
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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この本のタイトルの意味をどこかで読んで、さらにベンヤミンを読んでいて死体となって人間の肉体がアレゴリーと化す、というのを読んだとき、ピンとくるものがあった。この『煙か〜』をアレゴリーで批評できるのではないか、と。
まあそんな固いことは別として、「いまどき、まっとうな」家族愛だと思った。
人間は常に動いている。
ということに気づいたとき、ある新鮮な驚きがあった。考えてみれば当たり前の話で、机やイスではないなのだから、人間は常に動いているものである。ただその「当たり前」のことに自分が驚きを感じたことに、人間の知覚の仕方を知るヒントがあると思った。
例えば刑事が犯人を探す際に用いるのは、似顔絵であったり写真であったりする。それらは動いていない。静止画である。また逆に、お見合い写真のように、予め写真で顔を確認していた相手が実際会ってみると印象がまったく違うという状況もある。
最近は家庭でもビデオ編集などができるようになったが、人の顔の映った映像を1/30フレームずつ細切れに見ると人間が瞬間瞬間に思いも寄らないような「顔」をしていることに気づかされる。ビデオ編集をしたことのない人でもスローモーション映像やあるいはスポーツ写真などでアクションの瞬間を捉えた写真などを想い出してみればわかるだろう。
そのように、人間(主に顔)は常に動いているにも関わらず、私たちは静止画によって顔を識別できるし、おそらくは記憶の中に静止画としてのその人の「顔」をストックしているのだろうと思う。
ところで常に動いている人間が、机やイスのように動かなくなるときがある。それは、死んだとき、死体となって人は動かなくなる。
自明のことながら、肉体のアレゴリー化は屍体というありようにおいてのみ、徹底的に断行されうるからである。(W・ベンヤミン「アレゴリーとバロック悲劇」二八九頁 久保哲司訳、『ベンヤミン・コレクション1』収録、ちくま学芸文庫、一九九五年)
――彼はふと思いついて、このごろ眠れぬとき冗談に試みる死顔の真似をしてみることにした。(藤枝静男「欣求浄土」一九頁、『悲しいだけ・欣求浄土』所収、講談社文芸文庫、一九八八年)
ベンヤミンは、死体となって初めてアレゴリーとなるのだと書いているが、そう考えると、やはり私たちは他人を(ときに自分も)認識する際に試みているのは、相手を「死顔」として捉えているということだ。
人間だけでなく、現在生活している現実世界や過去の歴史世界を認識する際にも行われているのが、この冗談に試みる「死顔」ではないだろうか。
例えば物語における人物類型があるとして、同じように、私たちは多かれ少なかれ日常生活で相対する人間を類型化しようと試みる。性別、年齢、職業から血液型や星座などの迷信めいたものを駆使し、それらをみずからの「経験」のもとに恣意的に総合して、相手の「性格」を割り出す。
なるほどそういった行為は、常に動いているはずの顔を記憶においては静止画(脳内映像がたとえ「動画」だとしても、それも「静止」画である、と思う)として留めており、そのつど照合、更新している様子と重なる。つまり、顔(外見)や性格(内面)の把握とは、常に動いているものを静止状態としてストックすることなのだろう。人間は死んだものしか認識できない、あるいは、認識するとは、対象をいったん殺している、ということなのかもしれない。
正直、ベンヤミンもアレゴリーもほとんど飲み込めていないのだが、ほんの少し示唆を得たとしたら、あるいは自分が勝手に理解できたと思っていることは、〈時間性の空間化〉という言葉くらいだ。「アレゴリーとバロック悲劇」を読んでいて何度も出会すのは「廃墟」とか「屍体」「髑髏」という言葉でその文脈はわからなくても、それらが何かしらのモチーフになっているということはわかる。また聞きかじった知識でだが、ベンヤミンは「パサージュ論」という長大な論考を企図していたらしく、パサージュ=小路とは都市(パリ)を網の目のように巡る小路のことであり、やはりその小路や小路を歩きながら目に跳び込んでくる都市の様々な形象とは、歴史を空間化したものなのである。
あるいは「複製技術時代の芸術」でも問題となっている(ことの一つ)は、〈時間性の空間化〉である。オリジナルの芸術作品だけが持つとされるアウラ、その〈いま―ここ〉的性質も〈時間性の空間化〉と言える。であるならば、アウラなき複製芸術とは時間を超越した、歴史性を欠いた芸術である、と言える。
複製技術に限らず、科学技術のすべては「死の克服」を究極の目的としている。つまり、時間と空間の克服だ。複製芸術(映画)とは死を克服した芸術なのだと思う。あるいは、その誕生こそが死、という死んだ芸術なのだ。それは歴史の死相たる髑髏や廃墟といったものが、それゆえに「永遠なるもの」でもある、というのと相似形をなしているようにも思える。
「一家団欒」はアレゴリカルな作品である――かどうかは、わからないが、やはりこれの持つ不気味さとは、登場人物すべてが屍体であるということであり、過去に死んだ家族が死んだ時点から老いていないということからも、これが〈時間性の空間化〉をわかりやすく(つまり死、死後の世界として)表現した作品だと言える。
またどうでもいいが、「サザエさん」などに代表される登場人物が老いない作品も想い出した。老いないサザエさん一家は不気味といえば不気味だが、日常的な視聴においては私たちはそれを不気味と感じない。むしろ、「サザエさん」は国民的アニメとして、日本国民の(いまはなき)家族像のアレゴリーとして毎週日曜日の夕方に表象されているような気がする。彼らは死体や死んだ者として描かれているわけではないが、やはり、「一家団欒」と同じく「死んだ家族」なのだと思う。
今後の課題
「屍体は生のアレゴリーである」ということが実感できなかった。
シンボルに対するアレゴリーの素晴らしさが実感できなかった。
最後にベンヤミンの文章を読んでいても、また自分で文章を書いていても、それらがどうしてもアレゴリー的であると感じずにはいられなかった。というか、言語が隠喩の体系であるならば、自分の頭で何かを考えようとすることが即ちアレゴリー的になるのは当然であり、そういうふうにしか人間は事物を認識できないのではないか、と強く思った。
ウォルター・ベンヤミンをずっと読んでいるが、はっきり言ってわからん。その流れで読んだ今村仁司『近代性の構造』が、ほんのりわかってうれしかった。この本は、受験生時代(7年前!)に小論文対策として買ったのだが、0.00001パーセントも理解できなかったものだ。しかし、25歳となった今、5%くらいは理解できるから、まあ伊達でも本を読んできた甲斐があるというものだ。別に人間は年とともに知識が増えるわけでも賢くなるわけでもないのだが、ほんのすこしでも成長していたことは悪いことではないと思う。
ベンヤミン、今村仁司を通じて朧気にわかったのは、やはり「時間」という問題だ。そしてそれに必ず付きまとう「空間」という問題。考えるべきは「時間」なのだとわかっただけでも、よかった。もう少し、引き続き読んでみる。
人生で初めて大吉のおみくじを引いた。
マジで、今年は(去年もだけど)、転機になる年っぽい。
いろいろと、がんばりたいね。
あ、そうそう新年早々『霊界物語』とか読む。ビックリマンとの相似を大塚英志が言ってたけど、なんだろういろいろとおもしろそうな本。しかし、拾い読みが精一杯。全巻買うと5万ぐらいするし、読み通すにはかなりの精神力が必要だ。読み通さなくてもいろいろと得るものはあるだろうが。また、読みたい。けど手元にない。図書館で読んだので。