
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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図書館に借りに。なかなか読みたい本は置いてない。
大江健三郎『見る前に跳べ』(新潮文庫)。「奇妙な仕事」「動物倉庫」「運搬」「鳩」「見る前に跳べ」をコーヒショップで読む。ちょっとしたアクシデントがあり、上記の所収作品を集中して読むはめに。疲れた。そんなに面白くないし。
借りた本。川端康成『掌の小説』、ミシェル・フーコー『監獄の誕生』。買った本(ブックオフ)。大西巨人『迷宮』、大西赤人『夜の道連れ』、講談社文芸文庫『戦後短編小説再発見E 変貌する都市』。読むかどうかは、知らんが。後藤明生、大西巨人に共通するものは?? 阿部和重です。
上野に行く。ベルリンの至宝展とやらをダッシュで観る。展示物ラストのニーチェを描いた絵がよかった。「このころニーチェはすでに神経症を患っていた(不正確)」みたなキャプションがあって、マジでなんか感動した。
あと上野がちょいスタイリッシュになってた。ジェントリフィケーションと言うのだろうか?
ちょっと前に気づいたのだが(例によって保坂和志氏の文章を読んでいて)、「要約」する能力って必要ねぇーな、ってこと。
ずうっと「要約」できる能力って、現代を生きる必須スキルだと思ってたけど、それって普通の会社員とかそういう人だけに必要な能力だよね。受験勉強やなんかで、「天声人語を要約してみよう」みたいな現代文対策が推奨されているが、まあ、確かに、要約するためには、その文章の要旨や大事な部分それほど大事ではない部分を見抜く力が必要だし、そういうものを鍛えていれば、いろいろと手際よく物事をこなしたり人に説明できたりするようにはなるんだろうけど…。
でもさ、それってTime is Moneyの世界観、つまり産業革命以降、現代の自由資本競争主義グローバルスタンダード時代のビジネス戦士的世界観なんじゃないかねえ。
もし、小説家とか、そういうのになりたいなら、むしろ、「要約」する能力は、いらないし、もっと言えば邪魔なのかもね。
朝日新聞のCMとか「天声人語」をうまく要約できるのが褒められる「教育」ってウザいぜえ。その「要約」能力を小説に敷衍して、「あらすじ」で済ませたり、なんだかなあ。要旨とは関係ない、作者も気づいていないような箇所に引っかかったり、どうでもいいことに注目できたり、そういう感性も大事だよん。
死んでしまった人の人生は「要約」されて再構成されて、語られるけど、生きてるこの瞬間は「要約」ではなく、だらだらと連続したベタっとしたものじゃん?
16日(月)
チェストプレスをする。綿矢りさと話す。彼氏と元鞘らしい。
17日(火)
秘密指令の電話。多摩モノレールに乗る。
『S大学物語』を1年ぶりに読み直す。陳腐な比喩、展開の平板さ、わざとらしさ、気の利いたふうのセリフ、地の文のスカスカさにマジで嘔吐する。ただ「太陽と海と同化している感じ」が仏教的な志向を顕していて、よし。
18日(水)
午後2時半ごろ起きる。風が強い日。「政治化」について考える。
交接×1。
19日(木)
池袋に行く。どんなに走っても進まない道を歩く。セックス以外でひさしぶりに汗をかく。
20日(金)
赤坂に行く。日枝神社に参拝。国会議事堂を古代遺跡と勘違い。子供の国のこどもの城のようだと思う。広島カープの前田選手のファンになる。奥さんは元タレント。ドトールでアイスコーヒーばかり飲む。
小説について真剣に考える。「伝えたいこと」がないという結論にいたり、現在の幸福を再確認。
夜、交接×2。
21日(土)
夜の運動が堪える。カラダを休める。ただし心は安まらない。
22日(日)
渋谷に若者の絵を見に行く。帰りに「失礼しました」と言われる。失礼された覚えはない。他人への興味がまったく欠如していることに驚く。カラダが異常に重い。大戸屋でメシ。交接×3回。
やっぱり中原昌也は最高だと確認。中原昌也以上の小説家は現在日本にはいないと思う。彼ほど「天に愛された男」はいない。例えそれがスノビーな思惑ゆえであっても彼の作品を掲載する新潮や文學界はステキだ。「偉くなる」ことが「笑い」への前フリ、落差となると言う北野武氏だが、「巨匠」はネタではなくベタでしか受け取られない。「文學界」は「中原昌也」という作者にとって「前フリ」になっているのだろうか。ま、どうでもいいが、おもしろい。
現代の無頼派作家ベスト4
1 中原昌也「あらゆる場所に中原が・・・」
2 笙野頼子「キレイだ・・・」
3 辻仁成「やっと会えたね・・・」
4 伊集院光「ラジオ内弁慶」
23日(月)
偽学生。親せきを回覧した卒業アルバムが帰ってくる。幼少のころの写真とともに。胸が熱くなる。が、限界も感じる。
『長距離走者の孤独』所収の「長距離走者の孤独」をドトールで読む。読んでる途中で土砂降りになり、ざまあ見ろと世間に悪態をつく。ひさしぶりに、一続きの物語を最初から最後まで読む。尾崎豊的世界(労働者篇)。マイノリティが数の上でマジョリティ化していく。ビッグイシューを読む。110円じゃジュースも買えないけど。25歳人生の分岐点。フリーターの悲惨さにぞっとする。
笑い飯のラジオがおもしろくなる。田舎の小学生の会話(つまり、昔の俺)を想い出して、最高。
いろんな読んでない本をパラパラと捲ってみるが、しっくりこず。やっぱガルシアでしょってことで『百年の孤独』の続きを数ヶ月ぶりに読みはじめる。ラテンアメリカ文学を究めると誓う(ウソ)。
24日(火)
時給2500円のアルバイトのため、事務所でパソコン打ち。あやしげなネットワークビジネスに勧誘される。しばし逡巡。
帰りに図書館に寄り「内田百閨vを検索。ボルヘスより偉大な作家らしい。読んでみたいが、本がない。「後藤明生」も検索。読んでみたいが、挟み撃ちに遭う。逃げる。土砂降り。生き別れの母と遭遇。傘を借りる。帰る。洗濯物がびしょ濡れ。
恋と愛と「好き」って感情の違いについて真剣に考える。「恋がしたい」とつぶやく。交接はもう飽きた。
交接×0。
現在、28時。今日は早寝だ。
ケーブルテレビ最高。
月〜金深夜1時から『キン肉マン』やってます。キン肉マンの主題歌をテレビのスピーカーにマイクを近づけて録音していた幼き日を想い出します。
ケーブルテレビで『誰も知らない』。途中から。
これはおもしろい。是枝裕和監督の作品はドキュメント的なだけに作為が見えて苦手なのだが、今回は「子供」が主役ということで、監督の演出手法が見事にハマったのではないか。もちろん母親役のYOU氏は絶賛されているが、彼女も本業が役者じゃない分、そして彼女のまさに「タレント性」とでもいうべきものが監督の演出手法にマッチしていたのだろう。「あの」寺島進(先日、井の頭線でそっくりな人を見かけたが、本人だったのだろうか。シルバーのウィンドブレーカーの上下を着てサングラスだった)ですら、出てきた瞬間に「異物」な気がした。違和、バリバリ。
監督はラストシーンに込められたメッセージは何かと軽部さんに訊かれて「彼らはあなたの隣にいる」とか言っていたが、そうではなくて、「人は、人が死んでも生きていく、淡々と」ということなんじゃないかと思った。妹をトランクに詰めて埋めに行く、飛行機の見える場所、大好きだったチョコレートのお菓子を供えて、というあからさまな「儀式」、監督は儀式好きなのだろうか、なんというか芸術家然としたやつらのクソ感傷的シーンなのだが、「その程度」あるいは「その程度でしか」、死を処理できないのだ、映画として、ではなく、現実生活一般が。
この映画は実際にあった事件を元にしたらしいが、監督は「妹の死体を詰めたトランクを夜な夜な西武池袋線の特急アロー号に乗って一人で埋めに行くという情景を撮ってみたかった」みたいに言ったあと「エゴですよ」と言っていたが、「わかってるじゃないか」と思ってしまった。
人の不幸や生き死にをダシに映画を撮るなんて、エゴ以外の何物でもない。別に監督を批判しているのではなく、「友達や恋人や家族が死んでも生きていく、エゴイズムの強さ」は大芸術家に必須のタフネスさなのだから。ジョイス然り。
だから、この映画のメッセージは「エゴイズム」なのだ!
生き抜いている人間は多かれ少なかれエゴイズムでのみ生きているのだ。大切な人が死んだくらいでは、人は死なない。死ぬのはエゴイズムの弱い人間だけ。
『妄想代理人』第6話まで。
90年代総決算ムービー。退屈なのはしょうがない。
また借りにいくで。
深夜番組で「街角プロレス」というのを見る。その昔、学園祭で学生プロレスを見たことがあるが、それと似た感じで「素人」が青空の下、プロレスをするというものだ。
スティーブン・キングが小説作法について書いた本の中で「優れた作品よりも、駄作を読んだときの方が得るものが多い」といった主旨のことを述べていたが、まあ、それとは少し違うかもしれないが、素人(学生)プロレスを見ていると、(普段見ている「プロ」によるプロレスにおける)「本当のおもしろさ」が見えてくる。素人レスラーが、プロのレスラーに比べて華奢であったり筋肉に乏しかったりするように、ある種の「装飾」がないぶん、「剥き出しのおもしろさ」が顕れてしまうのだと思う。
おもしろさとして、気づいた点
・ストーリーがありキャラクターに感情移入できるようになっている(ブスVS美人、オタクVSヤンキーなど)。
・相手の協力なしではありえない技の掛け合い、応酬(ありえない魔球や技を繰り出すマンガ的おもしろさ)。
・場外乱闘。
・乱入。
・逆転に次ぐ逆転(それぞれの見せ場がきちんとある)。最後には弱者が勝つ。
・レフリーの依怙贔屓。
・レフリーに抗議している対戦相手を背後から不意打ちなどのお約束。
・総じて完全なる出来試合、ヤラセ。
そんな感じかな。
『現代思想』2005年5月号の特集は「公共性を問う」。
『魂の労働』を読んでからずっとぼんやりではあるが「街」の在り方に潜む思想が気になっていたので、買ってみる。なんでも下北沢が開発の危機にさらされているようだ。知らんかった。
西田幾多郎(にしだきたろう)
夏目漱石(なつめそうせき)
鈴木大拙(すずきだいせつ)
「さよなら アメリカ」樋口直哉
『S大学物語』が発売されて、約1年になる。あっという間という感覚はなく、それなりに長い1年だった。最近、懐かしい人に邂逅することが続いた。そのとき交わされる会話は、「あのころ」の思い出話と、連絡が途絶えていた期間の要約された物語りだ。入学とともに東京に来て、丸6年以上が過ぎた。何をやったかというと、映画を撮って、小説を出版して、留年しまくったといことぐらいだ。まあ、それなりに聞き手を楽しませられるようなエピソードもいくつか蓄えられた。「これをやりました」といえる程度のエピソード。経験値も確実に増えた。レベルアップしたかは疑問だが。まあ、それらのことはどうでもいい「過去」だ。2004年ころから人生は停滞している。やる気ナッシング。正直、2004年以降、他人に語りうるエピソードはまったくない。内なる成長もない。
2004年度お薦め雑文
2004.05.07 Fri 純粋恋愛論序説
2004.06.06 Sun ブリトニー・スピアーズ試論
2004.11.26 Fri やさしい文学
文芸誌をまたぞろ買い込んできた。また小説を読んで、いろいろ考えようと思う。
今敏(こん さとし)総監督のテレビアニメ『妄想代理人』の第一巻(VHS)を借りてくる。
率直に言って、期待過剰というか、そこまで興奮するほどのおもしろさはなかった。もちろんまだ第2話までしか見ていないのだから、結論を急いではいけないが。
見てて連想したのは佐藤友哉『子供たち怒る怒る怒る』。あるいは舞城王太郎作品。
サイコサスペンスってのは90年代に大流行したわけだけど、今監督も『パーフェクトブルー』というサイコサスペンスの傑作をものにしているわけで、その流れの作品と見ていいと思う。老人が地面に白墨で奇妙な計算式を書いているのは、手塚治虫『三つ目がとおる』がオリジンだと思うのだが、どうなんだろう? 小さい老人は『アキラ』を連想しちゃうね。
これを見ていて、「少年バット」の正体や事件の真相は、ほとんど気にならない。それが「引っ張り」にはなっていない(俺だけ?)。それよりも、「少年バット」を空白として巻き起こる「妄想」をいかにリアルに見せてくれるのかが気になる。
どうでもいいが、妄想はベタだ。犯罪や事故というものが「ベタ」であるように。そして、ベタはリアリティがあり、恐ろしい。でも、ベタだから、フィクションで描くと、陳腐になりやすい。ベタのリアリティと恐怖をフィクションで感じさせるというのは、かなりの力量がいるものだと思う。知らんけど。
こないだも書いたけど、マジで最近は幸福だ。そう、思考停止による幸福、不感症的な幸福、虚ろな多幸症状態。覚醒するよりは鈍麻した方が幸せ、ということを実践しつつある。それがいいのか悪いのかは別として、幸福な俺は、小説を読む気にも書く気にもならない。まあ、ほんとどうでもいいな、そんなこと。いまごろ社会に適応しようとしてももう遅いし、ブレーキの壊れた自転車はカーブを曲がりきれずにガケの下に落ちていくんだろうけど、安全にカーブを曲がろうとする自転車には感じられないスピード感を味わえたし、飛び出して地面に激突するまでの間の浮遊感だって感じている。例えば人生がその数秒間の浮遊のようなものだと言えなくもない。別に心配して欲しいわけじゃないけど、このHP以外すべて捨ててしまってもいいと思う。ついでに童貞も。それは無理っぽいんだけど、それも含めて人生。O.K.と言うしかない。
本当に大好きで愛する人ができると死んでもいいと思うものらしい。童貞諸氏には決してわからぬ心の不思議だけど、わかるような気がする今日このごろ。結局生きてるぬるま湯人生なり。
ひさびさの悶々でした。
長く寝ると夢を見て、それを憶えている。悪夢が多い。
ドラえもんの映画版(大長編)を私は見ている。あるいは、その中の登場人物の一人になっている。見ているのはアニメだし、マンガでもある。とてもグロいドラえもんで、巨大なミミズや牛タンの化け物がうにょうにょしている上をタケコプターでドラえもんメンバーが飛んでいる。マンガを捲っていたが、気持ち悪くて投げ出す私。
また別の夢になる。汚い部屋。学校?乱雑。尿意がある。汚い部室のような部屋があり、その中央に便器というか皿のようなものがあり、隣には低いテーブル。テーブルの上にはノートや小銭が散らばっている。そこで便器のような皿に向かって小便をする。その部屋の奥には、シャワー室があり、おそらく野球部が使用している部屋なのだと思う。そのシャワー室の方から、小便をしていると、ブルーに染髪した坊主頭のヤンキー風野球部員が入ってきて、なんとなくお互い気まずくなり、会釈する。野球部員はそそくさと部屋を通り過ぎていく。私はこの部屋はトイレなのだからしょうがないと思っている。
また別のシーン。高校か、あるいは中学の教室。小学校のころの親友3人が同じクラスにいる。クラス替えが行われた直後のようで、私は仲良しの友達と同じクラスになれたことに驚いている。しかし私は大学生の私で、これってなんだろう?と思っていて、近くにいた中学時代のクラスメイトに何かを尋ねようとする。「3組だよ」と言われて、(私は中学時代3年3組だった)また中3をやり直せるんだと思っている。うれしいような、そうでもないような。
去年の6月ごろに比べて、雑文のテンションとクオリティが落ちている。
4月中旬
『小説トリッパー』2005年春号に載っている斎藤環氏の連載評論を読んで、「誤受信」の問題について自分なりに考えてみる。
4月下旬
押井守『うる星やつら ビューティフル・ドリーマー』を見る。袋小路。
4月下旬
「時代が、ようやく、アベカズシゲに追いついた」と叫んでみる。B級映画のような犯罪が、現実に起こる現代。
5月1日
いまの自分はけっこう幸せだと思う。もちろんそれは思考停止による幸福だ。ブレーキの壊れた自転車で坂を降っている感じ。坂が終わらなければ、あるいはそう思い込んでいれば、最高。
5月2日
インリンって、インランを連想させたいから、そういう名前にしたのかな?と思う。
『妄想代理人』を見たいが、借りられていて、いまだに見られない。俺以外にも『妄想代理人』を見たがっているやつがいるんだと思う。友達になれるかどうかは、別。
精製水を使って洗顔しているが、肌がキレイになったと思う。キメが少し細かくなったような。
今年で25歳になるが、後悔のないように生きようと思う。本当にやりたいことをやろうと思う。その先に何があるかはわからんが。壊死せぬよう。