
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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もっとがんばりたい。
心に風は吹いてるかい?
心に風が吹くことを、感動っていうんだぜ!
感動を伴う読書だけが、「体験」と呼ばれるのさ!!
またぞろ図書館で読まない本を借りてくる。
『トリストラム・シャンディ』上・中・下
『アレキサンドリア・カルテット』全4冊
『重力の虹』T・U
『トランス・アトランティック』
夏休み中に、読破できたら、いいな♪ あ、夏休みって俺、永久にあるわ(核爆発)。
希代の珍文『宇宙戦争』は、リアルとリアリティ、想像力の「質」についての自分なりの批評・実践だったのだけど、我が輩の技術の至らなさで、誰にも伝わっていないようだす。しゃーない。
なんつうのかね。インチキ霊感商法、あやしいカルト宗教、気持ち悪い自己啓発系セミナー、そういうところで語られる「世界観」。もちろん常識人は、そういうものの理論ではなく雰囲気で嘘くささを見抜いているんでしょうが、なんというか、そういったカルト系が提示する世界観・想像力の質と例えば犯罪者やテロリストや、ならずもの国家やアナメリカや日本の戦略・政策っていうのが、どれも「同じ」想像力のレベルに感じてしまう今日このごろなんです。
あと電車男やセカチューやいまあいに感動する心性も。
全部、同じな気がするんです。簡単に騙されまっせ。
杞憂?
以下は『マックス・ヴェーバー入門』(山之内靖)より引用。
ヴェーバーは、民衆の感情世界が一貫した倫理性を帯びるようになるには、宗教的救済へと民衆を引き連れてゆく約束の確からしさが、「合理化された「世界」」によって裏打ちされること、このことがどうしても必要だったと言います。例えば、世界の終末がやってきて、人々は一人の例外もなく神の前で審判を受けるが、この審判において、正しい生涯を送ったものとそうでなかった者とが選り分けられ、前者だけが救済の地に行け、後者は地獄におとされる、といった説話が、世界像として民衆に示されることになります。
この説話において、すべての重みは、終末における神の審判という、まだ誰も経験したことのない出来事、実際には起こりそうもない出来事にかかっています。その意味では、この説話の内容は荒唐無稽とも言うべきでしょう。けれども知識人の手をへることによって壮大な世界像へと組み立てられると、民衆はこの説話を手がかりとして現在の苦難に意味を与えることができるようになります。
※強調は、筆者。
実際には起こりそうもない出来事が、「起こる」と感じられることを「リアリティ」というのだと、いま現在の私は、思う。実際は起こらない。それは「リアル」。
「リアル」は、なんというか小さい「核」のようなもので、その周りを分厚い「リアリティ」が包んでいる。間違っていけないのは、リアルよりもリアリティが現世では優位だということだ。たぶん。もっと長々書きたいが、だるいのでやめる。
閑話休題。
『アレキサンドリア・カルテット』の第1部『ジュスティーヌ』を根性で読んでいる(現在、3分の2まで)。
なんというか抽象的、哲学的文章が多くて、まったく頭に入らんのですが、メロドラマ的なシーンがときおりあって、そういう箇所は少し面白い。なんか、まったく違う作品だけど、『嘔吐』を読んでいたときに感じが似ている。
ちらっと巻末の「解説」を読んだ限りでは、第2部から、この連作の「実験」がはじまるらしい。確かに、第1部だけでは、ちょっと込み入った話でしかない。
構造的には、だいたい時系列なんだけど、「思い出した順」でもある。エジプトの都市アレキサンドリアを舞台に、濃い人間たちが、順次、紹介されていくんだけど。最初に「人物紹介」(これが原作にもついているのかは不明)もあるいし、そういうことなのだろう。
物語を一言で言うと、「ダブル不倫」の話。だね。
第3章で、主人公が「スパイ」にスカウトされたりと、ちょいわし好みな雰囲気も出てきた。
もう一息なので、ぎゃんばって読む。
AM5:34
起床。胸の奥に悲しみの塊がある。昨日、女に別れを告げられた。眠りかけていたとき、電話で。今週末の彼女の誕生日に、何か贈り物をせねばと思うたびに憂鬱になっていた自分が、本来ならその役目を果たさなければならなかったのだが、彼女に押しつけてしまった。何重にも狡猾だ。だから友達が一人もいないのだ。
昨日、プリントアウトしておいたサリンジャー「エズミに捧ぐ」を読む。昔、キーボード模写したやつ。20字×20行で組んである。これは枚数と内容の密度のバランスを把握するため。
AM8:17
コンビニで朝飯を買う。帰宅後、それを食べる。とろろそば。今週いっぱいにこなさなければならない仕事が二つある。大学のレポートも書かねばならない。
そのうちの一つを仕上げ、メールで送信する。
窓を開け放つ。観葉植物を窓際に移す。水をやる。米のとぎ汁をやるといいと聞いたのを忘れていた。さっき昼用に米を炊いだのに。
他のサリンジャーを読んでみようと思い「大工よ」を本棚に探す。隣にあった吉田修一の「最後の息子」を少し読んでしまう。チャーミングな印象。「大工よ」は後半を読み直す。しかし、集中せず。仕事が気になっているのだ。
重い腰を上げ、もう一つの仕事に取りかかる。韓国のコングロマリットに提出する提案書。手抜きする。メールで送信。
仕事関係の電話。明日、TBSでの打ち合わせになるかも。予定をあけておいてくれ。9月にはフジとの折衝に入る。
AM11:46
近くのスーパーマーケットに牛肉を買いに行く。肉じゃがを作りたいのだ。昼の弁当を買う。エビフライカレーは売り切れ。ハンバーグ&ナポリタン弁当。帰宅後食す。平日の昼間に家にいることの贅沢を感じる。玄関を空けて、換気。今日はそれほど暑くなく、風も涼しい。スニーカーをストッパーにして、ドアは開けたままにしておく。誰も通りはしない。
仕事の電話。メールを受け取ったが開けないとのこと。PDFファイルで送ったのだが、「アクロバットは入っていない」とのこと。しょうがないので、別ファイルで送る。重い。
PM1:00
いよいよ落ち着いて本を読もうと思い「ジュスティーヌ」を手に取る。欠伸をかみ殺しながら、ストレッチ体操をしながら辛抱強く読み進める。
貧窮のために惨めさにおいやられた、あわれな疲れきった女たちとの出会い、それは興味深いものだ。感動的だといってもいい。しかし僕は自分の感情を分類する興味を失ってしまったために、ただの影となってスクリーンに映しだされるだけだ。
「女に対してすることは三つしかないのよ」そうクレアはある時言った。「女を愛するか、女のために苦しむか、女を文学に変えてしまうか、それだけなのよ」
僕はこれらの感情すべてに挫折しかけていた。
爆笑。
PM2:00
仕事の電話。請求書の件。帳簿と照らし合わせる。これを書く。
フォトショップで遊ぶ。ひまわり画像の加工。夏らしくなった。
PM3:00
マザーが遊びに来る。おしゃべり。
アントも来る。賑やかかな。
PM5:00
ファミリーレストランにごはんを食べにいく。私は、マンゴーヨーグルトですませる。マザーはハンバーグを食べる。
PM6:00
帰宅。肉じゃがを作る。なかなかうまくできた。松岡正剛の「マルドロールの歌」書評を読みながら、食う。いいHPを見つけた。そういえば「マルドロールの歌」は寺山修司によって映像化されているのだ。見たいような、どうでもいいような。
風呂を沸かす。
PM7:30
満腹だし、ぼうっとする。小説を書こうか、眠ろうか迷う。とりあえずダイアリーを書く。
PM8:30
ZAZEN BOYS「半透明少女関係」その他を聴きながら、これを書く。缶コーヒーを飲む。FIRE粗挽き。最近のお気に入りだ。
缶コーヒーを飲むと言うことは、何か書くということだが、うーん。霊感は降りてこない。「ジュスティーヌ」でも読むか。煩悶。
とりあえず、アップロード。
誰も気にしちゃいないだろうけど、今月の各雑文のタイトルは、すべて古典的名著から拝借したものです。
失われた時を求めて
孤独な散歩者の夢想
それでも人生にイエスと言う
悪魔のような女たち
知られざる傑作
共産党宣言
宇宙戦争
ちなみに、どれも読んじゃいない。
今日のタイトルは、イギリス人作家ロレンス・ダレルによる実験的小説4部作の総称『アレキサンドリア・カルテット(四重奏)』=『ジュスティーヌ』『バルタザール』『マウントオリーヴ』『クレア』からです。今月号の『群像』掲載の山田詠美、高橋源一郎、中原昌也の対談の中で、中原氏が言及していたので、検索して、絶版だったので図書館で借りてきました。有り難きかな、書物蔵。
同じように、ロレンス・スターン『トリストラム・シャンディ』(これはネットで「古典」「名作」とかで検索して、たまたま見つかった。なんというか、『宇宙戦争』に参考になるかと思って。冒頭だけ読んだ。ちなみに上中下の三冊ある。未完)も絶版だったけど、書庫にあった。スバラシイ。
いま気づいたけど、二人ともロレンスだね。偶然。
マニアックな本って、なんというかスノッブの本棚の飾りになりがちだけど、ロートレアモン『マルドロールの歌』とか(ま、これは文庫で普通に本屋で売ってるけど)、けっこうマジでおもしろそうなの多いんだよね。
今回の『アレキサンドリア・カルテット』とか『トリストラム・シャンディ』とか、あと有名だけど『ドン・キホーテ』とか、そういう野心的実験的作品は、なるべく読みたいね。
以下はメモ。
中上健次『南回帰船』
ヘンリー・ミラー『北回帰線』
ブレイクスルー前夜
で、そんなメモがしたかったわけではない。
『宇宙戦争』という希代の珍文を書いてから、なんというかブレイクスルーが起こった。プチ・スランプに悩まされてここ2年。なんか吹っ切れた。小説意欲が湧いている。なんでもいいから書きたい。その昔、いまでも覚えているが、2001年3月31日から翌4月1日にかけて鬼のように脚本を書いたことがある。約24時間かけて100枚のシナリオを書いた。ま、シナリオだから小説とは違うのだけれど、それにやっぱ後半は端折り気味になったけど、すんごい疲れるけど、悪くはない経験だ。
よく「楽しいから」それをやってるのだという人がいて、楽しくないことをやってる人を軽蔑してるんだけど、別においらは小説が楽しいとか、そういうのはどうでもいい。小説書いてて万能感があって、脳内麻薬がでて、楽しいって人はいるだろうけど、本人の脳内麻薬の量と小説の出来不出来は関係ない。下手の横好き、往々にして。
でも、まあ、いいや。書けるときに書いとけ。もう早くも自己懐疑が忍び寄ってて、「やっぱ俺ってダメだよ」って思いそうになるのだが、死らんぷりを決め込め。
いいのが書けて(いや駄作でも)気が向いたら載せる。んで、Yahoo!JAPAN文学賞に応募する。結果も報告する。よろしゅうに。
最後にお知らせ:
最初で最後の松田龍樹責任編集同人誌『Heavy Smoker's Forest』を発刊します。寄稿してもいいという有為の方、「文学作品(ジャンル、メディアは問わない)」を募集します。有名無名、は問いません。年齢も。原稿用紙1行以上300枚以内ぐらいで。日本語で。ただし、載せる載せないの判断は私がします。傍若無人なまでに。なのである程度の覚悟は必要です。私は自分に甘く他人に厳しい人間だということを、お忘れなく。
詳細はまた後日。
宇宙世紀0079、新大陸国家の野蛮な開拓精神の到達点である極西国家の首都において、若き理科教師がハンドメイド原子爆弾により自殺を果たした。初の赴任先である都内中学校において初めての授業参観がある日の早朝、彼は自宅のワンルームアパートを改造した「実験室」から、完成したばかりのプルトニウム式原子爆弾――ステンレス製のボウルを二つ付け合わせた銀色の球形をしており、彼はそれを「小さな太陽」と名付けた――を持ち出し、勤務先の中学校の隣の校区にある中学校の3年3組の教室で、その信管を抜いた。傍らにはワープロ打ちされた遺書が残されており、希望と情熱を持って選んだはずの教師という職業に幻滅した心情が長々と吐露されていた。言ってしまえば五月病の延長であり、コンビニアルバイトと同様に、「お客様の声」に対応すべくサービスの無際限な多様化が行われた結果、現場担当者に過度のプレッシャーがのし掛かり、それまで「まじめ」だけが取り柄で「サボる」ことを潔しとしてこなかった彼の精神的傾向が自縄自縛状態を作り上げ、恒常的ストレスにより強度のうつ状態に陥ったものだと考えられる。
「〈本当にやりたいこと〉なんて、どこにもなかった」
遺書の最後にはそう書かれていた。もし同僚の教職員がそれを読んでいたならば、「まさか」と驚き、底知れぬ彼の心の闇にめまいを催したかもしれない。遅くまで残って翌日の授業参観用の資料を作成していた彼の姿を、同僚たちは鮮明に憶えていたからだ。もちろん、そんな同僚たちの記憶も彼の鬱陶しい遺書も、勤務先の中学校もそこに通うノーテンキな生徒たちも、彼の体臭の染みついた自宅兼実験室も、彼という〈グラウンドゼロ〉を中心に半径二〇qにわたって文字通り何もかも消えてなくなってしまったのだ。見晴らしのいい関東平野の地形そのものが剥き出しとなり、もし宙から見下ろしたなら田舎の少年の毬栗頭にぽっかり空いた一〇円禿げのようだっただろう。
この一瞬にして首都機能を失った極西国家は二六三九年の歴史を持つ神話時代から続く王権制の国家でもあった。〈何もない〉ことをその精神構造の中心に据えた国民性を体現するかのように、空虚な存在であった大王やその一族郎党、その住まいである宮代、大王の信託によって政治を執行していた中央政府の人材・機能は、彼の自殺によって、本当に〈何もない〉状態になってしまった。首都圏の国民はもちろん、海によって緩やかに分断された列島すべての国民が、人工衛星によって映し出されたその〈空白〉を自らの原風景として受け止めねばならなかった。
そうして衰亡の危機に陥ったかのように見えたこの国も、そもそも実質的に中央集権化されたのはここ百年ほどのことであり、常に緩やかな連邦国家であったこの国にとっては、マンガじみた王権制とお仕着せの西欧民主制が齟齬を来していたために、むしろこれは国家刷新の好機であるという意識にたちまち変化した。国家再生はまずその「新首都」をどこに定めるかという論争から始まり、新首都に名乗りを上げた有力地方都市郡の首都争奪戦へと発展した。経済的に主要な都市はもちろんのこと、古の首都であった都市や首都になり損ねた都市、かつて独立国であったが侵略によりこの国に併合された北と南の都市など九つが、その候補地になった。民主制に疑問を抱いていた国民たちは、数の論理ではなく「実力」によって新首都が選ばれるべきだと考え、文字通り都市間の「戦争」があちこちで勃発した。そもそもこの国の大王は太陽神の末裔であるとされてきたことから、元首都は太陽京と呼ばれていた。そのことから新首都争奪戦を繰り広げる九つの都市はそれぞれ元首都からの距離に応じて、太陽系の惑星に喩えられることとなった。外国メディアはこの極西国家の内戦を「星々の闘い」とか「宇宙戦争」とか呼び、連日おもしろおかしく報道し続けた。そして、その「星々の闘い」の間中、元首都のあった場所は顧みられることがなかった。そもそも〈何もない〉場所として〈ない〉ことを確認するために存在した首都及び宮代ではあったが、復興はおろか、何かしらのモニュメントを作ることも、またはホームレスや不良青少年や在日外国人や犯罪者などのマイノリティたちが占拠し、新たな独立共同体を形成するようなこともなかった。すでにそこは〈何もない〉ことすら消去された完全な〈無〉となってしまっていた。
泥沼化し長期化すると思われていた「星々の闘い」は結局一年ほどで収束することとなった。のちに国史においては「一年戦争」と呼ばれるこの内戦が短期間で終わったのには、その終戦間際に立て続けに起こったいくつかの劇的な出来事が深く関与している。
まず最初は、首都争奪戦に最後の参戦都市が現れたことである。九つの惑星都市のパワーバランスが拮抗し、争いに膠着状態が続くなか、インターネットのアンダーグラウンドサイトなどを中心に神話的エピソードによって若者のカリスマと目されつつあった都市の参戦だったため、他の参戦都市に対して非常に強いインパクトを与える結果となった。というのも、この国の年功序列的ヒエラルキーは数十年前に瓦解し、逆転していたため、若ければ若いほど「スゴい」ということになっていたのだ。若者の圧倒的な支持を得られるということが、即ち「勝者」を意味したのだ。若者のカリスマになった要因として、サブカルチャーや若者文化に精通する著名な精神科医は以下の三つを挙げた。一つめは、消滅した首都に最も接していたという位置関係――すなわちギリギリで消滅を免れたという奇跡性。二つめは、一五〇〇年以上生き続けている盲目のオカマが開祖の新興宗教団体の総本山としてカルト的信仰の対象となっていたこと――その宗教団体によればこの都市に〈神〉が存在することになっており、奇跡的にこの都市が生き残ったことの理由として真実味を帯び始めていた。三つめは、マンガ家、小説家、シナリオライターなどの物語作者が多く住み着いており、はじめ興味本位で始まった同じ街に住む作家同士によるネット上でのリレー小説――もちろんそこには前述の宗教団体や被爆体験がネタとしてふんだんに盛り込まれた――が、はからずもこの都市の創世神話として若者に読まれてしまったこと。これらの複合的要因によって「都市伝説」が形成され、若者のカリスマ都市となったと「日本のジジェク」を自認するその精神科医は看破したのだった。また命名好きの彼は、他の参戦都市に比して非常に小さく、元首都の衛星都市でもあったこの都市を、九つの惑星都市に対し、〈月〉と呼ぶことも控え目だが有無を言わせぬ調子で提案したのだった。多少まと外れな印象はあったものの、精神科医としては香山リカ以来のタレント性を持ち得ていたために、ほどなくしてその呼び名は浸透するに至った。
カリスマ都市〈月〉の参戦は他の惑星都市の驚異となり、惑星都市同士による合従連衡の動きをもたらした。しかし、九つの惑星が対等の同盟を結ぶことは現実的には困難であると思われていた。そんな矢先に起こったのが、無名の郷土史家・糸井重里による『琵琶湖文書』の発見であった。これは長らく焼失したと言われていた最古の歴史書『日記』を含む未発見の歴史書の数々であった。長い歴史のなかで、この国の大王家の正統性を裏付ける歴史書以外はすべて焚書の刑に処せられていた。もしこの『日記』の発見が別のタイミングで起こっていたならば、この国の根幹を揺るがすほどの大事件となっていただろう。だが、その時点では、出口の見えない内戦を終わらせ、国家刷新を行うにあたって恰好の「大義名分」を与える資料となった。というのも、糸井重里の発見した『日記』にはこれまで「裏歴史」として異端歴史学者たちによって信奉されてきた国史が記録性に富んだ文体によって細かく記述されていたからだ。「裏歴史」とはつまり太陽神の末裔とされる大王家が、実際は隣の半島国から渡ってきた外来人一族であることを、その外来人らによって滅ぼされた原住民豪族の手によって語ったものだった。その外来人による征服が起こるまでは、この国には地方豪族らによる連邦共和制が敷かれ、国の長は入れ札によって選ばれた代表者三名の中から籤引きによって選ばれるという、世界史上極めて稀で優れた民主国家であったことがわかった。もちろん、村のシュリーマンこと糸井重里を知る近隣住民にとってはそれが、時代の空気を読み取る卓越したセンスとそれを軽妙洒脱な言語感覚で表現する彼のクリエイター的才能によって「発見」されたことは周知の事実でもあった。彼は常に発掘を趣味とし地形が変わるほど穴ぼこを掘り続けてはいたが、一度として歴史的意義のあるものなど発見した試しはなかったのだから。
また『日記』には王権制以前の古代史の部分、『日記』が書かれたとされる外来人の征服から王権制の確立までの部分、そして、その王権制の崩壊までの歴史を予言した未来史の部分があるという。今回見つかった『日記』にはその未来史の部分は含まれていなかったというのが、糸井重里の弁だ。しかし、一部では糸井重里によって隠し持たれているのではないかという噂が絶えなかった。が、結局大王家が消滅したいま、さほど重要なこととは思われていなかった。そうこうするうちに、九つの都市は連邦制による共同統治の実現へと動き始め、糸井重里はタレント文化人へと出世し、放送作家、作詞家、コピーライター、ゲームクリエイター、役者、小説家、などと元来のマルチタレント性をいかんなく発揮した。いまや「ザ・80年代」とまで呼ばれるようになった彼は、新国家の〈象徴〉となりつつあった。
そうやって誰しもが新しいこの国のかたちに希望を見出し、復興バブルに浮かれ始めてもなお、若者のカリスマ都市〈月〉は独自の政策を貫いていた。新首都が持ち回りということで決着しそうないま、〈月〉は独立都市国家への道を歩み始めていたのである……。
そんなころ、〈月〉に住む大学生・大江健三郎はここ数ヶ月に渡って悩まされ続けている妄執に決着をつけるべく奇妙な仕事を始めようとしていた。彼がその奇妙な仕事を大学のアルバイト募集掲示板で発見したとき、少なからず興奮を覚えたものだ。そのころ彼は、国内で繰り広げられている戦争にリアリティを感じられない青年の一人として、もっぱらおのれの内面ばかりに固執し、年功序列ヒエラルキーの再逆転を狙うポスト団塊世代によって糾弾されつつあった「情報過多の弊害により知識と自意識と自己顕示欲だけが肥大化した原体験の脆弱な若者」の典型のような日々を送っていた。彼は無駄に神経をすり減らす生活の中、ある妄想に囚われるようになっていた。それは自らのドッペルゲンガーが存在する、というものだった。彼は常に〈もう一人の自分〉を意識せずにはいられなくなっていたのだ。もちろん彼は持ち前の「豊かな想像力」によって、ドッペルゲンガーの正体は、〈本当にやりたいこと〉を断念し「社畜」という奴隷以下の存在に自らを押し込めねばならないという通過儀礼――つまり就職活動――に直面した結果、去勢否認という自己保護プログラムが発動し、社会適応型の強かな自分である〈御社に入社したい自分〉に押し出された、包皮に保護され萎縮した陰茎を持つ〈本当の自分〉であることを、すでに悟っていた。そう考えれば、適職診断を繰り返し、毎回変わる〈天職〉にもっともらしい動機を捏造して就職試験面接にのぞんでも、ついに内定の報せが届くことがなかったことにも納得が行くからだ。果たして彼は長引く不況と新卒採用が底値をなす年において、大学側が就職率向上をもくろみ「就職留年」を実質的に認めた「卒業延期制度」の認定第1号となったのであった。彼は正規の学費の三分の一を支払うことで、モラトリアムの延長に成功したわけだ。そして、懸案であったドッペルゲンガー探し=〈自分探し〉に本腰を入れることを決意した。就職留年組が、海外留学や大学院進学、あるいは各種資格学校へのダブルスクール、または〈夢〉を叶えるための仮の仕事として昼夜を問わない単純労働アルバイトへの従事、プチブルである親元への帰省や書籍とデジタル銀盤に囲まれたワンルーム王国へのひきこもり、とそれぞれの〈自分探し〉に精を出すなか、彼のドッペルゲンガー探しだけが、SPIなどでは永久に見つけることのできない本当の〈自分探し〉であったと言える。
いや、果たして彼は狂気に魅入られていたのだろうか。もちろんそうではない。なぜなら彼は〈小説家志望〉でもあったからだ。彼は、小説家がもっぱらそうであるように、常に神経症ではあったが、精神病ではなかった。彼はどんな非日常的な場面であろうとも、それを俯瞰して見ているような〈もう一人の自分〉を感じていたし、「いつかこの出来事を小説に書いてやる」という野心が、彼のアイデンティティのベースとなっており、それはこの都市を支える地面のように盤石のものだった。もちろん〈本当の自分〉が分離した今もそれらすべてのベースである〈小説家志望〉は健在であり、この戦争よりもリアルな彼の内面的葛藤の軌跡こそ小説化されるべきだと彼に訴えるのだった。ドッペルゲンガーとなった〈本当の自分〉をめぐる冒険こそ、最高のネタではないか、と。もちろんドッペルゲンガー探しの自分探しなどベタではあるが、「ベタこそリアル」が信条の〈小説家志望〉はタフな微笑を浮かべたまま黙って彼を見守っているのだった。
そんな妙に図式的な精神構造を持った彼は、〈月〉中央に位置する合同庁舎に向かって歩いていた。都心と郊外をつなぐ中継都市として栄えたこの街には巨大なビル群などは存在せず、それまではこの街の外れにある彼の通う私立大学の第11校舎がもっとも高い建物だったのだが、一年前に完成した超ハイテクノロジー情報ビルである合同庁舎が現在ではもっとも巨大な建造物となっていた。設計者は西欧の芸術大国において、現代建築でもっとも権威のあるコンペに優勝したこの街出身の建築家・番場伴によるもので、テオティワカン遺跡のピラミッドを模した全面ガラス張りのその建物は、街のどこからでも視認でき、街の人々はテオティワカンのそれではなく自国に唯一存在するピラミッド「不死山」を想起した。
その合同庁舎内で行われるバイトの内容は、彼のドッペルゲンガー探しに打ってつけのものだった。彼はドッペルゲンガーの存在を確信しながらも、明滅する信号機と瞬きがシンクロし、常に信号が消灯して見えるように、ドッペルゲンガーと遭遇することができずにいたのだ。この街のどこかに存在する〈もう一人の自分〉を発見するには、決して瞬きすることなくすべてを見通す「神の眼」でもない限り不可能に思われた。
その掲示板には『モニター募集』と書いてあった。といっても、新商品を試してその感想を書いたりするようなものではなくて、この〈月〉中に張り巡らされた治安維持用の監視カメラのモニタリング=監視のことであった。「神の眼」を欲していた彼にとってこれ以上の仕事はなかった。彼はすぐさま応募し、見事に採用となった。
スペイン語で子宮を意味する名前の付けられた無駄に広いエントランスではすでに担当者が待っていて、彼をモニタールームに案内する道すがら簡単にこの仕事のあらましを説明してくれた――
一年戦争が勃発する以前から、この街は犯罪やテロルなどの破壊活動に対して警戒意識が強い土地柄だった。というのも都心からも郊外からも同程度の距離にあり、人間の流入と流出がもっとも頻繁であったことがその原因である。つまり、街には余所者(犯罪者予備軍)が多いということだ。そこで最年少でこの街の市長になった松本清は、都市の大改造に着手した。あらゆる道路や公共施設が整備され改修され、都市の境界線はもちろん街の至る所に人々を監視するカメラとセンサーが設置された。そういったこの街特有の事情に加えて先の内戦及びこの街の参戦が、単なる犯罪抑止目的の監視都市から独自の警察力と軍事力を有する独立都市国家へと質的レベルアップを要請した。愛国心に溢れる若者のほとんどはこの都市警察か都市軍に所属し、そうでなくても自警団などのなんらかの実力部隊に所属するに至った。それによって膨大な数のカメラを監視する人材が不足したために、やむを得ず、そのような募集を打ち出したのだ(もちろん、就職意欲に乏しく、かつ右傾化せずにいる若者に、愛国心と仕事を同時に与えるという一石二鳥な政策でもあったのだが)。
途中階をすっ飛ばし、一気に最上階66階まで上昇するエレベータの重力変化に少なからず精神を高揚させられた彼は、監視員として街の映像を見続けていれば、いつかかならずドッペルゲンガーを視認することができるだろう期待に胸躍らずにはいられなかった。そしてそれ以上に、「いつかこの出来事を小説に書いて(デビューして)やる」といういつもの隠匿した野心が疼くのを感じずにはいられなかった。
エレベータが減速し、この街でもっとも高い場所に到着すると摩擦係数が限りなくゼロに近いであろうドアーが自動で開き、彼のみがフロアーに進み出た。そこはアーチ型の天井がサンルーフになっている小さなホールだった。左右にドアーがあり、まったくのシンメトリーに作られていた。担当者は、左が市長室、右がモニター室だ、間違えないように、とだけ言い残して再び地上世界に降りていった。
モニター室は三角屋根の形状に合わせて天井が斜めになっていた――ここはピラミッド型の建物の最上階である。その天井に19インチ程度のモニターディスプレイがびっしりと張り付いていた。その数は数えきれぬばかりで、透視図法のお手本のように部屋はかなり奥まで一直線に続いていた。ただ光源はそのモニターだけで、全体的に薄暗い。彼はその部屋の異様さにも驚いたが、もう一つ驚いたというか、あっけにとられたのは、そのモニターを監視するはずのこれまた大量の人間はどこにもおらず、ただ小柄な老人が一人ぽつんと本を読んでいるだけだったということだ。
老人は下を向いたままこちらを見ようとはしない。あるいは彼の存在に気づいていないのだろうか。老人が座っているのは、球形の、おそらく最新型のマイナスイオン発生装置付きのカプセルチェアだ。座っていることすら忘れる、と言われるそのリラックスチェアの中で、老人は一心に本を読んでいる。付属の自由可変型サイドテーブルには数冊の本が平積みに置かれている。〈小説家志望〉である彼は、常に他人の読んでいる本をチェックする癖があった。カフェーや電車内など勤勉な民族であるこの国の人々はせっせと本を読む。ポルノグラフィックな雑誌から難解な哲学書まで。なるたけそういった本のタイトルを確認し、帰宅後検索エンジンにかけるのが彼の趣味だ。そうやって辿り着いた本や作者は不思議とそのときの彼に必要だったと感じられるものが多いから不思議である。
彼は数歩、本に近づいた。『アウトドア派の男たちに捧ぐ、ダッチオーヴン料理と休日の過ごし方』、『寒さに備えて』、『食べたくなると、飲みたくなるもの。』。ちょうど三冊とも表紙タイトルを見ることができた。それなりに蔵書家である(読書家ではない)彼の知らないタイトルだった。もちろん文芸や哲学・芸術以外の本に関してはうとい彼なので、おそらく趣味・実用書の類であろうその本たちを知らずとも不思議ではなかった。ただ、『寒さに備えて』はあるいは文芸書かもしれないと思った。北の文豪量産国で書かれた古典的名作かもしれない。だってタイトルが文学的だから。いや、そう考えると『食べたくなると、飲みたくなるもの。』もあやしい。もしかすると新進の自由律俳句集か何かかもしれない。特に「。」をわざわざつけているところなんか。日常生活の機微を若者言葉と諧謔精神によって自由に表現する俳句や短歌が一部の若者の間でブームとなっていると国営放送で見たことがある。多少テレビ映えがすれば気の利いた中学生女子の書いたような作文でも「文学」として担がれる時代だ。「食べたくなると、飲みたくなるもの。」という素朴だが庶民感情を見事に表現した俳句が出版されてもそれほど不思議ではない。あるいは際限ない人間の欲望スパイラルに対する皮肉だろうか……。
そんな鋭い文学的考察をしていると、ようやく老人が顔をあげた。そして奥に仕舞ってあったらしいもう一台のカプセルチェアをリモコンで呼び寄せ、彼に勧めた。
「なぜ監視員として呼ばれたはずなのに、ここには一人の監視員もいないのか……そうきみは訊ねたいのだろ? だが、その質問に答える前に、私の話を、まずは聞ききなさい」
モニターの光に照らされて老人の肌は緑がかって見える。頭にはターバンのようなものを巻いている。どこか人間離れした眼光……この不可解な状況といい、おもしろくなってきたぞ――彼はそう思わずにはいられなかった。
「例えば、〈見たら一週間後に死ぬビデオ〉があるとしよう。いやいや、もちろんそんなものが荒唐無稽なことはわかっとる。仮に、じゃ。で、だ……そのビデオを見た人間が実際に死んでいく。死んだ人間は、死ぬ直前にとてつもなく恐ろしいものを見たかのような表情をしている。例えば怨念に満ちた幽霊や何かに遭遇したような。ただ、このビデオを見ても死なない方法が一つだけある。それはこのビデオをダビングして他人に見せること。そうすれば死ぬことはない……」
そこまで話して、老人は黙った。彼の反応をうかがっている。
怪談話としてはよくある部類に入るのではないか。たいてい怪談話のパターンは決まっていて、それがそのときそのときの風俗や文明の利器を小道具にして繰り返されるだけだ。この場合はそれがビデオテープで、話の型としては数年前に流行った「不幸の手紙」と同じだ。もしこのビデオがどこぞの幽霊の怨念の賜だとすれば、四谷怪談に代表される「うらめし」系になる。どう考えてもオリジナルな点は一つもない。彼は一瞬のうちに、そう分析してみせた。
「これはあくまで噂じゃが……なんでも、死ぬ直前に女の幽霊が出てくるらしいのじゃ……どこからじゃと思う?」
首を少しひねることで、彼はわからないということを伝える。言葉を発さないのは、余計なことを言って話の腰を折らないようにという配慮からだ。
「テレビの中からじゃ……」
思わず彼は吹きだした。小学生の怪談話でももう少しマシなはずだ。老人は笑われたことに特に不快な様子はなく、真剣な表情のまま彼を見つめている。しばらく沈黙があり、喉にからまった痰を飲み込んでから老人が手を伸ばした。本の陰から黒光りする弁当箱のようなものを取り出した。ビデオテープだ。
「実はこれが、それなのじゃ…」
指示語だけでのセリフだが、前後の文脈から、そのビデオテープが〈見たら一週間後に死ぬビデオ〉であることは明白だった。
「このビデオをきみに見て欲しい」
無意識のうちに予測していた言葉を老人は吐いた。矢継ぎ早に続ける。
「報酬は七億円。即金じゃ。平均的サラリーマンが得る生涯年収の三倍以上ある。一週間なら一日一億ずつ使える計算じゃ……。どうじゃろう、あいにく時間が迫っていてね、今日中になんとかせねばならない。きみのあとにも候補者が待っている。十分間のシンキングタイムで回答を聞かせてくれないか?」
そういうと老人はリモコンを操作した。奥から機械音がし、青い光が映し出された。小型のテレビだ。コードでつながれたビデオデッキもある。青い光の先には、ピラミッド型に積み上げられた札束まで用意してあった。この空間といい、モノの配置といい、いつか見た現代アートのインスタレーションを彼は思い出した。いたずらにしては手が込んでいる。あるいは何かの心理実験か?
「察するに…きみは、この話を信じていない。非科学的だし、怪談話としても二流だ。違うかね?」
笑ってみせようとしたが、うまく片頬が動かない。思いの外、自分が緊張していることを彼は悟る。
「で、あるならば、何を躊躇する必要がある? 見せ金ではないぞ。確認してみたまえ」
老人は札束のピラミッドを顎で示した。
「これが、僕の、今日の仕事ですか?」
彼がこの場所に来て発した最初の言葉だ。この状況に対する何かしらのヒントを得たかった。あまりにもわからないことが多すぎるし、留保されたままの疑問が多すぎてフリーズしそうだ。
「ふむ…きみは迷っている。非科学的で荒唐無稽な私の話に…お金が嫌いでもあるまいし…」
老人は謀っているような様子もなく、淡々と彼の心理を読み取る。
「では、別の話をしよう。これは私自身にまつわる真実の話だ…おっと、この話の間はシンキングタイムにカウントしないから安心したまえ」
そう言って老人は眼を閉じると、静かに語り始めた。自分の物語を。そのあらすじはこうだ。
まず老人は宇宙人であった。宇宙の中心にほど近い高度の文明と特殊能力を有するピクロコル星の生まれであった。その星の人間は高度な宇宙渡航技術と我々の言うところの超能力――千里眼や透視能力、軽度の念力やテレパス能力、をもっており、地球のような発展途上惑星に人員を送り込み生物学的進化や文明の進歩をそれとなく手助けするという、いわば「神」の派遣を執り行うのがその役目であった。しかし突如訪れた宇宙中心部の磁場異変により環境が激変し、多くの同胞が死んでしまった。絶滅を免れるために、優秀な才能を持つ子供たちを、残存しているわずかな宇宙船に乗り込ませ、脱出させたのだ。そして彼の乗った宇宙船はたまたま――おそらく地球の神の後任が乗るはずだったために、地球行きがプログラムされており、この星に辿り着いたのだ。そのときにはすでに地球の神は寿命が尽きていた。地球人の中でももっとも優れた直感力を持った哲人のみが、「神は死んだ」ことを察知していた。そこから世界のバランスが微妙に狂いだし、人間の進化は停滞し、精神性は退歩しはじめた。戦争と自殺と貧困が増加したのだ。老人は神なき世界を立て直すべく、神となる修行に励んだ。しかし、まだようやく第二次性徴を迎えたばかりの彼には荷が重すぎた。遊びたい盛りだったのだ。誰彼構わず反抗したい年ごろだった。しかし彼は持ち前の生真面目さでそれを克服しようとした。毎夜、床につくときに訪れる桃色の煩悶や暴力衝動、世俗的功名心に金銭欲、その他諸々の煩悩を追い払おうとした。その結果、重度の摂食障害と対人恐怖症に陥り、社会的ひきこもりになってしまった。老人は半ば神になることをあきらめかけていた。第一、自分が地球の神になる義務なんてなかったはずだ、たまたま緊急脱出した星がここだっただけじゃないか、自分には自分の人生を決める権利がある、大人の決めたルールに従う必要なんてない、平凡な地球人として暮らしたっていいはずだ――そんな妥協案を採決する日も近づきつつあった。そんなある日、彼は発狂寸前まで内省した挙げ句、空の胃袋からの猛烈な吐き気を感じた。彼が死ぬ思いで吐き出したのは、彼自身――彼の悪の魂だった。悪の魂を吐き出すことで、彼は完全なる魂を手に入れることができ、神になることができた。しかし、同時に若さまでも失い、たちまち老人の姿になってしまった(悪や煩悩こそ「若さ」の源なのだろうか…)。彼は第二次性徴の半ばにして、心も体も老成してしまったのだ。それからの彼は何事にもやる気がなく、虚脱状態に陥り、とうとう本当のひきこもりになってしまった。自分の世界に閉じこもり、自分の世界だけで神を演じた。彼は六畳一間の万能感に満たされていた。そうやって彼が無為に過ごしているころ、彼の悪の魂はその器となる人間を捜し求めていた。それは誰でもよかったのだ。結局、生硬な知識で夢想に耽ってばかりいる、自称・郷土史家の無職中年男性へとその魂は宿った。
「糸井、重里…」
大江がつぶやくと、老人は黙ってうなずいた。
老人は若さだけでなく、超能力のほとんどもその悪の魂に奪われていたのだ。ただ一つの能力を除いて…。その後の糸井の活躍にはこういった秘密があったわけだ。でなければうだつの上がらない自称郷土史家が、いまや時代を代表するポップスターになれるわけがなかった。
老人は途方に暮れた。自死も考えた。超能力もない、高度な科学的知識はあってもそれを利用できる場がない。これでは技術革新によって職を追われた老職人と同じだ。彼はとうとうアパートも追い出され、高架橋の下や都心の公園でのダンボールハウス暮らしを余儀なくされた。同じようなルンペンは周りにたくさんいたが、神であるプライドが彼らとの交わりを拒絶させた。そういった浮浪者のネットワークにも背を向けた彼が流れ着いたのがこの街であり、半死半生になりながら故郷の星の歌(それは、この国の人間が聞くと猥歌にしか聞こえない)をうたっていたときに彼を助けたのが、当時、あらゆる弱者を救うことを目的とした学生団体の長であった松本清だった。彼は松本にすべてを打ち明けた。野暮とは知りながら初対面の相手に身の上話をしたのだ。松本は微笑みながら何度もうなずき「もう大丈夫です。私はあなたの味方です」と彼を励ました。彼はまるで神様だった、とは老人の言である。そして彼はこのときはじめて神としての仕事をした。それは彼に残された唯一の超能力である「才能を開花させる」能力を使用したのだ。慈善団体の長であった彼の「才能」――もちろん慈愛心などではなく政治的野心の方だが――は見事に開花し、最年少の市長誕生へと至ったのだ。
老人はそこまで話すと、額に浮かんだ玉のような汗をぬぐった。大江は心の中でため息をついた。あまりにもリアリティのない話だからだ。妄想癖のホームレスが市の政策によって再雇用された、と考える方が現実的だ。妄想のパターンとしてもありふれている。
「さて…」
老人は、カラリとした表情で言った。
「きみは私の話を嘘っぱちの妄想か何かだと思っている。それも極めて稚拙な妄想だと。例えば、さっき私が話した〈見たら一週間後に死ぬビデオ〉と同じように…さあ、シンキングタイムは残り七分だ」
大江は躊躇する理由などないはずだった。どれもこれも荒唐無稽な話だ。さっさとビデオを見て、金を奪ってやればよかった。彼はビデオテープに手を伸ばした。誤って積んであった本を落としてしまう。ばさばさっと三冊とも床に落ち、裏表紙が見えた。彼はそれらを元に戻すこともせずに、ビデオデッキに向かった。山積みの札束を確認する。彼の見る限り本物のようだ。デッキの挿入口にテープをさし込む。しかし、手が震えてうまくいかない。
「そういうことです!」
老人が叫んだ。
「そのビデオの話は嘘です! フィクションです!」
大江は老人を振り返った。彼の心によぎったのは紛れもない安堵の気持ちだった。
「しかし、私は、ピクロコル星人です。この星の神です!」
老人はそう言うと頭のターバンをほどいた。つるつるの頭頂部とそこから突き出た二本の触覚のようなものが現れた。それでも彼はにわかには信じられなかった。だが、信じると信じないに関係なく、真実は目の前に存在した。「事実は小説より奇なり」――素朴なリアリストたちが好んで使う、現実のフィクションに対する優位性を表した格言が彼の脳裏に浮かんだ。それは彼のもっとも嫌いな言葉でもあった。
「きみは、フィクションである話に反応し、ビデオを見ることを躊躇した。しかし、真実である私の身の上話はまったく相手にもしなかった。これがすべての答えです。例えば、このモニター室に監視員がいないことの答えも。「見られているかもしれない」と市民に思わせればそれで十分なのです。それで犯罪抑止効果のすべてを果たしています。実際見ていたところで、犯罪者とそうでないものをどうやって区別するんですか。結局、犯罪を犯した者しか犯罪者ではないのですから。事後的に録画された映像を犯人逮捕に役立てることはできても…」
大江はすべてを悟った。世界を動かしているのが、常に稚拙な妄想の類であることにも今さらながら気づいた。ただ一つ、いまだ謎なのは、なぜ自分がそんな重大な事実を知らされたのか、なぜ「神」に選ばれたのか、ということだった。
「それはきみが特別な人間だからだ。いまはそうとだけ答えておこう…」
老人――神は、含みたっぷりにそう言った。「特別な人間」大江には心当たりがないわけではなかった。確かに自分は「特別な人間」と呼ぶに十分な素質を持っているではないか。彼の秘密の野望を神が知っていたとしても不思議ではない。
神はもう少しだけ話そうと言って、地球の行く末に関する重要な事実を再び語りはじめた。それはこういった具合だ。
悪の魂の乗り移った糸井重里、彼は順調に芸能界のトップに上り詰めた。しかし、それはまだ本性を現していない仮の姿なのじゃ――神は憎々しげにそう言った。彼の最終目的は、「合法的な世界征服」である、と。その一歩として現在この国のポップスターとなり、大衆人気により次期大統領をねらっているのだと。
「もしかして、首都を壊滅させた例の自殺も、糸井の仕業ですか…?」
「いや、それは違う」
真相はこうだ。ひょんなことで理科教師と出会った神は、自分の超能力によってこの若者の才能を開花してあげようと考えた。なぜなら神の見立てでは彼は相対性理論と量子力学を融合し反転させた結果得られる超紐理論を実証できる唯一の人類であったからだ。しかし結果から言えばそれは見込み違いだった。いや、確かに彼にはピクロコル星人にも匹敵しうる物理学の才があった。本人も物理学者を志していながら、とてもつまらない理由でそれを断念、一介の理科教師へと成り果てたのだ。ようやく〈夢〉を物理学者から理科教師にすり替えることに成功したとき、神のいたずらによって、本来の才能を開花させられてしまった。生真面目だった彼は、〈本当にやりたいこと〉と〈現実〉の板挟みになり、最後の最期において己の才能をいかんなく発揮し、自殺を果たしたのだった。
もちろん、結果からいえば、この神のいたずらにより、戦争が始まり、糸井の野望にチャンスが訪れ、〈月〉という独立都市国家が誕生したのである。事実は妄想よりも奇なり。
過ぎたことは仕方がない。問題はこれからだ。このまま行けば糸井が日本国の首領となることは確実である。現在、あからさまではないにせよ、自由主義に建前に〈月〉への経済封鎖が着々と進みつつある。糸井が実権を握った日には、惑星連合と〈月〉との直接対決は避けて通れないそうなれば国力の差において圧倒的に〈月〉は不利であり、負けは必定。そこで〈月〉および松本清、そして神は一発逆転の奇策を案じた――
大江健三郎は振り返った。マジックミラーの外壁が夕日を映し出している。つまり、彼は「自分を神だ」と信じ込んでいる瘋癲老人の与太話に付き合ったわけだった。繁華街のアーケードを歩きながら、彼は、「しかし、いいネタをもらった」とほくそ笑んだ。帰ったらすぐさまパソコンを起動させ、この話を小説に書こうと決めた。アーケードには大音量で有線放送が流されている。ちょうど糸井重里プロデュースの曲だった。歌っているのは日本版デヴィット・ボウイ。歌詞は荒唐無稽で、先ほどの老人の話にも勝とも劣らないほどの内容だ。老人はこの曲についても「糸井の我々への宣戦布告であり、おのれが『予知能力』を誇示するものだ」と言っていた。本当ならば、いっそうおもしろい。
しかしそれから数ヶ月後、結局、大江が小説を一行も書かかぬまま、もちろんドッペルゲンガーも見つからぬまま現実は進行した。その日、彼はかつてない轟音と大地の揺れで目を覚ました。ほとんど読んだこともない蔵書の数々が飛び散り、彼はパニックに陥った。このときこの街の住民のすべてが大規模な地震だと思った。しかし、市政の中枢を担う数名の人間と〈神〉と大江健三郎彼だけが、そうではないことを悟った。
「まさか本当だったとは!」
予言は成就された。彼は大声で叫び、万が一のために用意しておいた緊急避難用の道具を背負い、部屋を飛び出した。彼は走った。街の境界線まで。
「ま、街が、浮いている!」
すでにはるか下方に広がる関東平野を彼は見た。
彼はようやく老人――神の話が与太などではないことを悟った。神が語っていた、〈月〉=松本と神の第三セクター計画「宇宙要塞衛星都市ルナU」は間違いなく本物だったのだ。その骨子はこうだ。まず神が乗ってきた宇宙船の動力部分だけを取り出し、再利用する。これは半永久動力であり、反重力物質の、通称「飛行石」と呼ばれるもので、街一個を宙に浮かべることもそれほど困難なことではなかった。ちなみにかの有名な「天空の城」にまつわる超古代文明伝説は先々代のピクロコル星人がこの飛行石を誤って人類に譲渡してしまったことにはじまる。核兵器を搭載した要塞都市として世界を蹂躙した天空の城だったが、勇敢な二人の少年少女(と老婆を首領とする義賊の協力)によってその野望は挫かれた。その天空の城とほぼ同じ発想だが、スケールアップを試みたのが、この宇宙要塞衛星都市ルナU計画だ。天空ではなく、さらに地球の衛星軌道上まで街を浮上させ、そこから核兵器を搭載した各種ミサイルを使い、極西国家及び地球連邦軍と戦争を繰り広げるのだ。そしてそのことは、糸井は承知済みだったようだ。おそらく『日記』の未来史の部分にも書かれていたのだろう。極西国家の神権政治のエピローグとして。
街の街頭スピーカーからは、『独立宣言』が松本の声で発せられている。バックグラウンドミュージックはなんとその糸井の予言の歌だった。粋なことをするというか、勝利への確信なのだろうか。もう聞かずとも、その歌詞を諳んじることができた。こんな歌だ。
空を飛ぶ
街が飛ぶ
雲を突きぬけ星になる
火を吹いて
闇を裂き
スーパーシティが舞いあがる
TOKIO
TOKIOが二人を抱いたまま
TOKIO
TOKIOが空を飛ぶ
もはや説明も不用だろう。もちろん「街」とはこの街〈月〉のことだ。「空を飛ぶ/街が飛ぶ/雲を突き抜け星になる」とは、まさにこの街〈月〉が大気圏を突き抜け衛星軌道上にて「第二の月」=ルナUになることを表しており、「火を吹いて/闇を裂き/スーパーシティが舞いあがる」とは、核兵器を搭載したスーパーシティ〈月〉が宇宙の闇を切り裂いて地球に攻撃を仕掛けている様子を表している。いや、ただ一点だけ不可解な箇所がある…大江は気づかなかった。この歌においてもっとも意味不明な箇所。そう「二人を抱いたまま」の部分だ。およそ〈月〉には一万人強の市民がいる。わざわざ「二人」と特記するのには何か深い意味があるはず…。そうである。大江とそのドッペルゲンガー、彼らを指して「二人」と呼んでいるのだ。つまり彼の妄執かと思われていたドッペルゲンガーの存在がこの大いなる予言の歌によって証明されたわけだった。
だが、彼はそんな予言に甘んじなかった。
――俺は、そんな予言は認めない。所詮人間は大地を離れては生きられないのだ。土に根をおろし、風とともに生きよう。種とともに冬を越え、鳥とともに春を歌おう。どんなに恐ろしい武器を持っても、幸福は訪れないのだよ。
そんな意味不明の決意のもと、彼は街の境界線から飛び降りた。彼はそれを用意していた自分を褒めたくなった。彼はそのヒモを引いた。見事に落下傘が開き、彼は一瞬その街を上方から眺めることになった。彼は空中浮遊の昂揚感から妙な発想が生まれた。例の糸井の予言の歌をパロディにして、例えばTOKIOを旧都名であるOEDOに変更し、隈取りしたヴィジュアルロックバンドに歌わせてみるとか。いやいやもちろん尋常ならざる状況で生まれた妄想。そんなものが実現するはずはない。
次第に彼は高度を下げ、今度は街を下から眺める恰好になった。街の下部はきれいに刳り抜かれ、ステンレスボウルのようだった。いったいどんなテクノロジーでこんなことをしでかしたのだろうか。彼は神の緑色した顔を想い出した。下を見ると、なくなった街の跡が黒いクレーターとなって待っていた。彼は、静かにその境界線あたりに着地した。なるほど、おそらく月のクレーターとはまったく逆の方法でできたものだった。言うなれば街の足跡。
結局、ドッペルゲンガーを見つけることはできなかったし、地上と宙に別れ別れになってしまった。もう永遠に〈本当の自分〉には会えないのかもしれない。いや、はじめからそんなものはいなかったのだ。それは就職活動という去勢手術を「小説家になる」という〈夢〉によって忌避しつづけていた自分の弱い心だったのかもしれない。事実、彼は一行たりとも小説を書きはしなかった。「予感と構想」を己の実作と錯覚していたのだ。彼はようやくそういった諸々の勘違いに気づいた。このクレーターやその後ろの元首都のように、はじめから〈何もなかった〉のだ。
なんにもない
なんにもない
やっぱり、なんにもない
この有名な歌は、このとき彼が詠んだものである。この現代自由律俳句の出発点となった歌を残して、彼はごく普通の社会人になった、「有益な男の誕生」へと相成ったわけである(これこそ神によって密かに開花させられていた彼の才能「平凡」であったことなど、彼は知る由もなかった……)。彼を妄執へと駆り立て、人生を狂わせていたアイデンティティのベースである〈小説家志望〉も〈街〉のようにどこかへ飛んでいってしまっていた。彼は、〈街〉の足跡であるクレーターのほとりで、ようやく本当に〈本当の自分〉に出会えたのであった。
――そしてその後三十年にわたって繰り広げられた宇宙戦争に彼が関与することは一切なかったと歴史書は伝えている。
〈了〉
元ネタ一覧(順不同)
『機動戦士ガンダム』
『極西文学論』
『太陽を盗んだ男』
『リング』
『表徴の帝国』
『クレーターのほとりで』
『となり町戦争』
『白の咆哮』
『邪馬台国はどこですか?』
『在日ヲロシヤ人の悲劇』
『絶叫師タコグルメ』
『見えない都市』
『ガルガンチュア』
『トリストラム・シャンディ』
『アキラ』
『ドッペルゲンガー』
『スターウォーズ』
『天空の城ラピュタ』
『めちゃめちゃイケてる』
『ドラゴンボール』
『霊界物語』
『文學界』
『群像』
『新潮』
『TOKIO』
『お江戸 OEDO』
『ベルリン・アレクサンダー広場』
『天才バカボン』
文芸誌『文學界』『群像』『新潮』『文藝』を買い込んでくる。ついでに『タイタンの妖女』『一九八四年』も。読むかどうかはわからんけれど。出版不況打破に貢献しております。
『新潮』(2005年8月号)の福田和也氏と保坂和志氏の対談を読んで、
「読むために読む」というのの崇高さを再び思い出さされた。
考えてみれば、自分は「読むために読む」経験なんてあっただろうか。常に別の何か(話すため、書くため、知的虚栄心のため)読んできた気がする。
まあ、別にそれでもいいんだけど、「現実に影響を与える」ことが小説の至上命題ではないということは頭の片隅に置いておいていいと思う。
小説を読むことそのものが歓びであるなら、それ以上何が必要なのだろうか。
凡人の私は、今日も「書くために読む」のだ。
【メモ】
リアルよりはリアリティ
アプリケーションの追加というよりはOSの更新
アハ体験?
メタファー以外の世界の解釈の方法
解釈?
【嫌悪感について】
中年女性と小劇場系演劇関係者と小説家志望と山田詠美に対する嫌悪感について書こうと思ったのだが、そんな世渡り下手なことをしていてもしょうがないので、やめる。
【芥川賞について】
芥川賞を中村文則さんが受賞した。たまたま朝のテレビ番組で受賞のまさにその瞬間に密着取材した映像を見た。コメンテーターたちは、彼の立ち居振る舞いや作品内容に、真面目で真っ当な文学のにおいを感じていたようだが、相変わらずの的外れな感想である。僕は中村さんの作品は好きだが、暴力や生や死について真摯に「文学」やってるから、彼の作品は素晴らしいのではない。そのすべてが「嘘くさい」ことこそ、その才能の本質なのだ。死乱けど。
【Yahoo!文学賞or群像新人文学賞について】
どちらかの文学賞に作品を書いて応募しようと思う。自費出版では食っていけないことがわかったし、腕試ししたいし、目標があった方がいいだろうし。まずは賞の傾向と対策を練らねば。
【ポール・オースター】
最近、ポール・オースター『幽霊たち』というのを読んだ。なんというか簡潔な文章で、ああも深い作品を書けるなんて、すごいとしかいいようがない。海外文学(80年代前後)ブーム到来の予感。
【メモ】
ロレンス・ダレル
『アレキサンドリア・カルテット』
『ジュスティーヌ』
『マウントオリーヴ』
『バルタザール』
『クレア』
藤枝静男
言い忘れていたが、現在、私は九州地方中部で生活している。首都圏にはいないので、あしからず。で、今日は都の西北に小説家を見に行く。
公開対談『文学にとって「萌え」とは何か』桐野夏生×松浦あや。
そこそこおもしろかった。「魂」がどうの、「心」がどうの、「肉体」がどうの、「官能or感応」がどうの、そんなことよりも、小説家とアイドルが現前していることに圧倒された。
帰りはどしゃぶり。さすがに九州と首都の日帰り往復は、つらい。
以下は、自己への課題。
矢部浩之
伊集院光
向井秀徳
この三者を取り上げ、「現代サバイバルモデル」の三形態について論じなさい。
向井秀徳の夢(ドリーム)は「映画を作ること」。
椎名林檎の夢(ドリーム)は「再婚」。
椎名林檎の肩出しルックは、俺の性的衝動を蘇らせるのだが、向井秀徳の一ファンとしての椎名林檎は、圧倒的共感を呼び起こす。これまで「好きだけどファンというほどではない」という距離感を保ち続けていた俺にとっての椎名林檎が、もはや同じように向井秀徳に恋するファンの一人、或いは代表といってもいいほどの存在へと昇華し、なんというか「向井秀徳を好きな椎名林檎」が大好き、という込み入った状態になってしまったのだ。変な喩えかもしれないが、俺にとっての恋愛対象は向井秀徳であり、最高の友達・理解者として椎名林檎がいる、という感じか。勘違いしないで欲しいが、肉体関係ならば是非「林檎ちゃま」と持ちたいものである。
今回、向井秀徳に対する印象の変化というものはなかった。過去に、DVDやケーブルテレビで見た「普通にしゃべる彼」のイメージを踏襲するものだったということだ。確かに今回は向井秀徳がメインゲストなのだろうが、世間に与えたインパクトとしては、椎名林檎というそれなりのポップスター(誰だったか忘れたが、松任谷由実に対する中島みゆきが、宇多田ヒカルに対する椎名林檎であると言っていた)が、なんだか地味で眼鏡をかけたアロハシャツの男にメロメロ(!)じゃん、というのが大きかったのではないだろうか。
だって、「再婚」って…。
どう考えたって、向井秀徳への椎名林檎からのポロポーズじゃないですか!
「お子」がいたっていいじゃない。これ以上の人はいないですよ。音楽性も性的魅力も!
This is Mukai Shutoku with RINGO chama .
※『僕らの音楽』録画したので見たい人は申し出てください。著作権法に触れないかたちで、見せられると思います。
新卒内定者の7割程度が自分を「勝ち組」だと規定しているらしい。まあ、みずから進んで「負け組」を自認したがるのは、自意識過剰自己顕示欲肥大の役者志望か小説家志望くらいだろう。
そんなことはどうでもいいのだが、最近、自分の能力の限界を感じつつある。「できること」と「できないこと」がわかりつつあるのだ。そんなことを言うと悲観的な印象を持ちそうだが、そうでもない。「できること」がわかるのはもちろんうれしいし、「できないこと」がわかっても、それを補完してくれる人間が近くにいると、そのありがたさを感じられるからだ。
人間それぞれに「できること」と「できないこと」がある。青き万能感も持つ年ごろの人間ならば「ひとりでできるもん」と自信過剰に振る舞って足掻くのも大切なことだが、四半世紀も生きたいまなら、「できないこと」を「できる」人と「仲間」になれる喜びを感じてもいいころだと思う。
何を言っているかというと、「会社」のことだ。失業率が以前高く、リストラの不安がある現在、わかっている人はわかっているだろうが、健全な経営で健全な報酬と福利厚生を実施している会社は、それだけで、社会貢献をしていることになるのだ。会社というものが利益を生み出し、正当な給料を従業員に支払うというのは、生半可なボランティアなんかより何百倍も素晴らしいことなのだ。
こんなことを書くのは、マイケル・ムーアの『ザ・ビッグ・ワン』を見た影響もある。世界のトップ企業は確かにすごい利益を上げているかもしれない。しかし、そのために犠牲になっている人やモノも多くないだろうか。確かに会社経営は先行き不安で「競争力」と資本という「体力」を常に増強したいと思うのもわかる。だが欲張りすぎはよくない。弱い立場の人を切り捨ててまで、お金を貯めたってろくな使い方はしない。
仕事を創出すること、雇用すること、利益を配分すること。そういった真っ当な会社の存在自体が最良の社会貢献なのだ。街頭で募金を募ったり、税金で失業者を食わせるよりも、心ある人はベンチャー企業の一つでも成功させることを目指した方がよい。成功させて、人を雇い、仕事を分けるのだ。
でも、社長になったからっておごってはいけない。確かに、社長はもっとも高給をもらっているかもしれない。しかし偉いわけではない。会社にいる人たちはみんな「できること」と「できないこと」を補完し合っている「仲間」なのだから。「仲間」は対等なはずだし、対等な方が楽しいだろう。人間同士だもん。
いやいや、まあそういった会社の姿って、この社会・世界のあるべき姿の縮図なんだけどね。
そんなことを就職面接の帰りに考えた。もち、不採用だったけどね。
小説というのが僕にとって「できないこと」とわかったいま、「できること」を探すしかない。それは結局「職探し」になっちゃうのだけれど、以前ほど抵抗感はない。やはりそれは妥協なのだろうか。なんとなく「いいこと」っぽいことを書いたけど、結局、「俺を雇え」と言っているようにしか聞こえないし、それを遠回しに社会貢献だとか言い放っているところが、知恵の付いた中学生並みのインテリもどきニートらしくて、ゲロが出そうだ。
どこも雇ってくれないなら、独立開業するしかない。しかし、IT技術のないひきこもり元小説家志望がやれる事業なんてあるのだろうか? よき商材があれば、教えてください。まずは『アントレ』でも見てみるか……。
関係ないけど、最近買ったCDと本をメモっておく。
『OMOIDE IN MY HEAD 1 〜BEST&B-SIDES〜』
『OMOIDE IN MY HEAD 2 〜記録シリーズ1〜(初回生産限定盤)』
『OMOIDE IN MY HEAD 2 〜記録シリーズ2〜(初回生産限定盤)』
『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』
『経営の対局をつかむ会計 健全な“ドンブリ勘定”のすすめ』
『キリスト教は邪教です! 現代語訳『アンチクリスト』』
『武士の家計簿』は飛ばし読みだが、かなりおもしろかった。武士や幕末の維新が市井の人々の目線から少しだけだが眺められた気がした。それと、「家」というものの大事さ有り難さ、そして、一個人に与える影響の大きさに感心させられた。「家運」という言葉があるが、家運が人の運命を大きく握り、また人の運が家運を創り出していくのだ。
月並みだが、先祖には感謝すべきだし、来るべき子孫のために、良き環境を用意してあげたいと思った。
ニートのくせに(苦笑)。
交接し損ねた帰り、下痢を予感させる腹痛に見舞われた。まあ小学校5年生以来クソを漏らしたことはない自分の経験から判断して、帰り道十分に耐えられる程度の痛みだったため、さして焦らずにいた。むしろ下手に交接に臨んでいたりしていたら、便意をこらえながらのそれになっていただろうと思い至り、苦笑してみたりと多少余裕もあった。
最寄り駅で下車し、自転車置き場まで向かう途中ポケットの鍵を探ると、家の鍵はあるが、自転車のそれはない。鍵を抜き忘れたままのときもよくあるので、今回もそうかと前向きに判断しながら、その場所に着くと自転車にも鍵は刺さっていない。
困った。鍵をなくしたようだ。その緊張感のせいか腹痛もひどくなってきた。このときとりうる行動の選択肢はいくつかある。鍵を探すために来た道を戻る。鍵をあきらめ徒歩で帰る。とりあえずどこかでトイレを借りてクソをする。
まあ賢明な私は近所のコンビニでトイレを借りて、用を済ませてから、来た道を戻り、鍵が落ちていないか探す。駅構内まで戻ってみるも、思った通りというか、鍵はない。腹痛は完全には治まっておらず、便意ではない種類の、どちらかというと食あたりのときのような鋭い痛みも感じ始めている。梅雨の晴れ間、むしむしとした夜。腹痛に耐えながら汗だるまになり、地面をきょろきょろ見ながら駅構内を歩き回る20代男性・無職。不審者以外の何者でもない。
まあ特に呼び止められることもなく、また逆に紛失届を出すこともなく、しょうがないので歩いて家まで帰る。まあ、自転車の鍵をなくすという、それほどめずらしくもないアクシデントなのだが、なんというか、そういう些細なことで思考は活性化される。「なくしものを探して来た道を戻る」というのは、何か文学的なメタファーになりそうだし(くだらんが)、「もし鍵をなくしていなければ」という仮定は、あり得た未来を想像させる。もしかすると、自転車で帰っていたら事故っていたかもしれない。そう考えると、鍵をなくしたことも受け入れられる。