
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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宣伝:名古屋市東区の正文館書店で開催されている『U-23フェア』に拙著『FUCKILLOVE』も出品させていただいてるそうです。もう24歳になっちゃったけれど、出版したころは23歳だったのさ。ついでに書いたのは21歳のころさ。早く新作書きましょう。出版できるかどうかは別として。文芸社さん、正文館書店さん、拙著をご贔屓頂き、ありがとうございます。しかもフェア出品料は、ただ! さすが文芸社さんです。有言実行! 伸びる会社は違います。よいしょっ!(本当は感謝してるんです)。 東海地方のみなさま、是非正文館書店へ足を運んでみてください。
報告:『FUCKILLOVE』の9月末までにおける販売部数(推定)の報告がありました。これから返本される可能性もあるので、なんとも言えないのですが、発売3ヶ月でこれだけ流通しているのかと思うと驚いてしまうくらいの部数でした。こっそりお教えしますと、セカチュー(もちろん、あの大ヒット文芸作品『世界の中心で愛を叫んだけもの』のことですよ)の100万分の1くらいです。いや、こんなにも多くの方々に読んで頂けたなんて、本当に心の底から感謝です。読んで頂いたすべてのみなさん、本当にありがとうございます。
※注意:今回は本当に感謝しています。
うろ覚えだが、最年少芥川賞受賞で話題になった綿谷りさ氏が受賞のコメントか何かで、「私の世界は狭い」と発言し、ベテラン作家らを当惑させたというのがあった。つまり、たとえ本当にそうだとしても、小説家足るものが、自分の世界が狭いなどと「謙虚」なことを言ってどうする、昔の作家たちは嘘でも自分やその世界を大きく見せようとしていたんだぞ、そんなふうに「大人」の作家たちは言いたかったのだと思う。臆面もなく「私の世界は狭い」と言ってしまえる芥川賞作家にジェネレーションギャップを感じ、ショックを受けてしまったのだ。
なるほど、綿谷りさ氏なんかよりも僕の世界は数倍「狭い」。なんせ知人友人と会うことは稀だし、積極的に出掛けることもない出不精なのだから。大半の時間を睡眠に費やし、残りの半分を沈黙で過ごす。「世界」は「狭い」はずである。
綿谷氏の「私の世界は狭い」発言に当惑したベテラン作家らとしてみれば、どこかで、小説を書く人間とは常人よりもはるかに深く広い世界を知り、酸いも甘いもかみ分けた人間だけが「小説」を書けると信じているのだと思う。小説家に対し「人生の達人」足れと思い込んでいるのだ。なるほど、菊池寛氏などは社会に出たことのある20なんぼの歳以上でなければ小説など書けないし、書いてはいけないとかなんとか言っていたらしい。それが正しいのかどうか僕にはわからないが、少なくとも菊池寛氏にとってはそれが正しかったのだろう。それでよいのだ。ま、そういった「〜でなければ書けない」という理屈で本当に小説が書けるのならば、誰も苦労はしない。迷信はそれを信じた者だけに有効なのだ。信じ切れぬ迷信でそれこそ「迷」わされてはいけない。
もとい、「世界」ってなんだ? 世界が「広い」とか「狭い」ってなんだ? 世界中の国を旅すれば「広い世界」を見たことになるのか? 1万人の友人知人がいれば、世界を知ったことになるのか? 人の知らないことを知ってれば、世界の裏を知ったことになるのか? 皮肉でもなんでもない、僕は本気で訊ねている。「世界」とは何か? その「世界」の「広い」「狭い」とは何をもってそう言うのか? 「広い世界を知れ」と言ってしまった瞬間の世界の狭さはいったいなんなのか? 「広い世界」と言った瞬間、感じられるのはどこまで行っても同じな人間の矮小さだけ、というのは、僕という人間が矮小なせいだろうか?
実際思うのだが、世間に揉まれている人間ほど、「世界が狭い」。これは挑発的な仮説である。「広い世界」を知っている人間ほど「世界が狭い」。まあ、単純に自分の見たもの聞いたものだけで世界を構築してしまうのだから、当たり前かもしれない。想像力の領域が狭まるのだから。うーん、ヘリクツ!いや、でもだ、経験って何だ? 世界を知るとは何だ? もちろん自分の知らない人間や想像を超えた出来事に遭遇すれば、「世界を知った」気分に(しばらく)なれるだろう。でもだ、結局、そんなもんだろう。情報が氾濫するこの世界で、「私の世界は狭い」とちゃんと言える誠実さ。それを僕は評価する。確かに綿谷氏の「世界」=綿谷氏の描く小説「世界」は「狭い」のかもしれない。が、なんとも言えぬ奥行き感があるではないか。狭いのに豊穣な実りを感じさせるではないか。それこそが彼女の才能だろう。いや、「私の世界は狭い」と言い切ってしまえる彼女の強かさこそ、「広い世界」へと通じる道を予感させる。「私の世界は広い」と言ってしまったら、待っているのは袋小路のような気がする。
もちろん、僕の「世界」は、本当に狭い。綿谷氏と違って奥行きもなければ、実りも乏しい。だから彼女は芥川賞を取る(ことが必ずしも素晴らしいと言っているわけではないが、一つの指標であることは間違いない)し、僕はぼちぼちなのだ。僕は結局「世界」とは、独りで黙っている瞬間に去来するものだと思う。小説が独りで黙って書くように、独りで黙って読むのが小説なように、世界とは「孤独」と「沈黙」のときだけに訪れる何かだと思う。それは針の先ほどの黒い点のようなものだ。限りなく小さい。いつかはそれすらも消滅してしまうだろう。
そうだなあ、「孤独」と「沈黙」があるから、僕は小説が好きなのかもしれない。だって人間は「黙って」「独り」で死ぬのだから。究極、小説も世界も死も沈黙と孤独とともにってわけだ。
(俺に足りないのは、広範な知識と経験、それと集中力。致命的だ。ドクター・テンマによろしく。)
人間はごはんを食べるためにあるいは人並みの生活を送るためにあるいは世俗の贅沢を味わうために毎日あくせく働く。人生とは生きるとは究極の所忘却ではないかと思う。働きいそがしさのなか何かを忘れる。何を?生きるとは何か?という問いを忘れるためだ。生きるとは何か?生きるとは忘却だ。生きるとは刹那じゃないか。刹那の連続こそが生きるということじゃないか。何を思い煩う必要があるだろうか。未来や過去を憂いて何になる。労働もセックスもスポーツも博打も酒も音楽も戦争もありとあらゆるものは忘却のために存在し忘却によってのみ生きることが可能であり忘却が生きることそのものなのだ。死ねば人間はどこに行く?あの世か天国か地獄かそれとも無か。知らん。知らんが、私たちはこの世に生きている。いま、生きとる。刹那の連続忘却の連続として生きとるし生きながらどこか遠くを目指している。はみ出したがっている。逸脱したがっている。何があなたや私を忘却させるか。何が。ふと暗闇に身を沈めたときに訪れる問いと覚醒。何にすがる?何がこの世を忘れさせるだろうか?この世の外へ。この世の外へ行ってみたい。どこまでいってもこの世の果てでしかないのかもしれんが。逸脱したい忘却したい越えてみたい。この世の果てのあの世との皮膜を触れてみたい。
例えばすべてを手に入れた人間は何を欲するのだろうか?できればあなたがすべてを手に入れた人間が欲するものを初めから欲し手に入れ死に物狂いでそれを守り続けるそういう人であったなら、あなたは幸せな人だろうし、私はそれがうらやましい。いや、そんな人はいないだろうが。いないだろうが、働きながら忘却しながら、ふと訪れるすべてを手に入れたあとの問いに挑みたい。自分を越えたこの世を越えた問い。忘却のあとに訪れる完全なる覚醒。この世の外へ。何が、僕を私をあなたを、この世の外へ連れて行くだろうか?
阪本順治監督『この世の外へ』
この雑文の更新が滞っていたのは、小説家をきっぱりあきらめた僕が、背に腹は代えられないとばかりに、「秋採用」をねらって就職活動に励んでいたからです。「秋採用」とは留学に行ってらっしゃった方や大学院生を対象にしたものなんですが、いやはや「小説家志望くずれ」は相手にされないんですね…。「すべて不採用だった」になってしまいました。僕のような無能な人間を雇ってくれる会社はこの平成不況の終わりが見えてきた今日この頃とは言え、どこにもないようです。かといって数日前に届いた「印税」の通知書に書いてあった金額では、とてもとても卒業後に人並みの生活を送っていくことは不可能です。印税=1200円×(初版部数1000部−著者用200部)×2%(印税率)じゃ、とてもじゃないが半年暮らせません!(印税の振込は半年ごと)。っていうか、最初に出版費用で初版の分の製作費を払ってるんだから、初版の印税って、なんだそりゃって感じでしょ? 最初から出版費用から引いときゃいいじゃん!って感じじゃん? まあ、そういうことに気付かず「印税が振り込まれる」ってことで作家気分を味わえて満足する「お客様」がいるからそういうシステムになってるんだろうけど。にしても、2%って!なんじゃ? …まあ、いいや。とにかく「小説家志望=自費出版小説家」である僕は、「印税」では食っていけないので、人並みに働かなければ行けなくなりました!ってことです。でも自分の書いた小説と同じように「すべて不採用」という結果になってしまったので、路頭に迷っています!ちなみに、一之瀬尚紀くんは休学して以降も親の仕送りで暮らしてたのでしょうか?(スネかじりめ!) 僕はけなげにも消費者ローン(ワカパイの)で借金しながら日々の糊口を凌いでいます。正直、実家に帰ろうかとも思ったのですが、電話してびっくり、実家の親はいつのまにやらどこかに引っ越してしまっていました(実話)。どこに行ってしまったのでしょうか? まあいいや。この雑文をご覧の採用担当のみなさま、もしよろしければ、僕を雇ってください!! 社史編纂とか得意ですから!
【松田龍樹のリレキショ】
1980年8月20日生まれ。熊本県八代市出身。
公立小学校、公立中学校卒業。
私立高校中退。
現在、S大学文藝学部賣文科在学中(2005年3月卒業予定(55%))。
資格・免許など:英検5級 日商簿記3級 普通免許(仮免まで)
特技:小説を書くこと(自費出版の経験あり)
趣味:小説を書くこと(好きな作家は自分自身♪)
長所:前向き
短所:自信過剰
希望する職種:広告代理店か商社(モテ系)
希望する月収:25万以上+出来高
希望する勤務形態:フレックスタイム(朝は苦手)
で、どうでしょうか? 連絡お待ちしております。
能田倫之助より:
彼はいま薬を飲んでベッドで寝ています。主治医の先生によると軽度の妄想病らしく、過剰なストレスの日常的圧迫により、現実と虚構の区別が曖昧になってしまっているのだそうです。リハビリのためには、上記のような文章を好きに書かせるのが効果的だそうで、本人の了解を得て掲載しています(ただし、私の文章は彼のパソコンでは見れないようにしていますが)。
この病室からはきれいな海が見えます。ここでしばらく静養すれば、彼も元気になるのではと私は期待しています。何が彼をそこまで追いつめたのかは知りませんが、私は完治すると信じています。あ、そうそう、就職活動の件ですが、とある零細企業から連絡があり、彼を雇ってくれるそうです。なんでも彼のように、繊細でナイーブで神経症的な人間を積極的に採用している会社だそうで、「働くことがリハビリになるよ」と代表者の方がおっしゃられていました。奇特な方もいるもんです。とりあえず、そういった面の心配は必要ないようです。ですので、みなさまにおかれましては、どうかもう少しの間、彼を暖かく見守ってやってください。
@深夜にマンハッタンなんとかというドラマ(脚本クドカン)やってる。
Aエンディングのマンハッタンなんとかという歌の歌詞はなぜか胸がキュンとする(作詞クドカン)。
B「虎乃門」見てたら、井筒監督が『華氏911』を否定していた。
Cその理由が知りたい。
Dっていうか、僕は『華氏911』を支持する。スカしてても何もはじまらないから。多少不格好でも行動を起こした人間だけが世界に変化を与えると思うから。(もちろん、正義なんてのは狂人の戯言だし、自分が正しいと思ってしまった瞬間に色褪せるものもあるのだろうけれども。狂って候です。)
E『群像』の今月号の「侃侃諤諤」はおもしろい。
F「侃侃諤諤」ってなんて読むんだよ!って思った貴方、成長するチャンスです。
G〜大学なーんて、いーったこともーないのにー♪(卒業したい!)
Hモテの2大勢力を徹底解剖[商社クンの1週間]VS[代理店クンの1週間]
I「スーツでモテる」男になるべく、現在就職活動中なボク。(ヒント:電通の創業者は熊本の人!)
能田倫之助より:
リュージュくんの携帯に何度電話しても出ないので、今日彼の自宅に行ってみると、『ゲイナー』(20代後半男性向けファッション雑誌)を読みながら、髭もじゃ髪ぼうぼうの異臭を放つ男がベッドの上に座っていました。まさか、と思い顔をよく見ると、彼でした。松田龍樹その人でした。どうも、あまりにも悲惨な日常生活に耐えかねてとうとうあっちの世界に行ってしまったようなんです。自分が「モテの2大勢力」である広告「代理店」マンになったという妄想を見続けています。「ピンクがOL受けいいらしいよ」とか呟いています。どうしたらいいのでしょうか? 何が彼をそこまで追いつめたのでしょうか? …やはり、「現実逃避的な自己実現」である「小説家になる」という目標が彼のような凡人には重すぎたんでしょうか? 私にはわかりません。わかるはずがありません。お金も地位も名誉も美しい恋人も、すべてを手に入れてしまった私には、彼の苦しみなどわかるはずもないのです…(涙)
鳥越俊太郎
堂本剛
長瀬智也
佐田真由美
アンガールズ
西村修
一言コメント:
鳥越俊太郎:いい人感が滲み出てる。女だったらこういう人と結婚したい。
堂本剛:憂いがあるよね。憂いと屈託を噛みしめた笑顔こそ、本当の笑顔だよね。
長瀬智也:主役は弟です。あのヘアースタイルでもカッコイイのは彼だけだろう。
佐田真由美:ステキやん。
アンガールズ:なんで味方同士、争わなきゃなんないの?
西村修:無我。しゃべってるの見てて、誰かに似てるなーって思ったら、(しゃべり方が)向井秀徳さんにそっくり。共通点はどちらも「求道者」的なところかな。
※テレビの見過ぎ&恋の季節到来
と、いうことで。童貞っぽい夢を見ちまったぜ。とてもここに書けないような、しょーもない夢(ドリーム)。
なんか憑き物が落ちたみたいに、小説とか哲学への興味が急速になくなってしまいました。ま、もともとムラのある性格なので、周期的にそうなるのですが。いや、厳密に言うと、文芸誌に載ってる「小説」やアカデミックな範囲での「哲学」に対して、興味がなくなったというか、遠い存在に感じられてしまって、リアリティが消え失せてしまった感じなのです。
ほとんど文芸誌を読む気がしなくなったのですが、いちおう今月号の『新潮』を買ってみて、筒井康隆氏、町田康氏、中原昌也氏の対談だけざっと読んでみました。それぞれ型破りな作家なんですが、その中でも、中原昌也氏が飛び抜けて異端っぽい感じがして、すげーなーって思いました。あと、三人ともまーなんというかアウトローというか異端児というか、そんな感じの人たちなんですが、やっぱ三人集まってしまうと「褒め合い」になってしまい、どこでも見られる凡庸な「リップサービス」合戦を演じてしまうのが、なんというか、「世間」という魔物の力を改めて思い知らされてしまった感じがしました。所詮、小説なんて独りで黙って書くものなんですよね。
クイズ:
今日の雑文のタイトルはあるマンガのセリフからの引用です。さて、なんというマンガでしょう? 正解の先着一名様に、拙著『S大学物語』と『FUCKILLOVE』を10冊づつ差し上げます(余ってしょうがないから)。メールかテレパシーでの受付けです。
人間が最後に死守しなければならないのは“精神の自由”である!!
“精神の自由”を守るべき場は人それぞれ――芸術、哲学、宗教、その他数々――あるだろうが、僕にとってそれは「小説」である。僕にとって「小説」とは一生を共にする“精神の自由”の場であり、それを一生かけて守り、育てなければならない。“精神の自由”。それは何か? わからない。ただ、油断すると人は“奴隷の精神”に陥ってしまう。そう、みずから“不自由”を望むのだ。“精神の自由”、それを支える“強さ”。僕にはそれがあるだろうか? “精神の自由”。“精神の自由”としての「小説」――どうかどうか、それだけは、守り通させてください!
なんだかんだ言っても、万人にウケるおもしろい話とは「浪花節」なんだと最近思う。あとはその変奏だ。濃淡を変えたり、装いを変えてみたり。でも、時代や文化は変われど、一途な思い、困難な恋愛、義侠心、そういう「熱さ」に人は打たれるのだろう。まあ、その「熱さ」に関するリアリティが時代によってまた濃淡があるのだろう。いまは、その「熱さ」がまた求められているのだろう。どうだろう、10代20代の人々にとって、「熱さ」とは、いまどのようなリアリティで受け入れられているのだろうか。僕の個人的な感想としては、80年代生まれ=バブル崩壊後育ちの年代だけがエアポケット的に「熱さ」に対して「冷めている」気がするのだが。気のせいかな…。あるいは「ニューアカ」的なものにかぶれた人も「冷めている」気がする。それ以外の年代、人々は、概ね「熱い」物語に抵抗がない気がする。
そうでもないか…
ただ、自分の体質的には、「熱い」物語が本当は好きなんだろうなと最近ようやく再確認できはじめた今日この頃。うーん。何かつまらない見栄やこだわりが僕から脱ぎ捨てられれば、おもしろいように、おもしろい「熱い」物語が書きまくれる気がするのだが。まだまだ去勢と「限界」の再確認が足りてないんだろうな。
純文学の最先端・最深層が、僕が読んだとして、わからないとしても、それは物理や化学の最先端の理論なんかがわからないのと一緒で、でも、その僕には理解できない最先端の理論が、身近な家電なんかに使われているように、僕らが何気なく、当たり前のように使っている言葉や概念、基本的思考態度、価値観を深い部分で支えているのが、文学(の最先端)なんだろうな。たぶん。まだまだ修行が全然足りない僕です。日々是勉強です。最近人生がおもろいです。
拙著『S大学物語』の売れ行きが順調なようです。本当にありがたいことです。ここも僕の知らない誰かが見ているんですよね。卑屈なことばっか書いていないで、もっと前向きで明るい人間を演じたいものです。このまま順調に売れれば、今度本を出すときはタダで出せるかもしれません。もう本を出すための金も底をつきたことだし、是非今度は、請われて出版できるように部数実績を作り、よりクオリティの高い作品を書き上げたいものです。いやいや、まずは買っていただいたみなさん本当にありがとうございました。
17、8のころの日記を発掘して、ひさびさに読んだのだが、基本的な思考=志向=指向は変わっておらず、やっぱ人間は変わらないのだなーと思ってしまう。僕は17、8歳のころは高校には通っておらず、近所のちっちゃい予備校に通っていたのだが、ほとんど友達もおらず暗かったなあと記憶していた。だが、日記を読むと意外に多くの人たちと出会っていたことに気づいた。他人の日記なんて読みたくもないし、うんこだと思っている僕だが、みなさんへの嫌がらせのために、すばらしい16歳のころの日記を(世界に)公開します。誤字脱字も言文のママ。
1997年2月14日
バレンタインデー。もられるわけありません。だって学校休んでばっかだもん。でも2回○○さんから電話かかってきた。「今日がっこうこないの?」って。
ちなみに「○○さん」とは当時好きだった人です。この文章を読んで泣きそうになるのは、きっと僕だけでしょうね。日記なんてそんなもん(究極の自己満足)です。(その延長で小説を書いてしまうから、ダメなんですよ。小説は自己満足ではなく他者満足のためにあるんですから。他者満足が自己満足と重ねれば言うことないですが、そういうのができる人は天才なんでしょうね。どうでもいいですが)
っていうか、正直そんな電話あったか、記憶にないです。本当ならうれしくて憶えてるはずなのに。こんときは確かインフルエンザかなんかで寝込んでたんだと思います。うーん、さみしさのあまり幻覚を見たのでしょうか? ありえますね。高校を辞めたのはこれから1ヶ月後です。いろんな意味で痛いですねー。現在に至るまで。今月はこんな感じで行きましょうか。(お勉強熱も冷めたし)。