松田龍樹公式HP

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雑感雑文

日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。

2004年07月

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2004.07.31 Sat 最後の夏休み

と、いうわけで、2004年7月だって終わります。

明日から、私は学生最後の夏休みです。夏休みは、日系3世のカール・イザワさんによって戦後開発された日本最高の避暑地・軽井沢で、新作『フーコー・メイビー』の執筆に取りかかります。よって、松田龍樹による更新はありません。数少ない雑感雑文読者のみなさま、ご了承ください。

「私は極楽街を横切る。右足を水溜まりに踏み込んだので靴下が濡れた。散歩がはじまる。」ということで。

2004.07.30 Fri パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』

パオロ・マッツァリーノ『反社会学講座』(イースト・プレス)を読む。これはかなりおもしろいですよ。笑えます。もともとネット上に掲載されていたものの書籍化らしいのですが(いまも続いてます。検索すればすぐ出てきますよ)、やっぱネットか本か、媒体の問題ではなく、おもしろいものはおもしろいし、おもしろければネットで読んでも、また不思議と書籍で読みたくなるんですね。

個人的に腹を抱えて笑ったのは(どこもおもしろいのですが)、「第10回 ふれあい大国ニッポン」です。内容は、是非ご自分でお確かめいただきたいのですが、私が最近、大学のプレゼンテーションを学ぶ授業で感じていた違和感を、見事に言い当ててくれていて、痛快でした。

プレゼンテーションが上手いのと、中身が実のあるものかどうかは、別問題だろ? と私は常々思っていたのですが、2(3)流大学の学生(もちろん僕は2留大学生ですが)になると、ちょっとパワーポイント(©Microsoft)の扱いになれた人間のプレゼンだと、すぐその見かけに惑わされて「すごーい」の連発になります。でも、よくよく発表を聴いてれば、ほとんどHPからのコピペだし、自分の意見や独自の考察(視点)なんかは、やろうとすらしていない、まったくお粗末なものってすぐにわかる内容なんです。

ここの講義では、冒頭で「どうでもいいデータでも、見栄えのいい図表にすると意味ありげに見えるという、プレゼンテーションのテクニックを紹介」しています。是非、読んでください。最高です。

この本のモチーフでもある、「もっともらしそうなものを、疑う」という態度は、むしろ、大学のプレゼンの授業やなんかで教えるべきものだと思いました。パワーポイントの扱いなんて自分で勉強させて、どれだけ中身のない内容をもっともらしくプレゼンできるかコンテストをやった方がよっぽどおもしろいし、世の中で役に立つってものです。

いやーほんとに笑えました。中原昌也の新刊『待望の短篇集は忘却の彼方に』(河出書房新社)で「ああひと仕事終わった。さあこれから三回目の『刀』を読もう。」という文章を読んだときと同じくらい、笑えます。

(ユーモアを解する粋な男を演じてみました。いかがでしょうか? 『反社会学講座』はほんとにおもしろいし、一つの視点として大事だと思いますよ。たぶん。)

2004.07.29 Thu 認められない芸術家の戯言(長文)

私の誤解ならそれでいいのですが、私たちは、どこか心の奥底で、この世には唯一普遍の<真理>があるはずだ・あるのではないか・あって欲しい、そう思っているのではないでしょうか。たとえば、哲学、たとえば自然科学(物理とか)というものを考えるとき、それらは、ある<真理>を求めて、日々思索、研究している、そんなイメージがないでしょうか。

そういった<真理>についてのイメージと同じような気分で、芸術、芸術作品にも普遍的な価値がある・あるのだろう・あって欲しい、そう思っているのではないでしょうか。

たとえば、「ピカソの絵(のよさ・価値)がわからない」と言ったとき、その発言は暗に、「私には、ピカソの絵の価値がわからないが、きっとこの絵には芸術的価値があるのだろう・あるからここに飾られているのだろう・あるはずだ」という前提を踏まえているような気がします。

つまり、私たち(芸術の素人)が何か、ある芸術作品(あるいは、芸術作品っぽいもの)を前に、語り合うとき、暗に、個々の作品には普遍的な<芸術的価値>がそこに在る、という前提で語り合っているのではないかと、私は思うのです。

普遍的な<芸術的価値>とは、「社会的価値」や「商業的価値」と対比して考えるとわかるかもしれません。たとえば、ゴッホという人は、生前まったく認められなかったらしいのですが、死後、その作品は高く評価されました。私たちは、そういうゴッホの絵について思い巡らすとき、あたかも、「ゴッホの絵」は彼が死ぬ前から、(人が認めるか認めないかに関係なく)「普遍的」な<芸術的価値>を持っていたにもかかわらず、世の中の人々がそれに気づかなかった、というような前提を暗に持っている気がします。死後、ようやく、人々がその<芸術的価値>に気づいて「社会的価値」(=世の中の人々が認めること)や「商業的価値」(=売買される値段)が、<芸術的価値>に見合った分だけ付与されたのだ、と。

そういった、(時代や人々の意見に左右されない)普遍的な<芸術的価値>の存在があるとすれば、逆に、たとえば、ここに若い無名の画家がいたとして、彼の作品はまったく誰からも認められず、当然、誰もお金を出して買いたいと思わないという状況があったとしても、彼が「自分の作品は素晴らしいのに、世の人々がそれをわかってないだけだ!」という主張が可能ということになります。「あなたの絵は誰からも認められていない」「あなたの絵は一円の値も付かない」という「事実」は言えますが、「あなたの絵に芸術的価値はない」と言っても「いや、ある」と彼に反論されれば、芸術的価値のある/ないを客観的に立証することは誰にもできないのです。(「神」はいるか、いないかの論争に似てますね。)

もちろん、そういった前提ならば、「社会的価値」や「商業的価値」はあるのに<芸術的価値>がない作品も存在するでしょう。賞を取った作品や高値で売買されている作品を「クソだ」と言うことも可能なわけです。

また、あるいは、私たちが、ある芸術作品について「好き/嫌い」を言うときも、暗に<芸術的価値>を前提にしているような気がします。「(ピカソの絵は素晴らしいらしいが)(個人的には)嫌いだ」とか「(あの絵をみんなダメって言うけど)(少なくとも私個人としては)好きよ」とか、そういう発言のことです。この、(個人的には)「好き/嫌い」(もちろん、「好き/嫌い」とはもともと個人的なものですが)というのは、芸術作品を語る上で、特に素人にとっては、有効な語り方です。なぜなら、「好き/嫌い」に対しては、正しいとか間違ってるとは他人は言えないからです。またそれを否定しようとすれば、その人個人の人間性のようなものを否定することになってしまい、紳士的に振る舞おうとすれば、とりあえず「僕は好きじゃないけど、君がそれを好きというなら、その気持ちは認めるよ。ただし、<芸術的価値>については、また別問題だけどね」というのが精一杯です。

<芸術的価値>を前提としているからこそ、「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる人」というものも存在が可能になります。「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる」という権威が発生するのです。先ほど、<芸術的価値>と「社会的価値」「商業的価値」は必ずしも一致しないことがある、といった感じのことを書きましたが、タテマエとしては、この「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる人」が、その作品についての<芸術的価値>を判断し(そう、トートロジーです)、それに伴って、社会の人々が認め(社会的価値の発生)、その絵を欲しいという人が出てくる(商業的価値の発生)という手順を踏みます。これは逆は成り立ちません。じゃあ、「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる人」ってのは、本当に<芸術的価値>をわかっているのかというと、それは誰にもわかりません。しかも、「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる人」というのは、もともと「社会的」にそう認められたに過ぎないのですから。

究極、(ゴッホを見逃したように)<芸術的価値>というのは、誰にもわからないのです。だから「そんなものは、ない。あるのは、その時代時代の恣意的な社会的価値と商業的価値だけだ」と言い切ることだってできます。もしかするとゴッホの絵だって、たまたま現代で「社会的」に「商業的」に認められてるだけで、本当は<芸術的価値>なんてないのかもしれません(少なくとも、そう「言う」こともできる)。

さ、ここで大事なのは、「あるのかないのかわからない・少なくとも立証不可能な<芸術的価値>が《あるかのように》みんなが振る舞っていること」だと思いませんか? 繰り返しますが、たとえば、「(ある芸術作品が)値段が<高いから>価値があるのだ」と断言する人はいません。いたとしても、心の貧しい人だとか言われて人間性を低く見られます。こういった芸術作品を巡るやり取りの端々に見られる、<芸術的価値>が《あるかのように》振る舞われることが、芸術作品を巡る政治的・経済的な駆け引きを可能にしているのだと思います。「政治的」とは、つまり「社会的価値」の決定を巡る権力闘争であり、「経済的」とは「社会的価値」から発生する「商業的価値」の高低を決める駆け引きのことです。

そういう見方をすると、結局、<芸術的価値>に従って作品の「よい/わるい」を見極めようとするよりも、「政治的判断」に従って「よい/わるい」――つまり、「ほめる/けなす」を判断する方が現実的だ、と思えてきます。あるいは、「好き/嫌い」の判断に留まり続けるか(もちろん、「好き/嫌い」が個人的感情に基づくものであり、その<芸術的価値>の「よい/わるい」とは関係がない、といつまでも言い続けることはかなり困難でしょうが)。何を「ほめ」、何を「けなす」かによって、派閥や党派性を帯びてくるのは自明なことです。

たとえば、「人脈」がかなり有効な「芸術の場」などでは、この何を「ほめる/けなす」かが、その人のポジション、出世をかなり左右することになるのも想像しがたいことではありません。また芸術家集団に所属している場合なども、何を「ほめる/けなす」かは、かなりその場の空気を読んで、もしその集団の総意と違う意見を言う場合には、それ相応の覚悟が必要となります。しかし、究極意見が対立したとしても、<芸術的価値>とはそもそも誰にも立証できないし、あるのかないのかすらわからないのですから、「政治的」に強い方が勝利します。少なくともその場では。

以上、まとめると、<芸術的価値>は誰にもわからないのだから、芸術作品を「ほめる/けなす」かは、「政治的」判断に従いがちだということです。もちろん、「政治的」判断で「ほめる/けなす」を決めているなどと、誰も絶対に認めないでしょうが。でも私が見てきた限り、ほとんどの場合、例え小さなグループなどにおいても「政治的」(「人間関係」と言い換えても構いません)なものを気にせず「ほめる/けなす」の判断をしている人は皆無に等しいです。

以上のことを踏まえると、芸術作品について何かしら言わなければならない場においては、(特に「人脈」や「人間関係」の円滑さがもっとも大事だと判断される場においては)「ほめる」ことが有効です。もちろん、その場の人々の「敵」をほめてはいけません。また、あからさまにダメな作品もほめないほうがいいでしょう。もしほめる場合にはもっともらしい理由がなければだめです。「好き/嫌い」の判断もその場では尊重されますが、長い目で見てやはり「好き」と言っておく方が賢いと言えます。また、もしあなたが周囲から「<芸術的価値>の善し悪しを判断できる人」と認められている場合も大抵「ほめる」方が有効です。それほど認められていない作品を「ほめる」ことで、あなたの人間性までもが高く評価されます。逆に「けなす」人間は、単に嫉妬心が強いとかひがみ根性が強いとか、芸術的感性に乏しいと思われてしまいます。とにかく、少なくとも「社会的」に認められている作品に関しては、人脈・人間関係重視業界にいる場合、すべてほめましょう。もちろん、「ほめる」にもいろいろとテクニックが必要ですが。「もっともらしく」が大切です。

忘れていましたが、もし、自分が芸術家であり、芸術作品を世に問うている人なら、必ず他人の作品は「ほめる」べきです。特に認められない若い芸術家に多いのですが、誰でも彼でも「けなす」人がいますが、まったくもって世渡り下手としか言いようがありません。絶対、他人の作品は「ほめる」べきです。相手を「ほめる」ことで、自分のもほめてもらえる期待が持てます。少なくとも批判を封じる可能性が高いです。もし「けなす」場合には周囲のコンセンサスを確認してからにしましょう。逆に周囲が「けなし」ているものをほめるのも御法度です。

以上は、認められない芸術家(小説家志望)の戯言に過ぎません。もちろん、私は、必ず、どんな作品でも、基本はほめます。でも、根が正直で、それが辛いときがあるので、できるだけ「ほめる/けなす」の判断を迫られる状況に身を置かないよう最大限努力しています。

できうることなら、<芸術的価値>によって自作が評価されることを強く望んでいますが、そんなものが私の作品に在るなどとは寸毫も思っちゃいません。でも、少なくとも、「社会的価値」や「商業的価値」にとらわれることなく、あるのかないのかわからない<芸術的価値>を求めていきたいと思っとりやす。

いや、やはりそんな希求は不毛でしかないです。正直「商業的価値」さえあれば、僕は万々歳です。吉祥寺のブックス・ルーエに50冊あった『S大学物語』は、もう残り5冊になりました。ただただ感謝です。「ほめる/けなす」も以上の理由から僕はどうでもいいと思ってます(なぜなら、仮に<芸術的価値>というものが存在したとしても、それは「ほめる/けなす」によって変動する価値ではないからです)。買って読んでいただいた全ての方々に、ただただ感謝するばかりです。もちろん、そういった「顧客第一主義」的態度が、「商業的」に有効だと知ってのことですが。

能田倫之助氏のコメント:
要は、彼は、<芸術的価値>の判断もできないくせに「ほめる」ことで「社会的価値」「商業的価値」を捏造していく輩の「人間関係第一主義」が嫌いでしょうがないんですね。
あいかわらず、偽悪者・露悪者ぶってますが、若く無名な人間の屈託だと思って見逃してやってください。そういう「屈託」こそが、「小説家」には必要でしょうし。(僕は、彼の作品なんてガンガンけなしますがね。遠慮なく「ほめる/けなす」ができてこそ、真の友人というものです。よ、ね? リュージュくん)。

追記(松田龍樹):
忘れてましたが、<芸術的価値>云々の前に「技術的巧拙」の判断はありますよ。そして、自費出版作品には、この「技術的巧拙」で「拙い」ものが圧倒的に多いのも事実です(もちろん、僕のも含みます)。ま、ただ、「技術的巧拙」が「拙く」ても、<芸術的価値>を備えたものもあるでしょうし、現実に「社会的価値」や「商業的価値」を獲得した作品もあることでしょう。どうでもいいですが(僕の本さえ売れれば)。

追記(松田龍樹)part 2:
芸術作品をほめるのって、「みずからの芸術的感性のアピール」と「人間関係を考慮したリップサービス」以外に、なんか意味があるのか本当にわからないんです。うーん。

2007.07.28 Wed 「無勝手流一学徒」宣言

「むかってりゅういちがくと」と読んでください。
大学を卒業しても(特にどこかアカデミックな集団に所属せず)、好き勝手に自分の興味あることを、自分なりに勉強していくということです。

とりあえず、今村仁司『近代性の構造 「企て」から「試み」へ』(講談社選書メチエ)という本を読んでいます。これは、6年前、大学受験の小論文対策のために購入(何かの受験対策本にお薦めしてあった)したのですが、ちんぷんかんぷんでほとんど読まずに、押し入れの奥に埋もれていたものです。案の定、小論文受験は失敗しましたが、大学受験を気にしなくていいいまだからこそ改めて読んでみようと思ったのです(押し入れを整理してたら出てきた)。購入して6年、ほんの少しだけ理解できる部分もあって、ちったぁ成長したんだなと思いました。最近、個人的に気づいたのは、「どうも最近の社会現象や、識者たちの言説を理解するには、<近代>というものに対する知識が前提になければならないようだ」ということです(※)。とりあえず、自分の知識欲を満たすために読んでいます。いやー、でもこういった本を18歳ぐらいで理解して、大学に合格する人たちはやっぱり頭がいいんだなあと思いました(いや、ほんとに)。まあ、大学には入れなくても本を読むのは自由なので(ありがたいことだ。高度情報社会万歳である。)、無勝手流一学徒ととして「お勉強」し続けられたら、私は幸せです。

※例えば、私は「童貞論」を書こうと以前から思っているのですが、私たちが持っている「童貞」という概念もやはり<近代>という世界像をバックグラウンドとして把握していないと理解できないと思うんです。私たちが「自明」だと思っている多くのものが、<近代>によってもたらされたものらしいんですから! 「童貞」が「青春」や「恋愛」と深い関係があることは直感的に理解できると思うんですが、例えばその「青春」という概念が<近代>のものらしいんです(たぶん)。けっこう驚きです。

追記:
えー、非常にお恥ずかしいのですが、一般には「無勝手流」ではなく「無手勝流」と言うらしいですね。どうりで変換できないなーと思っていました。まあ、どちらでもいいんですが、要は(サルトルの『嘔吐』(読んでない)に出てくるような)「独学者」になりたい、ということです。

2004.07.24 Sat 「他人の痛みは痛くない」

やっぱり、ものを(言葉で)考えたりすることのおもしろさは、自分が当たり前と思っていたことが当たり前ではなくなるときに訪れる、あの<めまい>にも似た感覚を味わえることではないだろうか。そして、そういった私たちの常識や真実、真理と思い込んでいるもの(疑う気持ちすら浮かばないもの)をぐらぐらと揺るがすような「言葉」を発見していくことこそが、その醍醐味ではないだろうか。

「他人の痛みは痛くない」と言ったのは、能田倫之助氏だが、この言葉を聞いたときもそういった<めまい>に襲われた。そう、なんと私たちの「欺瞞」を鋭くついた言葉だろうか。もちろん、これには反論もあろう。他人ならいざ知らず、肉親や大事な人が傷ついたり、亡くなったりすれば、大いに心は痛むではないか。心ばかりか時には身体的にも不調を来したりすることもあるではないか。他人の痛みを自分の痛みとして感じられることこそ、人間らしさの最たるものではないか。などと。いや、もちろんそうなのかもしれない。だが、あえて、言う。言うべきだ。「他人の痛みは痛くない」と。私はこの言葉を聞いて、むしろこちらが本質であり、だからこそ、それを隠蔽するために私たちは過剰に「他人の痛み」を我がものとしたいのではないだろうかと思った。例えば「ヒューマニズム」とか「人道主義」というものがあったとして、それは「他人の痛み」を自分の痛みとして感じる本来的な心的作用があるからではなく、むしろ逆で、他人の痛みを自分の痛みとして感じられないからこそ、そういった「ヒューマニズム」などの「方法」が編み出されたのではないだろうか。いや、私は思想的に、または精神医学的に、難しいことを言いたいわけではない。ただ、事実として、一個人の実感として、目の前で誰か(赤の他人だろうが、肉親だろうが)が血を流していたとしても少なくとも「物理的には」私たちは痛くないはずである。もっと言えば、誰かが死んでも自分は死なないという恐ろしいまでの厳然とした事実があるではないか。もし、どこかの他人が死ぬことが自分の死でもあるならば、もっと私たちは戦争や人殺しについて真剣に考え、その抑止に必死になるだろう。だが、圧倒的真実として、どこかの国で誰かが死んでも、(死ぬほど悲しむことはあっても)私は死なないのだ。私はヒューマニズムや人道主義、人間性を否定しているわけではない。事実を述べているだけであり、また、そういった最も根本的な事実から出立しなければ、私たちは容易に似非ヒューマニストに堕してしまい、他人を思い労る気持ちがただの優越感やエゴイズムの発露になってしまうと言いたいのだ。

能田氏の名言「他人の痛みは痛くない」という<テーゼ>をつぶやき、もう一度、そこから私たちは出立しなければならないのではないだろうか。そういった、真実を揺さぶるもう一つの真実の言葉が覚醒してくれる精神の強度によって裏打ちされた人間でなくては、どうして本当の「人間性」など勝ち得ることができるだろうか(いや、できない!)。

追記1:
もちろん、言葉を知ることが重要なのではなく、実感することが大事なのは言うまでもありません。生きるとは「試行錯誤」そのものなのですから。…今日はアツイね。

追記2:
これからどんどん「当たり前」を切り崩していきます。それが「もう一つの真理」に近づくからではありません。ただただ、あの<めまい>とともに訪れる恍惚を少しでも多く味わいたいからです。It’s only joke.

2004.07.23 Fri 前田塁「小説の設計図」(1)

小説を書くという行為が、万能感を味合うことと言うよりは、むしろ一行書くごとに自分の駄目さ加減を、不能感とでも言うべきものを思い知らされる行為でしかなく、だから非常に辛いし疲れる行為であり、精神の疲労が半端じゃないのだ。だいたい「小説とは何か?」という自問がまったく解明されないまま小説を書くというのは、目的地がわからないのに闇雲にジャングルを探検しているようなものだ。もちろん、私の友人であり師でもある能田倫之助氏は、「小説を書くこと」がその答えに辿り着くもっとも迂遠な近道だ、といつものように適切なアドヴァイスを与えてくれる。そこで終わるなら、どこぞのスノビーたちと同じなのだが、彼は私に実戦的且つ有益なアドヴァイスも同時に与えてくれる。例えば、こんなおもしろい本を読んだよ、と。

* * *

斎藤環「文学の徴候」が終わって、前田塁「小説の設計図」が始まった。文芸誌『文學界』8月号(文藝春秋社)の連載の話である。「文学の徴候」もそうだったが、「小説の設計図」もむつかしくて、私には半分もわかりゃしない。まあ、でもところどころわかる部分だけ読んでも、おもしろい。理解した範囲で、内容を要約しておこうと思う。恥をかくことこそ、人間を成長させる秘訣だという先人の教えに従って。

斎藤環氏が「文学の徴候」でやろうとしていたのは、つまり、「文学」の中にある精神医学や精神分析で説明のつく部分の「塗りつぶし」である。それによって逆に文学に特有のもの、「文学の神秘性」とでもいうべき部分を探し出そうとする。そういう意味で、「否定神学」的であり、否定しきれなかった部分に「神」が存在するのだろう。同じことを大塚英志氏はサブカルチャーの視点からやっている。前田氏はそういった身振りを失われた「秘境」を探す「川口浩の探検隊」のようだと言う。また「文学」の側の人々は、斎藤氏、大塚氏などの「外部」の人がやることにいい気がしておらず、黙殺しているかのようだ。その文学専従者たちの反論は「私的なコードに基づく読解多様性の煙幕」に護られているのではないだろうか。もちろん、小説とは解釈の多様性があり、解釈の決定不可能性を備えている。が、それを盾にそういった「文学」の人たちは逃げてはいないか。話し言葉=パロールが私的コードに支えられているように、小説の読みも私的コードなしではありえない。しかし、(パロールがラングの統制を受けているように(?))小説が文字記号で構成された線的体験である限り、私的コードとはまた別の「構築性」を小説は備えているはずである。「私的なコードと公的なラングとの空隙を小説はどのように乗り越えるのか」つまり「構造として小説を語ること」を目指しているわけだが、もちろんそれは不可能に挑戦する「敗北」の実践でもある。

以上、かなり下手くそな要約ですが。以下、もっと自分なりの言葉でまとめてみます。

そう難しいことではないです。たぶん。小説を読んだとき、十人が読めば十人分の解釈や感想が出てきますが、でも、ある部分までは「同じ」理解を示している。例えば、「りんご」と言えば、みな「果物」のアレねと共通の理解を持っていますが、でも実は、人ぞれぞれ「りんご」という言葉に対する感じ方や想像や記憶の中のポジションが違うわけです。小説の読み方も人それぞれです。でも、その「人それぞれ」を乗り越えて、「小説とは何か」を考えていかねばならないのでは!

まあ、芸術作品について、友人同士で解釈(感想)を述べ合ったときの落としどころってのが、だいたい「人それぞれ」なわけですが。でもその「人それぞれ」ってのもかなり危ういわけです。間違っても、その人は「自由に」解釈しているわけではありません。いろんな文脈にがんじ搦めになって、解釈を「言わされている」と言った方が現実に近いと思います。「自分がどう感じるか」なんて対して大事なことじゃないのです。それよりも「何が自分をそう感じさせるのか」を考えるべきなんだろうと思いやすめぐみ。

追記:
先日の『ミスティック・リバー』もそうだし、小説だと大江健三郎とか村上春樹とか最近では阿部和重とか中原昌也とか、優れた作品に共通するのは、まさに「解釈の多様性」を誘発する「何か」を内包しているということだと思います。もちろんそれはただの「思わせぶり」なのかもしれませんが、いや、やはりそれだけでは終わらない「何か」を持った作品が様々な「解釈多様性(=読み)」を喚起させ、言わばそれを読んだ者の映し鏡のような機能を発揮するのだと思います。

もちろん、それは小説の解釈(もっと素朴に感想でもいい)は「人それぞれ」という凡庸な真実のことを言っているわけです(たぶん)。まあ、でも、ほとんどの人は「読み」が足りず、解釈の多様性まで到達していない気もします。誤読という創造的な間違いですらない、読解力不足と言った方がいい「読み間違い」をしている人が多い気がする。なーんてね。

2004.07.22 Thu 民俗学はおもしろそう

柳田國男が民俗学を研究しはじめたきっかけは、自分の創出した「山人論」からだそうだ。「山人」とは、その土地土地で妖怪(天狗とか)のようなものだったり、巨人(山男)のようなものだったり、神のようなものだったりするのだが(ちなみに「山の民」とか「山民」は実在のもので、違う概念)、柳田はそれらをすべてひっくるめて便宜的に山人(やまびと)と名付けた。そして、山人=先住民族説というのを唱えたのである。

柳田の山人論(=山人先住民族説)は彼の幼少体験と文学的資質に歴史的視点が加味されて「創出」されたかなり奇抜な説であった。そこには政治的文脈(=当時の日本の植民地政策。柳田は農政官僚だった)も読み取れる可能性もあるが、彼の文学的資質・文学的衝動が、あたかも文学者が架空の物語を構築するかのように、山人論を「創造」してしまった。ゆえに論証となる資料を収集しようとしても思うように集まらず、また南方熊楠の批判にも遭い、その説が次第に破綻していったのも、半ば必然であったと言える。もちろん、そういった挫折から多くを反省し、民俗学の科学的方法を確立していったのも、また事実である。

以上は、花部英雄『漂泊する神と人』(三弥井書店)の「山人論から山人研究へ」を私なりに要約したものです。現在、私が籍を置いている某S大学文藝學部賣文科の授業課題で無理矢理読んだんですが、この柳田國男の山人論を巡るエピソードは、非常に示唆的だと思いました。どういうことでしょうか?

柳田の山人論創出の心理的過程が、例えばあまたの伝承や伝説を創り上げてきた人々の心性とダブるのではないか。そう思ったのです。

確かに、柳田の「山人論」は科学的には間違った説だったかもしれません。しかし、それを「創造」してしまった心理的過程は、民俗学という学問が取り扱っている、土地土地の伝承や伝説、世間話などのそれを人々が想像し、創造していった心的過程と相似形を成しているのではないか、ということです。

そして、現代もなお私たちは、伝承や伝説のような、科学的には荒唐無稽だが私たちのリアリティを刺激する物語を欲しているのではないかと思いました。少し前では、大塚英志氏が『物語消費論』で述べているような「都市伝説」であったり、最近では、ワイドショーを通じた少年犯罪などの「心の闇」(斎藤環氏の指摘による)を巡る<物語>がそういった私たちの欲求を満たしているのではないでしょうか。「心の闇」――それは映画館の闇を想像させます。そこにある真っ白なスクリーンに私たちはなんでも好きな映画を投影することができるのです。「心の闇」が少年に内在するのではなく、それを求め捏造しているのは私たちであるというのは、ほとんど明白な事実ではないでしょうか。

民俗学はなかなか興味深く、おもしろいです。<異界>とか<異形>を扱った伝承、伝説にはいま読んでもなんとも言えないリアリティや喚起力があります。その心の情動はワイドショーなどで不可解な事件を見たときの感覚と非常に近いものがあります。なるほど、私たちは、常にリアリティのある<異界>と<異形>の<物語>を求めて止まないものなのだろうな、と痛感させられます。

2004.07.21 Wed 能田倫之助『ケータイする文学。あるいは、ブンガクする携帯。』

何件か問い合わせがあったので紹介しておきますが、能田倫之助(のだ りんのすけ)とは、某S大学の助教授で、私が勝手に仲良くしている人間です。彼とは歳も近いのでほとんど友達のような関係なんですが、私よりもはるかに学識があり、その語り口も論理的で明晰なため、密かに私は自分の師匠だとも思っているのです。ちなみに彼の専門は「現代思想」(コーフーとかメルラ・ポンティエとか)です。

そんな俊英・能田倫之助氏の最新評論集『ケータイする文学。あるいは、ブンガクする携帯。』が近々発売されるそうです。宣伝してと頼まれました(果たしてこのHPに「宣伝効果」なるものがあるかどうかは、はなはだ疑問ですが)。実は私はゲラ刷りを読ませてもらいました。ケレン味たっぷりのタイトルではありますが、中身はまじめに現代の日本文学のありようについて書かれています。そして、現代文学の一つの方向性を指し示してもいます。現代日本文学を「対話者なきケータイ・カンバセイション」と喝破したのは、慧眼としか言えません。思わず鳥肌が立ちました。近日、珍文社より発売ですのでよかったら探して読んでみてください。『大学6年生のための正しいレポートの書き方』も絶賛発売中です。

それと、能田氏の厚意で、私の二つの著作について「書評」を書いてくれるということなので、原稿が届きしだい【作品紹介】にアップする予定です。お楽しみに(なにぶん多忙な人なので、いつになることやら…って感じですが)。

追記:
ちなみに、もし誰かに能田倫之助ってどんな人って訊かれたら、私はいつも、かの有名なアメリカ人作家デレク・ハートフィールドのような、実に古典的な人物だよ、と答えるようにしている。ま、余興ってことで。

2004.07.20 Tue クリント・イーストウッド『ミスティック・リバー』

以前、映画館で見たクリント・イーストウッド監督『ミスティック・リバー』をビデオで見直す。っていうか二軒ビデオ屋に行ったが、結局日本語吹き替え版のVHSが一本あっただけだった。まあ、私は字幕じゃなきゃ観ないっていうほどのスノビーではないので、それを借りてくる。…が、しかし、あれだけ重厚で緊迫感のある芝居をぶっ壊す力が「吹き替え」にあることに気づき、驚く。まあ、それでも、後半、物語に没入してからはほとんど気にならなくなったが。

もし(私がそうであったように)この映画を観て「後味が悪い」と感じてしまうならば、私たちがいかに「単純明快」で「後味すっきり」な映画に慣らされているかの証であろう。いや、私は、この映画が「善/悪」を超越した圧倒的現実を捉えようとする極めて透徹した強度を持った視線で描かれていることが素晴らしい、と言いたいわけではない。この映画を観て「善/悪」では括れない理不尽さを感じてしまったとしたら、私たち(イーストウッドを含む)はやっぱり「善/悪」への憧憬、渇望を捨て切れていないのであり、「「善/悪」では括れない」という意味において、この映画は「善/悪」を描いてしまっている、と言いたいわけでもない。デイブがさらわれたのも、あのしゃべれない少年がジミーの娘ケイティを殺してしまったのも「偶然」だが、後付で「必然」のように感じるかもしれないし、あるいは、それらを「運命」という必然だったのだと言うこともできる、と私は言いたいわけでもない。もちろん、パワーという神話を巡る、帝国アメリカの隠喩をジミーに見いだしても構わないし、警官のふりをして子供を誘拐し、性的虐待を加えるあの犯人たちに、アブグレイブ刑務所のアメリカ兵を重ね合わせるのも自由だ。いつの日か息子マイケルが「復讐」しなければならないのは、ジミーか、ジミーの妻か、それとも母親か、そんなことを考えるのも楽しいかもしれない。

つまり、私はこの上なく濃密な「映画空間」を愉しんだのだから、十分満足というわけだ。この映画が誘起する解釈多様性に身を任せ「私語り」するのは、贅沢すぎる。そう言いたいわけだ。いや、果たして「ミスティック・リバー」観たよ、と誰かに言われて、「私の」『ミスティック・リバー』を語らずにおれるかどうかは、甚だ自信がないのだが。まあ、それはそれで大いに望むところなわけでもあるが。

2004.07.19 Mon 狂気に出会った夜

「保育園かなんかで花火大会でもやるんだろう」と僕は思った。かなりの無理があった。だが、人は<狂気>に直面したとき、ぎりぎりまで整合性を構築しようとするものなのだ。秩序を保とうとするのだ。

深夜零時ごろのコンビニ。帰宅途中の人々で店内は賑わっている。僕はレジでジュースかなんかを買おうとしていた。もう一方のレジの前、子供向けの花火がディスプレイして売ってある。緑の短パンから、ごぼうのように細く茶色い足を生やした中年女性が、それら花火を片っ端から買い物かごに詰め込んでいく。あきらかにそこには尋常じゃない空気が流れているというのに、僕は保育園かどこかで子供たちを集めてやる花火の催し物か何かを想像し、彼女を保育園の職員か何かだと思ってみた。「花火大会をやるつもりなんだ」。言語化し、その奇妙な行動に整合性を与えようともする。しかし、そんな抵抗は一秒と保たず、つづいて彼女が花火の横のガンダムフィギュアの入ったカプセルを、かごに山盛りにするにあたって、完全にそこに<尋常じゃないもの>が存在するのを認めないわけにはいかなくなった。

終始何か独り言を呟き、焦っている。僕はレジの番がまわってきたので、ジュースを差し出す。店員はセンサーでバーコードを読み取る。僕も店員も店中の人間が「彼女」に気づいている。遠巻きに見ている。彼女はレジ台に花火とカプセルで溢れているかごを載せ、会計を促す。彼女は何か言い訳のようなことを呟いている。店中の人間に何か自分の行動を釈明しているような、そんな言葉を。

「お、お金、あんのよ!」と細く鋭い声で言った。叫ぶ一歩手前だった。僕のジュースの値段が弾き出され、店員が小声でそれを告げる。僕は財布から札を取り出し、端数の小銭を探る。極めていつも通りだ。彼女に対応している店員は、会計をはじめようとして、四角い紙の箱を取り出した。キャンペーンで、一定額以上買い物をするとくじが引けるというやつだ。彼女はそのくじ箱を受け取るやまた何かを小声で叫んで、放り投げた。それが意図せず店員のあごにヒットする。一気に緊張感が高まり、店員の次の行動にこの場が<狂気>を受け入れるか否かが託される。店員は冷静に箱を台に置き、彼女は詫びの言葉を言った。まだ、正気の連中は、この場を「正常」なまま終わらせようと、なんとか演技をつづけている。僕も。

釣り銭と品物を受け取り、僕は店を出て行く。店員は山と積まれたカプセルを一個一個レジ打ちしはじめていた。「もっと、ないの」と彼女が請求し、別の店員が事務所の方に駆けていった。僕は観察したいのと普段通りに演じきらねばという葛藤を抱えつつ、かろうじてそのまま店を出た。店の外に<狂気>はなかった。普段通り。

普段通りの道を自転車で帰りながら、なぜか「保育園で花火大会」という<狂気>を認める一瞬前のイメージと言葉が強烈に脳に焼き付いているのに気づいた。

<狂気>は秩序を脅かす。秩序は<狂気>を認めない。みずからの論理に回収しようとする。回収できないと知ると排除しようとする。<狂気>は怖い。僕たちは知っているからだ。みずからの中にある<狂気>を。そして<狂気>が<狂気>に感応しやすいのを。

「ヒステリーだろ」。後ろから出てきたカップルがそう言っていた。「ヒステリー」。その「診断」が正しいかどうかは知らないが、その「命名」によって、僕は辛うじて<狂気>のやり場を見つけたような気がした。<狂気>がただの「ヒステリー」に回収され、あとは微笑ましくもノスタルジックな「保育園の花火大会」だけが残った。

2004.07.18 Sun 柴崎友香『きょうのできごと』

柴崎友香『きょうのできごと』(河出文庫)を92ページまで読む。保坂和志が絶賛しています。まあ、保坂和志ほどの優れた鑑賞眼がなくても、私は普通に楽しめるウェルメイドな作品なのでは、と現時点で思ってます。さらりと読んだ印象は鈴木清剛の作品に似ているかも知れません。「何気ない日常」とかを繊細に描いてるところとか。でも、まあ、こういった「何気ない日常」みたいなのをさらっと書いて、おもしろく読ませるというのは、かなり特殊な技能というか感性というか才能のようなものが必要なんだろうなあ、と漠然と思いました。

なんとなくですが、この小説には、「小説」にだけある「小説を読むたのしみ」が溢れている気がしました。テーマとかメッセージとかではない、「小説空間」に浸るたのしみとでもいうものです。それは例えば、真紀という女の子に反感を抱いたり、真夜中の道路の空気感を想い出したり、ウォッカが飲みたくなったり、風呂場で髪を切るエピソードになんとも言えない官能の雰囲気を感じたり、ちょっと高校のころを想い出したり、そんなことです。映画でもそうですが、単にその作品のつくる「空間」に浸っていたいがために、私たちは小説や映画を鑑賞するのだと、再認識しました。鑑賞後、それについてあれこれ「語る」のは、また別次元の「たのしみ」としてあるのだな、とも思いました。

追記:
私は、ここで描かれている人物や「グループでの飲み会」など(に付随するパワー・ポリティクス的な人間関係)にまったく好感が持てませんでした。というか、こういった付き合いがいやだから、人付き合いを最小限度に抑えている自分を再認識させられました。また、そういった「嫌悪」とか「反感」のようなネガティヴな感情でも、それを喚起させてくれるということ自体が「小説のたのしみ」の一つなんだと思いました。そういった意味で、この作品は好きです。

2004.07.17 Sat ぜひ読まないでください、と彼は言いたいわけではない。

【お知らせ】にも書いたように、Boon-gate.comで拙著『FUCKILLOVE』が電子書籍として読めるようになりました。購入しなくても、「立ち読み」という形で手軽に読むことができるので、一度覗いてみていただけると幸いです。「自意識」というものが、最低限の「技術」や「客観性」を伴うことなく、安易な「自己表現」として結実し、「経済力」によって「全世界」に向けて「発表」されてしまう「醜悪さ」の見本市だと能田倫之助氏は酷評していましたが、私はむしろ、科学技術の進歩によってそれまで「表現」として結実することのなかった全ての人間に潜在する芸術性の展示即売会だと思いました。ポイントは二つです。@優れた作品よりも出来の悪い作品に出会ったときの方が、学ぶことは多い。A私たちは、「見ない」「読まない」という権利を有しており、それを積極的に行使するべきだ。以上です。ごめんなさい、ありがとう、すいません、さようなら。

2004.07.14 Wed 誰に言い訳しながら生きているんだ、僕は。

大学6年目の前期授業が終わったその日に、僕はすでに卒業した同級生の友人と繁華街にある白塗りの不気味としか言いようのないマスコットを擁する世界屈指のハンバーガーチェーン店の2階でお茶をしていた。改装されたばかりの真新しいその店舗2階には何かの心理学的効果をねらったのか濃い赤とブルーのチェアーが左右にきっちりと区分けされて並んでいて、アーケードに面した壁はガラス張りになっており、アーケードの屋根や下を行き交う人々が観察できるようになっていた。しばらく熱っぽく何かについて語り合っているうちに、僕はそのガラス張りになっている向こうに、同じくガラス張りになっているオフィスを発見した。それは全国展開する不動産仲介業者のもので、グリーンをテーマカラーにした「可能」という意味の社名が、そこには張り付いていた。薄型ディスプレイのパソコンを載せたカウンターを境界線に右側を客が左側を従業員が陣取り、それぞれが入れ替わり立ち替わり動きまわっていた。僕はその従業員の中に自分にそっくりな横顔を持つ人間を発見し、それが本当に自分にそっくりかを確かめるためにあまり視力がいいとは言えない眼をしばたかせ、凝視した。自分の横顔というのは普段、鏡ではなかなか見ることができないし、写真を撮る場合でも真正面から撮ることが圧倒的に多いため、どういったものか自覚している人は少ないだろう。僕は断片的に撮られた「自分の横顔」の写真を想い出しつつ、それをその彼の今見えている横顔に当てはめてみた。見た瞬間からわかっていたことだが、彼の横顔は2、3年前の僕に似ていた。それは概ね彼の短髪が以前の僕のそれに酷似していたから、現在僕は長髪であるが、そういった印象を持ったのだろう。僕は自分が初めて東京に家を借りるとき、その不動産仲介業者を訪れたのを憶えている。ただし、オフィスはその場所にはなく少し離れたビルの中にあった。移転したのだろう。僕は自分が大学を4年で順当に卒業し、きちんと就職した結果、その不動産仲介業者で働いているのだと思った。つまり、ここから2枚のガラスを通して見える私の横顔にそっくりな彼は、僕のありえたもう一つの未来を実現しているもう一人の僕なのだ、と妄想してみたが、あまりの陳腐さに5秒とリアリティが保てなかった。ふと動いたときに見える彼の顔はやはり、僕のそれとは似ても似つかないものだった。当たり前の結果に安堵したり落胆したりしながら、僕はすでに卒業し立派に働いている友人に、なぜ自分は就職しないのか、あるいはしなくてもいいのかを、滔々と語っていた。

2004.07.07 Wed 「松田さん」バージョンもつくってくれ!

冗談はさておき。

2002年ごろのナイキのテレビCMで「Why baseball?」というのがあった。「なぜ野球なの?」という問いかけに対して、実際の野球の試合の映像と文字によって様々なアンサーが提起される。その一つに「上には上がいるから?」という文字が現れ、そのあと、松坂大輔とランディ・ジョンソンが順に映し出されるというのがあった。これを見たとき、何か非常に示唆的なものを私は感じた。どういうことか?

つまり、「映像」は「松坂大輔」と「ランディ・ジョンソン」という具象をモンタージュすることでしか、「上には上がいる」という概念を表現できない。これは多分に私たちの「予備知識」に期待を負ったものだ(つまり、松坂大輔という投手は「怪物」と呼ばれるぐらいすごいけれども、ランディ・ジョンソンという投手はもっともっとすごい、程度の知識※私は野球にうといが、それくらいはなんとなしにわかる)。

消極的選択として、「小説」が選び取られている昨今、「小説」(あるいは文学、あるいは文字芸術)の他の競合ジャンル(映画、音楽、マンガ、ゲーム、あるいは演劇、写真、もしかすると携帯電話、ディズニーランドなど)に比した特殊性、独自性を小説家を志すものは自覚しなければいけない(ただし、私は、小説家を志してしまったが、それは「偶然」であって、私個人は小説や文学に対して本来何の義理も借りも恩義もないのだ。また、私が小説や文学の特殊性や独自性を発見し、それを保証してやらなければならない義務はないし、能力もない)。

文字芸術の特殊性、独自性が、このCMに端的に現れているのではないか。私は愚鈍ながらそう直感したわけだ。「上には上がいる」という抽象概念を、映像は決して「抽象概念」として表現できない、そういうことだ。いや、もしかすると、違うかもしれん。んー。また「お勉強」せねば。「松田さん」以外もね!

2004.07.06 Tue 遠藤周作『沈黙』

遠藤周作『沈黙』(新潮文庫)を読んだ。これは、非常におもしろい。その主題となっているものからして純文学なのだが、サスペンスとスリル、そしてミステリーに溢れていることでエンタテイメントでもあり、作者の思想のある面を仮託されたであろう登場人物が対話劇を繰り広げることで哲学、思想書のようでもある。

「神は存在するのか?」というのが、キリスト教者、西洋人を悩ませてきた究極の問いだったわけだが、少なくとも、現代日本人はほとんど神など信じていないだろうし、ましてや、この小説の人々のように信仰のために命を捨てることができる人など皆無だろう。

ところで、弾圧によって、もうすぐ殺されるかもしれないのに、平静でいるお百姓たちに、主人公であるポルトガル人司祭が「平気なのか」と訊くところがある。お百姓はこう答える。

「わかりまっせん。あっじょん、パライソに行けば、ほんて永劫、安楽があると石田さまは常々、申されとりました。あそこじゃ、年貢のきびしいとり立てもなかとね。飢餓も病の心配もなか。苦役もなか。もう働くだけ働かせされて、わしら」[…]「ほんと、この世は苦患ばかりじゃけねえ。パライソにはそげんものはなかとですかね、パードレ」

なるほど、お百姓たちの考えるパライソ(天国)とは、永遠の「安楽」があり、「年貢のきびしいとり立て」もなく、「飢餓」や「病」の心配のない、そういうものなのである。それを聞いた司祭は「天国とはお前の考えているような形で存在するのではない」と言おうとして、やめる。

なるほど、このお百姓が考えている「天国」はキリスト教的には間違っていた。しかし、そのお百姓が夢想した「天国」とは即ち、現代日本そのものなのではないだろうか? 日本人は、このお百姓の言う「天国」を目指して、これまでやってきたのではないだろうか。そして、それはほとんど実現された(現在、袋小路)。私たちは400年前にお百姓が夢想した「天国」に暮らしているのだ。以下、省略

2004.07.03 Sat 凡庸なアンテナ

以前にも書いたが、私は天才ではない。ただ「天才に憧れる普通人」という意味で、「普通」なのだ。自分を「特別」でありたいと願望するのは「普通」の人々の特徴なのだ。もし、そういった「『特別』を志向する『普通』の人」が「特別」になる可能性があるとすれば、「特別になりたいという普通」を徹底することである。「徹底する」ことにより、パラノイアックな人間、モノマニアックな人間になることができる。つまり、「狂気」を孕んだ人間になることができるのであり、その一点でのみ「特別」な人間になれるかもしれないのだ。(そういった「特別」を志向する人間の狂気を描いた作品に阿部和重『アメリカの夜』というのがある)。(ちなみに、「天才」や「特別」を志向するのは、産業革命以降の大衆社会における病のようなものらしい。その昔「天才」という人間像はなかったらしい)。

繰り返すが、私は天才ではない。芸術的感性についても、どこまでも凡庸である。例えば、映画や音楽、マンガ、演劇、写真、(もちろん文学も)などの大衆化した芸術に対して、気の利いた「センス」すら持ち合わせていない。例えば、そういった凡庸なセンスは、このHPのデザインなんかにも現れている。もしかすると、中には、このHPのデザインを「なかなかよい」と思ってくれる人もいるかも知れない。それはそれで、私のねらいなのだが、まあ、そういった意味で「凡庸」なのだ。

繰り返すが、私はどこまでも凡庸で普通の感性の持ち主なのだ。決して天才ではない。

なぜ、そんな当たり前のことをここに書くのか。天才ではなく、凡庸な感性の持ち主であることが、そのことを自覚することで、「強み」になると考えるからだ。現在の大衆社会において、「特別」を志向する心性は「普通」だと私は書いた。なるほど、で、あるならば、「特別を志向する普通の人」の一人である私は、私と同じような多くの「特別を志向する普通の人」たちをターゲットに何かモノを売ることができるのではないか、と思うのである。同じ「特別を志向する普通の人」だからこそ、「共感」を呼べるモノを考え出し創り出すことができるのではないだろうか。そう考えるのだ。

もし、多くの「特別を志向する普通の人」から一歩抜け出す方法があるとすれば、それは自分が「特別を志向する普通の人」であることを徹底的に自覚することである。そうしたとき、己の「普通」さや、「凡庸な感性」が「強み」となり「武器」となる。

喩えて言うなら、スカイパーフェクトTVに加入していないテレビである。つまり、チャンネル数はそこそこ。普通なのである。天才は、スカイパーフェクトTVの如く、あらゆるチャンネルを映し出す鋭敏なアンテナを持っている。チャンネルをキャッチする「高感度なアンテナ」を持っているのである。普通の人は、そんな「高感度なアンテナ」は持ち合わせておらず、どこまでも「凡庸なアンテナ」しか持っていないのだ。そう、私も「凡庸なアンテナ」の持ち主だ。

「特別を志向する普通の人」が「特別を志向する」がゆえに「普通」であるように、「凡庸なアンテナ」のTVは無理矢理「高感度なアンテナ」を志向する。その無理な「志向」が、ノイズを生む。「凡庸なアンテナ」でキャッチできるはずのチャンネルすらまともにキャッチできなくなる。映りもしないチャンネルを映し続ける、ノイズだらけの、誰も見向きもしないTVになってしまうのだ。

自分が「凡庸なアンテナ」の持ち主でしかないと自覚し、それでキャッチできるチャンネルをできるだけノイズの少ない、鮮明な映像として映し出すことができれば、それだけで、それなりの需要があるのではないだろうか。つまり、「特別を志向する普通の人」が目指すべきは、「凡庸なアンテナ」と「鮮明な受像器」なのではないだろうか。

うーん、喩えあってるかな?

ま、とにかく、ここ(=雑感雑文)では、「凡庸なアンテナ」=「凡庸な感性」の持ち主である私が、できるだけ、その思考をそのままノイズの少ない「言葉」にトレースしていこうと試みる場なのです。と、言いたいのです。要は。

だから、天才や非凡な感性を持った人からすれば、浅学で愚鈍で間違いだらけのエッセイかもしれません。ただ、私が望むのは(私を含めた)凡庸な人たちにとっての、発見と共感に溢れたエッセイであることなのです。

最後に。なぜこんな言い訳がましいことをぐだぐだ書くのかと言えば、やはり、「天才」でありたっかた普通人として、「それでもやっぱり…」が頭をもたげてこうようとするから、なのかなあ…。

うーん、まだまだ自分は「特別を志向する普通の人」のようです。こんなことをぐだぐだ考えつづけるモノマニアになれたでしょうか? 少しは「狂気」に近づいたでしょうか? まだまだです。

2004.07.02 Fri 金曜ロードショー『おもひでぽろぽろ』

小学校のころから十数回見てきた『おもひでぽろぽろ』を久々に金曜ロードショーで見る。っていうか、CMに行くタイミングが毎回一緒のようですね(当たり前かも知れないが)。

なるほど、岡島タエ子は鬱陶しい女である。それに気づいた。小学校のころとかは、そんなこと思わなかったのだが、今回見始めて、瞬間、気づいた。岡島タエ子は鬱陶しいスノッブ女だと。彼女の部屋のベッドには『アンアン』らしき雑誌が置いてある。つまり、そういう意味で鬱陶しい女なのだ。例えば、讃岐うどんとか歌舞伎とか「田舎」とかセックスとかを「消費」している都市型スノッブ女として、彼女は描かれている。だから、クライマックス、地で「田舎」を生きているおばあちゃんに己の「浮ついた田舎好き」を気づかされてしまい、居たたまれなくなる。

気の利いた「余暇」として紅花摘みを楽しむのも都市型スノッブなら、そんな自分に気づいて「後ろめたく」なるのも都市型スノッブ人間の為せる技なのだ。タエ子は、祖父母の代から「東京人」であり、長女は美大に通い、「めずらしい」果物であるパイナップルをお父さんが千疋屋で買ってきてくれるような、お父さんはタエ子に「一度だけ」しか手を挙げたことのないような、そんな家庭に育ったわがままな末っ子、なのである。

ところで、トシ夫も都市型スノッブ人間である(元々は田舎の人だが。言うなれば再帰型スノッブ)。脱サラで有機農業を始めてしまうような、である。しかし、(少なくともタエ子から見れば)それが「本気」なのである。

なるほど、浮ついた田舎好き女が、本気の田舎好き男と結ばれる物語、として見ることができるというわけだ。しかし、本気かどうかは別として、「田舎好き」同士の物語としてだけでなく、さらに大きな視点で見ると、過疎化していく「本物の田舎」が「若者」を取り込んで生き延びようとする、嫁不足農家の嫁獲り物語、そんな話としても見ることができる。

と、いうのも、トシ夫とタエ子が結ばれるのは、かなり周囲の「お膳立て」がある。まず初めにタエ子とトシ夫が対面するシーン=駅にタエ子をトシ夫が迎えに来るシーンも、カズオ義兄さんが来るはずだったのが、「昨日急に電話があって」トシ夫が迎えに来ることになったのだ。この辺からして、周りが二人がくっつくことを期待して策略を練っていることがわかる(たぶん)。クライマックスでおばあちゃんがズバリ核心に迫ったことを言ってしまうのも、はっきりしない二人に業を煮やしたからだろう。

例えば、都会に住む家族に畑を間貸して利益を得ている「農家」のように、人材が流出し農作物も輸入に押される「田舎」が、どうにか都会を利用し、生き延びようとする、そんな感じなのだ。

うーん、そんなふうに見てしまうのは、私が、「田舎」で「農家の長男」として生まれたくせに、東京に憧れ、似非東京人やってる「田舎型スノッブ」人間だからでしょうか?

※とはいえ、これは、本当によくできた映画です。なんでも、「いま」と「思い出」のシーンが違ったトーンで描かれてるのだが、そのために時間も手間も二倍かかってしまったらしい。でも、「心の旅」をたどるというテーマがそれによってより明瞭に描かれたのではないでしょうか(と、水野晴郎が言ってた。昔)。

※日大のお兄さんが「市民と学生の連帯」と言っていた。いまどきの学生は「連帯」なんて言わない。学生運動とか全共闘とか、そういう時代だったのかね。

2004.07.01 Thu リニューアルだよ!全員集合

「言葉」が違う、と思った。
自分の知らない、未知の他人に向けて何かを伝えようとするときに、まず基本的な「言葉」のすり合わせが必要なんだと思った。まずは相手の立場に立って想像し、何をどう伝えるか考えなければならない。まあ、そんな感じのことは、もう言い尽くされているが、実感してしまったのだからしょうがない。

またまたHPのデザインを一新したわけですが、今回はいままでと大幅に違う点が一つあります。それは、「見た目」のデザインだけでなく、HPを形作っている元であるHTMLをXHTMLに書き換え、CSSを導入した点です。正直インターネットにはうとく、今回XHTMLに関しても付け焼き刃でしかないです。ですが、できるだけ見やすさ、使いやすさに配慮したつもりです。みなさん、どうでしょうか? 私はもうさっそく飽きています。前の方がよかった!などのご意見・ご感想あれば、お伝えください。テレパシーで。

※なんかWebデザイナーごっこが楽しくて、肝心の中身である「文章」がおろそかになっています。Webデザイナーごっこ熱が冷めたら、また気合い入れて文章書くので、もうちょい気長に待っていてください。6月分も繰り越して書くので、お楽しみに。