松田龍樹公式HP

松田龍樹公式HP

雑感雑文

日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。

2005年01月

Return to:Archives

2005.01.31 Mon 今日で何かが変わるというわけではないけれど

小泉孝太郎の番組を見た。マンガ家の浦沢直樹氏がゲストで、氏の仕事場で小泉孝太郎と対談するというもの。

小泉孝太郎を見て思ったことは「自分を「主人公」と思い込めてしまえるだけの「才能」に恵まれた青年」ということだ。結局、彼にある、彼の「主人公」ぶりを支えているのは、すべて「与えられたもの」でしかない。彼としては貯金を切り崩して生きていくように、そつなく無難に生きていくしかない。

やっぱり「論理」や「理屈」は「弱さ」の現れなんだな、と改めて思った。浦沢直樹氏に「論理」や「理屈」はない。「体験」と「実感」に基づいた「態度」のようなものはあったとしても。

ぐんぐん自分が「小説」というものに興味ややる気を失っているのに気づく。浦沢直樹の言葉や存在は、100%俺に創作者としての資質がないことを指し示している。

「めしを食うように」創作する人間だけが創作者としての最低限の資格を有するのだ。「虚栄心」は空腹に勝てない。

親の子供への期待というのは常に「虚栄心」が付きまとう。というか、親の期待というものが虚栄心でしかないのだ。浦沢直樹氏の父親は、小学生の氏が書いたマンガをプロのマンガと比べて「背景が描けてない」とか「無邪気に」本気で批判していたらしい。そこに「じょうずだね〜」とか「将来〜になったら」とかの親の虚栄心はない。斎藤環氏も言っていた。「親は一般論で子供を叱る。それが間違いだ」「個人として、怒るべきだ」みたいなことを。やはり親は子供にとって暴力として存在すべきなのだ。浦沢直樹氏の父がそうであったように。子供はいつか「他人」という圧倒的暴力と立ち向かわなければならないのだから。

爆笑問題の太田光氏は小劇場系の役者が嫌いで嫌いでしょうがないらしい。ラジオで以前そう言っていた。まったく同じ嫌悪感を私も抱いている。結局、そこにあるのは、才能なし(容姿や演技力その他すべてを含めて)、自意識過剰、自尊心肥大、剥き出しの自己顕示欲でしかないのだ。

そして「役者と小説家はある日突然なれる」と保坂和志氏が言ったように、「小説家志望」とは小劇場系役者と匹敵するくらいの才能なし・自意識過剰過剰・自尊心肥大肥満・剥き出し皮被り自己顕示欲の持ち主なのだ。そう、太田光氏も小説家志望であるように、そこには近親憎悪的感情が多分にあるだろう。

才能なし・自意識過剰・自尊心肥大・剥き出しの自己顕示欲・就職負け組・かじれるほどの親のスネもなし、となるとフリーターだ。そして多くの場合、小劇場系役者=小説家志望=フリーターなのだ。本質は一緒だ。

なぜ評論家になる。なぜ実作者に踏みとどまらない。すべては「弱さ」のせいだ。

「断片」では作品にならないし、作品ではない。

「死」は経験できない。常に想像的なものである。だからフィクションにおいてもっともリアリティを持ち得る。

すべての「理由」は嘘くさいと思いませんか? たぶん常に「理由」とは「言葉」だからでしょうね。なぜ人は「理由」を常に用意しているのか。例えそれがどんなに巧緻なレトリックを使って表現されていたとしても、嘘くささの補強でしかないような気がします。

2005.01.29 Sat スティーブン・スピルバーグ『ターミナル』

オールナイトで。

ま、『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』の流れなんでしょう。確か阿部和重氏だったか、スピルバーグの映画は基本的に「父子」の話だというのを聞いたことがあります。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』ではトム・ハンクスとディカプリオの関係が疑似父子になっているとか。

そういう父子関係というコードを持ち込めば、『ターミナル』もそういうふうに解釈できます。っていうか、主人公のビクター(トム・ハンクス)は亡き父との約束を果たすためにニューヨークにやってきたのですから。また亡父というのが、祖国が亡くなったのともダブります。つまり、「失われた祖国」とその国民であるビクターの関係も「父子」なんです。その関連で言えば、「ターミナル」というのは「母」なのかな(母港っていうしね)、と。ターミナルに足止めを喰らったビクターがターミナルにおいて適応・自活していく姿は、まんま子供が「世界」という環境に対応しながら成長していく姿とダブります。もちろん、そこには周囲の人々の協力があるのですが。言葉を覚え、職を得、友人を得、恋人を得る、まんま「人生」です。

いちおう一本の長編映画ですが、「ターミナル」という名の短篇集(オムニバス)的な作りになっているので、そういう意味で小品的に楽しめるとも言えるし、逆に、大きなカタルシスはないとも言えます。良くも悪くも気楽に見れる作品です。(でも、本当はものすごいヘヴィーな内容を隠し持っているはずなんですが…)。

インド人のおじさんをどっかで見たことあるなあと思っていたら、ウェス・アンダーソン監督作品に出てたみたいですね。いい味出してます。

 *   *   *

小説のようなもの(51)
フェードアウトです。

2005.01.20 Thu 映画『オールドボーイ』

『ミスティック・リバー』をやってた映画館で『オールドボーイ』というのをやってたので、観に行く。韓国映画、原作は日本のマンガ、クエンティン・タランティーノが絶賛。前情報はそのくらい。パンフとか買わなかったので、監督名とか役者名は不明。役名ももう忘れた。

いちおうミステリー的な要素もあるので、「謎」はバラさないように書きます。まあ例によって、その「謎」を知っていたからと言ってこの映画を見る必要がないというわけではないですが。勘のいい人なら半分ぐらい見れば、あーそういうことね、とわかるのでは、と思った。ただし、私は脳が腐乱しているので、みなが謎に気づくであろう平均的タイミングの0.5秒前にわかりましたが。映画は頭を空っぽにして見るのがいいんだなと思った。ただし「空っぽ」にできるかどうかは、本人の意志では操作できない。

ちなみに、「オールドボーイ」というのは、15年間監禁された主人公のことではなく、その主人公の仇役のほうのことを指しているようだな。

タランティーノにしても阿部和重にしてもそうだが、自分の嗜好というのはいわゆるB級的なものに向いているのだな、と最近自覚。「B級」とは私のイメージで言うと、田舎のデパートの最上階にあるレストランでハンバーグランチとメロンソーダとアイスクリームを食べて、隣の遊技場でコインゲームをして、何かおもちゃを一つだけ買ってもらえる日、の気分、のことだ。

原作がマンガだから、ストーリーや演出(映像?)が戯画的だとか言っても、半ば当然なのかもしれない。暴力シーンやまあエグっぽいシーンも多数出てくるが、リアル志向というよりは、『キル・ビル』で腕や首が飛びまくるのと同じ感覚だと思う。血もいっぱい。

例えば、阿部和重『インディヴィジュアル・プロジェクション』において物語をB級に仕立てているのは「スパイ(学校)」とか「プルトニウム」という小道具だろう。『オールドボーイ』においては、それは「監禁」と「催眠術」(と、まあ「近親相姦」もね)だ。

まあ、気取った映画なら「監禁」や「催眠術」などの、物語上の機能的役割を果たすギミック(?)は使用して欲しくないのだが、まあ、B級だからOKなんだろう。逆に言うと「監禁」や「催眠術」(や「近親相姦」)にきっちり理由や説明を付ける必要もないと思う。っていうか、『オールドボーイ』は「なぜ15年も監禁されたのか?」の謎が解けなくても充分おもしろくつくれるはずだ。映画のおもしろさって全体ではなく細部なんだろうから。なんでもそうか。

ストーリー的なものは原作ものということもあり、まあどうでもいいのだが、役者さんたちは良かったと思う。正直、韓国映画は『JSA』(だったけ?、38度線のやつ)しか観たことないのだが、演技や演出、ストーリーにいたるまで、「大味」というのが、個人的な印象だ。『オールドボーイ』もそうだ。しかし、主人公の男の人とその恋人役(?)の人、あと仇役の人、すべてよかったと思う。韓国ブームの理由として挙げられた「顔は似てるけど、外国人」というのが、その距離感の良さがわかった気がした。恋人役の女性は、最初、ゆみかおるに見えて、次に高橋マリ子に見えて、途中、上原さくらに見えたり(あと沢口靖子)と、まあお人形さん系の顔なのだが、単純にかわいかった。セックスシーンもあるのだが、非常に良かったと思う。もちろん官能的でもあるのだが、愛が溢れる感じがよかった。『完全なる飼育』(竹中直人、小島聖)を観たときも思ったが、映画におけるセックスシーンで最高の体位はやっぱ座位だな、と再確認してしまった。確かインドの神様かなんかだったと思うが、雄と雌のゾウが抱き合って交合している像があって、これが人間の理想の姿(?)だとかなんとか言ってるのがあったが、それを思い出す。

っていうかね、俺はこの映画で描かれる2パターンの「近親相姦」についてOKだと思うのだが(近親相姦がOKなのではなく、この映画で描かれている限りにおいては、そういう文脈でならば)。近親相姦がタブーにされているという習俗がどの民族にも共通してみられることを発見して構造主義の嚆矢となったのは、誰だったっけ? まあ近親相姦のタブーは「知恵」であって「本能」ではないということなんじゃないかな。まあ、物語をドライブさせるためだけの近親相姦だから、そこに倫理観とか哲学的考察は必要ないのだろうが。

最後に、メッセージとか言うと若い人には嫌われるけど、この映画のいっちゃん言いたかったことは、「他人の痛みは痛くない」ってことなんじゃないかな。んで、もう少し付言して「他人の痛みは痛くない。せいぜい自分の味わったことのある痛みを思い出して想像してみてあげるくらいだ」。んで、もうちょっと「だが、その他人ほどの痛みを味わったことがないのなら、いまからお前にも同じような痛みを与えてあげよう。これで少しは痛みがわかるだろう?」って感じかな。

たまには映画も観るもんだ。(レヴィ・ストロースだ!)

 *   *   *

小説のようなもの(51)
復活の日は近い

2005.01.18 Tue フリーターとは俺だ

試験のために、無理矢理勉強する。はっきり言っておそろしいまでに頭に入らない数学的抽象的な諸々。いや、それでもだましだましやってるとなんとかなるもので、特に2桁の割り算とかありえないくらいに間違ってばかりだったのだが、やってるうちにのってきて、なんか長年使ってなかった脳の部分がギコギコ回転しはじめた感じで、ちょっと楽しかった。

斎藤環氏の文章で知ったのだが、想像力と数学的な思考には親和性があるらしい。なんでも『不思議の国のアリス』を書いたルイス・キャロルは数学者だったとか。なんかさもありなんな話だと思った。聞いた話だと、世界的映画監督北野武氏も理系出身だし、うわさだと数学だけで大学に受かったようなもんらしいのだ。うーん、物語や奔放な想像力というのは、数学と近いのかもしれん。

そういう前知識があったからかどうかわからんが、最近、ぴくりとも動かなかった物語への想像力が、なぜか数学的な勉強をしているあいだ、駆動しはじめたのだ。うーん、単に脳を使ったから、誘発されただけだろうか。

ドクター中松氏はアイデアを思いつくために水中で考え事をしたりしていたらしい。試験が終わったら、あっしも何か物語を書きたいぞよ。そのためには、「計算ドリル」でもやったほうがいいかもしれん。昨今の脳ブームに触発されたみたいでイヤだが。まあ、脳が退化して使い物にならないよりはましだろう。

朝倉祐弥『白の咆哮』を買ってきた。ハードカバーを買ったのはひさびさだ。落ち着いたら読むのだ。

 *   *   *

小説のようなもの(51)
充電中

2005.01.15 Sat やっぱり文学が好き?

学生最後となるべく試験勉強に励んでる今日このごろなんですが、やばいです。全然、わからないのです。僕には。もう試験勉強するには脳が腐りすぎてます。まったく新しいことが身に付きません。読んだそばから忘れてます。まじで卒業が危ういです。先生方の温情にすがるしかないかもしれません。はあ。

まだ単行本では読んでいないのですが、斎藤環『文学の徴候』に「本職の」批評家たちからの批判的文章が寄せられているようです。まあどっちが「正しい」かなんて僕にはわかるわけないのですが。まあ、門外漢にいろいろ言われて人気もあって、「本職」の人は心中穏やかではいられないのでしょう。まあでも、「本職」だろうが精神分析医だろうが音楽家だろうが脳科学者だろうが建築家だろうが映画監督だろうが新聞配達夫だろうが、「やっぱり文学が好き」なんですよね。なんだかんだ言って、みんな文学が大好きなんです。しかも、一番、ね。なぜなら、文学は「こうでなければいけない」度(売れる売れないすら、度外視されるほど)がもっとも低いんですから。「文学は終わった」といいつつ続けてる強かさ。21世紀は「なんでもあり」しか生き残らんのでしょう。識らんけど。

では最後に、大先生のありがたいお言葉「経済ってのは、毎日腹がへることなんだなあ」

 *   *   *

小説のようなもの(51)
休眠中

2005.01.13 Thu 芥川龍之介賞受賞

阿部和重氏が「グランド・フィナーレ」で芥川賞を受賞されたようです。阿部氏のことをいままで知らなかった方にも氏の作品が届くことを思えば、よろこばしいことだと思います。すでに阿部氏はデビュー10年をへており、受賞したことにより何か決定的な影響を受けることはないと思います。これからも思うままに作品を書き続けて欲しいです。

作品レビュー

『インディヴィジュアル・プロジェクション』
阿部氏がブレイクするきっかけとなった作品。バリバリのB級映画のような作品。おもしろいです。心が柔らかいうちに読めば陶酔感は必至。

『アメリカの夜』
デビュー作。東浩紀氏の批評などと併読するとより楽しめます。『新世紀エヴァンゲリオン』とともに90年代半ばに行われた80年代の総決算とレクイエム(?)的作品。

『ABC戦争』
N国Y県H市近辺で起こった不良同士の戦争。声に出して読みたい小説。

『無情の世界』
短篇集。「トライアングルズ」「無情の世界」「塵」(←字が合ってるかどうか不安。「みなごろし」と読むらしい)。「無情の世界」が特におすすめ。阿部氏の作品すべてに言えることだが「猥雑」です。福本伸行『銀と金』の併読をおすすめします(ニヤリとできるから)。

『公爵夫人邸の午後のパーティー/ヴェロニカ・ハートの幻影』
短篇集。2作。「公爵夫人」を読んだ直後に書いた文章を転載します。

 *   *   *

「公爵夫人邸」と「ゴトウの別荘」での出来事とその前後が交互に描かれている。最後にはそれらの話が一つになる。「公爵夫人邸」の話と「ゴトウの別荘」の話には類似点がある。

「公爵夫人邸」の登場人物
楠木夫人(セーラームーンのコスプレをしている)
楠木夫人の夫
招待状をわたした男
公爵夫人の暗殺を企む男(黒ずくめの男、オカマのよう)
パーティーの客たち(ガンマンかギャングの恰好、公爵夫人の気を惹くため)
公爵夫人(どうも、その日は誕生日のようである)
「ゴトウの別荘」の登場人物
ジュンコ=女子高生=セーラー服、その日が誕生日
ゴトウ=銃の密造=ガンマン
猟師姿の老人
四人の銀行強盗=テロリスト=ギャング
クドウ=ゴトウの部下、テロリストの親玉
若い男=薬の売人

共通の出来事
壁(ガラス)が割れる。

解釈のヒント
仮説:公爵夫人=ジュンコ=セーラー服
象徴:『「カラオケ・ボックスの宣伝チラシ」である「一万円を模した」「紙切れ」』とジュンコと若い男が持ち出した大量の一万円札。
『マルホランド・ドライブ』的解釈
これは、物語のねじれを利用した作品。妄想と現実の混濁。
語り手(の一人)(もしくは、妄想の主体)は老浮浪者??
老浮浪者が、現在、見ている光景=車とバイクの正面衝突事故 一眼レフを首からぶら下げた(そのために猫背な)カップルのうちの女が、その事故を見て「あれはけっきょくふたりとも死んじゃうのよ」と言い、(柄の悪い、痩せすぎの、ぶつぶつ文句をつぶやく)チラシ配りの男の肩にぶつかり、男から殴られている。

位相――同じ言葉、文章でも場合によって意味が違う――おそらく、「――」と「――」で挟まれた文章は、その物語の言葉ではないもう一つの物語の言葉だろう。ただ、それが、見事に違和感なく溶け込んでいるが。

15頁・12行:「――ストッキングははいていない――」は、おそらく、もともとは楠木夫人のことである。が、ここの女子高生のこととしても違和感ない。

ジュンコとゴトウの関係は「その日知り合ったばかり」(21頁・1行)である。楠木夫人と招待状をくれた男との関係も「その日知り合ったばかり」であったはず。つまり、テレクラで知り合ったということ。

楠木夫人、口から酒を吹きだす。(21頁・8行)

楠木夫人は、「おたのしみ」(つまりは、セックスなどの性行為)目的でパーティーにやってきた。ジュンコはテレクラで知り合ったゴトウと別荘に〈セックスというか援交〉目的でやってきた。

「宴会主義に対して闘うべし」

「見知らぬ人物が救いの手をさしのべてくれる」(23頁・6行)楠木夫人に招待状の男。ジュンコに若い男。

ハンターたち 猫背 腕をきれいなL字にまげて

「ギャングスター」=「強盗スタイル」の恰好をした、「帽子をまぶかにかぶりわずかに両眼をのぞかせながら逆三角形にたたんだ白いスカーフで覆面して」いる招待客たち。「黒ずくめの男」もその招待客たちと同じで、公爵夫人に憧れている…が、「宴会主義に対して闘うべし」という使命=「公爵夫人暗殺」を目的として、パーティーに忍び込んでいる。「黒ずくめの男」は喫茶店で招待状を盗まれている。「黒ずくめの男」が屋敷に問い合わせると、「黒ずくめの男」は「招待されていない」と言われる。「黒ずくめの男」は招待状を盗んだのが楠木夫人だと思っている。

仮説1
〈公爵夫人邸のパーティー〉の物語は、ジュンコの妄想である。
「拘束服を着たいかにもあやしげな男」=「パーティーの招待状をくれた一週間前の遊び相手」
「スクランブル交差点」で「楠木夫人」と「男」の乗った車が、「ジュンコ」と「若い男」の乗ったオートバイとぶつかった。
「金色に光る鉛筆の尖端部分のようなもの」
「全身黒づくめの服装で年恰好は二十代前半くらいにみえる若い男」と「毛皮のコートを着たセーラー服姿の女子高生らしき少女」

仮説2
「老浮浪者」が目の前で起きたオートバイと車の衝突事故を見て、そのオートバイに乗っていた「女子高生らしき少女」を主人公に〈ゴトウの別荘〉の物語を妄想し(またその妄想の発端は、黒塗りの外国製高級車に乗りこむ女子高生を目撃したところからである。)、その妄想の産物である女子高生「ジュンコ」が妄想しているのが「公爵夫人邸のパーティー」の物語である(というのも、ジュンコは別荘でセーラームーンを観ている)。もちろん、それらすべてを妄想しているのは作者・阿部和重なのだが……

「痰を吐き」、「放屁する」=妄想する。

「半ドア」が妄想と現実の間にあることの比喩。完全にドアが閉まり、車が滑らかに発進することが、〈ゴトウの別荘〉の物語がはじまっていることを表わしている。

 *   *   *

いま読むと、意味不明。

『ニッポニアニッポン』
トキを殺しに行くひきこもり少年の話。「グランド・フィナーレ」との関連アリ。

『シンセミア』
大作。電車で読むには不向き。一気読みにも不向き。「神町」と田宮家をめぐるサーガ。人がいっぱい死にます。

最初に読むのにおすすめは『無情の世界』かな。短いし、濃縮度合いが濃いです。

 *   *   *

小説のようなもの(51)
休憩中

2005.01.03 Mon リクツVSリアリティ

正月早々風邪で寝込んでいるのは誰でしょう?

小学校低学年のころだったか、祖父母の家で暮らしていたときのクリスマス、手作りでサンタの衣装やトナカイを作って祖父母の前でショーをしたことがあった。いらなくなった座布団か何かの綿でヒゲを作り、赤いトレーナーとズボンを着て、それも綿で装飾した。トナカイはダンボールをいくつかくっつけて、包装紙か何かを巻いただけだった。くす玉も作ったが、これはうまく割れず失敗した。祖父母に会うとよくこの思い出話をされる。あのころから私が、工作やマンガを書くのが好きで「アイデアマン」だったという話だ。あのサンタを作るとき、私にあった気持ちは、祖父母を喜ばせたいという思いだったと思う。

モノを作る喜びは、大きく二つあると思う。一つは、やはり誰かに喜んでもらいたい、褒めてもらいたい、という他者へ向けての思い。もう一つは、作っている間に現れるアイデアの連鎖とそのアイデアが生まれる瞬間のダイナミズムだ。いまだに、何かを表現するときのエネルギーはその二つから生まれている。「誰かを喜ばせたい」とかアイデアの生まれるダイナミズムに比べれば、「自己表現」という表現の中でも最下層の欲求がとても矮小なものに思えてくる。「自己表現」は結果であり、他人が指摘するものであって欲しい。でなければ、あまりに憐れでみすぼらしい。私のように。

祖父母を喜ばせようとサンタの衣装を作っていたあの気持ちで、何かが書けたらステキだと思う。例えばそのときは「祖父母」であったように、いま喜んで欲しい人間の顔が浮かぶかどうか、それは表現者にとってかなり重要なことだろう。もちろん、過去の自分や未来の自分であってもいいのかもしれない。

花屋でバイトするようになってから気づいたのだが、花屋に並ぶ花々はどこか人工的な美しさがある。色の鮮明さや造形の端正さにおいてだ。昨日、墓に活けてある花を見て、美しいのに感心していたら、造花だと教えられた。よくよく見て触ると、一部の花だけが生花で残りは造花だった。造花はより生花のように振る舞い、生花は人工的に改良されるたびに造花のようになっていく。もはやどちらも人間によって作られた「人工物」と言っていいかもしれない。その両方(つまり、生花のような造花と造花のような生花)が似ているということは、生花でも造花でもない、人間の持つイマジナリーな「花」が理想として思い描かれているということだろう。そう、ギリシア哲学で有名な「イデア」という概念を想起せずにはいられない。

人間はやはり現実を見ながら、どこかイメージの世界を構築し、生きているのだ。そういった無意識のイメージ世界が、様々な現実の面に顔を出す。というか、すべてがそうだと言っていい。芸術全般そうであるし、プロレスというのもそうだし、人間関係というのもイマジナリーなものだ。

マンガやアニメが黒い線で描かれても不自然じゃなかったり、日本のリミテッド・アニメが、目と口を動かせば事足りると示してみせたのは、人間が現実を見ながらもイメージの世界に生きていることを示唆している。マンガやアニメで「空を飛ぶ」ことが繰り返し描かれ、そういった作品が人気を博すのは、やはり「空を飛ぶ」ことがイメージの世界ではリアリティを持つからだろう。

宮崎駿監督作品『ハウルの動く城』を見ながら思ったことがある。それは主人公であるソフィーが魔法で老婆に変えられてしまったときのことだ。「魔法」によって老いた姿を見て、私が瞬間的に思ったのは、魔法による老いが現実の老いの本質を浮かび上がらせたということだ。のちにわかるのだが、ソフィーは老いてしわくちゃになり、白髪になり、腰が曲がるが、歯は無事だ。アニメで「老い」を描くとは、しわと白髪と曲がった腰のことなのだ。だが、現実の老人はもっと複雑に「老い」を身にまとっている。シミがあり、目は濁り、少なからぬ傷もある。しわはどういう表情をよくしたかによって場所も深さも変わってくるし、虫歯や歯槽膿漏も手入れや医者の技術に依っている。同じ人間でも人生が違えば老い方も違うということだ。魔法による老いはそういった人生の経験を抜かした、純粋な「老化」でしかない。あるいはアニメというものが「老人」は描けても「老いた人間」は描けない、ということをあらわにしたのかもしれない(アニメに限ったことではないかもしれないが)。そしてそれは、私たち「若者」が「老いた人間」を「老人」としか見れないことを表してもいる。

風邪で寝込んでしまったため、物置代わりに使われている部屋で寝ることになった(静かだから)。あたりまえだが、物は動かない。私たちが飯を食ったりしゃべったり、歩き回っているときにも、その物置部屋の物たちは息もせずじっとしている。私はその部屋にふとんを敷き、横になり、身動きもせず寝る。そうやって寝ていると、自分も物になったような気分になってくる。自分の肉体というものが存在感を失くし、部屋中に意識が充満するようだ。物は動かない、考えない。それはそれで、何かスゴイことのように感じてしまうのは、風邪のせいだろうか。

 *   *   *

小説のようなもの(50)
 女の髪の毛は腰がなく、夜道を歩いてきたせいか、しっとりと濡れていた。女が立ち上がり、髪の毛が私の手をするりと抜け出した。ようやく輪郭だけが見て取れる女のシルエットが半回転し、私の方を向く。女は手を伸ばし、一歩近づく。近づいても輪郭が余計にあいまいになるだけで、姿を見ることはできない。頬のそばを風が通り、冷たくやわらかい五本の指が接触する。女は両手で私の顔を包んだ。ひんやりとした指が頬に食い込み、私が半ば上気していたことを教える。しばらくそのままにしていると、女の指は溶け私の肉と同化しはじめた。熱く濡れたやわらかいものが私の唇を舐めた。女の鼻が私の鼻に触れていた。

2005.01.01 Sat ヤツシロ・サーガ

正月というのは、新年を迎えると同時に、自分の「生まれ」というものを再認識するときでもある。何が自分を創ったか。その「血」と「土地」を見るにつけ、否応ない剥き出し自分を思い出す。どうあがいても田んぼの中で育ち、アカデミックな雰囲気とは縁のない両親のもと育ったのだ。もちろんたくさんのものを受け継ぎ、与えられ、そして、与えられなかった。

ただ人間は成長する。「成長する」という意志さえ失わなければ。成長とは変化のことだ。剥き出しの自分を鍛え上げることだ。骨格や筋肉の質は変わらなくても、骨を丈夫にしたり、筋肉を鍛えることはいつになってもできる。

もう学生ではない。学生は「自由」だ。ゆえに何をしていいかわからない。学生でない剥き出しの人間は何をすべきかわかっている。「生きる」のだ。人生とはたった一度、その人だけの特別な何かだ、とか寝惚けたことを吐かす暇がなくなる。人はどこまでも凡庸な人生を送る。たとえば「結婚」というものはありふれている。あるいは「結婚しないこと」や「離婚」「不倫」だってそうだ。ただ、それらの凡庸で陳腐な人生を形作るイベントが「特別」に感じてしまえることが、「人生」なのだ。