、自分はその予感と構想によって評価されることを、この者たちに要求した。」
――J.L.ボルヘス(鼓直 訳)『伝奇集』「隠れた奇跡」より
僕はチャーリー・パーカーを知らない。だが、最近、ヘンリー・ダーガーを知った。それはカフカを知ったとき以上のものだった!(って、カフカなんてろくに読んだことないけど)。カフカに対してそうであるように、またはシュールレアリスムの人々がロートレアモン伯爵(=イジドール・デュカス)に対してそうであったように、ヘンリー・ダーガーを神格化したくなる欲望に駆られる。TATEMATSURIたくなる。でも、しない。寸でのところで、しない。
ヘンリー・ダーガーがいるのだから、もう芸術家ぶることはなく、俗っぽい野心のために、俗っぽい小説を書けばいいじゃない! と思った。地位や名誉や金のために、自己顕示欲のために、小説を書くと腹をくくってもいいじゃない! と思った。いや、俗っぽい小説だって、それで成功するのはかなり難しいことなんだぜ、実際。だって、現役の人間で、小説を書いて金持ちになったやつなんて何人いる? 100人はいないだろ。
ああ、でも、たぶん、本当に俗な人間は、俗になりきれない人間なんだろうな。どっかで自分を聖人君主でありたいと思ってしまうんだろうな。俺のように。俗になりきれない俗な人間。悲しいぜ。
ああ、せめて、今回はこれで、沈黙しよう。せめてもの良心に従い……
斎藤環『戦闘美少女の精神分析』を読んでいて、こんな文章に出会った。
「そしてまた大衆的な虚構表現は、それが映画、TV、あるいは漫画・アニメのいずれであれ、比較的単純な欲望の原理によって支えられているという事実も確認しておこう。欲望の原理、すなわち、セックス&ヴァイオレンス――ロマンス&アドヴェンチャーでも同じことだが――の原理である。傍証としては、次の二つの引用で十分だろう。例えばゴダールは『女と銃があれば映画は作れる』と、いささか皮肉に断言してみせる。また私が信頼してやまない映画批評家の一人、ポーリン・ケイル氏は“Kiss Kiss Bang Bang”という表現を『ここには映画のすべてがある』として、みずから著書のタイトルに冠している。」
以上の引用は、著者の最も述べたいことなどでは決してなく、「基本的事項の確認」として書かれている。だがそれとは関係なく、この一節を読んで、僕は<我が意を得たり>という気分になった。まあ、多少の感受性を持ち合わせている人間ならば、この現代日本で生きている以上、そこで日々垂れ流されている「虚構表現」がほとんど「セックス」と「ヴァイオレンス」で満たされていることには、とっくに気づいているだろう。TVにおける虚構表現の一つである「ニュース」もそのほとんどが「殺人」か「戦争」か「わいせつ事件」か有名人の「恋愛」「結婚」「不倫」(=性的関係にあるかどうか)しか伝えていないことを見ても、それがすぐわかる。だが、愚鈍な僕はそういった当然の事実に数年前まで気づかずにいた。
数年前、「出会い系サイト」が流行りはじめたころ、この「出会い」をテーマに小説を書こうと思った。別に流行りに乗っかったわけではない。マンガやアニメや映画や小説を見ていて、いつも、「なぜ、こうも次から次へと魅力的な登場人物が出てきて、都合よく出会うのだろう。僕自身の生活にはまったく出会いというものが欠けているのに……」と思っていたのが始まりである。一人の人間がこの世に生まれてくるためには、男女の「出会い」(例えそれが人工授精であっても)が必要不可欠であるように、「物語」にも「出会い」が必要(不可欠とはあえて言わないが)である。では、現代日本において、実人生でも虚構の中でも、「出会い」とはどうあるべきか? 小説=物語における「出会い」はいかにして可能か? ということについて考えるようになった。そうやって、なんとか捻り出した小説に、僕は『出会い系』という身も蓋もないタイトルをつけた。
いちおう書き上げた『出会い系』だったが、僕はそれを叩き台に「出会い」とか「物語」とかについて時折考えるようになった。そしてあるとき気づいた。「出会い系サイト」による事件のほとんどが「殺人」か「性犯罪」であるように、人が出会ったあとにすることは「殺人」か「性行為」=暴力かセックスなんだな、と。ニュース、映画、マンガ、アニメ、小説などの「虚構表現」とはほとんど「出会い」とその後の「殺人」、「セックス」の組み合わせでできているんだな、と。そしてそれだけでは身も蓋もなく、人間不信になってしまうから、それらを「恋愛」とか「愛」でオブラートに包んでいるんだな、と。そして、この『出会い系』という小説を出版するのを機に、書き直しをした。タイトルを『FUCKILLOVE』というこれまた身も蓋もないものに変更して。訳せば『強姦殺人恋愛』といったところか。だが、この小説には「FUCK」も「KILL」も「LOVE」も出てこない。なぜか? 自分でも最初気づかなかったが、『出会い系』というタイトルで書いていたその小説はよくよく読んでみると、主人公はまったく誰とも「出会っていない」小説だったのだ。だから、「出会い」がないから、そこでは「FUCK」も「KILL」も「LOVE」もないのだ。主人公は過剰に誰かと「出会う」。「出会い系サイト」に過剰に「出会い」が溢れているように。そして過剰な「出会い」は、過剰であるがゆえに無化され、「出会っていない」ことになる。
なるほど、「出会い」からはじまった物語は、結局「出会わない」物語へと転倒してしまった。それでいいのかもしれない。なぜなら、現代日本で誰か他人と出会ったところで、行き着く先は「殺人」か「セックス」、もしくはしみったれた「恋愛」なのだから。むしろ「出会わない」方がよいのかもしれない。だが、また、「出会う」こと以上に、この「出会わない」ことは難しい。いや、はるかに難しく、不可能に近い。
現代日本で誰とも出会わないことは、可能か?
誰とも出会わない、出会おうとしない人々=ひきこもり(?)は可能か?
※確信犯的に自作『FUCKILLOVE』について解説してみました。つまり、買って読んでくださいというメッセージです。ウザイですね。鬱陶しいですね。自分語りばっかするやつですね。実生活では、自分のことばかり話すやつは嫌われます。逆に、聞き上手は好かれます。聞き上手のコツは頭を空っぽにして、「へー」とか「うん、うん」とか「なるほどねー」と微妙にニュアンスを変えながら頷いてあげることです。
ウザイですねー。
相変わらずSANMANな文章ですねー。
もっと精進します。
大塚英志『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』を拾い読み。
僕自身は1980年生まれで、10代をもろ90年代に過ごしたわけだが、「90年代とは(個人的に、または世の中的に)なんだったのか?」という問いに答えていくことが、これからの僕の人生のほとんどすべてなのでは、という思いを再確認させられた。
最近、自分の中のキーワードとして、「儀式」とか「擬態」、「ふり」、「予行演習」などの言葉がある。なぜそれらの言葉がキーワードのように自分の心に浮かんでくるのか、漠然としか自分では把握できていない。本の中で、酒鬼薔薇聖斗は「自作自演の通過儀礼」として事件を起こした、というくだりがあり、かなりはっとした。彼は14歳で「人を殺す」という「社会化」への「通過儀礼」を「自作自演」で行ったということになるらしい。同じころ、もうすぐ17歳になろうとしていた僕は、高校を辞めて、働くでもなく、受験勉強に情熱を燃やすでもなく(実際、このころの記憶があまりない。記憶がまさに「空白」なのだ)本当に「何者でもない」人間として無為に日々を過ごしていた。その後、大学受験という目標を持つことでなんとかその場をしのいだが、酒鬼薔薇聖斗のように「通過儀礼」をやり損ねた僕は、今ごろになってようやくそれを行おうとしているのではないか、そんなことを思った。彼にとって殺人だったもの、僕にとっては何なのだろうか? さしあたって思い浮かぶのは、「小説」である。
マスコミなどあらゆるメディアを巻き込んだ彼の「通過儀礼」は果たして成功したのだろうか? いや、「通過儀礼」とは即ち、挫折の経験であり、<通過儀礼の成功>とは挫折を意味するのだ、と僕は思う。僕は「小説」にかかわればかかわるほど挫折感をひりひりと感じてしまう。いや、むしろ「挫折」したくて自分は、自分にとってもっとも困難に思える「小説」に挑んでいるのかもしれない。
酒鬼薔薇聖斗やまたは碇シンジがそうであるように、「通過儀礼」を「自作自演」しておきながら、いや「自作自演」だからこそ、僕らはそこに留まり続け、「社会化」も「自己実現」もその他のどんな帰結ももたらさないまま、その生を完結させようとしている気がする。そして、そんなことを考えていると、ふと思い浮かぶキーワードがある。「ひきこもり」である。
※相変わらず散漫とした文章しか書けない自分が情けない。ここに文章を載せることで、少しでも自分の拙い文章力が向上すればいいなと思っている。読まれる皆さんにおきましては、その辺をご理解の上、今しばらく暖かい目で見守っていただければ、幸いです。
確か、毛沢東が人間が大成する条件として「若く、貧しく、無名であること」と言っていたはずだ。これに自分を当てはめてみると「若く」「無名」だが「貧しくない」ということになる。いや、ほとんどの日本の若者は、「若く」「無名」がだ「貧しくない」ということになるだろう。 俗っぽい野心を二つに大別するなら、「有名になること」と「金持ちになること」ではないだろうか。そして多くの場合「有名になること」と「金持ちにること」を同時に欲する。 たいていの人間は、この野心を完遂することはできず「若く」なくなり、「無名」で「貧しく」ない程度で生きて、死ぬ。 「有名」であることや「金持ち」であることは、けっこう強固なアイデンティティの拠り所になる気がする。それに匹敵するのは恋愛による異性(もしくは同性)から受け入れられることぐらいであろう。だが、平たく言えば愛されるということだが、それもなかなか叶わない。愛のない夫婦など腐るほどいる。 また「貧しくない」若者が、アイデンティティ探しに頑なになりすぎて、「有名」になることも「金持ち」になることも恋愛によって受け入れられることもなければ、「若さ」を保留するために「ひきこもり」になってしまうことが多い。僕自身にもそのきらいがあった。 「有名」で「金持ち」になる手段はいろいろある。最たるは芸能人になることだろう。そして最も愚かな選択は小説家になることだろう。 「有名」で「金持ち」になるために、さあ、小説でも書こうかな。
追記04.03.01
「若く、貧しく、無名であること」とは、毛沢東が言った「大成する」条件ではなく、「革命家」としての条件だったかもしれません。その辺の正確な知識がいまのところ僕にはありません。近いうちに調べます。ただ、ここでは、「若く、貧しく、無名」という言葉を初めて聞いたとき(おそらく中学生のころ)、自分が「貧しく」ないと気づき、その思いをずっと引きずって生きていることについて、少し書きたかっただけです。
追記04.03.25
重松清『世紀末の隣人』を読んでいて、中上健次『十九歳の地図』を読みたくなったので、読んだ。で、その巻末の松本健一という人の文章の冒頭がこうだった。
「有為の人、あるいは革命をなしうる人とは、と問われたのだったか、ともかくその問いに対して、毛沢東は、次の三つの条件をあげたのだった。若い(未熟である)こと、貧しいこと、無名であること。」
「有為」とは辞書によると「才能があること。世の中の役に立つこと」らしい。直後の文章で、松本氏は、自分が「有為の人」または「革命をなしうる人」と信じていたわけではないが、その昔、この三つの条件を自分(や、その辺の世代)は備えていた、と述べている。もちろん『十九歳の地図』の主人公も、作者の中上健次もこの条件を備えている。おそらく、僕が、この「若く、貧しく、無名であること」というのを知ったのはこの文章によってだと思う。そして、自分はその三つの条件を備えておらず、「有為の人」にはなりえないのか、と悲観してしまったのだと思う。「若いこと」「無名であること」この二つは当てはまる。ただ「貧しいこと」が当てはまらなかったのだ。僕は「十九歳の地図」の主人公のように新聞配達をする必要はまったくなかった。松本氏が、自分とその辺の世代もそうだったと思うように、僕も、僕だけでなく僕の周りの人ほとんどすべてが貧しくなかったように思う。いや、貧しいと思っている人もいたのかもしれない。だが、中上健次ほど貧しい人はいなかったと思う。 「若いこと、貧しいこと、無名であること」といま聞けば、どこかカッコよく聞こえもする。 「若く、無名」だが「貧しくない」と言うと、暗澹たる気分になってしまう。大げさに言えば絶望。清潔で、そこそこうまい飯が三度三度出る、鬱屈しない程度のレクリエーションもある無期懲役の刑務所暮らしのようなものを想像してしまう。 「十九歳の地図」よりも、事態は複雑で曖昧で深刻だ。新聞配達をする必要がなくなった「十九歳」の物語が必要なのではないか?
『ミスティック・リバー』を見た。
演出、役者、脚本、すべてが骨太という印象を覚えた。かなり見ごたえがあった。ただ、僕の理解不足なのかもしれないが、「結局、強い者が勝ち」という話でしかなかった気がする。別にそれはそれでかまわないのだが。
たいしてクリント・イーストウッドが好きなわけでもなく、彼の主演作品も監督作品もほとんど見たことがない僕だが、この『ミスティック・リバー』を鑑賞中ずっと頭の片隅から彼のあの渋面が離れなかった。
深夜3時ごろコンビニに行く。
馬鹿でかい車がコンビニの前に停まっていて、驚く。近づいてみるとエメラルドグリーンの車体で、前方部分はパルテノン神殿のようになっており、先っちょに銀の天使が立っている。これが世に言うリムジンか、と思う。コンビニの中には若い店員とおっさんがいた。奥のジュースコーナーに行くと、派手で厚化粧の若い女もいた。やたらと姿勢の悪い女で、横を通り過ぎるとき、強い香水のにおいがした。
弁当を買う。家に帰ってから、便所の電球が切れていたのを思い出す。
リムジンの内装は革張りのシートだった。革のてかり具合が、妙に印象に残った。後部座席には白い毛皮のコートが無造作に置かれていた。
なんだか、すべてが安っぽかった。
あの二人が、ホステスとパトロンではなく、理解ある父と娘とかだったらいいのにな、と暗い便所の中で一人思った。
そう簡単に感動しないで欲しい。
と、思う。
小説や映画や演劇を見て、そう簡単に感動しないで欲しいと思う。特に若い人には。そうそう小説や映画や演劇ぐらいで心動かされたり涙を流したりしないで欲しい。ほとんど、信号が青に変わったから歩き出すのと同じ感覚で、小説や映画や演劇を見て感動しないで欲しい。
と、思う青い年頃。
俺、23歳。
ここは無人の王国。
この国では独裁者による圧政もなければ、自由の名の下の侵略もない。
だけど、毎日殺人が起こる。毎日毎日人が人を殺す。
不思議なこともあるもんだ。王様は思った。無人の王国で殺人が起こる。
王様は殺人や殺戮や戦争が起こらない理想の国を作ったはずなのに。だから、無人の王国にしたのに。
なぜ、殺人が起こる?
王様は無人の王国の軍人に訊ねた。なぜ今日も殺人が起こる? いつになったらこの無人の王国の殺人はなくなるのじゃ?
軍人は答えた。わたくしは、今日まで毎日毎日無人の王国の国民を殺してまいりました。ですが、それも今日でおしまいです。無人の王国の国民は残すところわたくしだけになりました。つきましては、王様、今日わたくしをお殺しください。さすれば、明日より無人の王国の殺人はなくなりましょう。
それを聞いて、王様は大いによろこんだ。
向井秀徳より。
世の中には嘘っぽい人が多い。というか、(僕を含む)周りのほとんどの人間は嘘っぽい。嘘っぽくなく正直に生きるのはそれだけ困難だということの証拠だろう。力のない人が正直に生きようとすると、おそらくパリンと砕けてしまうのだろう。世の中を、人生を、サバイバルするのは並大抵ではない。嘘っぽくならなければ、嘘っぽさで武装しなければ、正直な裸のままでは生き抜くことはできないのだろう。でも、せめて自分が嘘っぽいなあってことぐらいは自覚して欲しい。嘘っぽいですよと合図を出しながら、嘘っぽく生きて欲しい。それがせめてもの正直さというものだ。
『ファウスト Vol.2』掲載の東浩紀「メタリアル・フィクションの誕生」を読む。