
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
Return to:Archives
It’s a Perfect World.
と、いうことで、11月はHPはじまって以来【雑感雑文】を毎日更新したことになる。「毎日」というのは、それだけで何か意味が発生してくる行為である。たとえそれが己の無力さを日々実感する行為だとしても。
11月の雑文をざっと読んでみて思うのは、結局、今月も何も書かなかった、ということだ。謙遜でも卑下でもない、事実として、私は何も書かなかった。「書く」というのは本当に難しいことだ。万能感と無力感、そのどちらにもなびかない心の強さを必要とする。自分の限界というものを、否が応でも思い知らされる。
また来月も何かを書こうとするだろう。しかし、それはまたそのときのことだ。書かれたものだけが、私なのだ。
* * *
私は改札を通り、駅のコンコースを抜け、エスカレーターに乗る。上りのエスカレーターは混んでいるが、下りはまったくだった。このエスカレーターはビルの外と内をつなぐもので、やたらと長かった。徐々に降りるにつれ、街の雑踏やネオンが視界に入ってくる。自分の身体が下降していく感じや、街や人々を高所から遠望している感じが、ほんの一瞬だが私に高揚感をもたらし、この街への漠とした期待感へとすり替わっていく。多くの者がこのエスカレーターの演出に騙され、この街を神聖視してしまうのだ。そして、みずからがこの街の王であるかのように錯覚する。
エスカレーターの昇降口では蛍光色のジャンパーを着た女がチラシを配っている。手渡しながら何か口にしているが私には聞こえない。チラシの女は私にも何かを訴え、それを差し出した。原色を配したそのチラシを私は受け取らずにエスカレーターから離脱した。もし私がポケットに手を突っ込んでいなければ、それを受け取ったかもしれない。そうすれば、そのチラシを詳しく見ることもできただろうし、何かそれに触発されて行動を起こしたかもしれない。しかし、私はポケットから手を出すことをしなかった。
私はエスカレーターを降りて二、三歩歩き出し、ふと立ち止まった。
I love ROSA Kato.
――にわか雨(雷雨)。軒先で雨宿りしているローサ。
ローサ(すすり泣いている。)
――そこに岡村が駆け込んでくる。
岡村 ひゃー、濡れた濡れた。突然、こんな降るなんて、だから夏のにわか雨って嫌いなんよなー。うわ、参考書もびしょびしょや、どないしよー。(ローサに気づいて)あ、すんません、一緒に雨宿りさせてもらって、かまいませんか?
ローサ はい…。よかったら、ハンカチ、使います?
岡村 あ、いいっすよ。あなたも濡れてるじゃないですか。僕は大丈夫やから…(ローサの顔を見て)あれ、もしかして、泣いてはりました?
ローサ えっ…
岡村 あ、ごめんなさい。ああ、なんだ、雨で濡れてただけや。ははっ、勘違い勘違い。
ローサ …夏の雨っていいですよね。
岡村 え?
ローサ うじうじしてないっていうか。ぱーっと降って、ぱっと止んで、気持ちがいいじゃないですか。…この雨の中だったら、わたしも思いっ切り泣けそうな気がしたんです。
岡村 (おそるおそる)なんか、あったんですか…?
ローサ たいしたことじゃないんです。オーディションに落っこちちゃって。
岡村 オーディション?
ローサ はい。わたしジャズピアニスト目指してるんですけど、全然ダメで…
岡村 へー、すごいやないですか。夢があるだけ立派ですよ。僕なんて大学落ちちゃって、予備校通いですよ。せっかく10代最後の夏やのに、勉強ばっかで…
ローサ え? もしかして、19歳ですか?
岡村 はい。そうですけど…
ローサ じゃあ、同い年ですね。わたしも19です。
岡村 あ、そうなんや。
ローサ あはっ、なんかうれしいな。19ってなんか特別じゃないですか。そのとき、その歳の人にしかわからない気持ちがあるっていうか…
岡村 はは、そういやそうやなー。18だとなんかまだ子供やし、20歳やともう大人になっちゃったって感じやしね…オレら19歳がなんか一番中途半端で、宙ぶらりんなんかもなー。
ローサ そう。わたしもよく先生に言われるんです。おまえは気持ちと実力のバランスが取れてないって。
岡村 あ、オレもオレも。志望校は立派なくせに、偏差値は低いって。はははははっ。
ローサ はははっ。(空を見て)あれ? もう雨、止んでる。
岡村 あ、ほんまや。めっちゃ晴れてる。これやから夏のにわか雨は気まぐれで困るわー。
ローサ あ…、なんか変な話に付き合わせてごめんなさい。
岡村 ううん。なんかオレも元気もっらった気がするわ。
ローサ わたしこそ。
岡村 ね、ちょっと思ったんやけど、19歳って雨宿りの時期なんちゃうんかな? 10代が終わって、20代がはじまる、その間の雨宿り。不安で不安でしょうがなかったりするんやけど、きっともうすぐピカピカに晴れる前の…
ローサ そっか、雨宿り、か。気づいたら、雨上がってた、みたいな?
岡村 そうそう。きっとそうや。
ローサ うわー、すごい入道雲。
岡村 ほんまや。なんか希望がわいてくるなー。よーし、がんばるでー。
ローサ うん、わたしも。
岡村 ほいじゃ、オレは予備校があるんで。
ローサ うん。ほんとうに、ありがと。
――走り去っていく、岡村。
岡村 (突然立ち止まって振り返る)あっ、名前。(遠くから呼びかけて)名前なんていうの?
ローサ 加藤ローサ。あなたは?
岡村 岡村。岡村隆史、19歳!
矢部 オチ、ついてるやん!
* * *
結局、私は終着駅まで乗車し続けた。この車両に限って言えば、一人が降り、一人が乗ってきた。それぞれが乗り降りした駅は別だったが、どちらも快速の停車駅ではないことが、私にとって救いだった。これは各駅停車の電車だ。せめて、気忙しい快速が素通りする駅で乗り降りして欲しいではないか。私はこの各停になんの義理も恩義もないはずなのに、いちいちそんなことを思い、安堵したりした。私は少し各停電車に執着しすぎだった。悪い傾向だ。向こうはそれを欲していないはずなのだから。
私は電車を降りた。待ちかまえていた客たちによって、私が今しがたまで乗っていた電車は満員になった。椅子取りゲームに敗れた人間たちは、それを敗北と認めることなく、しばし目的の駅までを立ち続ける覚悟を決めた模様だ。
私は地続きとなった改札までを人の流れに逆らって進んだ。歩きながら、ポケットの中の切符を確認し、自分が乗り越してはいないことに気づいた。私ははなからこの駅で降りるつもりだったのだ。
I am Prince.
最近ではメールやネットの普及により、いわゆる顔文字というのをよく目にするようになった。言葉や文章だけでは伝わりにくいニュアンスを簡便に的確に伝えるのにたいへん便利だ。
と、いま書いたが、それは嘘だ。「言葉や文章だけ」では「伝わりにくい」と書いたが、そうではない。言葉や文章では「伝わらない」ニュアンスを顔文字は伝えているのだ。
と、いま書いたが、それはほとんど思いつきだ。しかし、それは実際にやってみれば正しいかどうか確かめられるだろう。簡単だ。顔文字を使わずに、顔文字が伝えるのと同じニュアンスを、言葉だけで伝える文章を書いてみればいいのだ。もしそれができないとなれば、やはり、顔文字は、「(言葉では)伝わりにくい」ものではなく「(顔文字でしか)伝わらない」ものを伝えているのだ。(めんどくさいので「実験」はしないが、各自チャレンジしてもらいたい)。
ところで、顔文字というものが普及する前の顔文字的な役割を果たしていたほぼ唯一のものと言えば、(笑)ではないだろうか(ヴァリアントとして(苦笑)などもある)。現在、顔文字が普及したと言っても、もっぱらメールやネットでの使用がほとんどだろう。だが、(笑)は多少お固めの対談録などにおいても使用されているのをしばしば目にする。
日常の会話をいちいち文字に起こしたりすることはないが、もしやったら、(笑)は少なからず使用されるだろう。顔文字が普及したせいかどうかはわかならいが、最近の会話は顔文字のニュアンスすら含んだものが多い気がする。それはアニメやマンガの擬音をいちいち口にするアニメ好きの人たちの言動に通ずるものがあると思う。
なぜ(笑)は必要か? なぜ顔文字は必要か?
まあ順当に考えれば、日常会話において、(笑)に相当するニュアンス(もちろん、最初は(笑)というもの自体ない)が、表情などの言葉以外のもので伝えられていて、それを文字に起こすとき、または文字でそのニュアンスを伝えようとして、(笑)が「発明」された、ということだろう。まあ顔文字の発生も同じだと、とりあえずしておく。
「文字」の発生を考えてみても、まず「声」としての言葉があり、それを視覚的に表現し音声に対応させたのが「文字」である、と考えるのが普通だろう(言語学的に厳密なセオリーは知らん)。(笑)や顔文字は、もともとが「声」ではなく、主に「表情」や「しぐさ」に由来するから、普通の文字とはいちおう別口として扱われるのだろう。しかし、顔「文字」であり、現に(笑)と表記できるのだから、「文字」であることに違いはないと思う。そもそも漢字が象形文字であり、モノの見た目を抽象化し簡素化してできたことを思えば、顔文字というのは「表情」や「しぐさ」を抽象化し簡素化してできた「文字」なのだろう。
私は別に顔文字というものを、(どこぞのトンチンカンな教授がやりたがるように)アカデミックに分析してみせようとしているのではない(っていうか、無理)。そうではなく、ただ日常生活でのメールのやりとりやネットの文章を見るたびに、顔文字というものの「便利さ」を実感してしまったからなのだ。いちおう私は顔文字は使わないことにしている。それは単に私が保守的であり、顔文字が照れくさいからという理由がほとんどであり、あとうんことは言え文筆業を志しているから(あと美観的に)、というのがある(もちろん、文筆業を志す人が顔文字を使ってはいけないとか、使うようなやつは文筆業失格だと言っているのではなく、顔文字の使用不使用に限らず、何か自分に禁忌を持たせることは、己のスキルを伸ばす上での一つの方法である(例えば、写真家を志す人がカラーでは撮らない、とか、映画監督を志す人が、習作としてサイレント映画をあえてつくるとか、そういうの)と私が思うからで、たまたまその禁忌の一つとして顔文字の使用を設けているだけです。逆に顔文字を自在に使いこなすというスキルが身に付かず、近い将来、顔文字が文筆業の世界でも市民権を得た場合、私は乗り遅れたことになります。そういうリスクもあるということです)。
顔文字を禁止していると、余計に顔文字を使った文章の便利さや情報量の多さを痛感してしまう。自分で書くときも、顔文字が使えたらうまく伝えられるのにな、と思う場面がしばしばある。顔文字は使用禁止だが、いちおう(笑)はOKということにしている。文芸誌などの対談でも使用されているから、まいっか、という程度の理由だ。
いや、別にそんなことが言いたいわけではない。
さっき、「ニュアンスがまずあって、それを文字上で表現するために(笑)や顔文字が生まれた」というようなことを私は書いたが、まあそれが仮に正しいとして、最近私が思ったのは、私たちの日常の会話やメール等の文章のやりとりにおいて、(笑)や顔文字というのがあまりに便利すぎるためか、そういった顔文字在りきで文章が(あるいは会話も)組み立てられすぎている、ということだ。いや、私はしかつめらしく「日本語の乱れ」とかを訴えているわけではない(そんな資格も能力もないし、別に「乱れ」とも思ってないし、「正しい日本語」とか「うつくしい日本語」とかの押し付けがましさや商魂のたくましさにどちらかと言えばうんざりしているのだから)。
文字というのは概念だ。例えば「山」は山という概念を表している。それは個々人で厳密に意味するところやイメージが違っているだろう。まあ、でもお互いに「山」というものを抽象として話している分にはそれほど支障はない。顔文字だって「文字」なのだから、概念のはずだ。そう顔文字=文字=概念、だとするなら、ね。しかし、日常会話において、(声としての)言葉で表現されている情報に補足としてニュアンスを与える「表情」や「しぐさ」は「概念」なのだろうか? (うーん、わけわからんくなってきたぞ。この辺が偏差値50の限界です)。いや、顔文字があまりにも普及し、顔文字抜きでは文章を成立させられなくなっているために、本来はニュアンスとして付加されるべき「表情」や「しぐさ」が概念というか、一つのパターンに堕していないか、と私は思っているのだ(いや、そんなことが言いたかったのではないぞ…)もちろん、会話なんてのはパターンの応酬でしかないのだが…。(んー、「貧しい日本語」的な陳腐な結論にいってしまいそうでいやだ)。
何が言いたいのか(いつも通り)わからなくなってきましたが(いま気づいたが、この()というのも、(笑)や顔文字的な「ニュアンス」の表現として多用されているんだな)、いまの顔文字OKの文章は顔文字で表現が豊かになっているというよりは、補足的な役割であるはずの顔文字に引っ張られて、むしろ「ニュアンスだけ」のやりとりになってしまっているような気がする(ほんとは、してないんだけど;)。まあ、物事をはっきり言わない雰囲気だけで会話する日本語らしいと言えばそうなのだが。
列記:
・顔文字は顔文字でしか伝わらないニュアンスを伝えている。
・それによって、同じ文章であっても相手に与える印象が微妙に違ってくる。
・顔文字が普及した現在においては、顔文字在りき、もしくは顔文字先行の文章が組み立てられやすくなっている。
・顔文字は概念であるが、実際の会話において「表情」や「しぐさ」で概念を表現するというのは、便利だが、「表情」や「しぐさ」の個々人ごとの個性が見失われがちになるのではないか。
結論:
顔文字込みの文法に慣れているために、文字ではない声による会話の場面でも顔文字込みの文法でしゃべってしまい、結果、表情やしぐさが、概念(言葉)になってしまっている。(シャープな意見お待ちしています)。
追記:
すでにある「概念」だけでモノを語るのは簡単だし、一見表現力豊かに見える。しかし、それでは世界が固まってしまう。私たちが目指すのは「ないもの」(まだ顕現していないもの)を言葉で語ろうとすることだ。そう顔文字は、もう「すでにあるもの」になりすぎている。いや、それがわかっているから、顔文字は現在もなお複雑化し、増殖しているのだろうか。それは、一つの「進化」だ。私としては、「ないもの」を語る表現力が欲しいだけなのだが。ムツカシイ(とりあえずボキャブラリーはもっと増やそう。でないと、「ない」と思い込んでるだけかもしんないし)。
ということで、Wooooo, MAMKO!(壊)
* * *
すれ違う電車は満員だった。誰しもが一日の疲れというものを少なからず体外に漏らしていた。こちらの電車に乗っている人々とは別種の半ば健康的な疲労感だった。今日最後のお勤めであるその満員電車さえ耐えてしまえば、ようやく解放感と安堵感に包まれる人々なのだ。とは言え、あの他人同士の緊密さは異常だろう。もし乗ってしまったなら、目をつぶってやり過ごすしかない。
こちらの車内は閑散としている。しかし、私を含むこの車両の乗客はむしろ閉塞感に包まれ、何かのガス抜きを求めてこの電車に乗っていた。終着駅に待っているのは解放感などではない。待っているのはうしろ暗い刹那的快楽だけだ。それすらありつけるかどうか…。
外を流れる風景は暗く、見えるのは外灯や民家の明かりだけだった。それすらも夜を強調するものでしかない。白々しい光に照らされ私たちは異常な速さで移動している。私たちはさみしい人々なのだ。
今日更新できるかどうか、それが山場です。
野暮用があるんでね! 帰ってこれるかどうかすらわかりませんが。帰ってこれたら必ず雑文と小説のようなものを更新します。ご期待あれ!
* * *
ということで、更新だコノヤロー。
精神と時の部屋から帰ってきました。この修行の成果は近いうちに。
ということで、妄想迷宮:第23室目。
* * *
ドアが開いたが乗り込んでくる人はいなかった。私の位置から見えない車両には誰か乗り込んだかもしれない。あるいは誰かが降りた可能性だってゼロではない。仮に誰一人この停車駅で乗降しなかったとしても、それを無駄骨だったとは誰も言わないだろう。各駅停車とはそういうものなのだから。誰も乗り降りしない駅では、停車しないなどという合理性はこの鈍行には無縁なのだから。むしろその不合理を好んで私たちは多くの場合、快速電車よりも各停を選ぶのだから。いまこの駅で誰も乗降しなかったことは各停の面目躍如なのだった。
私は緩やかに揺れる車両に併せて、無駄なことばかり私の小説に書き付けていた。右端の乗客はすでに安眠の体勢だ。斜め左の中年男性はあごを上に向けたまま目をつぶっている。何か考え事だろうか。頭頂部は薄く、背広はだらしなく着こなされている。この時間、歓楽街へ向かう男たちだもの、やましさのない人間などいないだろう。
やさしい文学
『FUCKILLOVE』を書き終えて、それについていろいろ考えているときに、これは僕なりの「サバイバル術」について書いたものなんだなと思うようになった。だから、トップページの惹句にも「実戦的、現代日本サバイバル術」と書いている。最近、どなたかのブログで読んだのだが、特に若い人の小説すべてに見受けられるテーマは「サバイバル」だそうである(※記憶だけで書いているので、細部に誤差ありと思われる)。これにはひどく納得がいく。
具体的な事件について、こういう場で軽はずみに書くのは控えるが、ここ数日とても心が痛くなるような事件が多数報道されている。それらの事件がより深刻に僕に響くとしたら、(非常に誤解を招きやすい言葉しか浮かんでこないのだが、僕の本を読んでいただいた方なら、早計な判断はなされないだろうことを期待して書きます)、被害者の方々よりもむしろ加害者の立場に、自分が近いということだ。というのは、単純に年齢や性別の相似をまず第一に指すのだが。いや、それ以外について僕が「似ている」と感じたとしても、それを語ったとしても、あまり意味がないだろう。加害者の置かれていた状況や心理的葛藤が僕にも身に覚えがあると仮に思えたとしても、結局、加害者の「心理」なんてのは本人にすらわからない、他人が恣意的に(ゆえに自分に引き寄せて考えがちに)推断する類のものでしかないと思うからだ。
最初に「サバイバル」と書いたが、これは具体的に言って、単に「生き延びる」というだけでなく、もう少し若者の実感(といっても僕の推測だが)に即して言うなら、「殺さず殺されず、生き延びる」という含意がある。もうこれだけ言えば、ある年代の人たちにはリアリティを持って受け止めてもらえるはずだろう。「殺さず殺されず」であり、もちろんそれには「自分自身を殺さない」ことも含まれている。もしいま僕が書いていること、言おうとしていることに実感が持てず、字面だけで戦々恐々としている方がいたら、早まらないで欲しい。僕たちは何も、具体的に、今日明日にでも、「誰かを殺す」とか「誰かに殺される」という状況に追い込まれている、と言っているわけではない。現実はむしろ「真逆」だろう。いまも戦争が行われている国や地域があることを思えば(←こういうことでしか僕たちは<いま・ここ>にいるリアリティを感じられないのだ。きっとあなただってそうだ。戦争を報じるニュースに興味がないとは言わせない)、僕たちは格段に「殺す殺される」的状況から遠い場所にいる。そう、僕たちは「比較的」幸せな国で生活しているのだ。もちろん、個々人の幸福など、相対的に判断されるべきものではないことはみなわかっている。
現実において「殺す殺される」心配がほぼ最小値をなす国で、実感において「殺さず殺されず」という覚悟を多かれ少なかれ強いられること、そういう状況、に僕らは生きているのだ、という認識が若者にはあるはずだ。それは(不幸ではないが幸せでもない)実生活と、連日報道される陰惨な事件・戦争及びそれらと等価あるいはそれ以上のリアリティをもって享受されるマンガ・アニメ・ゲーム・インターネット・映画・小説など、とのギャップを埋める心理的作用とも言える。「実生活」に追われるものは、遠い国の戦争や世界の終わりとか始まりについて深刻に考えたりはしない(それが、「健全」というものだろう)。
「殺さず殺されず」という現代日本特有のサバイバル意識を決定的に象徴づけた作品はなんといっても『バトル・ロワイアル』(高見広春)だろう。あるいは、どこぞのコメンテーターではないが、この作品が近年の少年事件を「誘発」していると言った方が正確なのだろうか。この作品は、「生き延びる」ためには「殺さず殺されず」ということが徹底的に不可能な状況に少年少女たちを追い込んでいる。それこそがまさに、現代日本の若者のリアリティを象徴しているのだ。あの「バトル・ロワイアル」というゲームをサバイバルするという状況がリアリティをもっていたのではなく、主人公・七原秋也に体現されているように、「殺さず殺されず」がほとんど不可能な状況を「殺さず殺されず」「生き延びる」という「サバイバル」だったのであり、もう少し換言すれば、「サバイバルが不可避な状況において、そのサバイバルをいかに回避し生き延びるかというサバイバル」だったのが、希代の悪書(と、敬意を込めて呼ぶ)『バトル・ロワイアル』だったのだ。ちなみに付言しておくが、いま僕が述べたことは、ごく普通の若者で『バトル・ロワイアル』を読んだ者なら誰しもがごく当然に感知するところのものである。
別に『バトル・ロワイアル』について書きたかったわけではない。他にも「サバイバル」を描いたものは無数にある。例えば、ある種「サバイバル」小説の先駆者である村上龍氏の『13歳のハローワーク』だってそうだろうし、月9ドラマに抜擢されてしまう小説家吉田修一氏だって、例えば『パレード』なんかにそういった意識が強く見られる。表現方法は違えど、ほとんどの作家が現代では「殺さず殺されず」にどうやってサバイバルしていくか、を描いている。(たぶん、間違いないだろう)。
そんなことを考えていて、テレビを見ていたら、ちらっとだけ見たのだが、美輪明宏氏が、「いまの日本はぎすぎすしている。日本の古き良き伝統である文化を復活させるべきだ」みたいなことを言っていて、続けて「やさしい音楽」とか「やさしい何々」「やさしい何々」(忘れた)が必要だと列挙されて、最後に付け足すように「やさしい文学」が必要だ、と言われていた。そう、保坂和志氏も懸念されているように、日本文学と言えば暗く陰気なイメージが付きまとっている。実際そうなのだろう。美輪明宏氏の言う「やさしい文学」と保坂和志氏の志向される文学が同じものかどうかはわからないが、「暗く陰気」な文学というのはやはり「すべて」であるべきではないと思う。
いや、「やさしい文学」とはなんだろうか? 例えば『バトル・ロワイアル』はどうか? 僕たちはきっと「やさしい文学」を目指すべきだろう。そう思う。しかし、その「やさしさ」が極めて難しいのだ。陳腐な「やさしさ」に辟易しているのが、僕らなのだから。「やさしい文学」を書くことを想像するとき、七原秋也が生き延びたことの奇跡を思わずにはいられない。僕たちはせいぜい「自分だけが生き残る」ことに精一杯なのだから。どうだろうか?
* * *
私の中の桃色は電車の揺れによって攪拌され、次第に闇に溶けていく。孤独もほんのりとした幸福感も一過性のものでしかない。そういう点で私に去来する様々な感情というものは同じだった。決して留まることはない。
私は眼を開ける。車内はそれほど混んでいない。それぞれの座席に一人か二人が距離をとって座っている。その距離は他人と共存するための、孤独を感じないぎりぎりの距離に保たれていた。それ以上近ければ鬱陶しいだろうし、遠ければさみしいだろう。
私はその絶妙の距離感の調和を乱さぬ位置を探した。右端に一人だけ座っている座席があった。私はその左端に座ることにした。その座席は車両の中ではほぼ真ん中にある座席だった。向かいの壁には七人掛けであることが報せてある。この座席に七人がきゅうきゅうとしながら座るくらいなら、六人が共謀し、もっとも弱小な者を排除しようとするだろう。だいたい世間というのがそうであるように。
さっそく最初の停車駅が見えてきた。おそらくはアナウンスもそれを告げているだろう。願うなら、この座席にあと五人も座ろうとしないことだ。まっさきに排外されるのは、私なのだから。
ノミュニケーション
「トルコ世代」と僕が勝手に呼んでいるのだが(わかる人にはわかるだろう)、そういう人たちと話す機会が最近多い。何かの雑誌の中吊りで読んだが、いまの24歳ぐらいがけっこう世代断絶の境界線らしい。それはわからんでもない。僕(1980年生まれの24歳)らがちょうど、ポケベル、PHS、携帯電話、インターネットというものの過渡期に青春を過ごしているから、ある種、そういったものに若いころから触れている最初期の世代なのだ(あとファミコン世代でもある)。まあ、そういった環境が関係あるかどうか知らないが、例えばある年齢以上の人たちには欠かすことのできないコミュニケーション手段である「飲み」とか「たばこ」(これも一つのコミュニケーション手段だろう)というものに対するスタンスもだいぶ違う。ま、もちろん個人個人で違うのだろうし、いまだに「朝まで飲んで、お友達」みたいな人たちもたくさんいるのだろうが。僕はもともとお酒とかタバコに偏見があるので、最近でこそそういうものに慣れてきたが、そういうタバコやお酒を通じたコミュニケーションというものには馴染みがなかったのです。タバコはいまだに吸ったことがないのですが、お酒は多少イケます。楽しくお酒を飲むってけっこうムズカシくないですか? いつも終着点がぐだぐだです。ぐだぐだで、次の日とっても恥ずかしい気持ちになります。どうせなら記憶がないくらいに飲めばいいのに。はあ。あと、どうでもいいがスパに行きたい!(もうおっさんだな)。(なんか雑文が、ユルくなってきた。雑文以下の駄文だ! もっと硬派でアカデミシャンっぽくいきたいのに。まあどうでもいいんだが、愚痴ばっかや…)。
あと、昨日一昨日と書いたことですが、やっぱ「顔は静止画」なんて無理がありますね。ま、そうやってあーでもねえこーでもねえと屁理屈を捏ねるのが好きなんです。ということで、このHPはデジタル世代に向けて書かれています!
* * *
しばらく、私は自分が花をもらったり、あるいは誰かに花をあげたりすることについて考えてみた。私は誰からも花をもらったことがないし、あげたこともないが、いまそれよりもロンリーなのは、想像の中ですら私は、花をあげるべき人を思いつかないことだった。私は私が孤独であることに自覚的であるつもりだったが、花というものの与える幸福なイメージを目の当たりにし、よりいっそうをれを強調されたような気分になった。
花束を抱えた女性が店から出てくる。そのとき電車のドアは閉まった。大きく一揺れし、ゆっくりと動き出す。
女性は会社帰りらしい様子だった。誰かに会うのだろうか、それともそのまま帰宅するのだろうか。私はまばらになったホームの人混みの中にふわりと浮かぶ花束を目で追った。花束は改札に向かって歩いていく。どんどん小さくなっていき、すぐに見えなくなった。花弁の開いたピンクの花だった。私は花の名前など知らない。
電車は一定のリズムで、淡々と進む。私は目を閉じた。濃く深い暗闇の中にぼんやりと淡い桃色が浮かんでいた。
恋愛は総力戦
昨日の『まじめに、モテ学』第01回「かわいいとは何か?」は、テーマの設定が微妙に間違っていたかもしれません。厳密に言うと、私たちは、女の子(の顔)を見て「かわいい(orかわいくない)」と判断するが、それは「どの顔」を以て判断しているのか、ということだったかもしれません。私たちは、「かわいい」だの「かわいくない」だの、あーだこーだ言っているが「何を見て」そう言っているのか、について論じたかったのでしょう。いちおう結論として、「動画としての顔を、見る見られるという関係の中で抽象化し、静止画として捉え、判断している」ということになったのではないでしょうか? (やっぱ、問題設定とそれに答える思考力に無理があるわ…。吉本隆明と橋本治を読んで、勉強しまっす)。いちおう、まとめを。
【Check!】
・人間は(顔も含めて)動画である。
・人間は、「顔」を「静止画」として記憶する。
・「顔を見る」ということは、「顔を見られる」ということと同時である。
・「かわいいとは何か?」は次回以降へ繰り越しである。
ということで、欲しがりません勝つまでは!
* * *
ホームには花屋があった。そういったものに縁も関心もない私にしてみれば、なぜこんなところに花屋が出店しているのかよくわからなかった。ホームには二つ線路があり、この駅が終点であり始発でもあった。交互に電車が滑り込んできては、出て行く。そのたびに大量の人が降車し、花屋の前を人の川が流れていく。しかし、その中で花屋に立ち寄る人はほんの数人だった。また花屋で花を買い電車に乗り込むという人も見かけなかった。もちろん私は一日中そこで見張り番をしていたわけではない。せいぜい十五分ぐらいのことだ。ただ流れの中、通り過がりに店先の緑や花を眺めていく人は多かった。私もその一人だ。私は各停の次発電車に乗り込んだ。席は充分空いていたが、しばらくドア付近に立って花屋を眺めた。
店では中年の女性と若い男性がそろいのモスグリーンのエプロンを着て働いている。中年女性はレジで花束をラッピングし、男性は店の前の植木を店内に運んだりしている。もうそろそろ店じまいなのかもしれない。もし私が電車での移動を終え、それでもこの花屋が開いていれば何か一つ花を買うのもいいかもしれないと思った。私は生まれてこの方、花を買ったこともなければもらったこともない。考えてみれば、それは少しさみしいことだった。確かに私は孤独だったが、花をもらっても何も感じないような人間ではないはずなのだから。
半分愛してください
最近マジで頭の働きが鈍く、思考力も記憶力も減退しまくっている。こうなったら本当にアホエン・オイルを精製し、毎日の食事に加えねばと思うのだが、スーパーにニンニクを買いに行けば、世には僕と同じ悩みを持つ人が多いらしく、見事にニンニク(国産)は売り切れていた。中国産のものはたっぷり残っていたのだが、中国産、国産でアホエン・パワーに差はあるのだろうか。知っている人がいたら教えていただきたい。
頭が鈍いせいか、いろいろな疑問は浮かんでくるんだが、一向に答えは出てこない。もちろん、答えを探す過程その全体が大事なのは言うまでもないが。
疑問1:なぜ人は写真に写るとき静止するのか。
疑問2:『バイオハザード』を初めてプレイしたとき、なぜ「映画のようだ」と感じてしまったのか。「映画のようだ」という感覚は何を示唆しているのか。
■発想:人は常に動いている。特に他人と対面しているときなどは、顔、その他をかなり複雑に動かしている。
■例えば、友人の持っていた写真を見て、たまたまそこに写っていた知らない女の子を「かわいい」と思う。そこで後日、友人の紹介でその子に会ってみると、「(思っていたのと違い)かわいくない」と思ってしまった。逆に、日ごろ同じクラスなどでよく知っている女の子(しかも、「かわいい」とかねてより思っている)が、友達同士やなんかと写っている写真をたまたま見て、「あれ?(写真だとかわいくない)」と思ってしまう。もちろん、たまたまその写真を撮ったときのタイミングで、「かわいく」(あるいは、「かわいくなく」)写っただけかもしれない。まあ、しかし、「写真写りがいい/わるい」という発言が日常的にされることを考えても、写真と実物の印象が乖離してしまうという現象はままあるようだ。
■テレビに出ている有名人・芸能人についても同じような発言を耳にすることがよくある。例えば、まだテレビでは見かけたことのないグラビアアイドルがいたとして、そのグラビアアイドルをいつも雑誌やなんかで見て「かわいい」と思っている。あるとき、テレビを見ていると、初めてそのグラビアアイドルがテレビに出演しているのを発見する。すると、「あれ?(グラビアでみるほどかわいくない)」と思ってしまった。また違うケースとして、日ごろテレビで見ているアイドルを、たまたま街中で見かけたとする。そのときの感想として「テレビで見るよりも、(実物の方が)かわいかった(あるいは、かわいくなかった)」といった類のものが予想される。
■以上のように、日常的にある「印象の違い」はそれを見るときのメディアによって大きく左右されるようだ。もちろん、テレビやグラビアなどの商業媒体においては、それなりの技術が駆使されているわけだから、「印象」が違ってくるのは当然かもしれない。しかし、そうでない場合、例えば、ホームビデオ、日常的なスナップ写真などを想起してみても、やはりメディアによる「印象の違い」は確実に残る。大雑把にそのメディアを分類すると、先述の例からもわかるように、《写真(静止画)/ビデオ(動画)/生(実物)》の三つということになるだろう。
■「モテ」に関して言えば、「見た目(容姿)」の印象というのは、かなり重要なファクターであることは間違いないだろう。それは、カマトトぶった女が「私は男を顔で選ばない」とか「顔より性格」とかいう胸糞悪い発言からも推察できる(恋愛は「顔」ではない、と第一に女が否定するくらい、世間一般として「顔」が重要ということが当たり前になっているということ。本当に世間の人々のほとんどが「顔は重要ではない」と思っているなら、わざわざそういった発言がなされる必要はないから。←なぜそれほど感情的になる…?)。
■ところで、なぜ、それほどまでに、「見た目」「容姿」あるいは「顔」は重要なのだろうか。おそらく答えは至極単純だ。まさしくそれらが「見られる」ものだからではないだろうか。人間は外部から入ってくる情報の90%を視覚に頼っているというし、人間が人間に「会う」と言ったとき、それは当然のように、目の前で「会っている」ことを指す。つまり、「会う」というのはお互いがお互いを「見る」「見られる」という状態になることを言うのだ。「声」の交換(あいさつ、会話)よりも、肌の接触(握手、抱擁)よりも、真っ先に相手を「眼」で確認するというのが、普通の「会う」という状況だろう。電話でだけ話したことのある相手を「会ったことがある」とは言わない。そう、「見る」「見られる」の交換が「会う」ということなのだから、その印象の大部分を「見た目」が決定したとしても不思議ではない。
■さて、多くの場合、健全な男子は「かわいい」女の子が好きである。できれば、「かわいい」女の子と付き合いたいと思っている。もちろん、その「かわいい」の判断は個々人の主観的なものであり、「かわいい/かわいくない」を客観的に決定することは難しいが(そのへん、イマニュエル・カント氏(『判断力批判』)、あるいは、前田塁氏(「小説の設計図」)を参考にいろいろ考えてみてもおもしろそうだが、いまの私には無理、である)。個人の主観に多くを委ねる「かわいい/かわいくない」の判断だが、それが、同一人物においてですら対象を見るメディアによって印象がまちまちになってしまうのだ。では、何をもって私たちは、その女の子を「かわいい」と判断するのだろうか? そして、「かわいい」とは何なのか?
■「写真」というのは「真実を写す」と書いてしまうためか、「ありのまま」を写しているように捉えられてしまう。またビデオよりも日常的に眼に触れる機会が多いために、その人の容姿を判断する客観的材料として多く用いられる。つまり、写真に写っている姿が「かわいい」と人は「やっぱりかわいいんだ」と妙に納得してしまうのだ。逆に写真の姿が「かわいくない」と、それまで「かわいい」と思っていた自分の眼を疑いはじめ、「勘違いしていた」などと思いはじめるきっかけにもなる。(たぶんね)。
■「印象の違い」の三分類として、《写真(静止画)/ビデオ(動画)/生(実物)》を挙げたが、これらも分類の仕方によって二種類に分けられる。まず、「動く/動かない」で分ければ、「ビデオ・生/写真」となり、「客観/主観」で分ければ「写真・ビデオ/生」となる。ここで甦る疑問:なぜ人は写真に写るとき静止するのか、である。いや、まあ、屁理屈問答でしょうが。いや、もちろん、「写真は動画ではなく静止画のメディアである。だから、写る方だって静止するべきだ」とも言えるし、ま、もっと技術的実際的な理由として「動くと写真が『ブレる』から静止してもらうのだ」とも言える。どれも本当だろう。しかし、屁理屈を言えば、ああ屁理屈だが、たとえ「動いている」ものを撮ったとしても、それが「静止」してしまうのが、「写真」だとも言える。そう、動いていたって「静止画」なのだ。これはビデオで逆を考えてもよい。ビデオに撮られている人が旧時代人で、直立不動の姿勢を撮っていたとしても、それはやはり静止画でなく「動画」だろう。屁理屈で言えば、人間はどんなに「静止」してみせたところで、死んでいない限り、心臓も動いているし、顔の筋肉も微妙に運動している。人間は常に「動画」なのだ。いや、では、なぜ、人は写真に写るとき「静止画」を装うのか? しかもあるタイプの女の子などはいわゆる「決め顔」を持っているらしく、よく他の女子から「この子、写真写るときいっつもこの顔だよねー」などと揶揄される場面があるようだが、これは、まさに人間というものが「顔」を「静止画」として捉えている証拠ではないだろうか?? そう、人間は基本的に原則的に「動画」であるのに、殊、その人のアイデンティティーの象徴である「顔」に関しては、本人も他人も、その多くの場合「静止画」として保存してしまっているのだ!! いや、これは「写真」という技術が発明される前から、「似顔絵」というものが存在し、それが「似ている」と感じられることからも、「顔」とはつまり「静止画」なのだ、という意識が古くから存在するものであることの証拠となる(鏡で自分の顔を見るときを想像してもらってもよい)。もちろん、「顔」は「静止画」ではない。刻々と変化する、もっとも複雑な部分と言える。だからこそ、その全体の印象の総合として、抽象化されたものとして「顔」という「静止画」が求められるのかもしれない。あるいは、「静止画」としての「代表顔」あるいは「象徴顔」と言うべき、「統一見解」がなければ、本人にしても他人にしても混乱を来すおそれがあり、それを回避するためではないだろうか。
■先ほど「写真・ビデオ/生」という区分けをし、それは「客観/主観」であるとした。では、その「写真・ビデオ」と「生」における決定的な違いは何か? 簡単である。「写真・ビデオ」においては一方的な「見る」の視線だけが存在し、「生」においては「見る」と同時に「見られる」という視線の交換が行われていることである。そう、「生」において、相手を「見る」ということは、必然的に、眼のついている顔を相手に向けなければならないことであり、つまりは、相手からの「見られる」視線を覚悟しなければならないということだ。それもこれも、「眼」が「顔」についているためだ。「見られる」ことに自信がない人間は必然的に「見る」機会を逸する。もっとくだけて言うと、「顔」に自信のある人間は、「見られ」ても平気なため、「見られ」たくないと思っている人間に比べ、他人を「見る」機会や精度が高まり、より客観的な「眼」を持ち得ていることになる。なるほど、美女が美男子を選び、それほどかっこよくない男子がそれほどかわいくない女子を「かわいい」と思えてしまうのは、この辺の「見る」「見られる」に関する耐性及び経験値に由来するのかもしれない。
■うーん、とりとめがなくなってきました。今回のテーマ「かわいいとは何か?」。強引に結論です。つまり「かわいい」とは、「見る」「見られる」の関係の中で、個々人によって抽象化された「静止画」としての「顔」の主観的判断、なのです。??? その「主観的判断」はまた別の機会に考える必要があるかもしれませんね。また、今回は、「見る」ことだけに偏った上での「顔」の印象について書きましたが、みなさんもお気づきの通り、印象は「眼」を通してだけでなく、声、会話、スキンシップ、行動、などの総合的なコミュニケーションによって変化していきます。その辺も含めた話はまた後日、ということで。いやー、ぶっちゃけ、何も結論ってないし。
■以上で、『まじめに、モテ学』第01回「かわいいとは何か?」とさせていただきます(なにげに復活)。予告:第02回テーマは、未定!(疑問、募集します)。
冒頭の一文は、寺山修司『寺山修司少女詩集』「半分愛して」より。
ということで、嫁!
* * *
私は本屋にいた。しかしすでに用はなかった。私が読むべき本はここにはなかった。あるいは、すべてを読んでしまったのだった。私はもうこんなところで立ち止まって、小説のようなものを読んでいる場合ではなかった。
私は移動がしたかった。
幸いこの本屋は駅に接続したビルにあるため改札までは目と鼻の先だった。本屋の出入り口からは改札を抜け出てきた人たちの流れがよく見える。
私は電車に乗ろう。
切符を買ったり、改札を通ったり、ホームで電車を待ったり、そういうことをしてみようと思った。この時間ならば、それほど混んではいまい。おそらくは座席に座ることができるだろう。座って、移動しよう。
電車の揺れを感じたり、駅に停車するたびドアが開いたり閉じたり。人が乗ったり降りたり。それは電車が空気を吸ったり吐いたり、あるいは、食べ物を食べたり吐いたりしているように見えるだろう。電車は短い時間の間に同じところを往ったり来たりする。私は終点まで乗ろう。気が向けばそこで降りてぶらぶらするのもよい。気が向かなければそのまま乗って戻ってくるのもよい。その点において、私は自由だ。私は電車にさえ乗れば、どこで降りてもいいし、降りなくてもいいのだ。それはとても楽しそうだった。
ただ普通の女と普通に仲良くなりたいだけなのだ。
冒頭の一文は、『文學界』2004年12月号掲載の二〇〇四年下半期同人雑誌優秀作「けがれなき酒のへど」(西村賢太 著)より引用しました。昨日、酔いにまかせて『まじめに、モテ学』なるものを不定期連載すると書きましたが、正直、上記の作品「けがれなき酒のへど」を読めばじゅうぶん事足ります。この上、僕などが、男女の性愛に関して御託を並べたところで、滑稽なだけです。連載は断念せざるを得ません。万が一にも連載を期待していたみなさん、ごめんなさい。
『文學界』12月号には、第99回文學界新人賞の発表もありました。うだうだと選評が書いてありますが、読めば読むほど、自分というものが天才だけに許された小説を書くという所業に挑んでいることの愚かさを痛感させられます。まさしく新人賞を受賞された方は「選ばれた」人間であり、僕などは「選ばれなかった」人間なのです(たとえ今回応募していなくとも)。あらゆる場面で、このような「選択」が行われているんですね。例えば恋愛などは、その最小形態(一人の人間が一人の人間を選ぶ/選ばない)であり、もっともシビアな選択の場でもあるんでしょうね。ああ、ミゼラブル…。
果たして僕は文學界新人賞受賞作ではなく(また、いくぶん惹かれた島田雅彦奨励賞作品でもなく)、字面からして何か鬱々とした雰囲気を放っている同人雑誌優秀作「けがれなき酒のへど」を読みはじめたのでした。なんというか、迫力があり半ば滑稽な作品ではありますが、ひどく「共感」できました。「モテない」ことを自覚済みの男子ならば、同じ気持ちになるのではないでしょうか。そして僕は、たとえば、この「けがれなき」が文學界新人賞に応募されていたならば、どのような結果になったのだろうか、などと無意味な想像をしてしまいました。新人賞の選評では「こぢんまりとまとまっ」た作品が多いと書かれていましたが、それはいつものことで、最終選考に残るまでは、その編集部の意向によって選ばれるわけであり、文學界編集部としては、そつなく破綻なく小器用にまとまった無難な作品を望んでいるということでしょう。もちろん、そのような意向に合致し、なおかつそれだけでは終わらない才能溢れる作家も多く輩出されています(吉田修一氏、長嶋有氏、など)。今回、島田雅彦奨励賞なるものが追加され、僕としては受賞作よりも、そちらの作品の方がおもしろそうだと踏んでいます。にしても、己が最終選考はおろか、一次予選にも引っかからないほどの「実力」だということに、改めて気づかされました。まずは「てにをは」からやり直しです。
保坂和志氏は小説作品において「共感」を呼ぶものではなく、「感銘」を与える作品を志向すべきようなことを書いています(『書きあぐねている人のための小説入門』P.35)。僕たちは即効性とわかりやすさに慣れた世代なため、やっぱり「共感」する作品にどうしても惹かれてしまいます。僕の書いた『S大学物語』もある種の人たちには「共感」していただけているのではないかと自負していますが、保坂和志氏のような超一流の芸術小説家からすれば、俗物小説の出来損ないでしかないのでしょう。「共感」できる作品の「あがり」(ゴールのことね)は「ベストセラー」ですが、それすらもはるか遠いです。僕としては、夏目漱石先生のような、個人的苦悩が普遍的摂理にまで到達するような作品が書ければと思っていますが、まずはもっと志低く、「圧倒的共感」を呼ぶベストセラーでも書ければ御の字です。(そういう発想自体が、くだらないですね。(←こういった一文によって何かが贖罪されるとは思っていません。))
* * *
それを私が本屋を移動しながら読み継いでいこうとしていることを。
おそらくはこのフランス人も他の小説家同様、私の小説を紙に書き付けてしまった弱い人間だったのだろう。それが小説ではなく小説のようなものでしかないと自覚しつつ。その小説のようなものが紙に印刷され、こうやって死後も私のような人間に読まれるであろうことにも充分自覚的だったはずだ。しかし永遠に私の小説そのものには為りきれないことに絶望していたかもしれない。結局、私の小説を書き付け形あるものとして永久に残し続けようとすることが不可能であるということだけをこの小説のようなものは証明しているのだ。
ところで、私は先ほどこの店の店主に見られていると気づいたが、いったいどうして私はその男をこの店の店主などと断定することができたのだろうか。また、彼の前であくせく働く店員をただのアルバイト店員であると、いかなる根拠をもって断定し得たのだろうか。結局そういった断定が私の小説のなかだけで行われたことであり、だが、ほとんどの人間が私の小説のなかの無自覚な断定をいつもすべての人間に適用してしまうことに私はもううんざりするしかなかったのだ。
まじめに、モテ学
不定期連載『まじめに、モテ学』をはじめます。
【はじめに】
彼女いない歴24年数ヶ月の私は、己の「モテなさ」に危機感を覚え、ひいては「なぜ、世間にはモテる人とそうでない人がいるのか?」という大問題に行き着きました。これは誰しもが一度は抱く疑問でありながら、いまだ未解決のままでもあります。いまこそ私は、その大問題に「まじめに」取り組もうと心に決めました。これは私個人の素朴な疑問が出立点ではありますが、広く普遍的な分析・論考に辿り着けるものと思っております。私自身が男性であるため、なにぶん男性的視点に偏りがちになるとは思いますが、そこは浅学非才の身ゆえ、ご容赦願いたく存じます。また「『モテる』とは何か?」という根本命題がありますが、これは論考を進めていく上で追々定義していくべきものだと思います。実際、「モテる人」と「モテない人」がいる、あるいは、「『モテる人』と『モテない人』がいる」と私たちが安易に想定してしまう、それはいったいなぜなのか。これら無数に浮かんでくる疑問に対し、きめ細かく、「現場主義」をモットーに挑んでいきたいと思います。
第01回目のテーマは「かわいい(かっこいい)とは何か?」です。さっそく本論に行きたいのですが、万全を期すために(今日は眠いから)明日に繰り越します。では、今日のポイントをまとめてみましょう。
【Check!】
・「モテる」とは何か?
・なぜ「モテる人」と「モテない人」が存在するのか?
・あるいは、なぜ人々は世間には「『モテる人』と『モテない人』が存在する」と想定してしまうのか?
・これから、こういったさまざまな疑問に取り組んでいく。
ということで、「モテる男の必読書」プログレッシブノベル第17回「これが若さというものか」です。
* * *
己の愚鈍さに呆れていた私は、遠くからの視線を感じた。ふと振り返るとレジに立つこの本屋の店主が私を一直線に見ていた。レジには二つの長い列ができており、アルバイト店員が四人がかりでそれらを捌いていた。店主はその四人のうしろで、まるで仏像のように気配なく立っていた。そしてなぜか私の方をじっと見つめていた。いそがしそうにレジを打ったり、本にカバーを素早く付けたりしている店員たちに対しては、まったく注意を向けず、無論手伝う様子もない。
私は開いたままになっていた本に眼を戻した。20ページの11行目には確かに私が数日前に読んだのと同じ文章が載っていた。私は12行目から読みはじめることで、つづき、を確実に読むことができるのだ。果たしてこの小説のようなものを書いたフランス人は私がそうやって読むことを予期し得ただろうか。高度に発達した活版印刷技術と流通経路により、いまや夥しい数の本屋に己の本が置かれていることを。
今日、初めてこのHPを訪れた方へ――あなたに開かれたHPでありたい。
「開かれたHP」を目指しているのに、やっぱり内にこもってしまう。ま、もともと内弁慶(脳内弁慶)だし、その方が楽だし、しょうがないのだが。でも、オレンジレンジのロコローションと聞いて、どっちがバンド名でどっちが曲名なのかわからない人だって世の中にはいるだろうから、オレンジレンジというグループでロコローションという歌をうたってます、と言える気配り、的なものを持っていたいと思うのだ、僕は。
うーん、今日は亀仙人の修行を終えて天下一武道会に行く前の、亀の甲羅を脱いだ直後の、悟空とクリリンの気分が味わえました(ね、また自分にだけわかることを書く)。ということで、巷間で話題騒然のネットマイスター、第16回「顔が無意味と言われた夜」です。どうぞ。
* * *
私は数日前に別の本屋でこの小説と同じ小説を立ち読みした。記憶が正しければ、私は20ページの11行目まで読んだはずだ。私は本を開く。私は本を開き、20ページの11行目を探しながら、ある畏れを感じずにはいられなかった。ページを捲る手触り、紙の質感。確かにそれは数日前、別の本屋で手に取ったときと似たものだった。いや、同じと言ってもよかった。しかし、果たしてそれが、私が以前読んだ小説と同じなのか、ということだった。私はほとんど戦慄を覚えていた。まったく違う本屋で違う本を手に取っているはずなのに、私はこの本が同じであると確信し、のんきにも20ページの11行目を開き、そこに同じ小説を期待していたからだ。
私は同じ本を別々の本屋で手に取り、同じ小説を読み継ごうとした、と言えるだろう。しかし、私は、同じ製本で同じ文字が印刷されている違う本を手に取ったのであり、同じ小説が読めるだろうなどと夢にも思うべきではなかった。なぜなら、私とまったく同じ顔、同じ姿、同じ心を持っている違う人間がいたとして、それと私とが同じだと言われれば、ひどく不愉快な気持ちになっただろうから。
アホエン・オイルを作ろうと思います。
今日、小雨の中、傘も差さずにマクドナルドに行ったら、やたらと「周波数」と口にしているおっさんがいた。スーツの男性二人を相手に何か熱弁しているのだ。結局、話の詳しいところはわからなかったが、「確かめに来たんじゃない、確認しに来たんだ」と二回言っていたので、「確かめ」と「確認」は同じ意味じゃないかなと勝手に思ったが、まあ、日本語の使い方なんてみんないい加減だし、自己流だから、別にいいのだ、と思い直した。 今月は生活費がじぇんじぇん足りないのに、本を買ってしまった。っていうか、講談社文芸文庫って高いよね、文庫なのに。しょうがないから『万延元年のフットボール』を買ったけど、読まなそうだ。ところで、89年(当時9歳)に昭和から平成になったとき、平成1年と言わずに「元年」というんだと知った子供は多かったんじゃないかと、いま思った。「平成」って英語に直すと「Being Flat」だね(違うって?)。
と、いうことで、ちんぴらの立ち話もここまでにして、お待ちかねのハイパーノベルです。急展開の第15回目「波瀾万丈伝 〜池脇千鶴〜」アシタはハレルヤ!
* * *
本屋はこれから夜籠もりしようとする人たちとこれから夜会のご相伴にあずかろうとする人たちとが交錯し、妙な活気に包まれていた。といっても、それは新刊本と雑誌コーナーまでで、私の用のある文芸書の付近はいつもと変わらず閑散としている。
私はこの小説のようなものたちが嫌いではなかった。これらはすべて私の小説の出来損ないであった。しかしこの世界の形あるものでおよそ出来損ないでないものなどあり得るだろうか。所詮はすべて模造品である。いや、私でさえもあの他人でさえもだ。生と死を包み込む宇宙以外に完全なものなどない。私の小説でさえ、散漫で断片的で不格好な思念の滓のようなものだろう。ましてやそれを文字に起こし、紙に印刷したものなど、ほとんど何の意味も価値もない。夏の路上に張り付いている干涸らびきった蚯蚓のようなものだ。
私はその窮屈そうに詰め込まれている本の背表紙たちを眺めた。ここの背表紙たちは文芸書の中でも特に色彩に乏しいものたちが集められていた。ほとんどがクラシック・アイボリーとかナチュラル・ベージュとかの紙素材そのものの色だった。私はその中でもペール・オレンジの帯が鮮やかな一冊を取り出した。これは死んだフランス人が生きているころに書いたものを、死んだ日本人が生きているころに日本語に翻訳したものだった。もちろん翻訳を要すること自体が、それが不完全な小説の証だった。言葉というものが不完全だから仕方のないことかもしれないが、少なくとも私の小説に翻訳は必要なかった。
ええかげんなやつじゃけん、ほっといてくれんさい
雨の日でも、傘を差して自転車に乗るのだが、濡れたサドルに跨ったり、片手でふらふら運転しながら大学まで行くことがとても億劫に思えて、ひさしぶりに歩いて行くことにした。だいたいバスとか電車とかタクシーとか、乗り物がきらいな質だ。どれも窮屈だし、臭い。乗るとたいてい吐き気を催す。降りて新鮮な空気を吸って、しばらく横にならないとそれは回復しない。できれば自転車と徒歩だけで生きていきたいものだ。おそらく無理だろうが。
と、いうことで、第14回目(芸事は毎日やりなさい)。
* * *
外に出るともうほとんど夜だった。しかし街に本物の夜が訪れることはない。偽物の光が夜の到来を阻み、人は束の間、虚栄心を満たすためだけに夜を歩く。夜の街は猥雑だ。何かを忘れるための儀式のようだ。ただ夜が昼よりも素晴らしいことがあるとすれば、空気が透明度を増し、少しだけ人間に同情的に振る舞ってくれるということだろう。すべてを見たがる人間の残酷さが少し息をひそめる。
私は駅に接続したビルにある本屋を目指した。他人の群れ、他人の顔の群れも、夜になると少しはあいまいになってくる。区別がつきにくくなるのだ。もはやそれは記憶するに価しなくなる。たとえ記憶したとしても、あいまいな顔がただの顔として覚えられるだけだ。他人の気配は希薄になる。それは私の存在が希薄化されることでもある。宇宙にいたころの感覚が少しだけよみがえる。
もう私はひたすら忘れるだけでよい。夜とは忘却のためだけにあるのだから。だが私の小説は違った。また夜になれば、夜のエネルギーに呼応し、妙なリズムで蠢動しはじめるのだった。
ドキドキすること、やめられない
もし先週一週間というものを「ひきこもり」として過ごさなかったら、今日、大学に行くことはなかっただろう。ただでさえ億劫な月曜日というものが雨だった場合、健全な大学生は授業をサボるものなのだから。
先週一週間、家にひきこもって書かれた小説は、月曜の朝に読んでみると、それがただの徒労でしかなかったことを僕に報せていた。こういうのを無駄というのだ。しとしとと降る雨を眺めながら、僕はため息をついた。
留年を重ね、いよいよ今年卒業せねば後がないという時期に入って、こんな小説とも呼べない文章の羅列のために、僕は貴重な授業を休み続けたのだ。授業を一、二回サボったからといってすぐに単位がもらえなくなるわけではない。だが、一週間だけが二週間になり、三週間になり、気づいたときには試験がはじまっているのだ。いままでがそうだった。
僕は今年で大学6年生だ。6年生になるのは小学校以来だった。笑い話ではない。親に卒業したら返すと約束して、授業料を払い続けてもらっているが、それも今年までだ。留年した理由を面接で散々訊かれたあげくに落とされまくった就職活動も、先日、ようやく決まった。だから、是が非でも卒業せねばならない。
ついでに僕は高校を1年生のときに中退している。これで大学まで中退したら、最終学歴が中卒ということになってしまう。いくらどこかの偉い人たちが学歴不要論を唱えたとしても、二回も学校を中退したやつに、世間は「そのままのきみでいいよ」なんて言ってはくれない。面接のときだって留年した理由を高校中退であることと結びつけられ、「大学もやめちゃうんじゃない?」と何度も訊かれた。「なんで高校やめたの?」って訊かれても、僕にわかるわけがない。八年たったいまでも、よくわからないし、人間そんなに明確な理由を持って人生の選択をしているわけではないと思う。僕は逆に「なぜ高校をやめなかったの?」とその面接官に訊いてあげたかった。よほど鈍感な青春だったのだろう。
と、いうことで「継続は力なり」の第13回目。クリスマスまでに奇跡は起こるのでしょうか?
* * *
女は存在しなかった。私の目の前で本を読む女はすでに私だったのだから。あるいは私そのものだったのだろうか。女というものの存在が、小説に寄生したものだったのか。私が小説を書き、女が小説だったのか。もはやいまとなってはわからない。私とは小説を書くことそのものであったのだから。私が小説を書いているのではない。小説を書くことそのものを私というのだ。私は他人ではない。他人は小説ではない。小説は私であるが、他人が小説ではなかった。だから、女などは存在しない。女はいる。私の目の前に。しかし、目の前にいるのは常に他人だ。私ではない。私でないものは小説ではない。だから、女は存在しない。小説を読むという行為だけが存在しうる。小説を読むのは女だ。だが、私でもある。女は眼を閉じているが死んだわけではなかった。しかし、存在しなかった。小説を読むということが女であり、小説を書くということが私だった。
私は気が狂う前に、〈夜〉を去らねばならない。女は小説を読むのを中断し、何か別れの言葉を私にかけるだろう。私はもうその言葉を私の小説の空白に埋めることはしない。
「 」
私はもう女を見なかった。ただ女の別れの言葉が埋められるべき空白だけをいつまでも空けておくことにした。永遠の空白だ。
私は〈夜〉を出る。私はきっと本屋へ趨くだろう。小説のようなものが溢れるあの場所へ。
Salvage:サルベージ
海難救助。また、沈没船などの引き揚げ作業。
確か、前田塁氏が『文學界』の新人月評か何かで柄谷行人『日本近代文学の起源』がわかるかどうかが、現代の小説家としての分かれ目だ、みたいなことを言っていたので、やはり強迫観念に駆られた僕はあわてて本屋に買いに行き、それを読んだ。最初の方だけ。そこでは「風景の発見」というものが論じられていた。万が一、それが「わからない」となると僕は現代小説家失格ということになるので、「わからないはずがない」と思い込み「わかった」気になった。
たぶんだが、「近代」以前は「風景」がなかったのである。「自我」というものが芽生えた「近代人」だけが、自分の外界として「風景」を認識することができるようになり、それを「発見」したのだ。そして、その「風景」を描写することは、目の前の光景を書き写す、というよりは、その「風景」を見ているとされる「私(=主体)」の心象風景の表現になってしまう、ということだろうと思う。たぶん間違ってるか、すべてを言っていないと思うが。まあ、しょうがない。こういうことが高校生ぐらいでわかっている人しか、「文学の歴史」をつくる作品を書き残すことはできないのだろう。例えば平野啓一郎氏のような人のことだ。
先日読んだ田中和生「架空の「現在」」(『群像』12月号掲載)では、その柄谷行人氏の言ってることも1980年前後を「現在」と暫定的に位置づけ、そこから「近代」というものの構造を暴いてるだけであり、絶対的ではない、みたいなことを言っていた。正直、これは勘としか言えないが、田中和生氏の言っていることも、あと加藤典洋氏(『テクストから遠く離れて』)が言っていることも、違う気がする。なんというか、ポストモダン派とかそういうのに対抗しよう、それをいまこそ乗り越えようとして、無理からに何か言っているような印象がある。だいたい「21世紀の文学」というものは、ない、と思う。もちろん「21世紀に書かれた文学」はあるだろうが、「21世紀の文学」などはもはやないのではないかと個人的には思う。もうそういう括弧括りできないのが、21世紀なのではないかと思う。っていうか、誰も実感を持って、切迫感を持って文学を書いていないし、読んでいない気がする。仮に文学というものに実感や切迫感を持って接している人がいるとすれば、時代遅れか馬鹿な人に見えてしまうのが現代だと思う。いや、一介の学生が言うこと、聞き流してもらえばいいのだが。強いて言えば、「実感がない」ことを実感しようとし、「切迫感がない」ということに切迫感を感じているのが、当今の気分ではないだろうか(←こんな感じの発言がしゃらくさく思えてしまうのだな)。
んで、『新潮』12月号掲載の田中和生「「スターバックス」のリアリズム」を読んだ。ここでは、矢作俊彦『ららら科學の子』と吉田修一『ランドマーク』が中心的に取り上げられている。が、その言わんとすることは村上龍『どこにでもある場所とどこにもいないわたし』であり、「どこにでもある場所」に囲まれた現代人が、「どこにもいない」というリアリティのなさから、どうやってリアルな自分、リアルな言葉を回復するかを、『ららら科學の子』と『ランドマーク』という好対照な作品両面から探っていく、という感じ。(なんかこんなことを書けば書くほど、自分がノータリンで、どうでもいいことを書いている気分になる。でも、他にすることもない閑人なので)。『ランドマーク』は一度自分でも感想を書いていたので、興味深く読むことができた。以下、省略。
いよいよ大詰め??惰性小説もどき。『義務感だけで書かれた何か』です。まじでもうこのHPを見るの止めた方がいいですよ。
* * *
あるいは、私たちは、一人の人間として生まれてくるべき存在だったのかもしれない。私の眼は女の眼であり、女の耳は私の耳だった。私の見たものを女は見、女の聞いたものを私は聞く。私と女だけが他人ではなかった。同じ人間だった。私たちは同じ言葉を共有していたのだから。女の言葉を私は聞くことはないし、私は女に聞かせるべき言葉を発することはできなかった。私たちをつなぐ唯一のものこそが生まれる前の宇宙であり、いまこの瞬間はその代替物である小説だった。私たちはやはり一つの小説を共有していた。女がいま読みつつある真っ白な小説こそ私が無限に書きつつある小説そのものだった。私は書いていた。女は読んでいた。もはや読むことと書くことは、同じことだった。私たちは共に書き、共に読んでいた。同じ小説を。
私はようやく気づいた。私は一冊の何も書かれていない小説を携えていたことに。それこそが私の小説であり、女の小説でもあった。
愛してマスカット
もはや惰性の11日目。眠い。『新潮』12月号を買った。平野啓一郎氏の小説、渡部直己氏による『シンセミア』評論、田中和生氏の『ランドマーク』評論、保坂和志氏の連載。ざっと読みましたが、とってもおもろいです。余力があれば、各々についてコメントしたいです(たぶん、無理)。ということで、ネット小説『コスプレ校長』第11回「あなたの夢をあきらめないで」。
* * *
女がつぶやいた。私が女の手のひらに書いた文字だ。もちろん、私はその「音」を聞いたわけではない。
実際、私は耳が聞こえなかった。いまだに無音の世界にいる。生まれる前のこと、宇宙の一部だったころのことについて、私が朧気にでも記憶しているのは、そのためかもしれない。
私はうなずいた。女は少し微笑んだように見えた。指を挟んだままだったページを開き、読書を再開した。私は目を閉じて、コーヒーを飲んだ。
私と女は、ともに宇宙の一部であった。いや、すべての人は宇宙の一部であり、いずれまた宇宙の一部へと還っていく。ただ私と女は宇宙と完全に断ち切れ損ねたのだ。私たちの一部が、まだ宇宙に取り残されている。その残ってしまった私たちの一部が、宇宙との連絡を可能にしている。なるほど、私と女がこうして〈夜〉で出会ったのも偶然ではなかった。
夢で逢えたなら、ただそれだけでうれしい
ハッピーエンドが好き
ハイカラな恋心
もう少し待ってみる
ロマンスだね
つまりだ、1980年前後に仮構された「現在」をもって、「近代(モダン)」と「近代以降(ポストモダン)」を区別し、「文学」かどうかではなく「制度的」かどうかでその価値を判断してきた。そんな批評はもう死んでいるし、「21世紀の文学」はもう始まっている。そう言ってるわけだ(たぶん、ね)。田中和生氏の評論『架空の「現在」』のことです。
昨日書きすぎたので、空っぽです。と、いうことで、ネットノベル『こんにちは、私はチェ・ジウです』第10回「肥後銀行(前編)」の巻
* * *
女の手は冷たかった。私は女の手に触れた。女は私の意図をすぐに理解した。驚く様子もなく、手のひらを差し出しだ。私は幾ばくかの羞恥を覚えていた。筆談をすることはあっても、こういった形ははじめてだ。私の人差し指はかすかに震えている。私は女の手のひらに文字を書いた。一筆一筆、女がそれを頭で描いているのを確認しながら。一文字書き終えると、女はその度にうなずいた。あるいは三文字目あたりで女は私が何を書こうとしているかわかっていたかもしれない。しかし、女は手のひらを動かすことはしなかった。私は筆圧に気を配りつつ、女の中に文字を刻んだ。
その言葉は、同時に私の小説にも刻まれた。人はそれぞれ自分の小説を書いている。それはほとんどの場合、まったく別のものだ。たとえ親子や親密な仲の男女でも。しかし、この瞬間、私と女の小説に同じ言葉が書き込まれた。女は女の小説に空白をつくり、私はそこに言葉を刻んだ。
「ありがとう」
Heavy Smoker's Forest
「新人賞に応募する人は、文芸誌ぐらい読みなさい」という、純朴な文学青年にとっては何かの霊感商法のように買わないと不幸になる(=小説家になれない)という強迫観念を植え付ける言葉に従い、今月も主要文芸誌3冊を購入しに行く。お金がないので、一日一冊しか買えない。買い忘れてた『文藝』冬号と『群像』12月号を購入。合計1,919円という中学生なら変な妄想をしてしまいそうな額を支払う。高けぇ。これで新人賞が獲れなければ、僕は「搾取されただけ」の負け組ではないか。なんとしても新人賞を獲って「ペイ」せねば(と、経済観念だけは発達している僕)。
『文藝』を開いてみると、新人賞が2作。また新たな勝ち組の誕生である。しかも「文藝賞」といえばかの最年少芥川賞作家にして「モー娘。よりかわいい」と誉れ高い美少女綿谷りさ氏もその歴代受賞者の一人であるという名門中の名門新人賞である。
「文藝賞はたえず文学シーンに
新しい才能を送り出して参りました。
意欲的な作品をお待ちしております。」
高橋源一郎氏がいうところの「タイトルだけで」新人賞を受賞した現長野県知事田中康夫氏もその審査委員として名を連ねている。
まずは綿谷氏の受賞のころから大きくなった受賞者の御真影を拝見。まずは、はにかんだ笑顔がなんともカワいく、そこに文学的含蓄まで漂わせる女性、受賞者の山崎ナオコーラ氏である。なんとも変わった名前である(最初本名かと思った)。保守的かつ無難がモットーの僕としては、このペンネームだけで臆してしまうのに、タイトルが『人のセックスを笑うな』ときたら、まるでセックスしたことのない僕が笑われているような気分になってしまった。いつか好きだった女の子に「童貞とは付き合わない」と言われてフラれたことを思い出して、小一時間ばかり噎び泣いてしまったではないか。セックスをしたことがない人間は小説を書く資格がないのだろうかと苦悩しながら次のページを開くと「なんということでしょう」、そこにはジュノンボーイも顔負けのイケメン青年が歯を見せないあの独特の微笑みで写っているではありませんか。しかもプロフィールを拝見すれば1983年生まれの21歳…。これではもう新人賞も獲れない童貞24歳は死ねと言われてるも同然ではございませんか。ああ、なんと酷い仕打ちでしょうか…。タイトルは『野ブタ。をプロデュース』。モー。ヲタの僕としては(紺野あさ美命)、すぐにピンときました。「。」と「プロデュース」。これはモーニング娘。をパロったものだと。おそるおそる作品の一行目を読んでみると…
「辻ちゃんと加護ちゃんが卒業らしい。」
と、いきなり、です。
ああ、同じモー。ヲタでも、イケメンで文才溢れる人なら、新人賞も獲れてしまうのですね。ただのモー。ヲタ、ただの童貞、文才0、四捨五入で30歳の僕なんか、もう消えてなくなるしかありません。しかも、たいてい新人賞というのは、その選評においては文句を付けられているということを思い出し、各選考委員の選評を読んだのだが、意外や意外、絶賛の嵐。卑屈な僕の期待に応えてくれるような文章は一行もありません。
もうこれ以上耐えられない、と離婚寸前の幼妻が如き心境で『文藝』を投げ出した僕は、19歳のときからのファンである阿部和重氏の新作小説『グランド・フィナーレ』が掲載されている『群像』を手に取る。目次に目をやると『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』(本谷有希子)というタイトルがまず目につき、「まるで僕(←腑抜け)へのメッセージのようだ」とその運命的な出会いに感動してしまう。しかし、「本谷有希子」誰だ?
「あとでネットで調べよう」と、ネット世代(U-24)らしい後回しをしつつ、目次の『グランド・フィナーレ』に添えられた紹介文を読むと…
「二二〇枚。ロリコンゆえに仕事も家庭も失った男が故郷で二人の少女に出会う」とのこと。
某巨大掲示板風に表現するなら「キターッ!」である。
やはり僕が私淑してやまない阿部和重氏である。そんじょそこらのモー。ヲタとは格が違う。根性が違う。チョイスが違う! 確か阿部氏はゴマキ萌えだったはず。さっきまで意気消チンしていた僕も少し元気を取り戻し、ロリコン&モー。ヲタこそ小説家の必須条件かもしれないと、前向きに考えることができるように。
早く読みたいのは山々だが、好きなものは最後に食べる主義である僕は、他のページをぱらぱら捲ってみる。そういえば、今月の「侃侃諤諤」はどんな感じかな、とお気に入りの連載をチェック。一読、今月はイマイチかな。意味わかんないし。でも、「多幸感」という言葉に引っかかり、もしかするとこれは、新人批評家の愚痴に擬態した先月の文芸5誌への批評なのかもしれないと勘繰ってしまう。(このとき、「勘繰る」と「ググる」はなんか似てると気づく24歳)。
まあ、どうでもいいやと思いつつ、ページをさらに捲ると「創作合評」が。けっこうこれを読んで、おもしろそうなものに目星を付けたりするのだが、なんと、合評対象の一つに文藝賞受賞作『人のセックスを笑うな』があるではありませんか。さすが訴求力のあるタイトルを付けただけあります。編集者の方も捨てておくわけにはいかなかったのでしょう。「タイトル勝ち」の面目躍如です。
さっそく合評を拝見。まずは松浦寿輝氏のあらすじ解説から。それを受けて平田俊子氏が「いやあ、今の悪意を込めた粗筋を聞いてびっくりしました。」と、ただならぬ松浦氏(といってもあややのことではない)の気迫にたじろぎ気味である。若手批評家陣野俊史氏は「文学の門前で立ちすくむ」感じと、先輩批評家(たぶん)であり小説家である松浦氏に圧倒されている。
ところで、僕の松浦寿輝氏についての知識は『花腐し』とかいうなんて読んでいいのかわからないタイトルの小説で芥川賞を取ったということと、胡麻塩頭だということと、なんだか知らないが日頃なら絶対読まないはずなのに『新潮』2004年1月号に掲載された氏の作品『名前』を読んで、けっこうおもしろかったなという感想を抱いた、ぐらいしかない。
いや、ここに来て、松浦寿輝株が急上昇である。もちろん憎き新人賞受賞者を言い「腐し」てくれたことがその大きな理由だが、いやはや、こうもはっきり「つまらん」的態度を取ってくれるところに、なんというか「小説家」らしさを感じてしまうのだ。結局批評なんて、悪口(by小林秀雄)。ここまではっきり「NO」と言ってくれると気持ちがいい。
「文藝賞なんてもうやめてしまった方がいいんじゃないですか。」
いやいや、一次審査にも引っかからないようなチンかす野郎の僕としては、「神」のようなご発言です。マジでスゴイです。
この後も、松浦氏(といってもあややではない)のダメ出しと、平田氏陣野氏によるやんわりとした抵抗が続きます。
松浦氏は「常識的に読めば」とか「僕の常識人としての立場」などの「常識人」による「常識的」見解を容赦なく述べる。そう、非常識人のくせして、俺は常識人だとか俺が普通だとか言い切ってしまえることこそが「小説家」の本領ではなかったか。「変わり者」を演じたり、奇抜なタイトルやペンネームを付けているうちは、まだまだ「普通」なのかもしれない。松浦氏ほどの堅牢強固な「常識」を持ってこそ、ほんとうの「文学」に辿り着けるのかもしれない。そんなことを考えさせられました。
以下、松浦節。
「そういう小心さで芸術もへったくれもないだろう」
「何やら胸クソの悪い風俗小説を読んだという感想ですねえ。」
「そういった『関係なき関係性』みたいなものは絵空事」
うーん、すべて僕に言われているようです(相手にすらされないだろうけど←小心者)。
なんか、ネット日記風(ブログとも言う)の文章になってしまいましたが、勘違いしないで欲しいのは、山崎ナオコーラ氏も松浦寿輝氏も、どっちもステキだな、と僕が思っていることです(心の底から、ほんとうに)。いや、だって、こんなに変で一生懸命な人たちが他にいるでしょうか? 小説家ってステキやん! そういうことです。
あー、やっぱ文芸誌っておもしろいぜ!(『グラフィナ』読んだら、また感想書くぜ。)
---------------- after 3 hours ----------------
と、いうことで、阿部和重『グランド・フィナーレ』(『群像』12月号掲載)読了。 あいかわらず、おもしろい。最高。しかも、ちょっと泣きそうになった。
■「神町サーガ」である。※知っている人は少ないかもしれないが、阿部氏は『シンセミア』完成前に「神町」をテーマにした作品を一本書いている。「ソニースタイル」というHPのコラボレーション企画でCDの盤面みたいなところにその小説を書いていた。私はたまたまそのページで商品を購入したことがあり、ときおり覗いていたのだが、いまではもう読めない。いつかは書籍化されると思うのだが。内容は、ある雑誌記者か何かの女性が「神町」という町を偶然知って、その町名の神秘性に惹かれて、なぜ「神町」が「神」の町であるのかを調査するというものだったと記憶している。それほど長くはない。掌篇といったところか。また「神町」の住人ではない外部の人間の視点を借りていることからも、「神町サーガ」の導入編といった意味合いがあったのではないかと思う。
■ちょっと前にあったモー娘。主演の映画を撮っていた映画監督の不祥事に触発されたのではないか、と思った。阿部氏は『ニッポニアニッポン』を書くきっかけとして、テレビで見たトキのニュースに想を得たとどこかで語っていた(つまり、テレビで見たニュースから想を得て、小説を書いたとしても不思議ではないということ)。また、阿部氏はブラフでなければ、モー娘。のファンらしいし、その主演映画について『映画覚書』の中で絶賛していたりもした。また、『グランド・フィナーレ』は「神町サーガ」であるが、特に『ニッポニアニッポン』との関連性が非常に強い(読めばわかる)。さらにこじつけると、『ニッポニアニッポン』のタイトルに関して、トキの学名を正式に記すなら「ニッポニア・ニッポン」であり、「・」が入るはずであるが、阿部氏はあえてその「・」を省いたことを言明していた。今回の『グランド・フィナーレ』は逆に「・」が入っている。最初に見た瞬間から違和感があったのだが…字面、美観的、または一続きで一語のように使われている言葉であることなどを考え合わせれば、「グランドフィナーレ」でもよかったはずである。もし「あえて」阿部氏が「・」を入れたとすれば、『ニッポニアニッポン』との関連性(それを補完するもの?)という意味合いを意識したからだろうと考えられる。(深読みである。しかし、阿部氏は読者が深読みしてくれることを期待して小説を書いているような節がある。もちろん、「ニヤニヤ」しながら)。
■『シンセミア』『ニッポニアニッポン』の正統的な続編(?)である。ところで、『馬小屋の乙女』(『新潮』2004年1月号掲載)は、冒頭にも書いてあるように「神町」に「うっかり乗り越して」着いてしまったわけだから、「番外編」と捉えるのが素直な見方だろう。
■何箇所か笑える箇所あり。あいかわらず「巧い」とは違う独特の文体。内容もそうだが『シンセミア』をもう少し軽くしてくれた感じ。「粗暴」で「不器用」と言った印象。あるいは悪知恵ばかりが回ってしまう中学生(だが頭はいい)が悪意と盛りのついたエロス妄想を駆動させて書いている感じ。36歳でそれを書いているってのが最高。
■阿部氏に子供ができたのだろうか。
■結末は、「わたし」が「立ち直った」と捉えて良いのだろうか。たぶんそうだと思う。どうしても悪意に満ちた結末を予期していたため、意外だった。テロのくだりなどから、元妻の実家に突入するとか、そういう壮絶なものを途中想像してしまった。
■惹句を付けるとすれば、「ロリコン中年の再生物語」。捨てる神あれば拾う神あり。
あと、田中和生氏の評論『架空の「現在」』もおもしろかった。わりにわかりやすかった(って、普通は10%ぐらいしか理解できない評論が、15%ぐらいは理解できたってぐらいのことですが)。土日はひまだから、気が乗ったらこれの感想も書く。
と、いうことで、連載小説『毛虫とたまねぎ』第〇九回「テレビ朝日のアナウンサーはみんな同じ顔に見える」の巻。
* * *
そうすれば、ほんの少しそこに帰ることができた。闇と無音の世界。宇宙のはじまり。
あたたかい淹れたてのコーヒーの香りがした。気づくと女が私の前にそれを置くところだった。立っている女はとても大きく見えた。闇と一体化していた。女はやはり私の小説を読んでいるのだろうか。女は再び私の前に座った。女は黙っている。私は女を見て、次にコーヒーを見た。私はコーヒーが好きだった。コーヒーは暗闇に似ている。
私はコーヒーを飲んだ。苦みと強い酸味が味蕾から鼻腔にひろがった。私の味覚と嗅覚は凡庸だが機能している。いちいちそんなことを確認した。
女は本に指を挟んだまま、私がコーヒーを飲む様子を感じているようだった。私は少し躊躇ったが、やはり、その感謝の意を伝えようと思った。その方法は一つしかないように思えた。たとえここが暗闇でなくとも目を閉じてしまった女と私のような人間がコミュニケートできる方法はごく限られているように思えた。
GRAND FINALE by Kazushige ABE
最近では「金か夢かわからない暮らし」をしている僕です。合い言葉は「ペイ」。そんな僕でも夢を持ち、夢に向かい確実に歩んでる人々とふれあい少しは昔の自分を思い出すことができました。
「おもしろい」小説(映画、演劇)をつくるのは、技術もセンスも経験値もかなり高レベルなものを必要とすると思いますが、あるにはあると思います。僕がだめなのは、「自分のために」何かを書こうとするからかもしれません。僕が理想とするのは、言い方が正しいかどうかわかわりませんが、意識に変容をもたらすような作品です(危険な思想だ)。「楽しかった」「おもしろかった」(だけでもじゅうぶんスゴイし、そういったものによって「変わる」人もいるのだとは思いますが)だけでなく、そういった感情を超えた「体験」としての作品、そういったものがつくれたらなと思います。斎藤環氏が教えてくれたように、セックスにバーチャルはありえないということと同じです。その経験性、一回性というものが何より重要である。疑似体験では意味がない、粗末でも「経験」したことにしか意味が発生しない。何かそういった小説。そんなのが書けたらステキなんですけど。まだ読んでないけど、『群像』12月号に新作「グランドフィナーレ」を発表された阿部和重氏の小説が僕にとってはそういう小説でした。(時代を超えた素晴らしい小説とは、人の人生の方向性すら決めてしまいますものね。)
おおむね人間関係の中で人間がもまれ、作品がもまれ、成長して行くんだと思いますが、僕はできれば、小説くらいは、こっそり一人で書けたらなと思います。(んじゃあHPに書くなよ!)っていう耳の痛いご意見もあるかと思いますが、その辺の矛盾がダメ人間の所以(ゆえん)だと思います。(理屈じゃないしね、才能(実力)は)。
私は無為の人でありたい。
…ということで、現代の若者の就職活動をローマ帝国の興亡になぞらえ、ドラマティックに描いた怪作『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ローマ』(仮)第08回「公衆浴場をつくった男たち」デス。
* * *
私は私が宇宙の一部だったときのことを思い出していた。それは生まれる前のことだ。母の体内から押し出されるまで私は暗闇と無音の世界にいた。とりとめもなく漆黒の闇がひろがり、その一部であった私はあらゆる感覚というものが統覚された状態だった。それが私のものなのかそれとも他から来たものなのかわからない言語化以前の意識の塊のようなものがそこらじゅうに漂っていた。あるいは私がその一つだったのだろうか。意識の塊は水滴のように拡散もしたし融合もした。いつからが私で、いつからが私でないのか、わからなかった。永くいた気もするし、生まれる一瞬前だった気もする。記憶というものはない。空間というものもなかった。おそらくはそこが宇宙のはじまりの宇宙だったのだろう。すべてが生まれる場所だ。私はそこで点になった。いつからか、私は点としてそこに存在していた。
私は眼を閉じる。
Don't tell me the truth of LOVE
真夜中にひとりで本を読んだり、小説を書いたりできるということは幸せなことだと思う。特に俗事が明日に控えていたりするときなどは。明日の夜は、くだらない人間に頭を下げたり、聞きたくもない話に相づちを打ったりしなければならないのかと思うと、まったく理解できない柄谷行人氏の討論会をだらだらと読んでいる自分がとても贅沢な時間を過ごしているような気分になる。自分の書く小説もどきが、くだらなく、平板で、密度のないものだと思いつつも、それを毎日少しずつ書いたりすることや、悩みながら一行一行書いている瞬間は、現状においてもっとも有意義な時間だと思える。
大塚英志氏の本を読んでいて(最近は読んでいないなあ)、見習いたいと思うことがある。それは大塚氏ができうる限り自分の知識の情報源を晒そうとする態度のことだ。誰かがそういった態度は大塚氏の年代の人間にしてはめずらしいことだ、と言っていたのを読んだことがある。正確にはわからないが、大塚氏のようなニューアカブームにどっぷり浸かってきた世代には、「知識」というものを通して自分を大きく見せようとする傾向があり、その「知識」の出所を秘匿することでその効果をよりいっそう高めようとする態度のことを言っているのではないか、と僕は推測している。もしそれが当たっているとすれば、その著作を読む限り徹底的な露悪家であり、自分なりの誠実さに忠実な大塚氏が、そういった同世代の態度を反面教師に、できうる限り情報源を明らかにする、という態度を取ったとしても不思議ではない。僕としては、単純に、知識をひけらかすやつや知識を勿体ぶるやつは鼻持ちならないという小人的な感情があるために、大塚氏のような態度に好感を持ってしまうというだけだが。
世代論のように語ってしまうのは間違いなのだろうが、僕らの世代以降の人間には、よほど思慮のない人間でないかぎり、その種の知識偏重主義(情報源秘匿主義?)のようなものは希薄な気がする。やはりそれは、情報が溢れていてその情報に誰しもがアクセスできるという前提(本当にそうかは別だが、少なくともそういったコンセンサスを得ていると思われる)を共有しているからではないだろうか。要は、どんな難しい知識・マニアックな知識を持っていたとしても、そんなものは生まれつき持っているものではなく、どこかしらの本で読んだかテレビ(ラジオ)で見たかインターネットで調べたか、あるいは人から聞いたかである、ということが予めバレているからだ。まあ逆に言うと、独自の体験・経験から得た知識というのが珍重されやすいとも言える。おもしろい話やめずらしい話、自分の興味のある話を聞けば聞くほど、「で、なんていう本で読んだの?」と聞きたくなる。たいてい本(や雑誌、ネット)で得た話は、そのオリジナルよりも密度が薄く粗雑に改変されているに決まっていると思っているので、できれば原典にあたりたいと思ってしまうのだ。そうやって原典に当たってみると、たいてい、その人が言っていたこととは違うことが書いてあったりもするのだが。まあ、同じものを読んでいるのにこんなにも理解が違うのか、ということに楽しみを見つけ出すこともできる。
ところで、僕がここ最近「小説のようなもの」とホザいているのは、保坂和志氏の影響によるものだ。具体的に言って文芸誌『新潮』11月号の保坂氏の文章を読んだためだ。手元にその雑誌もあるのだが、めんどくさいので確認しないで自分の記憶だけで書くが、そこで保坂氏は青木淳悟氏の小説『クレーターのほとりで』を「剥き出しの小説」と呼んでいた。僕にはそれがすごくよくわかるような気がしたのだ(もちろん、思い込みである可能性は高い)。小説に限らず、最近のモノはなんでもそうなんだが、「出来過ぎている」感じがするのだ。完成品というのか。例えば大袈裟に言って人の人生も、パッケージングされた出来合いのお総菜のようになってしまっている感じがするのだ。何かそういったものに物足りなさを感じてしまったりするのだ。いや、もちろん、僕が「出来過ぎていない」「剥き出しの小説」を書くとか、書けるとか言いたいわけではない。実際、凡才がそういったものを目指し書いてしまうと単に「出来損ない」ができるだけだとわかっている。概ねその初期の作品が特にそうだが、阿部和重氏の小説、北野武氏や庵野秀明氏の映画がそういった「剥き出し」な印象を受ける。それはほんの少し見方を変えると「素人っぽさ」ということになってしまうのかもしれない。僕の審美眼などないに等しいから、その辺の微妙なところはわからないし、誰か優秀な批評家の方に論じて欲しいと思う。
庵野秀明氏で思い出したが、以前、庵野氏の監督作品『式日』を見たときに、なんとも言えない徒労感を感じてしまった。正直、大半を早送りで見たのだが、途中途中聞こえてくるカントクのナレーションに、何かこう、あーやっぱりだめなんだなーという印象を持ってしまった。別に庵野氏やその作品が「だめ」なのではない。むしろ、僕は大好きだし素晴らしいと思っている。ただ何がだめかというと、うまく言えないが、どんなに庵野氏がこういった映画(『式日』のような)を作ったとしても、世間はびくともしないんだなーという感じのだめさなのだ。こういった映画を作りながらも、その制作過程では、芸術性とか作家性といったものとはまったく関係のない次元で「俗事」が行われ、またその「俗事」が映画を完成させる上で必要不可欠だったりするのだろうなあ、と思ってしまったのだ。もっと言えば、その「俗事」の進行過程においては、「芸術」や「作家性」のようなものがその場の話題として上ったりするのだろうなという感じだ。野球と政治にまったく関係のない大人でも、「話題」のためにとりあえずは野球と政治について常日頃から知っておく、そしてそれを社交場で、「社交」のためだけに話す。そういった「くだらなさ」というものが、たとえあの天才的芸術家である庵野秀明氏の周りでさえも起こっていて、場合によっては庵野氏もそれに付き合わなければならないときもあるのだろうなあ。そんなことを勝手に考えてしまったのだ。
「昔は『なんちゃって』と言っているだけでラディカルだったのが、今はもうみんなが『なんちゃって』と言ってるわけで、もはやラディカルでもなんでもない」(『文學界』11月号 P.186 大澤真幸氏の言葉)
数年前、NHKを見ていると原田宗典氏が出ていて、「昔、僕らの若いころは、何か言ったあとに『なんちゃって』を付けて照れ隠しをしていたが、いまの若者はまず『なんちゃって』と言ってから何かものを言う。そんな印象を受けました」みたいなことを言っていた(記憶によるので細部はあいまい)。その番組の最後の数分を見ただけなので詳しくはわからないが、明治か法政の学生を取材したような番組だった。「全貧連」だったか、貧乏な学生の団体のリーダーを、だ。
紙幅も尽きた(尽きてないけど)。できれば、「なんちゃって」を付けて読んでください、と言いたくなることがある。すべての行の下に(なんちゃって)と書き込みたくなるような。小説家や芸術家のすごさは「なんちゃって」を言わないところだと思う。もちろん表面上は言うだろう。でも本気では言わないところが、芸術家なのだと思う。いや、知らんけど。言うてみた。
何か芸術作品や小説のようなものを書くときには、その発端となる衝動や動機があるものだと思う。その衝動の強さが作品の強さにつながったりもするのだと思う。はっきり言ってそういった衝動がいまの僕にはない。しかし衝動もなく惰性で文章を書いていると、衝動なんてものはどうでもいいのではないかという気になってくる。別に衝動があることや、それが作品を作らせることにはまったく異論はないし、ステキなことだと思う。しかし、衝動ではない何かが作品を作らせることだって大いにあるだろうし、その作品が優れている可能性は十分にあると思うのだ。
まあ、以上のことはどうでもいいことなのだが、「なんちゃって」を付けなくてすむ文章を一行ずつ書けたらいいなと、僕は思ってます。そういった「一行」が書ける時間が一日のうちに少しでもあるのだから、くそつまらない「俗事」だって堪え忍びます。(ということで、第7回就活案内が未だに届くの巻)
* * *
女は私のまばたきの音を聞いている。私は眼を閉じた。女は再び本を読みはじめる。
実際、女は眼が見えないらしい。この暗闇で本が読めるのはそのためだ。何も書かれていない真っ白なページを女は指で撫でる。紙の表面にはぽつぽつと無数の突起が並んでいる。その突起の並びに規則があり、文字として読むことができるらしい。女がどんな本を読んでいるのか私はわからなかったが、それが小説であるという確信だけはあった。きっと女は小説しか読まない。
私が眼を開けて女を見ると、女はそれに気づいた。女は私の心臓の音や血の流れる音まで聞こえているようだった。おそらくは空気の形から私の顔貌も仔細に把握しているのだろう。女には小説が見えているのかもしれない。私の小説が。
女が何か呟いた。しかし、私は見落としてしまった。女の着ている服が黒いことに気づいた。それと地続きになっているかのように長い黒髪が垂れているのにも。女の眼は閉じられたままだ。私はコーヒーが飲みたかった。
ぼくたちのはっぴーえんど
ネタがないから禁じ手を使う(2004.11.05)と言ったわりに、けっこうネタはあった。細かくは書けないけど、自分のためにメモを残しておこうと思う。
【Movie】
塩田明彦監督の新作『カナリア』を見たい。
【Musician】
ちょっと前だが、ZAZEN BOYSの向井秀徳氏がアルバムのプロモーションのためにラジオに出たりしていた。なんかミュージシャンでいまもっとも怖そうな人って、向井氏ではないかと思う(パーソナリティの方もビビっていた)。それは、ガタイのいいマッチョな怖さとか、ヤクザの親分的な怖さと対極にある、黙って人を刺す「チンピラ」的怖さだと思う。まともにケンカしたら弱いのだろうけれど、「いつでも人をぶっ殺す覚悟」を持っている者だけが持つ「殺気」をまとっている気がする。「何者にもおもねらない」感じぃ? いや、実際はいろいろ気を使ったりたいへんなのかもしれないが、少なくともスカしてるそこらへんのミュージシャンに比べれば、はるかに「殺気」を感じさせる何かを持っていると思った。ちなみにセカンドアルバムはまだ買っていない。あと、『カナリア』に曲を提供しているらしい(『自問自答』)。
【CD】
ブリトニースピアーズのベストアルバムを買うべし(近未来の俺に)。
【R24】
僕なんかは特にそうかもしれないが、同い年とか同級生と聞くと特別な感情を抱いてしまう。最近同い年で有名になった人と言えば、NBAに日本人で初めて出場したという田臥勇太氏だろう。高校3年生のころニュースで彼を紹介していたのを見たときから、その存在だけは知っていた。僕らは、ドラゴンボール→スラムダンクという流れで育ってるから、バスケ=スラムダンクとすぐに結びついてしまう。田臥氏が『スラムダンク』(井上雄彦,集英社)の愛読者かどうかは知らないが、高校3年生のときに彼をテレビで見たときは、「やっぱ現実はこういうやつがうまいんだなー」といったところだった。高校生のころの彼はパッと見、地味な印象があったのだ。バスケに対して、スラムダンク的な、桜木花道的なイメージが強かったのでなおさらそう思ったのだろう。イチロー氏とか中田英寿氏とかの若いころを見ても思うのだが、やっぱ地味だ(スポーツ選手だからってのもあるだろうが)。でも向井秀徳氏もそうだけど無駄な装飾・虚飾がない分、ある種の凄味を漂わせている気がする。まあそれはいいんだけど。どうしても同い年で目につくのはそういった有名な人になってしまうけど、昨日、ニュースを見ていたら、地震のあった村の一時帰村についてやってて、そこで24歳の若者が出ていた。その村は鯉の養殖が有名なところらしく、その若者は稼業である鯉の養殖を継いでいるのだそうだ。だけど、地震のため道路が通行不可能になり、残してきた池の鯉のめんどうを見ることができなくなっているらしい。その日は、ヘリコプターを使って各家族の代表者1名が村に1、2時間ほどだが帰れることになっていた。その24歳の若者は父に代わってヘリで村まで行き、池の鯉の無事を確認に行った。まあ僕はふーんとぼーっと見ていたのだが、帰ってきた若者は走って弟の待つ車までやってきて、携帯で避難所にいる父に鯉が無事だったこと伝えた。僕にも、鯉が全滅することはその稼業を廃業しなければならないことであり、たいへんなことだとはわかっていたのだが、やはり他人事でそれほど感動はしなかったのだが、その24歳の若者は鯉が無事だったことを伝えて、泣いていたのだ。なんかそれを見たときなんとも言えない感情に襲われてしまった。先日、ニートについての記事を読んだとき、そこには希望の就職が見つからなかったり、就職してもいまいちなじめなかったりして転職を繰り返しているような若者が紹介されていた。僕は鯉の若者には感情移入できなかったが、そのニート特集の若者には痛いほど感情移入できた。どちらも同い年(同世代)である。僕はその鯉の若者に、他の仕事に興味はないのかとか、本当にいまの稼業を一生やっていくつもりなのか、と訊いてみたいなと思った。泣いている姿をみる限りは、彼は本気なんだなと思えたし、そうならば、それは幸せなことだなと思った。田臥氏もそうだし、鯉の彼もそうだが、有名無名は関係なく、そうやって真剣にがんばったり泣いたりできる仕事があって、そのこと自体がほんとうに幸運でステキなことなんだなーと思った。彼らは険しいけれども己の道を進んでいる。僕らは険しくはないかもしれないが、平坦でやたらと広い迷路に立たされているような気分だ。
彼らの生き方やその努力は賞賛され尊敬されるべきだろう。しかし、僕らはもっと困難な課題を乗り越えなければならない。ある種の《サクセスストーリー》や《伝統を守り抜く三代目》といったような既存の「類型的」なストーリーに回収できない、「剥き出しの生」を生きなければならないのだ。まあもちろん、世間は「ニート」とか「フリーター」という言葉で僕らを回収しようと手ぐすね引いて待ちかまえてはいるが。「の・ような」生き方ではない、生き方、それをやろうとしているんだな。まあ、無理だろうけど。まあ、いいじゃん。
と、いうことで、泥沼の第06回(がんばる若者のための仕事発見マガジン)。
* * *
私は女に会いに行く。
女はいつもシェルターのような地下室の喫茶店にいる。一番奥のまったく照明の届かない暗黒で本を広げて座っている。本はいつもでもとびきり分厚かった。だが暗すぎて私はその本の題名を知ることはできなかった。もちろん知りたいわけもなかった。私は本ではなく、女に会いに行くのだから。
客はいなかった。カウンターの奥にはテレビの青白い光を浴びている店主の横顔があった。二、三歩中に入っても暗すぎて女がいるかどうか判別できない。私は眼を閉じた。しばらくそうして眼を慣らそうと思った。テレビの残像が漂っていた。その残像が収縮するのを待っていると誰かとぶつかった。目を開けると客が一人出て行くところだった。
私はのろのろと奥に進みはじめた。私は喫茶店の名前を想い出していた。〈夜〉だ。命名者は私だ。本当の名前は知らない。
店の中ほどまで来て、もう一度女がいるか見てみた。横壁がテレビの光を反射している。その光も奥には届いていない。のっぺりとした黒が張り付いている。私は再び眼を閉じた。ちらちらと動く白いものが見えた。女がいた。
私は手探りで椅子を見つけ、女の前に座った。やはり女は分厚い本を読んでいた。ページが真っ白でかすかに光っている。表紙は陰になり黒い。
「ひさしぶり」
本の明かりが女の口元を浮かび上がらせる。その光も女の舌先までは届いていない。
私は私の小説の空白に女の言葉を埋めた。
別に好きでもないクラスメイトの女の子が突然夢にでてきてから、ちょっとその子のことが気になりだしたキミへ
決定的に才能がない人というのはいると思う。ただ一箇の人間が全力を尽くしてできないことはないとも思う。ただ忘れていけないのは、僕らは「全力を尽くせない」あるいは「全力を尽くしにくい」時代に生まれ育ったということだ=The Post-Bubbles Generation(言い訳だろうか?)
もちろん僕に小説を書く才能がないことは何度も確認してきたことなので、ここでは繰り返さないが、注意して欲しいのは、才能がなくても小説家にはなれると僕が思っていることだ。何も松井やイチローだけが野球選手ではないということだ。
『AERA』(アエラ)という雑誌で「ニート」に関する記事を読んだ(立ち読み)。僕らは「自分探し世代」ということになっていた。はっきり言って「痛い」。「痛々しい」。以前地元にいたころにローカルテレビ局か何かのCMで、小学校低学年くらいの子供にカメラの前で将来の夢を語らせるというのがあったが、その中の一人の男の子は、「大先輩ファーブルのような昆虫博士になりたい」と言っていた(多少、記憶があいまいですが)。それを見たとき僕は18くらいだったと思うが、そのときですらすでに「痛い」という感覚を味わっていた。と同時に、そういうことを子供に言わせる人間の無責任さというか思慮のなさというか、そういうものに憤りを感じた。おそらく、いや、断言してもいいが、その子供は「ファーブルのような」人間にはなっていないと思う。いまでも昆虫や何かに興味があるかも僕は疑わしいと思う。(もしご本人がこのHPを見ていたら、そして、もし僕の予想が間違っていたら、連絡して欲しいです。とても希望が持てるから。)子供は知らず知らずに大人の顔色をうかがい、何かしらの圧力を受けている。「将来の夢」について子供が自発的に、そして、本心を語ることなどありえないのだ。「将来の夢」を言わせたがっているのは、常に「夢やぶれた」大人たちだ。だいたい毎日が楽しくてしょうがない子供が、なんでどんな動機で「将来」について語る必要があるのか。「将来の夢」を語らせる残酷さ。その語ってしまった「夢」によって、現在、どれほど多くの若者が泥沼にはまり込んでいることか。「将来の夢」など作文に書かせるから、10年後のいまになって「ニート」なるものが大量発生しているんだ。そして、僕もまごうことなきその一人だ、バカヤロー。
どっかで誰かが言っていたんだが、まず「文書のうまさ」とは、「文章がちゃんとしている」とは、「動詞」が使えるかどうかではないかと、最近自分自身でも思う。もちろん名詞(ボキャブラリー?)とか形容詞とか接続詞とか、すべておろそかにしてはいけないだろうが。何はともあれ「動詞」なのかなと、いまは思っている。僕の小説の文章が(内容もだが)、薄っぺらで平板なのは、兎にも角にも「動詞」が使えてないから、知らないから、ではないかなと思う。例えば、「物思い」には「沈む」んだなあ、とか?(どうなんでしょう? 欠点に気づければ、救いようがあるのですが…。)
まあ、いまさら、フリーターや無業者が怠け者だと思っているのは頑迷固陋な馬鹿者だけだろうが、もちろん怠け者ってのはいつの時代にもどこの国にも一定数いるものだし、怠け者じゃないからフリーターになってしまったということに問題の根深さがあるんだと思うよ。能力の問題? んなわけねーじゃん。みんな優秀だよ。それに無能者も抱え込んでどうにかこうにかやっていくってのも、人間社会の知恵ってもんだろう。フリーターがたくさんいるから国が亡びるんじゃなくて、フリーターのような存在を許容できなくなってしまうような国や社会が、もう亡びかけてるってことなんじゃないかねえ(←いつから僕は憂国の志士になったのだろうか? 私生活がぱっとしないと突然「国」や「世界」について憂いてしまうんですねー若者は)。
「自分探しは、ないもの探し」って誰かが書いてたけど(絶賛発売中『S大学物語』P.84より)、人生なんてないもの探しみたいなもんじゃん。あんまり酷なこと言うなよ。自分探しなんて醜悪だけど、お前の人生だってそれほど美しくはないだろう?(秘剣 つばめ返し???)
『写真学生』(小林紀晴、集英社)を読んだ。こんなステキな小説は20歳じゃ書けない。
毎日1行書けば、3日で3行、1年で365行(by Kazushi Hosaka)。毎日小説を書くって楽しいよ。例えそれが、クソつまらない自己救済のためだとしても、イチローじゃないんだし、他人が読む必要はないんだし、青春小説の結末はいつもあいまいだし。
* * *
私は物心ついたころからずっと小説を書いていた。はじめはそれが小説だとは知らなかった。だがあるとき小説というものの存在を知り、それが私が生まれたときから書き続けているものにそっくりだと気づいた。
別に不思議なことではない。すべての人間は小説を書いているのだし、その模造品として小説のようなものが存在したとしても、ごく自然なことだった。
私は駅を去る。
私は駅で見たたくさんの他人の顔をすべて忘れていた。他人を眺めながら書いていた小説ももうほとんど覚えていない。多くの人は自分が小説を書いていることを忘れてしまっているのではないか。私はそんなことを思った。
駅を出ても人は多い。もちろん他人ばかりだ。眼を閉じて歩けばぶつかってしまう。私は目を開けて歩いた。だが、ぶつかることもあった。ぶつかりながら、もう自分が小説を書いていることについて考えるのはよそうと思った。小説を書いていることを忘れたかった。
忘れた次から他人の顔は現れた。他人の顔を見ながら、私は私の顔について想い出そうとした。ほとんど私は私がどんな顔だったか忘れてしまっていた。私は私の顔を眺めようとした。それは不可能だった。私は他人ではなかった。
私は次々と歩いてくる他人の顔を見ながら私の顔を探した。そのあいだ少し小説を書いていることを忘れていたかもしれない。しかし、向こうから私が歩いてきたとして、私はいったいどうやってその顔を私と認めればいいのだろうか。
あいかわらず『坂の上の雲』はおもしろい。ただ小説というよりエセーを読んでいるような気分である。書いてある内容は日露戦争についてであるから、迫力がありダイナミックなのだが、その一行一行に膨大な裏付けがあって司馬遼太郎氏は書いているのだろうなと思うと、感嘆せざる得ない。さりげなく人物評のようなものが書き込まれているが、それを断言して書くには相当の自信がなければ無理であろう。第四巻の「旅順」を読んでいて、いつの世にも、どこにでも頑固で馬鹿な人間というのはいるんだなあと思った。「頑固と馬鹿」は常にワンセットである。ちなみに頑固で馬鹿な人を「救いようのない馬鹿」と言い、頑固ではない馬鹿を「素朴な人」と言うのだ。だから、「頑固だね」とか「素朴な人だ」ともし言われたら、それは「馬鹿だね」と暗に言われていると思った方がいい。僕の場合はどちらかというと「素朴だね」と言われることが多いが。あと馬鹿に馬鹿と直接言うのはいっこうに構わない。馬鹿と言われて気付くような人は馬鹿ではないからだ。ということで、アントニオ猪木氏の名言は「馬鹿になれ」でした。
と、いうことで、馬鹿の書く小説もどき、第4回目です↓。(賢明な人は読まないように)
* * *
傍から見れば、私は具合が悪くその場にしゃがみ込んでいるように見えたかもしれない。しかし、それがどうしたというのだろうか。私は外から見た私を想像することにほとんど興味がなかった。無意味に思えるのだ。私は私の眼に映ったものだけを見たかった。見えないものを見えるように思い込むのは、もっともつまらないことの一つだった。
私は目を開けた。同時に立ち上がった。眼に映る光景に変わったところはない。もちろん歩いている人々は別人だし、人の流れもまったく同じではない。電車の発車時刻も順次繰り上がっている。
やはり私は小説を書いているようだった。無意識的だったかもしれないが、書き続けられていた。書くと同時に読んでもいた。ただもうそれをやめたいと思っていた。私は黙々と小説を書き、それを同時に読み、すぐさま忘却していくことに多少疲れていた。できれば小説を書くのをやめて、誰かと会話がしてみたかった。誰かと会話をしている瞬間だけは小説を書くことを中断できると知っていたからだ。
私はまだ駅にいたし、たくさんの他人を眺めてはいたが、会話する相手がいなかった。私は実際のところ、目を開けているのか閉じているのか、小説を書いているのか書いていないのか、よくわかっていなかった。
テレビを見ていたら水泳の北島康介選手のコーチという人が出ていて、自己鍛錬の方法などについて語っていた。そこでは「自己分析」が重要らしく、有効な方法として、ビデオで自分を撮ってそれを3分以上見るとか、思ったことや自分の感覚を言葉にするというのを提唱していた。以前、心理療法のようなもので、仲の悪い夫婦にそれぞれ自分のケンカしている姿をビデオで見せて改善を促すというのをやっていたのを想い出した。僕もビデオカメラを扱ったことがあるのでわかるのだが、写真なんかと違って、ビデオカメラ=動画というのは恐ろしいくらい生々しい。ビデオカメラというものが発明されるまでは人はこれほどまでに自分の姿を客観的に見ることはできなかっただろう。よくテレビやなんかの「見られる仕事」をする人はどんどんキレイになっていくみたいに言われるが、やはりそれも常に自分を客観的に見ている自分というものを要請されつづけるからではないだろうか。
あと、ビデオ(動画)を編集していると、1フレーム(1/30秒)ごとの人間の顔というのを見る機会があるのだが、ほんと人間ってのはこんなに複雑な表情を刻々と変化させながら生きてるんだなあと思う。死なない限り人間の顔が静止することはないんだろう。他人に対する「顔」の印象ってのは、この刻々と変化する表情の総合的抽象的印象なんだなあと改めて思う。「人の振り見て我が振り直せ」と言ったものだが、これからは「自分の振り見て我が振り直せ」の時代なんだろうなあ。
うーん、とりとめのない感じ。ってことで、3日目。
* * *
私は家に帰ろう。家に帰ってパソコンにいま私の心の中で書かれている小説を書き写してみよう。しかし家に帰り着くころには、私の小説は霧散してしまっているだろう。私の小説はいま書かれ、いま読まれているのだから。書かれ読まれ消えていっているのだ。私はただ私の中の小説の作者であり読者であり登場人物であるだけなのだ。家に帰って何か書いたとしても、それは私の小説ではない。それは小説のようなものでしかないのだ。
私は少し疲れた。立っているのに疲れた。他人を眺めているのにも疲れた。私は目を閉じ、その場にしゃがみ込んだ。目を閉じると、何も見えなくなった。ただ残像のようなものが残った。
目を閉じたが私は死んだわけではなかった。あいかわらず小説を書いていた。しかし実感が薄かった。もしかすると私は小説を書いていないのかもしれない。私はまだ目を閉じたままだった。
マンガ喫茶で『MONSTER』と『DEATH NOTE』を読んだ。この二つを立て続けに読んだことに別段深い意図があったわけではない。どちらも昨今話題になった作品というだけだ。しかし、両作品とも「名前」というものがポイントになっていた。その符合が少しおもしろかった。ミサとヨハンを出会わせてみたい、とか(?)。こういった作品を読んで、素朴に「名前とは何か?」と問うてみるのもおもしろい。おそらくはどっかの学者や哲学者が一生を捧げて答えようとしている難問だ。
名前のない世界。それは想像するに茫漠とした世界だ。混沌と言うこともできるだろう。無理矢理かもしれないが、「小説」ではなく「小説のようなもの」を書くべきだと言ったときのこの「小説のようなもの」のイメージと「名前のない世界」というイメージは似ている。「新しいもの」であり、「名付け得ぬもの」。そういったものだ。
まあ、いいや。自分の心の中に生まれてくる「まだ名前のない何か」に名前を付けようとするのが、小説を書くという行為なのかもしれません。(では、まとまったところで、習作のつづき)
* * *
私はまだ駅にいる。私はまだ自分の目の前を行き交う人々を眺めている。眺めながら私は小説を書いていた。心の中で私は小説を書いていたのだ。
私の小説。私の心の中だけで書かれ私だけが読む小説。それを、私は独り黙って書いていた。私の小説には私しか出てこない。私の小説に他人は出てこない。他人は私の中に存在しないからだ。他人は外部にいる。私の外にいる。私の目の前にいる。たくさんいる。いまも私の目の前をたくさんの他人が歩いている。
私は私の外にいるたくさんの他人を眺めながらこの私の小説を書いているのだ。他人はこの小説を読まないだろう。私が他人の小説を読めないように、他人は私の小説を読めないはずだ。読めないから確認はできないが、すべての人間は心の中で自分の小説を書いている。自覚はしていなくともみな小説を書いている。それぞれの「私の小説」を。
ネタがないので、禁じ手を使います。今日から毎日「小説のようなもの」を書き続けます。興味がない人や嫌悪感を持つ人は来月からまた見てやってください。今月いっぱいは「小説のようなもの」の習作を掲載します。ゆえにあなたは閲覧しない権利を行使すべきです。情報過多の時代だからこそ情報遮断の勇気を。これを機会に閉ざされた世界(メディアに接しないということ)の豊かさを感じてください。では。
※「禁じ手」とはネット上に小説を掲載することです。(愚にもつかない小説をネットで垂れ流すのは恥ずべきことだし、商業作家を目指す者ならなおさら禁ずべきことです。ただ正確には「小説のようなもの」なので、どっちにしろうんこだけど、試作的な意味合い習作的な側面が強く、まただらだらといつまでも小説を書かない自分への最期の手段なのかもしれないんだかなんだかいつもどおり言い訳ばっか)ってことで。
以下は絶対に読まないこと(読んで嫌悪感をもよおしたとしても責任は持ちません)。
* * *
私は駅にいた。
別に用はない。ただ駅にいたのだ。いたかったわけでもない。私はただ駅にいて、駅を行き交う人々を眺めていた。眺めていたのか、ぼうっと見ていたのか、それとも観察していたというべきか、とにかく、私は眼を閉じてはいなかったので、そこにいる人々やモノを眼に映していたのだ。
いろんな人がいるんだなあと私は凡庸なことを思った。老若男女。美しい人、醜い人。いろいろだ。
私から見ればたくさんの人の中の一人でも、その人本人にしてみれば、かけがえのないただ一人の自分であり人生なんだろうなあとも思った。自分であり自分の人生を生きるというのは、自分の顔と肉体を持ち続けることなのかもしれない。一生自分の顔と付き合うことが生きるってことなのかもしれない。私は一生私の顔だし、あの人は一生あの人の顔なんだ。そう思うと、少し怖くなった。
『坂の上の雲』(司馬遼太郎)ばかり読んでいます。生に対する哲学的懐疑を少なからず抱えて生きていかなければならないポストバブル世代の僕らからするとまぶしいくらいに真っ直ぐな人々が出てきます。頭のいい人間よりも、頭の悪くて信念の強い(+親が金持ち、政治家、医者、etc)人間の方が出世するんだなと、アメリカ大統領選を見てて思いました。僕もお金持ちの馬鹿息子になりたい!
援交してた彼女らも最近じゃ就職活動って話だが、俺には関係ないどこ吹く風って感じで俺、街の中。風街、ろまん抱えて裏通り、黄金街の路地裏の人生街道にて、落ち目雅子が心の病を煩ったらしいが、それも俺には関係なかった。双塔ランドマークを睥睨しつつ、俺、毒書す。風街が憂鬱街に変わるころ、俺、欲情し、ただちに女を買いに、春街へ。カブキ街では今日も不条理女どもがデモンストライキの真っ最中。俺、肝心要の勧進帳で逃げ腰及び腰で腰振る夜も大無しに。虚飾と虚勢に彩られた虚構な今日が終わるころ、挙動不審な俺が893の兄ちゃんたちに睨まれる。どうしたらいいのかわからないままエエジャナイカとやり過ごす。趣都TOKIO。俺、19歳。
そう思いませんか?
僕もほんとうは「小説」ではなく「小説のようなもの」が書きたいんです。できればこっそり。
終電間際の中央線で携帯を開くとカレンダーが紅葉に変わっていた。
どの季節もその変わり目というのは少しそわそわするものなのだ。