
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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『あずみ』の最新巻を読む。『あずみ』は痛快チャンバラエンタテイメントとであると同時に、野生児だったあずみが徐々に「人間らしく」なっていく過程を描いたものでもある。あるいは、「恋愛」という言葉を知らないあずみという女の子の恋愛物語とも言える。『あずみ』の中で描かれる「恋愛(もしくは情愛)」に私は憧れる。「恋愛」という言葉を先に知ってしまった私たちの恋愛の不自由さがうらめしくなる。梵天丸(将軍秀忠の御落胤)があずみを「あきらめきれぬ」と泣くシーンは私も思わず涙ぐんでしまった。セリフを引用する。「余は…何の能力も持ち合わせておらぬ…。余にあるのは、将軍の子という身分だけだ…」これって私のことです。『FUCKILLOVE』の製本が出来上がった。それが届いた。感動しなかった。四月が終わった。以上
@「長い歳月が流れて銃殺隊の前に立つはめになったとき、恐らくアウレリャノ・ブエンディア大佐は、父親のお供をして初めて氷というものを見た、あの遠い日の午後を思いだしたに違いない。」これはガルシア・マルケス『百年の孤独』の冒頭。(鼓直訳/新潮社)
A「1900年代のはじめのことです。アメリカの田舎町に黒雲のような影が落ち、ひと組の夫婦が行方不明になりました。夫の名はジョージ、妻の名はマリア。人々は嘆き悲しみましたが、神に祈る以外にできることはありませんでした。その願いが通じたのか、2年ほどしてひょっこりとジョージが家にもどってきました。しかし、どこへ行っていたのか何をしていたのかについては誰にも話そうとしませんでした。不思議な研究に没頭するジョージの姿をみて、いろいろな噂が飛び交いました。しかし、いつしか時が過ぎ、人々の口に噂がのぼることもなくなりました。ただ、人々が忘れていないのは、妻のマリアがとうとう帰ってこなかったことです……。」これはゲーム『MOTHER』のプロローグ。
B『百年の孤独』と『MOTHER』に共通する感覚は「わくわく感」だ。
C初めて「氷」を見たアウレリャノ・ブエンディア大佐の父親=ホセ・アルカディオ・ブエンディアは、それを「世界最大のダイヤモンド」と勘違いする。『MOTHER』の主人公「ぼく」は「WORLD」を冒険する。そこには未知のものばかりが溢れている。
Dゴールデンウィークを直訳して「黄金週間」と呼んでみる。少し「わくわく」しない?
E子供のころはいつでも「わくわく」していたのに、最近はめっきり「わくわく」しない。
@『朝まで生テレビ』のオウムと連合赤軍について扱った回を見ていて、宮崎哲弥氏が「中島義道という人が『たとえ革命が起こっても死ぬじゃないか』(=マルクス主義は死後の世界まで担保していないということ)と言った」と発言して、「なかしまぎどう」という名前を憶える。
A「あーおれは小説なんて本当は書きたくないのに、社会に出るのがイヤで、逃げとして「小説家」を目指しているのではないか。才能もナッシング」とか思って悩む(ありがち)。
Bラジオ『伊集院光 深夜の馬鹿力』を聴いていて、伊集院氏が「ゲームボーイアドバンスSP」をたくさん持っている話をしていて、現実逃避も兼ねてそれが欲しくなる。
Cどうしても欲しくなり、夜9時過ぎに近くのゲームショップに行ってみると、まだ営業していたので「ゲームボーイアドバンスSP」とソフト『MOTHER1+2』を購入する。前々から『MOTHER』というゲームに興味があった。
D一日中『MOTHER』をしている。RPG下手の私は途中で進めなくなる。近くの本屋に攻略本はないかと探しに行く。一軒目にはない。二軒目。ない。店内をうろつく。『働くことがイヤな人のための本』という文庫本のタイトルが目に飛び込んでくる。著者名は「中島義道」。
Eおそるおそるページを開いてみる。「ヤバイ、おれのことが書いてある」と気づき、買う勇気がない。こういう本をがっつり読むほどの余裕がない。もともと自己啓発系の本は嫌いだし、読んだことはない。だけど、自分がやりたいことって小説っていうよりは「人生論」とか「自己啓発」っぽいことじゃないかな…とずっと思っていたので興味がないわけではない。
Fネットで「中島義道」についてちょろっと調べてみる。とりあえず、もう少し「自分で考えてみよう」と思う。
Gラジオ『爆笑問題カウボーイ』を聴いていると、太田さんが先週2時間、イラクの人質問題なんかについてしゃべり通したことについて、「そういうことについて語らない方がかっこいいと思うのに、自分はつい語らずにはいられない」と自分で言っていて、その気持ちがよくわかると思った。
H私も「自己啓発」っぽいものに惹かれるのだが、なんかそれはかっこわるくて、やっぱり「小説」の方がかっこいいなと思ってしまう。
『新現実 Vol.3』をわりに集中して読む。みんないろいろたいへんなんだなと思う。自分は、ここでみんなが考えたり格闘したりしている「問題」から遙かに低いレベルの狭小な「問題」と格闘してるんだなと思う。宮台真司さんにはがんばって「答え」を見つけてもらって、私たちに教えて欲しい。是非「メイキング付き」で。
もっともウザい質問として「なぜ役者になったのか?」というのがある。私は言いたい。「いつからおまえは役者だったの?」
これと同じぐらいウザい質問として、己の自費出版した本を読ませて「どう? どう?」と半笑いで訊くというのがある。「どうって、つまんないから自費出版したのに、それ以上なんて言えばいいんだよ!」という答えを圧し殺して「んー、いいんじゃない」と答えてしまったあげくには「え、どのへん? どのへん?」などとさらにウザい質問をされてしまうので気をつけましょう。さあ、いまならあなたにも私を殺せます。だいぶ弱り気味のハムスターです。私の心を抉るような辛辣でピンポイント爆撃のような「感想」を我が住所まで送っていただければ、合法的に私を殺せるかもしれません。では以下に、これまでに届いた感想を掲載します。
「最後のページを捲るとき、涙で文字が読めませんでした。明日から僕も一生懸命生きていこう。そう思いました。」(東京都・学生23歳)
「私は大学4年生なのに就職活動もせず、ぶらぶらしている者です。このHPで『S大学物語』のことを知り、「就活」がテーマだったので即購入、読んでみました。ああ、この主人公は、私自身だ。境遇も悩みもすべてが私と同じで、共感しまくりでした。私もあせらず「思いつく」までじっくり待ってみようと思いました。そして、菅原くんの映画が見たくなりました(笑)」(東京都・学生23歳)
「どうぜ今時の若者が悩んだりセックスしたりする話だろ? 最初はそう思いながら読み始めました。作者がとてもよく悩み考え、そして行動している人だなと読み終わって思いました。でも、悩んで悩んで、海に行って、そこで「悩む」ことのない海や太陽を見て、主人公が感動する場面は、悩み抜いた作者だからこそ書けるものだなと心底思いました。ちょっと友達に勧めたくなりました。」(東京都・学生23歳)
「最高!」(東京都・学生23歳)
「まず文章がいい。往々にして若い人が書くと冗長になりがちなのだが、淡々と簡潔に過不足なく書いてある。それは場面構成、物語展開にも言えることで、テンポ良く読ませる技術を持っている人だなと思った。難を言えば多少色気がなさすぎるところもあるが、まあ若い作者だからこれからに期待する。内容に関しては、所謂「いまどき」の若者を、しかも「就職活動」というこれまたありふれたテーマで描きながら、「いまどき」や「ありふれた」ものから微妙にズレたものになっている。その微妙なズレに作者のオリジナルな魂の噴出を感じた。本当に作者は23歳?などと疑ってしまった。作者は老成している。しかしよく言われるように老成できるのは若い人だけである。本当の老人に老成はないからだ。これは若き魂が、若いがゆえに老成した一瞬によって描かれた奇跡の書である。」(東京都・学生23歳)
「オレは、主人公よりも菅原に共感した。オレも高校中退だからだ。菅原は高校中退だったり、大学受験に失敗したりしてもめげないやつだ。自分の「夢」」である映画監督を目指しめちゃめちゃがんばってる。一之瀬が憧れるのもわかる。オレも夢をあきらめかけてた。でも、菅原と出会ってもう一度夢をがんばってみようと思った。とりあえずバイトを探そう。また挫けそうになったら、この本を読むだろう。」(東京都・学生23歳)
「あの不思議な女子高生の名前が最後までわからないのは、『パーク・ライフ』のパクリじゃないですか?しかもいまどき、拾ってもらった紙がきっかけで知り合うって、しかもラストでまた偶然出会うって、予定調和も甚だしいですよ。」(東京都・学生23歳)
「お金、返してください…。邪魔です。」(東京都・学生23歳)
「戦うきみの歌を、戦わないやつらが笑うだろう。ファイト!生き抜いて!17歳ヤンキー母校に帰って破廉恥行為。数々のベストセラーにつづけ!」(東京都・学生23歳)
「『FUCKILLOVE』も買います! いや、買わされます!」(東京都・学生23歳)
『S大学物語』感想まだまだ募集中です。よろしこ。
@「夢追い産業」のサービスの一つである「(自費)出版」を利用し、私は本を出した。「夢追い産業」の消費者となったわけだ。私や私の周りの(私に「夢」を託している)人々は真っ向からこの「サービス」を享受し、楽しんでいる。ぶっちゃけて言えば、「限りある人生」の中で「パンを食うだけ」では「生きがい」が感じられないので、余剰財産を使って、その人たちには価値のあるように見える「作家(ごっこ)」をはじめ、いまはその「作家ごっこ」に夢中というわけだ。本をたくさんの人に売りつけたり、その本に著者である私がサインをしたり、大忙しなわけだ。サービスを提供した「出版社」からすればこれほど良い客はいないだろう。出版社儲かる、私たちは夢を見れる。万々歳である。
A高校一年のとき、年賀状で、クラスの友達が「もうおれ、あと2年ぐらいしたら死ぬかも」みたいなことを書いていた。暗いノリではなく、高校を卒業したあとの自己イメージがはっきりしないから、青い若さも手伝って、軽い明るいノリでそういうことを書いたんだと思う。その友達は、少なくとも成人式のときは生きていた(今は知らない)。当時、その年賀状をもらった私は、そいつの気持ちがよくわかった。ナイーブに言ってしまえば、「『大人』になってまで、生きる価値はない」と私たちは漠然と思っていたのだろう。ま、そのへんの年頃には、誰しもが一度は考えそうなことである。
B私は今年で24歳である。それが「大人」と呼べる年なのかどうか、私はわからないが、少なくとも私の実感としては、「大人」ではない。「大人」ではないが、「大人」として振る舞わなければならないのではないか、という思いはある。少なくとも「子供」でも「少年」でも自分はないというのはわかる。
C「あと2年で死ぬ」と言ってから、そいつも私も随分長いこと生きてきた。その友達も私も現に生きている。死んでいない。中身はどうあれ、年齢だけは確実に積み重ねている。
D私は、もう死んだ。と思うようにしている。生きるために。
E私は今自分の人生を「余生」だと思っている。「あと2年で死ぬ」と思ってから、2年以上がたった。実際生きてはいるが、やはり、一回死んだのだと思う。一回死んだあとの「余った」生を生きているわけだ。だから「なんでもあり」だと思っている。少なくとも「他人に(あんまり)迷惑をかけない」範囲でなら、「なんでもあり」だと思っている。そう思わないとやっていけない。
F「なんでもあり」だから、不本意な自費出版だってする。それも他人の金で。「なんでもあり」だから、私が本を出すことで「作家ごっこ」をみんなが楽しんでくれることも否定しない。「なんでもあり」だから、なるべく楽で楽しく、俗っぽく生きたっていい。「なんでもあり」だから、大学を「卒業」することにもこだわる。「なんでもあり」だから愛のないセックスだってする。「なんでもあり」だから自分の「理想」や「夢」なんてクソだと思っている。「なんでもあり」だから嫌いなやつとでも仲良くする。「なんでもあり」だからホームページに「悶々」を書き込みもする。「なんでもあり」の「余生」だから「死にたい」なんて思わないし、「人を殺したい」とも思わない。ただ、「余った生」をできるだけ「延長」できるような生き方だけを志向している。
Gこんなことを書いている自分を10年後の自分が「青かったなあ」と思っているかもしれない。けど、きっと思っていない。
H私は、人から馬鹿にされようと嘲笑されようと鼻で笑われようと、「青さ」や「純粋さ」を貫徹したいと心底で思っている。しかし、その「青さ」とか「純粋さ」とは、「理想」を貫徹するとか「夢」を実現させるとか、「汚い大人」にならないとか、もっと卑近な例で言えば「愛した女としかセックスしない」「やりたい仕事(職業)しかやらない」とか、そういうものではない。むしろ逆だ。
I私は「純粋」を貫徹したい。それは、「純粋」だった生が、「死んだ」あとの「余生」を、「どう生き延びるか?」というテーマの実践のことである。
J「余生」をどう生き延びるかと言っているが、ある日突然ぷっつり死んでしまっても、問題はない。なぜなら「余生」なのだから。
Kでも、いまぷっつり死んでしまって、『S大学物語』や『FUCKILLOVE』が「遺作」になってしまうのは、恥ずかしいというか、情けないというか、寂しいというか、心残りというか、いやだなあと思う。せめてもう少しマシな作品を書いたあとに「余生」を終わらせて欲しい。
Lここまで書いてきて、やはり「余生」なんて言うのは「詭弁」だろうか、と思う。「負け組」の遠吠え。死なないための「自己欺瞞」。んー、やっぱり私は、もう少しだらだら生きたいのだろう。
M『S大学物語』がたくさん売れたら…私は小説を書きたい。働かず、家にこもって、本を読んだり、映画を見たりしながら、家族や「本当に好きな友達」とだけ付き合い、仙人のように暮らしたい。そして、自分なりに精一杯誠実な「小説」を書きたい。たくさん売れれば…ね。
Nまあ、でも、どっちでもいい。売れても売れなくても。「余生」なんだから。「本当に好き」ではない人間とも付き合うし、家にこもって本を読む以外にも、いろいろと用事をこなす。
@松本人志は著書の中で、ナインティナインをダウンタウンの「ちんかす」みたいなもんだと言っていた。ここでいう「ちんかす」とは亜流ぐらいの意味だと私は思っている。
Aナインティナインは、30歳前後でも平気で「若手」(例えば、品川庄司とか)と言われる現在のテレビ芸人の世界で、20代前半からダントツの人気を誇り、現在でも看板(レギュラー)番組をテレビ4本、ラジオ1本持ち、CMや映画にもコンスタントに出演を続けている。そういった自分たちの境遇を彼ら(特に岡村)は「運がよかった」と表現している。
Bダウンタウンを誉めたり、またはバナナマンやラーメンズのようなちょっとメジャーになれないマニアな感じのする芸人を好む人たちは、たいていナインティナインに批判的であり、「全然おもしろくない」というだけでなく、どこか「軽蔑」さえしているようなところがある。それはおそらく、岡村は「ちびで猿顔で、ちょろちょろ動くだけのパクリ芸人」であり矢部は「きしょい」という理由からだろうと思われる。それこそ、なんの芸もないのに、ダウンタウン以降の亜流として「運がよかった」だけのテレビの「人気者」と思われている。
Cコント55、ドリフターズ、ひょうきん族、およびタモリ、さんま、たけしのビッグ3、その後のとんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウンの第三世代――それまで続いてきたテレビお笑いの世界の流れにおいて、第三世代以降は「これ」という芸人は出てきておらず、世代交代も遅々として行われず岡村が言うところの「上が詰まっている」状態になっている。とは言え、「ボキャブラ組」であるネプチューンや爆笑問題、またはココリコ、ロンブーといった「若手」もゴールデンに看板番組を持つようになり、かなりテレビ局側の作意を感じるが世代交代も行われているような印象もある。
D最近、中高生に人気があるのは「はねるのトびら」という番組、およびその出演芸人らしい。「はねるのトびら」は、(どちらも見たことはないが)ナインティナインらが出ており現在の「めちゃイケ」につながる番組「とぶくすり」に似ているというか二番煎じ的な印象を持った。
Eナインティナインが確立した番組形態としては、芸人に「芸」の力がなくても「企画」と「編集」で番組を成立させるというものだろう。彼らの番組においては、「しゃべり」や「コント」といった「芸」だけで成立しているものは皆無であり、放送作家頼みの「企画」と過剰な「テロップ」と「ナレーション」を使った「編集」によって成立している。
F「運がよかった」だけで、ダウンタウンの「ちんかす」のような「芸のない」「人気お笑いコンビ」ナインティナインだが、ロンブーやココリコの登場及び活躍を用意したのは彼らである。そして「はねるのトびら」のような亜流の亜流、パクリのパクリ、コピーのコピーのようなものも登場しはじめている。つまり、ナインティナインはダウンタウンで頂点を極めた「芸」や「強烈な個性」を持つ(テレビに出る)「芸人」の時代が終わり、「タレント性」と「人気がある(という既成事実)」の方が重視される「使える」芸人時代のちょうど中間に現れた、言わば世代(時代?)交代の橋渡し的役目を果たしたことになる。
Gしかし、ココリコやネプチューンが器用に立ち回り、そつなくドラマや映画で役をこなし、ついでに「女優」と結婚までしてしまうという徹底した「タレント」であるのに対し、ナインティナインは、ものすごく真面目なゆえに不器用な(彼女いない歴十数年の)岡村といい、ドラマや映画、はたまたサッカー番組に進出するもいまいちパッとしない「やべっち」といい、「中途半端」な感は否めない。
Hもう十年以上つづくラジオ番組「ナインティナインのオールナイトニッポン」(現在のオールナイトパーソナリティの中でもダントツの長さ)はテレビとはひと味違った彼らの「素」な雰囲気が楽しめるものだ。彼らは、テレビよりもはるかに低いテンションで、ときに岡村が暴走するものの、概ねだらだらと肩の力を抜いて番組を進行する。だが、一方で、日経エンタテイメントに取り上げられるほどに「はがき職人」及びその「ネタはがき」の質は高く、芸人のラジオ番組としては「本格」であると言える。
I私は、ナインティナインに、ラジオ番組の彼らのように、徹底した「タレント」でもなく強烈な個性と芸を持った「芸人」でもなく、「タレントのような芸人」「芸人のようなタレント」として、だらだらとお笑い界で生き延び続けて欲しいのだ。彼らはいろんな意味で「中途半端」かもしれないが、中途半端でどこにも落ち着かない=カテゴライズされないというのは、そういう意味でかなり「オリジナル」な存在だと思う。あるいは、ずっとずっと「人気がある」から「人気者」というポジションでいて欲しい。人気があるから人気者という理由のない「人気」こそ本当の人気だと私は思う。私はナインティナインを応援しています。だって、私も「芸」のない「運がいい」だけの「人気者」になりたい人間の一人なのだから。
つづきは、深い夜に書きましょう。
またしても、狂人が家にやってきた。カタカタと暗い部屋でキーボードを叩いていた。狂人は自分が「プロ」の「ベストセラー作家」になったという妄想に取り憑かれたまま文章を書き、アップロードしてしまった。狂人は明け方まで居座り、陽が昇りはじめると帰っていった。いったいあの狂人はどこのどいつなのだろうか? 訂正しておかねばならない。『S大学物語』は売れまくっているどころか、まだ発売すらされていない。単に私の家に本が届き、出版社の倉庫に本が収められただけだ。「発売」がいつなのかすら私は知らない。いやいや、別にそれで構わないのだ。どうせ発売されたところで「フリー」の客が買うことはないのだから。すべて私つながりの人間しか買わないのだから発売とか関係ないのである。誰も買うわけではない本に「サイン」をしてみた。これ、最高に楽しい。想像力を働かせて自分が書店のサイン会にいるとでも思いながら書くと、もうほんと「作家」気分は最高潮って感じ。サイン欲しい?いやいや私も本当に「作家」になっちゃったね。もう村上龍も同業者だ。作家で食ってるんだから。作家で食うことができるようになればそれって「作家」ってことでしょ。私のことじゃん!さっかでくう。さっかでくう。さっかくう。さっかく。錯覚。錯覚。錯覚。錯覚! やばい!また狂人がやってきた。自分が「作家」で「食っている」と「錯覚」してやがる。なんなんだこいつは?早く出て行け!油断も隙もありゃしない。 いやーほんと。もう本も届いたし、「作家気分」も味わえたし、もう私は大満足!作家で食うなんてだいそれたことは夢にも思ってないちゅうねん。さあ、寝よう。今日も学校があるぞ! 卒業して、立派な社会人にならなきゃ!私は就職活動にいそがしいんだ。「作家」は「気分」だけで十分。ね?ん?サイン?いいですよ、よろこんで。
プロの作家となって、はや一週間がたったわけだが、『S大学物語』が飛ぶように売れて困っている。初版が売り切れるのも時間の問題のようだ。私と言えば、サインの書きすぎで腱鞘炎になりそうだ。もうすでに筆ペンを3本潰してしまった。いやはや、プロの作家も楽じゃないね。こんなことなら習字教室に通っとくんだった。いや、でも、多くの人に私の作品を読んでいただいていると思うと、本当にうれしいものです。疲れなんて吹っ飛びます。売れるとか売れないじゃなくて、できるだけ多くの方に読んでいただきたいというのが私の本心です。私は、私の本を通じて「心」がその方たちに伝われば、それが一番の幸せなんです。売れるとか売れないとか、本当はどうでもいいんだな。そして、私の本との出会いによって、その人の人生が少しでも明るく豊かなものになってくれれば、私はもう作家としてこれ以上の喜びはありません。
そもそも、私は商業主義の出版界に嫌気がさし、デビューするなら独立独歩の自費出版からだとかねがね思っていました。出来レースの「新人賞」などはなっから眼中にありませんでした。いま出版界を見渡しても本当に読者に支持されている作家は自費出版からしか出ていないのが事実です。「××賞受賞!」とか著者の立ち居振る舞いだけが注目を浴びてしまう言わばタレント文学がのさばる業界からは「本物」は決して生まれません。ゴッホやロートレアモンがそうであったように「本物」はなかなか理解されにくく、かつ常人が想像もしないような場所から現れるものなのです。私が尊敬して止まない自費出版に出自を持つ数人の「本物」の作家たちがそうであるように。
あなたは今年何冊の本を読まれたでしょうか? その中であなたの人生の肥やしになるような本は何冊あったでしょうか? キャッチコピーや著者名、出版社名はその本が「本物」であるかどうかの保証にはなりません。いい加減思い込みを捨てて「本物」に巡り会う努力をしようではありませんか。無垢だったころの魂を思い出せば、曇りなき眼で世界を見れば、きっと「本物」が見えてくるはずです。「本物」はもうすぐそこです。
ご購入、ありがとうございました。
『百年の孤独』ぐらい読んだことあるよね、プロの作家なら? もちろん。冒頭とタイトルが素晴らしい。ある日突然、読書モードになる。起きた瞬間から寝る瞬間までずっと本を読んでいる状態になる。一年に1度あるかないかだが、それはある。そうなるには条件が二つあり、一つは心身共に「読書な気分」であることと、「すげーおもしろい本」に出会うことである。そして、この「読書モード」が来るとその後怒濤の「執筆モード」に入るときがある。食ったら出すということだろう。昨日、いや一昨日ぐらいだろうか、私はふとこの「読書モード」になりそうな予感を感じた。「心」と「体」が「本」に馴染みはじめたのだ。しかもその本は『百年の孤独』。言わずと知れたノーベル賞作家ガルシア・マルケスの世界的ベストセラーである。一行目を読んで、外国(翻訳?)小説にありがちなまどろっこしい文章に「なんかだりーな」と思っていたのだが(それと同時に、不思議な空気は感じていたが)、いやいや、これは久々に、本当に久々に「ビカビカ」した魅力にあふれた作品なのかもしれないと思ってしまった。だが…。何かが邪魔する。何かが私の「読書」及び「執筆」への没頭を邪魔しようとしている。「雑事」という名の人生最大の敵が狡猾にも私の「没頭」を阻止しようと暗躍してやがる。芸術は現実逃避が仕事になる唯一の職業である。だのに!その現実逃避を日常の「雑事」というものが阻んでいる。どけ!消えろ!邪魔するな!私は今年中に一世一代の作品を書きたいと願っている。なんとしても人生の転機となる作品をものにしたいと思っている。そのためには神経をすり減らすほどの「集中」が要求される。ああ!なぜ私は「いい人」でいたいのだろうか!私の人生のめんどうなど他人はみてくれないのに!克己せよ!
自転車が古くなったせいか、漕ぐたびに軋みをたてる。軋轢だらけの日常に不快音が鳴り響く。耳をふさいでいては、キーボードは打てない。だから、不快音に耐えながら、イラつきながら私は文章を書かねばならない。
教室に冷房が効いていた。寒くて上着を着たまま授業を受けた。次の教室では窓が開け放たれ、ぬるい風が吹き込んでいた。窓際に座った私はプリントが飛ばされぬよう手で押さえながら、肌に風が当たるのを気持ちよく感じていた。帰り道、大学裏の道路がピンクに染まっていた。ソメイヨシノではない桜が花びらを散らし、制服の小学生たちが横一列になって歩いていた。コインランドリーで女の人が服を丁寧にたたんでいた。小学校の教室の明かりが一つだけついていて、中の黒板まで見えた。夕焼けが美しすぎて書き割りみたいだった。若者が友達同士で引っ越しをやっているらしく、ワンボックスカーからパイプベッドを運び出していた。季節の変わり目は、なんだかメランコリーだった。
※タイトルはNUMBER GIRLの歌詞より
私は、鬱に陥ったり、ヘコんだり、やる気ナッシングな状態になると、自分のその状態を「クライシス」と心の中で呼んでいる。「ああ、いま、クライシスだよ…」みたいな。日々是クライシスである。なんとかだましだまし生きてます。
図書館で「新しく入荷された」本を借りる。
『ギブソン 生態学的視覚論 ヒトの知覚世界を探る』ギブソン
『ボズのスケッチ(上)』ディケンズ
『ダブリンの市民』ジョイス
『精神分析入門(上)』フロイト
本がどれもきれいなので、気持ちがいい。4冊全て私には難しすぎる。けど、クライシスなときは自分の理解できないような文章を読みたくなる。一種の現実逃避か。まあ、読書なんてもともと現実逃避のものである。「ギブソン」って誰だよと思いながら、ぼちぼち読んでいるとクライシスも収束していた。
深夜、ビデオ屋でドラえもん『ぼくの生まれた日/ザ・ドラえもんズ ゴール!ゴール!ゴール!!』と『ドラえもん のび太の恐竜』を借りる。疲れているときは、熟知している世界観に浸りたくなる。『ぼくの生まれた日』をざっと観る。ここ10年ぐらいのドラえもんの新作映画は観たことがなかったのだが、なんか「映画」っぽくなってた。やけに叙情的な演出になっていた。こりすぎな感じもした。まあ年取った証拠だろう。
袋小路である。
斎藤環の本を読んだ薄っぺらい知識によると、人間は子供のころ自分が世界の中心にいるような、何でもできるというような「万能感」に満たされているらしい。自分は天才だとか特別だとか思い込めるのだ。しかし大人になるにつれ、様々な経験や通過儀礼によって「挫折」を味わい、その万能感が徐々に削られていくらしい。万能感は、精神分析的には「男根」に象徴され、挫折は「去勢」と呼ばれるらしい。その大人になるにつれ去勢されることを「成熟」と呼ぶらしい。成熟した人間とは、他人との出会いによって自己イメージに揺らぎが生じない人間のことらしい。つまり自分の「分」を知っていることだろう。現代はこの成熟が困難になっており、ひきこもりなどはその成熟できない人間ということになるらしい。
っていうか、私のことだ。
「万能感」あったあった。自分は天才で何でもできると思っていた。自分よりも才能があり優秀な人間などいないと思っていた。
悪あがきである。私は今、悪あがきをしている。「男根」を切り取られるのを必死で抵抗している。もう男根は腐り始めているのに、それでもなお、「去勢」を拒んでいる。もういい加減普通に生きたい気もする。もう自分が天才だと証明する努力をやめたい。もう天才ではないとわかっているのだから。
「悶々としたら、インターネット」(『群像』2004年5月号 P.396)ということで…
(賢明な読者ならもうおわかりでしょうが、前日の「『S大学物語』発売記念講演」は私が書いたものではありません。突然狂人が家に押し入り、パソコンを占領し、勝手に書いてアップロードしたものです。以下のものが私=松田龍樹が書いた本物です。)
とても感動した。「自分の本」がこの世に存在するという事実に打ちのめされた。眼球から熱い液体が零れ落ち、しばらく止むことはなかった。すべてに感謝したくなった。ありがとう。うんこ。
というわけで『S大学物語』が届いた。100冊。財前又一が「人間は金があると名誉が欲しくなる」と言っていた。人間の最後の欲望は「名誉」だそうだ。尾崎豊も『シェリー』で「金か夢かわからない」と言っている。財前五郎は金を持った連中が「名誉」を得るために担がれた御輿だった。本人もそれに自覚的で、御輿であることを自ら望んだ。人間には4種類しか生きる方法はない。人に頭を下げるだけで終わる人間、頭を下げながら偉くなる人間、そして誰にも頭を下げずに偉くなる人間と偉くならない人間。
「偉くなりたい」
財前五郎は言った。そりゃあ、私もそうだ。都会に出てきた田舎者として「偉く」なりたいのだ。だが、財前五郎のように天才的な技術や実力があるわけではない。財前又一のように如才ないわけでもない。そりゃあ誰にも気兼ねなく、自分の言いたいことだけをいい、自分のやりたことだけをやりたい。だが、クソつまらない夢や欲望のために私は頭を下げたり気をつかったり愛想笑いをしなければならない。中学のとき気取ったやつが「愛想笑いしないで」と私に言ったことがあった。いまでもはっきり憶えている。私は人のバイクを盗んだり隠れて煙草を吸ったりしなかったかわりに「愛想笑い」だけは上手な15歳だった。クソくらえだ。愛想笑いぐらいいくらでもする。頭だっていくらでも下げる。自分のつまらない夢のためになら。
というわけで『S大学物語』が届いた。感動ゼロ。マジで。びっくり。感動ゼロ。思ったより発色がいいなあぐらい。思ってたよりもよくできていた。でも「自分の本が届いたときは本当に感動しました」広告的な感動はゼロ。ナッシング。100冊だけど薄いから本棚に収まりそう、とか。人質が解放されたのと同じくらい他人事の「よかったじゃん」みたいな気分。もう一度言う感動はゼロ。
大学2年のころからだろうか、いや、もっと前からかもしれないが、私には「<本当に欲しいもの>は手に入らない」という諦念がある。その代わり『<本当に欲しいもの>に似たもの』は必ず手に入るという確信も持ちはじめた。第一希望ではなく、第二希望。正規品ではなく廉価版。100%ではなく80%。本物ではなくレプリカ。他人から見ればそれでもいい方なのかもしれない。恵まれた方なのかもしれない。何も手に入らない人だって多いだろう。まあ、だが、とにかく私の実感としては「ほんとう」は手に入らない。手に入らないから「ほんとう」なのかもしれないと言うこともできるだろうが、そんなこと言うやつは話しかけないで!
というわけで『S大学物語』が届いた。「ほんとう」によく似た紛いものの商品がやってきた。思わず棚の上に平積みしてみた。壁に立て掛けてみた。本屋さんのディスプレイみたいに飾ってみたのだ。びっくりするよ、これも感動ゼロ。感慨ナッシング。白と朱色がきれいだなー、縁起良さそーぐらい。
神様HELP! いったいこの真綿で首を絞められているような状況は何の試練なんでしょうか! 何でこんなに私は苦労性なのでしょうか! 財前五郎のように超絶技術を持っているわけではないのに。せめてもう少し厚顔無恥だったらよかったのに。
さあ偽物に囲まれた生活がいよいよ本格的に始動しました。幼稚な純情がこれに耐えられるのでしょうか? 絵の具でキャンパスを塗っているのに、一カ所だけ油で弾かれたように塗れない部分がある。とっても小さくて、塗らなくても誰も気づかないかもしれないし、そこにばかり気を取られていると全体が完成しない。だから、とりあえず塗れる場所から塗っていっている。そんな感じです。誰か精神分析してくれ。
というわけで『S大学物語』が届きました。欲しい人は我が家まで買いに来てください。消費税ぐらいはおまけします。
というわけで『S大学物語』が届きました。自分で読む気はしません。
というわけで『S大学物語』が届きました。すべてが順調です。「それ」を「ほんとう」と思い込めるなら、私の人生はとてもハッピーなものに見えます。
私は、名門大学に通い、かわいい恋人がいて、わかりあえた友を持ち、お金には不自由せず、自分の本まで出せるようなとってもとってもハッピーな人間なんです! すべてのものに感謝! 神様、ハッピーな人生をありがとう!
『S大学物語』の印刷ができあがったそうだ。もうすぐ私の手元に届く。楽しみだ。古谷実『シガテラ』(講談社刊)の1、2巻を買って読む。間違いなく『S大学物語』よりおもしろい。2冊で『S大学物語』と同じぐらいの値段なのに、100倍くらいおもしろい。だから、まず『シガテラ』を買って、よければ同じく古谷実の『ヒミズ』(講談社刊)全4巻を買って、それを読破して、それでも心とお金に余裕のある人は『S大学物語』を買って欲しいです。
一年ぐらい前だろうか、鬱屈を抱えた青年=私は世の中へのルサンチマンをだれかれ構わずぶちまけていた。愚痴と文句を言いまくっていたのだ。そしたらある人から『ヒミズ』を読むといいと言われた。古谷実の代表作『稲中』を読んだことのない私は、半信半疑で『ヒミズ』を買ってみた。お・も・し・ろ・い!映画のような小説のような、だが確実にそれらを凌駕した緊張感を湛えたマンガだった! ああやっぱり最高の物語表現はマンガなのだろうか…と思ってしまった。
「どらえもん」と入力すると一発で「ドラえもん」に変換される。すばらしい。
『のび太の宇宙開拓史』を観る。セリフやなんかをよく憶えている。しかし、一つだけ記憶違いがあった。クライマックスでのび太と殺し屋ギラーミンの決闘シーンを楽しみにしていたのに、ギラーミンはロップルくんに倒されてしまった。マンガ版とアニメ版ではその部分が変更されていたようだ。完全にマンガ版の方しか記憶になかった。
子供のころマンガでもアニメでも「ドラえもん」は繰り返し読んだし、観た。漫画家の黒田硫黄氏が藤子・F・不二雄氏の作品を「我々の無意識の一部をなす程」(『Quick Japan Vol.42』P.82)と言っているがまったくその通りだと思う。手塚治虫を尊敬するのも藤子不二雄が彼を尊敬しているからだし、日本人にとって、「ドラえもん」は真の意味でバイブル=聖書に違いない。
宮崎勤の事件があったとき、親戚のおじさんが「変なマンガは読むなよ」と言った。私が「ドラえもんしか読んでいない」と言うと「ドラえもんならいい」と言われた。それほど子供から大人まで「ドラえもん」は認められているということだろう。だが、子供心にそのおじさんが「いい」と「ドラえもん」を肯定したことに疑問を持ったりもした。「ドラえもん」は「いい」と一言で片付けられるほど単純ではないと心の中で反発したのだ。
ぼくはここにいる きみのポケットに
きみといっしょに旅するために
待っていたんだよ 気づいてくれるまで
きみが夢に見たものはなんだろう
いまからそこへふたりでいこう
とっても遠くて近い世界だよ
ポケットの中にも海がひろがり
ポケットの中にも鳥がとびたつ
こんなすてきな世界があるんだよ
ぼくときみが旅する世界
これはエンディング曲の歌詞。この曲も好きで、ほとんど憶えていて、一緒に歌えた(もちろん心の中で)。ふと妙なイメージが浮かんで、この歌を歌ってるのがストーカーだったら…と思って怖くなった。おそらく藤子不二雄の作詞だろうが、まさに「ポケットの中」というのが「頭の中」であり、藤子不二雄の「頭の中」は「マンガ」でいっぱいであり「ドラえもん」という「マンガ」もその中で生み出されているのだ。「世界」とは「脳内世界」と読み替えられる気がする。
ドラえもんが現れなかったのび太くん(藤子不二雄)は漫画家になり、なんでも夢が叶う「ポケットの中」の世界をマンガで描き出した。ドラえもんが現れなかったのび太くんにとってはマンガこそがドラえもんだったのだろう。
日本中にいる無数ののび太くんよ、それぞれのドラえもんを見つけようではないか! ってことで。
私がいつも見ているサイトに「無名アーティストのWildLife」というのがある。そのメインコンテンツ「偽日記」がとてもおもしろいのだ。その4月4日の日記が昨日書いた「雑感雑文」と近いテーマだったので、驚いた。と、同時に、自分の考えの浅薄さに恥ずかしくなった。
もっとも難しいのは、「本当はそう思っていないのに、権威がありそうな意見・文章に出会ったとき「そうに違いない→私もそう思う」になってしまい、よく言われる、他人の意見の受け売りだけでしゃべってしまう・書いてしまうことを回避すること」だと思った。この意見・文章ですら「どっかで聞いたことがある」ように感じてしまうわけだが…。「自分の意見」を述べるのはかなり難しい。「意見」や「考え方」はころころ変わっていく。ま、若造だから当たり前かもしれないが。せめて「自分の意見ではないかもしれない」という危機感だけは持っていたいものだ。もしくは常に「これは私の意見ではない」ということを暴露することだ。
北野武原作、萩原聖人主演『教祖誕生』を観る。北野武監督作品ではないと知って観ていたが、知らずに観たら彼の監督作品と思ったかもしれない。画の雰囲気とか、淡々とした演技とか、役者陣とか。内容に関しては、大学の一般教養で「宗教」という授業があったら、最初にこの映画を見せることを担当講師が考えそうなくらいわかりやすいものだ(「わかりやすさ」とは欠点ではなく、美点である)。これを媒介にいろいろと話せそうということ。
こないだ『朝まで生テレビ』でオウム真理教と連合赤軍について議論されていた(途中をちょこっと観ただけ)。その中で、宮崎哲弥氏が中島義道という人が、例え革命が起こったとしても「結局死ぬじゃないか」と言ったと紹介していた。現世がどんなに「ユートピア」になろうとも、結局人は死ぬし、人は(実感としては個人差があるだろうが)知識として「いつか死ぬ」ということを知っている。マルクス・レーニン主義がどんなにすごかろうがその「死」についてまでは保証していない。「死んだあと」まで担保しているのは宗教だけだ。そんなことを宮崎氏は言っていた(と理解した)。なるほどねー。その通りだね。以前読んだ本(木下清一郎『心の起源』中公新書)で人は記憶があるから「時間」を感じることができ、空間の広がりを認識することができると書いてあった。記憶から時空という概念が誕生し、人の心をつくっているのだと。動物はそのときそのときの現在<いま>のことしかわからないらしい。動物には過去も未来もないということだ。もちろん自分が「いつか死ぬ」ということも知らない。想像すらできない。 本当は人間にだって「過去」も「未来」もない。あるのは<いま><ここ>だけ。とにかく、宗教は、死ぬことを知ってしまったあと、どう生きるかがテーマということです。
『教祖誕生』で描かれる宗教は限りなく空虚だ。神もいなけりゃ教祖だって適当に選ばれている。まあでも、誰か(たぶん、斎藤環)が言っていたように空虚なものほどパワーを持つのだろう。空虚なら空虚なほど、人を惹きつける。空虚で実態のないものを語るときほど人は雄弁になれる。空虚が宗教の本質だ、と言いたいのだろう(し、おそらくそれが本当だと私も思う)。
明日起きても、私は私だろう。それは当たり前かもしれない。当たり前でなかったら、おそろしいことかもしれない。だが、きっと明日起きても私は私なのだ。それはどこか絶望的な現実のような気がする(絶望的は大袈裟ですかね)。馬鹿は死ななきゃ治らないというが、馬鹿でなくても人間は死ぬまで何か変わったりはしないのだ。(しばしば「記憶喪失」を扱った物語が書かれるのは、そういった「変わりたい」もしくは「変わりたくない」もしくは「変われない」ということを物語の中で確認したいのかもしれない、と思いついた)。 「死」について言葉を尽くしてみたところで、虚しいだけだ(と括弧つけてみる ※だじゃれです)。誰か(たぶん、会田誠)が自慰は小さな死だと言っていた。眠りも小さな死だ、と。きっと小説も「小さな死」(であるべき)なんだろう。「死ななきゃ治らない」自分を小説という「小さな死」によってちょっとだけ変えようとしているのかもしれない(保坂和志が言うように小説は「自己実現」のために書くものではない(らしい)から、この「小さな死」は自己実現とか自己改革みたいな意味ではない。「小さな体験」と言い換えてもいいかもしれない)。以上です。
※まさに雑感雑文ですね。とりとめがない。散漫。まあでも書かないよりはマシか(読む読まないを決めるのは、自分自身です!)。
と、いうわけでHPが始動した。4月1日に開始にあたっての抱負でも書こうと思っていたが、いそがしくてできなかった。大学も6年目がスタート。今年度でいい加減卒業するつもりだ。
一年経つのは早いものだなあと思う。それは一日経つのが早いのと同じだ。思うに、事を成すか成さないかは一日の使い方によるのではないだろうか。あたりまえだが一日を365回繰り返したのが一年であり、一年を10回繰り返したのが十年なのだから。<一日>のうちに何をどれだけやったかが即ち一年、十年、百年で何をやったかに通じていくんだと思う。一日は短い。優先順位を決め、集中して物事にあたらねば、あっという間に日が暮れる。あっという間に日が暮れて、あっという間に一年が過ぎ、あっという間に人生が終わる。光陰矢のごとしとはよく言ったものだ。私も「いそがしい」という暇があったら、自分のやるべきことをさっさとやろう。
またしても、人生論、自己啓発じみた文章(しかも、大したことは言っていない)を書いてしまう自分に苦笑い。以下、今月の『雑感雑文』を書くにあたってのメモを記しておく。
・改行はあまりしない。
・読点を最小限に。
・「私」を主語に統一。
・なるべく毎日書く。
・私事は書かない。
・本や映画などについてなるべく書く。