
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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文庫版 姑獲鳥の夏読了。
おもろかった。
あいかわらず脳は死んでる。
「Yahoo!JAPAN文学賞」用小説、7枚書いた。でも、もう限界です。
「群像文学新人賞」用小説、進んでない。10月にならないと書かないだろうな。
働かなくても、お金が入ってくるシステムを誰か教えてください。
あるいは真剣にバイトを探そうか。社会性を身に付けるためにも。
どうでもいいが、大学を卒業した。晴れて自由人なり。
筋トレはボチボチ続いている。
9月末締めの「Yahoo!JAPAN文学賞」に応募しようと思っている(まだ全然書いてない)。
10月末締めの「群像文学新人賞」に応募しようと思っている(まだほとんど書いていない)。
数学を勉強すると言いながら、まったくやってない。
さらに、最近、剣道への興味がわき、やりたいと思っている。
道場に通うか、あるいは無手勝流でやるか。
そんな感じや。
小説は「本気」でやってるぶん、自分の才能の限界を思い知らされる。つらい。
あいまいな記憶を探りつつ、記録してみる。
9月19日(月)祝日
映画『NANA』を見て、帰宅後、うだうだしている。
午前3時ごろ、友人♂にメール。返事あり。今度遊ぼうと。
何時ごろ寝たのか、不明。多分、朝方。
午後3時起床。別に3連休とか関係ないのだが(永遠の夏休み中なので)、まあでも気分は休日。
食べるものがないので、買い出し。スーパーへ。カキフライ弁当とうどんとかれいを買って帰る。途中で、猛烈な腹痛に襲われる。昨日寝る前(午前5時ごろ)にペペロンチーノとか食ったからだろう。帰宅後、トイレへ駆け込む。
弁当を食ったらやることがない。いや、本当はこの3連休で短い小説を仕上げようと思っていたのだが、ダルいし、インスピレーション(霊感)もいまいちだし、書けずにいまに至る。
読みかけの小説『マウントオリーブ』(ロレンス・ダレル)を少し読む。マジで3ページぐらい。
やっぱりダルいのですぐにやめて、買ってきた缶コーヒーを飲む。ファイアのシアトルなんとかという新作。ちなみに私が缶コーヒーを飲むというのは、健康と引き換えにでもいいから小説が書けますように、という願掛けのような意味がある。
缶コーヒーは薄味。それでもインスピレーション(霊感)は降りてこず。またまた手近にあった小説『ティモレオン』(ダン・ローズ)をちょっと読む。2ページ。
なんかダルいなあと思いつつ、保坂和志の連載「小説をめぐって」(『新潮』2005年10月号)の後半を読んでみる。
どうでもいいことをいろいろ考える。
午後7時、HEY!HEY!HEY!をぼんやり見る。
買ってきたかれいを煮付ける。食う。わりとうまい。
報道ステーションを見たり。
9月20日(火)
午前1時ごろ、ラジオを聴くのをガマンして小説を書く。
午前5時まで、なんとかがんばって、7枚。ノルマは達成。
タイトルは『他街』。これを100枚以上書いて、10月末締めの「群像」に応募したい。かなり危ういが……。
ちと昂揚している。ネット漁り。
午前5時40分、mixi日記アップ。
午前6時ごろ、雑文を書く。
寝ようとするも悶々として眠れない。ラジオ聴く。
午前10時、仕事先から電話。明日、副都心で仕事。
午前11時ごろ、寝付く。
午後8時半ごろ、起きる。
午後9時半、身支度して街へ。仕事帰りの友人に会う。
焼き肉を食う。
お茶をする。
京極夏彦『姑獲鳥の夏』を借りる。
午後11時45分ごろ、帰路。
9月21日(水)
午前0時ごろ、帰宅。
『姑獲鳥の夏』を少し読む。これがデビュー作だと知った。
帳簿を付ける。
明日の資料を整理。
午前3時、これを書く。
午前3時45分ごろ、アップ。
できれば、また小説を書きたい。
明日、午後4時半に仕事に行かなければならないのが億劫。
不眠で行くハメになりそうだ。
午後4時で理髪店を予約していたのだが、それをキャンセルせねばならない。
以上、生きた証。
前々回の『前田塁「共感の坩堝」』で書いたように、保坂和志氏からの示唆によって「映像と文章」について考えている。
で、いろいろ考えてるのだけど、少し、ヒントとなるような発想があったのでメモっとく。
よくマジカル頭脳パワー=脳内サプリ系のクイズ番組で、記憶力クイズとして、ある一枚のイラストを数秒間見て、その後、そのイラストを隠して、そこに何が描かれていたか、を質問する、というのがよくある。
例えば、時計は何時何分だった?とか。でまあ、こういうクイズはたいていもう一度見せますってチャンスがあって、回答者たちは問題になりそうなポイントを予測してイラストを記憶する。
これよ!!
この「時計は何時何分だ」とか「花の種類は?」とか「ソファの下にいたのは何?」とか、そういう質問に答えられるときに使っている能力が「言語的なもの」なんじゃないかな。
だって、イラストは「見ている」わけじゃん? 最初っから。でも、個々の質問には答えられない。2度目見るとき、回答者は、「時計」「花」「ソファ」とかそういうふうに「分けて」記憶していくわけでしょ。その「分ける」って作業が「文節」で、「名前」で区切っていく作業でしょ。それって言語的じゃん!!
だから、映画でも写真でも「見ている」んではなく「読んでいる」んじゃないかな。
あるいは、イメージをイメージのまま「写真のように」記憶する「右脳」的な記憶法もあるから、一概には言えないんだけど…、でもそれも「記憶した映像」を「読んでいる」から一緒じゃないかな。
そんな感じや。誰か教えてちょ。
歴史に名を残すような小説家(芸術家?)の才能の一つは、徹底したエゴイズムだと思っているが、「徹底」しているかどうかは不明だが、私も、エゴイズムが強い。
昨日、映画『NANA』を見たのだが、その中で、フラれたハチ(宮アあおい)に友人が忠告するシーンで、「思いやりがない」「相手あっての恋愛なんだから」みたいなことをその友人が言っていたが、痛かった。
もちろん「恋なんて/いわば/エゴとエゴのシーソーゲーム」(ミスチル/シーソーゲーム)なんだけど、それにしたって、自分は他人への興味・配慮・思いやりが欠如していると思う。だから友だちも恋人もいないのだ。
ただもちろん小説家が、小説を書く際にはエゴイズムは最大の武器となる。だってさ、他人のことなんか考えてたら、あんな長ったらしくて文字ばっかで、暗くてじめじめしてて内省的でナルシストで、他人の生き死にを弄ぶような文章書けないっしょ。
夏目漱石、大江健三郎、J.D.サリンジャー、ジェイムス・ジョイス。私が思うエゴイストたちです。尊敬。だけど友だちにはなりたくない!?
僕は三流でもいいから小説家になりたい。三流だったら、少し「思いやり」があっても問題ないだろう。しばらくは「思いやり」運動をするべ。
今日のちょっといい言葉:人間は、他人が死んでも生きていく。それがエゴイズム。それが人間だもん。
映画『NANA』
9月18日(日)
午後4時ごろ起きる。軽くシャワーを浴びる。
身支度を調え、街へ。
午後6時、苔バーガーで連れと待ち合わせ。ダイエット中なので、肉は極力避けているが、マスタードチキンとやらを食う。ジャスミン茶も。
午後7時より、映画『NANA』を見る。アベック率高し。
一列前にハイスクールアベックが座る。最初、男が通路側に座っていたが、すぐに女子の方が「やっぱりそっちがいい」と言い、席を交代する。デイトでは、女子を通路側に座らせるのがマナーだぞ、と制服男子に心の中でつぶやく。
着席。
しばらくして、また別のアベックがやってきて私の右隣に座る。女子が私の隣に来る。私は心の中で、男子よ、お前が俺の隣に来るべきだ、とまたつぶやいてしまう。
映画がはじまる。
説明的なセリフや、棒読み加減に、逆にリアル(リアリティではない)を感じつつ、徐々に没入。
要所要所で、気恥ずかしいシーンや爆笑をこらえるべきシーンに出くわす。
ちなみに原作は読んどらん。
ハチ(宮アあおい)が、彼氏の裏切りを目撃するシーンあたりから、鼻水をすする音が聞こえ出す。
気づけば、両隣の女子が泣いている。なんだか恐縮してしまう。
とうとう右隣の女子はハンカチで涙を拭きはじめる。すると、連れの男子が、「泣いてるの(笑)??」とツッこむ。そしてなぜか、「あおいちゃんよりカワイイよ」とわけのわからないフォローを入れる。
『NANA2』を予感させ、映画は終了。
ロビーで、手洗いに行った連れを待っていると、さっきの右隣の女子が出てきて、また連れの男子が「化粧直した?」などとデリカシーのない質問をしていた。
彼らが恋人同士なのか知らんが、恋愛映画で泣く女子とそれを茶化す男子という光景は、わるくないと思った。微笑ましいと言うと、私がおっさんのようだが。
映画『NANA』の監督は、大谷健太郎。過去に『アベックモンマリ』と『とらばいゆ』という映画を撮っている。私は『とらばいゆ』だけ見た。
彼を絶賛する友人が、二人もいたので、そういう意味で印象深い監督だ。
原作は知らんが、脚本はよく整理されていると思った。ただナナ(中島美嘉)の部屋があまり出てこなかったし、ルームシェアしていることが、物語を展開しやすくするためだけにあるようで、昨今、現代小説の中で一ジャンルを築いている「ルームシェアもの」として見た場合、物足りない感じはする。
まあ、別に「ルームシェアもの」を目指してないのだろうけど。
映画館を出て、カフェへ。
ヘルシー丼を頼んだのだが、アジアンプレートがやってくる。注文の際に、私が迷って、それぞれの詳細を店員さんに訊いたので、店員さんのオーダーミスを誘発してしまったようだ。
別にどっちでもかまわなかったので、アジアンプレートを食う。うまい。
「言語的システム」について、2時間ばかり議論。
その後、私の強い要望で、カラオケ。
モテそうにない歌ばかりをうたう。
THE BACK HORN、ZAZEN BOYS。
歌がうまくなりたい。
日付も変わり、午前1時。連れと別れて、帰宅。
ヒマなので、こないだ買ってまだ読んでいない『小説トリッパー』秋号を手に取る。中原昌也氏の連載小説「KKKベストセラー」を読む。今月の初めに、恵比寿日仏会館で行われた氏のトークショーを聞いていたので、そのときの話をまた思い出す。
たぶん私のようなファンを彼は一番嫌うんだろうな、と自己嫌悪。
「近代に於ける誠実な文章は「完全なる自己否定」でしかなし得ない、と僕は信じている。」という一文に、激しく同意。本気で書いているのかどうかわからないが、案外、素朴な本心なのでは、と思う。
「完全なる自己否定」なんて素人がやったら、醜悪な自己憐憫に堕してしまいそうで、私にはできない。私はせめて石田衣良氏のような「ヌルい」(これは誉め言葉である)小説が書けるように日々精進しようと思う。
「Yahoo!JAPAN文学賞」に応募したいのだが、まだ一行も書いてねぇ。同じ名前を持つ20歳の女の子が、ルームシェアしながら東京で生きていく話なんてどうだろうか。アレンジすれば、イケると思う。
パクリ? 上等ではないか。パクリでおもしろい小説が書けるなら、それは才能だ。書けないやつは、どうしたって書けないのだし。
また自問自答の泥沼にハマりそうなので、ここでやめる。
閑人にしては、いろいろあった一日だ。夜は長い。
確か、前田塁氏だった思うが、そしてそれが書かれていたのも氏が現在も『文學界』(文藝春秋)に連載中の「小説の設計図」においてだったと思うが、「感動をありがとう」というオリンピックかワールドカップか忘れたが、それらの催し物に付けられたキャッチコピーに対する不快感のような違和感のようなものを表明していたのを記憶している。詳しい内容は忘れたが、そのとき私が私なりに理解したのは、オリンピックが開催される前からすでに「感動」が用意されている、本来ならば、感動というものは、その試合や競技を見た個々人が事後的に自発的に感じるものであって、見もしないうちから、「感動をありがとう」と言ってしまうのは、あきらかにおかしい、とかそういうことだ。例えば「泣ける映画」とは観客がすでに泣く準備をしてから見に行っている場合が多い。あとはその観客に寄り添うかたちでストーリーが進行さえすれば、観客はちゃんと泣いてくれるし、それで満足しくれる。この場合、より多くの人間を泣かすためには(観客動員を伸ばすためには)、最大公約数的な「泣けるストーリー」を提供する必要がある。また逆に観客は、むしろ積極的に、その最大公約数的な「泣けるストーリー」に適応しようとさえするだろう。結果、訪れるのは、感動や感情のパターン化、均質化であり、そういったパターン化された均質化された大衆の感情なり欲望なりというものは為政者によってコントロールされやすいという事態を招くだろう。「感動をありがとう」というフレーズには既に「感動」が用意されている。もっというならば、「感動」を収めるべき「文脈」がすでに用意され、多くの人間に共有されていることを表しているのだ。芸術作品としての写真を展示する際に、タイトルやコメント、注釈、あるいはもっと積極的に詩や散文を付与し、それらも含めて「作品」とすることは、作家が鑑賞者に対して、その写真の「見方」を限定してしまうことになると考え、極力、言語(写真以外の何か)による介入を排除しようとすることには一定の理解を示すことができる。この場合、私が言わんとしているのは、「感動をありがとう」における「感動」が写真にあたり、写真に付与される言語が、大衆に共有された(オリンピックを否が応でも感動したいと欲望する)「文脈」にあたるということだ。写真を写真として、より純粋に自由に見て欲しいと願う作家ならば、やはり最大公約数的な文脈、硬化してしまった文脈ではなく、その人個人の独立した文脈において自分の作品を鑑賞して欲しいはずだ。またそういった自由な鑑賞において初めて、作家が意図したもの以上の価値が出現し、作品が作家の手から離れ真の意味での「作品」へと昇華されるのかもしれない。と、言いつつも、私はもう少し悲観的だ。どういうことか? まず「感動をありがとう」や陳腐で無自覚な荒唐無稽の「泣ける映画」をあっさり受容してしまう現在の人々(自分も含め)の感受性に対しての深い疑義と違和感がある。いやそんな現在の状況だけでなく、根源的に人間はそんなに自由なんだろうか、という思いもある。感受性や感動する心というものは、天恵のように備わっているものではなく、環境や訓練によって培われるものであって、大なり小なり「他人と似たもの」(ゆえに、それがパターン化・均質化されてしまうのも当然の帰結)なのではないか、と思ってしまう。写真の話に戻ると、写真を写真としてだけ提示しようが、それに添え物的な(文脈を作家の側に引き寄せようとする)「言葉」が付与されていようが、それ以前に鑑賞者は、どうしようもなく凡庸で陳腐で思考停止な「文脈」を抱えてしまっている(私自身がそうだ)のだから、どっちにしても大差はないのではないか、ということだ。いや、もちろん、私のように悲観せず、オリジナルな文脈を持った鑑賞者、文脈の更新への勇気と意志を持った、いわば「理想の鑑賞者」の出現を期待しつつ、不断に作品を提示し続けていくことは、作家として当然の態度だろう。また、私自身も完全に悲観しあきらめているわけではなく、その凝り固まった「文脈」をストレッチし、ほぐし、もう少し幅のあるものにできないかと、もがいているのである。以上は、(自分も含めた)鑑賞者の資質に対する疑義だったわけだが、さらに一方でまた別の疑問もある。それは、保坂和志氏が言った「文章を読むように映画を見ている」(『新潮』2005年3月号掲載「小説をめぐって」P.271)という言葉で示唆されたことについてだ。もちろん写真は映画ではないし、写真の進化形の芸術として映画を位置づけるつもりもない(逆に言えば、写真は映画の退歩したものではないということだ。当然だが)。ただ、これは至極個人的な印象なのだが、芸術に対する私の素朴な印象として、一般的に、特に芸術に関心のある人は、言語的な表現よりも、非言語的な表現を尊ぶ傾向があるように思える。つまり、言語、あるいは言語的なものの介入が少ない芸術を至高のものとしたがっているのではないか、という疑義だ。そういう意味で言えば、音楽が至高の芸術ということになる。また何かの芸術作品(小説、映画、演劇、写真、絵画、彫刻、etc.)に対して、「音楽が聞こえてくるようだ」とか「音楽のような」と言えば最大級の讃辞になってしまうのではないだろうか。いや、かなり偏った見解かもしれないが、非言語的なものを希求してしまう心性が私たちにあるのは、だいたい妥当だと思う。そして、非言語的なものへの憧れが強いことは、逆に、日常において私たちが「言語的なもの」に良くも悪くも縛られていることの証なのではないだろうか。結論めいたことを言えば、私がいま現在疑問としていることは、その芸術作品が言語的/非言語的に関わらず、私たちの鑑賞する態度はすべからく「言語的」なものになってしまっているのではないか、ということだ。いやいや、私自身かなり飛躍とカンで言っているので自信はないし、何言ってるんだと思われても仕方がないかもしれない。しかし、もう少しがんばって鈍い頭で考えを書いてみる。芸術作品(あるいは「世界」でもいいのだが)を見る態度そのものが言語的、言語のシステム、仕組み、プログラム、そういったものと相似形を成すもののように思えるのだ。あるいは仮に、鑑賞している瞬間は非言語的な処理を行っているのだが、ふっと鑑賞が終わった瞬間に、その「鑑賞」が言語的なシステムで処理されているのではないか。いやいやいやいや、かなり自分でもわけわからんし、なんかとても稚拙なことを言っているように思えてきた。(しばし黙考……)いや、例えば、言語化できないものを表現するのが芸術だというが(思考の不徹底や安易な感受性の発露で、「言葉にできない」と言うのは怠慢であり才能の欠如でしかないが)、私も、やはり「言語化できない何か」を表現したい人間の一人だと思っている。しかし、間違っていけないのは、「名前のないもの」を指し示すことではない、ということだ。それは単に「名前のないもの」であり、文脈が用意されている時点で、言語的だ。視認できる時点で、言語的だ。そういうことじゃなく、言語的なシステムとはまったく別の世界認識の方法を探ることが、芸術の使命の一つなのではないか。言語的なものの桎梏から鑑賞者を解き放つようなものこそ、芸術ではないだろうか。私自身は、言語的な人間だし、言語を使って何か表現できればと思っているが、だからいっそう、非言語的な芸術への感性を持つ人間に憧れるし、期待もする。せっかく非言語的な芸術をやっているのだから、その作品は非言語的であって欲しいと思う(もちろん、写真に言葉を付与する/しない、という問題に留まらない)。毎回毎回、映画や演劇や写真を「文章を読むように」見るのはつまらないのだ。映画や演劇や写真(あるいは音楽でさえ)、作り手が創作の段階において言語的システムに則って制作してしまっているのだから、その辺からやり直さないといけないのだろうが。と、ここまで書いてきて、映画や演劇や写真を「文章を読むように」見ているのは、果たして私だけなのではないか、という疑問がわいてきた。私は単に自分の問題をあたかも一般的なすべての人にあてはまる問題かのように語ってしまったが、感受性がお粗末で、言語によって回収しないと気がすまない神経症的性質を持っているのは、単に私の個人的な資質の問題なのかもしれない。まあ、それはそれで仕方がないし、治癒不可能だろうが……。とにかく、私には「写真はワカラナイ」のだ、以上のような理由で。最後に、こんな文章をこのような場所に書いたことに少なからず自覚的であるわけだが、議論がしたいわけではない。ただ「対話」することにはやぶさかではない。「会話」ではなく「対話」だ。安易な共感やそれと同等の反発心を喚起したいのでもない。仲良くしたいわけでもケンカがしたいわけでもない。ただ活発な精神のアクションとしての「対話」は、人間を成長させると思っている。この場合、「成長」とは「相対化」と言ってもいいかもしれない。まあ、どうでもいい。すべてはどうでもいいのだが。まあ、生きてるし、仕方がない。最後に、前田塁氏の文章を引用して終わる。(『文学界』2005年10月号掲載「小説の設計図」P.232より)「「曖昧な共感」は他者との乖離を見失わせ、それを埋める営為も不要な微温にその主体を心地よく定着させる。結果それらは、主体に都合のいい解釈と、どうしようもない無関心に帰結するだろう。たとえば「群像」九月号に掲載されていた島本理生、乙一、佐藤友哉の鼎談は、「最近、芸術というのは、科学と宗教の子供みたいなものだ」と考えるという乙一氏の発言など、まさにカント的な美と崇高の問題に実作者の実感が肉薄していて興味ふかかったのだが、逃れようなく長引いたその発言を受けた佐藤氏は「みんな自分の小説のバージョンを上げたいんだね」と、個々の願望の問題としてあまりにあっさりと印象に回収してしまうのだった。その一方で「僕だったら、例えばスーパー小説があって――僕のしゃべりはどうしてこうだめなんだろう(笑)」という佐藤氏の言葉に、島本氏は「言いたいことはわかりますよ」と返してしまう……「そんなに簡単にわかるなぁぁッ!」といくぶん下品にツッこんでしまいたくもなるではないか。」
急に涼しくなったね。季節の変わり目とは、いつものことながら、そわそわした感じとわくわくした感じが相まって、妙な昂揚感がある。今日は特に用事もないので昼過ぎまで寝て、その後自転車で食材を買いに近くのスーパーに出かけたのだが、長袖のシャツを着ていくことにした。ひんやりとした風がとても気持ちがいい。なんとなしに精神が凛として、本なんかを読みたくなる。読書の秋とはよく言ったものだ。
それで腹ごしらえもして、窓を開け放ってから、しばし中断していた『マウントオリーブ』の続きを読みはじめた。イギリスの作家ロレンス・ダレルによる「アレキサンドリア・カルテット」の第3部にあたるこの作品は、これまでの2作(『ジュスティーヌ』『バルタザール』)が「僕(ダーリー)」という一人称の視点から語られていたのに対し、一変、三人称視点になっており、またそれまで登場することのなかったディヴィット・マウントオリーブが主役として出てくる。現在、74ページまで読んだのだが、前2作よりも時系列的には少しさかのぼり、マウントオリーブとレイラの出会いからその愛が育まれていく過程が描かれている。そして、前作で実はジュスティーヌの最愛の人だとわかったパースウォーデンとマウントオリーブとの出会いのシーンあたりまで読んだことになる。
なんというか、前作よりも断然読みやすく、おもしろい。それは前作らによって予備知識や登場人物へのイメージがある程度確立されているからだろうか。それとも三人称になったことで、一人称のときよりも客観的な書き方になり、書いている本人はわかっているがこちらにはわからないことが減ったからだろうか。
途中で仕事の電話があり『マウントオリーブ』を中断。その後、ふと思い出して、先月の『群像』に掲載されてまだ読んでいなかった西村賢太「どうで死ぬ身の一踊り」を読みはじめる。これは2時間ぐらいで読み終える。これまでのように作家の故・藤澤清造を慕うダメ男の私小説(風)。なんというか古色蒼然とした感じの印象なのだが、よくよく作者の年齢を見れば、現代作家のトップランナー阿部和重と一箇しか変わらない。なんというか、どちらも同年代なのだというのは、存外納得のいく感じがする。どちらも「フェイク」じみている感じなど。
あと一昨日だったか、ちょっと気になって『新潮』のバックナンバーを調べる。保坂和志の連載「小説をめぐって」を読み返してみた。特に最近、空間描写とか、映像的な文章とか、それらが「読みにくい」のはなぜか、描写をする意味は、とか考えていたので。というか、そういうことを考えるようになったきっかけが、氏のこの連載からだったのだ。
うーんでも恐ろしいほど、脳が動かない。なんというか、脳の一部が麻痺している感じだ。鈍麻している。致命的だな。
なんとなくやる気のない日々。それはお肉を食べていないからだろうか? 摂生しているからだろうか? それでもガマンできずに昨日はメープルメロンパンなるものを食してしもうた。うまかぁ。エネルギー不足でやる気がなくなっているのはダイエットの弊害かもしれないが、吹き出ものができなくなった気がする。というか、肌の調子がいい! 私、痘痕顔の脂性の吹き出ものができやすい肌質なんですが、ここ一週間ぐらい肌つやはいいし、吹き出ものもほとんどできていない。そういえば、いろんなスキンケアを試したあげくに、田舎に引っ込んで、肉食を控えてジャンクフードを食べなくなって、化粧もしなくなったら自然と肌が美しく甦ったという話を聞いたことがある。ニキビに悩んでる方、洗顔云々よりも、糖分を絶つ、油ものをを控える、で、適度な運動、汗をかく、ちゃんと寝る、そんなことをやったほうがいいのかもね。ところで、睡眠に関してだが、どうにも私はふとんが合っていないというか、毎朝寝起きには背中がガチガチに硬くこっている。どうしたもんか。
昨日は、ひさしぶりに映画を見た。DVDで。『恋の門』(DVD)。これは以前、マンガ
で読んでいた。友だちから借りて、朝方、一気に読んだのだが、かなり興奮した。おもろかった。
映画版は、少々、ストーリーが変えてある。「あの」シーンはどうなるのだろうと思っていたら、カットされてた。マンガ版はもっとエグい。
でね、ストーリー自体はどちらも純然たるビルドゥングスロマン。
「俺は、マンガも恋人もあきらめない!」
かっこいい。マジでアーティストの理想だ。
でも、おいらはあきらめた。恋も芸術も。一生単独者だし、趣味の範囲で小説は書いていこうと思う。だいたいこの主人公の青木門は「普通の」マンガ家として成功する萌芽をはじめからもっている。そんなのもないような絶望的なマンガ家志望者が山のようにいるというのに。まあ、ええけど。マンガやし。
で、遅ればせながら『シガテラ』の最終巻を読む。うーん、ちょい尻切れトンボ、なんかあったのかな?と思わせるラスト。ほんとはもっといろいろ構想があったのに、途中でやめちゃった感じ。まあ、ええけど。最終話「大人」は残酷やね。世の中には、高校時代に付き合い始めて、その後結婚して仲むつまじくやってる人もいるらしいが、それが奇跡に近いっちゅうのがわかるね。というかね、私、個人的にはどんなに金持ちや有名人や美人やイケメンやヒルズ族と結婚するよりも、思春期のころに好きになった恋人と一生を添い遂げられる方が1000万倍幸せなんじゃないかと思う。高校時代一緒に登下校した想い出を共有できる人が一生横にいてくれるなんて、マジで幸せだと思うし、だいたい「本当に」好き同士で幸せで打算なしで結婚している夫婦はだいたい学生時代に知り合っているよね、偏見かも知れんが。
あとね、この『シガテラ』の最終話は『キラキラ』の最終話を思い出させた。マジで残酷や。まあ恋も家族もあきらめた単独者である私にはどれも絵空事にすぎませぬが。
『あずみ』の最新巻も読んだ。まあ、これからって感じかな。いい加減食傷気味なのでは。新展開、まったく新しい形式で、が期待される。
『マウントオリーブ』も少し読み進める。なにげにおもしろい。いままでで一番おもしろいかも、なんちゃって。主人公?のマウントオリーブさんが、意外に若い人のようで、感情移入できる。
そんなとこかな。リンク張るの疲れる。
と、いうことで、「肉体的向上心」計画のもと、食事と運動に気を配っている。つづけているよ、週一のスクワット、腹筋、腕立て。成果……特にまだない。それにストレッチをプラスしている。
「柔らかい体は太らない」らしいよ。
食事は、少し量を減らして、肉と油を避けている。あと糖分も。そんなに辛くないけど、ときたま無性にアイスとかチョコレートとか食べたくなる。もう少しして、体が慣れてきたらファスティングする。
今日の食事。
@PM2:00ごろ
・白ごはん
・大和芋をすり下ろしたものに挽き割り納豆を混ぜて、大葉の千切りを少々。それらにポン酢
・もずく
・豆腐、小ネギと醤油
APM6:30
外食。回転寿司。
蟹汁と、5皿(油っぽいのが多かった)
BPM11:00ごろ
・白ごはん(半合)
・モロヘイヤをゆでたもの
・あさりとエリンギを軽く炒めたもの
・冷やしトマト(マヨネーズ小量)
あとどうでもいいけど、歌がうまくなりたい。子供のころから好きだったのは、絵を描くことと歌うことなんだけど、どちらも才能なし。カラオケ教室にでも通おうかな。
* * * * *
で、『バルタザール』を読み終えた。奇跡。つづいて「アレキサンドリア・カルテット」4部作、第3部の『マウントオリーブ』
を読みはじめた。
『バルタザール』に関しては、うーん、何か、僕に精神的変化をもたらしたのだろうか? 知らん。あんま頭に入ってこないし。要所要所、おもしろいところもあった。正直、4部作全部読む意味もない気がするが、まあ、できるだけ読み通してみる。
本当に読みたい本リスト(読みたい順)
『死霊<1>』
『重力の虹』
『万延元年のフットボール』
『百年の孤独』
それまでどれだけ文学を、どれだけ感動とともに読んできたかが、その人の書くものの質を決める。ただ文字を追うことを読書とはいわない。読む前と読んだ後に精神的変容をもたらさない書物は文学ではない。ただの読み物である。感動とは、泣くことではない。自己の精神が起こすアクションのことである。
自分が歴史を継ごうとする芸術ジャンルの歴史・通史に対して自分なりのパースペクティブを持ち得ないもので、作家となったものはいない。歴史を知らないのは「自由」ではなく単なる怠慢、精神の弛緩でしかない。
作家なんて儲からないし、モテないし、最悪っすよ。
自己の欠点と才を見極め、己の進むべき道を選び取らせるプロデューサーとしてのもう一人の自分を持たないものは、成功しない。
ジャンルの制約を無視するものは、しばしば、そのジャンルの中でもっとも粗悪なものを作り上げてしまう。
「変人」とは「普通」を完全に理解した者のことである。
小説なんて、金持ちのボンボンが書けばいいんですよ。