
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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タイトルに特に意味はない。
再放送で『僕だけのマドンナ』というのを見た。
ビデオで『サンセット大通り』を見た。
『バルタザール』は停滞している。
『僕だけのマドンナ』は爆笑する箇所がいくつもあった。
『サンセット大通り』は、予想よりもはるかにおもしろく、集中して見れた。
『ジュスティーヌ』『バルタザール』(半分まで)は、少しずつおもしろくなってきたし、ようやく登場人物の区別もついてきた。
上記の3作品は、メディアも時代も違うわけだが、「ストーリー」という点においては、どれも大差ない。しょーもない(とあえて言う)恋愛の話だ。
なんというか、僕自身は、おもしろい話というものに、もちろんかなり興味があるのだが、その「おもしろい」という要素の中に、やはり何か新しい価値観やその人独自の思想、認識を更新するような強烈なインパクトやパワーが含まれていて欲しいと思う。
それは、小説や映画が実生活に「役立つ」べきものであるべきだとか、現実に「影響力」のある作品が尊ばれるとか、そういうことではない。いや、ほんとはそうかもしれないが、いまは違うと言う。なんというか、やはり「思考のアクション」のようなものがない作品は、少なくとも芸術作品ではないと思う。
自分へのメモ
脇役
類型的脇役
恋愛と死
容貌ヒエラルキーを越える物語
類型的登場人物ばかりが出てくる、類型的物語。ベタ?
やっぱり本を読もう。
『死霊』
『重力の虹』
こないだ髪切ったときに、読んだ『CUT』という雑誌に映画監督20人の特集があって、自分が見てないけど、他人が絶賛してる作品がまだまだたくさんあるということを再確認した。で、まあ、見る映画がないなあ、なんてときは、そういうのを手がかりにレンタルビデオ屋の棚を探すのもいいじゃないかと思って、ひさびさに猥褻でない普通の映画を借りることにした。
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』(監督オリバー・ストーン 原作クエンティン・タランティーノ)
『サンセット大通り』(誰だっけ? ビリー・ワイルダー?)
この二つを同時に借りた理由は、たいしてないのだが、『ナチュラル・ボーン・キラーズ』の冒頭で劇中のテレビ画面に「サンセット大通り」の文字が出てきて(もちろん英語で)、そういえば、この二つは似たような話じゃなかったっけ、と思った。いまのところ『ナチュラル・ボーン・キラーズ』しか見てないので、なんとも言えんが。
『ナチュラル・ボーン・キラーズ』は見始めてすぐに、タイトルが「キラー」ではなく「キラーズ」だったことの意味がわかってよかった。なんというか、リンチの『ブルー・ヴェルヴェット』と似た印象。不快感において。
ただ朝方、寝る前に見たので、細かい部分はぼんやり。
というか、正直どうでもいい話に思えた。
まだ20歳そこそこだったときに、映画好きのおっさんにQ・タランティーノ『パルプフィクション』を絶賛されて、「あれを見なきゃ、映画は語れない」くらいのことを言われて、それからだいぶたってから、『パルプフィクション』を見たのだが、確かに面白いのだが、そのおっさんをあそこまで絶賛させた理由はよくわからんかった。そのおっさんとはもう二度と会わないかも知れないが、もし会えて話す機会があれば「『パルプフィクション』見ましたよ」と言ってあげたい。スノッブに囚われることなく、映画を見て褒めることは難しい。エロビデオを見るような目で映画を見れたらどんなに素晴らしいか。いや、そうでもないか。
おまけ
Q 維新志士でいうと、あなたは誰タイプ?
A うーん、強いて言えば、伊藤俊輔かな。
自分メモ
お盆以来、小説文章を書いていないが、明らかに、小説文章感覚が減退している。芸事は毎日せよ。
一日休めば、取り戻すのに一週間かかる。
どうしたものか。アパシー状態。
昨日だったか一昨日だったか、朝方、NHKのBSで、「まるごと!機動戦士ガンダム」というのをやってたみたいで、たまたまつけたら、アムロとララァの決戦の場面をやってて、そのまま最後まで見てしまった。と、ここでネット検索したら、公式HPがあった。マンガ夜話のスペシャルだったようだ。さらに、僕は、この雑文のタイトルを「キュリオとニュータイプ」として書きはじめたわけだが、それは、数週間前に読んだ『現代思想』2005年7月号の特集「イメージ発生の科学」の中の対談(茂木健一郎と港千尋)で茂木健一郎氏が言っていた「キュリオ」という言葉を紹介しようと、そして、ガンダムの「ニュータイプ」と「キュリオ」とが、「似ている」感じがするとかそういう素人の感想を書こうとしたのだが、「まるごと!機動戦士ガンダム」の公式HPのゲストの中に茂木健一郎の名前があったので、少し驚いて、書くのを中断したのだ。氏がどういう発言をしたのか、非常に気になる。再放送が待たれる。
たまにテレビで「フラッシュ計算」(?)というのをやってて、知ってる人も多いだろうが、画面に連続して現れる2桁〜3桁の数字を瞬時に暗算してその合計を出すというやつだ。あるいは、ちょっと前(10年くらい?)に流行った「速読」で、右脳を使っているのか知らないが、小説でもマンガでも数分もかからずに読んでしまい、ちゃんと記憶に残っているのだ。その右脳速読のできる人は、それこそ一日に何十冊でも本を読めるのだが、高校生くらいだった僕は、素直にスゴイと思ったし、そういう能力が欲しいなとも思った。
で、だ。そのフラッシュ計算にしても速読にしても、最近になって、それがいったいなんなのか、なんの役に立つのか、疑問に思ってきた。たとえば、偉い学者さんや、該博な知識を持つ人は、やっぱりこの速読をマスターしているのだろうか? たとえば、芥川賞を取るような優れた小説家は、みんな速読ができて、大量の本を読んで記憶しているのだろうか? いや、数学とかよく知らんが、なんとかの最終定理みたいなのを解いてみせるような人はフラッシュ計算ができるのだろうか。
なんだろう、フラッシュ計算とか速読って「頭がいい」ことと、関係あるのかな? って思いはじめた僕がいたんだな。いつの時代か、誰しもがフラッシュ計算ができて速読ができる「新人類」に進化するんじゃないかって、恐れていたけど、どうなんだろう。
そんなことを思っていたときに、茂木氏の「キュリオ」という言葉と、「それにあまりにも目を奪われるのはどうか」という言葉に、なんかヒントをもらったような気がしたんだ。んでさ、でも、やっぱりキュリオ的なものに目を惹かれる気持ちもわかるし、そういうものに求心力があるのもわかるんだ。
僕が、高校のころに夢想した、速読がいつか人類の標準になる、というのも、いま現在「キュリオ」的な人物、能力があって、それが人類の進化を先取りしているような気分と同じ根なんだと思う。で、それがよく現れているのが、ガンダムのニュータイプっていう概念だと思ったわけだ。違うかな? きみはどう思う?
んでさ、じゃあいつかガンダムみたいに人類が進化して(適応して)、ニュータイプが標準になるような時代が来たとして、まあ、それはそれでいいんだけど、でも、それが幸福とかとは全然関係ないんじゃない、って思うんだ、僕。
いやいや、小説を人の百倍早く読める能力で解決される問題と、そうじゃない問題があるってことさ。で、いまの人々の不幸の種って「読むのが遅い」からじゃなくて、「読み方」の問題だと思うんだよね。計算が速いからって、新しい定理を発見できるのとは関係ないだろ? 全然、別の能力だもん。
眠いから、やめだ。
「キュリオ」の意味くらい自分で調べよう。それが向上心というものだ。そして向上心は人を不幸にするものだ。
数学と筋トレ。
筋トレはいちおうやった。なので、腹と腕が筋肉痛。
数学は、やってない。頭、全然使ってない。
ぐーたらしている。
髪切った。パーマかけた。
「坂本竜馬みたいにしてください」とオーダー。
念願かなって坂本竜馬みたいになった。その足で写真屋さんへ。
「世界の海援隊でも、やりますか」とパシャリ。
いい記念になった。
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三島由紀夫、村上春樹、J・アーヴィング=数学と筋肉。これこそが、小説家になるための必須条件だと、いまようやくわかりました(もちろん、よく読みよく書く、というのは大前提として)!
月 数学
火 スクワット
水 数学
木 腹筋
金 数学
土 腕立て
日 安息日
ポイントは例によって、続けること。継続。とりあえず8月いっぱい。
『バルタザール』P.151まで。
「彼はその頃、進行中の小説に没頭していた。そして、いつものように、日常生活のほうが、歪んだ形をとって、彼の作品の彎曲の跡をなぞり始めたのに気づいていた。彼はこの現象を次のように説明した。つまり、意思の集中は生活を押しのけ(アルキメデスの風呂)、その姿を歪めるというのだ。かれの信ずるところによれば、現実とは人間の想像力から生まれ、絶えずそれを模倣しようとするものなのだ。」(P.139 ※強調は引用者)
「一、誰モ芸術家ヲ所有スルコトハデキヌ。気ヲツケルガイイ。二、心ハ不実ナノニ誠実ナ肉体ガ何ノ役ニ立ツ? 三、アラブ女ノヨウニ泣キ喚クノハヨセ。モットマシナコトヲ知ッテイルハズダ。四、ノイローゼハ理由ニナラナイ。健康ハ闘ッテカチトルモノダ。五、君ガ首ヲ吊ラナイデスメバ立派ナモノダ。」(P.151)
よく、小説やエッセイなどを読む人で、気に入った文章を蛍光ペンで塗りたくったり、付せんで目印を作ったりする人がいるが、それは小説の本来の読み方からすれば付随的で些末なことでしかない。「この一文に感動した」とかそういうのは(もちろん前後の流れ・文脈があってのことでしょうが)、なんというか、小説を「名文」発見装置に貶めているだけだ。私は、ある一文がもたらす感動や認識を更新させる力を否定しているのではない。それはそれで一つの事実だ。ただ、小説とは、ある一文に要約されたり集約されたりするものではないし、やはり小説とは小説全体で小説なのだ、といいたいのだ。
前回05.08.09に、この雑文にも書いた蓮實重彦の問題文(『夏目漱石論』)が、解答編では「要約」されているのだが、ならば、要約されたものと、原文は「同じ」なのだろうか、とずっと考えている。それは、受験勉強や(その延長上に想定されている官僚型のスキル)なんかの早さや正確さに基づいた即答主義?においては「同じ」なのだろう。しかし、読書体験としては、やはり「違う」。
つづきがあるけど、来週書く。
数学を勉強しようと思い、参考書コーナーに立ち寄る。そこで、現代文の参考書を手に取ってみる。「超最難関」向けの問題集を開くと、蓮實重彦の文章が問題文に使われている。こんなんを18歳で読み解くんだから「超最難関」合格者は天才なんだなと改めてそのすごさと自分の愚かさを認識する。いちおう説いてみると9割は解けた。ま、25歳なんだから、あたりまえでしょう。テクスト論的なことを言おうとしているんだなってすぐにわかったのも、25歳だからです。18歳でわからない受験問題も25歳のころになら誰でもわかるようになっていて当たり前か。特に国語は。人間は年齢とともに頭が良くなっているんだから。
でも、数学は、そうでもない。ひごろ数学なんて使わないから。
「百ます計算」と高校数学をこれからやっていこうと思う。
なんでかって? 東大を受験したいから、じゃなくて、小説を書くのに役に立つと思うから。だからって数学小説を書きたいわけでもないよ。なんというか、思考訓練ですかね。
で、『本質の研究 数学T・A』(長岡亮介、旺文社)を購入。
これをやっていくポイントは、なるべく、「書かずに」問題を解いていこうと思う。「書かずに」図形問題なんかを解くことが、思考訓練、あるいは物語の構成力を養う気がするんだ。そういう感じって伝わるかな? わかります? 詳しくはまた書きます。明日にでも。
東大受験宣言(「合格宣言」ではないが、目標は「合格」)
えっと、はっきり言って僕は学歴差別主義者です。東大以外は大学だと思っていません。偏差値順で大学を差別します。偏差値順で人間をランク付けします。だから僕自身は三流の人間だと思っています(東大を超一流とした場合)。
関東では、超一流・国立T大。
一流・WとS。
二流・MARCH。
三流・S大。
四流・NTKS。
それ以下、大学ではない。
ね、ひどいでしょ?
でも、しゃーない。刷り込みですから。それに未だに学歴差別主義者じゃない人間に会ったことがないし。別に会いたくもないけど。
だから、ホリエモンは金持ちだからじゃなくて、東大(中退とかは関係ない、受験時がピークなのだから)出身ということでめっちゃ尊敬してます。逆にどんなに偉くても東大じゃなければ尊敬の念も半減します。あ、あと外国の大学はあまり知らないのでハーヴァード(宇宙人)以外は全部「よくわかんない」で片付けます。
冗談じゃなくて、17歳のころは東大受験を本気で考えてました(偏差値40弱でしたが、何か?)。で、家族や塾の講師からは「やればできる」子と思われていました。半狂乱になりながら勉強しましたが(一日25時間勉強)、センターすら無理でした。で、S大に入学。未だに「勉強してれば」東大にも合格できた、と当時を知る恩師には言われます。
だったら、「勉強しよう」と思いました。「勉強すれば」東大に入れるのかどうか、一流の人間になれるのかどうか、試してみたいと思います。
別に、ネタがないから、そんな企画を立てたのではありません。また「ドラゴン桜」というドラマを見たからでもありません(いや、ほんとだって!)。単純に学歴差別主義者としてトップになりたいからです。
僕も東大に入らない限り、一生、三流四流の人間です。なので、現在は東大浪人7年目(7浪)と言ってもいいです。我が愛すべき三流大学(でも、環境や人間教育は一流ですし、本当にスバラシイ!と僕は思っていますし、愛校心もたっぷりあります。しかし偏差値は残酷です)も卒業できそうだし、このへんで本格的に東大受験に向けて勉強をはじめようと思います。20代のうちに合格すれば、天才です。目標は死ぬまでには、合格したいです。
学部は文一で(本当は文三でもいいけど、まあ、あとで決める)。
手段は選びません。予備校でもZ会でも必要と思ったら入ります(家庭教師してくれる人いたら、高額謝礼支払います、もちろん東大合格経験者のみ)。ま、とりあえずは独学(宅浪)で。
とりあえずは、「数学」から勉強します。
数学→英語→地学→化学→物理→古文→漢文→日本史→世界史→現代文で。
ぎゃんばります。随時、模試の結果などご報告します。
やればできる神話の創世か或いは解体のドキュメンタリーです。
もちろん、小説家志望も継続中です(シナジーを期待)。
TBSラジオ「伊集院光 日曜日の秘密基地」のなかで「秘密キッチの穴」というコーナーがあるhttp://www.tbs.co.jp/radio/1101/。子供時代やなんかのあいまいな記憶を、視聴者の協力で調べて明確にしようというコーナー。たとえば、○○ってお菓子のメロン味が85年ころにあったと思うのですが、ご存知の方いますか? みたいな。
で、俺にも、記憶の穴がある。それはテレビドラマの記憶。
時期的にはたぶん、86〜88年ころで、小学校に入る前か、入ったばかりのころだと思う。そのテレビを見ていた場所は、自宅ではなく週末遊びに行って泊まっていた祖父母の家。そのころは祖父母も俺も9時か10時には床に就いていた。しかし、そのドラマがあるときだけは、俺だけ夜更かしして居間のテレビでそのドラマを見てから寝るようにしていた。このドラマのときだけ夜更かししていいと祖母から許しを得ていた。それほど熱心だった。
で、どんな内容かというと(これがかなり、はっきり憶えているようで、調べてみると、不安になってくるのだが)、主演が長渕剛、で、タイトルが「スクラップ」。内容は、長渕剛と小さな息子の父子物語。長渕剛は、自動車の整備工場のようなものを営んでいる。息子は小学校低学年くらい。で、唯一憶えているエピソードは、経営が不振な父の整備工場のために、息子が近所のパチンコ屋なんかに停めてある車のタイヤをドライバーか何かでパンクさせていく話。結果、長渕剛の整備工場には修理の依頼がたくさん舞い込むが、不審に思った長渕剛が調べてみると息子が犯人だとわかって、云々。みたいな。で、父と子二人暮らしなんだけど、ある日、母親が迎えに来るという話もあったはず。
オープニングが印象的で長渕剛の「ろくなもんじゃねえ」を主題歌にハーレーっぽいバイクに跨ったグラサンの長渕剛が湾岸を走っている、みたいな。
で、自分なりに、ネットで調べてみたんだけど、「スクラップ」という長渕剛主演のドラマはない。「ろくなもんじゃねえ」が主題歌になっているドラマは「親子ジグザグ」で、内容も違う。また「スクラップ」というドラマはあるが、世良正則主演になっている。
……ということは、複数のドラマの記憶がごっちゃになっているのだろうか。人生で初めて熱心に見ていたドラマだから、できれば真相を突き止めたい! どなたか情報お持ちでしたら、ご一報を。薄謝進呈します(著作セット)。
あと、ドラマじゃないけど、電波少年みたいな番組で「にいじま」という若い女の子(だけど、短髪で男っぽい、ADさんっぽい)が、毎回、過酷な課題にチャレンジしていくというもの。俺が憶えているのは、「千本ノック」と「島まで泳いで渡る」という企画。特に千本ノックは、一度でも失敗するとやり直しだった気が。「にいじま」という女性が、ボロボロになっていた(毎回、泣く)のも憶えている。で、それには、ナレーションがついていて、これが暗い低い男性の声で(キートン山田ふう)、残酷なことを言う。ナレーションには必ず「にいじま、○○しろ」みたいに、「にいじま」の名前を呼ぶ。だから「にいじま」というのを憶えている。
全部、嘘、記憶なんですかね。マジでいつかは、はっきりさせたい!
どうでもいいけど、記憶って、時系列じゃない。また明確でもない。だから、「アレキサンドリア・カルテット」のように「想い出」を語る小説がリアリティを持つんだな。
『バルタザール』20ページぐらい。ネシムがジュスティーヌに結婚を申し込む場面。「愛」について語る場面は、おもしろい。というか「愛」と「死」は物語をおもしろくする万能薬であり劇薬だ。溺れるなかれ。以下、引用。
二人の関心はあらゆる点でつりあっていた――愛の必要をのぞいては。(P.73)
「僕が話しているのは理解しあうということなんだ。そして友情と知識とが愛の代わりをしているうちに、愛が現れないともかぎらない。もちろん、僕は君と寝るさ……僕自身は恋人として、君は友人としてね。判るものかね。たぶん一年もたてば……結局のところ、アレキサンドリアの結婚はみんな投機なんだからね。ジュスティーヌ、君はなんて馬鹿なんだ。僕たちは、それと知らずにおたがいを必要としているのかもしれないってことが判らないのか。やってみるだけのことはある。すべてがうまくいかないかもしれない。しかし、この町じゅうの女のなかで僕がもっとも必要としているのは君だという考えがどうにもすてきれないんだ。欲しくなるような女はたくさんいるかもしれない。だが、欲しがることと必要とすることとはちがう。僕はほかの女を欲しがるかもしれない……だが、必要なのは君なんだ。君のほうも同じことだと言う勇気は僕にはない。人生とはなんて残酷で、なんて馬鹿げたものなんだろう」(P.75)
『群像』2003年5月号の鶴見俊輔と高橋源一郎の埴谷雄高『死霊<1>』に関する対談を読む。以下、メモ。
谷川雁
原民喜
椎名麟三
堀田善衛
村山槐多
ゴンチャロフ
林達夫
埴谷雄高に親近感と畏敬。
数学を勉強する。
友達を欲しがらない。
恋人を欲しがらない。
結婚しない。
子供を作らない。
両親はいないものとする。
総じて他人への興味の欠如。
徹底した形而上学的思考、思索。
礼儀を重んじる。
不幸の類型。
諧謔精神。お笑い。
笑わせる、泣かせる、感動させる、どれも陳腐。
不幸の類型について考える。感動の類型についても。
密かに応援している若手作家。
早川大介(鬼気、切迫感)
中村文則(芥川賞受賞により、卒業)
「うまい」文章とは、逆に、下手な文章とは?
本谷有希子の文章(悲しみの愛を見せろ)を扱き下ろした福田和也。
早川大介の文章(ジャイロ!)を褒めた笙野頼子。
ちなみに、『ジャイロ!』は『ジャッカス』(ジャック・アス?MTV)をヒントとしている。
AM5:50
追記:物語には必ず「イノセント」な人物が登場する。「イノセント」とは思考停止のことである。
小説作法を説いた本は数あれど、もっとも現実的なアドバイスをくれるのはなんと言ってもスティーヴン・キング『小説作法』だ。そこには実戦的な行動原則が確固たる自信とともに書いてあるのだが、そのなかでももっとも小説家志望が守るべきだと思うのは、「書きかけの小説を誰にも見せない」ということだ。褒められても、貶されても、批評されても、作品完成にとって有益なことは何一つないと彼は言う。僕も同意する。とともに、それがかなりの精神力を要することも知っている。というか、小説を書いているあいだ、誰にも見せずに一人で書ききる行為こそ、小説そのものではないかと、少し思う。徹底的に、クソの役にも立たない〈自意識〉を殺すのだ。自信過剰だろうが自己懐疑だろうが、執筆中には夾雑物でしかない。ある種の自動書記マシーンにならねば。と言って、日ごろ何も考えていない人間が何も考えずに小説を書いても「資源の無駄(©花村萬月)」でしかない。マジで俺みたいなクソ小説家志望以上に何も考えずに小説書くやつがいるからビックリだぜ。まあ、何も考えないやつってのは恐ろしく強いけどな。
今日は強い日差しの中、下通り@熊本市の巨大本屋さんへ。
『一人の男が飛行機から飛び降りる』
『重力01』
を購入。
それとレジ前に置いてあったフリー雑誌『あとん』を持って帰る。
っていうか、ほんとは「アレキサンドリア・カルテット」の第2部『バルタザール』を読んでいるから他のは読めないんだけど、浮気しちゃうよね。
去年、文芸誌で「在日ヲロシヤ人の悲劇」(星野智幸)を読んだのだけど、いま書店に並んでるみたい。これの感想は以前、雑感雑文でも書いたのだけれど、こういう「現代」を激しく想起させる作品っていうものの「読み方」についてずうっと考えている。
ネットか何かで読んだのだが、ある小説家が若いころ大江健三郎を読んで衝撃を受けたという。どういうことかというと、それまで小説というのは戦争のような強烈な体験をした人間にしか書けない特別なものを思っていたが、大江の小説が普通の大学生のアルバイトを題材にし魅力的に仕上げているのに、ショックを受けたらしい。
なるほど、僕から見ると大江健三郎だって十分政治的だし、時代の影響が色濃く刻印されているように感じられるのだが、戦中派とかからすれば、「薄い」のかもしれない。
大学の授業で、現代は高度に「政治化」が進んでいると同時に「政治的無関心」も恒常化していると教えられた。その二つは実は密接に関係しているのだろう。特に80年代、日本では「政治」が透明になった、透明に見えた時期があったのだろうと思う(憶測です。誰か教えて)。僕らの中にはどこか「政治」というと泥臭く古臭く汗くさいイメージがある。また芸術とはできうる限り政治や社会と距離を置く方が高尚であるような。あるいは、セックスや暴力に頼らない小説が、その点で褒められてしまうような感覚だ。政治、犯罪、社会現象、性、暴力から限りなく無重力な小説ほど「純」であるような。なんというか、そういう純粋小説のようなものを僕も夢想するし、世間ももしそういうものが存在すればそれこそ至上の小説のように受け取ってしまうのではないだろうか。いやいや、かなり憶測だけで、書いてますが。でも、やっぱり「政治的でない」方がかっこいいという価値観は若者文化のある一側面には確固として存在するのではないだろうか。
僕がいま問題にしているのは(大げさな!)、「政治的」小説がダメで、政治的な桎梏から解放された小説を是とする、とかそういうことではない。なぜ僕(おそらく、僕ら)は、「政治的でないもの」を希求してしまう心性を持っているのか、ということだ。80年代、一瞬、政治の透明化があったとして、90年代後半には教科書問題などが有名なようにナショナリズムや政治的言説が目立つようになった。その流れはいまだに靖国問題やイラク派兵、憲法問題などと受け継がれている。ワイドショー内閣と揶揄されても、「政治」が世間の関心事の上位に位置するようになっている。そして、寓話的とはいえ、それを問題にする小説(漫画、映画)も相変わらず書かれている。
いや、80年代が一瞬、政治の透明があったとして、小説にも、戦争や戦後、あるいは安保闘争のような政治的磁場から解放された「ように」見えた瞬間があったのだろうと思う。もちろん政治から解放されたように見える小説が扱うのは「僕ら」の日常、サブカルチャーに囲まれたヌルい恋愛模様だと、とりあえず決めつけておくが、まあやっぱりそれも幻想だったんじゃないかな、と僕は思うし、批判しているわけではない。「そういうもの」だったのだろうと思う。
政治が透明になったとき、実は、簡単な話で、「政治化」が最高潮に達し、意識できないほど、僕ら一人ひとりが政治と一体化してしまったのだろう。政治が所与のものになりすぎていただけだと思う。
「政治」や「時代」に過剰反応して、安易にネタやセンセーショナルを目的に、「現代的」な小説を書くのは、愚の骨頂だと思うけど、政治的なものから小説や芸術が完全に解放されうると思ってしまう、それを希求してしまうのも同じように愚かだ(←強気ですね、今日は)と思う。
政治とどう折り合いをつけるのか、それは小説を読む人とか書く人とかに関係なく、人間ならば誰しもが不可避なことの一つだと思う。怖いのは、「俺は政治なんて興味ない」とのんきに思えてしまうことの方だ。そんなのは奴隷か吐く血か飼い犬の精神でしかない(←言い過ぎだろ。っていうか、僕もそのへんは「保留」にしてるし、選挙行かないし)。
あと、どうでもいいが、現在、「郵政民営化」について侃々諤々の議論を繰り広げているようだが、たぶんどっちでもいいんじゃないかなと思っている。半々に別れるくらいの議題というのは、たぶんどちらも一長一短あって、それでのちの歴史がおかしくなっても、しゃーないのだと思う。国運に任せるしかない。どうかな? そんな居直り。
あとね、内田百閧フ『ノラや』をちょい読んだ。泣ける。マジで。
あー、なんでそんな話をしたかというと、「政治の発生」をテーマにいつか小説が書けたらいいな♪って密かに思ってるの。ムジーけど。 とりあえずは、駄々らクソ私小説もどき若者セックス文化礼讃小説を書くぜ。
ずっと小説のことばかり考えている。
ふと、妙なことを思う。たとえば近所の保育園とか幼稚園とかを、真っ昼間、ずうっと眺めていたいとか。平日の昼間、無精ヒゲを生やし寝癖のついた頭で、園児を眺めている20代後半の男性。きっと園の先生たちは子供たちへの危険を感じ、「何かご用ですか?」と尋ねてくるに違いない。そのとき、僕は笑って謝りながら、「実は僕は、小説を書いているんです。○○という本、ご存じないですか? あれ、僕の本なんですけど、いちおう○○という賞も受賞してまして。よければ、今度、お持ちしますよ。それでですね、いまは次回作の構想を練っている最中でして、こうやって昼間っから散歩かねがね、作品のアイデアを探しているんです」とかなんとか言うのだ。先生は、それでも多少疑っているが、まあ、納得した様子で、「そうだったんですかぁ」と言ってくれる。
自分はやっぱり変わり者の範疇に入るのだろうなあ、と改めて最近思う。東京の由緒正しい大学になんとか滑り込むことができたおかげで、たとえばアパートを借りるときだって、アルバイトの面接に行ったって、それなりに「普通の大学生」として扱ってもらえた。「学生生活は楽しい?」と訊かれれば、小一時間ぐらい楽しそうな学生生活を語ってあげることもできた。
しかし、やっぱり、それは仮の姿で、はっきり言って、6年と半年、大学にただの一度も馴染まなかった。部活やサークル、ゼミ。語学クラスだろうが200人以上が受講する講義だろうが、留学にも行った、学食でごはんを食べることもあった、しかし、やはり、僕は大学生ではなかったと思う。
いまだになんで自分が高校を辞めなければならなかったのか、あるいは、なぜあんなに高校に行きたくなかったのか、よくわからない。正直、僕は怠け者だし、寝て過ごせるならばそれ以上の贅沢はないと思っている。勉強だって嫌いだ。働くのはもっと嫌いだ。本当は本だって読みたくない。映画も見たくない。子供のころ好きだったのは、絵を描くこと、工作、チャンバラごっこ。それだけだ。確か5、6歳のころだと思うが、両親の都合で祖父母の家に預けられたとき、保育園を転園するべきかどうか微妙だったため、半年(もしかすると一ヵ月程度だったのかもしれない)ほど友だちもおらず、ぷらぷらと過ごしていた時期がある。憶えているのは祖父母が農作業をしているあいだ、居間で教育テレビを見ながら、絵を描いたりしている自分の姿だ。ちょうど小学生向けの理科番組をやっていて雄しべと雌しべについて説明していた。僕はそれを見たあと庭に出て、花を一つ取って、花弁や雌しべ雄しべに解体した。それは新しいことを知ることで、楽しかった。僕はそうやって一人でぶらぶらと好奇心の赴くままに時間を過ごすのが、得意なのだ。
高校を辞めたあとの半年は記憶がないのだが、やっぱり無所属で何もすることがない人間として過ごしていたのだろう。大学に受かって大学生になれたときは、ほんとうにうれしかった。というか、ほっとした。他人に自分のことをわかりやすく、短い言葉で説明できるからだ。「何をしている人?」「大学生です」という短いやりとりで。たとえばそれが、『大学生』という一般に流布されたステロタイプなイメージでもいい。人によってはいやがる人もいるかもしれないが、「いわゆる大学生」に見られることが、僕はなによりうれしかったのだ。たとえば、授業にはろくに出ず、バイトとサークルに励み、ちょっと世慣れた先輩と無邪気な後輩と飲み歩き、同じ大学に恋人がいて、春夏冬と旅行に出かける。就活の時期が来れば、黒髪に戻し、きちんとスーツを着て、面接に赴く。そんな「ザ・大学生」に見られたかったのだ。通りすがりの人や、髪を切ってくれる美容師さんくらいになら、そう思い込ませることもできただろう。「学生は気楽でいいねー」とか「もっとちゃんと勉強しなさい」とやっかまれても平気だ。「変わった大学生」と思われるよりは。
もう、大学生も終わった。普通なら「会社員」になるのが、一般的な次の肩書きだ。そしてその肩書きは、老いぼれて人生が黄昏れるまでつづく。しかし、僕は、またもや普通の肩書きを得ることに失敗した。自分を知らない他人に、なんと名乗っていいのかわからなくなってしまった。まだ大学に籍はある。しかし、働いてもいる。しかし、その仕事ではなく、できるなら小説を本業にしたいと思っている。学生と自営業者と小説家志望が、入り交じっているのだ。「いったい俺は何者なんだ?」とかそういった青くさい自問が、また、10年ぶりに湧いてくるではないか。僕はもう5歳でも17歳でもない、25歳!だというのに…。同い年で順調に生きている人ならば、もう入社3年目だっていうのに。僕は、いまのところ、時と場合に合わせて、自分の肩書きを使い分けている。でも本当は「フリーター」とか「ニート」で十分だ。あるいは、はっきり「小説家志望」としたほうが、自分には一番しっくりくる。
もし、平日の昼間の保育園を眺めながら、「僕は小説家です」と名乗れたら、どんなにいいだろうか。「小説家」という肩書きがもたらす、ステロタイプなイメージで眺められたい。繊細、根暗、気難しい、博学、少し変わっている、むっつり助平、自殺しそう。そんなイメージで。
で、ずっと小説について考えている。いや、本当は、小説を媒体に、「何か」についてずっと考えているのだ。小説について考えること、小説を書くこと、小説を読むこと。これらは、大げさに言えば精神の運動であり、ストレッチであり、もっと強く言えば矯正なのだ。
たとえば、「書くこと」ならば、人物をどう描写するか、空間をどう描写するか、音をどう書くか、理想とする会話はどんなものか、ストーリーはどう展開させるべきかさせないべきか、そういうことをずっと考える。もちろんそれは、実質、小説の書き方ではなく、自分の世界の捉え方の変容を要請してくるものなのだ。世界や人生への捉え方が変わると、小説の読み方にも変化が出てくる。外国の作品や古い作品、意味のわからない作品、長大な作品が読めるようになってくる。
いまはロレンス・ダレルの「アレキサンドリア・カルテット」第2部『バルタザール』を読んでいるのだが、浮気して、過去に読んだ日本の現代作家のものも読み直したりしている。特に、昨日仕上げた掌篇を書くために、吉田修一の『パークライフ』を読み直し、一部筆写してみた。やはり彼の作品は舌を巻くほど巧いし、しかし軽くなく、抉るような鋭さと重さがある。なんというか現代作家の中の現代作家なのだと思う。まあ、それはいいのだが、小説を書いていて、実際書いているとわかってくる自分の才能というのがあるのだが、なんというか、僕も、目指す方向性を迷っている。本当は、自分は、どんな作品を書くべきなのか?
小説を書きながら思ったこと。今度、挑戦してみようと思ったこと。次作への課題。具体的な。
セックス、暴力、死。ちゃんとした会話。多彩な(類型的でもいいから)登場人物。大切な人物は必ず死ぬ。最後はいい話で終わる。複雑な恋愛関係。現代的な諸問題(社会問題)。トラウマ。過去。戦争。
以上のことを念頭に、フォークナーでいうところの『サンクチュアリ』みたいな作品が書けたらと思っている。まあ、どうなるかはわからんが。とにかく、いまは具体的な技術論のようなものにしか興味がない。主義主張やポジショニングや社会的認知度や志や受賞歴や年齢や、まったく興味がない。純粋に、文章能力、小説能力に興味があるし、それについて詳論し合いたい。
書かないあいだは猛烈に不安だ。焦る。落ち着かない。絶望感が過ぎる。ただ書けば落ち着く。書いていて、たいてい集中力は散漫なのだが、ふと数十分だけ、集中している瞬間がある。夢と同じで覚めたあとに気づくのだが、無心になっているのだ。それが小説のクオリティにおいていいことなのかどうかはわからないが、個人的に、精神活動としては気持ちがいい。まあ、下手くそな歌を大声で歌っていても、本人は気持ちがいいものだ。それが正しいとか他人にも歓迎されているかは別にして。
ふっと、普通のOLとかあまり本を読まない人に受けている作家、小説を読んでみたいと思った。できればセカチュー。でも手元にない。それとは違うかも知れないが、『パイロットフィッシュ』というのが昔買って読んでいなかったので、ちょっと読んでみた。裏表紙には「透明感あふれる文体」という紹介があるのだが、この「透明感あふれる文体」というのが僕には意味不明だ。まあ、別にどうでもいいが。これを読んでいて、「やっぱりそうか」と思った。こういうのが受けるのだと。もちろん僕にこのクオリティの作品が書けるのかと言えば、かなり疑問だ。あと十年、一所懸命に努力するれば近いものが書けるかも知れない。いや、どうだろう。ただ、なんというか、作者は「本気」で書いているのだろうな、半笑いしながら書いているのではないだろうな。それとも、本当はもっと濃くエグい作品が書きたいのを抑えて、こんなおしゃぶり小説を書いているのだろうか。女のアナルにキュウリをぶち込んで、仰向けに寝た自分の顔の上に跨らせて少しずつ食っていくとか、せめてそのくらいの最低限のモラルのある小説を書きたいとは思わないのだろうか。不快にならない程度の性描写!
まあいいや。
ああ、あと『ヒミズ』を読み返した。暗いときには最高だね。
頭がよくて、自覚的で、コンプレックスとある程度和解ができている小説か映画か評論家か、そういうものを目指しているアマチュアリズムのある人間と話がしたい。見苦しいぐらい一生懸命なやつと、
恥ずかしいくらい正直な言葉で!(吉田修一『パレード』P.8より)
まあそんなやつはいないのだけれど。