
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
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荷物を整理していて、大学に入ったばかりのころの日記を見つけた。その最初のページに「大学でしたいこと」がいくつか書かれていて、自分がそれを一通りはやったことに気づいた。
映画を撮りたいとか、小説を書くとか。
それとおもしろかったのは、「経営」をちゃんと勉強する。「ビジネスのアイデア」を考える、とも書いていて、まあなんだかんだ言って、文学部も法学部も受けずに経済学部を受けた自分がいるのだから、経済(経営)にはそのころから興味があったことの証拠だ。
いまは小説で食べていけないので仮の仕事をしている。
申し訳ないが、一歩間違えればニートのはずが、仕事がうまく行き過ぎている。
感謝、感謝。
でも、少し、思うところもある。
例えば、偏見も含めて文学部出身の男なんて「使えない」とか就職に弱いとかそういうイメージがある。いや、文学部出身の方、怒らないでください。私は文学部出身ではないにしろ、文学に身を捧げた(?)男。その私から言わせれば、やはり、真の意味で「文学的素養」は実社会、ビジネスの世界でも「使える」ということだ。
学問、法律、政治、ビジネス。なんでもそうだが、すべては「言葉」である。
言葉であり、コミュニケーションでありクリエイティヴィティだと思う。仕事って。
世の中に「おもしろい」仕事があるとして、その仕事には必ず「クリエイティヴィティ」が含まれている。
文学的素養というか文学部的素養とは、クリエイティヴィティのことだ。
「言葉」を使って、どれだけ相手に夢を見させるか。
営業職だってそう。企画だってそう。
そんなことは、まあどうでもいいけど、25歳前後。
僕の周りの25歳前後は、びっくりするぐらいに「仕事以外」の何か、を実践している。サブカル表現系が多い。自分もその一人。
昨日、そういった自分の周りの25歳前後のリアルな日常を活写した小説が書けたら、小説はうんこでも、何かの記録、ぐらいにはなるのではないか、と思った。19、20歳のころは自分にしか興味がなかったけど、最近は周りの人間に興味がある。
『S大学物語』のつづきのような作品が書けたらな、と思いながら、ぐだぐだ過ごす今日このごろ。です。
「沖で待つ」とか、別にどうでもいいのだが、どうやら私の好きな西村賢太氏の作品「どうで死ぬ身の一踊り」が芥川龍之介賞の候補作となっていたようですね。同人誌から見出された彼の出自や、いまどき「爆笑」(by山田詠美)を誘発するしかない私小説っぷりといい、なかなか話題性?はあったのではないでしょうか。
コンビニで文藝春秋を立ち読みすると、何人もの審査員が、主人公の藤澤清造への具体的な執着の理由がいまいち伝わらないことを指摘していたが、それはしゃーない。だって、おそらくだが、西村氏は「藤澤清造もの」として、ある種の連作を書いているつもりなんだろから、たまたま「どうで」だけを読んでも、それは伝わらないはずだ。
今回は「どうで」が『群像』掲載だったが、もし『文學界』掲載の作品である程度独立性の高い作品を書けば、氏が賞を受賞することもないこともない、かもしれない。ま、どうでもいいのだろうが。
安泰?の審査員たちに比べれば、いい年してこの時代に、あんなにも必死こいた「私小説」を書けることを羨ましく思うし、純粋に彼の小説はおもしろい、と私は思う。
追記:『どうで死ぬ身の一踊り』が単行本になったようです。興味ある方は、読まれてみては。
25歳までに芽が出なかったら、あきらめる。
と、電車の中でギターをかついだ男が、隣の女に話していた。
そういえば、俺も同じことを言っていたなあ、と想い出した。
どうでもいいけど。
小説のことを忘れているときもあるし、そうじゃないときもある。小説を忘れている時間が長くなっていくのかわからんが、どっちでもいい。書きたきゃ書くし、忘れたらそれまで。
ただ己を「小説家志望」とアイデンティファイしてしまった呪縛だけが、確実に残っているが。
にしても、「小説以外」は、運がいい。絶好調。
なんだろね。