松田龍樹公式HP

松田龍樹公式HP

雑感雑文

日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。

2005年12月

Return to:Archives

2005.12.27 Tue 個人史、更新

今年とか振り返ってみる。
いちおう超短文の日記をつけているのだが、特に後半はスカスカ。

1月:正月早々風邪で寝込む。
なんとびっくりなことに大学生だったんだね! 懐かしい。大学6年生での卒業を目指し、試験受けている。よく憶えているのは、マクロ経済学をめっさ勉強したこと。いまだにこのマクロ経済には魅力を感じている。なんだろう、マクロ経済を勉強していると諸行無常みたいな心境になってしまうのだ。

2月:仕事っぽいこともしてるが、ネクタイの締め方もわからず、スーツも持っていない状況。14日には中央線の国分寺あたりで送電がストップし電車が動かなくなった、という事件に立ち会っている。レンアイもしていた。弥生のセミナーを受ける。受講生はおじいさんと2人だけだった。

3月:大雪。勇気を出して人生最初で最後のゼミコンに参加する。若者の熱いが未熟な魂と触れ合い、無力感を感じる。卒業できないことが判明。無痛覚症。
チラシを配ったり、シルバー商会に行ったり、仕事っぽいこともする。
顔面を本棚に殴打し、いまだに傷が残っているような怪我をする。情けない。
卒業式を見学。卒アルを購入。
仕事を本格的にすることにする。税務署にも行く。税理士さんと契約する。

4月:また初っ端に風邪で寝込む。看病にきてくれる人がたくさんいた。モテモテだね。
愛知万博に行くとか行かないとか。
7日、M氏に会う。どーせ無理だよ、と思っている俺。
仕事で不快な思いをする。いつか見てろよ。
品川の水族館に行く。
井の頭動物園に行く。
大学7年目!

5月:日光東照宮に行く。
友達を大事にしようと、思う。
中央大学に行く。
13日、初めての営業。
ぼちぼち授業にも出てる。
スポーツクラブに入る。
セレブリティの通うカルチャースクール(CS)に入る。
20日、GMに初の営業。つっても、俺は座っていただけ。スーツでもないし。同じ日にCS初講習。前田塁ショック!
ブリトニー・スピアーズのベスト盤を聴く。
上野にベルリンの至宝展を観に行く。三越本店で小谷津雅美先生の個展を観る。

6月:9月には卒業したいなあと思う。
『ミリオンダラー・ベイビー』を新宿で見る。
月、水は大学生。
国保と年金をちゃんと払う。
かっぱ橋に行く。
スーツを買う。
カタログ掲載、決定。ちょっと、うれしい。
六本木ヒルズ童貞を捨てる。

7月:『プロ倫』を根性で読み通す。
ワセタに桐野夏生を見に行く。
CS後、初のロイホ談義。
レンアイトショウセツブレイクスルーイクスペリエンス。
雨に、フラれる。
大田区、訪問。地震。
台風接近、レポート提出。
GMがうちに来る。
知り合いの知り合いが結婚したらしい。

8月:だいたい昼夜逆転。
丸井でスニーカーを買う。フットサル仕様。
熊本に帰る。墓参り、金魚すくい、ドリームタウン。
文京区のマンションを見る。
そうだ、歳を取ろう。25になる。Tシャツを買う。
武道館に行く。カメラを貸す。
麻布十番の狭い部屋。

9月:新事業開始?
恵比寿、日仏会館。
低反発マットレスとまくらを買う。
選挙には行かず。

10月:真剣に就職活動を開始しようとする。が、3日でやめる。
新宿で朝までカラオケ。
美容師さんが退店。ショック。
六本木ヒルズに通う日々。
ビックハットが僕に微笑んだ!!!!

11月:ヒルズ族と間違われる。
韓国に行く。
東大の匂いを嗅ぐ。
ワセタに眩暈がする。
学園祭に行く。今は昔の大学生。

12月:ビックハット訪問。
ビックハット、ヒット!
ビックハット、クリーンヒット!
少し、天狗になる。戒める。
来年は仕事と小説で力をつけたい、と思う。

今年は、わりと充実した年だったと思う。マジで。
自分のできることとできないことがはっきりしてきたのが、よかった。
それと俺は運だけで生きている、としみじみ思った。すべての人に、感謝感謝。

2005.12.25 Sun 空気を読む

いまさらなのかもしれないが、絶対的な「私」というのはいなくて、誰かとの「関係」においてのみ相対的に顕れる「私」しかいないのだなぁ、と思った。私は最近、新しく出会う人を、手っ取り早く類型に収めようと、自己流性格分析をその相手たちに試みていたのだが、なぜそんなことに焦っていたのかというと、相手の性格が決まらないと、それに応ずる私の性格が決定できないからだ。私は「人当たりがいい」とか「会話が柔らかい」とか初対面の人に言われることがあるが(大いなる誤解ではあるが…)、それはこの相手に合わせようとする過剰適応が、そういうふうに感じさせてしまうのだろう。 一対一であればなんとかなる。しかし、集団における性格適応は極めて難しい。集団の場合、そこにいるすべての人に適応する性格などはないから、おのずと「集団」という一種の(擬)人格を想定し、それとの関係性を模索することとなる。これがしんどい。 まあ早い話が、「場の空気」を読むことになるのだが。 また人間関係というコンテクスト以外に、最近は「場のコンテクスト」みたいなことを考えていた。おおげさな話ではなく、例えば学校の教室、職場、ファーストフード店、居酒屋など会話が行われる「場」によって、会話の内容や空気、温度みたいなものが、あきらかに変化する、そのことだ。これは物理的な場に限らず、ネット上、紙媒体、などメディア的なコンテクストにも通じる話かもしれない。知らんけど。 例えば真剣に「死」について考えている青年がいるとする。彼は概ね一人のとき、夜、自室で、死について考えている、としよう。で、あるとき青年が友人と飲みに行く。するとその友人から「最近、死について考えてるんだ」と神妙な口調で言われる。途端に青年は「何いってんだよ」と突っ込んでしまう。なんだろう、そういう感覚。

そんなことを考えていて『小説トリッパー』冬号の斎藤環の連載を読んだものだから、大いに感心した。「りはめ」は、出るべくして出てきた小説だな。 そのあと『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読んだりした。なんだろうね、「空気」の読み合戦。すさまじい。

2005.12.22 Thu 仕事納め

仕事(!?)のあいまに、『ベンヤミン・コレクションT 近代の意味』所収の「アレゴリーとバロック悲劇」を齧り読んでいるが、はっきり言って、つらい。でも、朧気ながら見えてくるものもある。まだ第2章の途中だが…

ちなみに、岩波書店『広辞苑 第五版』によると、

アレゴリー:喩(たとえ)。比喩。諷喩。寓意。特に一八世紀以降象徴と対比して用いられ、それ自身の形象的価値よりも、他の観念を一義的に示唆するための単なる機縁や記号として機能するものとされる。

「象徴と対比して」と書いてあるように、どうも「象徴とアレゴリーの違い」が重要らしい。で、なんつうのかね、象徴は神秘的? でもアレゴリーは通俗的?っていうか、こじつけ?みたいな。

でも、アレゴリーによって、文学の解釈がどう変わったかとか、まだわからん。

つーか、やってる仕事とベンヤミンとの落差をどう埋めていいか、あるいは埋めなくていいか、わからん。金儲けがしたい、恋がしたい、小説が書きたい。そんな感じや。

追記:そういやあ、『マダムと奇人と殺人と』を見た。仕事納めに。 つーか、予備知識ゼロだったけど、画家のマグリットがモチーフ?になってて、大学のときにマグリットに傾倒していた私としては、少しうれしかった。パイプのこととかね。 作品自体は、散漫でグロテスクでよかった。娘役のマリーは、なんかステキ。ミステリーハンターっぽい感じ。恋しそう(毎回そればかりだな…)

2005.12.18 Sun 無根拠

大学1年ですら郷愁の対象となりつつあるいま、高校1年なんてのものは大昔の、どうやってもリアリティをもって思い出せない時代の話でしかない。俺の書いたクソ小説『S大学物語』は、大学4年生の話で、それすらも喉元過ぎた感がある。『S大』は、はっきり言っていまさらながらの成長物語を就職活動をモチーフに描こうとした小説だが、まあその最後はなんだかわけのわからない終わり方だし、「成長」(あるいは去勢)したというよりは、なんだかよくわからんけど、もう一度「大学4年生」をやり直すみたいな感じで終わっている。正直、どうやって「いい話」っぽく、かつ、自分でもある程度、納得のいくまとめ方ができるか悩んだ。で、太陽と海という大いなる自然によって、なんだかわけがわからないパワーをもらうというなんだかわけのわからないエピソードを書いてしまった。正直、彼は、何も変わっていないのだと思う。

『小説トリッパー』2005年冬号の斎藤環の連載を読んでいて、やっぱもう「成長」も「変化」もないんだな、と思ったし、80年生まれながら古風な「変化と成長」を望んでいる俺ですら、「やっぱ無理だよ」って実感があるから、しゃーない。

で、一之瀬尚紀が、太陽と海は何も語らないし、存在理由なんてないのに存在しているみたいなことを思ったんだけど、でまかせで書いたつもりだったが、やっぱり「書いたもの」ってのは、いつまでも自分を呪縛し続けていて、「あれはなんだったんだろう?」って考えさせ続ける。

昨日も書いたけど、最近の俺は「無根拠なもの」と「リアリティ」にばっかり興味がある。

現実生活の傾向としては、リアリティのなさ、思考力の低下、不安も安心も希望も絶望もどれもがその波の振幅の幅を最小限の範囲に留めている、ということだ。具体的に言うと、ケガをしても痛くない、あるいは痛さがどうでもいい。あるいは大金が入る予定があるのに、うれしいけど、それだけですべてハッピーではない感じ。

人格の分裂に対する不安。が、その分裂によって決定的な鬱状態は回避しつつあるという状況。

よく安い哲学話で、哲学は死の予行演習だとか、人間には死への不安があり、根源的な存在不安があるとかなんとか言うが、人間は死をリアルに感じられるほど鋭敏ではない。むしろ死を不安がる怖がるくらいの鈍感さしかないのだろう。

で、いつか死ぬから不安、なのではなくて、そもそもなんで自分が存在するのか、わからないことが不安なのだ。死んでも「存在」は残る。しかし、その「存在」自体が、無根拠だ。

世界も自分も、無根拠だ。それにどう抗えというのか。

どうせ生きて死ぬだけ、とうそぶいてみても、毎日の小さな鬱の芽を潰していくことに精一杯だ。脳が思考力が記憶が減退するのも、人格がモードが気分が分裂するのも、すべては小さな鬱の芽を育んでしまわないための、除草剤であり処世の一つでしかないのだ。

2005.12.17 Sat 即戦力

年末までに、ベンヤミンのアレゴリーにについてと複製技術の考察について自分なりに理解する。
短い習作を一本書く。

笙野頼子「虚空人魚」
はじまりはいつも雨(飛鳥涼)はまったく関係ないのだが、何かの「はじまり」について空想することは、とても魅惑的だ。果たして、明快な「はじまり」を持つものなどこの世にあるのだろうか、と思ってしまう。言語の誕生、人類の誕生、生命の誕生、宇宙の誕生。三島由紀夫じゃあるまいし、自分の「生まれたときの記憶」を持っている人間なんて一人もいない。常に何かのはじまりは、後日、確認(空想)されるしかない。例えば、近代資本主義の誕生の秘密だって、そう明快ではないのだ。 ま、だからこそ、人は「はじまり」を見つけたがるし、空想したがる。それは本当に魅惑的な誘惑だ。 だが、もちろん、はじまりは常に空白で、いわば「虚空」だ。みんなの妄想をドライブさせ、空想で埋めさせようとするが、やはり空虚で無根拠だ。どうでもいいが、仏教で知恵を司る仏様が虚空蔵菩薩とは、これ如何に。

光アメーバ的な世界は、個体差のない世界・性差のない世界・性交のない世界、として描かれており、男尊女卑を反転させた女尊男卑の国ウラミズモ(『水晶内制度』)を描きながらも、そこにすら安住できなかった笙野頼子のある種の理想世界が、この光アメーバの世界なのかな、と思った。あるいは、星野智幸が確か『アルカロイド・ラヴァーズ』かなんかにまつわるインタビューで、男女がいて恋愛があって性交があって家族があるわけで、植物にはそういったものはないから、植物を描いた、みたいなことを言っていて、なるほど、と思ったのだが、それを想い出しもした。究極の男女平等は男女の区別がなくなることであり、細胞分裂で増殖するアメーバみたいな世界になんないとどうしようもないんだな、と思った。

2005.12.15 Thu 思いつき、メモ

「公式」を使って問題を解くよりも、その「公式」自体について考えたり、あるいは自分で新しい「公式」を考え出す方が何百倍もおもしろい。
私は自分なりの「公式」を求めているのだから、私の考えが矛盾していたりまとまりがなかったりスマートでなかったとしても、当たり前の話だ。

独創的な数学者は必ずしも、計算が得意というわけではないのだし。

2005.12.06 Tue ヘビーユーザー

今日、ブックオフに本を売った。
130冊。
5,030円也。

2005.12.02 Fri 小島信夫「馬」

『戦後短篇小説再発見10 表現の冒険』に収録されている小島信夫「馬」を読んだ。

最初、退屈だし、意味がわからなかったのだが、読み直して、なかなかおもしろい作品な気がしてきた。「家」を建てている間、主人公が少しおかしくなる(精神病院に無理矢理入れられる)というのは、斎藤環で読み齧った、僕らは全員神経症で、それは言葉を獲得したからで、神経症から脱しているのは精神病者だけだというのを想い出した。 僕らが所与のものと思い込んでいるものを、あらためて意識したり、あるいは、その生成の過程に自分が明確な意識を持って立ち会う羽目になったら、僕らは誰しも、頭がおかしくならざるをえないのだろう。

これは、前半が「家」で、後半(八から)が「馬」なのだ。馬がなんなのかは、まだよくわからない。また読んでみる。

2005.12.02 Fri 小田扉『団地ともお』

おもしろいマンガある? と訊いたら「小田扉でしょ」と言われた。「おだとびら」と聞いて最初に浮かんだのは「町田ひらく」のことだ。もちろん「おだ」と「まちだ」が微妙に字面とか語感が似ている(ま、ほんと掠ってる程度だけど)のと「とびら=扉」と「ひらく=開く」のイメージの近接性がその原因だろう。
おっと、「町田ひらく」を検索したらダメだよ。ちなみに町田ひらく作品は読んだことないぜ、俺は。マジで。単に本屋で見かけて、そのマンガのタイトルと作者名が印象に残ってるだけで、買う勇気はない。18歳未満は特に、というか絶対買ってはいけないよ。

2005.12.02 Fri 昨日見た映画と今日読んだ小説

妻夫木聡特集上映。

『ジョゼと虎と魚たち』
どうせだりぃ映画だろ、犬童一心だし、とかナメていたら、予備知識ゼロだったせいか、引き込まれた。主人公である妻夫木くんの他人に対する「温度」にリアリティを感じた。ていうか、池脇千鶴に恋しそう。アホだな。

『きょうのできごと』
ご存知、原作デストロイヤー行定勲だし、とかナメてたら、やっぱ相応の作品だった。原作も半分だけ読んだが、そんとき感じた官能と暴力みたいな感じはなかった。伊藤歩と池脇千鶴がカワイイというだけ。

「さりぎわの歩き方」中山智幸(『文學界』2005年12月号掲載)
なるほど、この人は「文章がうまい」んだな、と川上弘美の選評を読んで知った。で、やっぱり「文章がうまいやつは、強い」というのが確認された。あるいは「強いから、文章がうまい」のだろうか。『きょうのできごと』(小説)と同じで、モテる/モテない差別が気持ちのいいくらいフルに発揮されていて、もちろん作者はモテる側なのだが、「強いなぁ」と思ってしまった。『きょうのできごと』も「さりぎわの歩き方」の作者も御真影を拝見するに、美形でいらっしゃる。さぞモテるのだろう。作品の気分もわかるし、センスの良さもわかる。ただどうでもいいが、文章のうまいやつが、俺は嫌いだ。

もっとどうでもいいが、「Yahoo!JAPAN文学賞」に応募していたのだが、やはり落選していた。最終候補作の梗概を読んだが、いまいち、賞が何を求めているのかわからなかった。自分の出したものを読み返してみたが、まあクソだけど、思ったほど軟便ではなかった。多少のまとまりはあった。ただ反社会的な内容をボーイズ・ビー風に書いたのがマズかったのだろうか。
まだまだ石田先生の足下にも及ばない自分を確認できただけでよしとしよう。