
日々思ったことや考えたことについて、好き勝手に書いています。
Return to:Archives
首都東京を西へと向かって延びる中央線なんかでは、車内で読書している人が多い。雑誌やマンガならまだしも文字の小さい文庫本やベストセラーとはいえ持つだけでも疲れそうな分厚いハードカバーまで、その車内読書には幅がある。
韓国か台湾か忘れたが、この日本人の電車内読書が「勤勉」に映ったらしく、国を挙げて電車内読書を奨励したという話を聞いたことがある。
つーか、電車内の移動時間ヒマなのね。たぶん、みんなそうだけど暇つぶし。
なるべく鞄には本を入れておこうと思うが、荷物が多くて省くこともある。そういうときに限って電車内で本が読みたくなるし、持っているときは、本よりも人間観察や車窓に気が行ってしまう。
で、本もないけど人間にも景色にも興味ないなってときの暇つぶしは、ケータイ。メールとかを読み返したり。でも、もちろん、その暇つぶしにも限界がある。俺はゲームはしないし。
ケータイ小説がどういった状況で、どういった人々に読まれているのか知らないが、上記のようなことを考えると、「暇つぶし」にはぴったりのメディアだと思う。
芥川賞作家・阿部和重のケータイ小説『ミステリアスセッティング』を読んだ。
感想? 死らんがな。
そうだなー、家で読まない。電車内、移動時間のみに読む、とかそういう縛りを持たせてもいいかも。そういう不自由さというか、フレーム作りが、ケータイ小説を読むという行為と相性がいい気がするし、どうでもいい気もする。
どうでもいいか、俺は若年性の物忘れ病かもしれない。怖いなぁ。
今日、あるご家庭にお呼ばれされた。食事とお酒をご馳走になる。
「家庭」というものがある。「家族」というものがある。
自分が母子家庭に育ったせいか、パーフェクトな家族、家庭を目の当たりにすると、なんともいえないまぶしさというか、甘酸っぱさ?というか、そんな思いが胸のあたりを満たす。結婚というものをリアリティをもって考えはじめた最近では、余計だ。
そのご家族には二人の娘さんがいて、両方とも小学生の年子だ。一つしか変わらないのに、上の娘さんは落ち着いていて大人。下の娘さんは陽気で愛嬌がいい。お父さんとお母さんの性格を分け合ったのかもしれない。
僕はそこの「お父さん」に呼ばれたのだが、お父さんとバランタイン30年を飲みながら政治や社会やWBCなんかの話に花を咲かせる。すると、下の愛嬌担当の娘さんがやってきて、やれ毬藻の色が変わったとか、やれ「おっきくなっちゃった(例のマギーなんとかのマジック)」といいながらこちらの気を惹こうとしたりしてくる。
するとお父さんが「いま大事な話してるから、あっちで遊んでなさい」とか言ってたしなめる。
ま、それほど「大事な話(お酒を飲んでの話だし)」でもないのだが、思い浮かぶのは自分が小学校のころとかにも同じような状況があったな、ということで、親戚の集まりやなんかのときにみんなが「大人の話」をしている風景だ。もちろん子供組は隣の部屋でわいわい遊んだりしていて。
とうとう自分は「大人」の側に入っちゃたのだな、とか25歳!にして思ってしまう。そして、その小学生たちから「大人」として見られることに、ドギマギ&ギクシャクしてしまっている。そしてお酒を飲みながらの、「大事な話」や「大人の話」よりもその小学生の言動や愛嬌の方に強烈に惹かれてしまう。子供を見ていると学ぶことが多い。想い出すことも多い。自分のいまに至る性格の原点を見せられたような気分になることもある。
一頻り大人の話が終わってからは、娘さん二人とお父さんと俺でビリヤードをした。なんとまあ本格的なビリヤード設備があるんです、リビングに! なんてステキなマイホーム。そして子供以上にキャーキャーいいながら玉を突くお父さん。冷静に玉を沈めていく長女。そんな風景。
帰りにはみかんのお土産までいただく。マジで、なんか、スゲー。家庭の暖かみまるごとツアーみたいだった。
俺が「結婚」というものを想像するときにまっさきに思い浮かぶのは、嫁さんの家のリビングで向こうのお父さんお母さんたちと談笑している姿だ。それは完璧な「家族」そして「家庭」。「お父さん」と「お母さん」のいる風景。温かい感触。
今日行ったご家庭のお父さんは、「結婚とは家と家がするもので、惚れた腫れただけでは決められない」と言っていたが、僕もそう思う。というか「恋と愛と情」がセットになった結婚ができればパーフェクトだと思う。
そんな感じで、病んでます。
2006年3月21日(火)
午前6時、就寝。
正午、起床。
身支度をして、出社。今日は休日出勤。
手にはイワヒバという植物の鉢。重い・・・
13時半に四ッ谷で得意先と待ち合わせ。
12時56分の総武線に乗る。
乗ってから、中央線が速いから乗り換えようと思う。
西荻で下車。
・・・あ、休日だ。西荻に中央線は停車しない。
ふたたび総武線ホームへ。
乗る。
予定では早めに着いてて四ッ谷駅で軽く食べようと思っていたのに、ほぼ断念。
新宿駅に着く。中央線に乗り換えようと、下車。
オレンジ色の電車に乗る。
・・・あれれ? 中野に向かってます!!
かなりアホです。ボケです。
今日はツイてない。
中野で中央線に乗り換え。
13時半にはまず間に合わない。
遅刻の旨を伝える。
13時37分、四ッ谷駅麹町口到着。
得意先と合流。
タクシーに乗ろうと駅外に出ると、何やら撮影している。ドラマ?
タクシーで麹町ビル到着。昭和の匂いがする。
もう一人の得意先と合流。一行3人。
14時、現場。
みんなWBCを見ながら弁当食べてる。確か6回。
腹減った〜
今日のスケジュールを確認に行った得意先2号が戻ってくる。
沈痛な面持ち。
「もうしわけない・・・今日のスケジュールキャンセルになりました・・・」
なんでもWBCの関係で社員が全員出払ってて、今日の予定が間に合わないとか・・・
しゃーないので、すすめられた弁当を俺だけ食う。うまくは、ない。
しばしWBCを挟んで、歓談。
社員が来る。今日の詫び。
次回の予定打ち合わせ。
なぜか喧嘩腰。
そうこうしていると画面に「世界一」の文字。やったね!
打ち合わせも終わって、退社。
近くの茶店で会議。
5時ごろ終わって、得意先2号と別れる。
得意先1号と四ッ谷駅でお茶と会議。
6時ごろ別れる。
友人から誘いのメールがあったので、新宿へ。
友人とその友人と友人がいる。
4人で飲む。エグいエロ話をする。
隣の団体様がゲロパーテー。
10時ごろ店を出る。
カラオケ。
11時ごろ解散。
千葉ちゃんを見る。
友人と各停の中央線。
酔いつぶれた女(ゲロ少々)とその隣に座っている美女と、ゲロ女をなぜか介抱しようとするイケメンとそのイケメンにたたき起こされたゲロ女の正面に座っていた男、というアンバランスな4人組を見る。
いまだに意味不明。
友人に取材途中で、彼の下車駅に到着。
俺も次の次で降りて、寒いのでタクシーで帰る。
24時5分。
いろいろと勉強になった。
やはり俺の小説より、みんなの人生の方がおもしろい。
昨日の雑文が、午前7時に書かれているらしくて、「昨日」なんだけど、俺的にはおとといな感じ。時系列で追ってみる。
19日正午:WBCを見る。
19日16時ごろ:WBCを見終わる。
19日18時ごろ:寝る。
20日01時ごろ:起きる。
コンビニ行ったり、本読んだり、春猫祭。
20日10時ごろ:寝る。
20日17時ごろ:起きる。
晩メシ、食料買い出し、帰宅。他人にメールしたり。
20日23時ごろ:これを書く。
ポール・オースター『孤独の発明』所収の「見えない人間の肖像」を読了。おもろかった。でも、次の「記憶の書」は読めそうにない雰囲気が…
「見えない人間の肖像」がフィクションなのかノンフィクションなのかわからないが、いちおう体としては、ポール・オースターの父親に関する回想録?になっている。
最近、自分で小説を書いたり、書こうとしたり、昔のを読んでみて気づいたのだが、「自分のこと」ではなく、自分が感情移入してしまった人物について書いた方がいい気がしてきた。
紀貫之じゃないけど、女のフリしてかいたものが妙に生き生きしている、なんてことはままあることみたいだ。
僕の周りには魅力的な人物が多いし、彼らに取材させてもらって、「彼らの」小説を書いてみたい、と強く思う。そして、商業出版じゃなくてもいいから、ホチキス本でもいいから一冊にまとめて、2006年ごろの「気分」を保存できたらな、と思う。
なので、私の知人・友人の方々、突撃取材をするかもだけど、そんときはよろしく。
いまこれを書いているのは19日午前7時ごろだが、昨日は午前3時ごろに寝て、午後3時ごろ目覚めて、ベッドでラジオを聴きながら、午後5時ごろには再び寝てしまった。そして次に目覚めたのは午後11時。いったい何時間寝たんだ?
今週一週間はなんだか過ぎるのが早くて、「濃い」とまでは言わないが、バラエティに富んだ一週間だった気がする。なんというかフリーターからIT長者まで、って感じですかね。
本もいくつか買った。
例によって、文芸誌『群像』『新潮』『文學界』の各最新号。それと本屋で見つけて狂喜した阿部和重の幻の一作『プラスティック・ソウル』。存在は知っていたものの未刊行で、読む機会がなかったのだ。他には柴崎友香『青空感傷ツアー』『次の町まで、〜』、岡田智彦『キッズ アー オールライト』。『キッズ』は以前文藝賞を受賞したときに読んだもの。ごつごつした文章だが、なかなかおもしろかった覚えがある。熊本の人だし。
あと『クイックジャパン』のドラえもん特集号。なんでも「のび太の恐竜」がリメイクされるみたいだしね。小学生のころ尊敬する人物といえば藤子・F・不二雄だったわけだし。ドラえもんの大長編では『大魔境』が好きだった。逆に『魔界大冒険』とかはおもしろいけど、ちょっと怖かったりもした。リメイクは歓迎だが、やたらと洗練されたり、器用な大人のどうでもいい意図が前面に見えてしまうようなら、ゲンナリだろう。アニメはアニメらしくあればいいと思う。
アニメと言えば『エヴァンゲリオン』が10周年らしい。ネットで検索して、いろいろおもしろいページもあった。というか、いまさらながら、『エヴァ』はすごい作品だと思う。アニメとかマンガとか小説とか映画とかドラマとかそういうのを越えて、「奇跡的」な作品だと。一生に一度、奇跡の連続で作品が作れるチャンスを遺憾なく発揮して作られた作品だ。時代そのものだ。すげー。
最近は「さおだけや」とか「下流社会」とか「国家の品格」とか新書がベストセラーになっているようだ。それとはまた別にニンテンドウDSとかの携帯ゲーム機で「脳」を鍛える系が大流行していたりする。
確か宮台真司とかが言っていたと思うが、これは一種の教養ブームで、社会が不況でナショナリズムが強くなると啓蒙主義的な教養主義的な、そんな一種の「お勉強しなきゃ」強迫観念が国民のあいだで強くなるらしい。
だからってわけではないが、私も新書はわりと好きだし「入門」系の本とかつい買いたくなる。こないだ買ったのは『ファスト風土化する日本』の他に『メタファー思考』と『UFOとポストモダン』。
『メタファー思考』はおもしろい。
例えば、「月見うどん」はメタファー(隠喩)、「きつねうどん」はメトニミー(換喩)、「親子丼」はシネクドキ(提喩)らしくて、どういうことかっていうと、「月見うどん」がメタファーなのは誰でもわかるだろう。つまり卵の黄身を「月」に喩えているわけだ。次の「きつねうどん」の「換喩」とは、そのものとの隣接性の深いものに喩える方法。有名な夏目漱石の『坊っちゃん』に出てくる赤シャツという教頭がいるが、それはいつも赤シャツを着ているからそう呼ばれているし、「赤ずきんちゃん」もいつも「赤ずきん」を被っているから、そう呼ばれている。「きつね」はつまり「油揚げ」の換喩。日本では油揚げはきつねの大好物となっているから、そういうことだ。
提喩=シネクドキは、私も知らなかった。説明するのがめんどくさいので(知りたい人は、本書を読め)端折るが、要はカテゴリーに基づく喩え。「親子丼」の「親子」とは、別に鶏肉と卵を表すわけではなく、魚でも動物でも人間でも広く「親子」という概念がある。だのにここでは、鶏肉と卵の関係に「親子」を代表させているのだ。他の例だと「花見」もそう。普通、「花見」とは桜を見て宴会することだが、ここでは「桜」をその包摂カテゴリーである「花」で表してしまう。
逆もある。「ごはんを食べる」がそう。正確にはごはんを含めた食事全般のことだが、その食事というカテゴリーを「ごはん」に代表させている。という喩え。
まあ、とにかくメタファーは「思考そのもの」といってもいいくらい根深いテーマなので、おもしろいですよ。
『りはめより100倍恐ろしい』は、いわゆる「言語化されてないけど、みんなが薄々感じている感じ」を見事に小説化したもの。つーか、本当に携帯だけで書いたのかね。手書きよりもたいへんだぞ、そりゃ。
顕在化した演技空間としての日常? みんなが演じてることを「わかってる」日常、高校生活。わかってないやつは、アホ。誰もが知っているように、「天然」だって人工物。だのにいまさら演技者を志す人間ってのはきっと鈍感なんだな。俺は役者とか嫌いな理由はそういうことだ。うん、この演技性の高いパワーゲームも嫌い。だから集団になじめへんのやな。ただ純粋なゲームとしての演技空間は好き。誰も傷つかない場合は。
とりあえず北田さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』との併読を薦めます。
きっとドラマ化か映画化されるでしょう。
島田雅彦の発言より「オーソドックスなものというのは、いつもウケはいいんです。何らかの新しい風俗をアピールするアドバンテージがあるのに、そこで非常にオーソドックスなスタイルをとっていれば、ポイントが高いに決まっているわけ。」
そういう感じだな。若き才能に拍手。
のっぺりした巨大建造物が怖かった。例えば、お城を模したラブホテルとかでありそうなコンクリートでのっぺりとした壁の建て物。それとまた似た感じを覚えるのが、地方なんかで整備されてやたら広くて整然とした道路。うーん、のっぺり。のっぺりののっぺらぼうで、なんとも言えない殺伐感がある。ある種、怖い。
実家の田舎に帰ると年々道路が整備される。安っぽいけどデカイ建物とかが増えている。怖い。娯楽といえばサティに行くくらい。でも最近は「ゆめタウン」という複合ショッピング施設ができた。驚いたのは一階にスタバ、その真上の2階にはタリーズがあったこと。所詮、気取ってもファストフード、チェーン店。気色が悪い。田舎者の「おしゃれ」とか「都会的」とか「最先端」とか西洋コンプレックスとか、そういったどろどろした欲望を具現化した感じがして、吐き気がする。いや、あまりに人工過ぎて、逆に清々しい。どっちだ。
ゆめタウンには巨大な駐車場があるし、隣には酒造メーカーの工場があったりする。人工万歳って感じ。
『ファスト風土化する日本』ってのは三浦展っていう話題の『下流社会』とか書いた人の本だし、正直いけ好かない書き方だが、まあそれだけあってワイドショー的欲望をうまく捉えてはいて、俺も感じていたあの田舎=郊外の不気味さみたいなものを掬い上げてくれている。
またそういった高速道路とジャスコが作る日本の田舎=郊外都市に対抗するものとしてニューアーバニズムが提唱されてて、その典型例として東京の吉祥寺や下北沢や高円寺が上げられていたが、納得。なるほど、確かに熊本の郊外の町より、東京の吉祥寺の方があきらかに「人間的」だもんな。
またアメリカ映画には「郊外(サバーブSuburbs)もの」とでも呼ぶべきようなジャンルがあるが、その郊外に住むアメリカ青年たちは、その自分の街を忌み嫌っていたが、日本のサバーブ青年たちはそこに安住しているというのが大きな違いだろうな、と思った。
東京最高。吉祥寺最高。最近、ほんとそう思う日々。