松田龍樹公式HP

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雑感雑文

日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。

2004年06月

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04.06.30 Wed 全戦全勝

しかし、生きていると、疲れるね。かく言う私も、時に、無に帰そうと思う時が、あるのですよ。戦いぬく、言うはやすく、疲れるね。しかし、度胸は、きめている。是が非でも、生きる時間を、生きぬくよ。そして、戦うよ。決して、負けぬ。負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありゃせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません、ただ、負けないのだ。
勝とうなんて、思っちゃ、いけない。勝てるはずが、ないじゃないか。誰に、何者に、勝つつもりなんだ。

「執筆中」のものは、とりあえず削除しましたが、追々書いていくので、お楽しみに。

『堕落論』をぱらぱらと拾い読みしていて(通して読むのはちときつい)、上の文章に出会いました。文脈吹っ飛ばして、引用しました。つまり、そういうことです。「勝ち組/負け組」クソ食らえ。人生は戦いだ。生きている限り、「勝利も敗北もないまま」戦い続けるしかないのだ。そう、誰に勝つつもりなんだ? 誰に、負けたというのだ。「全戦全勝」してると思い込んでるやつらには、勝手に思わせとけばいい。僕らは、勝たない、負けない、ただ戦う。ただ生きる。ってことだよ!

坂口安吾は「オヤジ」って感じがした。憂いを知るオヤジ。なんか安吾を熱狂的に支持した若者たちの気持ちが少しわかりました。(「堕落論」は読んでないけど。てへ。でも、高校のころ『不連続殺人事件』は読んだ。おもしろかったよ)。

坂口安吾『堕落論』(角川文庫クラシックス)「不良少年とキリスト」P.244より

04.06.26 Sat ナインティナイン速報

なんと、今年のFNS27時間テレビのメイン司会を中居正広とナインティナインがやるらしいです。地元にいるころからこのFNS27時間テレビは大好きでした。お笑いが総登場するし、なんと言っても深夜枠が熱かった。でも、最近は、何やら「24時間テレビ」っぽくなっててつまらなかったのですが。いやー、ナイナイにはどかんとやって伝説残して欲しいです。すごいです。楽しみです。27時間の最高の楽しみ方は、まず27時間ずっとビデオに録画しといて、その後、ナイナイその他の芸人のラジオを聴くんです。すると、様々な裏話があって、それを聴いてから再びビデオを見ると2度3度と楽しめるんですね。早速今週のオールナイトが楽しみです。(04.06.23 Wed 記載)

最近、サブカル&エンタメ系の話題が多いですね。「お勉強」に疲れたのでしょうか。ま、いいか。

04.06.25 Fri 文学に期待する

僕が鈍感だからいままで気づかなかったのだが、精神科医である斎藤環氏が「文学」とか「批評」のような分野で積極的に活動されているのは、もちろん「文学」からの要請もあるだろうし、ご本人の文学好きという趣味に端を発するものでもあるのだろうが、心理学や精神分析、または養老猛や茂木健一郎などの「脳」科学者が「唯脳論」的な思想を大衆に認知させはじめている現代において、例えば文学者が自殺したとしても、それが文学的理由ではなく端に「うつ病」だったからとか、その作品も精神分析的に言えば「ボーダーライン」の典型的症状ですねとかで片付けられてしまい、最早、昔のような文学の「効用」「必要性」はなくなってしまった、あるいは文学の持っていた特権は消滅した、もう娯楽として読み物として映画の原作としての「小説」しか必要とされていない、そんな状況というか雰囲気があるわけだが、だからこそ、精神科医である斎藤氏が、精神分析や心理学で回収できる「くだらない」作品と、もともとうさんくさい学問である精神分析が回収できない「何か」を持った「文学」作品を分別し、そういった観点から「文学」の再興を願っているのかもしれない、と思った。だから、氏の最高の誉め言葉は、「精神分析を断念せざるを得ない」とか「精神分析では回収できない」とか、そういう言葉になるのだろう。

04.06.25 Fri 『半透明少女関係』

ZAZENBOYS『半透明少女関係』を拝聴。

以前、9.11関係の特集で筑紫哲也と緒方貞子とかいう人が対談しているとき、緒方貞子とかいう人が9.11のテロを「関係のない人々が犠牲になった」と述べていたが、それを聞いて、この緒方貞子とかいう何をしたのか知らないがテレビで発言するぐらいに有名な人(で、たぶん「偉い人」なのだろう)の発言に耳を疑った。いや、その人の感性を疑った。(いや、もしかすると、口が滑って言っただけかも知れない。その発言の文脈も把握していない。だから、彼女からその真意を聞くまでは、断言はできないし、その発言一つで彼女を否定する気は毛頭ないのだが)とにかく、理屈はともかく、直感的に私はテロとその犠牲者が「関係ない」ことはないだろう、と思ったのだ。確かに犠牲になった方々は「偶然」そうなったのかもしれない。それを考えると遺族でなくとも、心が痛む。いや、それが「偶然」だからこそ、「私」だったかもしれないという「共感」が生まれるのだ。テロリストを「あちら側」ともし呼ぶなら、きっと私やあなたや9.11の犠牲者たちは「こちら側」だろうから。偽善ぶったことを言えば、その「あちら側」と「こちら側」を無化することがテロルの撲滅だろうし、それを実現するには、テロリストと犠牲者(そして、私たち)が「関係ある」と認識することからはじまるのではないだろうか。

「関係ない」関係とは、『半透明少女関係』で歌われるように、<半透明少女>と<おれ>のことなのである。つまり、道行くあの子と私は関係ないのだ。ただ、少女が、あるいは、私が、「関係したい」と思うだけなのだ。さあ、どうやったら「関係」できるだろうか?

というわけで、現代日本でギリギリの希薄な「関係」を描いたのが拙著『FUCKILLOVE』である。現代サバイバル術の参考に、是非読まれたし、買われたし! ただし、つまらなかったといって「関係者出てこい!」と叫ばないように((((((((笑))))))))。←かの有名な早咲きの()の花束です、ちなみに。

04.06.24 Thu 薄利多売

私は商売人が嫌いではない。ただ現在の高度資本主義経済+自由洗脳社会において、商売する上で、どうしても「善人」ぶらなければならないのが、嫌いなのだ。本当に広告とか宣伝とか惹句とか売り文句とかには吐き気がするものが多い。きっぱりさっぱり「金儲け」してますと言えばいいのに。それでいいじゃん。いや、「金儲け」最高だと思っている。 高等教育を受けた賢い消費者(という仮構の存在)は、偽善者ぶった想定問答にはもう飽き飽きしているのだ。「あえて」やっているのか、それとも数少ない阿呆を相手に商売しているのだろうか。反吐が出る。

現代日本で音楽、映画、小説などの「複製技術」によって支えられた「芸術」を志している人間ならば、「薄利多売」は本望である。っていうか、それが「本質」だろう。「魂」なんていくらでも切り売りする覚悟はできているはずだ。「自分」が商品になるなんて、ありがたいことだ。所詮、魂も肉体も消耗品ではないか。たくさん売った方が得ってもんだ。蕩尽しなきゃ人生じゃない。 ったくブランドバッグを「『丈夫だから』持っている」と言う女と同じぐらい鬱陶しい。つまらん。陳腐! なぜ「『ブランド』だからブランドバッグを持ってる」と言えないのか。何かやましいことでもあるのだろうか。マジで鬱陶しい。ウザい。信販会社のCMぐらい鬱陶しい。インターネットに悶々を書き込む私と同じくらいに鬱陶しい!!

みなさんはどうですか? みなさんは何を売って生きてますか? 何を売って生きててもいいと思います。ただ、それを肯定しましょ。「生きるため」に売っているなら、何も隠す必要、偽る必要はないと思います。もちろん、タテマエはありですよ。ただし、「これはタテマエですよ」とサインを出しながら、ね。 どう足掻いたって、人間が生きている以上、生きているために「商い」を営まなければならない以上、「卑しさ」は避けられないのだから。「卑しさ」を認めつつ、偽善を回避し、それらすべてを凌駕する「価値」を商品に与えられるよう、努力するのが「商売人」ってもんでしょう。

以上、一経済学部生and「小説」という商品のメーカーという商売を志す青年の主張。

追記:
「いろいろなことについて他の人々が飽きるよりも早く飽きることが必要なのです。」というのを【04.06.15】で書いたが、つまり、トム・フォードは、客を飽きさせてはいけない、と言ってるわけなんですね。エンターテイナー=商売人の必勝法は「飽きさせない」こと、客が「飽きないようにする」ことなんですね。もう、わかりましたよね。そう、だから「商い」と言うんですね。どう?(こんなの)

以上、『必勝!合コン術 〜自己紹介からお持ち帰りまで』(珍文社刊/茂手内太郎著)第W章「こんな話題はNG!」P.58より

04.06.23 Wed 『キューティーハニー』庵野秀明

「わたし、キューティーハニー見たいんだよねー」「でもきもい人ばっかだったらどうする?」「ひゃひゃひゃっ」という女子たちを横目に入館。むさい青年ときもい中年とうざい私、計3人。上映途中、やたら出たり入ったりするおばさんが加わる。まず初めに佐藤江梨子のヌードとセットで「au」どアップ。続いてファミリーマートのスポンサー映像。「東京都知事」に応援を要請した東京アクアラインが大爆発。ハニーのプロテクターのつなぎ目が肌色タイツでがっくり。佐藤江梨子のジョージアCMコスプレもあり。永井豪も出ている。

庵野秀明の持ち味である(ハリウッド系大作映画にうんざりしている人にとっては愛すべき)チープ感、(最高水準の)アマチュアっぽさ、あるいは(強い作家性という意味で)自主映画っぽさが、アニメ原作である本作品と佐藤江梨子という前代未聞のコスプレアイドルと融合し、いわゆるハニメーションとして結実している。あるいはテレ朝の戦隊もののようでもあり、テレビ東京の深夜ドラマのようでもある。

以上は、まあどうでもいいことだ。

最もこの映画で恐ろしいのは、如月ハニー=キューティーハニー=佐藤江梨子=庵野秀明、この四者(?)が共通して抱え込んでる生得的「孤独者」感が随所に滲み出ているところだ。それは、人気者の孤独であり、天才の孤独であり、王の孤独であったり。そういった「孤独」がこの映画のテーマになっているのだ。いちおうラストは「仲間」を得るというハッピーエンドとなっているが、それはこれを「娯楽作品」としなければならなかったからであり、だが実際は、ハニーはこれから永遠の孤独を絶え間なく感じていかなければならない。それは、「生きるフィギュア」としての佐藤江梨子の孤独であり、アニメと実写を漂う天才映像作家・庵野秀明の孤独と重なる。 孤独を感じないため「中身のない会話」が必要だったり、孤独を忘却するために衣装チェンジが必要だったり、孤独が入り込まないようテンポは速く、「間」は極限までに詰められねばならない。 なるほど、きっと「仲間」は去っていく。最後に残るのは、猫と「掃除のおばさん」だけかもしれない。

04.06.20 Sun XHTMLとCSS

7月にまたまたHPデザインをリニューアルします。今回は外見も大幅に変えますが、もっとも重要な変更点はHPの言語をHTMLからXHTMLに変えることです。それにあたってスタイルシート(CSS)も導入します。「アクセスのしやすさ」や「利用しやすさ」がWebsiteに求められているから、ではありませんが、まあ、ほとんど自己満足ですね。ちょっとしたWebデザイナー気分です。でも、かなり腐心して制作しておりますので、お楽しみに。コンテンツや内容はほとんど一緒です。デザイン、言語を一新したら、もっとも大事な「中身」を充実させていきたいですね。やっぱ、文章のクオリティが一番大事ですから。そして、一番難しいのですが…。

04.06.18 Fri ナインティナイン補論

以前も書いたが、ダウンタウンやビートたけしなどが、「語られる」存在であるのに対して、ナインティナインは決して「語られない」(あるいは「語る価値のない」と言う人もいるだろう)存在なのであり、だからこそ、ナインティナインは「純粋」な「テレビ」の「人気者」なのだ。そして、現在浮いては沈んでいくあまたの「人気者」の源流なのだ。

04.06.17 Thu 眠らずに朝が来た。

前半気張ったせいか、最近、文章が書けません。いろいろと話題はあるし、断片的には書いているのですが…。
しばし充電を。
数少ない雑感雑文ファンの皆様、しばしお待ちを。

04.06.15 Tue エンターテイナーの素質

「いろいろなことについて他の人々が飽きるよりも早く飽きることが必要なのです。」

GUCCIの元クリエイティブディレクター・トム・フォードの言葉(『BRUTUS』2004.6.1号P.036)

04.06.14 Mon 圧倒的「他人」

学生たちが「中身のない会話」をしているのを聞きながら、くだらないなあと思っていたら、突然気づいた。彼らは、「中身のない会話」というとてつもない高度な現代日本サバイバル術を身に付けているのだ。「中身のある会話」をしたがるタイプの人間が生き苦しく、人生や社会からリタイアする可能性が非常に高いのに対して、「中身のない会話」という護身術を生得している者たちは非常にタフに現代日本を生き抜く。そういった「天才」たちを前にすると、インテリコンプレックスの私が必死で読んだ本の知識などを以て、彼らと渡り合おうとしても、端から勝負にならない。「会話」は成り立たない。だから、彼らは、私にとって圧倒的他人なのだ。

04.06.13 Sun 『ラブ&ポップ』庵野秀明

向井秀徳の歌詞がそうであるように、庵野秀明の作品には「子供の喜び」が満ちあふれている。例えば実写初作品『ラブ&ポップ』なんかは、初めてデジタルビデオカメラを手にした「喜び」が滲み出ている。あらゆる角度から、あらゆる撮影方法に挑んでいる、ああいった感じのことだ。この「喜び」を「喜び」のまま作品に仕立て上げることができるから、庵野秀明や向井秀徳は天才なのだ。そういった才に恵まれていない秀才や凡才は、その「喜び」に搦め取られて、作品を作品に仕上げることができない。経験を積み、技術を磨き、せいぜい「ウェルメイド」と言われるような作品を作るのが精一杯なのだ。最近多いでしょ、器用で「よくできている」だけの作品が。ま、私のように「ウェルメイド」にすら達していない輩は問題外ですが。

04.06.09 Wed レニー・クラヴィッツ試論

■レニー・クラヴィッツ『Where Are We Runnin’?』のPVをMTVで見た。これを見ながら、最近気になっていたロックとサムライ(あるいはブシドー)の妙な親和性とでもいうべきものについて、ぽつぽつ考えた。
■PV『Where Are We Runnin’?』は、ロックスターであるレニーが「朝起きて、ライブ会場に向かい、熱唱し、楽屋に戻る」という『ロックスターの「日常」』とでもいうべき姿を描いている。レニーが泊まっているのは豪華なホテルの部屋だし、そこでは昨晩、宴が繰り広げられていたのがわかるし、美女とバンド仲間を引き連れつつホテルを出ると、そこにはマスコミやらファンやらが待ちかまえていてレニーはSPに守られながら高級車に乗り込み、騒乱の中、車の窓ガラスが割られてしまうという「ハプニング」が起こりつつもレニーは寸でのところで被害を免れ、エアポートに到着するとそこには専用ジェット機があり、再びその中で飲めや歌えの乱痴気騒ぎが繰り広げられるし、ライブでは熱狂的ファンたちが大盛上がりだし、楽屋に戻るとふと静けさがレニーを包んだりするしで、「これぞロックスター」と言わんばかりなのである。もちろんPVはフィクションである。だから実際レニーがこのようなロックスター的日常を送っているのかどうかはわからない。少なくともこのPVでは、現実のロックスターであるレニーが、「カリカライズされたロックスター」あるいは「ロックスターのパブリックイメージ」とでもいうべきものを演じてみせるというのが、その主旨なのだろう。
■『Where Are We Runnin’?』のPVと同じ日に、今度はヒップホップスターであるエミネム率いるD12というラップグループのPV『My Band』とそのメイキングを見た。D12は、スーパースター・エミネムの存在によって「エミネムのグループ」と揶揄されており、ゴシップ的にはグループ内の不和が期待されている。もちろんメンバーはそんなこと否定しているが、それを今度はPVの中で本人らが演じてみせているのだ。エミネムは常に「女と酒」を独占し、移動も高級バス、楽屋も超豪華、なのにその他のメンバーは、ボロ車に不潔で狭い楽屋、といったように。ここでも、ロックスターと同じように「ヒップホップスター」が演じられている。
■以上のような、世間が抱くイメージを過度に誇張したようなPVというのは、まあ、それほどめずらしいものではない。言うなれば、「ほっかむりに唐草模様の風呂敷」的「ドロボー」を、プロの、実際はスーツで空き巣をやるような泥棒が、演じてみせるような、そんな気分なのだろう。
■ただ、素朴な疑問として浮かんだのは、「なぜロックスターであるレニー・クラヴィッツは『ロックスター』を演じなければならなかったのか?」同様に「なぜヒップホップスターであるエミネムはゴシップの期待する『エミネム』を演じなければならなかったのか?」ということだ。問題を「ロック」に絞るために、エミネムのことは省くとして、レニーのPVに限らず、様々な場面で、なぜロックをやる人たちは過剰に『ロック』(あるいは、ロック的なもの)を自己演出するのだろうか?
■そういった疑問・違和感を抱くと同時に、それと相似形をなす疑問・違和感が浮かんでくる。それは最近じわじわと、だが確実に流行しつづけている「サムライ」とか「ブシドー」についてである。
■マンガ『バガボンド』、そして映画『ラストサムライ』によって、いまや完全に「サムライ」とか「ブシドー」は再び日本人の(特に若者の)アイデンティティになったと言える(たぶん)。少なくとも以前より、「サムライ」とか「ブシドー」と言ったときの「半笑い度」、「なんちゃって度」は減ったのではないだろうか。最早、「ブシドー」と言ったとき思い浮かぶのは、「武士道」ではなく、トム・クルーズが言う「BUSHIDO」であり「ブシドー」ではないだろうか。あるいは「侍」ではなく「SAMURAI」そして「サムライ」なのではないだろうか。「宮本武蔵」も、「剣を持った桜木花道」としてイメージされているのではないだろうか。
■『バガボンド』一つを以て、これで、これによって、「サムライ」が若者のものになった、と言うつもりはないが、一つの象徴的な決定打ではあったのではないだろうか。原作である吉川英治『宮本武蔵』はひとまず横に置いておくとして、井上雅彦『バガボンド』及び『スラムダンク』について簡単に分析すると、どちらも少年マンガの王道でもある「不良」の物語であることがわかる。実はナイーヴで純粋な「不良」が、コレというもの(バスケや剣)に出会うことで、真剣に生きはじめる、という、言うなれば不良成長物語なのだ。
■なるほど、バスケやサムライが、「不良の物語」を通して若者に受け入れられたのだ。ところで、バスケやサムライよりも前から、不良の物語で欠かせない「コレというもの」、それが「ロック」だったのではないだろうか? そう、ロックは不良の音楽であり、不良のものだった。
■ただ、ここで注意しなければならないのは、すでにロックも不良も、そしてサムライも、真剣にやってしまえばギャグになってしまうということだ。だから、ロックや不良やサムライをやるときは、その演者自身が、すでに一度カリカライズされた姿を再演してみせなければならないのだ。つまり、予め「ギャグ」としてやってみせることで、本当のギャグになることを封じているのだ。(しかし、現在では、ギャグとしてやってみせるかっこよさにみんな気づいていて、それが、かっこわるい感じもある)。
■すでに、「武士道」は消えサブカルチャー化した「ブシドー」になった。「ロック」も「ポップス」に吸収されてしまった。
■またどちらも日常的な行動様式や発言、思想、考え方などを規定する「スタイル」である。身体的には、ギターと刀を携えてる感じが似ている。(未完)

04.06.08 Tue PL法概論

課題
ある企業(A社)の製造・販売した商品に欠陥があり、そのため余計な出費を余儀なくされたとして消費者から損害賠償を求める訴えが起こされた。ただしA社は、品質管理等について製造物責任を問われるような重大な過失ないし注意義務違反はなかったと判断しているという。
どのように対応したらよいかA社から相談をもちかけられたとして、君たちなら、どのように助言するだろうか。講義内容および「昭和電工トリプトファン事件」についてのビデオを参考にし、また、A社の営業活動している範囲が日本国内だけの場合とむしろ、アメリカが主である場合に分けて答えよ。

課題に応える前に
■まず課題の主旨を明確にするために、課題文を上記のように転載し、質問にあたる部分(=わたしたちが答えなければならないことを最も直截に表したと思われる部分)を「強調」した。
■次にこの課題について、学生としての素朴な疑問を記し、その疑問を検討した上で、担当講師が「本当に訊きたかったこと」を推測する。そして、その推測によって導き出された「本当の課題」について応えることにする。

課題についての素朴な疑問
まず前提条件(第1パラグラフにあたる部分)である状況設定が甚だ抽象的であり、多分に課題回答者である学生らの想像力によって補完されなければならないものとなっている。具体的にはA社というのがどういった規模のどういった業種の企業であるのかが全く不明である。続いて、必然的にA社の製造販売しているという商品がいったいどういった類のものなのか、その欠陥とは如何なるものだったのか、それらすべてが全くもって不明である。その暗中にあって、さらに「相談をもちかけられたとして」という荒唐無稽な状況設定が課題回答者らにさらなる困惑を与えずにはいられない。授業などから推測するに恐らくこのA社というのは株式会社であり大企業――それも営業活動が「アメリカが主」であってもおかしくないと考えると授業で取り上げられた昭和電工、ファイアストン、マクドナルドなどが仮想されていると考え得る。
仮に以上のような大企業だとして、その大企業が2流大学の一経済学部生でしかないわたしに「相談」をしてくるわけはない。万が一、相談されたとして、わたしは「いくらわたしが、『企業から見たPL法』という授業を履修し、そこで製造物責任法やそれに関する損害賠償事件のケーススタディを勉強したからと言って、貴社の受難を解決するような『助言』をする能力は持ち合わせていないし、また、『助言』をしたことによる法的、道義的責任を取ることはできないので、その『相談』されたということ自体をなかったことにしては頂けませんでしょうか。それでも、なお、わたしから何か『助言』を引き出したいとすれば、わたしは『弁護士なりなんなり、PL法訴訟に詳しく実績を積んだ優秀な専門家にご相談ください。わたしと違って高額な費用請求は否めませんが、必ずやわたしよりも有益な『助言』をしていただけるに違いありません。是非ともそうなさってください。これがわたしにできる最大限の『助言』でございます』と『助言』するだろう」
逆に、それが零細個人企業を営む無知な経営者ならば、わたしはまず「PL」の意味から説明し、なぜそういった製造物責任が重要であるのかを現在の消費社会に至るまでの歴史的変遷を説明しつつ、訴訟などが起こった場合、それが敗訴に終わった場合などの経済的損害が莫大であることを延々「授業」しなければならないだろう。 と、ここまで屁理屈を捏ねたが、長年の大学生活から推測するに、恐らくこの課題は、「製造物責任について勉強したけど、どれくらい理解したかな? 授業の習熟度を測るためにも授業で使った資料を駆使させ、それについて答えさせよう」ぐらいが妥当な線だと思う。
以上を踏まえ、表面上正規の「課題」に答えてるふうを装いつつ、もう一つの「裏課題」についても同時に答えていくとする。

以上、『大学6年生のための正しいレポートの書き方』(珍文社刊/能田倫之助著)より抜粋

04.06.07 Mon 深夜ラジオ試論

■深夜ラジオについて語りたいのだが、前もって言っておくと、私がほぼ毎週欠かさず聴いているのはTBSラジオ『月曜JUNK伊集院光深夜の馬鹿力』とニッポン放送『ナインティナインのオールナイトニッポン』だけであり、それ以外ではTBSラジオ『火曜JUNK爆笑問題カウボーイ』(以上、どれも各曜日深夜1時から放送中。ちなみに深夜1時(前後)がラジオの「ゴールデンタイム」であると私は思っている)をたまに聴くぐらいで、これから論じようとする<深夜ラジオ試論>とはほとんどそれらの番組を聴いた経験からのみ語られており、よって極めて偏狭なものになる可能性が高いことを予めご了承いただきたい。

■と、言いつつも、多少普遍性のある論を展開できるのではと期待している部分もあり、どういうことかというと、前出の『ナインティナインのオールナイトニッポン』(以下、『99』と表記する)は深夜ラジオの代名詞的存在『オールナイトニッポン』において現役パーソナリティとしては断トツの最長番組であり今年で10年目を迎えている。また『オールナイトニッポン』のライバルであるTBSラジオのJUNK枠において『月曜JUNK伊集院光深夜の馬鹿力』(以下、『馬鹿力』と表記する)もまた断トツの人気を誇り、聴視率調査において『馬鹿力』は裏番組を抑えて常にトップを誇っている(らしい)。つまり、この現在の深夜ラジオ界において人気を二分する『99』と『馬鹿力』を比較しつつ語ることは、何かしらの意味があるのではないかと思うのである。

■両番組のパーソナリティであるナインティナインと伊集院光という「タレント」はあらゆる面で非常に対照的である。まずナインティナインは高校時代のサッカー部の先輩と後輩が卒業後コンビを組み、吉本興業の養成所であるNSCに入所、漫才コンクールなどで優勝しテレビに出演しはじめるという、ダウンタウンがやってみせた一つの漫才コンビ出世街道(あるいはNSC的出世街道?)の王道を歩んできたと言える。そして、彼らが公言するように、初めから「テレビに出たいから」芸能界に入ったのであり、現にテレビタレントとして人気を博している。そういった意味で、彼らは完全なる「テレビタレント」なのである。また、現在タレントと呼ばれる人たちはほとんどテレビタレントであると言える。一方で、伊集院光は、その出自を落語に持ち、その途中からラジオパーソナリティのオーディションで合格し、しばらくの間ラジオと落語を掛け持ちしたあとで落語家を廃業し、ラジオ一本に絞っている。現在、情報バラエティ系のデブキャラゲストやテレビ東京のスポーツ番組のメイン司会をやるなど、最早テレビタレントとしての伊集院光も定着してしまったとはいえ、やはりそれらは彼にとっても彼のファンにとっても「仮の姿」でしかなく、彼はどこまで行っても「ラジオの人」であり、テレビタレントに対抗して言うならば「ラジオタレント」と呼ぶべき存在なのである。また、彼のようにラジオで人気を博したのち、テレビに進出し成功したタレントは現在皆無なのではなかろうか。昔で言う兵藤ゆきとか、最近では山寺宏一(おはスタの)がそれに近い気もするのだが、浅学なためよくわからない。

■テレビとラジオを比べたとき、どうしてもラジオは「映像のないテレビ」的な印象があり、テレビの下位メディアとして位置づけられているようなところがある。しかし、実際にラジオを日常的に聴いていれば、その独自の機能や特性がテレビとは違う役割を果たしていることにも気づく。ドライバーのための交通情報や災害時の緊急情報などを提供するという機能があり、またパーソナリティとリスナーのハガキによるやりとりなどに代表される「ラジオならではの良さ」という特性がある。とはいえ、やはりマスメディアとしてのパワーはテレビが圧倒的であり、現在、深夜ラジオなどで人気を博しているパーソナリティがほぼすべてテレビタレント(あるいは、それに準ずるミュージシャン)である。逆に伊集院光のようにラジオタレントでありながらテレビで活躍している人はいない(と思う)。つまり、現在の多くの深夜ラジオ番組は、テレビタレントとしての知名度を活かしたラジオ番組であり、そのタレントのファン向けに、テレビでの人気を補完するため(あるいは、地固めするため)の副業的ポジションにあると言える。よってラジオとして独立したおもしろさを保持している番組はほとんどなく、アイドルやミュージシャン、または芸人でさえ、そう長くは続かない。ラジオの基本的なおもしろさは、パーソナリティのトーク力(しゃべり)にかかっている。これまでビートたけし、タモリ、とんねるずなどテレビタレントとしてずば抜けた実力を持っている者だけが、ラジオでも人気を博した。逆に言うと、ラジオでも通用する本物のトーク力を持っていなければテレビで天下は取れないということかもしれない。

■以上、大雑把にテレビとラジオの力関係に関して私見を述べたのは、ナインティナインと伊集院光(のタレント性及び、そのラジオ番組)の対照性が、このテレビとラジオの関係に根ざしていると思ったからである。先ほどナインティナインを「テレビタレント」、伊集院光を「ラジオタレント」として対照的に定義したが、そこから派生するいくつかの対照的な特徴が他にもある。単純にまず@コンビとピン:ナインティナインはコンビであり、必然的にラジオでも二人でトークすることになる。一方、伊集院光はピンであり、基本的に一人しゃべりとなる。Aテンションの高低:ナインティナインは、テレビに比べラジオが「テンション低め」であり、伊集院光は逆にテレビでは「抑えている」がラジオでは恐ろしいくらいの「テンションの高さ」がある。それぞれ、テレビタレントでありラジオタレントであるという出自があるため、必然的に「本業」の方がテンションが高くなってしまうのだろう。しかし、どちらもラジオの方がより「素」に近い(とリスナーは思っているし、本人らも認めている)。B番組への力の入れ具合:ナインティナインは基本的にだらだらとやってきて、トークをし、ネタハガキを読み、スペシャルウィークには誰かしらのゲストを呼ぶという、ビートたけし・とんねるずがやってきた深夜ラジオの王道を継承していると言える(たぶん)。あるいは、それ以上の(めんどくさい)ことはしないとも言える。一方、伊集院光は、コーナーごとの音楽に凝ったり、スペシャルウィークなどにはゲストに頼ったものではなく、独自の奇抜な企画を実践し、テレビ以上に労力を使っている(自分で編集もやったりしているようだ)。つまり、ナインティナインのスタイルはオーソドックスでシンプル(ただし、クオリティは高い)、伊集院光のスタイルは「ラジオの限界」に挑むようなアヴァンギャルドなものと言える。Cリスナーへの態度:確かに、番組への力の入れ具合は伊集院光が圧倒的に強いのだが、その番組を「聴くこと」と「ネタハガキやFAXによる参加」で支えているリスナーに対しては、彼は極めて淡泊である。『99』の場合、ネタハガキを送ってくる人々を「はがき職人」と呼び、ときに悪さをした者には「破門」を言い渡すなど厳しい部分もあるが、それも愛情の裏返しとしてである。また3ヶ月に一度「はがき職人大賞」を設け、「何枚読まれたか」という極めてシンプルで厳しい基準の下、ランキングを発表している。このはがき職人大賞で一位になった者は、引き抜かれて「放送作家」になる場合がある。送ってくる方も「放送作家志望」を宣言している場合が多く、『99』が放送作家への登竜門的役割も果たしている。一方で、『馬鹿力』ではネタを送るべきコーナーの扱いが雑で、トークのノリによってどんどん省かれる。また『99』では必ずコーナーの「終了」宣言が行われるのに対し、『馬鹿力』ではいつのまにかフェードアウトというパターンが多い。他にナインティナインはネタハガキの文面を弄ることはしないが(ネタハガキを一個の作品として尊重している)、伊集院光はコーナーによっては他のハガキとくっつけたり、「リライト」を施したりする(伊集院光的「おもしろさ」の追求が最優先。別にネタハガキを軽んじているわけではない)。はがき職人に対する言及も圧倒的にナインティナインの方が多い。言うなれば、ナインティナインはリスナーに対して仲間意識を持った「兄貴」的存在であり、伊集院光は「おもしろさ」をひたすら追求する求道者的であり、リスナーから見れば仲間というよりははるか彼方にそびえ立つ「カリスマ」的存在なのではないだろうか。ただしどちらもリスナーに対しては「愛情」を持っていると思われる。

■以上が、今のところ思いつく、両パーソナリティの対照的な点である。ここでふと思うのは、ナインティナインが「テレビタレント」であり、伊集院光が「ラジオタレント」であると何度も繰り返し述べたが、そのラジオ番組においては、ナインティナインの方が、ネタハガキ及びはがき職人を大事にする点などでより「ラジオ的」であり、伊集院光はスペシャルウィークの「企画」で勝負する点などむしろ「テレビ的」な印象を受けるということである。また本来、テレビタレントがラジオ番組を持つ場合、ラジオの方が副業的であると述べたが、最近のナインティナインにおいてはそれが逆転しつつあるような印象を受ける。どういうことかというと、ナインティナインのそれまで「若手」っぽさを利用した身体を張った「企画」で番組をやってきていたのが(『ぐるナイ』『めちゃイケ』『ナイナイナ』)、二人が30歳を越えた辺りから、ゲストを迎えた「トーク」番組に移行しつつある(『ナイナイサイズ』『ぶっちゃけ!99』)ということである。それはポジション的にも体力的にも身体を張ったものはやりにくくなり、息長く番組を持つにはやはり「トーク番組」(司会業)を成功させなければならないという必然的な流れの上でなのだが、それらトーク系の番組がむしろラジオで培ったものを継承しているようなのだ。テレビタレントを本人らも望み、成功したナインティナインだが、現在眺めてみると、実はこのラジオ番組『オールナイト』が最も長いレギュラー番組になってしまっているのだ(たぶん。ぐるナイもけっこう長いが…未調査)。例えば『ナイナイサイズ』のオープニングトークなどは、岡村自身がラジオで「この話は、ナイナイサイズにとっとこ」と言うぐらいに、ラジオのフリートークと同質のものなのだ。他に『ぶっちゃけ!99』などでのゲストトークもラジオのスペシャルウィークでのゲストトークの延長上にある(人選とかも)。またそういった番組の質的なものの他に、「人気」という点においても、実はラジオが支えているのではないかと推測する。ぶっちゃけ、ナインティナインのトーク番組はそれほどおもしろくない。『ディスカバ!99』が短命に終わったのも、彼らのトーク番組がまだまだ暗中模索であることを表している。一般の人々はきっとナインティナインをそれほどおもしろくないと評価しているのではないだろうか。事実そういう声はよく聞く。そのおもしろくないナインティナインを支えているのは長年のラジオ=オールナイトファンなのではないだろうか。勝手にそんなことを思うのだが…・。テレビタレントであるはずのナインティナインがラジオに恩恵を受けつつある(ように見える)のに対し、ラジオタレントである伊集院光は最近テレビ番組への進出が目覚ましい。まあ前々からテレビモードとラジオモードを器用に使い分けることで、使いやすいタレントとして重宝がられてきたわけだが、テレビ東京でスポーツ番組(『スポーツ魂』)を持つに至って、伊集院光のこれからの「テレビタレント」としての新しい方向性を決定付けたのではないか、そんなふうに思うのだが…。

■以上、甚だ憶測めいてはいるが、ナインティナインと伊集院光がテレビとラジオの世界において「クロスカウンター」的対照性を描いていることを述べた。ここからは、両パーソナリティの共通点を指摘し、そこから「深夜ラジオ」の普遍的役割・機能について述べたいと思う。『99』と『馬鹿力』に共通するもの、或いは、深夜ラジオすべてに共通するものを、キーワード的に思いつくまま並べてみるなら、「童貞」、「オナニー」、「モテない」、「仮性包茎」、「下ネタ」…そういった類の言葉が思い浮かぶ。基本的にリスナーは男性であり、思春期または思春期を引きずった大人と想定される。そういった「中2」的リスナーが深夜、自室で、こっそり聴く。それが深夜ラジオのパブリックイメージではないだろうか。その際、醍醐味はなんといっても「下ネタ」である。これはミュージシャンが深夜ラジオをやる場合に過剰になる部分でもある。福山雅治などが、ラジオにおいて過剰に「エロ」を強調するのは、それが端から避けて通れないものであり、自らそれに突き進んだ方が、ラジオ番組的にもまた己のタレント性の幅を持たせる意味でも「有効」だからである(ま、それがウザいんだけど)。とにかく、深夜ラジオに「下ネタ」は不可避なのである。

■ナインティナインの岡村隆史と伊集院光に共通するものは、一言で言えば「童貞っぽさ」である。二人ともセックスした/してないの基準から言えば、所謂童貞ではない。伊集院光に至っては結婚さえしている。しかし、重要なのは、伊集院光がみうらじゅんとの共著『D.T.』でも指摘するように、精神的な「童貞っぽさ」なのである。先ほど、深夜ラジオのリスナー像は「中2」だと述べたが、つまり、中2的=思春期的人間が共感できてこその深夜ラジオなのだ。そもそもオールナイトニッポン的深夜放送の起源は、テレビがリビングに鎮座し家族で見るものだったころ、まだインターネットもケータイも存在しなかったころ、思春期的悶々を抱えた男子学生が夜中こっそり一人で聴くというものだったのではなかろうか。例えばオナニーしすぎると馬鹿になるとか、性にまつわる迷信や憶測が飛び交う中、ラジオのパーソナリティの「下ネタ」的トーク・情報から、様々な発見や共感があったのではないだろうか。仮性包茎で悩む男子学生にとって、いい大人の岡村や伊集院が同じ包茎だと知って、どれだけ心強かったことだろうか。岡村隆史や伊集院光が30歳を過ぎてもまだ「中2」的なものを引きずっていることと、そのラジオ番組が長期間人気を博していることは無関係ではないはずである。斎藤環ではないが深夜ラジオとは「終わらない思春期」メディアなのである。もちろん現在、インターネットやケータイというメディアが、深夜ラジオが担ってきた役割を果たしつつあることはすぐに想像できる。しかし、やはり、ラジオはラジオとして存在意義があると私は思う。タレントが出演する「番組」という点でテレビ的であり、一人ないし二人のパーソナリティが一人しゃべりをするという点でエッセイ的(大袈裟に言えば、私小説的)であり、ハガキによる不特定多数の人間が参加できるという点でインターネット的であり、パーソナリティが仮想視聴者である(多くの場合)放送作家に対してしゃべっているのに対して、私たちが笑ったり、うなずいたり、共感したりしているという仮想対話が行われているという点でケータイ的である。また、たいていのラジオ好きは番組を録音し何度となくそれを聴いたりする。言わばBGMのようにエンドレスで流しっぱにするのだ。そういう意味では音楽的と言うこともできる。(以上かなり強引だが)ラジオは思春期に不可欠な「個」的メディアの様々な特性を併せ持っているのである。そして、そのパーソナリティは終わらない思春期を引きずった成熟しない大人でなければならないのだ。それを地で体現しているナインティナイン(岡村隆史)と伊集院光がラジオにおいて絶大なる人気を長年保っているのは、至極当然なことなのである。

(…ふう。なんだか超大作になってしまいました。ほんとはもっともっとラジオの歴史的変遷とか詳しく調べて書きたいんですけど、まあ、とりあえず「試論」ってことで)

04.06.06 Sun ブリトニー・スピアーズ試論

好きな女性のタイプは?と訊かれたら迷わずブリトニー・スピアーズと答えて早5年が過ぎたが、アヴリル・ラヴィーンの台頭によって、珍奇な「音楽性」なるものをありがたがるスノッブな輩たちによって、ブリトニーの不良娘ぶり、トラブルメーカーぶり、スキャンダル女王ぶりが強調され、デビュー時のイノセンス的なものからセクシー路線に路線変更を遂げたと勘違いされているブリトニーについて、世界に冠たるブリトニーストーキング大国日本の中で、唯一の良心的論客と言われる私が、ここでもう一度ブリトニーの魅力の本質について語っておくことは決して無駄ではないと思い、筆を執ることにした(実際はキーボードを叩いてるだけだが)。

「ライク・ア・ヴァージン」とマドンナが歌ったときから、セックスシンボルたる女性は娼婦でありながら処女のような聖性とイノセンスを裡に秘め、あるいは娼婦を気取る処女のように振る舞わなければならないことが宿命付けられた。もはやマドンナとキスしてみせることで、「ブリトニーが」マドンナとキスしたことがワイドショーになってしまうことを証明して見せたわけだが、よく言われるように、ブリトニーのセクシーさというのはマドンナ的ではなく、むしろジャネット・ジャクソンのそれを受け継ぐものである。つまり、孤高の彫像としてお立ち台の上から男たちに拝ませるが如きマドンナの「セクシーさ」ではなく、中学のとき学年に必ず一人はいた早熟で不良っぽくて大学生と付き合ってるとか5千円でやらせてくれるとかいうゴシップが絶えないながらも女の子の中ではその大人びたセンスと豊富な恋愛(セックス)経験からまるでこの世の酸いも甘いも知り尽くしたような断片的発言によってカリスマ的立場にいる実はただ単に背伸びしただけの思春期の女の子的「コケティッシュさ」を武器にしているのであり、「ロウライズ・ジーンズ」に「ブラ・トップ」という「エロかわいい」格好を自らの定番とし、もはやティーンエイジャーの女の子とたちに「エロかわいい」という実はエロくもなんともない下品なファッションを定着させたことに、ブリトニーが実際セクシーでもエロくもなく、言うなればメタエロ的存在として、エロを無効化しつつ、感度の高い同年代の少女たちにはそれまで男子の需要供給ともに寡占状態にあった「エロ」の主導権を女子の側へ奪取してみせ、その時点でエロが無効になったにもかかわらず、元来女子に比べはるかに感度の低い男子たちはまだそれに気づかず、あいかわらず条件反射でブリトニーのパンチラPVに股間を熱くし、彼女を「世界一セクシー」と言ってしまうのだ。つまり、マドンナが美術館で観賞する「彫刻(=スタチュー)」であったのに対し、もっと手軽で自宅で観賞できる(つまり下から覗いたりも自由自在な、実用的な)「フィギュア」として自分を切り売りしていることは、『TOXIC』のPVでスチュワーデスを演じるブリトニーが過度にコスプレ的であることからも明らかである。それまでセクシーさがかっこよさに結びつくことは度々あったし、「セクシーかっこいい」は女優やアーティストの定番となっているが、ブリトニーがマドンナともジャネットとも違うとすれば、セクシーさではなくエロさを、そしてエロさだけではなくそこにかわいさを付与したこと、これによって男子から見ればエロい存在、女子から見れば(エロ)かわいい存在として「人気」を保つことができる、そういったコンセンサスを確立したことに彼女のすごさはある。よって、脱ブリトニー、脱アイドルとしてセクシーさもエロさも排除し、パンク、ロックという完全に男性的なものをオリーブ的身体でシャウトする「音楽的才能」を持ち合わせたアヴリル・ラヴィーンもやはりブリトニーのあとに現れるべくして現れた新しい「女の子」のスタイル(=「かっこかわいい」とでも言うべきか)という点では、結局二人とも「アメリカ娘」でしかない(アヴリルの出身はカナダだが)。橋本治が指摘するように「人気者」の類型は3種類しかなく、つまり、クラスでのポジショニングで言うところの「なんでもできる優等生」、「さみしさを裡に抱えた不良」そして、優等生にも不良にも収まらない独自の感性を持った「変わり者」しかないのであり、先日アヴリルが批判したヒラリー・ダフを加え、ヒラリーが優等生、ブリトニーが不良、アヴリルが変わり者とそれぞれに「人気者」の類型に収まりながら相互補完的にアメリカ娘を演じ分けているのだ。ただどちらもアメリカ娘特有の「我の強さ」と「早熟さ」という点においてはまったく同質のものを備えており、近い将来意気投合する可能性も多分にある。そしてアヴリルが過剰にブリトニーを意識し批判しているのは、やはりその「才能」を畏れるからである。結局彼女の「音楽的才能」ですら、ブリトニーのそれらを内包し、はるか彼方まで拡がる「エポックメイキング」な「人気者の中の人気者」的才能に比べれば取るに足りず、予め彼女は敗北を感じ取ってしまっているのだ。言ってしまえば、アヴリルは音楽の天才であり、ブリトニーは「女の子」の天才だったことになる。と、いうわけで、私はあいかわらず彼女のかわいさとエロさのみに個別に素直に反応してしまう(つまり、その二つの融合した「エロかわいさ」を理解できても反応できない)哀れな日本男児としてブリトニー・スピアーズが大好きというわけだ。

(んなわけねーじゃん。)

04.06.04 Fri 『地球はたぶん球体じゃない』

■いまやってる森山直太朗のツアータイトルは『地球はたぶん球体じゃない』というらしい。なんでそんなタイトルにしたのか寡聞にして知らないが、最近私がぼんやり思ってたことと近い違和感に基づいてるような気がして、ちょっと気になった。

■保坂和志が「人間は、地球が丸いと知っていても、それを実感することはできない」みたいなことを言っていた。なるほど、そうだと私も思う。その昔は、地球は平らだと思われていたようだし、象と亀が平らな地球を支えているような想像図なんかは見たことある人も多いだろう。あるいは天動説みたいに、地球を中心に宇宙が回っていると思われていたこともある。実際はコペルニクスが唱え、ガリレオによって証明されたように、太陽の周りを地球が回っているという地動説が正しい。他にもそれまで「神の子」と思われていた人間が、ダーウィンによって「猿から進化した」と言われ、みな大いに驚いたこともあった。

■教師や説教したがりのオヤジなんかがよくこの辺の「科学的に正しい」意見を叩き台に、「人間とは」「人生とは」みたいな話をしてくる。「人間も猿から進化した動物に過ぎないのだから、あまり傲ってはいけない」みたいな。

■そういった感じの話で、チンパンジーと人間の遺伝子上の違いはほんの数パーセントしかない、みたいな話を聞いたことはないだろうか。「人間」という生物がそれほど特別ではないという訓話につながりそうな「科学的」事実だ。ところが、最近<遺伝子>チンパンジーとヒト、違い8割以上という見出しのニュースがあった(※)。この記事や関連の記事を読んでも、理系に疎い私は「?」が頭に浮かんだだけで、「よくわからんが、これまでチンパンジーと人間の遺伝子の違いは5%だと思われていたのが、実は80%以上あったんだな」とかなり大雑把にしか理解できない。果たしてこの理解で正しいのか、かなり不安である。だが世の人々の多くも同じような理解度ではないだろうか。

■現代はよく言われるように「科学」の時代である。「科学的に正しい」と言われれば私たちはたちまち反論のしようがなくなる。そして実際、科学とは正しいものだと信じている。だが、気をつけなければいけないのは、チンパンジーと人間の遺伝子上の違いが何パーセントかということと、人間という生物がどうあるべきかということは関係がないということだ。「科学的に正しい」事実を元に「人間とは」「人生とは」「世界とは」を語るとき、ほとんどの場合、その「〜とは」を語りたいがために、その論理的根拠として私たちが絶対に反論できない「科学的」事実を引っ張ってきているだけなのだ。しかもその「科学的」事実は何かの拍子に間違いだったことになる。

■チンパンジーと人間は8割以上違います、と言われなくても、人間とチンパンジーはだいぶ違うことぐらいわかる。逆にカブトムシと犬とチンパンジーを比べれば、まあ人間に近いのはチンパンジーかな、ぐらいのことは思うだろう。また、地球は丸いと言われても、宇宙から地球を見た映像でも見ない限りピンとこないし、昔の人が平らだと思っていたことも別にそれほど不思議だとは思わない。

■私たちは「実感」するまえに「情報」として「科学的正しさ」を与えられてしまっている。そしてそこから陳腐な「教訓」を導き出す。私は、「地球は平らだ」とまず言うことが大事なのではないだろうかと思う。そして、地球が平らだと信じていたのも人間ならば、宇宙から眺める前に丸いと気づいたのも人間なのだから、いつか「丸い」と気づく日があればそれでいいし、一生「平ら」だと思い込んでてもいいのではないかと思う。

■いや、やはり、「科学的」に「正しい」事実の積み重ねによって、現在の人間の生活はあるし、やっぱり科学は正しいのだろう、と思う。ただ、言いたいのは、その「科学的正しさ」を武器に何か人生訓みたいなことを語るやつは信用できないということだ。科学万能、情報過多の時代だからこそ、一度自分の卑小で不確実な「実感」を確認してみるのもいいのではないかと思ったわけだ。「地球はたぶん球体じゃない」と言ってみるのも、けっこう大事なのではと、勝手に思ったわけだ。

※http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20040527-00002145-mai-soci

04.06.02 Wed NUMBER GIRL試論 [2]

■三田誠広は小説の書き方を書いた本の中で、小説を書く際に「孤独」という言葉を使わずに書いてみましょうみたいなことを書いていた(昔、立ち読みしただけだから、記憶が曖昧)。似たようなことで、小学校のころ、教師が国語の時間かなんかに教壇の上のバラを指して、このバラの美しさについて「美しい」という言葉を使わずに表現してみましょうと言ったことがあった。私もその課題にチャレンジしたが、他の皆がそうであったように、つい「美しい」と言ってしまいそうになり言葉に詰まった。

■もし、「孤独」という言葉を使わずに孤独について表現できたり、「美しい」という言葉を使わずに美しさを表現できることが、言語表現としてより優れているとされるならば、向井秀徳の書くリリックは決して上手いものとは言えないだろう。むしろ、あからさまであり、「孤独」という言葉だけで孤独を表現しているような、語彙の少なさを露呈しているような、そんな印象を受ける。

■例えば、殺風景。例えば、冷凍都市。例えば、記憶&妄想。他にも「性的少女」とか「思い出」とか「透明」とか、特に同じアルバムの中の曲だと、同じ言葉やフレーズ、またはそれの変化型が使い回されている印象を受ける。私自身に限って言えば、いままでそういった歌詞の書き方をしたアルバムなんかを聴いたことがなかったので、たいへん新鮮だった。

■例えば「性的少女」というのは曲のタイトルだが、その曲の歌詞の中はもちろん、その他の曲の歌詞の中でも何度か使われている。この言葉は、大江健三郎の小説『性的人間』から想を得たと、向井秀徳自身が語っているが、私自身も高校生のころその本を見つけたとき、少なからぬ衝撃を受けたのをはっきり憶えている。内容も何も知らないうちから、ただ背表紙に書かれた『性的人間』という文字を見ただけで、向井秀徳もそう思ったように、「それは自分だ」と思ったのだ。健全な若い男子ならば、自分が性に搦め取られていることに辟易してしまう時期が必ずあり、それを経験したならば、この言葉には必ず何某かの衝撃を受けるはずである。

■この場合、実際の『性的人間』という小説の内容は問題ではない。普通に本屋を歩いていて、文庫の棚を眺めていたら、その言葉に出会ったというのが重要なのだ。熱心に求め探したあげくの言葉ではない。この情報過多の時代の中で、ありふれた言葉だったからいいのだ。なぜか? ありふれているから、特に探究心の強くない私や向井秀徳でも出会えたのだ。ありふれた言葉にこそ、もっとも衝撃力は宿っているし、よくよく考えれば衝撃力があるからありふれているのだ。そのありふれた言葉に素直に衝撃を受けることは、一つの才能である。なぜなら、知識肥大のインテリや、インテリに憧れる凡人には絶対にそういった素直さがないからである。

■見方によっては、向井秀徳の歌詞は、語彙に乏しく拙いのかもしれない。しかもその言葉の出自がすぐにわかるような(例えば、「桃色、青に変わって」とか→ピカソの「青の時代」「桃色の時代」を想わせる)ものが多い。しかし、いや、だからこそ、その言葉を「発見」した向井秀徳の素直な衝撃がそのまま「歌」に溢れ出ているのではないだろうか。何かそれは、幼児が、新しい言葉を発見し、繰り返し繰り返しそれが血肉と化すまで口にし続ける様子を思い起こさせる。

■私はいまでも「興奮」という言葉を初めて知ったときのことを憶えている。初めて打ち上げ花火を見に行った夜、私は眠れなかった。目が冴えて、鼻息も荒かった。その様子を見た祖母が、それは「興奮している」と言うのだよ、と教えてくれた。もちろん、すぐさま自分の状態と「こーふん」という言葉が結びつくわけではなかったが、頭の中では「こーふん」という声が何度も木霊していた。確かに「興奮」という言葉はありふれているし、誰でも知っている。しかし、それが、「興奮」という言葉が「興奮」を表現するに足りないことにはならない。もし「興奮」という言葉に新鮮さがないとしたら、それは私たち自身の「興奮」が色褪せているだけなのだ。

■「孤独」という言葉を使うか使わないかが問題なのではない。「孤独」を感じたことのない人間が「孤独」を表現しようとするから貧しくなるのだし、「美しい」と感じていないバラの「美しさ」を表現しようとするから、詰まってしまうのだ。本当に「孤独」を感じた人間が、ぽつり「孤独」と呟けば、否応ない「孤独」がそこに立ち現れるのだ。本物の衝動の前では、表現の巧拙や語彙の豊富さなどちんかすみたいなものなのだ。

■情報過多の時代よろしく気の利いたフレーズや言葉を寄せ集めた空虚な歌詞が氾濫するJ-POPにおいて、素直な衝撃→衝動によって溢れ出した言葉によって書かれた向井秀徳の歌詞が衆人の心を捉えたのは、至極当然なことなのである。

04.06.01 Tue 全戦全勝

つまり、「すべて勝つ」ということだ。