松田龍樹公式HP

松田龍樹公式HP

雑感雑文

日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。

2005年11月

Return to:Archives

2005.11.22 Tue 愛すべき深夜族

ひさしぶりに完全昼夜逆転生活を送っている。
昨日今日と、起床が23時って!
今日(22日)の朝方は、ずうっと生き延びるためのラカンを読んでいた。その前に斎藤環『文脈病』を読んでたんだけど、8%しか理解できない。そりゃあラカンを全然理解してないんだから、当然か。たぶん俺はラカンニアンには向いていない。もっと素朴な思考回路しか持ち合わせていない。
まあでも、「生き延びるためのラカン」をワードにコピペしたので、またゆっくり読んでみよう(と思ったけど、量が多い…)。

明日は、祝日だってのに偽社長の業務がある。なんだかずべてが逆だね。

2005.11.22 Tue 絵が描けないから、小説? フザケルナ!

小説(と映画)以外へのアンテナを怠っている私は、マンガや音楽(あと写真やスポーツも)なんかに関しては、信頼のおける友人知人の推薦に従って、読んだり聴いたりするようにしている。

数週間前に、『別冊フレンド』という少女向けマンガ雑誌を読む機会があって、なんというか、少女マンガから通して見える少女の「欲望」に苦笑いを催したのだが、またそれとは別に、とある人の推薦のあったマンガを読んでみるべく生まれて初めて『週刊スピリッツ』を買って読んでみたのだが、少女マンガのそれとは種類が違うが、やはり似たような欲望の在り方を発見し、苦笑せずにはいられなかった。

『週刊スピリッツ』には、いまどきの若者を主人公とした作品がいくつか連載されているが(『ボーイズ・オン・ザ・ラン』『ハクバノ王子サマ』『たくなび』)、なんだろうか、この「いまどき、まっとうな青春」(中山智幸「さりぎわの歩き方」)っぷりは、といささかうんざりしてしまった。

僕は、マンガやマンガ家を尊敬している以上に、愛しているが、なんだろう「これじゃだめ」というか「これだからだめ」なんじゃないか、と思ってしまった。そして、やっぱり文学、小説じゃなきゃだめなこともあるのでは、と思った。

というか、マンガへの嫌悪感のようなものが芽生えている。マンガが世の中をダメにしている、とか言いたくなる。クダラナイ。

もちろん驚嘆すべきマンガはある。その『スピリッツ』にだって、ある。しかし、まあ、どうでもいい作品の方が多い。いや、もちろん小説にだってそれは言えるけど。

2005.11.20 Sun 12歳のころの自分を取り戻しつつある現在の自分

最近は、躁状態だ。
旧友のうち3人が『インディヴィジュルアル・プロジェクション』を読んでいたことが発覚し、その原因が僕の薦めによるものだったと、推薦しておきながら言われるまで気づかなかったことに恥じ入り、久々に『I・P』を読んでみることにした。現在半分まで読み進めたが、最近の阿部和重作品と同じで、読み進めるのは苦ではないが、夢中になるというほどではない、というのが感想だ。
『I・P』ではないが、複数の意識を同時に発動させ、かつ統御する。現在の僕の日常は、言ってみればそういう感じだ。少なくとも3つ以上の「僕」がいる。そしてそのすべての「僕」が偽物ののようであり、まあ、だからといって本物を探す気もまったくなく、複数の偽物の自分を出し入れしつつ、ある種の躁状態を乗りこなしている感じは、わるくない。
もちろんそれら複数の偽物の僕(意識)を統御しているのは、小説を書きたいと欲動する僕であり、ぶっちゃけて言ってしまえば、単なるネタ探しなのかもしれない。
そういった生活の中でしきりに浮かび上がってくる感覚の一つに、12歳のころの自分というものがある。以前にも書いたが、人間は思春期の一歩手前、10歳ころがもっとも精神的に成熟しているのだという。最近の自分はその思春期の手前の自分に戻りつつある。もちろんそれは、長く暗かった思春期がいよいよ本当に終わってしまったことを示しているのかもしれない。
思春期の前の自分の精神的傾向を思いつくままに列挙すると、
・無闇に楽しい。
・万能感。
・高い集中力と記憶力。
・人見知りしない。
・本を読まない。
・空想が好き。
・女の子への興味とセックスへの無興味。
・お金に対する無頓着。
などだ。
もちろん、現在思春期が終わったからと言って、以上のような状態に完全に戻ったというわけではなく、思春期を経て、いくつかの点である程度、思春期以前の自分を取り戻すことができたというわけだ。思春期に経験したいくつかの煩悶や苦悩や、辛い体験というものも、半ば忘却されているし、憶えていたとしても他人の日記のように、同情はしても基本的に他人事のようだ。
また最近は、新しく出会う人や久しぶりに会う人との交流が頻発したため、自分の個性や集団におけるポジショニングのようなものが、やや明瞭になった。
高校・大学時代からしか僕を知らない人にとっては、信じられないことかもしれないが、小学生のころの僕は、あきれるくらい明るい少年だった。教育実習に来た大学生のお兄さんやお姉さんに、何度となくその特性を指摘されたものだ。
いや、最近の自分は、小学生のころに比べれば、そうでもないが、それでもやはり、明るくハツラツとしているようであり、周囲の人間の幾人かには直接それを指摘されたりもした。

なんだろう? この感じは?
なんの前触れなんだろうか。
もう少し頭の働きが冴えていれば、文句はないのだが、その点が、小学生時代とは決定的に異なる点だ。

2005.11.18 Thu 偽学生日記

昨日はまた偽学生をやってきた。某大学そばのサイゼリアに行ったのだが、おそらく99.9%某生であろう店内の顔ぶれに、ゾッとした。もちろん彼らに対しての嫌悪感とかではなく、日本有数の私学の学生がその軍隊の食事場みたいな場所に集結して、何が楽しいのか大声で笑ったり語ったりしているその光景が、不気味だった。でも交流自体は楽しくて刺激的で、優秀で才能溢れ僕よりも若い人間と話ができたことは、小説を書くのを辞める理由としては申し分ないものだった。もちろん誰かのために書いているわけでもないが、もうほんとうにハッピーな人生だし、書きたくない。最近は開き直って正面から小説と向き合おうとしてるが、結局、甘えている自分を見つけるばかりだ。というかこういうこと書くのが甘えで、もうやめたい。 13歳から始まった思春期が終わりつつあり、あるいは終わっていて、10歳のころの自分を取り戻しつつある。10歳から12歳くらいまでは内省も煩悶もなくマジで楽しい毎日だった。もちろん、それと同じ状態には戻れないにしても、思春期特有の諸々の問題がいちおうの決着を迎えつつある現在は、それなりに安定し、他人との交流を楽しむこともできる。 昨日は、もしかしたらこいつは自分より頭がよくて小説を書く才能があるのではと思う人間に2人会った。一人は年下で、もう一人は年上だった。どちらにも共通するのは、広範な知識、深い見識に基づく、自分なりの考え、価値観、世界観を持ちながら、もちろんそれを相対化しつつも、相対化の泥沼に陥らず、どこかで、ある「強さ」に辿り着いていることだった。そしておもしろいことに、二人とも「愛」について自説を語っていた。 私も愛について考えたことがないわけではないが、最近は、考えていなかった。放棄していたし、必要なかった。 その二人が語る「愛」についてを聞きながら、どこか自分が平凡な一市民になりつつあることを感じた。自分が彼らに対して話そうとする言葉が、嘘くさくて弱かった。 もしも大好きな人がいて、その人と相思相愛で結婚できて中流の生活ができて子宝に恵まれるならば、いつでも小説や愛について考えることは辞めたい。愛や幸福について考えるのは苦しい。愛や幸福を体現できる人になりたい。でもたぶん無理。 まあ、もう少し偽学生とハッピーな生活を突っ走ろうと思う。で、こういう甘ったれを日記に書かなくなったら、小説を書いているんだろうし、あいかわらず甘ったれを書いているようだったら、そういう微温なハッピーライフを満喫しているということで、どっちにしろハッピーエンドに違いはない。

2005.11.08 Tue 塩田明彦監督『ギプス』

を、見た。画面の印象は「学生映画」。もしも「学生映画」であるならば、よくできている。やはりプロ、アマ、ではない「学生映画」という形態があるのだと思った。アマチュアリズムの極北は北野武だと思う日々。