
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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いや、ひさびさにおもしろい本に巡り会った。久方ぶりに入った大型書店。買うつもりはなかったのだが、文庫本コーナーで平積みされていた『邪馬台国はどこですか?』というタイトルに惹かれて、思い切って購入してみた。 というのも、日本屈指の小説家を自認するワタクシ、中年以降からは歴史小説に手を染めようと高校のころから決意していたのです。まあアイデアは山のようにあって、ただ時代考証というか資料集めというか、そういうのに手間取るからのちのちでいいやって思っていたのです。そのころになれば大作家、アシスタント、編集者は山のように侍らせていることでしょうから、「あの資料取ってきて」みたいな感じで楽かと。 その未来の歴史小説の一つに「邪馬台国」を舞台にしたものを考えていたので、この『邪馬台国はどこですか?』に惹かれたんですね。
いやいや、これはほんとにおもしろい。 たまにミスターマリックの手品を見破る番組とかやってますけど、手品を見破るコツって、物理的にあり得ないことをあり得ないって思えることなんですよね。例えばコップを100円玉が通過するとして、まず「通過しない」というところから始める。当たり前だけど、これは難しい。例えば「イエスキリストは復活した」というのを、普通の科学的常識で、まず「死んだ人間は復活しない」というところから始めるように。
歴史好きじゃなくても楽しく読めます。歴史の勉強以上に、「発想」の勉強になります。
疲れてるときは、アニメが見たくなる。
『伝説巨神イデオン<接触篇>』『MEMORIES』『イノセンス』。全部SFの範疇に入る作品ですね。
『イデオン』はガンダムの富野由悠季、『MEMORIES』は大友克洋、『イノセンス』は押井守。
『イノセンス』は圧巻だった。おもしろくない、みたいな感想を聞いていたのだが、いやいやアニメの極北をなす作品だと思う。つまりは、「ダッチワイフが人間になる(なった)日」って話で、逆に言えば「人間がダッチワイフになる日」ってことでもある。想い出したのは、以前書いた造花と生花の話。前も書いたが、未来、セクサロイドをもっとも巧みに作れる国は日本以外にないね。ロボット工学、オリエント工房、舞城王太郎。完璧じゃないですか!
ジャパニメーションに不可欠なのは、斎藤環氏などが指摘するように、美少女とメカ。広くSF(ファンタジー?)の範疇に入る作品になる。
宮崎駿、押井守、大友克洋、富野由悠季、庵野秀明とかの作品の特徴は、@ロリコン(美少女)度、Aメカ好き度、B哲学志向度、Cオタク友好度の濃淡でそれぞれ表されるのじゃないかと思った。
@ロリコン度は、1宮崎駿、2庵野秀明、3富野由悠季、4大友克洋、5押井守
Aメカ好き度は、1大友克洋、2宮崎駿、3富野由悠季、4押井守、5庵野秀明
B哲学志向度は、1押井守、2富野由悠季、3庵野秀明、4大友克洋、5宮崎駿
Cオタク友好度は、1庵野秀明、2富野由悠季、3大友克洋、4宮崎駿、5押井守
ま、どうでもいいや。
ラジオを聴いていたら、最近のギャル雑誌のセックス特集が過激すぎて規制の対象になるかもと言っていた。内容も紹介していたが、「エロい」というよりは、実戦的ノウハウ重視という感じ。ただ、好きな彼氏のために、セックスの手練手管によってその彼氏をつなぎとめる(機上位での腰の使い方、マグロにならない方法、みみずがどうのかずのこがどうの、四毬を浴する(書いてて恥ずかしい)方法などなどe.t.c...)というのが基本的なスタンスとなっていることのほうに、私は意外さを感じた。「ギャル」っていうのは男に対して高飛車、高圧的というイメージがあったからだ。なるほど、「ギャル(女、男)」とか「おたく(男、女)」とかいうトライブ(種族)は関係なくて、結局「モテる/モテない」の区別しかないのだなと思った。『魂の労働』で触れられていたように、例えば、昔の差別の仕方は「白人/黒人(有色人種)」だったが、現在では有色人種でも金持ちで地位や名誉を持っている者もいて、白人でもホームレスの人間はいる。人種ではなく「富める者/富めない者」のような二極化の方が著しい、みたいな。つまり、ギャル/おたくの区別よりもモテる/モテないの区別の方が強力で、「雑誌」とは常に(大半を占める)モテない側への強迫観念・啓蒙として迫ってくるということだろう。『アンアン』とかがその先駆けなのだろうが、女性の「性」にたいする態度が男性並みにおおっぴらになってきた、ということだは、必然、「モテない」女というものがあぶり出されてしまうことでもある。「モテない」ことは男性の専売特許だったはずが、女性にも解禁されてしまったのだ。そして「モテない」ことを自覚してしまった女たちは「モテる」ためのノウハウを雑誌から学ぼうとする(その昔、男性がそうであったように)。その昔、女性が恋愛や性に積極的であることはふしだらだとか、ある種そういう欲求(性欲)は「ない」ものとされてきた時代は、常に「性」的関係は男性側からのアプローチとして始まるものだった。それほど昔ではない80年代に始まった(そして今でもときおりリバイバルされる)「ねるとん」の最後の告白が男性からのみされることがそれを顕著に現している。気づいている人も多いと思うが、あの「ねるとん」における告白においてもっともみじめなのは、フラれた男性ではなく、誰からも告白されなかった女性だ。最後の男性が告白相手の前に立った瞬間、よく見ていると、その他の女性(告白されない女性)たちはさーっとフレームから消えていく。男性から告白(求愛)されない女性は「なかったこと」にされているのだ。
なるほど、ギャル雑誌。なるほど男女平等。恋愛、そしてセックスが女性のものになったとき、もっと下世話に言えば、男性並み(あるいはそれ以上)に性欲が女性にもあるのだよ、と公言してしまったときに訪れるのは、「男性/女性」の区別(この場合、女性の買い手市場)ではなく、自由恋愛競争における「モテる者/モテない者」の格差だけ、だったのだ。そして、お金がそうであるように、モテる者たちはモテる者たちの中だけで需要と供給を満たすことができる。モテない者たちは血反吐の努力をし、奇跡的にモテる者に愛される幸運を得るか、モテない者同士による妥協的恋愛に納得するしかないのだ。
そのギャル雑誌には『「ヤリ逃げ」されないため』の方法が書いてあるらしく、それを読んだパーソナリティが「ってことは、この雑誌はヤリ逃げされたような女性が読んでるってことなの?」と突っ込んでいたが、まあそうなのだろう。
セブレのためのプチコスメ情報:
洗顔後は精製水で肌を整えよう! ドラッグストアで60〜100円で売ってるよ。
深夜、再放送のテレビドラマなんかをやっている。テレビのリモコンはだいぶ前から壊れており順送りにしかチャンネルを変えられない。切り替わった画面に、鮮やかで濃いブルーの空。そこに上昇していくカラフルな風船の束。手頃な映像美を追求する自主映画なんかに使えそうな画だな、などとどうでもいいことを考える。と、同時に、古い記憶映像が甦り、小学生のころくらい、週末祖父母の家に毎週泊まりに行っていたのだが、祖母とたまに行った田舎のデパートの自動風船販売機の風景やそれに対する幼い私の思いなんかを思い出す。その自動風船販売機(もちろん幼い私はそんなふうにその機械を呼んでいたわけではなく、いま思いついたばかりの造語である)は透明で、中にしぼんだ風船がずらっと並んでおり、何百円だか投入すれば、一つ風船が自動的にふくらみ、下の取り出し口から取り出せるというものだ。いま思えば、幼いころ、みなさんもそうかもしれないが、「風船」というものはいろんな意味で非常に魅惑的な遊具だった。いや、なぜあれほど風船が魅惑的だったのか、私は空に浮かぶ風船の束の映像を見て、初めて気づかされた。その自動風船販売機に対する私の幼いなりの「思い」出とは、まず、その自動風船販売機で購入した風船は「浮かぶ」ということだ。通常、おもちゃ屋や文房具店なんかで購入するしぼんだ風船は、自分の息でふくらませても、浮かばない。もちろんそれは中に入っている気体が別物なんだろうということぐらいは私もわかっていた。幼いころ、浮かばない風船よりはやはり浮かんでくれる風船の方が魅力的なものだ。そして、浮かぶ風船は例えば街角なんかで何かの販促品として配られているか、あるいはお祭りの出店なんかの銀色のものくらいしか入手する機会はない。だから余計にその田舎のさびれたデパートのおもちゃ売場の端っこのエスカレーターのすぐそばに設置されていた「浮かぶ」風船販売機は、非常に誘惑的だったのだろう。ただこの風船を祖母にねだることは、幼い私にもためらわれた。なぜならその風船を手に入れても、誤って空中に手放してしまうか、そうでなくても3日ともたずしぼんで浮かばなくなってしまうとわかっていたからだ。そしてもちろんそれを承知の祖母も「もったいない」と口にするだろうから。あるいは、一袋いくらで売られているただの風船に比べ、その浮かぶ風船は割高だったはずだ、といま推測することもできる。私がそのデパートに行き、風船を欲しいと思い、実際手に入れたのはほんの数回だけだったと思う。それも学年を重ねるにつれ、もはや欲しいと思うことを恥じていた気もする。
風船というもののもつ一般的なイメージ。その中にはノスタルジックというのも含まれるかもしれない。にしても、ひさしぶりに忘れていた記憶映像とそのにおいや思念が再生されたことが、半ば心のサプリメントのように、清涼剤のように働いたことは、少し救われた気分だ。
以前、終電間際の電車で聞いた「会話」について触れ、多少再現のようなこともしたのだが、やはりあれは私にとって、非常に印象的な会話だった。メンバーは5、6人で内1人だけが女性で、その女性だけが初対面で、男性メンバーの数名とだけ面識があるというような関係だった。女性は今春から働く、おそらく大学生で、男性たちも同い年か同年代だと思われた。
ヴォイスパーカッションとか一時期流行ったアカペラグループの歌なんかを連想させるような、リズミカルで音楽的な会話だった。そしてそれは以前読んだ(私としては唯一の)保坂和志氏の小説『プレーンソング』のラスト近くの海上での会話を連想させた。
「ほんらい、コミュニケーションの達人とは、無内容な話をえんえんと続けられる人のことだ。彼は意味の希薄さを逆手にとって、親密さやおかしさといった文脈だけを、語りの空間にまき散らす。彼が何を話したかはすべて忘れ去られてしまうが、そのコミュニケーション空間の居心地の良さゆえに、誰もが彼に好感を覚えずにはいられない。」(斎藤環『文学の徴候』第九章「抵抗する猫システム」より、保坂和志についての評論)
私が何度か言及したことのある「中身のない会話」という思想と「同じ」なのか、どうかわからないが、私は「同じ」だととった。確か私は現世をタフに生き抜くためには「中身のない会話」というスキルが必要だ、とか言ったはずだ。フラジャイルな人間は「中身のある会話(=目的のある会話)」をしてしまう。そして「目的のある会話」は常に神経症的で袋小路に陥り、良くて断念(諦念)、悪くて自己破壊にしかならない。
上記の本で斎藤環氏は保坂和志氏が自意識や精神分析に抵抗し、システム論的小説を書こうとしている、みたいなことを書かれているが、そうなんだろうなと私もぼんやりとだが理解できる(「システム論」って何?って感じもあるが)。私自身実生活においても書こうとする小説にしても、クソの足しにもならない自意識過剰と神経症的袋小路内省でいっぱいいっぱいだ。最近では「思考停止」という新スキルを身に付けたため、袋小路には嵌りにくくなったが、かといってタフに生き抜くとまではいっていない。
ほとんどの人間や小説は未だ自意識的だし精神分析的だと思う。これからもずっとそうだろう。例えばフリーターやニートの問題、ひきこもりの問題にしたって、どれも精神分析的で自意識の問題で、小説的に言えば「物語」の問題なんだと思う。それらは、保坂和志氏が嫌う三島由紀夫や太宰治らのように、決して解決されず、他者による救済か自己破壊しかない。そう袋小路。
できれば私も自意識的でない精神分析的でない病的でない世界観を提出できたらな、と思う。が、無理だ。不可能だ。もちろん「低能どもが喜ぶような「ヌルい」読み物」=つまり「石平」の書くような小説ですら、私には不可能だ。言うなれば、「小説家」と「私」を比べたとき、「小説家」の方が大きいのだ。等式で表現すれば「小説家>私」ということだ。私は保坂和志氏も言うように「役者」と「小説家」は資質として近い職業だと思っているが、以前、映画監督の林海象氏が、どんな役者を望まれるか、という質問に、「その役柄より、振れ幅の大きい役者」とかなんとか言っていたが、そういうことだ。もっと言えば、「役者」よりその「人間」が大きい人が、真に役者なのだ。わかるだろうか? 「役者であること」がその人間の実寸より大きい限り、その「役者志望」は永遠に役者志望なのだ。例えテレビドラマに出演しようとも。そう小説家も同じだ。「小説を書いていること」がその小説家志望を大きく見せているのなら、そいつは永遠に小説家志望だ。例え自費出版しようとも。私自身は愚かな小説家志望から脱却できたので、もはやこういった「小説家志望の煩悶」とは無縁の生活を送れるようになったが。いまだ役者志望や小説家志望といった神経症的袋小路に陥っている人が気の毒でしょうがない。
役者を目指しています、小説家を目指しています、と(若者が)言ったならば、人は羨望と妬みとリップサービスを交えて「へー」と言ってくれる。そしてその「志望者」たちは、「志望者」である限り、神経症的袋小路から奇跡的に飛躍できると信じられるし、あるいは袋小路的内省を常に「補償」される立場に安住できる。
対人関係において何か(誰か)を「演じる」ことと、おのれの個人史やトラウマを「物語化」することは、神経症的現世においては誰しもがその巧拙は違えど要求されるスキルだ。知らず知らずにその能力は鍛錬されている。だから、ある日突然「役者」や「小説家」になることが可能なのだ(と、保坂氏が言うのだろう)。
しかし、だ。どんなに「演じる」ことが上手かろうと、どんなに思い出の「物語化」が巧みだろうと、無自覚な演技者であり物語化されない会話の話し手たちにはとうてい及ばない。彼らは、強いとか弱いを越えて「無敵」なのだ。自覚しない限り。
猫は何も演じていないし、個人史も持っていない。同じように魚も物語を持っていない。「出世魚」とは人間的過ぎるネーミングだ。
記憶があるから過去があるし、過去があるから未来が生まれ現在が規定される。時間が生まれると空間が把握され、名付けが行われ言葉が生まれ、コミュニケーションが生まれ、内省も起こる。
冒頭の「風船」の話ではないが、記憶や思い出は、おそろしいくらいのリアリティをもっている。それは夢や死のリアリティにも似ている。
何かを演じていることや、小説を書いていることが、その人にとって何かの慰めや癒しになっている間は、決して本当の「演技」や「小説」が顕れることは、ない。なぜそんなことをいちいち考えたり書いたりしているのか?それはやはり私が自意識的檻に囚われ袋小路内省の愛好者だからだろう。
いや、それで死なずに生きていられるのだから、よしとしなければ。壊死なんてむしろ快楽なのかもしれないし。
これからの「雑感雑文」予告。
・一周年を記念して、「傑作選」を選出します。ご意見お待ちしています。
・そして新企画「料理本で印税長者」と題して、「料理本」出版のための原稿を随時アップしていきます。お楽しみに。
『小説トリッパー』2005年春号を購入。大塚英志氏と斎藤環氏の対談を読む。北田暁大氏や斎藤環氏の連載評論を読む。
デジカメの普及が心霊写真に壊滅的打撃を与えた、みたいなことが、斎藤氏の評論に書いてあり、おもわず、そう言えば!と感心してしまった。
僕ら世代だと人面犬とか、小学生のころ盛り上がりましたよね。僕は恐がりで遠ざけていましが、心霊写真でも都市伝説でもUFOでも、あのリアリティってやっぱスゴイですよね。
大人になるにつれて削られていく感性って、「恐怖」と「恥ずかしさ」じゃないかと最近思います。
だから、たまに「怖い」とか「恥ずかしい」とか感じられる瞬間があると、新鮮で心に風が吹いたような気分になれます。
桜が満開です。25歳「大人計画」本格始動です。
つまり、学問・経済・恋愛・芸術の四本柱のことです。
すべては有機的につながり相乗効果を発揮しつつ、「私」という虚構を彩ってくれることでしょう。
みなさん、よき新生活を!
今日、電車に乗ってたら若者がやたら分厚い本を読んでいた。開いたページを覗き込むと、『宇宙倫理の書』というタイトルらしいことがわかった。うーん、あっち系なのかな、と思って帰宅後、ネットで軽く調べてみた。肥田春充という人が著者らしい。ま、気になった人は自分で検索してみてください。
日常生活を生きていると稀に「すべて充たされている」気分になる瞬間があります。完全なる幸福と言ってもいいです。そういう幸福感を感じると次の瞬間には必ず「死」とか「世界の終わり」という想念が浮かんできます。ま、悩みたがりですから。ま、心がバランスを取ろうとしているのでしょう。
THE BACK HORNの『未来』という歌は好きですが、中でも「いつかは 僕ら 消えてしまうけれど」という歌詞がかなり心にぢんぢんきます。たぶん「僕ら 死んでしまう」のではなく「消えてしまう」という表現に妙にリアリティを感じてしまっているからでしょう。死んでしまっても、まあ、死体は残ったり、骨は残ったりします。余談ですが祖父が死んだとき、祖父は骨が丈夫だったらしく、骨の形をしたまま灰が残っていたのですが、それらの骨・灰を骨壺に収納するに当たって、火葬場の人が、骨壺の中の骨をサクサクとほぐしていたんです。そうしないと骨が入りきらないから。まあ、その人にとってはいつものことなんでしょうが。タダの灰、ただの骨。しかし、その骨をサクサクする音が本当に祖父は死んだんだな、祖父はいなくなったんだな、というのを初めてリアルに感じさせてくれませんでした。そんな繊細な感受性は持ち合わせていないので。もちろん詩情も。 いやいや、「死」はまだ肉体や魂の残存を感じさせますが、「消えてしまう」は宇宙そのものすら無になってしまう究極を連想させてくれるんです。 「いつか 消えてしまう」んです。だってのにあくせく働いたり、うまいものを食ったり、つまらない異性とカブトムシ交尾をやってしまうんですね。
プロフィール更新した。
HPが開設されて、一年経ちました。けっこう長かった一年だと思います。 現在、私は季節の変わり目恒例の風邪を引いていますが、気力は充実してます。振り返ってみると、この雑感雑文はダイレクトに私の精神状態を反映しています。いや、恐ろしいくらいに。
さあ、例によって目標がないと生きていけない上昇志向&フラジャイル人間らしく、2005年度の目標をメモっておきます。
・(思春期から)卒業する。
・(高度資本主義&自由競争社会を生き抜くために)お金をいっぱい稼ぐ。
・(自由恋愛という残酷な制度に適応するために、25年目にして初めての)彼女をつくる。
・(愛とお金を得て、それでも何か物足りないものがあり、心の澱がたまったら)小説を書く。
上昇志向とは「高み」を目指す精神の気質をいうのだとしたら、私はずっと上昇志向だったし、いまでもその名残がある。例えば堀江貴文氏などは上昇志向の典型であり、それを成功させつつある人なのだと思う。だから、私は彼に憧憬を抱くし、応援もしたくなる。ただ、思春期におけるバランス感覚の喪失や単純に記憶力や思考力の足りなさや環境にも影響されて受験競争からの脱落を余儀なくされた私は、ドロップアウターの受け皿である小説を読むようになった。もちろんその小説の世界にもシビアな能力差があり、成功者と脱落者がいる。ただ、小説的世界と上昇志向はあまり相性は良くない。もちろん、「読み物」であれば、上昇志向とうまくいくことは多い。小説の形式を拝借したビジネス書や新書はよく売れる。何かから脱落した者は上昇志向をあきらめるしかない。私は上昇志向に対置するものとして、下降志向ではない、「沈潜志向」とでもいうべきものを発明した。もちろん、言語武装、心の鎧としてそれは機能することを期待してだ。上昇志向が「高み」を目指すとするなら、沈潜志向は「深み」を目指す。見届けようとする。
もちろんいつもの中身のない屁理屈。言葉遊び。弱者&敗者の浅知恵。 まだ少しずつではあるが『S大学物語』も『FUCKILLOVE』も売れ続けているようだ。喜ばしいことである。現在、『S大学物語』に続く物語、『FUCKILLOVE』に続く物語の構想を持っている。タイトルだけはどちらも考えてある。が、それが書かれるかどうかはわからない。私が書く小説(?)はあまりにも私の生活や精神史に密着しすぎている。これは古い小説家観であり、例えば一昨日購入した保坂和志氏などに激賞されている青木淳悟氏(『四十日と四十夜のメルヘン』)などの小説を読むと才能のあるなしではなく質の違いに絶望するばかりだ。「確かに低能どもが喜ぶような「ヌルい」読み物」ですら書けない「ヌルい」私だ。せいぜいこのHPくらいは続けていきたいし、それが単なる吐瀉物&悶々だとしても。
いま考えているのは、このHPは私が生きている限り更新し続けるし、私の存在が消滅しても、インターネットが続く限りは、代理人を立てて、Web世界に存在させておくつもりだ。だってこの松田龍樹公式HP&雑感雑文だけが、唯一の(ヌルい)表現場だし。 少しはクオリティを上げていく努力をまた開始しよう。
みなさんよろしゅうに。本買って!『S大学物語』は吉祥寺ブックスルーエさんにまだまだ置いてあるから。『FUCKILLOVE』ならネットでも読めるよ!→Boon-gate.com