
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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星野智幸「在日ヲロシヤ人の悲劇」(講談社『群像』2005年1月号掲載)
9.11以降からイラク戦争の現在までの世界状況を想起させるような作品。ただし、ロシア人をヲロシヤ人としているように、ロシアは露連、アメリカ及びアメリカ人は、米合、アナメリカ人に変更されている。例えば村上龍の『愛と幻想のファシズム』などを想起しても、そう突飛なことではないだろう。徐々に憲三という人間が愚かで憎らしく感じられるようになるのだが、その憲三の姿が自分にそっくりなような気がして辛い。「世界情勢」よりもむしろ「恋愛」について考えさせられる作品。あるいは「戦争」も「恋愛」も根は同じということか。星野智幸氏の作品はこれが初読。さらさらとどろどろの間、とろとろと流し込まれる感じの文章だった。スゴイと思う。
目取真俊「虹の鳥」(朝日新聞社『小説トリッパー』2004WINTER掲載)
沖縄の話。「沖縄」というのはそれだけで政治的な意味を過剰に含んでしまう。主人公は「政治的なもの」に無関心でもなく、かといってデモに参加するでもなく、その様子を歩道橋の上から観察するような距離感を保っている。「政治的なもの」を後景に濃密な人間関係を描くという意味では、「在日ヲロシヤ人の悲劇」に通じるが、むしろ、暴力描写の強烈さから花村萬月氏の作品や佐藤友哉「子供たち怒る怒る怒る」を想起した。あるいは「演技じみている」感じや暴力への切迫感から、中村文則氏の作品も。暴力描写そのものが過剰だったり巧緻だったりというわけではない。なんというか、その暴力がふるわれる「場」の切迫感がすごいと思った。
ヴィム・ヴェンダース『パリ、テキサス』
父と子の話。『オーバー・ザ・トップ』と『クレイマー・クレイマー』この2作品は子供のころ見て、かなり印象に残っている。どちらも父と子の話なのだ。個人的に父と子の話には弱い。と、気づいた。
あーあ、年末はいつも憂鬱だ。正月も。
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小説のようなもの(49)
ドアを開けてもやはりそこは闇だった。私はすり足で、手を前方に出して部屋の中に進入する。
女は私を待っている。私はもはや自分の存在を隠そうとはしない。私は壁を伝いながら奥へ進む。ところどころ床がしなる。私は壁の切れ目をに差しかかり、そこから別の部屋に入る。もちろんそこも暗闇で、まったく何も見えなかった。しかし私はこの部屋に女がいるとすぐにわかった。それは仄かに漂う植物の匂いに似た女の体臭と空気の柔らかく暖かい感触からだ。
部屋の中ほどまで進むと何かにぶつかった。それは革張りの椅子だった。すぐに一人掛けの年代物だとわかる手触りだった。私がぶつかったのは背もたれの部分で、つまり椅子は私に背を向けた格好で配置されていたのだ。背もたれを辿っていると人間の髪の毛らしい感触にあたった。もちろんその椅子に腰掛けている女の髪だ。
ところで、小説や舞台のタイトルとして以外で「ミゼラブル」という言葉を日常使用している人を見かけたことありますか?「それってミゼラブルだよね…」とか。見かけた人はご一報ください。
っていうか僕は小学生のころ『燃える!お兄さん』が大好きだったんですね。特にロッキーが。彼の「やるじゃな〜い」という口癖は『北斗の拳』のアインの「やるじゃな〜い」という名ゼリフからの引用なんですが、最近人気のギター侍こと波田陽区さんの「言うじゃな〜い」というのを聞いていて、それを思い出しました。しかも確かロッキーの名前は羽田ロッキーだったはずだ、と思い波田=羽田の類似から、確信犯なのかなと思い至りました。その「類似」には多くの人がすでに気づいているようですが。どうでもいいですが、小3のころ『燃える!お兄さん』の「ロッキー、ああ無情」(うろ覚え)という回を読んで泣いたことを今でも憶えています。また読みたいなあ。実家のダンボール箱の中にあるはずなのだが。
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小説のようなもの(48)
私は女が夜の中へ消えていくのを見届けた。私は恐る恐る女の足跡をたどる。橋を渡り、敷地へと足を踏み入れる。のっぺりとした暗黒として存在するその家屋までどれほどの距離があるのか測りかねた。私は暗闇で多くの人がそうするように両手を前にかざし、その家屋の壁と不意に接触しないよう用心しながら前進した。
おそらく橋から玄関まで続いているであろう敷石道を足下に感じた。私はそれに従い、しかし速度は速めずにゆっくりと歩いた。ほどなくして手に触れるものがあり、それはからからに乾いた古い木の手触りだった。私は顔を近づけてみたが、やはりその木目を視認することはできない。ただ指先で感じることができる。木目が立体的な襞を作っている。私はその襞の流れに沿って指を這わせた。すぐに境目にあたった。今度はつるりとした板の壁。これがドアだろう。私は横に這わせていた指を今度は下に向かわせた。やはり、すぐにまた金属質の取っ手にぶつかる。私は取っ手を握り回転させた。それは私が予想したとおりに、施錠されていなかった。
今日、一人で学生街をうろうろしていると「無料映画」とか「聖なる夜にぴったり」という謳い文句のチラシを拾い、そこに載っていた地図を頼りに足を運んでみ ると「映画」を見せてくれるという。ひまでしょうがなかったので、会場に入り座っていると、上映がはじまった。(あとで気づいたのだが、その地図は間違っていて、僕はまったく別の「会場」に来ていたのだ。)
「映画」は『ベルリン・アレクサンダー広場』というタイトルで監督はライナー・ヴェルナー・ファスビンダーというドイツ人。1980年にTVドラマとして制作され、公開されたものらしい。全13話とエピローグからなる物語で原作はドイツの小説家アルフレート・デープリンの同名小説『ベルリン・アレクサンダー広場』。原作の小説は現在日本では入手困難な模様。映画じたいもビデオ化、DVD化されておらず、まあ一種の「幻の作品」となっているらしい。上映会は、それを三日間に分けて一挙に上映するというもの。私が観たのはその最終日、第11話〜第13話とエピローグだった。
エピローグがすごいとのうわさを聞いていたが、第11話からその映像の新鮮さに心奪われた。各挿話のタイトルが現れるタイミングや「前回までのあらすじ」などが。ほとんど室内劇としてドラマは進むのだが、役者の演技やカメラワークなど、かなりテンションと集中力が高く、濃密な映像だった。ドラマでは室内以外にも「森」が重要な舞台として登場するのだが、その「森」が密室のように描かれているのに気づいて、あとで知ったがファスビンダー監督はもともと演劇出身の方ということだった。エピローグなども「演劇的」と形容したくなるシーンが随所に観られた。うわさのエピローグだが、確かにセンセーショナルな話題になりそうなものだった。いちおう主人公であるフランツ・ビーバーコップの「精神世界」を可視化したものという前提があるのだろうが。私の乏しい映画体験から連想したのはデヴィット・リンチとスタンリー・キューブリックだった。あとで資料を読んだら『ツイン・ピークス』との類似を指摘したものもあったので、私の連想もそれほど突飛ではなかったようだとわかる。あと「TV」用だったとか、「最終話」までは丹念に描かれた良質な「ドラマ」であったにも関わらず、「最終話」が半ば「破綻」している、それによって賛否両論を巻き起こす、などという類似から庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』を想起した。そう言えば、『エヴァンゲリオン』の最終2話も「演劇的」だったし、そう指摘されていた。「心の葛藤」を描こうとすると、CGよりも「演劇的」になってしまう、ということだろうか。あと音楽がランダムに断片的に流される感じとか、妄想と記憶がごちゃ混ぜになっている感じとか、そういうのは「精神世界」の具現化としては「ありふれている」と思ったが、まあ「そういうもの」なのだろう。つまり、臨死体験などがそうであるように、「心の闇」とかそういうものは往々にして「ステレオタイプ」なのだ。エピローグを「見たことがあるような」気がするのは、先にリンチなどを見ているせいか。しかし、「みたことあるような」映像と言っても、それによって映像の力が半減するというようなものではない。見ている間は確実に「引き込まれる」。
あと「室内劇」というのが、最近見た『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を思い起こさせもした。ただ『ストレンジャー』はワンシーン・ワンカットで固定、であるのに対して、『アレクサンダー広場』はカメラワークは自由で大胆でダイナミックな印象を受けた。ただどちらにも閉塞感は漂う。
エピローグのタイトルは「子供の死 そして有益な男の誕生」というのだが、これは主人公のフランツ・ビーバーコップが精神病院に入り、その後「生まれ変わって」、サラリーマンになるというのを指している。「有益な男」が「サラリーマン」というのがやはり何か「社会の一員」や「普通の男」として捉えられているのだな、と思った。「有益な男=サラリーマン」というのは、いまだに妥当な考え方だと思う。気をつけなければならないのは、「有益」なのは「会社」や「社会」あるいは「国家」にとってである。いまもってそうだ。
上映会には足立正生氏も来ていた。名前ぐらいしか知らなかったが、見た目や話し方など、「柔和」という印象を受けた。「歴史」や「政治的なもの」から完全に切断された1980年以降生まれの僕だからそう感じたのだろうか。
「見られない」と思うからか、いまになってもう一度、今度は最初から全部、ちゃんと見たいなあという思いに駆られる。いつの日かまた巡り会う日まで。
学生街の帰り道、風は冷たかった。
銃撃戦を排した「刑事ドラマ」を描き、テレビドラマから映画になった、実写映画としては邦画の観客動員数1位の記録を持つ作品に主演した俳優を批判して、映画監督の井筒和幸氏が「かっこいいが、一番かっこわるい」という名言を吐いていたが、気を抜くとやたらと「」や()が多くなってしまう自分の文章を見て「かっこつけるのは、かっこわるい」などとつまらないダジャレみたいなことを考えてしまったのである。
広末涼子氏がテレビに出ているのを見た。小倉優子氏の中吊りを見た。初めて小倉優子氏をテレビで見たときも、広末涼子氏をテレビで見たときも、克明に憶えている。小倉優子氏はジョーダンズがやってる深夜番組でだった。感想は、「こんな、完璧なまでにかわいい子がいるのか!」という「衝撃」を伴ったものだった。広末涼子氏は確か「木曜の怪談」内の「魔法のキモチ」というドラマだった。感想は、「衝撃」とはほど遠い、ぼんやりと、例えるなら冷えていたふとんがだんだん体温で暖まってくるようなじんわりとしたもので、「なんか、この子かわいいなあ。でも、こういう子をかわいいと思うのって俺ぐらいだろうなあ」そんな感じだ。のちに同級生の女子が広末ブームをやっかんで「広末は、なんかアカ抜けない」と言っていた。それは正しい。僕の小倉優子氏と広末涼子氏に対する、初見の感想は、おそらくどこまでも凡庸で一般男子のそれと大差ないと思う。つまり、小倉優子氏は「誰が見てもかわいく」、「衝撃的かわいさ」であり、一方、広末涼子氏は「それまでになかったかわいさ」であり、しかし多くの男子中高生が望んでいた「潜在的かわいさ」だった。広末涼子氏は(少なくともデビュー当時)、類型的「かわいさ」の範疇にはなかった。だから「俺だけがかわいいと思う」かわいさであり、この「自分だけ」という感覚をすべての男子が持ったために「爆発的」人気を博したのだ。その後の加藤あい氏や田中麗奈氏、最近では上戸彩氏まで、おそらく「広末的アイドル」の流れを汲むものだと思われる。
広末涼子氏をひさびさに見て思ったのは「素のような芝居」「芝居のような素」ということだ。おいしいものを食べたときの、あの、眼を閉じて眉を上げて「う〜ん」という感じ、あれは初めっから芝居臭い。だから「芝居」としてやると「素」っぽいのだ。もちろん広末氏の本当の「素」を知っているわけではないが。
松坂大輔氏にしても広末涼子氏にしても薄っぺらで軽薄だ。1980年生まれの特徴である。もちろん「薄っぺらさ」や「軽薄さ」は欠点でも悪口でもない。単なる「事実」だ。
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小説のようなもの(47)
気づくと光は消えていた。少し駆け足の速度を緩め、しばらくすると、足裏が物足りなさを感じるような平地になっていた。下り道は終わり、女は再びもとの歩き方になったのだ。私は女を見失うはずだった。もしも本以外の光がここになければ。
しかし、私の視界には光る地面が見えていた。それは黒くて、白い筋のある光だった。白い筋は刻々と変化し、揺れていた。その地面の光が一部分だけ切断されている箇所があり、その上を女が渡っていた。私には聞こえないが、おそらくは水の流れる音がしていたはずだ。光る地面の正体は小さな川であり、女は橋を渡ったのだ。橋の先は低い壁が巡らされ、奥に家屋らしきものが辛うじて見えた。門灯など一切なかった。夜の空とその家の屋根との境界線はあいまいで、家は夜の一部だった。
ダーウィンが「人間はサルから進化した」と言ってキリスト教から反発を喰らったらしいが、いまではほとんどの人が認める「真実」となった。コペルニクスとガリレオが唱えた地動説も、同じような感じの運命をたどりいまでは「真実」となった。
『男はつらいよ』(山田洋次監督)で、寅さんが「あんな鉄の塊が飛ぶはずがない」とかなんとか言って飛行機に乗るのを拒否するのだが、結局、きれいな女性客室乗務員(フライトアテンダント)に説得されると鼻の下を伸ばしてノコノコ乗ってしまう、というのを見た記憶があるのだが、寅さんの姿を見て「人間とはかくあるべし」と思ってしまった。間違っても「飛行機事故は交通事故よりはるかに確率が低い(確か10億分の1だっけ? 誰か教えて)」とか紙切れを持ち出してふーっと息を吹いて「揚力」について説明してしまうような人間にはなりたくないものだ。
同じように「人間がもともとサルだったなんて、馬鹿なこと言うな」と言える人間でありたい。「だったら動物園にいるそのサルどもがいつか人間になるっていうのか? んなわけねーだろ」とも。
僕らが、「人間はサルから進化した」(とめちゃめちゃ大雑把に)信じている「真実」とキリスト教的価値観が支配していたころに「人間は神の子だ」と信じていた「真実」も、あるいは「太陽の周りを地球が回っている」と信じているのも「地球が宇宙の中心で、星々がその周りを回っている」と信じるのも、「同じ」ではないかと思うのだ、最近。
いや、別に、「僕らは、<科学という宗教>を信じているようなものです」とか言いたいわけではない。言うなれば、「人間は人間だ」とか「地球は平らだ」とか言える「強さ」を持ちたいのだ。そういう「強さ」を「暴力的」と、僕は、今のところ、呼ぶことにしている。
駆け足をする「アシモ」(HONDA)を見て、アナウンサーが「気持ち悪い」と感想を漏らしたが、確かに人間のような動きをする「ロボット」はかなりの衝撃力がある。あれはなんだろう?
「からくり儀右衛門」(TOSHIBA創業者)にはじまる、日本は「ロボット先進国」であるらしい。
また、オタク向けのフィギュアを「アート」に仕立ててみせた村上隆よろしく、日本は「美少女」の最先端国でもある。そう、オタクの大御所宮崎駿氏の作品に欠かせない「ロボット(メカ)」と「美少女(お姫さま)」は間違いなく日本のお家芸だ。さらに高橋源一郎氏の小説『君が代は千代に八千代に』の中でも触れられているダッチワイフ、これも他の追随を許さぬほどの高いクオリティも持ち得ている。それは技術、センス、情熱、すべてにおいて断トツだ。
「脳」がブームらしい。斎藤環氏が危惧するように、僕らは「汎脳主義」に陥りかけている(『心理学化する社会』より)。それは90年代から続く「心理学」「精神分析」ブームの延長でもある。
「前頭葉が人間の…」、「視床下部に…」、「海馬が記憶の…」といろいろな事象が脳に「還元」される。確かにそうなのだろう。「ホムンクルス」の像を見せられて、なるほどそうだよな、と思うのも別に悪いことじゃない。すべては「真実」なのだろう。
しかし、だ。そんな真実は「地球が丸い」とか「サルから進化した」とかと同じ質の「真実」だ。それを科学的に探求したり、応用して何か生活の役に立つものを作ったりしている人たちにとっての「真実」とはまったく別種の「真実」であり、すぐさまくだらない「世間知」や「社会知」とでも言うべき醜悪な「真実」に堕するものだ。
例えば、「雨の日を『天気が悪い』ってみんな言うけど、おかしいと思わない?」と高校のときの古典の女教師が言ったときや、「野茂や中田が『世界で活躍した』って言うけど、それって、おかしいよね?」と大学の倫理の教師が言ったときに訪れる不快感。この教師たちは確かに「正しい」ことを言ったのかもしれない。しかし自分の言っていることが「不快感」を与えていることに無自覚であり、そういう意味で「正しくない」。そう確かに「雨の日」を「天気が悪い」、「晴れの日」を「天気がいい」というのは現代社会に生きる人間だけが持つ偏った価値観を表しているだろう。そこから脱し、「雨の日」や「晴れの日」の「価値」を捉え直すのは「豊かな感性」かもしれない。野茂が「アメリカで」活躍したことや、中田が「ヨーロッパで」活躍したことを、「世界で」活躍した、と言うのは、確かに「間違い」だろう。「世界」とは欧米を指す言葉でもないし、日本以外のどこか一国を表す言葉でもない。もちろんその「世界」という言葉の使い方に、欧米+日本の先進諸国こそが「世界」である、という偏った価値観を見出すことは可能だ。
しかし、だ。やはり「雨の日は天気が悪い」のだし、「イチローは世界で活躍した」のだ。僕らは「実感」の伴っていない「浅知識」によって吐かれた言葉を、やはり嫌悪すべきだ。そういった「正しい」けれども「実感のない」言葉を徹底的に軽蔑すべきだ。そうしなければ、本当に「雨の日も悪くないじゃないか」と思ったり、「アメリカだけが世界じゃない」と思ったりするチャンスを永遠に失うのだ。「鉄の塊が飛ぶはずがない」と言い切れる人間だけが、「鉄の塊が飛ぶ」ことを本当の意味で感じることができるだろう。「人間は人間だ」と言い切れる人間だけが、「人間がサルから進化した」本当の理由を知ることができるだろう。
そういう「強さ」があれば「脳」に「答え」を求める必要もないだろう。ボケないために「計算」をやって何になる?現代人に必要なのは「脳」を知ることでも、「脳」を活性化させることでもなく、リアリティを回復させることだ。つまり、「セックス」の「正しさ」ではなく「オナニー」の「リアリティ」を問題にしろ、と言いたいのだ。
「後篇」につづく
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小説のようなもの(46)
おそらくそれは女にとって実際的な歩き方なのだろう。ちょっとしたコツのようなものなのだ。暗闇を歩くのも、後ろ向きに歩くのも、女にとってはそれほど差異のあることではないのだろう。
私は本の光の具合から、この下り道が緩く長いことを察した。私がぼうっと立っている間にずいぶんそれは遠くに行ってしまった。私は一歩踏み出す。下半身の筋肉で制御しながら、上半身でうまく加速を付ける。
とん、とん、とん、とん、とん。
私は頭の中でリズムを取る。
靴底を通して土の粘りが伝わってくる。右足と左足は交互に繰り出され、徐々に地面に接する足裏の面積が狭まり、最終的につま先だけになる。
と、と、と、と、と、と、と、と。
リズムが小刻みになるにつれ、光はどんどん大きくなっていった。私は駆け足により気分が昂揚してしまい、女との距離や自分が響かせているであろう足音にはほとんど意識が行かなくなっていた。走るということが、風を起こす行為であるということに夢中になっていたのだ。
確か中2(中3?)の春休みだったと思うが、地元のテレビ局のイベントにゲストで雛形あきこが来ていて友だちと見に行った。CDデビュー(たぶん「揺れる恋 乙女色」)したばかりだったと思うが、乳の谷間を作って俯瞰気味に撮影されたPVには衝撃を受けたものだ。あれが元祖「だっちゅーの」だった気がする。野外ステージで持ち歌をうたう雛形あきこを、うしろの方で見ながら、友だちが「ああいう彼女が欲しいよねえ」としみじみ言っていた。まだ広末涼子がすべての男子の心をがっちりつかむ直前のころ、雛形あきこは確実に僕らのアイドルだった。もしかすると違う年かもしれないが、雛形あきこを見て帰宅してテレビで再びそのイベントの模様を見ていたら、乳も露わなセクシー衣装でやたらと激しいダンスをしている年増の女性が映っていた。誰だこのおばさん、と思いつつも、たかだか地方局の牧歌的イベントなのに、それも真っ昼間の野外ステージで、狂った獣のように踊るその女性はやたらと印象的だった。いま思えば、それが低迷期のころの杉本彩だったのだ。10年、変われば変わるものである。あのころ、いまの雛形あきこの凋落ぶりや杉本彩の暴走ぶりを予測した人はいなかったのだから。
いや、別に書きたいこともないし、書く気力もまったくないのだが、惰性で書いてみた。
あるサイトを見ていて、「ジャン・ピエール・モリザン」という映画監督の『NOVO』という作品が話題に出ていて、あーまた俺の知らないどこかの映画監督の名前が出ている、と思って、ジム・ジャームッシュの記憶もあったので(知らない監督でも、ちょっと探して見るとおもしろかったり、発見があったりする)、ちょいとネットで検索したら(まじでこのへんが「IT革命」だ)、作品リストに『TOKYO EYES』(主演/武田真治・吉川ひなの)というのがあって、昔見たことがあったのを思い出した。「知らない」と思いつつ、見てたのでびっくり。中身もまあまあ憶えている。下北沢が出てきたはず。あと新宿のでっかい眼。
あと本棚を整理したら、ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ旋風がどこかに行き、変わりに星野智幸ブームが到来した。といっても「在日ヲロシヤ人の悲劇」(『群像』2005年1月号掲載)が予想以上におもしろい、というだけだが。まだ1/3ぐらいしか読んでいないが、これは「架空の」近未来を舞台にした話だ。「9.11」や自衛隊のイラク派遣(派兵?)を想起させる話がバシバシ出てくる。小説の中では、そういった「政治的なもの」に深くコミットした「家族」が描かれる。目次の惹句を読むと「2006年。日本の家族の崩壊を世界情勢のうねりに結ぶ傑作長編」とある。例えば、現在の世界情勢(イラクやテロや自衛隊)をあきらかに想起させるものは、俗耳に入りやすく、「批評」がしやすい。また、一方で「現実」に引っ張られすぎて、作品の方が負けていて、「陳腐」になる可能性が高い。この作品は、まあ「架空の」話(小説とは本来そういうものだが)として描かれているが、その「現実」の出来事を想起させるというのが、「批評」や「ジャーナリスティック」な意識で書かれているというよりも、むしろ、そういうものによって「目くらまし」をしているのではないか、という気分になった。つまり、9.11やイラクについて書くことで、わざと「読みにくく」あるいは「誤読を誘いやすく」しているのではないか、と思ったのだ。「ビルの中ほどに穴が開き、そこから紫煙のような煙が立ち昇っている。」とか「古い摩天楼は、ゆっくり垂直に屈むようにして、音もなく崩れていった。」とかの文章を読んで直ちに具体的な映像を想起できてしまう。「あの事件」や「あの国の問題」と完全に切り離して読むことができない。この「小説」が2004年ごろに書かれ、2004年ごろに僕が読む限り、それは不可避なことだ。しかし、それによってこの作品は「読まれる」ことから逃げ延びている、のかもしれないと思った。あの「映像」をリアルタイムで見た僕らには、この小説を本当に「読む」ことができないのだ。よってこの小説は書かれ、掲載されたにもかかわらず「未来」の小説になっている。「現実の事件」を想起させるがゆえに、「タイムカプセル」に入れられた文集がごとく、ある未来の日まで「読まれる」ことがないのだ。「現実の事件」を安易に扱った作品が、その事件の風化とともに忘れ去られていくのと違い、おそらく優れた作品とは「現実の事件」が想起されなくなった「未来」において初めて「読まれる」作品なのだろう。言いたいことは伝わっただろうか?
ここまで書いて、読み直してみて「脈絡なく」書いているつもりだったのだが、「雛形あきこ」(と「杉本彩」)をあるときリアルタイムで目にした、ということと、9.11をリアルタイムの映像で(というかあれは「映像」の方が「事件」だったのだろうが)見たこととが、一方ではある芸能人の芸能界での「歴史」のワンシーンでありつつ、かつ、僕の「個人的思い出」(個人史)と結びついている様と、9.11という「世界史」とそれを見ていた自分の「個人的記憶」(個人史)というのが交錯している様とが、同じ構造を持っていることに気づいた。そう考えると9.11の特異性というのは、それぞれが9.11に対する「個人史」を持っていることなのかもしれない。ニューヨークであれを目の当たりにしたこと、よりも、世界中の多くの人々が「同時に」事件を体験してしまったこと、だ。だから、9.11を真っ正面から描いたり、やたらとそれを意識して書いた作品よりも、「個人史」と「世界史(=9.11)」の交錯を描いた作品の方が、リアリティを持ってしまうのだろう。
って書きながら、たぶん違うなあーって気になった。僕には手に負えない「問題」です。(かっこつけて)ごめんなさい。
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小説のようなもの(45)
舗装された道が途切れ、民家がまばらになり、辺りに収穫期を終えたばかりの畑が広がるようになった。外灯すらなく、足裏に伝わるのは土と草と小石のもつ原始的な感触だったが、それを視認することはできなかった。かすかだが濁った水の流れる臭いがする。私はもう女との距離がまったく測れなくなっていた。幸いこの道は一本道だったので、私の直線上に女がいることは間違いなかった。私は複雑に変化する道の凹凸に注意しながら、等速で歩き続けた。
しばらくすると道が下降しているのに気づいた。私は歩みが早くなるのを反り返ることで制御しようとした。そのときそれまで見失っていた女の姿を再び発見した。それは私の想像以上に近くにあり、驚いたことに、あの羽を広げた姿の本が光っているのが見えたのだ。私は女がくるりと方向転換し、こちらに向かって歩いてきているのだと思った。私は立ち止まり、私も引き返すべきか、それともこのまま進んですれ違うべきか迷った。迷いつつ闇に浮かぶ青白い光を凝視していると、それが二重三重にぼやけだした。私は眼を閉じたり開いたりしてみた。光はますます曖昧なものになる。ただ不思議なことに、光は徐々にしぼんでいく。その後ろに浮かび上がっている女のシルエットも同じく縮小していく。私は反り返っていた自分の身体を前のめりにして、それをよく見てみようとした。途端に私はバランスを崩し、よろけて、下り道を二、三歩進んでしまい、つまづく寸前だった。
私はそのとき、はたと気づいた。女は後ろ向きに歩いているのだ。
中学生のころ、同じクラスの女子がこういうことを言っていた。「趣味を仕事にすると、趣味がなくなるんだよ。だから趣味を仕事にしないほうがいい」と。これを聞いたときに、僕はなんだか知らないけれど、反発心を覚えてしまった。それは、こまっしゃくれた中学生がどうせどこぞのクソつまらない大人の言ったことをそのまましゃべっているだけに過ぎないんだろう、という嫌悪感もあっただろうし、その発言に対してきちんと反論できない自分への歯がゆさというのもあっただろう。僕はいまだにその「反発心」を引き摺っているし、「それは違う」と思いつつも明解な反論を構築できないでいる。
いつかそれに反論し、論破できる日が来るかもしれない。しかし、リアリティとして克服できるかどうかはかなりあやしい。おそらく無理だろう。
いまの僕にでも多少は反論できそうなところもある。「趣味を仕事に云々」という発言には、あからさまに「趣味/仕事」という二項対立的な発想がある。つまり、「趣味/仕事」、「遊び/労働」という対立概念としてそれらを考えているということだ。そういう考え方が、ある地域で歴史的に捏造されていった一つの「考え方」にしか過ぎない、ということに気づいていない時点で、もうすでに袋小路に陥っている。
そう趣味と仕事、遊びと労働という「区別」自体が、帝国主義、資本主義(の異母兄弟・社会主義)、産業革命以降のアングロ・サクソン&キリスト教的価値観に支配された、「ある時代」、「ある地域」のみで受け入れられた「偏った」価値観なんだよーん。わかったか!
※タイトルは、変死隊『SO-MA-TO』(作詞/民衆、作曲/神)の歌詞より引用
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小説のようなもの(44)
女はきっと鼻唄を口ずさみながら歩いている。女に昼夜の区別はない。地獄を歩くのも天国を歩くのも一緒だ。髑髏の谷を歩いているときも、咲き乱れる野花の丘を歩いているときも、女は同じように鼻唄を口ずさむ。女は、歩いているときはいつでも歌っているのだ。私の知らない外国の歌を、お気に入りのフレーズを何度も繰り返しながら。
私は私の身に付けた処世術の一つである読唇術を駆使して、仮にいくつかの単語を読み取ったとしても、そのメロディーやリズムの醸し出す旋律を感じることはできないだろう。
私の眼に映るのは、いま女の暗黒色した後背だけだ。マンガのように音符が宙を舞っているわけではない。私はできることなら女の正面にまわり、女の口元や表情を眺めてみたかった。いや、それはやろうとすればできることでもあった。言葉や音はわからなくとも、多くの人が微笑みをつい表してしまう鼻唄とやらの楽しげな雰囲気ぐらいは、この歌を聴いたことのない私にだって、伝わるような気がしていたからだ。
非常におもしろかった。
昼夜逆転中、起床後すぐに映画館へ。土曜オールナイトで宮崎駿監督作品『ハウルの動く城』を鑑賞。非常に楽しい時間を過ごせた。
たぶんこれは、「印象批評」や「象徴批評」的に読み解けば、いろいろと解釈のしようががある「豊饒」な作品なんだなと思った。ただ見ている最中は、そういった余計なことはなるべく考えないようにした。例えばあの犬ころのかわいさやお花畑の美しさを素直に楽しんだ。ワイドショー的な話題ばかりが目立った木村拓哉氏の声優ぶりも、僕は非常に好感を持ったし、かなりよかったと思う。もし前情報がなければ氏の声だとわからなかったと思う。
いや、これは非常に「解釈多様性」を誘発する作品だ。見る人によって様々な「解釈」があるだろう。それはそれで、珈琲を飲んだりしながらみんなと語り合い、楽しみたいことだ。
まあ、大方の人が気づくだろう「解釈」としては、まず明らかに、前作『千と千尋の神隠し』との類似が目立つ。和モノの『千と千尋』、洋モノの『ハウル』といった具合に一対をなす作品と捉えられそうだ。「内容」に関していえば、あからさまに「家族」を作っていく話だった。そう、今流行の「ルームシェアリング」ものであり、疑似家族ものだ。今どきの「社会問題」を誘起させるようなシーンも散見された。
まあ、ただそういうことはどうでもいい。宮崎監督も、たぶんそんなことはどうでもいいと思って作っているはずだ(例えば、「反戦」なんてこれっぽちもメッセージってない。あえて言うが、イラクとかその辺で起こっている「戦争」にこの映画はまったく関心がない。はっきり言ってどうでもいいのだ。どうでもいいから、これを「反戦」と捉える人が出てきても問題はない。勝手にしてくれというところだろう。単に宮崎監督は、メカと少女とお花畑と湖が大好きなだけなのだ。イラクなんかで起こっている戦争には一ミリの関心もない。「反戦」と受け取るのはあなたの迷妄だ。「国民的」アニメ映画だからと言って、当世の諸問題である「戦争」や「環境問題」について何かメッセージを発していると考えてしまうのは、あなたがあまりにもナイーブなひとだからだ。天才・宮崎駿はそんなことには興味があるわけがない。もしそういったワイドショー的な関心があるとすれば、日本が世界で最も「少女買春」をやっている国であり、「人身売買」の巣窟だということぐらいだ。何度も言うが、この映画は「反戦」など一ミリも訴えていないし、この映画の真の素晴らしさを見落として、そういうくだならないことでこの映画を回収しようとするのはやめて欲しい。なーんてね、冗談だよ。ちょっと、カッコつけてみました)。やりたいことだけをやったのだろう。やりたいことだけをやれる、というのもスゴイし、それが芸術的にも商業的にも成功している、というのもスゴイ。こうなったら命尽きるまでめちゃくちゃに作品を作り続けて欲しいと願うばかりだ。そういった「天才」の作品をリアルタイムで享受できることに、「僥倖」としか言いようのない幸運を感じる。
とは言え、宮崎駿監督に真っ向から立ち向かう存在もいて欲しいと思う。面と向かって罵詈雑言を投げつけてくれるような。おとなし過ぎんるんだよなー、団塊世代以降は。なーんかね、そんなオールOKみたいな僕らも、ある意味「気持ち悪い」気もするんだなー。
次回予告「ダッチワイフが人間になる日」です。脳科学と最先端ロボット工学から導き出された「未来予想図」! 乞うご期待。
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小説のようなもの(43)
女は何度か角を曲がった。私はなんとか見失わずに女の背中を追い続けていた。女はどこに向かうのか。女は自分の家に帰るはずだ。私はそう思っていた。こんな夜中に女が一人歩く。昨今の世相を考え合わせればかなり危険なことだった。無差別に人間を殺したがっているやつが大勢うろうろしているのだ。しかも女子供、より弱い人間をねらってそういうやつらは蠢いている。例えば私はその辺の石を拾って駆け寄り、女の頭を殴ることもできる。女の頭蓋をかち割り、白い骨と脳漿を辺りにまき散らすことも。私は女と比べて圧倒的に暴力的優位に立っている。ただ私はそういうことをしようという気がないだけだった。それは、ただ可能なことに過ぎなかった。
その、いますぐにでもこの女を殺すことができる、それもより残忍な方法で、そういう事実が私を少し昂奮させた。だが私は女を殺す能力を持ちながら、それを行使せず、それよりもは女の歌を聴いてみたいと思っていた。女を殺すよりも、女の歌を聴く方がどれだけ幸福なことだろうか。美しい歌はたいてい人を幸福な気持ちにさせるものだ。私は幸福感に満ちた。ただ、私は女を殺せても、女の歌を聴くことはできない。それは、ただ不可能なことだった。
昨日、ジム・ジャームッシュ監督作品『ストレンジャー・ザン・パラダイス』について書いた。映画作品について書くときは、役名や俳優名などの基本情報を確認するためにも、ネット上の映画評などをいくつか見て回ったりするのだが、昨日は面倒臭いこともあってそういうことはしなかった。面倒臭いという理由の他に、そうやって他人の評を見てしまうと「書けなくなる」からというのもある。以前、クリント・イーストウッド監督作品『ミスティック・リバー』について書いたときは、事前にかなりの量の感想&評価を読んだのだが、そのせいで「書けなく」なってしまった。つまり、自分の書こうとしていたことが、ほぼ書き尽くされているからだ。その結果、苦し紛れの捻くれた文章を書いてしまった(雑感雑文2004.07.20 Tue参照)。
今日、この文章を書く前に、アマゾンとオールシネマオンラインというサイトの評をざっと読んでみた(Yahoo!で「ストレンジャー・ザン・パラダイス」で検索した結果の上位2つ)。やはり「知らなかったこと」が書いてあり、それなりに有意義だったが、感想に関していえば自分の書いているものとダブる部分も多く、だいたい予測の範囲内だった。別に奇をてらったものや斬新な映画評を書こうと思っているわけではないので、むしろ自分の見方が一般的だった、というのを確認できてほっとしている。というか、自分が「映画評」を書く作法を身に付けつつあるのだなと思った。もちろん「映画評」といっても、その前に「素人」とか「アマチュア」と付けられるべきものだが。僕が映画について何か書き、それがネット上に溢れる感想や評価と内容や書き方において「ダブる」というのは、つまり、単に僕がそういう「書き方」や「視点」を学習したということに過ぎない。ここで注意すべきは、僕が学習したのは「(アマチュア)映画評」の「書き方」や「視点(あるいは、切り口)」であって、「映画を見ること」そのものではないということだ。何度か書いているが、「映画を見ること」と「映画について語ること」はまったく別物だ、と僕は思っている。そして、もっとも忌避すべきなのは、「映画について語ること」やその「語り方」が、「映画を見ること」に優先してしまったり、その態度を支配してしまったりすることだ。例えば、僕のように(爆)。
昨日書いたことについて、少し補足しておく。「エバの母」、「ウィリーの叔母さん」と書いたが、これは確認したわけではなく、映画の字幕上では「ロッテおばさん」と表記されていたものである。
「閉塞感」をキーワードに書いてみたが、繰り返しになるかもしれないが、この映画においての「閉塞感」とは「外に出たいのに、閉じこもっている(閉じこめられている)」という「閉塞感」である。大事なのは「外に出たいのに」という部分だ。ウィリーを筆頭に、エディもエバも「外に出たがっている」。エディやエバの「閉塞感」は若者なら誰しもが抱くであろう「閉塞感」であり、ありふれた凡庸なものと言える。ウィリーはハンガリー人でありながら「アメリカ人」であろうとする(それは表面上、成功している)点でより複雑な、いわば二重の閉塞感を抱え込んでいる(ウィリーが「アメリカ人」であろうとしていることや、それに(内面上)失敗していること、エバがそういった欲望とは無縁なことは、「ドレス」が象徴している。エバのように「似合わないドレス」を脱ぎ捨てることが、ウィリーにはできない)。
なぜ「外に出たいのに」(もちろん「外」とは象徴的な意味で使っている。「パラダイス」と変換してもいいかもしれない)を強調したかというと、映画の中で「外に出たがらない」者が対照としてきちんと描かれているからだ。そう、ロッテおばさん(と、ビリー)である。ハンガリー語を使い続け、クリーブランドという土地に安住しているロッテおばさんは、「外に出たがっていない」のである。だからこそ「閉塞感」とは無縁なのである。ビリーにおいてもそうだ。ビリーは「外に出たがっていない」。だから「閉塞感」はない。ただこの土地に安住するべきパートナーを未だ獲得していないために「不安定感」はあるが。
ここで表される「閉塞感」は僕たちにとって、非常に示唆的なものだ。つまり、「外に出たい」という前向きとも取られがちな(いわば健康的な)意志が、みずから「フタ」や「殻」を作ってしまうこととなり、結果「閉塞感」をもたらす。酷な言い方をすれば、一人相撲を取ってしまっているのだ。もちろんウィリーには「ハンガリー人」で在り続けられない何か深い理由があったのかもしれない。いや、本当はそんなものなかったと僕は思う。
「小説家になりたい」(のになれない)から、「閉塞感」を感じてしまうのだ。「田舎で終わりたくない」(のに都会に出るチャンスがない)から「閉塞感」を感じてしまうのだ。「もっと高い給料がもらえるはず」(なのにもらえない)から、「閉塞感」を感じてしまうのだ。「もっとステキな彼氏と付き合えるはずなのに」(付き合えない)から、「閉塞感」を感じてしまうのだ。ここを読んでいる人なら、僕も含め、みなさん心当たりがあるはずだ。いや、真面目な若者ほど、そうだろう。だから、この作品は若者の圧倒的支持を勝ち得たのだろうし、一世を風靡もしたのだろう。
また保坂氏の言葉に準ずれば、「希望」を持ってしまうから、「閉塞感」を感じざる得なくなるのだ。強かな「大人」であるロッテおばさんは、おそらく無意識の「処世術」として「希望を持たない」のだ。だから、「閉塞感」を感じず「タフに」生きている。だから、いかさまポーカーで稼いできたウィリーとエディが、ロッテおばさんに一勝もできないのは、当然なのである。ちなみに、こういった「大人」の、ナイーブさとは無縁な強かさを見たときに、僕は「暴力的だ」と感じるのだ。少なからぬ憧憬を抱きつつ。
そう、この映画は、「希望」を持たず、「絶望」もせず、「閉塞感」を「閉塞感」のまま保ち続けることの記録なのであり、ラスト、ウィリーがハンガリーに戻ってしまうのは、一種の敗北であり、バッドエンドなのかもしれない。しかし、エディが「何になる」と嘆くように、結局は、その「帰国」は「閉塞感」の打破にはならないであろう。おそらくは新たな「閉塞感」を生むだけだ。
だとすれば、この映画が伝えているのは、「閉塞感」を「持たないようにする」ことでもなく、「閉塞感」を「打破する」ことでもなく、「閉塞感」を「閉塞感」のまま付き合い続ける、ということなのだ(ちょっと違うかもしれないが、雑感雑文2004.11.26 Fri で書いた<「殺さず殺されず」生きる>みたいなこととなんか似てるな、と思ってしまった)。それは言い換えれば、この映画が凡百の「ロードムービー」(あるいは「家族ドラマ」でもいいが)に「発展」しなかったように、つまりは「物語」の発動を遅延しつづける、ということなのだ。(「物語」が発動しないということは、言い換えると「退屈」ということだ。だから、この映画を「退屈」と感じる人がいても不思議ではない。「退屈」を回避しつつ「物語」を発動させない、ということはかなりの「才能」を必要とする。つまりは「中身のない会話」や「遊びのための遊び」を自己懐疑することなくやり続けることができる「才能」が、だ。そう北野武の「才能」のことだ。)「遅延」の基本的な方法は、「時間を無駄に使うこと」である。そう、映画の中で示されているように、「飛行機」ではなく「車」で移動してみること、だ(お金もあり、飛行機による移動が一般的であるアメリカにおいて、彼らはわざわざ「車」を選んでいる)。「飛行機」はそういう意味で「物語」の発動を示唆している。だから、冒頭とラストに「飛行機」が出てくるのだ。
ラストの「飛行機」は、新たな「物語」の誕生を匂わせている。だからこそ、この映画はそこで終わる。そして、この映画のもっとも劇的な出来事、それは何か? もちろん、エバがウィリーのもとに「やってくる」ことであり、ウィリーとエバの「出会い」がこの映画を発動させているのだ。そう、エバはウィリーと出会うために「飛行機」でやってくる。『FUCKILLOVE』についての文章(雑感雑文2004.02.28 Sat参照)でも散々言っているが、「物語」とはすなわち「出会い」のことである。10年以上も親戚と縁を切り、ニューヨークで「アメリカ人」として暮らしていたウィリーの「日常」を狂わし、揺さぶったのは、誰でもないエバである。エバとの出会いが、一年後、ウィリーをクリーブランドに旅立たせ、またそこでロッテおばさんとの「再会」を誘発し、今度はフロリダへの旅をもたらす。と、すれば、ウィリーをハンガリーに「帰国」させたのは(エバがひょんな大金を手にし、ヨーロッパに旅立とうと思い空港でチケットを買って飛行機に乗り込んだからではなく)「エバのせい」なのである。夏目漱石の『こころ』において、「先生」の自死を誘発してしまったのが、誰あろう「私」(との「出会い」)であったように(松元寛『漱石の実験』より)。
追記:あのシーンとシーンをつなぐ「黒味」ですが、「音」は活かされていることを考えると、あれは「まばたき」を代替しているのだと思います。僕らは普通、映画を見ていてもすべての映像を見ているわけではない。まばたきをしたり目を閉じたり、よそ見をしたりしているものだ。ま、だからなんだという話ではあるが。あと、映画館とは普通、真っ暗です。あの黒味のあと映像が流れたときの「まぶしさ」。それが覚醒を促してもいる、なんて言い方もできるだろうけど。まあ、どっちにしろこじつけですね。
「補足」はそんなところですかね。ではこれからが、今日の本題です。
と、思ったが、やめだ。眠みいし、疲労ったから。「脳科学」について書こうと思ったのだが、明日にまわす。最近流行ってるじゃないですか、脳科学とか唯脳論とか心脳問題。ああいうのに僕は批判的でありたいんですよ、いまのところ。「脳科学」に批判的ではないんですよ、「脳科学」によって何かを説明されて「わかってしまう」ことに批判的なんです。ラマチャンドラも養老猛も茂木健一郎も、まだ読んでいない今だからこそ、読む前に、「批判」というか「疑問」をできるだけ詳細に書いておこうと思うのですよ。とりあえず「仮説」として。そうすることによって、より深い問題意識でそういう本を読めると思うから。
ヒントは、(保坂和志氏より)、「地球が丸い」と知ったから、「で、なんだ?」ということ。あるいは、(斎藤環氏より)、「人間」を「わかっている」のは「誰だ?」。
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小説のようなもの(42)
破裂音は私の耳に届かないが、腐った臭いだけは鼻を刺激した。
私はペットボトルを打ち棄てて歩きはじめた。女は半ば夜と同化していた。辛うじて女の後ろ姿を認めることはできるが、距離感がわからない。遠くにあるものが近くに見えるようでもあるし、近くのものが遠くにあるかのようにも見える。目測で女と私の距離を判断することは不可能に思えた。私は女の歩く速度と私の前を通過してからの時間を考え合わせ、だいたいの距離を算出した。もちろん、とことんずさんな計算ではある。私は女との距離をこのまま保持できるであろう速度で歩を進めた。一歩進めるたびに一拍おく、そういう歩き方だ。
この辺りは住宅街だった。明かりと言えば外灯とときおり現れる自販機ぐらいだ。辺りの家々はこじんまりとした二階建てがほとんどで、お世辞にも高級住宅とは呼べないものばかりだ。その中流階級の家々ももうすでに寝床に着いている。窓から漏れる光はない。ある家の前に行くと防犯のためのライトが点灯することはあった。私はそのたびに疚しい気持ちを指摘されたような気分になる。私は女を尾行してどうしようというわけではない。しかし、本を読みながら歩く盲目の女を尾行するというのは、どこか淫靡な行為に思われたのだった。
ウィリーという青年がいる。彼はハンガリー人だが、いまは家族とも縁を切ってアメリカ人としてニューヨークで暮らしている。彼のもとにハンガリーから、いとこのエバが泊まりにくる。エバは母親(ウィリーの叔母)の住むクリーブランドに行く途中だ。一泊の予定だったが、叔母が病気になったため、十日泊まることに。エバは特にやることもなく、ひまを持て余す。ウィリーは友だちのエディとつるんで競馬や博打に明け暮れている。はじめ二人の仲はドライなものだったが、エバが部屋に掃除機をかけたり、弁当や何かを買ってきたりして、少し打ち解ける。エバが旅立つ前の日、ウィリーはドレスをプレゼントする。エバはクリーブランドへ出立するとき、そのドレスを着ていく。が、実際は気に入っておらず、途中の道ばたで脱ぎ捨ててしまう。それをエディが目撃する。が、エディはをそれをウィリーには告げない。ここまでが前半部「The New World」。つづいて「1 year later」の後半部。ウィリーとエディは相変わらずの生活を送っている。競馬といかさま賭博でまとまった金を手にいれ、どこかへ旅に出ようと思い立つ。エディの兄の車を借りて、クリーブランドへ行くことに。クリーブランドでウィリーは叔母の家を訪ね、いまはホットドッグの店で働いているエバとも再会する。しばらく泊まっていくことになり、エバに好意を寄せるビリーとともに四人で映画を見に行ったりする。クリーブランドをあとにする前の日、三人は地元のエリー湖を見に行く。湖は凍っている。エバは「ここは退屈よ」と漏らす。ウィリーとエディは去っていくが、途中で思い直して、エバも連れてフロリダに行くことにする。三人はフロリダを目指す。フロリダに着き、モーテルに泊まるが、ウィリーとエディがドッグレースで有り金をすってしまう。残ったわずかな金でニューヨークに帰ろうとエディは言うが、ウィリーは再びその金を競馬に賭けることに。エバはモーテルに置いてけぼりをくらう。ひまを持て余し海岸をうろうろしていると、薬の売人と勘違いされ大金を渡される。エバはそれを持ち帰り、金の一部と置き手紙を残し、出て行く。ウィリーとエディは競馬で再び儲け、上機嫌で戻ってくる。だが、エバはおらず、置き手紙には空港に行くことがハンガリー語で書かれているだけだった。二人は空港へエバを追いかける。エバはヨーロッパ行きの飛行機を訊ねているが、その日はブダペスト(ハンガリー)行きしかもうないと告げられる。仕方なくエバはそれに乗ることに。ウィリーとエディが空港に着いたときには、すでに飛行機が離陸する五分前。ウィリーはエバを引き留めるために、航空券を購入し、飛行機の中に追いかけに行く。エディは外の車で待っているが、飛行機は飛び立ち、ウィリーは帰ってこない。エディは、ハンガリーになんか行ったって何をするんだ、と一人でぼやく。誰もいなくなったモーテル。なぜかエバが一人で再び現れる。気怠そうにベッドに横たわる。そこで映画は終わる。
というのが、ジム・ジャームッシュ『ストレンジャー・ザン・パラダイス』のだいたいのストーリーです。っていうか、何ストーリー全部書いちゃってんだよ、これから見る楽しみがなくなったじゃないか、という方、ごめんなさい。でも洒落臭いことを言えば、これはストーリーを楽しむような映画ではないようです。っていうかストーリーらしいストーリーもありませんしね。例えば、「ウィリーは友だちのエディとつるんで競馬や博打に明け暮れている。」と書きましたが、「競馬」を実際にやっているシーンは一度も出てきません。一カ所だけポーカーをやっているシーンはありますが。またラスト近く、「ウィリーはエバを引き留めるために、航空券を購入し、飛行機の中に追いかけに行く。」と書きましたが、ここでも空港として描かれるのは受付カウンターだけで、その他の飛行機内のシーンなどはまったく出てきません。
なぜ、この『ストレンジャー・ザン・パラダイス』を見たかというと、柴崎友香『きょうのできごと』の文庫の解説で保坂和志氏がこの映画について触れていたからです。その部分を引用します。
「『ストレンジャー〜』が日本で公開されたのは八六年のことで、もうかれこれ二十年前のことになろうとしているけれど、小説家も映画監督もほとんどみんな、そんな映画がなかったかのようにして、小説を書いたり映画を撮ったりしている。でも『ストレンジャー〜』は、映画でも小説でも、すべてのフィクションを、作ったり見たり読んだりする人たちの心に、深刻なものを投げ込んだ。
彼は現在を生きる私たちが、未来に希望を持っていないことを『ストレンジャー〜』によって、はっきりと見せてしまった。未来に希望がないとしたら、「あるのは絶望だけだ」というのは、『ストレンジャー〜』以前の考え方で、私たちは未来に対して希望も持っていないけれど絶望も感じていない。
つまり、未来はもうかつて信じられたみたいな“特別な”ものではない。それを私たちはよく知っている。だから、『ストレンジャー〜』を境にして、フィクションの時間はもう未来に向かって真っ直ぐ進まなくなってしまった。それはフィクションの構造にも、ストーリーやテーマの展開にも、両方にあてはまる。未来には希望も絶望もないけれど、今はある。見たり聞いたり感じたりすることが、今このときに現に起こっているんだから、フィクションだけでなく、生きることそのものも、過去にも横にも想像力を広げていくことができるのではないか。もしそれが未来に向かったとしても、過去やいま横にあることと等価なものとしての未来だろう。」
僕は『ストレンジャー〜』を見終わってすぐにこれを書いているが、特に衝撃を受けたとか、感動したとか、そういう感じはない。というか、似たような感じの映画を過去に何度か見た気がする。特に激しいドラマが起こるわけでもなく、事件と言うほどの事件もなく、数人の若者が無為に時間を過ごしていくのを淡々と描いていく。そんな映画は邦画なんかで探せば、いくらでもある気がするし、実際に僕も見たことがあるような気がする。いや、具体的な映画は思いつかないし、タイトルが浮かんできても、「でも、やっぱり違うかな」と思ってしまう。いや、実際に似た映画を見たことがあるかどうかではなく、「見た気がする」ということを僕はとりあえず言いたいのだ。この保坂氏の文章を改めて読んで、もし本当にこの映画がフィクションの在り方を、そういうふうに変えてしまったのだとしたら、僕が「見た気がする」というのも納得がいく。僕たちは知らず知らずに『ストレンジャー〜』の遺伝子を(部分的にでも)受け継いだ映画を見ていても不思議ではないからだ。あるいは、そういう映画を見たことがないとしても、『ストレンジャー〜』を見て、「まあ、ありそうな映画だ」と思えたとしたら、やはり、僕たちは(保坂氏が言うところの)『ストレンジャー〜』以降の「世界」に生きているのだろう。「未来には希望も絶望もないけれど、今はある。」という言葉に、少しでもリアリティを持てるとしたら、仮に僕たちが『ストレンジャー〜』を見ていなくても知らなくても、『ストレンジャー〜』的世界観に僕たちは生きているのだ(保坂氏の書いていることが正しければ)。
『ストレンジャー〜』に限らず、例えば「日常をだらだらと描いただけの作品」と揶揄されてしまいがちな作品に、リアリティを持てるかどうかは、その作品が優れているかどうかとは関係なく、それを見る人読む人の個人的な資質に依存する。「資質」と書いたが、別に『ストレンジャー〜』を見て「リアルだ」と感じれる人が、「ただの退屈な映画」としか思えない人に比べて、芸術的感性が優れているとか、そういうことを言っているわけではない。優劣ではなく、持っている世界観の違いとでも言えばいいか。「日常だらだら」系ではないが、例えば、佐藤友哉氏の小説を「陳腐」と思うか「リアル」と思うかは、やはりその人の持っている世界観、及び、それに呼応するリアリティの問題なのだと思う。早い話「わかる人にはわかるが、わからない人にはわからない」ということであり、それは芸術的感性の高低ではなく「時代的感性」とでも言うべきものの「種類」の違いなのだ。「時代的」とは言っても、同じ時代・世代に育った人がみな同じ「時代的感性」を持っているというわけではない。21世紀に生きながら、19世紀的「時代的感性」を強く持つ人もいるだろう。ただ芸術家というものは、この「時代的感性」を先取りする感性を持ち合わせている場合が多いだろう(あるいは、非芸術家が後追いするから、そう感じるのだろうか)。
いや、とにかく『ストレンジャー〜』は、現代までに通ずる「リアリティ」を持った作品だと思えたし、保坂氏の言うことが正しければ、この作品がそういったリアリティの在り方を決定的にしたのだろう。
『ストレンジャー〜』を見ていて全篇に通ずる感じは、一言で言って「閉塞感」だ。その閉塞感という言葉は、保坂氏の「未来は」「“特別な”ものではない」という言葉につながる。ただ「絶望」の上での閉塞感ではなく、「希望も絶望もない」という閉塞感なのだ。
まあ凡庸な映画ならば、閉塞感が描かれると、その後ドラマティックな展開によってその閉塞感が打ち破られるようにできている(あるいは、破滅というカタルシスが待っている)。だが、『ストレンジャー〜』は閉塞感は閉塞感のまま保持される。
その閉塞感は、まず「画(え)」によってもたらされる。見ればわかるが、主人公は狭いワンルームのアパートに住んでいる。そのせいかカメラは俯瞰気味のアングルになっている(というか全篇を通して、俯瞰気味、仰ぎ気味などの安定しない構図ばかりだ)。映画を何本か見ればわかるが、たいてい屋内は広く「ヌケ」のいい場所で撮られるのが普通だ。カメラというのは人間の眼に比べてはるかに視野が狭く、もし広角で撮ろうとすれば画に歪みができてしまう(もちろんレンズの善し悪しによるが)。まあ、単純に広いほうがいろいろな撮り方ができるし、撮りやすいのだ。
この映画において、「室内」のシーンで目立つ場所は三つある。すでに述べた主人公の部屋、次に叔母とエバの家、フロリダのモーテル。叔母の家は例外的に広い(と思われる)。しかし、他の部屋と同様に、ほぼ同じカメラポジションからの画しかなく、やはり同様に窮屈な印象を与える。また叔母の家は雪におおわれた田舎であり、エバが言うように「退屈」な土地だ。そのクリーブランドにおいて、エディが「新しい所へ来たのに、何もかも同じに見える」と言うのは、もちろんニューヨークとクリーブランドとはまったく違う土地だ、が、その閉塞感において「同じ」なのだろう。ニューヨークにはニューヨークの都会的閉塞感があり、クリーブランドにはクリーブランドの田舎的閉塞感があるのだ。クリーブランドの閉塞感は、エバの勤めるホットドッグ屋や映画館において描かれる。つまり、どこも「同じ」なのだ。
また、そのクリーブランドという田舎において、エバに好意を寄せるビリーは、そこに安住する者として登場している。彼はこの田舎において閉塞感よりも安定感を得ようとしている。エバを恋人にし、いずれ結婚し、土地に安住する。そういう物語を内包している。しかし、エバにとってビリーは「いい友だち」でしかない。これはエバのクリーブランドに対する気持ちとダブる。退屈な土地=いい友だち、恋人にはできない。
ウィリーとエディは、ニューヨークの閉塞感を打ち破るために、クリーブランドに来た。しかしそこにも閉塞感しかない。そこで再び閉塞感を打開するため、今度はエバを連れ、「パラダイス」であるフロリダへ旅立つ。なるほど、そういうふうに聞くと「ロードムービー」と思うかもしれない。しかし、そうはならない。ロードムービーにありがちな、昂揚感や開放感は皆無だ。まず、移動手段である車が、部屋の中と同じく、窮屈な場所として描かれる。道々の風景なども映されないし、フロリダの「海」や「ビキニ」なども。
ロードムービーになる芽を持ちながらロードムービーになってしまわないように、この映画にはいくつもドラマティックに展開しそうな芽が散見されるが、それらはすべて結実しないどころか、芽のまま保持される。例えば、ウィリーは家族と「縁を切っている」と冒頭述べるが、家族との再会や再生の物語は描かれない。ウィリーとエディはいかさま博打をやって一儲けするが、そこからギャング映画もどきになったりしないし、二人の仲違いや友情が深まったりというドラマもない。もちろん、ウィリー、エディ、エバの三人において恋愛、ロマンスの影はまったく現れない。気配すらない。そういう「ドラマ」に発展しない「閉塞感」があるのだ。
そう、先ほど「ただ「絶望」の上での閉塞感ではなく、「希望も絶望もない」という閉塞感なのだ。」と書いたが、ここでも「ロードムービーになる可能性があるのに、ならない」、「家族ドラマになる可能性があるのに、ならない」という閉塞感なのだ。またハンガリー人であるウィリーは、本名も隠し、ハンガリー語も嫌い、エバにも英語を強要したりする。ハンガリー人なのに、アメリカ人を装ってしまった閉塞感。これと対照的に描かれているのが、エバの母=叔母さんである。彼女はアメリカに暮らしながら、頑なにハンガリー語だけを話し続ける。そういう彼女に閉塞感はない(のかもしれない)。ウィリーがもしハンガリー語をしゃべり続けていたら、あるいは、アメリカにおいてもハンガリー語をしゃべりつづけるハンガリー人であったなら、閉塞感はなかっただろう。いや、もちろん、ウィリーはみずからの意思でアメリカにやってきて、みずからの意思でアメリカ人になろうとした。結果、閉塞感は取れなかった。そして、おそらくは何かしらの閉塞感があったためにハンガリーからアメリカにやってきたはずだ。これはウィリーが、ハンガリーからアメリカにやってきて、再びハンガリーに(一時だとしても)戻ってしまう「物語」である(構造的には)。そして、エディが言ったように、どこに行っても「同じ」であることを知ってしまう物語だ。この映画においては「場所」がどこも「同じ」として描かれているが、保坂氏の言葉を再び借りれば、「未来」も「過去」も「いま」も「等価」ということがそこから導き出される。当たり前のことだが、場所=空間とは、時間という概念(それは「記憶」に支えられている)と不可分だ。つまり、「場所」の移り変わりは「時間」の移り変わりと同じである。
いや、無理矢理まとめたが、この映画はそうやって「まとめられる」ことからもっとも遠い作品である。それは「ロードムービー」などとジャンルに回収されないことからもわかる。「ただそうである」映画なのだ。そう、ウィリーがエバに「おもしろい話」をしてやると言って、結局、話の内容がうろ覚えで中途半端に終わったとき、ウィリーが「おもしろい話しなんだ」と言ってエバが「そうでしょうね」というように、普通の「おもしろい映画」はすでに「おもしろい」ことが確約されているし、僕たちはその映画を見たから「おもしろい」と思ったと勘違いしているがそうではなくて、もう見る前から「おもしろい」のだ。だから、「おもしろい映画だ」と言われれば「そうでしょうね」と素直に答えることができる。しかし、つまりは、「見なくてもいい」映画なのだ。だが、この映画はそうでなく、「見ているときだけ」に何かを感じることができる(僕は「映画空間」と呼んでいる)「おもしろくない」映画なのだ。ウィリーのおもしろい話が尻切れとんぼになり、「オチ」なかったように、『ストレンジャー・ザン・パラダイス』も、そういった「オチ」的なものへ「開放」されずに、ただ「閉塞」していく。
ま、映画を見た感想はそんなもんだ。個人的なリンクとしては、ウィリーがハンガリーからニューヨークにやってきて、生粋のアメリカ人であるエディからもその素性を知られることなく完璧に英語を使いこなしアメリカ人として振る舞っていた、というのが、自分が熊本からやってきて標準語を使いこなし東京人のように振る舞えてしまっていることとダブった。ちなみに、上京したてのころでも、一度も僕は「九州人」であることを見破られたことはない。別にそんなことは自慢でも何でもないが、標準語が使いこなせた。そして、最近になって、標準語も熊本弁も、何か自分の言葉ではないという疎外感に苛まれている。自分がリアリティをもってしゃべれる「ことば」が失われていることに気づいたのだ。何かの本で読んだが、特に小説家なんかの言葉を使う人々は、「個人方言」とでもいうべきものを獲得しなければならないし、それを獲得していこうとする試みが、何かを書く、ということでもあるのだ。高橋源一郎氏や村上春樹氏の例を見るまでもなく。
もう一つ、個人的リンクとは違うが、ウィリーとエディが博打であぶく銭をつかんで旅に出ようと思ったり、ラスト近く、エバが偶然大金を手にしたりするのを見て、昨日か一昨日ぐらいにニュースでやっていた高校生が大金を盗んだり騙し取ったりして「豪遊」していた、というのを思い出した。映画の中では「豪遊」とはほど遠く、慎ましやかなものだったが、「大金」というのは何かしら人の人生を変えるパワーを持つものなのだと思い知った。特に労働の対価としてもらったわけではない「大金」というのは、世界のモノの価値をゼロにしてしまうような魔力がある。(なるほど、この『ストレンジャー・ザン・パラダイス』において、「大金」は一つの大きな物語を動かす駆動力になっているが、また、同時に本来「お金」というものが、モノというものをすべて「等価」(=つまり、すべてが「お金」という一つの価値基準で統一されてしまう)にしてしまうものであるために、結局、物語を駆動させながら、でも「同じ」ということを二重に表現してしまっている。そう、「お金」を手に入れて、ウィリーたちが旅した先はすべて「同じ」だったではないか。)
さらに、映画の内容とは関係ないが、映画を見ながらちょっと思ったことがある。一般に「芸術」と呼ばれるものはほとんどが、「記録」するということに結びついている、ということだ。それが「なんでだろう?」と思った。もちろん、基本的に人間とは「記録したがる」生き物なんだろうが。絵画も彫刻も文学も音楽も映画も、まず前提として「記録」である。例えばレコードが発明される以前、音楽そのものを記録するメディアはなかったかもしれないが、だから楽譜が存在し、同じものを「再現」できる努力がなされた。では演劇は? シナリオがあった。また役者は「同じ」芝居を何度も繰り返す。擬似的な「記録」(への志向)がそこにはある。し、やはり、観客を前に何かをするというのは、言い換えれば観客に「記憶」させる行為でもある。
「記録」は「過去」でもあるが、それが保持され続ける(という前提である)以上、同時に「未来」でもある。もちろん「記憶」があるから「過去」を知るのだし、「未来」が想起されるのだ。もし「記憶」がなければ、「過去」も「未来」もない「いま」の連続だけである。実際、動物とはそういうものらしい。「記憶」を持った人間だけが過去と未来を生み、「記録」したいという欲求に駆られたのかもしれない。しかし、なんとも言えない不毛な感じが、僕はする。「記録」することが、だ。例えば、それは火災保険に入ったからといって、それが火災が起こらないことの保証ではないのと同じな感じだ。過去も未来もいまも、そしてどこも「同じ」ならば、何を「記録」する必要があるのだろうか。それでもあえて何かを「記録」しようとする。そういう軋轢を乗り越えようとするのが芸術なのかねえ。(また記憶とか記録については、いつかちゃんと考える)。ゴンブローヴィッチ読んでねえし(雑文に時間取りすぎ)。
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小説のようなもの(41)
女は吐瀉物を踏んだ。すり足気味で歩いていたため、靴の表面に吐瀉物がべっとりついた。表面は乾いていたのだが、中の方はまだ半固形物のままだったようだ。女は足下の感触の変化を敏感に察し、少し立ち止まった。怪訝な様子だ。しばらくつま先で辺りの様子を探ってから、ゆっくりと右足を踏み出した。右足が確実に地面を踏んだのを確認して、今度は左足をそれに追いつかせた。女はそうやって吐瀉物を乗り越えたが、やはり滓やその臭いは確実に靴にこびりついただろう。
女はじわりじわりと遠ざかる。それは少しづつ暗闇に溶けていくことだった。私はゆっくりと立ち上がった。私のゲロの詰まったりんごジュースをつかんで。私はそのふたを開け、一気に飲んだ。息を止めた。どろどろとした半固形物が思いの外、喉に異物感を与えた。それは飲み込むなどというものではなく、喉と食道の強姦でしかなかった。私は自分のゲロを無理矢理流し込んだのだ。それは己の身体を器官として見下す行為だった。
ごうぉえ。私はまたしても逆流しようとするのを堪えた。空気の塊が食堂を猛スピードで押し上がってきて、口腔で破裂した。
今日も核ぞ!(爆)
中学(あるいは高校?)の理科(物理?)の授業で、原子とか分子とか電子について習ったのを憶えているだろうか?(いや、詳しいところは、僕もほとんど忘れてしまっているのだが)そのとき、原子の周りを分子や電子が回っているというのを知って、その運動の様子が、天体の運動(太陽とか地球とか月)に似ていると思ったことはないだろうか?さらにそこから、「物質の中でもっともミクロな世界(=原子、分子、電子)がもっともマクロな世界(=天体、宇宙)と似ている、ということは、ミクロな世界を突き詰めるとマクロな世界に行き着き、マクロな世界を探求することは実はミクロな世界に通じることなのかもしれない、そう言えば宮本武蔵も『五輪の書』の中で、ある道を極めて得た真理は、他の道にも通じる、みたいなこと言ってたしな」みたいな発想をし、「いや、待てよ。宇宙が原子や分子や電子の動きに似ているということは、もしかしたらこの宇宙そのものが、もっともっとはるかに巨大な宇宙に存在する物質の一つでしかなくて、その巨大な宇宙にいる人間に似た生物によって観察対象になっているに過ぎないのかもしれないんじゃないか」みたいな妄想につながったりしたことはないだろうか?ついでに「俺って天才かも」と将来、自分が物理学者かあるいはSF作家になった姿を夢想したりしなかっただろか?いや、全部、僕のことだが。で、あるときその発想を親戚のお姉さんに、ここぞとばかりに発表してみると「一度はみんな、そういうこと考えるんだよねー」と大人の余裕で一蹴されたような経験はないだろうか?自分の発想が革命的かつ天才的オリジナリティを持ち合わせていると思い、その発表の機会を窺っていた青二才の無根拠な自信はそこで砕かれる。なるほど自分は誰でもが一度は思いつく「陳腐な」発想を、さも天才の思いつきのように温めていた「愚か者」なのだな、と思い知らされる。
だが、と僕は言いたい。「大人」(や大人を装うクソ生意気なガキ)によって一蹴されるこの類の「思いつき」。「鬼の首を取ったように」思っているのは誰か?僕は言いたい。そのような「陳腐な」発想は、本物の愚か者である「大人」によって片付けられるべきものではない。例えそれが陳腐だとして、ではその陳腐な発想を真っ向から突き詰めた人間はいるのだろうか?大まじめに、人生を賭して究めた者はいるだろうか?僕は言いたい。そういった「大人」の言葉によって「発想」とそこに内包されるエネルギーを削ぐようなことをするな。すべては思考が硬直化し脳が腐りはじめている「大人」の嫉妬によるものなのだから。
そう、僕は言いたい。その「発想」がオリジナルかそれとも陳腐なものかは、どうでもいい。なんなら研究しつくされたものでもいい。だからといって、その発想を突き詰めようとする行為が無駄だろうか?僕はそう思わない。どんなに陳腐な発想でも、他人が調べつくし、やりつくしたものでも、自分で思いついたことなら徹底的にやってみようとするべきだ。特に若ければ若いほど。その陳腐化もしれない滑稽かもしれないエネルギーの奔流を留め置くべきではない。そういったエネルギーの奔流が作った心の痕跡が、その人の新たなパワーの源だろうし、その人の人生やあるいは人類世界の様相に変化をもたらすと僕は思う。無気力、脱力な子供ばかりが量産されるのは、すべて「大人」の冷めた笑いによってなのだ。是非とも僕のような人間をこれ以上増やさないでほしい。
小説もそうだ。「俺の書いているものは、とてつもなく陳腐なものかもしれない」と思ったら負けだ。はっきり言って小説家になるための最低限の「才能」がないと断言していい。そういった自己懐疑と無縁な「暴力性」を持った人間だけが小説を書き上げ、小説家になっていく。そして、書き終わる度に自分の作品を「なんて陳腐なんだ」と、振り返って思える者なのだ。間違っても「書いている途中」でそう思ってしまう人間は、小説家に向かない。そう、僕のように。だが、僕は少しだけ努力家だし打たれ強いから(泣き虫だけど)、「俺の書いているものは、とてつもなく陳腐なものかもしれない」けど「書く」という方向に自分をシフトさせようとしている。「「大人」の冷めた笑い」(何もしないやつ)で芽を摘み取られてたまるか。自分の「素質」(あえて「才能」とは言わないが)の貧弱さに打ちのめされてはいるとは言え…。「痛みを伴う改革」だ。気づけば、「誤認手術」かもしれないが…。
まあ、そんな「所信表明演説」はいいとして、本題へ。
数年前、女の子に「文芸誌を読んでいる」と見栄を張って言ってしまってから(いったい何の見栄だったのだろう)、義務のように文芸誌を買いつづけているのだが、「門前の小僧習わぬ経を読む」とはちょっと違うが、嘘でも買って、ぱらぱらと捲っていると、いつしか「楽しみ」を見出せるようになるものだ。ということで、うちには2005年一月号の『群像』『新潮』『文學界』と『ファウスト』vol.4がある。どれか一冊を読むよりも、こうやってまとめて横断的に読むと、いろいろと見えてくるものもあるし、おもしろさも倍増ですよ。本当はできれば『小説トリッパー』や『すばる』なんかも買いたいんですが、予算と本屋で見かけないという理由で買いそびれています。
買った順に、読んだものの感想や概観を述べます(いや、別にそんな義務も労役も課せられてはいなのだが…)。
『群像』講談社刊。言わずとしれた村上龍、村上春樹、両氏を生んだ名門文芸誌。「新人賞」に小説だけでなく評論部門も設けているためか、評論が載っている分量が比較的多い。ちなみに『ファウスト』や『メフィスト』も講談社。そのつながりか、ライトノベル出身の作家やサブカルチャー寄りの作家が書いていることが多い。「企画モノ」も。最近のヒット(?)は匿名時評「侃侃諤諤」だろう。
『群像』によく書いている若手批評家が三人いる。田中和生、中俣暁生、陣野俊史の三氏だ。田中和生氏は「固有名詞」や「広告意識」とかいうのに拘って書いているらしい。路線的には吉本隆明=加藤典洋の流れなのだろうか。中俣暁生氏は、なんだったけかなー、そうだ「極西文学論序説」というなかなかいい思いつきなタイトルの長編評論を書いていた。字面がカッコイイよね。著書に『ポスト・ムラカミの日本文学』というのがあって、ここ2、30年の日本文学の流れ(の一つの捉え方)がよくわかる(装丁もかっちょいい)。僕は持っているが、お薦め。陣野俊史氏は、なんかヒップ・ホップとかサッカーに詳しいらしく、僕が読んだものではヒップ・ホップの人たちの「詩」(リリック)や言語意識みたいなものを援用して現代文学を読み解こうとしている、といった感じか。『ヒップホップ・ジャパン』というのが、そういうのをまとめた本で、ラッパーではないが向井秀徳も載っていて、それが読みたいので買った。ヒップホップ好きな人から見たらどうなのだろうか。やっぱウザいのだろうか。
いやいや、そんな出来の悪い「ブックガイド」をやるつもりではないのだ。
今月号の『群像』。
ちゃんと読んだのは、「創作合評」の中の阿部和重「グランド・フィナーレ」についての部分。加藤典洋氏がフォローしていた。大道珠貴氏が初めて読んだせいもあってか、ストレートに読んで氏独特の視点で発言していたのが、いろんな面で新鮮だった。まとめとしては「グランド・フィナーレ」は通過点的作品といったところか。
ざっと読んだのは山田詠美氏と高橋源一郎氏の対談「「顰蹙」こそ文学」。山田氏も高橋氏もほとんど小説は読んだことないが、別に嫌いじゃないし、どちらかというと好感を持っているのだが、しばしば目にする山田氏の「小説家は、こうあるべき」みたいな発言、文章を読んでいると、小説家志望としてはそのたびに一喜一憂せねばならないし、この対談を読むにつけ、いったい何が言いたいんだろうという気分になる。別にみんなが山田氏に頭を「よしよし」してほしいわけではないのだ。男性作家はみんな気をつかって山田氏を美人で才女のように触れ回るが、別に山田氏の美醜などどうでもいいし、なんかそういうことを言う男性作家はいったい何が言いたいんだって気分になってくる。し、山田氏が小説家の「資格」を決める文学ミューズのように振る舞うのは、やっぱ鼻につく。なんか「エロ」で売ってる杉本アヤが全然エロくない感じ、そういうのを「ギャグ」(あるいは芸?)のようにしか受け止めないナイナイやロンブー、そういう感じ、を想ってしまう。願わくば、そういう山田氏の言説に回収されない小説家、そういうのに無意味に楯突く小説家の出現を待望する。(家に呼ばれてメシ食わされたくらいで、手なずけられるな、ということ。僕がそういう意味で期待するのは中村文則氏かな)。
で、思い出した。「野間文芸賞」&「野間文芸新人賞」の発表も載っていた。もちろん僕の関心のあるのは新人賞の方。ということで、我らが中村文則氏が、中村航氏とともに『遮光』で受賞されていた。中村航氏は一度も読んだことがないが、なんとなく鈴木清剛氏っぽいという勝手な思い込みだけでスルーしていたので、機会があれば読んでみようと思う(デビューした『文藝』とかも所持してるし)。中村文則氏はデビュー作『銃』と『遮光』と「蜘蛛の声」と「悪意の手記」、それと単発のエッセイとけっこうほとんど読んでいて、僕好みです。あと、よく言われるが、中村文則氏の作品は全然「古風」ではない。根は舞城氏と同じだと思う(たぶん)。いつか爆発してほしい。
あと田中和生氏の評論「二十一世紀旗手・太宰治」をちょっと眺めた。なんか「手紙」が書いてあった。連載らしく、たぶんそのうち「綿谷りさ」の文字が現れる気がする。どうでもいいが。
『群像』は以上。星野智幸氏の小説「在日ヲロシヤ人の悲劇」はおもしろそうだが、だからこそゆっくりじっくり読みたい。
追記:
忘れてた。「群像文学新人賞」の募集のコピーはなんじゃ。「世界と自分をつなぐ、いちばん大事なことを文学=言葉にしよう!」っていうか、選考委員をもうちょっとどうにかすれば、と思う。『文藝』の田中康夫氏ぐらいのトリックスターが必要だろう。例えばモブ・ノリオ氏を入れてみるとか。また来年応募するので、よろしくです!
ということで、『新潮』。言わずと知れた100年前からある文芸誌。名門中の名門。最近では平野啓一郎氏が鮮烈なデビューを果たしたりした。あるいみもっともアヴァンギャルド。そうだなあ、村上隆氏と手を組んだルイ・ヴィトンと同じ感じ(揶揄ではない)。今月号の「創刊1200号」の金地に白抜きは悪趣味で逆にイカす。
で、中身。先日も書いた佐藤友哉氏の小説「子供たち怒る怒る怒る」が掲載されている。『ファウスト』の対談(『新潮』編集長の矢野優氏と『ファウスト』編集長の太田克史氏の)で矢野氏が佐藤氏をプッシュしているのとか、僕も大好きで読んでいる古谷利裕氏(無名アーティストのWildlife)を起用したのとかを知ったが、そういうふうに「老舗」でありながら「新しい」(ことをしようとしている)。
特集で「文学アジア」というのをやっていて、アジア各国の小説の翻訳(当然)が十幾つ掲載されている。っていうか、いい特集だと思った。マジで。読んでないけど。「タジキスタン」の小説とか、「イラン」の小説とか、普通読まないし機会ないし、でも、こういうときだからこそ、読んでみるべきかも。いい特集だ。読んでないけど。
大江健三郎氏とか蓮實重彦氏とか新年らしく豪華(?)だが、読まねえ。で、なんとなしに都築響一氏の新連載コラム「夜露死苦現代詩」を読む。なかなかおもしろいが、危うさもあり。あたりまえか。うーん、やっぱり文学(現代詩)がお好き。んな感じ。期待。
で、『文學界』。っていうか疲れてきた…。
僕としては『文學界』がいちばん「読める」ものが多いかな。関川夏央氏による連載評論「『坂の上の雲』を読む」とかがはじまってて、自分の中でタイムリーだったし(あ、「大河」がはじまるからか……??)。っていうか、そういえば、今日、『坂の上の雲』の夢を見た(なんじゃそりゃ)。『坂の上の雲』のタイトルの意味について学校の教室で発表している夢。必死で。確か「本来なら手の届かないはずの「雲」が、開花期を迎えた日本や日本人にとって、まるで「坂」を上れば、もうそこにあって手が届くような気分だったことを表してる」みたいなことを半狂乱になって叫んでいた。っていうか、その関川氏の評論、第一回を読んで、なんかマジで正岡子規とかいいなーと思ってしまった。自分もそういう時代に生まれたかったとマジで思ってしまった。あと、そういう小説を司馬遼太郎氏が68年とかに書きはじめていたということにも驚いたし、新鮮だった。うん、やっぱ本物の小説家はそうあるべきだよね。司馬氏がオールOKではないし、「国民作家」みたいなレッテルで括られているのには疑問があるが、今回、関川氏の評論で知った司馬氏の「タフさ」とでもいうべきものに小説家のあるべき姿を見た気がする。そういうことが知れただけでも、文芸誌を見栄張って読んでいてよかったと本当に思った。正岡子規、あるいは司馬遼太郎のように在りたい。
小説では、いま僕の中の小さなブーム片岡義男氏が書いていたので、さっそく読んでみる。「都電からいつも見ていた」。とっても短いのですぐ読み終わる。「都電」というのは確か路面電車のことだと思うが、僕の故郷・熊本も路面電車が走っている数少ない街だ。風情があっていいものだし、個人的な思い出もあるので、そういう感じとダブって、楽しく読めた。っていうか現役なんだな、って失礼にも思ってしまった。
あとは、昨日も書いたヴィトルド・ゴンブローヴィッチを紹介している島田雅彦氏、中原昌也氏、西成彦氏による座談会「文学の破壊神ゴンブローヴィッチ」をざっと目を通す。小説を読んでから、ちゃんと改めて読んでみようと思う(あまり先入観を持ちたくないから)。で、一押しの前田塁氏による「小説の設計図」も。いつもながら半分も理解できないが、今回は卑近な例があって、多少わかった。先月号の『群像』に掲載された田中和生氏の「架空の「現在」」についてのレスポンスもあっておもしろかった。意味はわからんが。
あと「新人小説月評」も。
疲れた。
以上のような感じで(何がだ)、文芸誌はなかなかおもしろですよ。一度読んでみてはいかがでしょうか。
今日、行きつけのカッフェ「ポマード」でまた本を読んでいたのだが(ちなみにアイスミルクで(つまり牛乳だな))、斜め前に美しい女性が座った。何か買ってきたばかりらしい本を取り出したときに、ちらりと表紙が見え、なんか見覚えのある絵が描いてあったので何かなあと思って、よく見たら羽生生純『恋の門』だった。ご存知の方も多いか、松尾スズキ氏によって映画化されたのが記憶に新しいマンガだ。僕はその一年くらい前に友だちに薦められて全巻借りて読んだのだが、その美人さんの読んでいるのは本のサイズとかが違ったので映画化で有名になったから新装版が出たのかなと思う。それが何巻なのかわからないが、『恋の門』というのは美人さんが読むようなマンガではない。後半、ラスト、けっこうヘヴィーだし(いや、全篇そうか)。っていうか、僕は羽生生氏は『ファミ通』を読んでいたのでかなり前から知っていた。どうでもいいが。で、さらにどうでもいい話として、しばらくすると、マンガに飽きたのか美人さんが化粧直しをはじめて、マスカラ塗ったり、グロスを塗ったりしていたのだが(観察しすぎ)、化粧も終わり、一段落ついたかなーと思っていたら(ずっと見てたわけじゃないよ)、鼻くそをほじりはじめた。ちょっとびっくりしちゃったよ。まあ、ぐりぐりって感じではなく、穴の出入り口付近をちょこちょこって感じなんだけど。小ぶりの鼻頭と鼻孔で、なんか変に官能的でした。美人さんが帰ったあとで、ポマードのマスターにそれを告げると、マスターも見ていたらしく、男二人で変態トークに花咲かせました。うーん、スカトロジーは僕的にはギャグでしかないですが、鼻クソをほじる美人がエロティックというのは発見でした。美人ならなんでもいい、という話もなくはないが…(浜口優氏の鈴木亜美に関する発言などを参照)。どうでもいいが、舞城王太郎「鼻クソご飯」はおもしろかったですよ。ご一読あれ。
あ、そうそう。読んでいた本は例のヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』です。思ったより読みやすいです。「笑える」ってほどではないけど(これからか?)。36ページまでです。バロンとムシャムシャとチョッカイの三人が出てきてから俄然おもしろくなりました。先に座談会を読んでいたので知っていたのですが、例えば「チョッカイ」という登場人物は、原語のポーランド語で「余計な口を出す」という動詞に由来するネーミングらしくて、それを日本語でも表現するために「チョッカイ」という名前にしたらしいです。ポーランドというと悲痛なイメージが強かったですが、いろいろ奥が深くておもしろそうです。読んでない本たくさんだけど、とりあえず、これを読んでしまおうかな。って感じで。また明日。
* * *
小説のようなもの(40)
女は私の前を通る。私に気づくだろうか。あるいは気づいているだろうか。あるいは気づいていて、わざわざこちらに向かってきたのだろうか。女は私の前をゆっくりとたどたどしい足取りで通り過ぎた。私は初めて女の横顔を見た。ボリュームのない頭髪。垂直に、真っ直ぐに、垂れている。その平面的な黒髪から美しい曲線を描いた鼻梁が夕映えの稜線のように覗いている。それは緩やかなSの字にも見えたし、子供の描いたクジラにも見えた。私はその黒髪と鼻梁を、美しいと思った。
女が私の前を通り過ぎたということは、必然、私のあの吐瀉物にぶつかることだった。あの女はあと数歩歩けば私のゲロを踏まねばならない。それに気づいた。そして、私は恐ろしいほどの羞恥に襲われた。私は自分のやったことを後悔した。
私は、女に私のゲロなど踏ませたくなかった。女はゲロを踏むべきではなかった。女にゲロを踏ませてはいけない。私は、ゲロを吐いた人間として、あるいは、そうでなかったとしても、自分が女がゲロを踏まないように務めてやるべき人間だと思った。
この夜には、私と女と吐瀉物と自販機しか存在しなかった。
佐藤友哉「子供たち怒る怒る怒る」読了。間欠的に読んだり没入力が弱かったためそれほどの熱狂はない。もちろんそれは作品のせいではなく単に生活のリズムと読書熱が冷めはじめているというだけだ。どうでもいいがこの作品そのものよりそれを読んでいるときに風聞してしまった「会話」がけっこうヘヴィーだった。カッフェで珈琲を喫しながら読んでいたのだが近くに座っていたギャルっぽい女性がケータイでしゃべっていた会話がだ。別に聞こうとしたわけでもないがおそらくあの辺にいた人みんなに聞こえていたと思う。だいたい店内はケータイ禁止だ。まあ普通ケータイの会話などを聞いても言葉が断片的だったり抽象的だったりしてほとんどその内容の全体像を把握することはできない。だがその彼女の会話は声が明瞭だったりどうもケータイの相手に事の内容を説明しているらしくおおよその全体像がわかってしまった。どうでもいいがそのとき僕が読んでいたのはとっても「スプラッター」な描写がつづくシーンだった。「警察に訴えようと思ってんだ」というのがまずぼうっとしていた僕の脳みそと聴覚に響いた。穏やかではない。「無理矢理やられて子供できた」とかいう言葉がつづく。会話は何度か中断され彼女からかけているのか向こうからかわからないがそうやって3回ぐらいに分けてなされていた。まとめると彼女は知り合いの男に無理矢理やられてそのあげく妊娠してしまい堕ろそうと思うがお金がなく困っていたら知り合いの誰かがその中絶費用を貸してあげると言ってくれた。が条件として一度その相手の男も連れてこいでなきゃ貸さないと言う。今日病院に同行してくれると言っていた男友達も直前になってやっぱり辛くて行けないとか「ヘタレ」たことを言い出したらしく彼女はどこか遠方から来ているらしく「もう東京」「電車で」と言っていたがどうもその相手が東京の男らしくとりあえず連れて行かないとお金を貸してもらえないので自宅まで乗り込もうと思っているがまともに行っても絶対居留守を使われるだろうからどうしたもんかと困り友達に電話をかけている。いざとなれば強姦罪だし訴えてもいいんだ。みたいな感じでした。あっけらかんとまではいかないまでも周囲にはばからずちょっとムカついた話ぐらいのトーンではきはきしゃべっている様子になんか圧倒されてしまった。佐藤氏の小説の中では妹とお兄ちゃんが近親相姦未遂をやったり生首の眼窩に性器を突っ込んでオナったり瀕死の小学生の女の子の腸を引きずり出して火薬を詰めて爆発させたりというエロ・グロ・ナンセンスが繰り広げられているのだが現実もまあまあがんばっている。そんなこと思っていたらとなりのテーブル席に女学生が3人やってきて座ってプリクラを見ながら他愛もないおしゃべりをはじめていた。ぎゃあぎゃあ騒ぐわけでもなく気にならなかったのだがふとして「イジメ」というワードが耳に飛び込んできてからまた会話が気になりはじめた。同じ学校の違うクラスかなんかの女の子の話らしくその子が同じクラスの男子と付き合っていたのだがしばらくして別れてしまったらしい。そしたらその男子があいつムカつくということになって友達も巻き込んでその元カノをイジメはじめたらしい。机の中のものを全部ぶちまけたりテスト用紙を破ったりそういう感じで。聞き役の女の子は「女子も協力したの?」と不思議そうに聞く。「男好き」の女子が多かったからというのが答え。嫉妬心があったのだろうかねえ。で詳しく経緯はわからないがその後再びその男子は元カノに告白してやり直そうとしたらしい。…なんじゃそりゃ。そしたらその元カノは「他に好きな人がいるから」と断ったらしい。うーん不条理。その後の展開は聞けなかったが「あの子純粋そうだもんね」と誰か。すると「でもこないだ家出とかしてたよ」とまた誰か。うーん内容がヘヴィーというよりはそういうのが日常茶飯事っぽく話されている感じが世紀末(じゃねえけど)って感じで殺伐!でもそれを荒唐無稽なスプラッター小説読みながら聞いている自分が半ば不感症気味なのとかそれほど衝撃を受けていないのにも殺伐!っていうか佐藤氏の「子供たち怒る怒る怒る」を読めば具体的な出来事は荒唐無稽だし理不尽だけどこういった殺伐感だけはよく醸造されているなと思う。同じ「リアリティ」を持つ若者には支持されるだろう。僕とかね。「子供たち怒る怒る怒る」は陳腐だ。良識のある大人なら誰でもそう思うだろう。例えば「神戸」で「牛男」という殺人鬼が次々に無差別猟奇殺人を繰り広げていくのを主人公やその友達が推理ゲームのように楽しんでいる。とかいう概要を聞いただけでも。文章もわかりやすい「巧さ」などないしどちらかというと不器用で一所懸命書いてる感じしかしない。主人公の両親が実の兄妹でその近親相姦のあげくに自分と妹が生まれいままた主人公は妹の愛情に苦しんでいるとかなるほど陳腐な設定ばかりだ。しかも阿部和重氏のようにニヤニヤしながら(つまり確信犯で)書いているというよりはそれ以外に方法を知らないという感じだ。主人公は心の中に「友だち」がいるらしく時折その「声」が聞こえる。そして主人公は「普通」が欲しいとなんどもつぶやく。以上は批判に聞こえただろうか。ならば間違いだ。以上のような陳腐さ薄っぺらさ不器用さによって「だからこそ」この小説は「リアリティ」があるのだ。思い出して欲しい。今日僕がたまたま耳にした会話を。どこまでもありふれた「陳腐」な出来事について話していなかっただろうか。その口調には切迫感などなく軽く薄っぺらではなかったか。それがいまの「リアリティ」なのだ。ところで数日前ニュースで西武の松坂大輔選手が「55年会」という自身が代表を務めるプロ野球選手の同級生を集めた会主催で子供野球教室のようなものをやったのだがそのこに集まった小学生やなんかの子供の態度や言動があまりに悪く最後には松坂選手も怒って親とかに苦言を呈したというのが載っていた。子供たちは教えてくれる選手たちに敬意がなく松坂選手に対しても「松坂」と呼び捨てで連呼したりしていたらしい。松坂選手は自分の子供時代なんかは厳しく育てられたし元阪神監督の野村氏の言葉・人間的成長なくして技術の進歩なしとかいうのを大事にしているということも述べていた。それを見て僕は「らしいなあ」と思った。松坂選手が立派なことにではない。子供に馬鹿にされているのが「55年会」(つまり昭和55年=1980年生まれ)と聞いてほんとうにさもありなんと思ったのだ。つまりそういう世代なのだ。子供たちもそうだろう。ただ1980年生まれとはそうやって子供たちからも軽く見られるほどの軽薄な世代なのだ。子供のしつけが悪いのももちろんだろう。だがそれ以上に舐められるだけの「威厳」しかないのだ。確かに松坂選手は野球選手としてピッチャーとして日本一と言っても過言ではない選手なのだろう。だが1980年生まれがみんなそうであるように奥行きがなく底が浅いのだ。これは松坂選手を批判しているのではないし悪口を言っているのではない。ただ育った時代やなんかのせいでみな一様にそうなのだという事実を述べているだけだ。こういう言い方でわかるかどうか不安だが僕らの世代には「暴力的」なものが希薄なのだ(だから佐藤氏の小説が過剰に暴力的な理由はおわかりいただけるだろう)。暴力的(暴力)とはただ単にげんこつで相手を殴るとか包丁で刺すとかそういう物理的なことを言っているのではない。他の言葉を探してみれば例えば「論理が飛躍するとき」とかそういう感じだ。有無を言わせないとか。馬鹿さと言ってもいい。わかるかなあ。きっと昔は野球選手は憧れの的だったのだろうし本人たちも間違いなくそう信じていただろう。いや野球選手のカリスマ性が相対的に下落したとか言いたいのでもない。そうではなく「野球選手はすごい」という「暴力的」な思い込みがもう松坂選手やその同級生である「55年会」の選手にはもうないのだ。もちろんそれは謙虚だったり良識的だったりすることにつながり誉められてもいいことなのかもしれない。だが、子供には舐められるのだ。事実として舐められた。小学生ということは90年代以降の生まれということだ。つまり80年生まれには暴力的な無根拠な「すごみ」なんてまったくないし(何度も言うが別にそれが悪いとか言っているのではない。しょうがない事実だ)たとえそれが日本一のピッチャーだとしてもそうなのだ。世代に付きまとう病のようなものだ。っていうか「55年会」とやらは松坂選手の発案で野球選手以外でも芸能界とか他の業界の昭和55年生まれの目立っているやつを集めて交流しようというものらしいがその発想自体がなんとも言えず悲しいというかさもしいというか苦笑を誘うというか陳腐というか痛いというか。なんというか松坂選手のやってることは「1980年生まれらしく」ないのだ。そんなのはせいぜい60年生まれくらいの人まででいいのだ。それ以降の世代はそういうクソつまらない寄り合い所帯みたいなのはやらないのがカッコイイことになっているのだ。何番煎じだよ!いや別に僕も55年生まれなのに声がかからないこととかが悔しいとかそういうので言っているわけじゃないよ。入会準備はできてますが(苦笑)。僕らはそういうガラじゃないだろと言いたいのだ。まあそういうかっこわるいことをしてあげく子供に舐められてそれで怒って「苦言を呈す」あたりが陳腐で滑稽でとっても1980っぽいなあとも思うのだが。同い年のみなさんどう思われますか?いや、とことん軽い。陳腐。だからこそ徹底的に陳腐になることでしかリアリティを感じられないのだよね僕りゃは。松坂氏ではなくむしろ佐藤氏に「1980年会」でも作ってほしいわ。すげー不健康そうでおもしろそうじゃん。あいやそれよりも「The Post-Bubbles Generation」の会とかどうでしょう。横文字でかっこいいところがかっこわるくてよくないですか?で近所の子供に野球を教えましょう。やったことねえけど。どうでしょう「ポストバブルジェネレーション」の会。参加資格は1980年以降生まれの無名な人です。はあ。ほんとどうでもいいや。もう寝よ。そんな与太話。
ちなみに以上は改行なし、読点なしで書いてみました。読み難ければ幸いです。(そう言えば、どうでもいいのだが、黒沢清監督にめちゃめちゃ似た人を今日見た。たぶん本人だと思うのだが。想像よりも背が高かった。おそらくご夫人だろう女性と一緒だった。「カリスマ」というよりも気さくな感じでした。本人であればですけど。うこん。)
また、どうでもいい話だが(だいたひかる)、『文學界』2005年1月号を見ていたら、中原昌也氏と島田雅彦氏ともう一人誰かの鼎談が載っていて、なんか僕の知らない作家についての特集だった。舞城王太郎氏と同じくらいあるいはそれ以上の期待の星、中原昌也氏が絶賛する作家である。自分の無知を恥じつつその作家の本を読んでみることにした。でもお金がない。と思っていたら、そうだ大学図書館だ、と思い検索したら、あった。ヴィトルド・ゴンブローヴィッチ『トランス=アトランティック』と『ポルノグラフィア』。おそらくは誰も借りたことのなさそうな形跡の新品同様の本でした。ついでに近くにあった別の作家の本も借りる。イタロ・カルヴィーノ『サン・ジョヴァンニの道』、ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』。たぶん読まないと思うけど。でもこうやって大学の図書館で本借りれるのももうすこしかと思うとまたセンチ病が復活しそうでした。借りパクはいけませんよ。
と、いうことで読まない本ばかりが山積みされていく。(万が一、読んだ日には何か感想を書く。)
忘れてた。「永遠の青二才」とはヴィトルド・ゴンブローヴィッチがそう自称していた言葉らしいです。いいですね。僕も「永遠の青二才」でいたい。
* * *
小説のようなもの(39)
私は青白い光が外灯の下を通るときにその光を覆うように暗闇が存在するのに気づいた。外灯の下に差しかかるときだけ、その暗闇が輪郭を現す。それは背の高い人間の肢体を象っていた。その人の形をした暗闇と青白く光る羽がもっとも私に近い外灯の下に来たとき、私はようやくその二つの正体を知った。
暗闇は女。
青白く光る羽は本。
あの、いつも〈夜〉の暗闇で本を読んでいる、私が何時間か前に「会話」をした女が再び夜の暗闇の中現れ、本を読みながら歩いていたのだ。真っ白の本だった。その開いた姿が何かの羽を持つ生き物に見えたのだ。ページが捲られる様は羽を揺らしているように。女は頭髪から足下まですべてが黒だった。夜の保護色だ。目を閉じたまま器用にも本を読みながら歩いている。あるいはそういったことは暗闇を生きる女にとってそれほど苦もないことなのだろうか。
佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』(『新潮』2005年1月号掲載)ってやっぱなんとなしに『好き好き大好き超愛してる。』(舞城王太郎)を連想してしまう。タイトルだけね。なんだかんだ言って佐藤氏の小説ってちゃんと読んだことないんだよね。小説以外の文章とかインタビューみたいなの読む限りは、かなりシンクロ率高そうな気がするのだが。松坂の「55年会」に入れるよね、彼。文学界の代表は彼で決まりだ。松坂選手もぜひ声をかけてくれ。いらん世話だが。
さわりちょっと読んだが、大塚英志氏の本で読んだ「件」の話とか山田悠介氏の小説とかを連想してしまった。別にどうでもいいのだが。読みやすいし、けっこうおもしろいし、最後までちゃんと読めそうだ。
どうでもいいが、くたっとしていた観葉植物に出かける前に水をあげて帰ってきたら、ちょい復活していて、夜、気づいたら元気ハツラツになってた。
* * *
小説のようなもの(38)
それからしばらくして、服についた滓がぽろぽろと剥がれはじめたころ、開きっぱなしの踏切の向こうから、青白い光がふらふら揺れながらやってくるのに気づいた。地面から一メートルくらいの高さを低空飛行していた。かなり鈍い速度だ。暗闇の中に不思議と目立つ青白さだった。だがそれほど強い光というわけではない。それそのものは発光していない。月のそれと同じく、柔らかい反射光なのだろう。鳥のようにも見えたし、蝶のようにも見えた。何かが羽を広げた形だった。その羽が時折左右に揺れる。仄かな光も揺れる。コンビニの袋かあるいは捨てられたティッシュペーパーなんかが風に乗って漂っているのかとも思った。だが、そう判断するには不自然な動きだ。ゆっくりと、まっすぐ動いている。その青白い光の羽は踏切を渡り、進路をこちらに向けた。徐々に近づいてくる。わずかに上下に揺れていた。
私は自販機の横にいたために、夜目がきかなかったのだ。
おひさしぶりです。松田龍樹です。
先月からずうっと毎日「雑感雑文」を書き続けていたのですが、昨日はひさしぶりに更新をお休みしました。毎日書くつもりだった「小説のようなもの」もです。「小説のようなもの」は単なる思いつきとネタ不足解消、毎日書く癖をつけるためなどの理由で書きはじめて、先月いっぱいのつもりだったんですが、いまはもうちょっと続けようと思っています。
昨日、お休みしたのは、忙しかったのや疲労が蓄積していたのやらですが、実際書こうと思えば書ける余裕はありました。半ばわざとお休みしたつもりもあるのです。というのも、「毎日やる」と決めたことを、一日サボったり中断したりしても、また再開できる「タフさ」を身に付けたいと思ったからです。特に真面目でがんばり屋に多いと思うのですが、ちょっとでも予定や計画が狂うと途中で止めてしまう、そういう「完璧主義」を克服して、穴や綻びがあってもとりあえずしつこく最後までやり通すことができるようになりたいと前々から思っていたのです。若いころなんか兎角「完璧主義」に陥りがちです。また自分のことですが、高校をやめた遠因の一つがそれだったのでは、と思っています。いま大学「6年目」だけどしつこく卒業に拘るのも、そういう自分を変えたいと思っているからです。
いや、「まじめ」で「がんばる」人ほど、この「タフさ」の必要性に気づいていると思います。小説だって最後まで書かねば作品ですらないのですから(もちろん、ある優れた小説の背後に膨大な量の結実しなかった「小説のようなもの」が存在することも事実です)。いや、もちろん「最後までやる」ことが常に立派で素晴らしいこととは思いません。無駄なことをずっとやるのは、まさしく無駄です。途中で止めたことによって、むしろ良い結果になることもあると思います。ただ、僕の場合、どちらかというと根気のない性格、飽きっぽい性格だったので、自分が志したことぐらい、根気強く、最後までやれるようになりたいと思ったのです。そうやって「自分が変わっていく」感じも好きだったりするのですが。もちろん生まれつき努力家で根気強い人なら、逆に途中で止める「勇気」が欲しいと思うかもしれませんね。
まあ、タイトルにも書いたように「計画しない、継続する」(頭韻を踏んでいる!)をこの雑感雑文を利用して実践しているわけです。それまでは、「計画する、頓挫する」の繰り返しでしたから。ところで、いまの話とも関連するんですが、最近自分は変わってきたなあ、と思うんです。例えば、いまの「計画しない、継続する」というのもその一つですが、他に、将棋の指し方や読書の仕方、あるいは掃除の仕方や旅行の仕方、もしかすると恋愛も、いろいろな細かいことなんですが、自分がそういうものに対して変わった、と思うのです。そして、それらは根本的に同じ変化なのでは、とも思っています。その「変化」は詳しく書くのは難しいんですが、言うなれば「焦り」が減ったというところでしょうか。で、その同じ変化の元となったもの、それらの変化をもたらした最たるものが「小説を書くこと」だったような気がしています。
僕は小さいころから、自分にとって困難なこと、無理なことを志向する性格でした。そのわりに努力が伴わないため、すべて失敗に終わってきました。僕が小説を書きたい、と思ったのも、それまで文章は苦手だったし好きでもなかったし、もちろん読書もほとんどしていなかったし、そういう自分にとってもっとも難しそうなことだと思ったからかもしれません。それが、「小説を書く」ということを通して、自己変革を要請したのかもしれません。いや、そういう動機で小説を書くのは不純だし、もっともくだらないことかもしれません。しかし、まあ、そうだとしてもそれが僕の資質なのだろうから、仕方ありません。
おそらくは「小説を書く」ということが僕を矯正し、万事に対する態度に変化をもたらしはじめたのでしょう。そして、あるところで、僕はそれがやりたかったのかもしれない、と思っています。僕は思えば、小さいころからそういうふうに「自分が変わる」そのダイナミズムのようなものをもっとも求めてきたような気がします。まあ自己チューといえばそれまでですが、なかなか楽しいものですよ。自信にもつながるしね。
卒業を間近にし、僕は人生において何度かあるであろう「自分が変わった」という感じを、確実にいま感じています。別の言い方をすれば「大人になろうとしている」のかもしれませんが(遅!)。案外、そういう変化って身近な人よりも、ひさしぶりに会った人の方が気づきやすかったりするんですよね。うん。「身に付けたものは自信です」(安達哲『キラキラ!』参照)ですかね?
昨日は、「観劇」しました。ちょっと特殊な「観劇」でしたが。うーん、やっぱ「観劇」はいろいろと考えさせられます。僕はほとんど物語というものに関心がないので、その背後にある、その物語を、その物語の論理を「整合」たらしめている「価値観」とでもいうべきものに興味があるので(←何カッコつけてんだか)、なーんか普通には楽しめないんですよね。かわいそうな人です。あと「観に行く」のは常に心労です。理想は「ふらりと」観劇することなんですが。ま、毎回観て損はしないんですが。ひねくれ者は、辛いです。「保護者」求む!
なんか最近壊れ気味だったので、来週からは徐々に戻していきます。本も溜まってるしね。
* * *
小説のようなもの(37)
冷めた空気が手や服についたゲロを乾かす。次第に固形物となり、干上がっていくそれは、どうしようもない汚らしさと貧乏くささで、見るものすべてを不快にする。
私は再びベンチに腰掛けていた。ペットボトルは横に置き、自販機の光に浮かび上がる私の吐瀉物を眺めている。そうやって数時間眺めているうちに、電車が通らなくなった。駅から出てくる人も消えた。さっきとは別の犬の散歩が通りかかり、しきりにゲロを嗅ごうとするのを飼い主が必死に止めていた。私はそれをにやにやしながら見ていた。飼い主は私と吐瀉物とベンチに置かれたペットボトルを見、素早くその吐瀉物の主を見抜いていた。強引に手綱を引っ張り、去っていきながら、何か私に向かって吐き捨てた。その言葉は果たして私に、なのか、それともその分身である吐瀉物になのかわからなかった。ただどちらにしろ「汚ねえ」ことには違いないだろうが。
っていうか、書いてたのに、このクソパソコンがエラって全部パーになっちまったぜ。でも、また書く。
っていうか、もう朝。だけど、書かなきゃ気がすまん。私、自称、吐瀉物小説家志望ですが、今日は面目躍如、踊り場と便所とエレベーター前とまさに「ところかまわず」吐きまくってました。人生で一番きつかったっす。記憶はあります。たぶん。生、生、モスコ、モスコ、生グレープフルーツサワー、生グレープフルーツサワー、生、誰かの飲んでいた何か、かな、たぶんね。そんなに強い方じゃないんです。顔に出ないけど。でもね、本当に「けがれなき酒」でした。ポンチ大学6年生に、真っ当で真面目な大学生のみなさんは暖かかったです。後半はイケメンのお兄ちゃんがお相手をしてくれました。なんでだろう? お兄ちゃんが(と言っても年下だが)、デヴィット・リンチを知らなかったことに軽くショックを受けました。別にみんなが映画好きってわけじゃないからね。そりゃあ、ジム・ジャームッシュとか俺も最近まで知らなかったし、「冬のソナタ」って聞いてエリックロメール連想する人なんてそんないないよね。っていうか、「春のソナタ」を一回見ただけだし。まあ、おもしろかったけど。「知識ありますよね」って言われちゃった!まあ、3年も長生きだし、2年も長く大学いるし、何か「差」がなけりゃ、嘘だよね。まあ、どうでもいいんですけど(果たして、「どうでもいいこと」以外の話題がここで展開された試しがあっただろうか)。いやいや、そこにあったのは「青春」です。もちろん本人たちはそんなおっさんのノスタルジーみたいな感慨は持ち合わせていません。部外者である僕だけが、「生ける屍」としての「もう学生ではない学生」の僕だけが、そんなセンチメンタルノスタルジーを感じていました。「青春」のまっただ中、彼らにあるのは漠とした不安とその夜限りの熱狂です。じーんとニック!吐く直前にビデオ返却に行って、いつも借りよう借りようと思いながらいつも借りられていた『ストレンジャー・ザン・パラダイス』があったので借りてきて、なんだかんだで帰還して、ふと、借りたよな、と思い確認すると、借りてた。一週間のうちには見るだろう。きっとおもろないだろうけど。ムリしてこじゃれたの借りてもいつも土俗俗臭漂う私ははまんないんですよね。うこん。
「私事は書かない」とか宣ってたくせに、もう「だだ漏れ」です。どうせ関係者は見てないだろうからいいんだが。全部フィクションって可能性もあるしね。案外、女性かもよ、わたくし。
「死らんがな」。ところで、ナインティナインは最強の「メタ芸人」なのではとしばらく前から発想ってます。また溜まったら、なんか書こ。もうそろそろ「S大学物語」も終わりです。さみしいです。卒業しても友達でいてくれそうな人ももう見つからなそうだし、愛すべき人とも巡り会いませんでした。でも悪くはなかったです。今日(昨日か)の夜、私なんて阿保馬鹿下呂なんですが、ふと、17歳の俺が見たら、けっこううらやましいだろうなあとか思えたし。別に過去の俺とか未来の俺のために生きているわけではないが。自分探しっていうか、自分発掘って感じだし。みんながんばれ。
だいぶ「醒めてきた」。関節が痛い。(以降は、恥の上塗り漆塗りです。例によって、読まないこと。)
積み上がった本
書き散らかされた文章
白々しい朝
薄暗い部屋
俺は思う
生きることとは死の連続なのだ、と
なんのことはない、やっぱり「時間は戻らない」のだ
さみしか
かなしか
泣きたか
ばってん
ひとりでは泣きとうなか
宴が続けばいいのに
祭りが終わらなければいいのに
みな駅前の雑踏に消えていく
それぞれの停車駅で、人通りの少ない小路をひとりで黙って歩く
我が家へ
その間隙、静か、黙考、死の予行演習
言葉が浮つく
熊本のことばも、東京のことばも、もはや俺にリアリティを与えない
なにがしゃべりたいのか、どう言いたいのか、よーわからん
歌がじょうずなひとがうらやまし
歌というのは、しゃべれない僕らのリアリティなのかもしれない
音楽はリアルだ
歌は、失ったリアリティを回復させてくれるのかもしれない
僕は歌がへただけど
歌のうまい人の歌を聴いて少し感動することぐらいはできる
頭の中でその歌を再生することもできる
いやいや、どうでもいいんだが
ビートルズとかノラジョーンズとか、なんでもいいからうまい歌が聴きたいと思っただけ
「死らんがな」
今日も予定がある
芝居を観に行くのだ
「がんばってる」人たちを
そんな残酷なことってあるかしら
好きな女から一度も愛されたことがない男が、芝居なんて耐えられるだろうか
あまりにも、あまりにも、芝居は夢や愛や希望に溢れすぎている
物語がと言うよりは、彼らの瞳が、だ
僕は朝日が昇る部屋で、即物的な性交をし、夜まで寝てたいだけなのに
他人の欠点を残酷に指摘できるようになったら小説を書こう
1パーセントでもほんとうのことが書けたら幸せだな小説は
もう寝よう
もう寝よう
少し喉が渇くが
水でも飲んで
もう寝よう
※惰性小説を書いて、ね。
追記:誤解を招かないように、書いておくが、僕は「芝居」が嫌いなわけでも、「芝居を観る」のが嫌いなわけでもない(まあ、大好きでもないが)。ただ「芝居を観に行く」のがいやでいやで仕方ないのだ。わかるひとにはわかる気分だと思う。ですから、誤解なきよう。また機会があれば詳しく書きやす。(いや、書く必要はなかばってんのしゃがたい)。
* * *
小説のようなもの(36)
私は同時に吐いた。すべてを吐き出した。おそろしいまでの腐臭があたりに漂う。このりんごジュースは、あまりに人工的だ。あまりに媚びすぎている。醜い女の部屋に漂う除光液と同じにおいがする。ペットボトルの口から私の吐瀉物が流れ込み、混じり合い、何か小さな食べかすが滞留し濁流し饐えたにおいを吐き返している。
反吐。
私はゲロのついた手、それに握られているキャップで口を閉めた。なるほど、そのミニペットボトルは私の胃の中のミニチュアになったというわけだ。何かの標本だ。何かのメタファーだ。わかる。私には。
そのミニペットボトルは私の小説だった。
誰も欲しがらない、誰も飲みたがらない。
舌先に残った吐瀉物を味わう。誰が好むだろうか。こうなる前の肉や魚は食えても、こうなってしまった食い物など、誰が食うだろうか。
最近だらだらと長文を書いていて、気づいたのだが、このおそらくは誰も読まないだろう「雑感雑文」において、ただでさえそうなのに、こうやって長文を書き綴ることは、もちろん単なる自己満足でもあるのだが、ある種の拒否的態度の表れなんだろうなあ、と思った。よほどの活字中毒でかつ松田龍樹に多大なる興味を持っているとかでなければ(つまり、そんな人はいない)、普通、こんな長文読まないだろう。たくさん書いてそれを発表するということは読んでくれってことなんだろうけど、なるほど、そうじゃなくて僕お得意の愛想笑いなんだなと思った。つまり、「愛想笑い」が「表面上仲良くするけど、それ以上は勘弁ね」というサインであるのと同じで、「読んで読んで」と言いながら「長文」を無駄に書きまくることで、「どうせ読まない(読めない)んだろ」という隠しメッセージになってしまっているんだろうな。もし、本当に多くの人にきちんと読んで欲しかったら、簡潔に、そして「読みたくなる」ような内容を志すべきなのだから。「サービス精神」が欠如しているのだ。しかも、「押し売り」的態度をみずからとることで、「買って買って」と言いながら、そういう売り方が結局は客のヒンシュクを買うことまで折り込み済みでやってるんだな。たぶん。つまり、僕も愛されたいんだろうなぁ。見て見て、僕のすべて。「気持ち悪い」(by 惣流・アスカ・ラングレー)ですね。
今日なんかはだいぶ寒かった。大学に行く途中、イチョウやモミジが黄色とか赤に染まっていて美しかった。特に下から仰ぎ見たときに、いちばん外側ら辺にある葉っぱが空に透けてて、なんか黄色とか赤が半透明で光り輝いている感じなんか、まじで感動的だったりする。でも、テレビで天気予報士とかが言っていたように今年は暖冬のせいもあって、例年よりは紅葉がたいしたことないらしく、確かに紅葉しきれずに緑が残ったイチョウとかもけっこうあった。そういうのは遠くから見ると緑から黄色のグラデーションをつくっていて、それもきれいにグラデってるわけではなくて、ところどころ緑が混じっちゃったって感じでムラがある。なんか隠居したじいさんの散歩みたいでいやだなと思いつつも、そのイチョウに近づいて観察すると、緑と黄色の葉の中間に、葉っぱ一枚の中に緑と黄色が混在しているのとかあって、まあ当たり前なのかもしれないが、それぞれの葉っぱがそれぞれにじわじわと紅葉するんだなあ、と知った。その紅葉過程の一枚をちぎってみる。緑と黄色の境目は絵の具が混じり合ったみたいで、これはこれでひとつの感興を誘うものだと思った。その緑と黄色の混じった一枚が、まだ紅葉しきれていないその一本のイチョウを体現しているんだなとも思った。
特に東京に来てからそうだが、季節季節の木々や植物に目がいくようになった。きっと年齢的なものもあるだろう。っていうか、そういうものにとらわれないことこそ若さだと思う。若さとは熱狂とスピードなんだと思う。前を向いて猛スピードで疾駆している人間には周りの風景など見えないんだから。もし上記のような文章を、たとえば小学生が教師に提出する日誌なんかに書いたら、文章のうまさとか別にしてほめてくれそうな気がする。でもそういうのって小賢しいし、クソだ、と言えるのが健全な小学生ってもんだろう。まあ僕は小学生ではないけど、「紅葉」が美しいなんて思いはじめたら、老いてきた証拠だ。「老い」とは過去を懐かしんだり、いまを寂しく感じてしまうことだ。マジでウザいぜ、俺。
ほんとどうでもいい話ばかりだ。鬱陶しいぜ。もっとどうでもいい話として、今日、女子が受講生のほとんどである授業に出ていて、前に座った女の子がなかなかすらっとした長身の子で服装とかもいまどきのオシャレな格好をしていたんだが、コートを脱いで僕の目の前に座ると、中に来ていたクリーム色のセーターがなんか安っぽい感じがして、ちょっと毛羽立ってたり、バッグはエルメスのあの有名なやつだったんだけど、それはけっこう新品ぽくて、なんかそういうのを見て寂しさが込み上げてきて、周りにたくさんいる女子はほとんどがダサくてかわいくなくてたいしてオシャレでもなくて、でも、みんなそれなりに真面目に授業を受けてて、講師がちょっとおもしろいこととか言うとみんな「くすくす」って感じで笑って、そういう感じは見てて微笑ましいなあと思ったんだけど、その女子の風景を眺めながら、あの列の女子は全員処女だろうなあ、とかほんと童貞野郎特有の極端な馬鹿エロ発想が突如襲ってきて、そう考え出すと、っていうかこの教室の女子の八割は処女なんだろうなあ、とか勝手に決めつけだして、もちろん少数いる男子はほぼ100%童貞だろうし、ここにいる処女の女子たちもいずれは誰かとエイチするんだろうなあ、と思って、でもきっとそのうちの99%ぐらいの女子はそれほど好きでもない男とエイチをして処女を失うんじゃないか、とか、思って、別にどうでもいいし余計なお世話なんだけど、自分のこととかも考え合わせて、寂しくなって、前の方に一人で授業受けてるぽっちゃりした女の子がいて、その子の横顔から察するにちょっと垂れ目で、そのせいか無表情にしててもなんか気怠そうで憂鬱そうで、いいなーと思ってて、その子が後ろから回収したプリントを教壇まで持っていく姿が、歩き姿がまたやる気なくて、ちょっと猫背っぽくて、そういえば最近「ウォーキング」とか言ってきれいでかっこいい歩き方、歩き方で人生が変わる、みたいなのやってて、そういう講習会に20代30代の女性が殺到しているのとかをテレビで見たのを思い出して、何いってんだか、あの愁いを含んだ猫背、気怠い歩き方、ああいうのにグッとくる感じわかんないかなぁって思って、基本的に姿勢の悪い女ってのは魅力あるもんなんだよ、きれいにすらっと立って歩いたって、ふーんそうモデルみたいマネキンみたいで終わりじゃん、やっぱ顔とかもそうだけど、ちょっと崩れてて憂いとかその逆の愛嬌とか、そういう言語化できないけど自分の心の凹みにぴたっとくる感じの姿形が最高に決まってるじゃん、とか妄想しつつ、合間にずうっと小説読んでて、授業とかまったく聞いてなかった。恋したいのかな?? どうでもいいけどこういうときいつも『花様年華』(ウォン・カーウァイ)の冒頭の言葉を思い出してしまう。ちなみに映画館で見た。それ以来見てねえなあ。見ようとも思わんが。
* * *
小説のようなもの(35)
私はホットのコーヒーのボタンを押した。がらんごろん、と取り出し口にそれが落ちてくる。私は例の取り出しにくい取り出し口に手を突っ込み、それを見て驚いた。そこに転がっていたのは、缶コーヒーではなく、ミニペットボトルに入ったりんごジュースだった。私は前に買った人物が取り忘れたのかと思ったが、いや、コーヒーもなかった。私は見本の陳列されているのをもう一度確かめた。私がぼうっとしていたため押し間違えたのかもしれない。しかし、仮にそうだとしても、そのりんごジュースはコーヒーの位置からはもっとも離れたところにあった。押し間違いではない。
とりあえず私はりんごジュースを取り出した。当たり前だが冷たかった。ふたを確認したがきちんと閉まっていた。こういうこともあるのだろう。単に自販機の不調なのだろう。しかし、私が今しがたまで考えていたことを自販機に見透かされていた気になって、いよいよ私の小説も気違いじみてきたのかもしれない、などと思い、一口、りんごジュースを飲んでみた。
僕は高校を一年でやめたわけだが、修学旅行には行った。行って、途中で勝手に帰ってきた。確か三日目の京都滞在中のときだったと思う。グループ単位の自由行動の時間、班の友達と少し揉めて、別行動になったときに、もういいやと思って宿に帰って有り金全部を持って新幹線に乗った。京都駅から博多まで。博多から特急に乗り換えて熊本へ。昼ごろに出て家に着いたのは夜だったと思う。母が仕事から帰宅するのを近くの公園で待っていた。母は奇矯な人なので帰ってきた僕に「そんな気がした」と言って別段驚く様子もなかった。いちおう宿に電話をしろと言われ電話すると、古典の女教師が出て泣いていた。僕の班の人たちは僕がいないためそれまで宿の玄関で待たされていたらしい。ちょっと悪かったなと思ったが、ケンカしていたので謝らなかった。帰宅してまず第一にやったことは、修学旅行中ずっとがまんしていたうんこをすることだった。日程はあと三、四日残っていたはずだ。自分が帰ってきて家で何をしていたかは憶えていない。特に何もしなかったのだろう。
修学旅行中の写真はいまでも残っている。それなりに楽しそうにしているのだが、顔はニキビ面で溶岩が噴きだしたみたいになっている。いまでもその名残のあばたが両頬にある。ま、ほろ苦い青春の置き土産といったところか。修学旅行は何もかもがいやだったが、唯一ほんのりいい思い出として残っているのは、何日目かの風呂上がりのときに、一人早く着替え終わった僕が男湯の前の廊下でみんなを待っていると、奥の女湯から女子の声がし、当時好きだったAさんを含んだクラスの女子が女湯から出てきて僕の前を通り過ぎたときに、照れくさくてどうしていいかわからずまごまご立っている僕に向かってAさんが声をかけてくれたことぐらいだ。っていうか、しょぼすぎる思い出だ。
修学旅行が終わって初登校の日、いつも不登校ってるわけだから別に行かなくてもよかったのだが、途中で帰ったのを気にして来ないんだと思われるのも癪なので、ちゃんと登校した。まず、クラスの一番うざい男に同じ班だったやつに謝れといきなり言われた。僕のせいで班のみんなが迷惑したからだ。でも、そいつに言われる筋合いはないと思って突っぱねた。逆に班の人たちが気をつかって冗談っぽく話しかけてきてくれたりして、やっぱ大人げなかったなあと反省した。そのあと昼休みかなんかに全然知らない他のクラスの男子数名がやってきて「途中で帰ったんだって?」と訊かれ、うなずくと「すげー」と嘆賞され握手を求められた。苦笑いするしかない。何週間かしたあとで、その好きだったAさんと話す機会があったときに、それとなく修学旅行のことについて訊いてみた。おもしろかった?みたいなことを訊くとAさんはそうでもなかったみたいな感じに応えた。そう言えばAさんは、奈良で買うと名前を彫ってくれるという包丁を購入していた。僕は遠目にそれを見ていた記憶がある。
1996年――もう八年も前の話だ。別に戻りたいとかではないが、もう少しやりようがあった気もするし、よくがんばった方だとも思う。なんでそんな恥多き青春を思い出したかというと、もうすぐ自分が大学を卒業することになって、あれからずいぶん時間がたって、いろいろ成長した部分もあると思うのだが、ふと、あのころの自分にいまの自分が何かアドバイスしてあげられるとしたら、何と言うだろうかなどとポンチなことを考えて、結局何も言えない自分がいたからなのだ。それは自分がいまだに「学生」という身分に甘んじていることが原因かもしれない。まだまだ「世間知ラズ」なのだ。
関係のない話だが、昨日、本屋をうろついていたら、すれ違いざまに一人の若者と目が合った。覚えのある顔だったが思い出せず、歩くスピードは緩めずに首だけで顔を追った。向こうも同じような感じで、僕の顔を凝視して、「おう」みたいな顔をして手を挙げてくれた。僕も会釈で応えた。そのあとすぐに去年、語学クラス(1年生向けの!)が一緒だった男だとわかった。名前も聞いたかもしれないが憶えていないし、個人的な会話を交わした記憶もない。普通そういう「顔見知り」と街で会っても、たいてい無視するものだ。ま、至近距離で遭遇したこととか、「知った顔だ」というだけで向こうが条件反射したこととかタイミングが重なって、そういった「あいさつ」をたまたま交わしてしまったのだろう。正直「関係」ないし、どうでもいいことだった。
と、思ってて、今日大学に行ったら、トイレの手洗い場でまたその彼に会った。また僕の方は最初気づかず、鏡の中に目線を感じてふと見ると彼が手を洗ってこっちを見ていた。あ、とこっちが思うと同時に「昨日会ったね」と彼の方から話しかけてきた。僕は果たして向こうは僕の名前を知っているのだろうか、たぶん知らないだろうと思ってから「よく憶えていたね」と冗談っぽく応えた。彼は、そりゃそうだよ、みたいな返事をした。その彼は別にいやな感じの人間とかではまったくなかったが、僕とは友達にならないタイプの人間だろうなと思っていたので、なんか向こうが気をつかってくれたみたいな感じになって、また自分は子供だな、と思ってしまった。これをきっかけに仲良くなるって感じでもなかったし、どうやって切り上げようかと思っていたら、彼が最近どんな感じですか、みたいな非常に漠然とした質問をしてきたので「もうすぐ卒業だよ」と応えた。彼は、え?みたいな反応だったので、「だいぶ年取ってるんでね」と笑って付け加えた。そういうやりとりをしながら僕は出口まで進んでいた。彼も出口付近まできていたが、タイミングをずらそうとしたのか、ゴミ箱に何かを捨てる素振りをしていた。僕はもう半身は外に出ていて中はよく見えなかった。彼は僕が去ろうとするのを察して「お疲れっす」と言った。何がお疲れなんだろう、と思ったが、きっと彼は何か体育会系の部活に入っていて、単にそれが別れ際のあいさつとして習慣付いているだけなんだろうと勝手に納得した。
結局、彼の名前はわからずじまいだ。きっと向こうだってそうだろう。こういう「出会い」とか「関係」の人物は卒業して数年たつともうすっかり忘れ去られてしまう。街ですれ違っても思い出せるかどうか。きっと高校時代とかにも、こういう感じのやりとりを交わした人間は少なからずいただろうな、と思う。もう忘れていることさえ忘れているような人々だ。こうやって書き残しておけば、たまに読み直して、「そういう出来事」があったということだけは、思い出せる。それは、その出来事自体を思い出すことでもあるが、もう思い出せなくなった出来事があるんだなあ、ということを思い出すことにも役立つだろう。だからなんだ、という話ではあるが。
まあ、あと数ヶ月は卒業しないから、またその彼とも会う機会があるかもしれない。そんときは名前を聞いてみてもいい。聞かなくてもいい。ま、どっちにしろ人生の大筋には関係のないことだ。ま、でも、そういう瞬間を人生の因果関係とは関係のない思い出として記憶に留めておいてもいいじゃないか。っていうか、そういう些細な出来事、そのときの空気や心の感触、そういう「思い出」こそがリアルに感じられる気分の日もあるのだから。たとえば今日とかね。
いやはや、「センチメンタル過剰」な今日このごろです。(恥をさらしてナンボです。)
追記:いま気づいたが、「思い出」の「感じ」と「夢」の「感じ」って似てるんだな。脈絡のなさとか、そのリアリティが。
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小説のようなもの(34)
私はまだ自販機の飲料が百円で買えたころを知っている。プルタブが離別式だったのも。そのころ果汁入りのジュースを飲んでは嘔吐していた。あれは香料が強すぎたのだ。幼い私にとって、何か香水をそのまま飲まされているような気分だった。大人は私が吐くのを知っていて、飲ませようとしなかったが、私は隙を見ては自販機でジュースを買い、飲んでは吐いていた。あの人工的なきつい香りもそのあとの嘔吐も、いま思えばある種の快感を私にもたらしていたのだろう。あるとき大人の誰かが、それは毒だ、と言っていたが、まさしくそうだ。毒はたいてい幻惑や快感と共にある。私にとって人工甘味料の含まれたジュースは手近にある毒物だったのだ。
いまはもう嘔吐感に襲われることはない。それは私の味覚や嗅覚が鈍麻したためだろうし、そういうものへの耐性ができあがってしまったためでもあるだろうし、もっと強い刺激を知っているからかもしれない。それにほとんどもう果汁入りジュースを飲まなくもなっていた。子供のころは決して飲まなかったコーヒーをいまでは愛飲していた。
栗原裕一郎「<宮崎駿論>解析攻略必勝ガイド 『千と千尋の神隠し』がソープランド映画だって!?」(『ユリイカ』2004年12月号所収)が読みたくて、金欠だっていうのに『ユリイカ』を買った。1,300円もしました。散財ついでに『現代思想』と『ファウスト』も。ま、それはいいとして、読んで、ちょっと寂しくなった。切なくなった。宮崎駿氏の持つ「屈折」、言うなればエロスとイノセンスの共存、それはほとんどの男子が持つ「屈折」なんだな。
どうでもいいが、「モテモテのロリコン」って存在するのだろうか? この場合「モテモテ」の対象は一般成人女性である。何が言いたいかっていうと、「モテモテ」だけど、「ロリコン」ならば、それはより純粋な「ロリコン」と言えるだろうが、現代の日本に蔓延る「ロリコン」は「モテない」ことの屈折として現れているような気がする。「ほとんどの男子」は「モテない」(と思っている)。で、「モテない」から「モテたい」と思うか「あきらめる」かで、まず分かれる。そして、「モテたい」と思ったけど、「モテない」、「モテた」でもう一度枝分かれする。 もちろん少数派だが、「モテたい」とはじめっから思わない人もいるだろう。
「モテたい」というパワー、もっと言えば「性欲」は、いろいろなエネルギーに変化する。芸術とか。斎藤環氏が指摘するように、宮崎駿氏はその希有な成功者なのだろう。たいていの者は「現実」に堕する。
森鴎外『ヰタ・セクスアリス』の最初の方を読む。森氏は淡泊だったんだろうなあ。
現代は、「恋愛至上主義」だ(と、誰か言っていた)。恋愛とは、ちゃんと言えば「自由恋愛」のことだ。自由! なんて残酷な言葉! 自由主義がもう実感として「豚は死ね、狼は生きろ」(大藪春彦だっけ?)となった現代。わかりますよね、「自由恋愛」の酷なこと。例えば、自分を好きになった男を「ブサイク」だから振ることができる「自由」なのです。ITベンチャーで財をなしたブサイクな男が「タレント」と付き合うこともできる「自由」なのです。うーん、金色夜叉! モテモテの美しい女のあの不遜さ、あれにはどんな男子も勝てません。モテモテのカッコイイ男の薄っぺらさ、あれを見るたびに、文学(とかアニメ)がモテない男子のために存在するんだなあと痛感します。モテる男が必死こいて小説なんて読みませんから。はぁ…
いやいや、モテない童貞のルサンチマンめいてきましたね。やめます。
以上、『まじめに、モテ学』第02回「モテないパワー」でした(後付け)。最後に明日からあなたもモテモテになるためのヒント「アニメの話題はやめなさい!(自戒を込めて)」。
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小説のようなもの(33)
何本かの電車が駅を素通りし、何本かの電車が停車した。何人かの人たちが降りて、町の奥に消えていった。やましさを抱えた人間は皆無だ。みな自分の住処を目指す人ばかりだ。健全な人々なのだ。そのうちの何人かは私を見た。犬に吠えられる私を。犬が町の人々の代弁をしていた。帰れ、余所者。
飼い主に引き摺られて行く犬の尻を眺めながら、私は自分の孤独を噛みしめる。私は立ち上がった。どこかへ行こうというのではない。自販機の前に立ち、何か飲み物を買うことにしたのだ。この自販機はなんと眩しいことか。明るすぎる。中に陳列された極彩色の缶やペットボトルも。この光は何も癒さない。都市生活者の孤独など、絶対に。
私はポケットの小銭を探る。辛うじて飲料を買う分はあった。しかし、買えば切符は買えなくなる。そういう額だ。私は思案する。買うか買わないか、ではなく、生きるのか生きないのか、について。
ごきげんいかがですか? 松田龍樹です。
昨日(12月5日)の朝日新聞を読んでいたら、「時流自論」というコラムで東大教授の金森修という方が「頑張れ、教養人」という題で執筆なさっていました。18世紀のフランスにおいて博学で名を馳せたボルテールを例に出し、現代では個々の専門分野に精通した「専門家」はたくさんいるが、広く総合的な知識を持って大局的な視野でものを言う人がほとんどいない。細かく見ることも大事だが、大きく眺めることのできる「教養人」も必要である。内容はそんな感じでした。
我が意を得たり、とはこのことです。受験生のころ予備校のある講師の方が、これからはスペシャリストではななく、ジェネラリストを目指せ、と言われていたことをずうっと心に留め置いていた僕でしたが、やはりそうか!という気持ちになりました。いやいや、別に東大の教授がそう言っていたから正しいとか、その権威を借りて、自分も威張ろうとか、そういうつもりではないんです。
以前から、僕が「お勉強」と言ったり、「無勝手流一学徒」とほざいたりしているのは、なんというか教養を身に付け、自分の頭でものを考えられる人間になりたいと思っているからなんです。確かに、様々な専門分野での極めて専門的な研究によって、その積み重ねによって、現代の文明が形作られているのは確かです。しかし、一方で一般人は、そういった理解不能な専門分野が増えるにつれ、何を誰を拠り所にものを考えていけばいいかわからなくなっているのではないでしょうか。もちろんすべてに精通し、そこから考えを導き出す、というのは不可能でしょうが。
以前、子供向けの本か何かで読んだんですが、質問で、地球には山があったり谷があったり海があったりでこぼこしているのに、なぜ丸く見えるんですか、とあり、その答えは、例えば地球の絵を描いたとして、丸を書いたその線の中に山とか谷とか海とか全部収まってしまうことになっちゃう、ということでした。なるほど、富士山はあんなにでかいし、海はめちゃめちゃ深いのに、地球の大きさからすれば、線一本で収まってしまうのか。そういうことらしいです。
「地球は丸い」と言える人間が必要なんですね。金森教授は、哲学者がそういう役割を引き受けるべきだ、とおっしゃっていましたが、僕は文学者というのも、また違った方法でそいうことを言うべき存在なのではないかと思いました。
えー、またしても眠いです。「自称」の戦略については、気力ダウンで詳しく書けません。てっとり早く結論だけメモっておくと、自分の立場が不安定な人ほど、自分で自分の定義(つまり「自称」)をしたがり、安定した位置にいる人は、逆にそれを嫌う。例えば、「大学4年生なんだけど2留している」という複雑なポジションなために、自己認識と他人の認識を一発で一致させる「大学6年生」という自称を強調したがる。また逆に、普通の大学生だと、別に「大学生」ということをわざわざ自分で強調しようとはしない。むしろ「大学生なんだー」とか言われると、「いや、って言っても、僕はそんじょそこらの大学生とは違うんですよ…」的な反応をしたがる。たぶんね!
* * *
小説のようなもの(32)
寂れた駅前が私の訪問を横目で見ている。私はもう一度切符を買い直し、私の街へ帰るべきだったのかもしれない。いまの私は知らない町を手なずけるほどの余裕も余力もなかったのだから。
しかし、帰るにしろ、この町で一晩明かすにしろ、私はこの疲労感を癒さねばならない。私は自販機横のベンチに腰を下ろした。しばらくすると、犬の散歩が通りかかった。そばまで来ると犬は私に向かってけたたましく吠えた。飼い主は引き離そうとするが、犬の力に負けている。
犬は吠えまくる。
私には聞こえない。
きっとこの犬はそのことに気づいているのだ。だから私に向かってこんなにも吠えるのだ。そう、私は他の人間のように、うるさいなどと言うことはないのだから。
私はそうやって無表情のまま、犬の気が済むのを待っていた。
雲ひとつない、冬晴れ。南向きの窓からは、強い太陽光線がカーテン越しに射し込んでくる。鳥だろう、カーテンに黒い影が横切る。同時に部屋の中にも影が通る。私は真っ昼間だというのに、蒲団に横になり、目を開けたまま黙考している。いま見た自分の光景、そして状況、それらがもたらす感興、そういうものを言語で表現してみることについて。鳥の影が部屋の中を通り過ぎたこと、その影が濃かったこと、カーテンと部屋の影が同時に目に飛び込んだこと。そういうことをおもしろいと思った私の、そういう感じは伝わっただろうか。
どうも、松田龍樹です。
例えば、「南向きの窓からは、強い太陽光線がカーテン越しに射し込んでくる。」と書くのと「南向きの窓からは、強い太陽光線がカーテン越しに射し込んでいる。」と書くのとでは、作用としてどう違ってくるのでしょうか?
多少、理屈を捏ねれば、「射し込んでいる」だと、そういう状態・状況を表し、「静的」であるのに対し、「射し込んでくる」だと「運動」になり躍動感が演出される、と言えるのかもしれません。直後の文章で、いきなり「鳥だろう」と、作者のつぶやきらしきものが書かれるのも、その唐突な感じから、読み手の中に「アクション」を引き起こす。また、「鳥」というやや具体的なイメージを提出し、しかし、「だろう」という非断定をもってくることにより、まず「鳥」という具体と言えば具体、抽象と言えば抽象であるイメージの、そのあいまいさの方をより強調し、かつ「だろう」と断定しないことにより、読み手のイメージを宙ぶらりんにする。「射し込んでくる」から「鳥だろう」へのアクションの連続性を崩さないために、また「だろう」による確定留保を持続するために、「鳥だろう」の直後は、「。」ではなく「、」になる。「鳥」は「黒い影」へとイメージが受け継がれ、あいまいさが持続される。「横切る」はアクションを引き継ぐ。
次文は前文に従属したもの。「黒い影」が「影」、「横切る」が「通る」とそれぞれ簡略化されて表現され、反復による冗漫さを軽減している。
それまでの文が主体の「視た」光景を描写したものであったのに対し、次文では「私」から入り、その光景を見ていた主体の状況説明になっている。「真っ昼間」なのに「横になり」、「目を開けたまま」、「黙考している」と、ここでは同文の中で対照的な意味を含んだ言葉が並んでいる。つまり、「真っ昼間」とは普通、起きて活動する時間(なのに、「横に」なっている)、「黙考」とは普通、目を閉じて考えている様子を想起させる、ということ。これはリズムをつくると同時に、意味のコントラストを演出することで、前文までの「太陽光線」と「影」のイメージを無意識に引きずらせる効果がある。
続く文は、前文の補足、かつ、それまでの文章をメタ化する役割を果たしている。これにより、それまで主体と同化し、光景を「視ていた」読み手は、いきなり、その文章を書いている「作者」の位置に引き揚げられる。そして作者の位置から次の文を読まされる。それは前半の部分を再びイメージしつつ、確認させる効果を持つ。最終文では、「伝わっただろうか」と問いかけることにより、疑似作者とさせられていた読み手は、再び元の「読み手」に引き戻される。
以上の全文で喚起されるのは、「影」が二重に同時に横切ったというイメージが、読み手が、文章内の「主体」から文章の「作者」へと素早く「横切った」ことと「二重」の役割をさせられたことと重なってくる。つまり、実態としての「鳥」、カーテンに映ったその「影」、そしてもう一つの部屋に映った「影」、という構造が、実態としての「読者(つまり、あなた自身)」、その第一の感情移入対象としての文章内「主体」、その文章をメタ化した文章を書いているところの「(疑似)作者」、という構造と相似形をなしている(二重になっている)、ということだ。また、影が「横切る」というアクションが、「主体」から「(疑似)作者」への感情移入の「横滑り」ともダブっている。
どうだろうか、私のようなうんこ小説家志望でも、たった数行にこれだけの潜在的思考をもって臨んでいるのだ。優れた作家になればなるほど、その「演算」は膨大なものになる。「書く」と同時に「演算」ができる者だけが優れた小説を生み出すのだ。
なーんて、ね。もっともらしく聞こえたでしょうか? 「うまさを語ると野暮になる」(A.Nakao)とはこういうことを言うのです。くれぐれも屁理屈詭弁家の虚言に乗せられて(私がそうであるように)、つまらぬ批評家になってしまわぬよう、己の感性に自信を持ちましょう。では、<うざいでショー>もここまでにして、本題。
毎日この「雑感雑文」を書いていると、まるで一日というものが、この雑感雑文を書くために在るような気になってくる。例えば「日記」というものが、本来、一日にあったことを記するためのものであるはずなのに、それが逆転し、日記に何か記するために一日があるようになってしまうことだ。「出来事」とそれを記したはずの「文章」の主従関係が逆転した、とでも言えばよいだろうか。
ま、それは大袈裟だとしても、一日を経験しつつ、事あるごとに、目の前の出来事について「雑感雑文にどう書くか」を脳内でシミュレーションしている自分がいるのは確かだ。まあ、文章書きに限らず、映画監督だろうが絵描きだろうが役者だろうが、熱心な者は多かれ少なかれ似たような経験を持つだろう。というか、それが「日常」かもしれない。まあ、そんなことで芸術家ぶられてもしょうがないが。
いや、今日は「自称」について何か駄文を書こうと思っていたのだが、(前ふりに労力を使ってしまったため)眠いので次の機会にする。メモ程度に書いておくと、「自称」に付随する「戦略」について気づいたことを書こうと思ったのだ。例えば私が自分のことを「大学6年生」と自称することの意味、戦略は何なのか、とか。ま、どうせたいしたことは書けないので、もう少し考えてから、書く。
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小説のようなもの(31)
結果、私は次の停車駅で降りなければならなくなった。そして、実際に降車した。振り返ると、私が残した空席に、私の目の前に立っていた男ではなくその斜め横で構えていた中年女性が、座った。私は結局無駄なことをしたのだ。私が退けたからといって、あのシートに秩序がもたらされるわけはないのだ。私は単に排除されただけに過ぎない。
私は自分の降りた駅を知らなかった。はじめての場所だった。辺りは暗く、駅前には小さな商店が数軒あり、その奥は平凡な民家が続いていた。商店もこの時間はすでに閉まっているため、明かりと言えば自動販売機のものくらいだった。私はそういった光景をホームから視認した。
長いホームを改札口に向けてとぼとぼと歩く。私以外に降りた者は少なかった。しかも、降りた少数の者すべてはこのホームの構造に熟知しているらしく、もっとも改札に近い場所で降車し、素早くゲートを抜け出ていた。余所者である私は自分の惨めさを噛みしめるのに十分な距離を歩かされていた。
と、いうことで、松田龍樹です。
今日は次回作の取材のために、とあるところに行ってきました。詳細は書きませんが、この成果は必ずや作品に反映されることと思います。お楽しみに。(←もったいぶってら)。えー、ヒントは、今日のタイトル(笑顔で、M字開脚)と、あと、喪服、バイヴレーション、和傘、りんごのうた、34、「もはや記号だな」、クラーク・ケント、カワバタ、エロスエ、「これは一つの文化体験である!」、科学忍者隊、です。わかった人はご一報を。ただし検索しても無駄ですよ(ふふふっ)。
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小説のようなもの(30)
私は目を閉じた。
少し疲れていることは確かだった。身体と精神、どちらもだ。私はさっき見た、いわゆる交通事故の現場すら現実だったのか確信が持てなくなっていた。むしろあれは私だったのではないか。信号を渡ろうとしてトラックに撥ねられたのは私だったのではないだろうか。私は果たしていまも存在しているのだろうか。
私は私の小説を書き続けていた。それがもし本当に紙に書き付けられたものとしたら、かなりの量になっているはずだ。私が存在しなくとも、私の小説は在りうるだろう。私が私の小説を書いているというのももはや傲慢だ。私の唯一の存在証明が私の小説なのだ。もちろん私の小説が私の証明になったとしても他人への証明にはならない。
しかし、私は目を開けた。ちょうど私の眼と同じ位置に男のベルトが見える。男の革靴がときおり私の足に触れる。そうだ。私は他人に近づき過ぎている。
インディアンサマーな今日このごろ、みなさん、いかがお過ごしでしょうか?不登校児・松田龍樹です。
いやー、昼夜逆転が高じて早起きです。まだ明け切らぬころ起き出して、小説なぞ読むのはなかなか退廃的でよいものです。カフェインとニコチンと文学さえあれば、僕は他に何も要りません(大嘘)。
ブックオフ的読書生活。今日は保坂和志氏のデビュー作『プレーンソング』を読みました。いや、「つまらない」、「退屈」を半ば覚悟の上で読んだのですが、いやいや、これはヒジョーにおもしろかったです! 凡百のエンターテイメント小説なんかより、はるかに刺激的でわくわくどきどきさせられました。これこそまさに、ほんとうのほんものの小説!
なーんてね。こういうふうに、普通の人がおもしろくない、つまらない、意味わかんない、と思ってしまう芸術的な作品を激賞することによって、自分が「芸術をわかっている」と暗にアピってみました。うっとうしくて、ごめんなさい(ぺこり)。
保坂和志氏は、エッセイの方はけっこう熱心に読ませてもらってるんですが、小説は、『カンバセイション・ピース』を所持しながらも、未読でした。保坂氏がエッセイとかで、たまにデビュー作である『プレーンソング』が、当時、理解されなかったとか、日常をだらだら書いただけでつまらない、みたいに言われたと書いていたので、ちょっと構えてしまったのです。しかし、これははったりでもなんでもなく、普通におもしろかったです。
まあ、僕が、保坂氏が意図したところのものをちゃんと楽しんでいるかどうかは疑問ですが。順序は逆でしょうが、柴崎友香『きょうのできごと』や鈴木清剛氏の作品を思い出しました。というか、保坂氏がそういった作品の源流なのでしょうね、やっぱり。でも、そういった作品よりももっともっと「何が言いたいのか」わかりませんでした。もちろん、「何が言いたいのかわからない」というのは、ほめ言葉です。例えば「いまどきの大学生が安穏としたモラトリアムの時期を終わらせるべく、就職活動という通過儀礼に挑むが失敗し、自己決定を一時回避し、ほっとする物語」というふうに「言いたいこと」がわかる、言葉で言える作品とは、逆に言うとそれまでの作品でしかないのですから。もしそれを言うことだけで伝わってしまうものしか作品にないとしたら、それは貧しい作品としか言いようがないですから。そういうふうに言葉にできない、「読んでいるそのとき」にしか味わえない歓び楽しみを与えてくれる作品こそが、本当の意味での優れた作品なんです。僕も最近そう思うようになりました(えへん)。
きっとこの『プレーンソング』や保坂和志氏の作品というのは、『バトル・ロワイアル』や阿部和重氏の作品の対極にある作品なんでしょう。でも正反対のものって、「同じ」でもありますよね。同じ「問題」について考えているんだと思います。その表現の仕方の両極端が、各氏の作品なんだと思います。みんな確信犯です。
内容に関して、細かく書きたい気もするのですが、眠いので端折ります。一言言うなら、確か保坂氏は「猫をメタファーとして使わない」「猫を猫として描く」みたいなことを肝に銘じて小説を書いたらしいんですが、なるほど、そういう保坂氏の志を真に受けるなら、「猫」にどういう意味があるとか言うのは無粋な気もしますが、まあ、「猫」そのものというよりも、「猫」にたいする「ぼく」や「よう子」の態度、接し方というのが、なんとなく保坂氏の小説に対する接し方と似ているな、と思いました。そう、「小説」だって何かのメタファーじゃないんですもんね。猫が猫でしかないように、小説は小説でしかないんです。(いや、こういうもっともらしいことを言うことを保坂氏の小説はもっとも忌避しようとしているんです。しかし、凡庸な私にはこんな発想しか浮かばないんです(目指すは「通俗世界」の天才です!←ムリ、でしょうね、これも)。でも、いいですよ、『プレーンソング』。『草の上の朝食』読みたいですもん。)
ということで、別の話。『プレーンソング』を読了したので、また別の小説を読みはじめたんですが、その1ページ目にこういう文章がありました。
「タクシーを拾う時、女はもう少しで完成するレース編みのテーブルクロスのことを思い出して、出来上がったらその上にゼラニウムの鉢を置こうと決めた。」
いや、なんという文章ではないのかもしれないんですが、この「ゼラニウム」というのに引っかかったんです。実際、僕は「ゼラニウム」というのが何なのか、どんなものなのか、知りませんでした。まあ「鉢」とあるので、植物だろうというのはわかります。いや、きっと、うんことは言え小説を間違ってでも書こうとする人間は「ゼラニウム」ぐらい知っておくべきなんだろうなあ、と思ったんです。そういう小さな、しかし確固たる知識の積み重ねが必要なんだろうと。メジャーな植物の名前ぐらいわかるようにならないと。
と、思っていたら、朝飯買いにほか弁行って帰ってきて食べようと思ったら、弁当の包み紙に書いてあったのがなんと「花言葉とミニ知識」で、そこに「ゼラニウム」についても書いてあったんです。なんたるシンクロニシティ!
いやー、まじでうれしかったです。これでゼラニウムは覚えました。一つ成長できました。ちなみにゼラニウムの花言葉は「愛情」です。ステキです。(この花言葉を知ると、この小説的には痛烈な皮肉に思えてきます。小説に関してはまた読了できたら、そのとき書きます。読了できたら、ね。)
おそらく誰も読んでいないだろう文章をまただらだら書いてしまいました。ほとんど自分のための文章になってます。今度はエンタメ性に富んだものが書けるようがんばるっす。(ねむっ!)
* * *
小説のようなもの(29)
私が乗ってすぐは空いていたが、しばらくすると次々に人が乗ってきて、たちまち私が座ったシートは満席になった。発車するころには私のシートの前にもたくさんの人が吊革につかまったりして立つことになった。
非常に窮屈だった。非常に不快だった。しかし、私はそのシートに何人座っているだろうかと首をひねって確認してみて、そこには私を含めて六人しか座っていないことを知った。
私は愕然とした。ここは七人掛けである。七人掛けのシートに六人で座っていた。つまりは、一人分のスペースを六人が少しづつ余計に欲張ることで、座れるはずだった一人の人間を排除しているということだった。
私は一人の人間を六人で寄って集って痛めつけ、その身体を六等分に切り刻んでいる様子を想像した。私たちは我先にとその人間の身体をもぎ取ろうとしている。乱暴に、しかし、六人は妙な仲間意識を持って、結果として均等に分け前を得る。ばらばらになった頭、手と手、足と足、胴体。私たちはその共謀に成功し、喜々としている。辺りはさっきまで存在した人間の恐るべき量の体液で、赤黒い水溜まりができているというのに。
私のそうしたイメイジはやはりさっき見た轢死体が原因だろう。しかし、やはり一人の人間の犠牲の下、私たちの確信的暴力の下、この一人分のスペースは略奪されたのだ。それがあのトラックに轢かれた若者とは直接関係ないと言えたとしても、やはり結局は同じことではないか。彼をトラックで轢き殺すことも、七人掛けのシートに六人で座ることも。
どうも、松田龍樹です。今日も雑感雑文を覗いてくださって、ありがとうございます。
ところで、みなさんは何か趣味を持ってますか?長年やっててこれなら得意だよみたいなのってありますか?または、いままでやったことなかったけど、これからはじめたいなみたいなのは?
僕は、これからやってみたいことが、いろいろあります。19歳ぐらいのころは、それまでに縁のなかったものは一生縁がないんだ、ってなぜか思い込んでいたんですが、最近になって、もう24歳という「あとはただ繰り返すだけ」の年齢になってしまったのだから、何でも好きなようにやってやれという気になりました。例えば中学生や高校生でギターやベースをやるとしたら、ただそれだけでは終わらない意味が付きまといますよね。カッコイイからとか、モテたいからとか。いや、そういった動機は至極真っ当だと思うんですが、その当時、僕はもともと感受性が鈍いのと変に真面目だったものだからそういうものは嫌ってたんです。だいたい田舎では、ギターとかベースとかのバンド音楽は不良がやるものだったんです。
それに10代のころは「将来、仕事にしたいこと」以外はやらないと変に決めていました。どうせ途中で止めてしまうんだから、と。でもそれも間違った考えでした。ちょっとでもやりたいと思ったら、つまみ食いでもいいから何でもやってみるべきです。生きてる間にやれることなんて、それでも知れてるんですから。
で、僕がずっと興味あるのは、まず絵を描くことですね。小学校や中学なんかではそれなりに絵のうまい方でしたから。でも特別うまい、って感じではなく、校内のコンテストでは毎回佳作にはなるけど、入選はしたことない程度のレベルです。中3のときにそれに気づいて、絵はもういいやって思いました。単純に自分の才能に限界を感じたんですね。でもこれも若者にありがちな過ちです。別にコンテストでどうだろうが、絵が描くのが好きなら描けばいいんです。楽しく描いて、描いたら誰かに見せて、別にそれが下手でも責められやしません。ただ少し悔やまれるのは、絵に関してもう少しテクニカルなことを教えてくれる人がいてくれたなら、ということです。なんか美術の授業って結局好きなように描いてよかったから。
絵の他には、音楽ですね。学校のころは音楽の授業、あまり好きではなかったのですが。これももっと楽しんでやれてれば、と思います。やるとしたらギター(クラシック&エレクトリック)かピアノですね。ピアノは買えないだろうからキーボード(エレクトーン?)でしょうが。あと、トランペットとかヴァイオリンもいいですね。よく楽器は何歳までやらないと、だめ、とか言われますが、それは一流になるためであって、どうあがいてもその年齢制限は越えているから、やって下手くそなら下手くそで全然傷つかないですからね。やってみたいです。
絵、音楽、ときてずっとやりたいな、って思ってるのは、スポーツ。特に野球、サッカー。これも小学校のころ部活でちょこっとやったんですけど、下手くそだし疲れるの嫌いだし集団行動も苦手だし、で、ずっと苦手意識がありました。でもこれも一緒で、もう上手くやらなきゃという強迫観念がないですから、楽しくやれそうなんですけどね。とりあえずボール買って、一人で練習はじめたいです。ピッチングとバッティング。リフティングと(ワントラップからの)シュート練習とか。わくわくします。誰かキャッチボールしてくれる人いたら歓迎します。
絵、音楽、スポーツときて、もう一つ一回挫折して再びやりたいものは写真です。これも一瞬、写真部に入っていた経験があるんで。写真部では白黒がメインだったんですけど、そのころはカラーがやりたかったんです。白黒のよさもわかるんですけど、根が単純で貧乏性なのでなんか色が付いてないと物足りなかったんですね。いや、そのへんが僕の感受性の限界を示していますが。いまもカラーでやりたいんですが、それはデジカメとかでいいかなと。フィルムでやるなら、白黒でやって、ちょっとがんばって自宅に暗室つくるとか。部活に入っていたころは暗室使うのもなんか気が引けたんですね。誰か待ってると思うと落ち着かないんですね。ずっと一人っ子で育ったから、共同使用というのに慣れてないんです。うん。とりあえずカメラ買わないと。暗室作業も、いま思えばとても楽しい作業だったな。もっとちゃんとやりたい。
絵、音楽、スポーツ、写真。うーん、まだまだ楽しいことはたくさん残ってますね。もう一ついま思いつくちゃんとやってみたいことは、将棋です。これも下手くそだったけど、ずっと好きで。中学までは休み時間によくやったりしたんですが。勝手に竜王戦とか決めて。一回まぐれで勝って竜王になることができたんですが。昔は焦ってどんどん攻めてたんですけど、あれって性格でますよね。いまならじっくり櫓とか組めそうなんですが。誰か対戦しましょう。ネットでもできるらしいから、やってみようかな。将棋以外でも、チェス、碁、麻雀、バックギャモン、花札、とかは一通り覚えたいですけどね。誰かルール教えてください。
とりあえずそのぐらいですかね。これからやりたいことは。多いし。いや、でも、どれもこれも「楽しかった」記憶があるのに、「下手だから」やめたものばかりですね。なんか子供のくせにギスギスしてた自分が悔しいです。若いころの柔らかな感性で臨むことはできないでしょうけど、逆に成長した余裕ある気持ちで楽しみたいっす。
そう言えば、文章を書くのは嫌いでしたね。下手だったし。いまでも天性、感性としては文章下手だと思ってますが。わかりますよね?本当に上手い人の文章って、もっと、こう、なんか違いますもん。ま、必ずしも上手い文章が魅力あるかっていうと、そうでもないから、また奥が深いんでしょうが。にしても、一番苦手で楽しくもなかったものを、いま一番力入れてやってるなんて、おもしろいですね。いや、苦手だから、やってるのでしょうか。僕ってそういうところあるんです。一番、難しいことに挑戦したがるようなところが。ははっ、なんちゃって。
いやー、どうでもいいことを長々と書きました。本当にやるか、いつになったらやるかわかりませんが、はじめたら、何かそれについて書きます。では、みなさん、ごきげんよう。(次回はまた読書感想文書きたいな。)
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小説のようなもの(28)
私は振り返った。エスカレーターは誰も乗せていなかった。みなが同じ方向を向いていた。すべての人々の視線はある一点に集約されているようだった。あるいは誰か叫んだかも知れない。
私は歩き出す。群集をすり抜けてエスカレーターに乗った。すこぶる快適だ。下りのエスカレーターに乗っている人々は、上りが私しか乗っていないこと、その先に黒山ができていることを訝しんでいる様子だった。もう少し下れば、みなの興味を惹いているものの正体がわかるだろう。
私はあの若者のおかげで苦もなくエスカレーターを上りきることができた。もし彼がああやってみなの動きを停止させてくればければ、私はひどく難儀な思いをしたことだろう。行くも戻るもできず、私が点に成り果てていただろう。
私は圧死寸前の快速電車をやり過ごし、次発の各停に乗った。
みなさん、こんにちは。あるいは、はじめまして。松田龍樹です。
いよいよ2004年も残すところ一ヵ月となりましたね。特に僕は年男(申年)でもあるせいか、今年が終わるのがとても惜しい気がします。まあ、でも、時間というのは常に誰にでも平等に過ぎていくわけですから、過ぎていく時間の速さを嘆くよりも、一日一日を充実した実りあるものにしていく努力が大切ですよね。
日々を充実したものにする。これは難しいようで簡単で、簡単なようで難しいことです。でも、都会の一人暮らしの若者などにありがちな、他人とのふれあいに乏しく、食生活が偏りがちで、睡眠が不規則な、そういう生活はどう見ても充実しているとは言えません。
まずは窓を開け、新鮮な空気を部屋に呼び込むことから改善すべきです。そして、部屋の掃除、片づけをします。掃除とは本当に素晴らしいものです。まず第一に身体を動かすことで適度な運動となります。次に掃除の段取りを考えたり、物の整理整頓をすることで、脳を活性化させます。最後に整頓された清潔な部屋は、未来への新たな活力を与えてくれます。新しいアイデア、積極的で円滑な人間関係、溢れる行動力や一日の疲れを癒す安寧と安眠…これらはすべて、心地のいい部屋からしか得られません。
現代人、特に都市生活者は人工的な環境に暮らすため、ともすればすぐに自堕落で退廃的になってしまいます。しかし、荒みやすい都会に住んでいても、ほんの少しの心掛けで豊かな生活を送ることができます。お金はかかりません。少し早く起きるとか、いつもは歩かない道を歩いてみるとか、疎遠になっていた友人に連絡を取ってみるとか、そういうことで不思議なくらいに人間は明るく前向きになれるのです。特にお薦めなのは、声を出すこと、誰かと会話をすることです。声を出して会話をすること、これ以上に人間らしく素晴らしい行為はありません。会話は身体を軽くし、脳と心の栄養となります。みなさん、いますぐにでも、誰か家族でも友人でも、会話をはじめてみましょう。特に最近会話をしていなかった相手ならば、必ずお互いに新鮮なパワーをもたらすことでしょう。
そうやって充実した日々を送れたならば、一日に数分、一週間に一度でもいいですから、一人になって目を閉じて、充実した日々を思い返すといいでしょう。ほんの少し未来のことなら、考えてみてもいいかもしれません。しかし、生きる意味や自分の存在価値、他人と比べたり羨ましく思ったり、現実逃避的な自己の未来像を夢想したり、そういうことはよくありません。これらはすべて、「生きる」上での足かせにしかなりません。生きる意味などは、思考や言葉の中にあるのではなく、いま生きているこの瞬間を指すのですから。そういった観念に執着するのは、不健康としか言いようがありません。
どうでしょうか。いま述べたことは、簡単なことです。しかし、やはり、難しいかもしれませんね。しかし、ほんのちょっとした変化から人生は開けてくるのだと思います。そして、できうることなら、僕はそういった前向きで明るさと強さに溢れる人生に貢献できるような、そういった作品を書いていきたい、と思っています。同じく、このHP、雑感雑文もそういったものでありたいと願っています。
と、いうことで、改めまして、(昼夜逆転中&無会話10日目の)松田龍樹です。
昼夜逆転というのは、社会不適応者への第一歩でありますが、小説を読んだり映画を見たりするのにも最適な生活リズムだと言えます。もっとも小説や映画というものが、本来、社会になじめない人間によって、またそういった人々に向けられて制作されていることを考えれば、至極納得のいくことかもしれませんが。
ということで、昼夜逆転中でもあり、また最近自分の読書量の少なさに危機感を覚え、ブックオフにて大量に文庫本を買い込んできました。と、言ってもせいぜい10冊程度ですが。特にいままで手をつけていなかった、敬遠していた作家のものを選んで買ってきました。で、現代作家ならば必ず読んでおくべき中上健次氏の代表作の一つ『岬』を読みました。
【中上健次『岬』(文春文庫『岬』所収)感想】
中上健次氏の日本文学史における重要性、その意味は、僕には詳しくわかりませんが、昨今の作家(阿部和重氏でもモブ・ノリオ氏でも村上龍氏でも)の言動から推測してもその存在の巨大さは窺い知ることができます。個人的には以前『十九歳の地図』を読んだだけで(映画『青春の殺人者』も見ました)、あとは「古そう」「暗そう」「つまらなそう」という先入観だけで忌避していました。なんたる愚か者でしょうか。
中上健次氏についての僕の乏しい知識を披露すれば、戦後生まれで初めて芥川賞を獲ったとか、フォークナーの影響を受けたとか、あと青山真治氏が敬愛しているとか、そのくらいです。この『岬』という作品はその芥川賞を受賞したもので、その直後に村上龍氏が『限りなく透明に近いブルー』で同賞を受賞したことからも、近代文学とそれ以降を分かつメルクマール的作品という歴史的意味があるそうです(たぶん)。
とは言え、そんなこととは関係なく、僕はおもしろく読めました。『岬』を読む前に同書に収められている『黄金比の朝』というのを読んだのですが、これも同様に、おもしろく読めました。
『岬』で個人的に印象深かったのは、主人公が僕と同じ24歳だったことです。主人公が同い年というのはそれだけで、感情移入しやすいし、予期せぬものだった場合ちょっとした巡り合わせの運命を感じたりもします。
舞台は中上氏の故郷・紀州(和歌山県)で、その狭い土地に住む複雑な血縁関係で結ばれた人々の愛憎や葛藤を描いています。主人公・秋幸を中心に、出てくる人々はすべて血縁関係なんですが、これが込み入っているために、関係性を把握するのに手間取ります。また三人称で書かれているのですが、人物によって呼び方がまちまちで、「姉」「母」「義父」と秋幸から見た続柄で表記される者と「芳子」「光子」「安雄」などと名前で表記される者、「姉の子供」や「女の子」としか表記されない者、とばらばらです。これはもちろん、秋幸から見た(同時に作者から見た物語上の)関係性の徴、濃淡を表しているのでしょう。また自分のケースを考えてみても、僕なんかは特に熊本の田舎育ちですから、親戚が多い場合の関係性、呼び方というのをリアルに表しているように感じました。また小説を読む中で、血縁関係の把握が難しいと言いましたが、それは現実においても、しばしば親戚関係の把握などいい加減なものなのだと思います。そういった自分自身の「血のつながり」やその関係性をリアルに想起させるということです。
この小説の主人公・秋幸を一言で言うなら、「ストイック」です。それは、秋幸が、周囲の大人たちが酒や女にだらしないのと比べ、より際立っています。「土方」の仕事を愛し、女と寝たこともなく、酒もほとんど飲まない。むしろそういった享楽を忌避している。というのも、それらがみずからの出生、父の存在を想起させるからであり、そういったものを憎んでいるからです。
「ストイック」というのはそういう秋幸の言動もそうですが、小説内においても、彼は積極的な行動をしません。常に小説を展開させるのは秋幸ではない誰かなのです。小説における目立った出来事と言えば、安雄という仕事仲間であり義理の兄が、別の義兄を刺して殺してしまうこと、秋幸の母の先夫の法事、秋幸の腹違いの姉・美恵が気がふれたようになることですが、秋幸は主体的な行動はせず、常に観察者的位置にいます。それは小説的に彼が視点人物だからかもしれませんが、また同時に、「血のしがらみ」に埋没し動きを封じられたような秋幸の状況ともダブっています。彼は動きたくとも動けないのです。その中で彼はふつふつとしたエネルギーを鬱積させ、それは最後に放出させられます。彼が積極的に行動するに至るのは、ようやくラストでであり、まあだからそれがラストになっているのでしょうが。
小説内で「岬」は象徴的な場所として描かれます。複雑で崩壊寸前の「家族」のそれでもまだ安定していたころの記憶として。または海に突き出たその様子があからさまに主人公の男性器とダブらされて描かれます。まあ、それは読めば誰でも感ぜらるところです。
家族、血縁というのは、小説において大きなテーマとなり得ます。そういった題材を扱った作品も多いです。また逆に、特にマンガを読んでいてそう思うのですが、まったくそういった「家族」のにおいのしない登場人物ばかりが出てくるものもあります。日ごろ友達同士で会っているときには、相手の家族のことをいちいち考えたりしません。例えばその人の性格は、その人独特のものだ、と当たり前のように思い込んでいます。しかし、偶然、街中で友達が親と歩いている姿を見たりすると、何か一発でそれが「親子」なんだなとわかってしまいます。本人たちにはわからずとも「そっくり」なのです。もちろんそれは外見上ですが。いや、その友達の親の性格までは知りませんが、ただ、決定的にその人間というものが親の血を受け継ぎ、環境に影響され、生きているんだなというのを痛感します。仮に友達は移り変わったとしても、血のつながりというのは変わりませんからね。秋幸じゃないですが、己の身体の裡にこそ深く刻まれているものなんです。
『岬』を読んでいて思ったのは、これは家族(血縁)を扱った小説なのではなく、家族(血縁)というもの自体の中に何かしらのドラマが含まれているんだな、ということです。誰だって「家族」について語れば、そこにはオリジナルな物語が隠されているものなんです。
あと、『岬』という作品自体は短いですが、中上氏の構想力の優れたところを感ぜさせます。のちに「紀州サーガ」なるものを書くに至った、と聞いております。『岬』においては、別段大きな事件が発生するわけでもないのに、ぐいぐい展開しているような印象を与えます。しかし、その構想力、構築力が精密な設計図の存在を感じさせると言うよりは、思いのまま書きながらかつ結構ができあがってしまう、そういった類の才能なのではないかと思いました。
ということで、残り一ヵ月、大いに本を読み、小説を書いて、人と会い、充実したものとしたいです。
* * *
小説のようなもの(27)
私は帰ろう。
私はこの街に用はない。しかし、この街は用のない人間を抱え込めるほどの余裕がない。常にあからさまな欲望を抱えた人間だけを待っているのだ。そしてその欲望のすべては自分以外の誰かに出会いたいという欲望でしかなかった。私が会いたい人間などいない。私はしゃべれないし、相手の言葉も聞こえない。私は誰かに会うことなど不可能なのだ。
私が辛うじて会いたいのは、あの女だけだ。もう喫茶店はすべての客を追い出してしまったころだろう。私は女と別れてから、いままで一心に孤独を感じていたのだ。すべてはあの女のせいだった。あの女が私に、孤独を復活させた。私の小説を読めるあの女だけが、私を唯一知っている人間なのだから。
前後左右を大勢の他人が通り過ぎていく。私の背中や肩にぶつかっていく者もいる。私は動かない点だった。右斜め前には巨大な横断歩道があり、人と車が交互に大量に行き交っている。そんなリズムや流れを無視して、私は立っている。
一人の若い男が信号が青に変わる直前に飛び出した。猛スピードで突っ切ろうとしたトラックは急停止したが、タイヤの跡とその上で二つに折れた若い男を残して、横断歩道の真ん中で点になった。辺りの流れが止まり、信号は青になったが、誰も渡らなかった。ちょうど腰と頭がぐしゃぐしゃに潰れており、横断歩道の特に白線の部分なんかを赤黒い体液が鮮やかに染め上げていた。夜だというのに、やけに鮮やかに。