
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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と、いうわけで、2004年5月だって終わる。我々は何か成長しただろうか?
【雑感雑文04.05.01】での疑問に対しては、まだまだ「お勉強」が足りないので、また、追々答えていくことにします。現時点で思うことは、「自覚すること」が「成長すること」であり、そのためには「お勉強」が必要なんだろうな、ということです。
以前読んだフィツジェラルド『グレート・ギャツビー』(野崎孝訳/新潮文庫)を最後の方だけ読み直してみる。これも『白い巨塔』と同じで、田舎者が都会で成り上がり、そして栄華を極めた時点で、真に都会的なものによって滅びていく(自滅?)物語として読めるんだなと確認した。『白い巨塔』でいうとことろの財前にあたるのがギャツビー、里見にあたるのがニックというわけだ。ちなみに財前、ギャツビー、どちらも百姓の出身のようだ。ついでに僕も百姓の倅だ。ま、それはいいとして、『白い巨塔』と『グレート・ギャツビー』が違うのは、財前が立身出世を目的としていた(あるいはガンの撲滅なのかな?)のに対して、ギャツビーはある過去に愛した女を取り戻すために財を築き、栄華を誇ったということだ。読んでいて、個人的な思い込み(たいてい思い込みとは個人的なものだが)かもしれないが、ギャツビーとデイズィ(ギャツビーの愛した女)の関係は、決して今流行の「純愛」ではない気がする。『世界の中心で、愛をさけぶ』とか読んでいないので、なんとも言えないが、少なくとも、ギャツビーとデイズィ、その関係は「純愛」などではなく、ごくありふれた、いや、ごくありふれた普通の若者の恋愛よりももっと不純で極めてスノッブな恋愛だったのではないだろうか。ただ唯一純なものがあったとすれば、虚栄を築き上げ、何かあればすぐに心変わりしてしまうようなデイズィの「愛」を奪い返そうとしたギャツビーの執念、それだけが純粋だったのではないだろうか。財前もそうだが、純粋な執念が得ようとするものは、極めて俗っぽく空虚だ。財前の「出世」、ギャツビーの「俗な愛」はどちらも日教組的な価値観で言えば、くだらないものだろう。日教組的価値観でなくとも、限りなく空虚だということは、わかる。だが、空虚で虚ろだからこそ、それを目指す執念はどこまでも純化されるのではないだろうか。そして、世の中には純粋で至高の価値のあるもの(例えば、愛とか、出世を望まない奉仕とか)、そんなものはないのだと思う。ただ、その価値のある(と思われている)何かを目指し、一心不乱に走っている姿(執念)だけが、純粋たり得るのではないだろうか。そして、より世俗で価値のないもの、空虚なものを目指しているときに、その姿は純粋性を帯びてくるのではないだろうか。つまり、目標が空虚だから、執念が執念としてだけ純化する。言い換えると、まぼろしのゴールに向かって走っているようなもの。(当人はそれに気づいていないが)ゴールがまぼろしということは、ゴールが目標でなくなり、走ることそのものが目標になってしまっている(ように、はたから見える)から、走るということの純粋性が強まるということ。ゴールなく走っているので、結果、財前もギャツビーもゴールを迎えることはなく、途中で死ぬ。それは、物語上、必然なのだ。
ところで、ギャツビーが、巷で持てはやされる「純愛」に、実は端っから関心がなかったことがわかるセリフがある。その部分を引用する。
「もちろん、彼女(※デイズィ)だって、ちょっとのあいだくらいはあの人(※デイズィの現夫トム)を愛したかもしれんさ、結婚した当初ぐらいは――しかし、そのころだってわたしのほうをもっと愛していたんですよ、ね」
そう言って、ふいに彼は、妙な言葉を口走った。
「いずれにしても、そんなことは個人的なことにすぎない」そう彼は言ったのである。
この事件を考える彼の考えの中に、はかり知れぬ激しさがこもっているのだろうとでも思うよりほかに、この言葉を解釈する方法があるだろうか?
(p.211〜212 ※は私が補足したものです。)
もう明白なとおり、ギャツビーは、デイズィがトムを一時でも愛していたのか、それともずっとずっと自分だけを最も強く愛していたのか、というデイズィの「純愛」に関しては、すでに問題ではなく、「そんなことは個人的なことにすぎない」と切って捨てている。さらに僕が思うに、デイズィのギャツビーに対する「純愛」が「個人的なことにすぎない」ように、ギャツビーのデイズィに対する「純愛」も「個人的なことにすぎない」とギャツビーは思っていたのではないか。もちろん、そもそも愛とは、個人が個人に対して抱く個人的な感情だが。ギャツビーが、デイズィを取り戻そうとしたのは、そういった個人的な愛云々のためでなく、もっと超越的な「何か」(例えば運命とか?)に動かされてのことだ、ということだろう。愛そのものが純粋なのではなく、ギャツビーがデイズィを愛し抜こうとする行為が、何か超越的なものによって動機付けられてるからこそ、「はかり知れぬ激しさ」が宿り、純粋化していったのだろう。
余談:
文庫の「解説」で、フィツジェラルドが「ギャツビーを貫く観念は、貧乏な青年は金持の女と結婚することができないということの不当さだ」と語っていたと書いてありましたが、これは本当に恐ろしい真実だと思います。いや、世に蔓延る「恋愛」というものを考えたとき、この種の不当な(?)真実は、歴然と厳然と立ちはだかっています。ある人種にとっては、ある人種と、理屈抜き建前抜きで、「恋愛」はできないのです。童貞であり恋愛マイノリティである僕としては、日々この真実を目の当たりにし、めまいに似た感覚を覚えています。愛って至極個人的な感情だと思い知らされます。個人的な感情とは、極めて残酷な感情でもあります。僕の友人が言ったように「誰も愛さないこと」を僕も実践しようかと思いました。けど、心が弱いので無理です。今日もまた無理な恋愛に恋い焦がれ、敗北です。
※以上、『グレート・ギャツビー』に関する「読み」はこの程度です。誤読と誤解と無教養に彩られてるかも知れませんが。村上春樹がフィツジェラルドに関して本を書いていたと思うので、それを読んでみようかと思いました。
音楽的感性に乏しい僕が、唯一、「それを聴いていることがカッコいいから」ではなく聴いているバンドはNUMBER GIRL(及び、向井秀徳の音楽活動諸々)だけである。NUMBER GIRLと僕個人の出会い云々は省くとして、なんでNUMBER GIRLがいいかと言うと、「つまらないこと」を言わないから・やらないからだ。モテるためバンドがほとんどの日本音楽業界において、唯一モテないためにやっているバンドがNUMBER GIRLなのだ。NUMBER GIRLはかっこよくない。ってかダサイ。ダサかっこよくも、ない! だいたいダサイのをねらったかっこよさなる「ダサかっこいい」なんてのはもっとも唾棄すべき醜悪なものだと僕は思う。その点、NUMBER GIRLは向井秀徳は徹底してダサイ。だのに、一瞬、かっこいいのだ。音楽やってるときだけ、かっこいいのだ。なるほど、クソつまらない音楽を徹底したショービジネス感覚でかっこいいものに仕上げようとする現代日本において、唯一、音楽及び音楽をやっている姿がかっこいいのは(だからこそ、かっこいいのかもしれないが)NUMBER GIRLだけ、なのである。
焦燥と衝動。則ち是れROCK。
こんなにも明快にわかりやすくROCKの本質を言い切った人間がいるだろうか! いや、いない!
NUMBER GIRLというくらいで、向井秀徳の描く歌詞には「少女」が頻出する。そして、その少女に対する視線は常に傍観者なのである。ただ、視ているのだ。その態度は、ブルセラ問題などで活躍したころの宮台真司が「ブルセラ少女に心はない」とプロパガンダした態度と重なる。つまり、もちろんブルセラ少女に心がないわけではなく、心とはブラックボックスであり他人がそれについてあーだこーだ言おうが無意味(と言うか無効)だから、とりあえず「心はない」ことにしておいて、もっと実践的なスキルや知識を啓蒙した方が効果的だという態度であり、向井秀徳は少女に対して「どうのこうの」言うつもりはなく、また何か行動を起こし接触しようとする気もない、ただ、少女やそれらを含む風景を「視ている」だけであり、歌詞として活写しているだけ、そして、それを大声で歌うだけ、なのである。もちろん「少女」なんて現実にはいない。すべて男が抱くイノセンスと猥雑なものの象徴としての「少女」である。ガーリッシュとは即ち、男の本質の一側面なのだ。歌詞の中で執拗に無垢なるものイノセンスなものとして少女を描く一方で、おそらく現実では成熟したエロい女性も愛しているのが向井秀徳だろう。いや、男とはそうあるべきだ。処女である少女を愛するのと同じ理由で、売春婦を愛することができることこそが、本当の男というものだ。
もう愛もメッセージもいらないから、SAPPUKEIをただ視ている、そしてそれをただ報告する、そういう存在として、表現者はあって欲しいと思う。現代日本における表現者の誠實さとは、それが限界だろう。
最近話題になっている『誰も知らない』という映画を監督した是枝裕和監督の作品に『DISTANCE』というのがある。ま、見たことないのでわからないが、DISTANCE=距離ってことだと思う。つまり、「人間関係」とは端的に言ってその人とその人の「距離」の長短のことなんだよってことじゃないかと、勝手に推測。単純に女友達といるより恋人といる方が、物理的距離は近いだろうし、(願わくば)心的距離も近いはずである。その人とその人の物理的・肉体的距離と精神的・心的距離が必ずしも等しいとは限らないだろうが…まあ、一つの目安ぐらいにはなるだろう。そう、友達や恋人との物理的距離を片っ端から数値化していけば、親密度合いが明確になるかも。あいつは100p(まだまだよそよそしいな)、35p(だいぶ仲良くなったぞ)、0p(やった!スキンシップ達成)、−13p(合体!)…と最後は、「距離」はマイナスになっていまいますね(軽い下ネタ&これが言いたかっただけ&13pは誇大広告)。−13pのDISTANCEを目指して旅する俺、童貞23歳9ヶ月。
追記04.06.06
くちびるとくちびるの距離がゼロpになることを、キスって言うんだなあ。
今敏(こん さとし)監督『千年女優』を見る。以前、同じく今監督の『パーフェクト・ブルー』を見て、たいへんおもしろかった記憶がある。『千年女優』は、写実的な絵でありながら、現実と記憶がテンポよく見事に交錯する感じが、『パーフェクト・ブルー』の現実と妄想が交錯する感じと同じで、やっぱ演出うまいなーと思ってしまった。ただ、『千年女優』の内容にはあまり入り込めなかった。なんかしょーもない女の乙女ちっくな恋心の一途さみたいなものが描かれていて、『パーフェクト・ブルー』の緊張感や人間のグロテスクさに通じるものはなんもなかった。…と、思っていたら、最後のセリフでやられた。女の業は深い。冥界へ宇宙へ恋心は永遠に、です。
『白い巨塔』のビデオの最終巻を借りて、見る。真夜中、神経過敏状態だったとは言え、こんなに切なく泣けるドラマはないと思った。僕にとって、間違いなく近年最高のドラマである。冗談じゃなく、「涙でまともに見るのが無理」な状態になっちまいました。最終回は泣きっぱなしです。
吉田修一『ランドマーク』の感想でも少し書きましたが、やはりこのドラマも「田舎者」の話なんだなと思いました。都会にやってきた田舎者の話です。よく言われることですが、世の中は志を持った田舎者によって創られているのです。田舎者は、馬鹿で洗練されておらず感化されやすい人間です。都会に出てきて、些細な出会いでヤクザになったり金持ちになったり政治活動家になったり芸術家になったりします。そして、昔ながらの野心を抱え、不格好なまでにがむしゃらにがんばるのです。しかし、財前五郎しかり豊臣秀吉しかり、田舎者が頂点を極めたとき、その田舎者であるがゆえに、田舎者の弱さが露呈し、真に強かな都会者に取って代わられてしまうのです。切ない。
財前五郎は、完璧なようで綻びだらけでした。どこまでいってもやはり「田舎者」でした。だからこそ、愛すべき存在であり、出来損ないの田舎者たちに愛されていたのだと思います。本来、財前五郎の姿は滑稽なはずです。それは三島由紀夫が滑稽なのと同じです。しかし、やはり、三島由紀夫が滑稽だからこそ、滑稽が徹底しているからこそ、ふと聖性を帯びるように、滑稽なまでに野心を徹底しようとした、あるいは、徹底し、真剣だったからこそ滑稽にならざるを得なかった財前五郎の姿は、神聖であり愛されるべきものだったのです。
僕は田舎者のくせに、がむしゃらさが足りません。野心がどんどん削られていきます。なんなんでしょうか? 僕は財前五郎を見て「たとえそれが間違っていたとしても、真剣に生きたい」そう思わされました。滑稽でも、間違っていても、構わない。ただその走る姿と速度でのみ人を圧倒できれば。…そのためには、少しいいわけが多く、小利口に過ぎます。
いや、本当に、間違っていてもいいから、ただ真剣に生きたい。そう思いました。
注:「真剣に生きてるフリという間違った生き方」をしている人は多いんですがね。そんな姿は、滑稽ですらないのですが。財前五郎が野心のためには「悪いこと」も真剣にやったように、真剣に生きるとは、必ずしも社会や世の中で「良きこと」とされているとは限らないのです。むしろ、一見して「良きこと」をしている人は、必ず「真剣に生きてるフリという間違った生き方」をしていると僕は思います。そういう人は必ず「クソつまらない」発言をします。屈託を持ちましょう。以上
写真展示サイト『みやび部屋』で『S大学物語』を取り上げてもらい、このHPにリンクまで貼っていただきました。だから、というわけではないのですが、このHPに訪問される「僕の知らない」あなたに向けてこのHPの主旨と若干の「いいわけ」でも書いておこうかと思います。
インターネットというのは、本当に便利なメディアで、僕のような人間でも多少の知識と技術とお金でこのようにHP(正式にはWebsite)を持つことができ「情報」を「全世界」に発信することができます。また逆に、全世界のWebsiteに気軽に、ほとんどの場合無料で、アクセスすることができます。インターネットの明暗はこの気軽さや手軽さにあります。つまり、「誰でも」「どんな情報」でも、というところがくせ者なんです。
…と、僕の稚拙なインターネット論を書いてもしょうがないので、もっと私的に書きます。この『松田龍樹公式HP』は、<自己紹介>でも書いているとおり、自費出版した僕の小説の「販売促進」を目的として開設しました。リンクもメールも掲示板も設置していないのは、そういったものを設置することでのリスクや煩わしさを回避するためでもあると同時に、このHPはあくまで「販売促進」を目指した「広告」であるという意味合いが強いからです。そしてこの<雑感雑文>も、HPへの定期的アクセスを促し、自著を買わせる動機を与えるために書いています。ときに露悪的、自虐的に書くのも、結局はそれが「売る」ために有効だからと考えるからです。
例えば、出版社や家族には、「これは自費出版ではない。だからHPで自費出版と言うのはよくない」と言われますが、まあ、確かに正式な名称は「協力出版」であり「共同出版」であり、「自費出版」とは違います。しかし、このインターネット社会、誰でもがどんな情報にでもアクセスできる今、ただ「出版」と言おうが「共同出版」と言おうが、それが「お金を出して、出版した」ことに違いはないし、少し詳しく調べれば、それが体のいい(または画期的な)「新しい自費出版」の形であることはすぐにわかります。僕はまったくこの「共同出版」や「協力出版」を否定しません。むしろ、「よくできた新しいビジネス」として評価しています。言うまでもなくニッチ産業であり、新風舎および文芸社にはかなりの先見の明があったのではないでしょうか。しかし、老後の趣味として自費出版するぶんには問題はないのですが、そうではなく、「小説家志望くずれ」の自意識や自尊心を満たすために、となると問題はややこしくなります。僕が、「自費出版」という呼び名に拘るのはそのためでもあります。つまり、『群像』や『文學界』の「新人賞」に応募して「小説家」として「デビュー」したかった人間が、それが叶わなかったために、新風舎や文芸社の「出版サービス」を利用し、擬似的に「デビュー」したとして、それでいったい何が報われるのでしょうか、ということです。確かに「本を出版した」と言い切ってしまえば、講談社だろうが文藝春秋社だろうが新風舎だろうが文芸社だろうが、そういったことに関心のない人たちからすれば「同じ」なのかもしれません。しかし、「本を出版した」と言ったときの「へー、すごいね」の反応の中の「すごいね」に対してどうしても違和感を覚えてしまいます。その人が「すごい」と形容しているであろう手続きを踏まえて「出版」されたわけではないのですから。「手続き」について詳述しますと、「本」というのものは専ら簡単に出せるものではないと思われており、「本」特に小説などを出す人というのはある一定の基準により「選ばれて」出版しているという手続きがあるから、つまり、多数の人間の中から、その本は出すに価すると選ばれたからこそ「すごい」のだ、ということです。確かに「協力出版」も「共同出版」も「選ばれて」出版しているものです。その審査基準がどのようなものか知りませんが、『群像』や『文學界』からデビューしたかった僕にしてみれば、「協力出版」や「共同出版」から出版された小説を読む限り、「群像新人文学賞」「文學界新人賞」から出版された本より、やはり審査基準は「かなり低い」としか思えません。別に僕は『群像』や『文學界』を絶対視しているわけではないのですが…やはり、現在活躍する小説家を多数輩出してきたことは事実としてあります(また、「新人賞」が行き詰まりを見せているという事実もあります。)とにかく、僕は「自費出版」したのであり、その点において「すごい」わけではないのです。
…と長々と書いてきましたが、少し話がずれてきたので、軌道修正を。先ほど、露悪的、自虐的に書くことが、「売る」ために有効と考える、と書きましたが、つまり、この誰でもがインターネットで膨大な情報(質はともかく)に気軽にアクセスできる現在において、ちょっとばかし見栄を張ったり、虚飾・粉飾してみせたところですぐに暴かれ叩かれるわけであり、ならば、みずから積極的に自分の欠点やつまらない自意識を曝した方が、戦略としては多少有効だろう、と考えるからです。
…ここまで、ちゃんと読んでくれた奇特な方々は、もしかすると僕を素直で率直な人間だとお思いかもしれません。しかし、そう思っていただければ、僕の戦略はひとまず成功で、きっとここまで読んでくれたみなさんは、「松田龍樹」という人間に興味を持ち、現在発売中の『S大学物語』及び近日刊行予定の『FUCKILLOVE』を買ってみようかな、と思われたのではないでしょうか。あるいは、ここまで読んでくれた方にこそ、僕の本を読んで欲しいと思っているのですが。
閑話休題。
…まだまだ続きますよ(笑)。これまでの雑感雑文を見てもわかるとおり、インターネットは「悶々とした気持ち」を手軽に吐き出すことができます。また自費出版というのも、それとほとんど同じ機能を――手間とお金は比べものにならないくらいかかりますが――果たすことができます。だから、自意識と自己愛に充ち満ちた僕にとって、自費出版もインターネットも、打ってつけのメディアなのです。手軽な自己表現として。
そして、こんな文章や小説を世に垂れ流す意味があるとすれば、こんなにも自意識と自己愛に絡め取られた現代青年がいるということが、日々懸命に生きているみなさんにとって、何かの慰めやお慰みになるのではないかと思うのです。みずから動物園の檻に入って、見物されるのを喜ぶ奇妙な人間もいるということです(最近増えてますが)。
将来、僕が万が一にも、インターネットで悶々を書き込むことなく「売れる」作家になったならば、このHPは閉鎖します。それまでの長い(あるいは短い)間、どうかよろしくお願いします。ということで。
僕の知らないあなたへ。
松田龍樹公式HPにようこそ!
@「今日の消費社会において人は使用価値を持った物理的存在としての<物>ではなく、記号としての<モノ>を消費しているのだ」とジャン・ボードリヤールは主張したらしい。
A「記号としての<モノ>」として最も顕著な例は「ブランド」だろう。例えばルイ・ヴィトンのバッグはバッグとしての物理的機能よりも「ルイ・ヴィトン」というブランドが象徴する記号的価値の方が重要なのは言うまでもない。ルイ・ヴィトンのバッグを持つことで、「ルイ・ヴィトンのバッグを持っている私」というアイデンティティを獲得するのだ。
Bつまり、現代人は、消費を通じて自己像(アイデンティティ)を獲得していくのだ、と言うことができる。逆に、ある人が消費した<モノ>の名前を列挙すれば、その人がだいたいどういった人かイメージすることができる。現代人は<モノ>=商品という固有名詞(商品には必ず商品名という固有名詞が付けられている)に囲まれており、商品という固有名詞の列挙によってその人を語りうるという現実を描いたのが田中康夫『なんとなく、クリスタル』である。
C「自己実現の手段として消費を捉える思考方法」を「消費主義」と言う。
D「自己実現」とはマズローによるもので、彼は「欲求階層理論」というものを提唱した。それは、人間には5つの欲求段階=(1)生理的欲求、(2)安全欲求、(3)社会的欲求、(4)自尊欲求、(5)自己実現欲求があり、低次の欲求が満たされると高次の欲求に関心が向き、最終的には自己実現欲求にたどりつくというものである。「自己実現」とは、いろいろ捉え方があるだろうが、僕個人の考え方で言えば「理想の自分」になることであり、その「理想」とは各人様々だろうが、己の能力=才能をフルに発揮し、世俗的価値(金、名誉など)にとらわれず、他人や世の中の役に立つことをする、といった感じではないだろうか。具体的には、芸術や宗教、ボランティア、志の高い政治活動、などが思いつく。
Eマズローの説は、素人考えでも大雑把すぎるし、そんな単純じゃないだろうと思ってしまう。しかし、人間というものが最終的に「自己実現」(その理想は様々なれど)を志向しているというのは、ほとんどの人が同意するところだろう。
F先ほど、「自己実現の手段」として「消費」があると言ったが、お金を払いその対価として<モノ>を購入するという意味での「消費」なんかで、「自己実現」ができるのだろうか、という疑念が沸いてくる。お金(という極めて俗なもの)では手に入らない崇高なモノこそ「自己実現」たり得るのではないか、と思ってしまう。
G「夢追い産業」という言葉がある。
H「夢追い産業」とは、(僕の言葉で定義するなら)「夢」を実現するためにがんばっている人たちを消費者、あるいは労働力とする産業である。具体的に言えば「夢の実現のために会社を退職、昼間は派遣社員の仕事をしながら夜は資格の専門学校に通う」といったパターンのとき、資格の専門学校から見ればその人は「消費者」であり、勤務先の会社から見れば正規雇用をせずにすむ「フレキシブルな労働力」ということになる。
Iこういった場合、「夢」を実現させれば、その人が支払ったお金や努力は報われることになるが、途中でその「夢」をあきらめてしまえば、言い方は酷だが、体よく搾取され扱き使われただけということになる。さらに別の言い方をすれば、「勝ち組」連中によって「勝ち組になりたい多数の負け組」が消費、労働の両面で搾取されただけということになる。搾取された分を取り返すには、「勝ち組」に這い上がるしかない。あるいは体よく搾取されないために、そういった「「勝ち組/負け組」の論理」に回収されないよう「勝ち組になりたい」と端から思わないことである。
J当たり前のことだが、「消費」(=モノを買わせる)させるためには、消費者が何を欲しがっているかという「欲望」を見極めなければならない。モノが溢れる現代においては、個々人の欲望が非常に複雑で高度なものになっている。また、あるいは、欲望を抱くその前に、企業によって欲望がねつ造され、本当は何を欲望していたのか、それ自体がわからなくなってしまっている。
KカップラーメンのCMで「hungry?」と問いかけるのは、腹が減っている人たちの「何か食べたい」という欲望を極めて率直に喚起している。「何か食べたい」というのはマズローで言うところの(1)生理的欲求である。CMで原始人がマンモスを追っかけていたのが示すとおり、それは原始人ですら抱く欲望なのだ。しかし、現代は原始時代ではなく、現代日本では飢えている人は皆無である。では、人々は何を欲望しているのか?
L自己実現である。
M欲望が「非常に複雑で高度なもの」になっていると先ほど述べたが、その一つの形態として、「インターネット的欲望」というのがある。つまり、それまで、企業やメディアが発信する情報やモノの一方的な受け手であった消費者が、みずからも情報やモノの「送り手になりたい」という「新たな欲望」を抱きはじめたのだ。インターネットはもちろんのこと、音楽や映画などでインディーズという分野が確立されたり、コミックマーケットが大きな市場になっているのは、そういった欲望の発露だと言える。それは、大袈裟に言えば、「創作者」になりたいという欲望だ。そして、何かしらの創作者になることが、その人たちにとっては自己実現なのである。
N例えば、「小説家になりたい」若者がいたとしよう。彼にとって「小説家になること」が「夢」であり、「小説家になること」(その定義に幅はあるとしても)が「自己実現」(の第一歩)ということになる。彼は大学を卒業し、定職には就かず、週5日のコンビニバイトとイベント設営などの短期アルバイトで稼ぐフリーターであり、空いた時間に文芸誌の「新人賞」に応募するための小説を書いている。現在、コネも何もない若者にとっては、小説家になるには「新人賞」を受賞することがほとんど唯一の道である。しかし、過去3度新人賞に応募したが、どれも一次通過すらできず、彼は自分の才能に疑いを持ちはじめていた。そんなとき、文芸誌の中の広告に「本にする原稿募集」や「作家、求ム」というのを発見する。ずっとそれらは自費出版の広告だと思い気にも留めていなかったのだが、よく読むと「厳正な審査」があり、場合によってはただで本を出版してくれるという。新人賞で落選しても何が悪かったのかすら教えてはくれず、彼は他人の批評、意見に飢えていたこともあり、試しにその出版社に原稿を送ってみることにする。2週間後、その出版社から返事が届く。なんだかんだと誉めて、少し貶し、結果としては製作費を著者が負担する「共同出版」という形式でなら出版できると言われる。現在は、「出版不況」であり、どんなに優れた作品でも「売れる」見込みは立てにくく、あまたの優秀な作品が埋もれてしまっているという。確かに製作費という負担を強いるかもしれないが、この「共同出版」から成功し「作家」となる人も少なくない、などと説得される。若者は、しばらく考え、自分の預貯金と足りない分は両親から借金することでお金を工面し、「出版」を決意する。なんだかんだと、編集作業や装丁のデザインなどの作業をこなし、いよいよ「デビュー」することになる。家族はもちろん、友人、知人にそのことを伝える。もう彼は「小説家」であり「作家」である。しかし、1年たっても2年たっても、家族や何人かの友人が買ってくれた以上に本は売れることはなく、相変わらず彼はバイトに励み、もう小説を書く気力も失せ、最近では実家の両親が親戚にあたって就職先を探してくれている。おれもそろそろ潮時か…と20代も終わりに近づいた彼は思い、大量の本をBOOK OFFで換金し、田舎に帰っていく。
O以上のように、自費出版の変化型である共同出版は、「自己実現」という人間の最も高次の欲求をうまく突いた、まさに現代日本の「夢追い産業」の花形なのである。
P自費出版に限らず、自分が夢や自己実現に向かってがんばっている、と思い込まされながら、その実「消費させられている」という現象がいま溢れている。結局、「エサ」は違えども、強い者(=勝ち組)が弱い者(=負け組)をうまくたぶらかし、搾取しまくっているという、いつの時代も繰り返されてきた構造がつづいているのである。
Q「夢追い産業」とはよく言ったもので、そこでは「夢」しか見せてくれない。その先、「夢」を「現実」にするかどうかは、「あなた次第」というわけである。確かに、「夢追い産業」を消費し、「夢」を実現する人もほんの少しだが、いる。さあ、どうするか?
R二つしかない。「降りる」か「勝ち組」になるか、である。「夢追い産業」にたんまり金を落とした僕としては、もう「降りる」ことはできない。泥沼だが「勝ち組」に這い上がるしかない。もうあとには引けないのだ。だから、そのためには「売れる」しかない。売れて、元を取り返し、かつ、「売れる作家」という肩書きを獲得し、次の「仕事」がくるような状況をつくるのだ。そう、だからみんな僕の本を買ってくれ! …いや、そんなことか? そんなことを僕は欲望していたのか? いったい僕は小説家になりたいのか、ただ小説が書ければいいのか、それとも小説家という「勝ち組」になりたいのか…よくわからんくなってきたぞ!
S現代日本、高度資本主義社会は常に僕らの欲望を見定め、ときにはねつ造し、消費することを促してくる。どうあがいても消費させられている、あるいは消費なしでは生きていけない現代日本ならば、せめて、自分の欲望を見定め、それに見合ったモノを確実に消費したいものだ。本当に「それ」が欲しいのかどうか、確かめてみよう。もう一度、「腹減った」ぐらいの欲望から考え直すのもいいかもしれない。そう思った。
【それぞれの元ネタ】
@大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫)P.7より
Chttp://marketing.misc.hit-u.ac.jp/~matsui/papers/drthesis.pdf
GHIhttp://www.asvattha.net/soul/index.php?itemid=304
M大塚英志『定本 物語消費論』(角川文庫)P.321、322より
※またお得意のウダウダになってしまいました。本当は「自己実現という消費」みたいなお堅いアカデミックなものを書こうと思っていたのですが、いやはや、浅学で論理的思考の強度が足りないため、最後の方はいつもどおりの文章になってしまいました。しかし、読む人によっては、けっこう「痛い」文章になったのではないかと思います。ま、別に僕のオリジナルな意見ではないので、僕自身も上記の「元ネタ」を読んで「痛たたたたぁっ…」と思った口なんですが…。知らないよりは、自分の痛さを少しでも知っておいた方がいいですしね。それから戦略も立てられますし。あ、それと、いちおう付記しときますが、僕が自己実現するかどうかは別として「作品」は「作品」として独立したモノであり、それが売れるか売れないかという価値と、「小説」としての芸術的あるいはエンタテイメントとしての価値は別個のものですから、買って読んでくださった方はなんの心配も必要ないです(?)。ま、どうでもいいや。みんなタフボーイ&タフガールになって「勝ち組」になりましょう!ってことで。
※この雑感雑文をずうっと読んでいる人がいるとすれば、ある現代青年の<泥沼>観察日記のようでおもしろいのでは…? と思っております。ま、自分を切り売りするのが小説家ですから、そういう意味では真っ当なのかもしれません。僕の<泥沼>が商品になるなら、こんなに楽しいことはないっす。読んでもらえるうちが華っす。わっしょい、わっしょいってことで。
ドッペルゲンガーが「金と女」を欲するのに対して、早崎(役所広司)は、金でも女でも、地位や名誉やノーベル賞でもなく、「達成感」が欲しかったのだと言う。でも結局、ドッペルゲンガーが本体から分離した「もう一人の自分」であると仮定するならば、「本当の自分」は、金も女も達成感も望んでいたことになる。映画の最後、早崎(ドッペルゲンガー)は、それらすべてを手に入れたのだと思う。そう思いたい!
よく、J-POPの歌詞なんかで「言葉にできないこの気持ち」みたいなのがあるが、そういうのを聞くたびに、「それはあんたのボキャブラリーが乏しいのと、言葉で何かを伝える努力が足りないからじゃない?」と思ってしまう。せめて国語辞典を最初から最後まで通読してから「言葉にできない」と口にして欲しい。言葉にできるものすべてを言葉にしたあとでこそ、言葉にできない何かがその輪郭を現すのではないだろうか? そもそも小説とはそういう作業だ。つまり、「言葉にできることすべてを言葉にすること」が小説の仕事であり、小説家の究極の欲望ではないだろか。そして、小説が誕生してから、無数の人間が小説を書き、いまも書き続けているが、未だ「すべて」を書き尽くしてはいない。いや、世界が存在する限り、「すべて」を書き尽くすことなどできないだろう。だからこそ、小説は永遠の仕事なのだ。
小説を書いているとまるで自分がジグソーパズルをやっているような気分になる。と言っても、ある絵を完成させるためにピースをはめ込んでいってるのではなく、ある絵を完成させるためのピースの中に「本物のピース」とそれ以外の「偽物のピース」がごちゃ混ぜになっていて、まずは偽物のピースを除外している、といったような気分なのだ。しかも、本物のピースと偽物のピースは恐ろしく似ていて、かつ膨大にあるために、その作業ですら永遠に終わらないのでは…、ましてや絵を完成させることなど夢のまた夢なのでは…、といった感じなのである。偽物のピースを除外する作業、それこそが小説を書くということなんだと思う。なるほど、小説は偽物のピースで作られた、偽物そのものなのだろう。いや、もちろん、書く瞬間までそれが本物だと信じて書いている。しかし、書いた瞬間にそれらの言葉がすべて偽物のピースになってしまうのだ。いや、逆だろうか。書いてしまったから、偽物になってしまうのだろうか。わからない。
ノーベル賞物理学者の小柴教授は教師をしていたころ、物理のテストで「摩擦のない世界はどんな世界でしょう?」といった主旨の問題を出したことがあるらしい。みなさまざまな答えを書いたらしいが、正解は何も書かず白紙で提出することだったらしい。つまり、「摩擦のない世界」では鉛筆と紙がまったく擦れず、字を書くことが不可能となってしまう、というわけだ。これはスノッブをよろこばせる示唆に富んでいる。つまり、本物を書こうとしても書けない、本物だったものが書いてしまった瞬間に偽物になってしまう、という「摩擦」こそが「書く」ことの宿命であり、「書く」ことを可能にしているのだ。「書く」とは物理的にも、精神的にも「摩擦」によって可能なのだ。そして、書くことが摩擦であるように、生きることもまた世界と自分との摩擦である。摩擦があるから人は苦しむかもしれないが、摩擦があるから生きていられるのだ。
僕は、常々、自分の書いた小説に対して否定的な発言をする。だが、それも当然なのである。なぜなら、どんなに心を込め、一所懸命に「本物」を書いたとしても、書いた瞬間に「偽物」へとなってしまう運命なのだから。僕は自分の書いたものを「偽物」だと言うしかない。それは、たいへん誤解を生みやすい発言でもある。世界と摩擦し、格闘し、葛藤し、軋轢まくった末に「偽物」しか生まれない。それは辛いことだ。いや、そうではない。なぜなら、僕は「偽物のピース」を除外する作業をしているのだから、「偽物」が生まれたとしたらそれはよろこぶべきことなのだ。「本物のピース」に一歩近づいたのだから。
ただ、「偽物」である小説が「本物」である瞬間が一つだけある。それは、どんなときだろうか? 小説が「読まれている」瞬間である。「書く」ことも「摩擦」ならば、「読む」こともまた小説と読者の「摩擦」なのだと思う。「書いてしまった」ら「偽物」になるが、「書いている」一瞬だけは「本物」であるように、「読んでしまった」ら、やはりそれは「偽物」だが、「読んでいる」間だけは「本物」なのだ。僕は、そう思う。あなたと僕の小説が「読む」という「摩擦」を繰り広げている間だけかろうじて、「偽物」が「本物」に輝き出す。そう信じている。だから、僕は、堂々と言う。僕の小説は偽物です、と。
追記04.05.14
『小説とは言葉とは、ある何かをそれによって表現しているのではなく、それが結局何も表現できていないということを露悪的に表現することによって、表現できないものがあるということを辛うじてほのめかす、それが限界であり、それそのものの本質である。』
さて、これはある有名な小説家が書いたものですが、その小説家とは誰でしょうか? わかる人はかなりのマニア?
吉田修一氏の作品は『最後の息子』、『パークライフ』、『パレード』、そして今回の『ランドマーク』しか読んでいない。だが、どれも大好きな作品だ。特に『パークライフ』、『パレード』、『ランドマーク』はタイトルの印象からして似ており、共通したテーマがある。僕が思うに、それは「地方出身者が、東京という都会で、いかにクールに生き抜くか」ということだと思う。もちろんそれだけではないし、メインテーマかどうかもあやしい。だが、少なくとも僕はそういうふうにして読んだ。きっとそれは、僕自身が、東京在住の地方出身者だからだろう――結局、このように「主観」で読んでしまう。ま、とりあえずそれはいいや。プロフィールを見ると、吉田氏も長崎出身で、上京し、法政大学に通っていたようだ。僕も同じく九州の熊本出身で都内の私立大学に通っている。地方出身者=田舎者が東京にやってきて、その冷たく圧倒的な都会に押し潰されそうになる、というのは、まあよくありがちな、陳腐といってもいい題材だ。素人の小説家志望青年がそういう話を書くと、実体験に基づいた単なる「苦労話」になってしまう場合がほとんどだ。そんな作品は「田舎帰れば?」と言う他に対処のしようがない(ご多分に漏れず僕もそういう小説を書いていた)。しかし、吉田氏の作品に出てくる地方出身東京在住者は、一見「田舎者」のイメージからかけ離れた、非常に洗練された「都会的」人間である。
この『ランドマーク』には、建築事務所に努める犬飼という男と建設作業員の隼人という青年が登場する。犬飼はホワイトカラーで妻帯者、隼人はブルカラーで未婚、というように二人は対照的であり、物語も二人が交互に視点人物となり進んでいく。章立ては「Number 10」から「Number 1」へと数字が逆行する形式になっている(話体は時系列に沿っている)。それは作中に出てくる「Straight To Number One」という曲に由来するものだと考えられる。舞台は大宮になっており、二人の共通点は「O-miya スパイラル」という大宮駅西口に建設中の巨大ビルの建設に携わっていることである。それと犬飼が博多、隼人が小倉出身で二人とも「九州出身」であることだ。犬飼は(おそらく)都心に住んでいるが、この「O-miya スパイラル」建設のために、近くのホテルで寝泊まりしていて妻(紀子)のいる家にはあまり帰らない。ただ、同じ事務所の菜穂子と愛人関係にあり、菜穂子の住む下高井戸のマンションを訪れたりする。隼人は寮の近くの中華料理屋でバイトしているこずえという恋人(セフレ?)がいる。それ以外にも、ちょこちょこ女の子には手を出している。菜穂子は「遊び」で隼人にスワッピングまがいのことを提案する。新宿のホテルで、いざそれを行おうとするが、隼人がそれを止めさせて、失敗する。隼人はネットで男性用貞操帯を購入し、装着する生活を送る。特に隠そうともしないが、寮の人間にはバレず、こずえにだけ見せびらかす。
「O-miya スパイラル」というビルはこの小説の構造を象徴しているだろうけれども、同時に男根を象徴しているとも考えられる。小説の中盤で、隼人は貞操帯の「鍵」を30個も複製し、それを「O-miya スパイラル」の各フロアのコンクリに埋めていくことを考えつく。それが何を象徴しているのか、判断するのは難しいが、終盤で隼人がこずえに結婚を申し込むことを考えると、「貞操」を「解放」する「鍵」を埋めていくということは、こずえという女への貞操を誓っていくということではないだろうか。遊び人の隼人が「結婚」という安定した制度に収まっていこうとするのとは逆に、犬飼は愛人を持ち、中盤、妻はそれが理由かどうかはわからないが、少し精神を病んだようになり、家を出て実家に帰ってしまう。なるほど、隼人が「不安定」から「安定」へ、犬飼が「安定」から「不安定」へと移行する過程の物語と読むことができる。その「移行」つまり何かから何かへの変化の「途中」であるというのは、「O-miya スパイラル」が建設「途中」であることからも想像できる。小説の結末は、その「O-miya スパイラル」で首つり自殺が行われ(自殺したのは、隼人と寮の同室の良治という男であり、自殺したフロアはビルの構造上の要となっている部分である)、そこに犬飼が駆けつけ、ビルを下から仰ぎ見るところで終わっている。そこではビルを「まるで巨人が大地に膝をつくのを堪えるように、そこに無言で立っている。」と描写されているが、それまで何の問題もなく「立っていた」犬飼の人生が、いままさに「膝から崩れ落ちそう」になっていることを象徴している。しかし、それは犬飼が見たから、そう感じるのであって、もし隼人が見たならば、これまで地べたに座り込んでいた巨人が、いよいよ「立ち上がろう」と膝を伸ばしはじめている姿に見えるのではないだろうか。犬飼にとっては、「自殺」によってビルの価値が崩壊していく=安定した結婚生活の崩壊であり、隼人にとってはビルを建設していく=安定した結婚生活というものを確立していく物語となっている。やはり「O-miya スパイラル」は「男根」であり、男性性の象徴である。しかもそれが大宮という地に立っている(勃っている)。つまり、大「宮」は、子「宮」であり、女性性の象徴になっている。さらに言えば、「Straight To Number One」というのはセックスの過程を想起させる歌であり、「Number One」とは女性器を想わせる。また、「O-miya スパイラル」がわざわざ「O-miya」となっているのも「miya」はもちろんそのまま「宮」であり、「O」もまたその形状から女性器を連想させ、かつ「Number One」までたどり着けば、逆行している以上つぎに待っているのは「0」(ゼロ)である。「0」と「O」はほとんど区別がないと言ってもいい。だから、小説の最後でたどり着くのが「0」である「O-miya スパイラル」なのだ。(以上、フロイト並みのこじつけ。あるいは童貞の妄想?)。
また「地方出身」という視点から見ても、これが「移行」の物語であり、「途中」の物語であることがわかる。博多出身の犬飼は、目黒生まれ目黒育ちの妻・紀子を持ち、下高井戸に住んでいる愛人を持っているが、仕事の都合上しょうがなく大宮という、電車で行けば新宿や渋谷からそう遠くはない地で働いている。ちなみに、目黒生まれの紀子は大宮を新幹線で行くほどの遠い地と思い込んでいる。また、大宮は「まるで渋谷や新宿のいいところだけをピックアップしたよう」だと形容される。つまり、大宮という土地が、東京から見れば「地方」であり「田舎」であると同時に、昨今急激に開発の進んだ「新都心」であり「リトルトーキョー」でもある「中途半端」な街でもあるわけだ。一方、隼人は「せっかく東京に出てきたはずが、なんの因果か、大宮くんだりに暮らし、毎日毎晩、秋田出身の男たちに囲まれている」生活を送っている(隼人の勤める建設会社は東北出身者ばかりで、隼人は「キューシュー」と呼ばれている)。しかも、大宮駅から車で10分の所に実家のあるこずえと結婚しようとする。なるほど、博多出身の犬飼は、目黒生まれの妻を持ち青山で家具を買うような洗練された東京人だったのが、「O-miya スパイラル」というビルを建設することによって、大宮という街に住み、そこを「トーキョー」に変えようとしている。隼人は東京にやってきた「キューシュー」人だったのが、今度は「秋田」という田舎者に囲まれ「東北弁」を話すようになり、「大宮くんだり」に居を構えることになりそうな「オーミヤ」人になろうとしている。つまり、「九州」という地方出身の人間が、一方は、東京人からトーキョー人へと変化し、もう一方は、キューシュー人からオーミヤ人(つまり、「田舎」者が別の「田舎」者になっただけ)になっていく過程でもある。ところで、六本木やお台場に群がる「田舎者」を生粋の東京人が嫌悪するように、やはり、「東京」は田舎者の土地であり、ある洗練された純粋な都会人=東京人がいるとすれば、それは「地方出身」の「東京在住者」ではないだろうか。東京が所与のものでないからこそ、意図的に「東京人」になろうとする。東京という街ですら何か過剰に人工的に「東京」であろうとするかのように。六本木もお台場も渋谷も新宿も、東京ではなく、地方出身者=田舎者が想像し創造した「東京」なのだ。もし、その「東京」になじめず「東京人」になれない地方出身者は「田舎に帰る」しかない。本来、隼人はそういう「東京」になじめない人間なんだろう。しかし、オーミヤを自分の新しい田舎とすることで、それを回避している。犬飼も「東京」に住めなくなり、今度はより人工的な「東京」を目指す「O-miya」に新しい「東京(=トーキョー)」を見いだす。
地方出身東京在住者は、東京の人から見れば「田舎者」であるが、地元の人間から見れば「東京者」なのである。東京にいるときは「田舎者」であることがアイデンティティの拠り所になり、田舎に帰ると「東京者」と見なされる。こんなことを思い出す。夏期休暇などに、東京の知り合いには「熊本に帰る」と言い、田舎の知り合いには「東京にいる」と言ったときのような、いま自分はどこにもいない、という感覚だ。そしてそれは、方言と標準語の使い分けにも現れる。さあ、果たして、自分は「何者」なんだろう?という疑問が浮かんでくる。だからこそ、地方出身東京在住者こそが、より純化された人工的な「東京人」としてアイデンティティを確立していくのだ。その確立の過程は、人それぞれだろうけど、僕は吉田修一の小説のように、なかなか「クール」にやることができずに、日々たいへんなんだけどね。
※『ランドマーク』(『群像』5月号掲載)
※『群像』6月号の「創作合評」も参考にしました。
読書感想文なんて真面目に書いたことはなかったが、読書感想文が上手に書ける女の子には憧れていた。だから、というわけではないが、書評めいたものを書いていこうと思う。単なる愚にもつかない「感想」になるかもしれないが、そんへんは「無料」ということで勘弁していただきたい。だが、自分の能力いっぱいを使って書くつもりだ。「読むこと」と「書くこと」は表裏一体であり、その二つをつなぐのが「考える」ということだと思う。読んだら、考える。考えたら、書く。書いたら、考える。考えたら、読む…という具合いに。作家とはその繰り返しだと思う。結局、何かについて語ることは、自分について語ることになるのだろうが、せめて「主観」がぶれないように、「定点観測」のように書きたい。
夏日だ。暑い。
俯いて歩いてると誰かの汚い足が見えた。サンダルだった。もうそんな季節かと思った。もうすぐ夏が来る。サンダルの季節だ。
帰り道、本屋で、芥川賞作家の長嶋有さんを見かけた。あやかりたいものだと思った。
知らない誰かが僕の本を立ち読みしていた。
知らない誰かが僕の本を買ってくれた。ちょっと、震えた。
文章とは何か? もちろん、テレパシーである。
小説とは何か? もちろん、テレパシーである。『S大学物語』を読んでいただいたあなたには、きっと「何か」が伝わっているはずである。その「何か」はそれぞれ微妙に違うだろう。だが、そのコアの部分はきっと同じである。僕は、『S大学物語』を読んだ人すべてが、図らずも共有してしまう「何か」、それを伝えたくて、それを書いたんだと思う。その「何か」をここに書くことはできない。もしここに書けることなら、わざわざ小説を書いてそれを伝えようとはしない。僕は信じている。小説でしか伝えられない「何か」があると。言葉を尽くした、言葉だけで表現された小説だからこそ、言葉で伝えられない「何か」を伝えられるのだと。時空を超え、私の存在を知らなかったあなたが、あなたの存在を知らなかった私の小説を読み、「何か」を受け取ったとしたなら、それをテレパシーと呼ばずして一体何と呼ぶのだろう?
『S大学物語』を読み、このHPを見てくれた友人に叱られた。せっかく『S大学物語』を読み、さわやかな気分になれたのに、この「雑感雑文」を読むと、なんだか『S大学物語』を読まなかった方がよかったような気分にさせられる、と。おまえは買ってくれた人を馬鹿にしてるのか? いや、決してそんなことはない。しかし、彼がそのような感想を持ったとしてもおかしくはないかもしれない。確かに、ここ最近の雑感雑文は、かなり露悪的で挑発的な文章になっている。かなりのへそ曲がり、偏屈者が書いた文章だ。だが、わかってください。『S大学物語』を書いたのも僕なら、この文章を書いているのも間違いなく僕=松田龍樹です。そして、どちらの文章にも「嘘」は書いてありません。人間は早々、竹を割ったような性格の人ばかりではありません。一日一日、毎分毎秒ごとに変化し、思考し、葛藤しているものです。いささかこの場では「露悪的」に書いていることは認めますが、それは「偽悪的」に振る舞っているだけなのかもしれません。人は他人の良い面と悪い面を両方見る機会があると、必ず悪い面を指して、それがその人の「本性」だ、と決めつけます。そうでしょうか? 夏目漱石が『こころ』で書いているように、人には、生来「善人」も「悪人」もいないのだと、僕は思います。日々刻々と人間は<善人と悪人の狭間>のような混沌とした精神世界をさまよっているのだと思います。それがたまたま何かの拍子で表出し、それを他人が目撃して、あの人は善人だとか悪人だとか決めつけるのだと思います。目先の言葉にとらわれないでください。『S大学物語』を書いた僕が、雑感雑文のような文章を書かねばならない、その軋轢の中に、僕の「屈託」を発見してください。世界を全否定したくなる日と、世界を全肯定したくなる日を、交互に生きています。…躁鬱病ですか? 何でもいいです。屈託と軋轢があるからこそ、僕は小説を書いているんです。いまこうして、ここに率直な言葉で「何か」を伝えようとしています。しかし、それが十全には伝わっていない感覚もあります。だからこそ、小説を、僕は書かねばならないのです。小説家だから、冒頭の「テレパシー」のような「偽善的」な文章だって書けます。いや、いまこうして「偽善」と言いましたが、それすら本当のところはどうなのか、はっきりわかりません。完璧な真実も、完璧な嘘も書けはしないのです。どうかどうか、読者諸氏におかれましては、早計に判断なされず、僕の書く文章の「軌跡」をじっくり見てやってください。その軌跡こそが「何か」を伝えてるはずですから。
ところで、余談ですが、また別の友人に『S大学物語』は自費出版なの?と小馬鹿にしたように訊かれました。僕はそうだよ、と答えました。すると友人は「なーんだ」と言いました。いや、正確には自費出版ではなく「共同出版」なのです。それがどういったものかは、各自ネットなり、問い合わせるなり、勝手に調べて溜飲を下げてもらえればいいのですが、いったいその友人は何が「なーんだ」だったのだろうかと僕は思いました。「芥川賞受賞作」だったらよかったのでしょうか。いったいその友人は「何を」読んでいたのでしょうか。批判、否定、やっかみ、揚げ足取りはできうる限り、僕自身でやりますので、他人のあら探しは己を小さくするだけということを知っていただきたいです。僕に対して、僕ほど辛辣な人間は他にはいないのですから。
※「友人」には許可をもらって、この文章を書かせてもらっていますので、悪しからず。
※冒頭の一文は、『スティーブン・キング 小説作法』の一節より引用しました。
僕は小さいころから、「大人ウケ」のいい子供だった。おじさん、おばさん、学校の先生から必ず気に入られていた。だが、別に僕はそういった人たちに媚びへつらったり、「いい子」を演じたつもりはない。まあ、多少他の子供よりも愛想がよく、「聞き上手」であり、大人でもわかるような物言いを心がけてはいたとは思う。だがそれも、大人に気に入られようとしてやったのではなく、むしろ、常に子供や若者から疎外されている大人たちに対しての「サービス精神」のような気分でやっていたのだと思う。不遜な言い方をすれば、「これぐらいのことを言っとけば、大人は納得し、満足し、安心するんだろ?」みたいな気持ちもあったと思う。…と、ここまで書いて、しばらく考えた。やはりその「サービス精神」も「強者」である大人とうまくやってくための処世術でしかなかったのではないか。そう思い至った。大人に気に入られることは、何かと有利だ。主に経済的な面で恩恵を受けやすいし、学校などではいろいろと配慮してもらえる。ただ、一点、気をつけなければならないのは、周りの同世代の仲間から「気にくわないやつ」と思われる可能性があるということだ。まあ、僕の場合その点に関しては、これまでまったく問題はなかった。世界一の八方美人能力を有する僕に、そんな初歩的な躓きはなかった。
『S大学物語』は、現在好調に売れているようで、知人・友人、親戚・縁者に売りさばいた以上に本が売れているようだ。ありがたいことである。読んでくれた方々の感想を伝え聞くところによると「読後感がいい」「読んだあと元気が出た」や、あるいは、中年以上の方々には「現代の若者の気持ちがわかった」というものが多いようだ。なるほど、「大人ウケ」は上々というわけだ。ところで、「大人が理解できる程度の若者像」を提出し、おじさんおばさん、ご老人方に気に入られ、業界内で生き延びている作家がいるらしい。そういったタイプの作家は、しばしば批判され、「大人に媚びない」作家を誉めあげるのに引き合いに出される。なるほど、「大人に媚びない」で作品が書け、「若者から絶大な支持」を得られるような作家はとてもかっこいいような気がする。うん、かっこいい。でも、僕はそんな作家にはなれない。なりたくもない。いや、かといって、大人にかわいがられようとも思っていない。そんなのは所詮、どちらにおしゃぶりを与えるかの違いでしかない。まだ、これから僕の本がどのような受け取られ方をするか静観しなければいけない期間だが、いまのところの感触からして、僕のこれからの戦略は「サービス精神」を発揮した「大人ウケ」のいい小説を書いていくというものである。そして是非若者のみなさんには、「この程度が、大人ウケいいんだな」くらいに受け取っていただければありがたいと思っています。
…なぜ、こんなことをいちいちHPに書くのか? それは、すべてを暴露するのが唯一の誠実さだと僕が思っているからであり、「誠実だ」と思わせることが八方美人でありつづけることの秘訣だと思っているからです。
…なんて、ね。ほんとは、技量が乏しくて自分の理想とする小説が書けない自費出版小説家の言い訳です。どうか、僕と僕の作品をかわいがってください。
※「大人/若者」という二項対立的な捉え方こそ陳腐ですね。ま、誉めてくれれば誰でもいいんです。要は。
僕の友達が言っていた。「過去に本当に好きになった女がいたが、振られてしまった。いまでもその女が好きだが、まったく相手にしてもらえず、連絡もしていない。ストーカー的執着心はないので、それ以上関わることはしないが、死ぬほど好きと思った女はそいつしかおらず、だから、これから自分がどんな女と付き合おうとも、それは『本当』ではない。不思議なことに『本当』は好きではないと思って、女と付き合おうとすると、『本当』に好きになってしまったときよりもうまくいく。『本当』ではないから、より自覚的に、戦略的に、テクニカルに、女を『落とす』ことができてしまうのだろう。こっちは『本当』ではないから徹底的に計算、打算で動いているのに、なぜか相手はそれを『本当』と勘違いしてのめり込んでいく。皮肉なものだ。例えばおれが『本当』は好きではない女を『本当』に好きな男が現れたとして、必ずと言っていいほど、その女はその男を嫌悪する。なぜだろう?」それはおまえが容姿に恵まれた所謂「モテる」タイプの男だからだろう、と彼女いない歴23年8ヶ月の僕は嫉妬とともに思ってしまう。その同時に二人の女性と付き合うこともめずらしくない友達はさらに言う。「恋愛とは残酷だ。だいたいにおいて一方通行であり、『手に入らない』からこそ好きなのであり、『手に入る』と直感的にわかるものには人は恋などしないのだ。ただ成長すれば妥協するようになり、よく言うように『2番目』に好きな人と結婚してしまう。だいたい自分が残酷に振られているにもかかわらず、他人を振るときは同じ残酷さをもって振ってしまう。恋愛はやっぱり究極のエゴイズムの発露なんだな」なるほど、よくわかる。おまえはかなりのエゴイストだよ、とつっこむ。「おれがみんなに気づいて欲しいのは、誰かを愛するってことは、誰かを愛さないってことなんだなあ、ってこと。でしょ?」おお、そのとおりだよ、クリスト。「だからおれはもう誰も愛さないし、逆に言うと、誰も愛さないってことが、すべての人を愛しているってことなんだと思うんだ、実際」へー、ただのスケコマシかと思っていたら、人類愛者だったのね。「セックスしてるとね、セックスしまくってるとね、気づくんだ。やっぱ恋愛…というか究極人間の求めるものって、心なんだなって。恥ずかしいの承知で言えば、人は人との『心の交流』を求めているんだなって。あんまりセックスしたことないと、セックスしただけでなんか特別な関係になったみたいな気になるだろ?」と言われても、僕、正真正銘、キスさえしたことない童貞ですから。わかりません。「おれはそれがいやなんだ。セックスとかを特別視するのが、実際『心』がなければただの運動と変わりないぜ。セックスそのものが何か特別なのではなくて、それを媒介にして混じり合う何かが大事なんだよ。うん。まあ、とにかくおれがいろんな女とセックスしまくってるのは、そういった幼稚なセックス幻想みたいのを打ち破って、本当の『心の交流』としてのセックスがしたいからなんだ」はあ…ご高説、ありがたく頂戴いたします。しかし、自他共に認める童貞(素人童貞ですらない)である僕には彼の言うことは「理解」はできても「実感」はできない。ただ、彼の話を聞いてて思い浮かんだのは、僕の「小説」に対する態度だ。彼の「恋愛」に対する態度を要約すると「『本当』(かどうか疑わしいが、とりあえずそれが『本当』であると思い込むことが重要である)が手に入らないとわかった以上、『本当』ではないものに対し、『本当』であるかのように戦略的に振る舞うことで、『本当』が『本当』ではないことを暴露しようと試みるが、それでもなおその先にある『本当』の『本当』を求めてしまっている。そして、それが『本当』であるがゆえに、手にはいることはない」というものだろう。それはまったくもって僕の「小説」に対する態度と同じだ。そう思った。
NHK『あしたをつかめ 〜平成若者仕事図鑑〜』の「路面表示施工技能士」の回を見て、自分の仕事に対して素直に「好きだから」やっていると言った22歳の「路面表示施工技能士」の彼に感動したし、羨望に近い感情を持ったが、違和感も残った。僕は虚栄心のために「小説家」になりたいと思った。それは小学生の女の子が「モーニング娘。になりたい」と思うところの「虚栄心」とまったく同じだ。モーニング娘。になれなかったあまたの女の子たちが、以降どうやってその「挫折」と付き合っていってるのか、あるいは、あきらめずに拘泥しながら生きているのか、僕は知らないが、とりあえず僕自身は「自費出版」することで「虚栄心」を満たしつつある。「路面表示施工技能士」の彼に対し、僕の姿のなんとさもしいこと。それはモーニング娘。オーディションで精一杯歌っている姿のさもしさに似ている。まあ、いいや。とにかく、僕は一生懸命働くことは素晴らしいなと思ったわけだ。だが、その思考停止の素晴らしさに搦め取られないで、泥沼を生き抜くことが、唯一僕が小説を書く理由なのかもしれないとも思ったわけだ。
ものわかりの良すぎる若い人間が嫌いです。
ものわかりの悪い年寄りが嫌いです。
クソ意地持った男が嫌いです。
気持ちに素直な女が嫌いです。
青くさい子供の僕が毎回発熱して書きました。
熱に浮かされてもらえたら幸いです。
以上の文章は、新井英樹『宮本から君へ』(講談社)モーニングKC第1巻の表紙折り返しに記された作者コメントを改変したものです。以下にその原文を引用します。
ものわかりの良すぎる若い人間が嫌いです。
ものわかりの悪い年寄りが嫌いです。
クソ意地持った男が好きです。
気持ちに素直な女が好きです。
青くさい子供の僕が毎回発熱して描きました。
熱に浮かされてもらえたら幸いです。
原文と改変後の文章、その差異が「僕」だと思いました。でも、いやはや、しかし、いきなりこの文章が載ってて「青くさい子供の僕」とか書いてあったのには参りました。なんか自分が書いた文章のような気がしました。またしても「これは僕だ」と思わせる作品&作者に出会ってしまい、うれしいやら、悲しいやら…って感じです。
援交していた彼女らも最近じゃ就職活動って噂だが、俺は関係ないどこ吹く風って感じで街は風の中、俺風街ロマン抱えて裏通り。風の歌を聴きながら限りなく透明に近い水着に萌え。イミテーションなラブだけ重ねていつかはトゥルーなラブにたどり着くのか疑問符だが、しょうがないとあきらめモード。地味なヘンドリクスがチャリー・パーカー見つけたよって言ったら俺は薄利多売な魂を売る守銭奴デイヴィス。マイルス。自慢たらたらの自称小説家が「小説家」とカテゴライズされることにのみ執心。アイデンティファイされつつ嫌悪感丸出しの売女。速攻ファックと見せかけつつ意外と純情。俺重傷。肝心要でいつも尻つぼみ。他人の言葉に脅えつつ理論武装に精一杯。今日が楽しけりゃそれでいいじゃん。今日が楽しけりゃそれでいいじゃん、先生。描写してるひまがない現実。憂鬱街をひとり散策。ルーティンワークで。真に心のこもったスマイルひとつ、プリーズ。センノリキュー。
「僕は高校を中退してフリーター。ずうっとフリーター。小説家になりたくて原稿を書いているけど、まあ普通のクソだ。ぬるいクソ。小説家になりたくて小説を書いてるのはおかしいような気がするし、本当は小説を書きたくて書いているうちに小説家になるんだから、俺なんて偽物だって気もするけど、本当の本当は、偽物だって本物のうちだから、気にせず小説を書いている。」(舞城王太郎「パッキャラ魔道」/『群像』2004年5月号)これはそっくりそのまま、僕そのものであり、舞城氏が僕の人生を小説のネタに使ったことは疑いのないことだ。個人の人生を小説のネタにするなど以ての外であり、僕は断固抗議する。…などと僕が言い出したら、病院に入れてください。「これは僕だ」と思わせる舞城氏の小説に感服です。
【かわいいHP】
と、いうわけでHPのデザインを一新した。ま、本当はデザインよりも中身が大事なのは言うまでもないが、『S大学物語』や『FUCKILLOVE』が完成し、それを手にした方がこのHPを訪れるだろうことを見込んで、少しでも好印象を持たれるように「かわいい」HPにしようと目論んだわけだ。この雑感雑文の内容があまりに「暗い」からそれをカバーするためだ。しかし、デザインのかわいさと文章の暗さのコントラストが強くて「気持ち悪い」と思う人もいるかもしれない。だが、真のねらいはそこにあるので、問題はない。
【テディのように】
「頭のいい人」の特徴の一つは、「答え」を保留できることらしい。「頭のわるい人」は「問題」にぶち当たると、すぐに答えを求め、わからないとあきらめてしまう。それとは逆に、「頭のいい人」はすぐに答えがわからずとも「いつかわかる」という確信があるために、わかる時機が来るまで待つことができる、ということだ。僕もわからないことだらけだし、頭もたいしてよくないが、わかるまで辛抱強く待つことができるくらいの人間にはなろうと思う。そのためにも、ここに、いま現在わからないが興味がある問題についてメモをしていくことにする。そして、テディのように、だらだらとそれらについて調べたり考えたりして、その過程も含めて、ここに書く。
【理屈じゃないのよ、人生は】
んじゃあ、人生って何なんだ? ってことで、「人生は理屈じゃない」からこそ「理屈」にこだわってみようと思います。宮台真司氏が「近代を乗り越えるには、徹底的に近代でなければならない」と言うのに倣って。「ロジックを信じてないからこそ、ロジカルな人間になる」みたいな、ね。では、理屈でモノを考えよう!
【以下、テディのメモ書き】
近代とは何だ? 近代と現代の違いは? 近代主義とは? あるいはモダン、ポストモダンの違い。歴史感覚とは? 僕らの世代はいったいどんな立ち位置にいるのか? 歴史的に見て。また僕らの世代はどの程度それに自覚的か? あるいはどのように自覚=認識しているのか? 宮台真司氏は「内在」とか「超越」とかやたら言ってるが、どういう意味なのか? また、僕ら世代の人間は「超越」を必要としているのか? 「恋愛」は近代が生んだ概念だと聞いたことがあるが、では以前の人々はどのように「恋愛」を捉えていたのか? また「恋愛」とは何か? できれば『あずみ』と絡めて、まとめてみる。
【5月のルール】
・主語を僕
・集中して書く
・思いつき程度のものでも、書く
・用語、用法を統一する
・「わかりやすさ、おもしろさ、あたらしさ」に気を配って、書く