
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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を見た、読んだ。
『天才マックス』は2回目だったけど、前回よりもちゃんとストーリーが頭に入って、楽しめた。中原昌也や阿部和重が絶賛してるウェス・アンダーソン監督だけど、その絶賛の理由は僕にはよくわからない。
ただこういう作品って撮れそうで撮れないんだろうな、と思う。
どうでもいいが、この作品がビデオ屋で「コメディ」に分類されてたとき「そっか、コメディなんだ」って始めて気づいた。そう言われりゃそうだ。
でもなんだろう、家で一人で夜中に見るにはぴったりの作品だ。絶対死にたくはならないだろう。
で、わたしの青春の作家・安達哲『幸せのひこうき雲』がブックオフにあったので買ってみる。ほのぼのマンガふうの表紙だが、中身は純愛ロマンス。
『天才マックス』と『ひこうき雲』、これには共通点がある。
というか、「まったく同じセリフ」がある(ほんとは微妙に違うけど、「同じ」なんだ)。
それがどちらもステキなんだ。タイミングとか、本気な感じとか。
そう、「人を好きになること」が不幸の連想しか生まない僕の生活の中で、ひさしぶりに「人を好きになること」が「人を幸せにする」可能性だって秘めているんだってことを想い出させてくれた。
安達哲と伊集院光に同じ過剰を見出してしまう。
過剰なエロは常にイノセンスの裏表なんだな。
『バカ姉弟』買ってねぇや。
DVDで観た。
車に乗った援交少女は、あからさまに『害虫』のラストシーンを想起させる。『害虫』との決定的な違いは、彼女が同年代(同い年?)の少年、しかもネガティヴ・ヒーローと出会っていること。彼女が2度目の援交(やむにやまれずだが)をしたとき、『害虫』における宮アあおいが振り返った先には誰もいなかったのに対して本作では、バットを持って走って追いかけてきてくれる少年がいる。
しかし、『害虫』の宮アあおいの寡黙さは、主人公の少年・光一に受け継がれる。寡黙な少年と饒舌な少女。あからさまな対比。
にしてもこの少年役の子は、カンヌで有名になったヤギラユウヤくんを想い出させる。申し訳ない言い方だが、選ばれなかったヤギラユウヤとして観られてしまうのではないか。もっと言えば、失敗として。
しかし、『誰も知らない』というヤギラユウヤのためのヤギラユウヤが作った映画に比べれば、百倍この映画はマシだし、塩田監督が選んだのだから、それでいいのだ。
ラストの光一が白髪になるのは、監督言うところの「ジャンプ」であり、『害虫』で言えば、火炎瓶を投げて家を燃やすシーンにあたる。
しかし、しかし、この映画は評判が悪いはずだ。すべてにおいて中途半端。また誤解を招きやすい演出。エンディングのわけのわからないラップ調の歌(に聞こえるらしい、向井秀徳の『自問自答』)。なんだろう、歪でグロテスク。
別のタイトルをつけるとすれば『教祖誕生』。
しかししかし、塩田明彦とは何者か?
私が思うにひたすら演出の巧い不器用な男、なのではないかと思う。そりゃあ、演出も巧くて器用な黒沢清に比べれば、見るも無惨なピエロかもしれないが、それでもいいじゃないか塩田明彦。俺は感情移入多寡気味に応援する。
どうでもいいが、メイキングで主演の二人が話している「15歳の会話」の具合が圧倒的にリアルでビビってしまった。そういえばこの映画のモチーフとなった事件から10年、10年前、この主演の二人と同じ年に私もこの事件をテレビで観ていたのだ。
もちろん、元信者たちのその後なんかは、センチメンタル過ぎるし、もっと汚くてグロテスクだと私は想像するのだが、まあしゃーない。
しかしまあ本当に、メイキングで見えた15歳の身体のリアルさには参った。
彼らはまだ背が伸びる年齢なのだよ。
さあ寝よう。
追記:
・冒頭、ヘッドギアを光一が外す。もちろん教団との決別を意味する。彼はいちども教団に帰依したり信仰したりしたわけではない。彼は、母を信じていたのだし、まあいわばお母さんを信仰していたのだ。だから、最後、お母さんが死んで、彼が覚醒するのも、納得がいく。
・少女は常に老成している。
・大人は子供に過剰に期待する。
・っていうか宗教の映画じゃない。信仰の映画でもない。
・あと最後、少女・ユキは、手をつないで歩くべきではなく、少年を突き放すべきだった。
・少年の過去がじっくり描かれるのに対し、少女の過去はまったく映像化されない。本当は逆にすべきか、やはり回想シーンは弛むので、回想シーンは描くべきではない。また「その後の信者たち」とそれとの都合のいい出会い(まあ、ご都合は映画だからしゃーない)はいらない。
・これは「走る」映画だが、メイキングにおける少年少女の会話のリアルさに匹敵するのは、この走っている姿。そう彼らは思い切り早く走れる年齢でもあるのだ。もう僕は、背も伸びないし、思いっ切り走ることもない。
・やはりこの映画は、背も伸びないし走るのも遅い人間が作った映画だが、背も伸びないし走るのも遅い人間が社会やカルトを作っているのだから、それでいいと思う。
藤枝静男「田紳有楽(でんしんゆうらく)」を読む。オモロイ。
藤枝静男ではなく、妙見寺鬼三郎とかそういうラノベっぽいペンネームでパッケージしても通用しそう。もちろん誉め言葉。
知名度の低さ×読んだときの衝撃具合では、随一の作家では?
またぞろ、読まない本を買ってくる。
『門』夏目漱石
買ってないけど、買いたい本。
『ハイ・イメージ論U』吉本隆明
『ハイ・イメージ論V』吉本隆明
ベンヤミンの傑作選(ちくま文庫)全3冊。高けぇ。
『草の上の朝食』もぼちぼち読んでいる。
『マウントオリーヴ』停滞中。はよ読め。
『悲しいだけ/欣求浄土』も欲しい。
時には母のない子のようにと言ったのは野島伸司ではなく寺山修司だったわけだが、父や母の存在しない「子供たちだけの共同体」(しかも「生活」がない)というのは「児童文学」において「必須」であるばかりでなく(1)、マンガ、とりわけ70年代から80年代に生まれた男子に広く親しまれた「少年ジャンプ」のマンガ作品群においても「必須」であることは、わざわざ指摘するまでもない。『北斗の拳』『キン肉マン』『ドラゴンボール』そして『スラムダンク』に至るまで、ことごとく主人公に「家族」はいない。彼らの周りにいるのは、敵でありそれが反転した仲間であり、彼らをつなぐ信頼関係は「友情」と呼ばれる。「家族」を作る契機である「恋愛」ですらまったく描かれない。(仮に「家族」や「恋愛」が描かれたとしても、それは物語の速度が弛んだときだけであり、物語をドライブさせるためだけに機能的に描かれる。)
またそういった少年ジャンプ的なマンガ群とはまったく別の文脈で登場し、テレビアニメに決定的な影響を与え続けている作品が「ガンダム」であるわけだが、俗にいう「ファーストガンダム」が、ホワイトベースという「家」のもとに「疑似家族」を形成する物語であるということも頻繁に指摘されることだ。主人公であるアムロ・レイは物語が進む中で父も母も失っていく。と同時に、ホワイトベースの乗組員らが父のように母のように兄のように姉のように振る舞い、アムロを育てていく。この「疑似家族」ものはアニメ、マンガ、映画、小説などジャンルを問わず広く散見される物語の類型でもある。稀代の国民作家・宮崎駿の最新作『ハウルの動く城』もその一つだ。
さらに近代文学の定番であり、中上健次の『枯木灘』でその臨界点に達したとされる(2)家=父との相克という物語がある。これは前近代的・封建的家族制度である家父長制(の中心にいる権力者=父)を近代人である「私」が乗り越えよう(あるいは承認されたい)とするものだ。なるほど、この類型が前記二つと違うのは、さしあたって「家族」が所与のものであるということだ。
整理すると、
@「家族」が自明であり、しかしそれに疑問を抱く主人公が、「家族」(の中心である父)を否定しながらも承認されたいというアンビバレントな葛藤を描く物語。家族を壊す物語。
A父や母を失った人々が、血縁関係に依らない家族的な共同体(疑似家族)を作り育てていく物語。家族を再生させる物語。
B父や母を失ったのではなく、初めから父や母が存在しない人々(主に少年少女)が、まったく「家族」に対する葛藤なしに、というか「家族」が存在しない世界で、「友情」や「愛情」という信頼関係のもと終わらない非日常を冒険する物語。家族が存在しない物語。
以上、三つに類型される。
さて、「一家団欒」である。
これは一言「不完全な」小説である。もちろん誉め言葉だ。実作者(あるいはそれを志す者)として、もっとも忌むべきは「よくできている(ウェルメイド)」と誉められることである。「一家団欒」はもちろん、よくできている。しかし「不完全な」小説である。これ以上の小説があるだろうか。
あるいは書かれた小説ではなく欠かれた小説であり、欠いている・欠けている小説なのだ。
どういうことか?
まず「一家団欒」と聞いたときに、私たちがイメージする風景とは、どういったものだろうか。概ね、茶の間やリビングにおいて、家族全員がそろい他愛もない話で笑い合っている――そう、日曜日の夕方放送される国民的アニメ「サザエさん」のような光景ではないだろうか。なるほど小説「一家団欒」は、死んで幽体(?)になった主人公・章が、先に死んだ家族のいる家=墓に行き、「団欒」する話だ。しかし、一読、ここには家族の必要不可欠な要員である「母」が欠けている。しかも、その不在の母に対する言及はいっさいない。これは奇妙だ。
本文中には墓碑銘のように家族の構成員が、章から見た続柄、名前、没年、享年と列記されている(P.121)。まずここで、この幽体家族は「母」を欠いているのだ。
しかし、この小説が一貫して「不在の母」を描いているのであれば、それは逆説的に「母のいる」小説になる。意図的に何かを排除すれば、その存在が際立ってしまうのは当然だろう。しかし、この小説の「不完全さ」が徹底しているのは、そのような徹底(=母がいないこと)すら忌避していることだ。
母が登場する場面が一つだけある。生前を回想するシーンにおいて、万引きの事実を知らされた父が、章を呼び出す場面の途中、「梯子段のある中の間の食卓によりかかって、母が向こうむきに坐っていた。」(P.123)とある。この二行あとで、類型的な役回りであるならば、万引を犯した息子を叱るはずの父が、「むしろ優しかった。」といった具合に、積極的に罪を赦し、禊ぎのための儀式めいたことまで用意している。この小説全体でも一貫していることだが、父は(あるいはプレ父である兄は)寛容なまでに章の罪や恥を赦す。ここでは権力者としての父(や兄)はおらず、もちろん相克もない。
「一家団欒」の収録されている『戦後短篇小説再発見I表現の冒険』の巻末解説(清水良典)には、ここに「不在の偉大なる「父」の像」(P.259)が描かれており、実際の母の代役として女性神であるダキニ天が登場している、という解釈になっている。また父=天皇であり、天皇家の祖神・天照大神=ダキニ天という相似形を成すものでもある、としている。
これは苦しい解釈だ。はっきり言えば、間違っている。
まず、「母が向こうむきに坐っていた。」という一文が、母が母であることを拒否していることの暗示であるのは当然として、その直後で「むしろ優し」い父というのは、父であることを辞めた父であり、母であることを辞めた母の代わりに、父が「母のように」振る舞っているだけのことである。
父は、章を赦す儀式として、自分の血の混じった水を飲ませるのだが、章はその水を「異様な厭悪と屈辱」でもって見つめる。これは血の混じった水に対する「厭悪」でもなければ、万引きを友人によって両親に密告された「屈辱」でもない。それは、父を辞め「母のように」なってしまった父への、あるいは母を辞め不在になった母への、「厭悪と屈辱」である。「お前は痛いらで切らんでもええによ」とは、母のようになってしまった父の間違った母性による甘やかしの極みの言葉である。
この万引きのエピソードは、「この指(父の爪が生えていない左手の親指)には自分だけの強い憶い出があった。」という一文から回想が始まるが、これは言うまでもなく「万引きを通じた父子の暖かい交流」の「憶い出」ではなく、母が母を辞め、「奮闘して家を起こした」父が父ではなく母に堕した(そして、章もそれを受け入れた)という「強い憶い出」なのだ。五指を「お父さん指」「お母さん指」「お兄さん指」などと喩えるように、「親指」は父を象徴しており、「若い頃の勤労の名残り」として父性の象徴だったはずの親指が、単なる「爪のない丸い親指」=爪を欠いた親指=不完全な親指=不完全な父(母のような父)の象徴に堕した瞬間が描かれている。
「欠いている」小説とは、母を欠いた家族小説であり、母のようになってしまった父はつまり父ではないわけだから、父をも欠いた家族小説という意味である。
父も母も欠いた家族。それは家族と呼べるだろうか。もはやそんなものは家族ではない。死んで墓までやってきた章は、罪と恥を告白し、赦され、姉や妹に癒され、とうとう「ああ、なんてここは暖かいだろう」(P.131)と安堵する。なるほど、解説によれば、これは「父の統べる家族共同体の温もり」であり「懐かしい居心地よさ」ということになる。なるほどそうだろう。章の感じた「暖か」さは、間違いなく家族(それに憧憬する私たちがイメージする家族的なもの)の暖かさと同じだ。ただ奇妙なのは、母も父もいない虚ろな家族によってその「暖かさ」がもたらされていることだ。知らずに座ったイスに誰かの尻の温もりが残っていたときのような居心地の悪さを感じずにはいられない。つまり、「家族」が存在しないのに、「家族の暖かさ」だけがそこにはあるのだ。この不気味な暖かさは、私に、新興宗教団体の、あるいは自己啓発系セミナーの、不気味な暖かさを想起させずにはいられない。なるほど、章が罪や恥を告白し懺悔し、父や兄がそれを赦し受け入れ、妹や姉が優しく迎え入れる、その段取りのよさは、新規の信者やメンバーを迎え入れるときのそれと「相似形」を成しているではないか。もちろん、新興宗教(正確には新・新興宗教)や類似の自己啓発系セミナーといったものが、家族や地域といった共同体の崩壊後、浮遊する個人を回収すべく、「教祖」や「カリスマ」といった父性(超越者?)のもとに誕生したことを考えれば、当然の「相似」なのかもしれない。
では、主人公である章も、信者よろしくどっぷりと家族にハマっていくのだろうか。一見したところ、そう見える。しかし、もしこの短篇小説に続きがあるならば、必ずや章は、この嘘くさい家族を否定し、新しい葛藤の旅に出るに違いない。寺山修司の詩「時には母のない子のように」にはこうある。
時には母のない子のように
ひとりで旅に出てみたい
ま、寺山の詩は特に関係ないのだが、章が家族を否定するだろうという根拠は、彼自身が、「不完全」であり「欠いている」ことにある。
この小説に出てくる幽体家族は、「死んだとき」の姿のままである。作品の序盤に「腎臓も、眼球も、骨髄も、それから血液も」章は「病院に置いて来た」とある。まあ、それぞれ腎臓移植、角膜移植、骨髄移植、輸血という用途に使い道があるということなのだろうけど、普通「死んでから」それらは切除、採取されるのではないか、という揚げ足とりはいいとして(藤枝静男は医師であり、私の浅薄な医学知識で判断することではないし、何を持って死とするかは誰にもわからない、呼吸が止まり、脳が死んでも細胞は生きている)、これら腎臓、眼球、骨髄、血液は医学的用途として彼から失われただけでなく、それぞれが、生前の煩悩の象徴にもなっている。つまり、
腎臓=排泄 →食欲、物欲、不浄
眼球=視ること →性欲
骨髄=心、恨み辛み →前世での後悔
血液=情熱、血縁 →父、兄への執着
ということだ。
彼はまだ死んだばかりであり、腎臓や眼球や骨髄や血液のない身体に「慣れていない」だけで、徐々にその身体に馴染めば、生前のような葛藤や懊悩からは解放される。そう、決して死そのものや家族の暖かさによって、解放されるのではない。幽体としても異常である彼の「(欠けている)身体」によって、解放されるのだ。さらに、その身体を手に入れた理由は、生前ろくに善行もしなかった自分の最期にできる「功徳」的行為である。彼だけが功徳をし、解脱できるきっかけをつかんでいる。
最終ページにこうある。「麹の香に満ちた熱い甘酒が、章のガラン洞の内臓をどろどろと下っていった。」(P.135)と。もちろん、「熱い甘酒」は、「家族の暖かさ」の隠喩だ。家族みんながそれを「替わる替わる飲」むのも、暖かさの共有を意味している。ただ、章だけが特別なのは、その「暖かさ」を受け入れるべき内臓が欠如していることだ。つまり、章は近い将来、この嘘くさい「暖かさ」さえも受け入れがたい状態になるということだ。
さらに考えれば、章と家族(父や兄)をつないでいたものこそ、章の欲望ではなかったか。万引きをしたために、執拗な性欲のために、あるいは兄の金をつまらない女に貢いだがために、それらの罪や恥や裏切りがあったために、逆説的に家族への思いが強まったはずだ。好悪や愛憎は向かう方向の違いに過ぎず、大事なのは「強い思い」のはずだ。「強い思い」や執着があるからこそ、好悪や愛憎が生まれ、それらはどちらにでも転ぶ可能性を秘めている。不良が更生し教育者になるのも、「ヤンキー」が母校に帰るのも、半ば当然の成り行きだ。彼らは初めから教育や学校に「強い思い」を抱いているのだから。彼らは「反抗」という強いコミュニケーションをとっている以上、いつかはそのコミュニケーションの強さによって「更生」する契機を持っているのだから。まったく同じ構造が、章と家族の関係にも見てとれる。
しかし、現代的な問題は、ヤンキーが先生になる、という類の近代的な問題(あるいは解決)では手に負えない。臓腑を失った=欲望を失った章は、いずれ家族との強いコミュニケーションを必要としなくなる。それは好悪や愛憎とはまったく別の次元の半ば無関心へとシフトしていくだろう。
欲望もコミュニケーションも欠いた存在。それは現代で言えば「ひきこもり」のような存在である。彼らは一様にコミュニケーションを忌避し、性欲などの欲望が著しく減退する。そして社会との接点を失い、家族の微温的な雰囲気の中、半ば永遠に囲われていく。ひきこもりは、袋小路であり、永遠だ。
「これからは、もう父や兄や姉の云うことを聞いて、素直に、永久にここで暮らせばいいのだ。」と章は思う。死が永久につづくなんて、黒沢清『回路』ではないが、これほど恐ろしいことはない。死ねばすべて終わりだから、なんとか生きられるはずなのに。
仏教やキリスト教的な、もう一つの「生」としてのあの世や天国(地獄)は、ここには存在しない。終わりなき日常の延長としての「永遠の死」がある。そういう意味で、これは本当に恐ろしい小説だ。
余談というかこの小説の構造についてだが、大きく分けて三つのシーンによって構成されている。
1、冒頭から墓場まで。
2、墓場による一家団欒
3、祭(ヒヨンドリ)
そして、この三つはそれぞれ1が現世、2が死後の世界、3がその現世と死後の世界をつなぐ中間の世界であることを示している(生きている人間の姿を幽体である章は見ることができないが、神楽は見ることができる)。
また、現世は冷たく、死後の世界は暖かいイメージで対比されてもいる。はっきりと現世が冷たいとか寒いとは書いてないが、序盤、墓に赴く途中の湖が「水だけはもう生ぬるい春の水になっていた。」(P.120)と書いてあることから、時期は早春か晩冬であり、「水だけはもう生ぬるい」のだから、外気は冷えているはずだ。また冷たい現世、暖かい死後であるならば、その間に広がるこの湖が「生ぬるい」のも当然ということになる。
また冒頭には様々な暗示がある(近代文学よろしく)。
まず四行目「生ぐさい臭気」は、最終ページ五行目「麹の香」と対比になっている(生と死)。同じく四行目「一列のまばらな人家」の「まばら」が「欠けている」ことの暗示。つづいて八行目から次のページ二行目までの段落には、「波の皺」「欠け歯」「無愛想」といった具合に、人間の顔の負の要素が列記される。これは死の手前、「老い」を連想させもする。
また墓に辿り着く手前の湖は「白っぽい光線」に満ち、「生ぬるい水」が春を予感させ、墓そのものは「美しい茶畑」に囲まれている。陰鬱な現世から中間地帯を通り抜け、暖かく安堵に満ちた死後の世界への移行が冒頭のわずかな文章により見事に表現されている。
以上です。まだ草稿なので。弱い箇所、過剰な部分あります。完全版できたら、改めて載せます。文学部の皆様、レポートの参考にしてください。
現在、藤枝静男を読んでます。
ちなみに、彼、成蹊学園出身者です。
藤枝静男「一家団欒」は『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』に収録されています。
『インストール』文庫。
『草の上の朝食』
『この人の閾』
『判断力批判(上)』カント、岩波。
『都市の視線 日本の写真1920-30年代』飯沢耕太カ
いま書いてる(書こうとしてる)小説とか、あるいは、その前に書いた(書きかけた)小説とか、これからこんな小説が書けたらいいなぁって夢想の中で、一つのテーマみたいに、私の中にあるのが「都市」なんだよね。あるいは「都市小説」。
しかし、誰かも言っていたように、近代小説=都市小説とも言えるわけで、つまりは、ここ100年くらいの小説はみんなすべからく「都市小説」なんだって言うこともできるから、いまさら「テーマ」とか宣われても、きょとんとするしかないのだが。
例えば、夏目漱石。『三四郎』とか。熊本からやってきた小川三四郎の視線が「東京」という勃興しつつある都市を眺めていたり、ね。
J・ジョイスの『ユリシーズ』。読んでないけどデーブリンの『ベルリン・アレキサンダー広場』とか。
で、『都市の視線』。
これは、なんつうか写真評論の本らしいんだけど、俺には写真芸術なんてものに義理も恩義もないから、写真なんてドウデモイイのだが、にしても、得るものが多かった。つっても、第T部の「都市の視線――モダニズムとしての新興写真」しか読んでないんだけど。第U部とかは、個別の写真家、作品に沿った写真史になっているようだ。ヒマになったら読んでみる。いや、いつでもヒマだが。
小見出しだけ見ても「環境としての近代都市(モダン・シティ)」「見る者と見られる者」「うろつく視線」とか、おっと思う言葉がいっぱい。
「いまさら」なのかもしれないが、僕らのように「生まれたときから」都市に住む者たちが所与としてしまっている感覚を、「都市(東京、大阪、名古屋…)が生まれつつある瞬間」に立ち会った人たち、それも「第三の眼」であるキャメラ(一眼、そしてコンパクト)を携え、新しい「視線」となっていった人たち、その人々らを追体験することで、もう一度「都市」を捉え直すことができるような気がした。
簡単に言ってしまえば、人間を描かなくても「都市」を描けば十分なのではないか、と思っている。いや、そう、その「都市」を描く「視線」こそが、すでに十分小説たり得ているのではないかな、と思う。わからんけどね。
写真家はもちろん、小説家も、「眼」であり「視線」の芸術家なんだよ。世界を捉える、その仕方が、世界なんだよ、きっと。
そろそろ、いやほんとに、そろそろ体系的に小説を読んでいってもいいころだと思う。「体系的」というのは、時系列に、系統立ててってことだ。
日本文学史上、重要な作家は何人かいる。いまパッと思い浮かぶのは、
夏目漱石
大江健三郎
村上春樹
中上健次
また重要かどうかは、知らんが、妙に気になるのは、横光利一。
しかし、上記の作家で「好き」と呼べる作家は、いない。
やはり大江かな。さようなら、私の本よ!も完結したところだし。
あ、そうそう、埴谷雄高にも惹かれる。
どうなんかね。大学受験レベルの「文学史」を軽く勉強してから、もう一度、考えよう。その前に「アレキサンドリア・カルテット」も読み終えなきゃならんし。
文学は概して「不幸なもの」を扱う。…と、思われている。たぶんその通りだ。確かにそうだった。「死そのもの」が不幸かどうかは、別として、いや「死そのもの」に価値判断はない、概して「不幸な出来事」として「死」が扱われる、主題とされる、物語を展開させる起爆剤として、利用される。 愛する恋人は死ぬ。大切な友は自殺する。これ、文学の定番。吉野家の牛丼、ユニクロのフリースである。
『群像』2004年12月号の田中和生「「架空」の現在」を読み直す。で?
小説の読み方が変われば、生き方が変わる。生き方が変われば、小説の読み方が変わる。安っぽくない幸福、とそれを書いた小説、そういうのがあればいいなと思う。
なんか、ぎりぎりでいずな日々。
いま自分に必要なこと、するべきことは何か、考える(3分)。
・いまの仕事をがんばる。(どうやって?)
・新しい仕事を探す。(できるのか?)
・すべてに目をつむって、今日を怠惰に過ごす。(不安忘却)
・いつか俺は小説家になって、印税で暮らすんだから、いまは何より小説を書くことを優先させる。(東大に入るより難しいぞ)
・死なない程度に生きる。(生きる屍状態)
散漫な集中力。焦燥感。怠い身体。
最近買った本
チョーク!
映画『ファイトクラブ』の作者の作品。阿部和重好きならピンとくると思うが、装丁が常磐響。中身も似ているのかどうかは、まだ読んでいないのでわからないが、冒頭8行目の「いまより若くなることはない。」にはガツンときたね。 別に若くなりたくは、ないけど。
小さな白い車
私の好きなダン・ローズの最新翻訳作品。ちょこっと読んだけど、正直、?な感じ。まあ、最後まで読んだらまた感想を書く。